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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫「眩暈原論(その5)」

2011-05-16 23:19:40 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「眩暈原論(その5)」(「hotel 第2章」27、2011年04月20日発行)

 野村喜和夫「眩暈原論(その5)」はことばのリズムがとてもいい。

おお眩暈地平。それは始まり、それは終わるだろう。それはけたたましい猿の笑いで始まり、時間の外へのやるせない郷愁で終わるだろう。それははためく肉のすらり起動から始まり、ひるがえる魚の腹のきらめき浮遊へと終わるだろう。それは終わりの煮こごりの姫的な流出へと始まり、はじまりのファンファーレのちりちりと焦げた香りから終わるだろう。いずれにせよ、それは始まり、それは終わるだろう。

 「時間の外へのやるせない郷愁」って、何ですか? わかりますか? 私はわかりません。けれどいいのだ。このわからないものが、わからないけれど、そこにある。きちんと「音」として「ある」感覚(印象?)がいい。「音」がもたつかない。
 わからないには、たぶん、二種類ある。「意味」がわからないけれど「音」がわかることば。逆に「音」がわからないというか、もたもたしていてじれったいけれど「意味」はわかるということば。この「音」がもたもたしていて「意味」がわかることばは、言い換えると「音」がわからないことばのことである。--私は、この「音」がもたもたしていて、聞きづらい、読みにくいことばに会うとげんなりしてしまうのである。
 「意味」(思想)が「正しい」といわれても、その「意味」(思想)を信じられないのだ。「肉体」でもちこたえられない。「耳」でもちこたえられず、「声」で再生できないことばは、私には「意味」にも「思想」にも思えないのである。
 「声」にできないことって、結局、「肉体」が理解していないということだ。
 何が書いてあるのか、野村が何を書こうとしたのか、わからない。それは「時間の外へのやるせない郷愁」だけではない。「ひるがえる魚の腹のきらめき浮遊へと」もわからない。「煮こごりの姫的な流出」もわからない。「ファンファーレのちりちりと焦げた香りもわからない。
 「はじまりのファンファーレのちりちりと焦げた香りから終わるだろう。」なんて、はじまるの? 終わるの? それだって、まあ、いいかげんだ。
 野村自身「いずれにせよ、それは始まり、それは終わるだろう。」と逃げている。「いずれにせよ」って、ねえ、そんな言い方は無責任でしょ? なんだって始まりがあり、それから終わりがあるのだけれど、「いずれにせよ」じゃ、困るよねえ。「意味」を考える人にとってとは。
 でも、私は困りません。「意味」は考えないから。

ちらせ、ちらせ、障壁ちらせ。火は液状に、水は硬く、燠火の泡や語る彗星の尾が浮かんでいるよ、女のアクメの声や汗の樹枝状結晶が漂っているよ。眼だ、とりわけ眼だ、照らし、また照らされて。

 「火は液状」なんかではない。「水は硬く」はない。ここには、いっしゅの「でたらめ」(ありえないこと)が書かれている。それは「常識」の世界ではない。だから、ここに書いてあることが「わからない」、というのが、まあ、ふつうの読み方かもしれない。「意味」がわからない、そういう感想がふつうかもしれない。
 でも、その「わからない」ということ--それが「わかる」ということが、詩、なのだ。「わからない」ことも、ことばになる。そして、「意味」はわからないけれど、ことばのひとつひとつはわかる。「音」がわかる。ここでは、「わかる」と「わからない」が出会っている。そういうことが、わかる。
 これが、きっと詩の体験なのだと思う。

 あることばを読む。そして、そのことばのひとつひとつがわかり、その結果として「意味」(思想)がわかる--というのは、ふつうの散文のことばである。散文は、たぶん、ひとつひとつのことばをわかるように書き、そしてその結果としての「結論」も「意味」が「わかる」ものである。散文では「わかる」と「わかる」が出会って、その「わかる」を超えた、さらに「わかる」を次元の高いものにすることばの運動なのかもしれない。
 詩にもそういうものはある。けれど、そういう「意味」が「わかる」よう書かれる作品とは別に、「意味」をわからなくするために書く作品もあるのだ。「意味」ではなく、「無意味」が動き回る、「無意味」が「意味」をたたき壊して、わっ、おもしろい、と思う詩もあるのだ。
 わっ、おもしろい--とことばに対して感じること、それがきっと詩なのだ。

 こういうとき、つまり、「わけがわかんないけれど、わっ、おもしろい」と思うとき、絶対に必要なのは「音」が明瞭であること、「音」が聞き取れること、「音」が「肉体」で再現できること--その「音」を自分の「肉体」で再現したいと思うこと、なのである。
 あ、いま聞いた「音」を再現してみたい、自分で言ってみたい、自分のものにしてみたい--そういう「欲望」のなかに、私は「思想」の一番重要なもの、譲れないものが含まれていると感じている。


詩集 plan14
野村 喜和夫
本阿弥書店

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