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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(59)

2015-05-04 14:41:03 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(59)

106 ひとの世ということ

 「ひとの世ということ」という章の最初の作品。

それがひとの世というものです
いくつもいくつも夢を重ねながら
それが雲のように消えてしまうことが

 この書き出しの「いくつもの夢」とは何だろうか。嵯峨は次のように言い換えている。
どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音をきいた夕もあれば
山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音をきいた朝もありましょう

 「夕」と「朝」は一回だけではない。何回も繰り返される。これが「いくつもいくつも」ということ。そして、たとえば「どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音をきいた」「山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音をきいた」が「夢」。現実にもそういうことがあるかもしれないが、それは「日常生活」そのものとは直接かかわってこない。なにかしら「美しい」印象を与えるできごと。それが「夢」。「夢」だから、それは入れ換えも可能である。

山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音をきいた夕もあれば
どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音をきいた朝もありましょう

 入れ替え可能だから、なおさら「夢」のように思えてくる。あれは「現実」だったのか、それとも何かを知らせるための「夢」だったのか。
 そして、「夢」はつぎのようにも言い換えられる。


なにかしら果もなくひろがつているものの端を
誰か見知らぬひとがそつと持つているように感じながら……

 これを読んだ瞬間に、さっき読んだ二行が違ったものに見えてくる。
 繰り返される朝、繰り返される夕。繰り返されながら朝、夕とひとつのことばで表現される時間。それは「時計の時間」では毎日繰り返されるだけれど、「宇宙」の時間では繰り返しではなく、広がりつづけるということかもしれない。同じ「朝」はない。毎日違った「朝」になる。その「違い」が、一日が一週間に、一週間が一月にというような「計算できる区切り」を超えて、「永遠」につづいてゆく。その「永遠」という時間の中に「どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音をきいた」や「山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音をきいた」が繰り返される。
 「永遠」の「端」を誰かが押さえていて、その「端」と「端」の「あいだ」にさまざまなことが起き、それが「朝」となり、「夕」となり、刻まれていく。私たちが日常感じている「時間の流れ」とは逆に、「両端」が最初にあって、それが両端から「朝」と「夕」を刻む。ただしそれは等間隔というよりも、アトランダムに、あるところが「朝」になり、別のところが「夕」になる。「朝」と名づけられたところが次の瞬間には「夕」と名づけられたりする。それは水平の方向(線上の方向)に刻むというよりも、その両端を結ぶ線の内部、両端のあいだを濃密にする感じ。
 私たちの生は「端」を超えることができない。「端」にまでたどりつくこともできない。ただ「端」と「端」の「あいだ」を生きるだけだ。「あいだ」を濃密にしながら生きるだけだ。あるときは「どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音」を聞き、あるときは「山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音」を聞きながら。
 「対」は「端」と「端」の内部(あいだ)を濃密にする方法なのだ。「翔びたつ」と「落ちる」という動詞は「対」になって動き、「もの(対象)」だけではなく動詞も「内部」(あいだ)を濃密にするものだと教えてくれる。




嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社


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