平田俊子「美しいホッチキスの針」(「朝日新聞」2011年06月07日夕刊)
詩とは、こだわることである。あることにこだわり、そのこだわりの距離(対象との距離)を他のものへあてはめていく時、そこに「こだわり」の遠近感が生まれる。
平田俊子「美しいホッチキスの針」は、「こだわり」ということばを取り込みながら、ことばを動かしている。
平田はホッチキスの針の色を「ツユクサの花の色」と書いている。直接、色の名前をことばにしていない。迂回している。これが「こだわり」。
「迂回する距離」。
「ツユクサの花の色」は「比喩」だが、平田の場合「いま/ここ」にない「ツユクサ」をことばにするとき、単に「ツユクサ」を呼び出しているのではない。呼び出すというよりは、むしろ、平田が「ツユクサ」の方へ歩いて行っている。そういう「距離」でもある。
何かを自分に引き寄せるのではなく、平田自身が、「他のもの」(他者)へ近づいていく。自分から迂回する。
そして、人に会う。他人に会う。
ホッチキスを「美しい色に染めた人」「その針を選んだ人」。ことばを動かすことは、ことばを通して「人」に出会うことなのだ。「ツユクサ」を通して、「ツユクサ」を知っている人に出会うのである。もしかすると、その針を染めた人はツユクサを知らないかもしれない。買った人も知らないかもしれない。けれど、平田が「ツユクサの花の色」とことばにすることで、平田は「ツユクサ」を知っている人として「つくった人」「買った人」に出会う。この「出会い」は私のことばで言えば「誤読」である。でも、それは「誤読」であるから、楽しい。「誤読」であるから、平田の感性を知ることができる。平田の願いを知ることができる。「誤読」のなかには、一種の「いのり」が含まれている。
平田は、ホッチキスの針に色をつけることを思いついた人、その針を買った人に「ツユクサの美しさ」を知っていてほしいと願っている。祈っている。
「ツユクサ」を知っていること--それが何になるか。何にもならない。ただ、ツユクサを知っている人は「ツユクサの花の色」という「比喩」を通って、ツユクサを知る「時間」を旅するのである。そうして、そこで見知らぬ人、知らないけれどこころをいっしょに遊ばせることができる人と出会う。--この何にもならないことのなかに、不思議な喜びがある。
「手をつなぐ喜び」「心を遊ばせる喜び」。
「満たされる」というのは、「こころ」のなにか何かが入ってくることではない。「こころ」が「こころ」から出て行って、「自分」ではないものと出会うこと。自分ではなくなることのなかにあるのかもしれない。
*
ちょっと唐突な、そして強引な感想であるとは知っているのだが、ふと、私は大震災の被災者たちの「ありがとう」をいま感じたことと結びつけたい気持ちである。
被災者たちは、一様に「ありがとう」ということばを口にしている。「ありがとう」は、満足したときに発することばだが、そのとき被災者たちは、被災者の「こころ」にとどまっていない。そこから踏み出して、支援者(救助者)の方へ動いてきている。「助けてもらう人」は自分の場所を離れなくてもいいはずである。けれども被災者たちは「ありがとう」ということで「被災者」であることから一歩踏み出して支援者・救助者に近づいてきている。その一歩の接近--そこに、私は、ふるえてしまうのである。あ、私たちが被災者の方に近づいていかなければならないのに、被災者たちがわざわざ「生きています」と近づいてきて話してくれている、生きるということはどういうことなのかを「ありがとう」ということばで語ってくれている。そう感じるのである。
詩とは、こだわることである。あることにこだわり、そのこだわりの距離(対象との距離)を他のものへあてはめていく時、そこに「こだわり」の遠近感が生まれる。
平田俊子「美しいホッチキスの針」は、「こだわり」ということばを取り込みながら、ことばを動かしている。
きょうとどいた数枚の書類は
ツユクサの花の色をした
美しい針で綴じられていた
灰色の地味な針しか知らない私に
その色は新鮮だった
曇天のように重たいこころを
艶(つや)やかな針の色が
少し明るくしてくれた
ホッチキスの役目は紙を綴じること
針の色にこだわる必要はないのに
美しい色に染めた人がいて
その針を選んだ人がいて
そのうちの一本が
旅をし 私のもとに届いた
ツユクサを通して
知らない人たちと
手をつないだような気分だ
人のこころを慰めるのは
花ばかりではない
油断をすると指を傷つける
血柵危険なものにさえ
人はこころを遊ばせる
夕焼けの空 朝焼けの空
空が青い害の色に染まったときも
人は満たされ 立ち尽くす
平田はホッチキスの針の色を「ツユクサの花の色」と書いている。直接、色の名前をことばにしていない。迂回している。これが「こだわり」。
「迂回する距離」。
「ツユクサの花の色」は「比喩」だが、平田の場合「いま/ここ」にない「ツユクサ」をことばにするとき、単に「ツユクサ」を呼び出しているのではない。呼び出すというよりは、むしろ、平田が「ツユクサ」の方へ歩いて行っている。そういう「距離」でもある。
何かを自分に引き寄せるのではなく、平田自身が、「他のもの」(他者)へ近づいていく。自分から迂回する。
そして、人に会う。他人に会う。
ホッチキスを「美しい色に染めた人」「その針を選んだ人」。ことばを動かすことは、ことばを通して「人」に出会うことなのだ。「ツユクサ」を通して、「ツユクサ」を知っている人に出会うのである。もしかすると、その針を染めた人はツユクサを知らないかもしれない。買った人も知らないかもしれない。けれど、平田が「ツユクサの花の色」とことばにすることで、平田は「ツユクサ」を知っている人として「つくった人」「買った人」に出会う。この「出会い」は私のことばで言えば「誤読」である。でも、それは「誤読」であるから、楽しい。「誤読」であるから、平田の感性を知ることができる。平田の願いを知ることができる。「誤読」のなかには、一種の「いのり」が含まれている。
平田は、ホッチキスの針に色をつけることを思いついた人、その針を買った人に「ツユクサの美しさ」を知っていてほしいと願っている。祈っている。
「ツユクサ」を知っていること--それが何になるか。何にもならない。ただ、ツユクサを知っている人は「ツユクサの花の色」という「比喩」を通って、ツユクサを知る「時間」を旅するのである。そうして、そこで見知らぬ人、知らないけれどこころをいっしょに遊ばせることができる人と出会う。--この何にもならないことのなかに、不思議な喜びがある。
「手をつなぐ喜び」「心を遊ばせる喜び」。
「満たされる」というのは、「こころ」のなにか何かが入ってくることではない。「こころ」が「こころ」から出て行って、「自分」ではないものと出会うこと。自分ではなくなることのなかにあるのかもしれない。
*
ちょっと唐突な、そして強引な感想であるとは知っているのだが、ふと、私は大震災の被災者たちの「ありがとう」をいま感じたことと結びつけたい気持ちである。
被災者たちは、一様に「ありがとう」ということばを口にしている。「ありがとう」は、満足したときに発することばだが、そのとき被災者たちは、被災者の「こころ」にとどまっていない。そこから踏み出して、支援者(救助者)の方へ動いてきている。「助けてもらう人」は自分の場所を離れなくてもいいはずである。けれども被災者たちは「ありがとう」ということで「被災者」であることから一歩踏み出して支援者・救助者に近づいてきている。その一歩の接近--そこに、私は、ふるえてしまうのである。あ、私たちが被災者の方に近づいていかなければならないのに、被災者たちがわざわざ「生きています」と近づいてきて話してくれている、生きるということはどういうことなのかを「ありがとう」ということばで語ってくれている。そう感じるのである。
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