谷川俊太郎『詩に就いて』(15)(思潮社、2015年04月30日発行)

「死んで行く友に代わって言う」のだから「君」が「谷川」で「ぼく」が「死んで行く友」になる。友はもうことばを話せない。だから代わりに言うのだが、その「言っている意味(内容)」がとても複雑だ。
最終行の「詩」とはどういうものを指して言っているのか。
「感動していた」だから、「美しい」? 肯定的な内容? でも「満足もしていない」と二連目に書いてある。詩ということばで私たちが一般的に想像する「美しい」「正しい」「真実に満ちたもの」など肯定的なものなら、「満足していない」がどうも落ち着かない。「不満」とも書いてないのだから、なお、どうとらえていいのかわからない。
これまで見てきた「詩の定義」を思い出すと、詩は「未生のことば」。あるいは「無意味」。
「未生のことば」は、まだ肯定的な要素があるかな? これから「生まれる」のだから、そこには何か「生まれるだけの価値」がある。でも、「死んで行く」と「生まれる」は、どうも合致しない。「矛盾」が詩なのだけれど、死んで行くときに新しく何かが生まれるのに感動するというのだったら、それは「満足」につながる感じがするなあ。
そうすると、ここに書かれている「詩」とは「無意味」? 無意味となっていくこと、無意味と化すことに感動していた。
そう読むと、びっくりしてしまう。
死んで行く本人がそういうなら、まだわかるけれど、それを見つめる谷川が、死んで行く友人に代わって、「自分の一生が、無意味になっていくことに感動していた」と言い切ってしまうところに、「何か恐ろしいような気がする」。これは、この作品の前に置かれている「涜神」に出てきたことばだけれど……。
「自分の一生が、無意味になっていくことに感動していた」と言ってしまうと、何かそれは、人が生きるということを完全に「否定」している感じがする。この「否定」は「涜神」の表現を借りて言えば「神を信用していない」というときの「否定」に似ている。そこに「神」が「ある(いる)」を前提として、「神を信用していない」というように、そこに「人間の人生がある」を前提として、なおかつそれが「無意味となってゆく」。「人生の意味信じない」、「自分の信じてきた人生意味よりももっと違う意味がある、それに比べたら自分の人生は無意味だとわかった」、つまり「人生」とは違った次元に到達したと感動しているのか。無意味になっても、なおその無意味を支える巨大な何かがあると発見して感動しているのか。
「あなたへ」の最終連にあったことばも思い出す。
「死」と「詩」がともに(いっしょに)待っている。
「死」はたいていの場合、人間にとっては「否定すべき」ものである。その「否定」と、「詩」という肯定的なもの(美しい、真実、真理)がいっしょとはどういうことだろう。死は詩(肯定的な価値)を無意味にするのか、死の否定的な要素を詩が肯定的なものに変えるのか。「追悼文」などというのは、後者の部類だなあ。そのひとの生涯を肯定的にとらえ、その人を惜しむ。でも、どうも谷川の書いていることは、一般的な意味とは逆だなあと感じる。
詩は死を無意味にする。巨大な無意味で死をつつみこんでしまう。死さえも無意味にするのが詩というものか。
この詩集は特に章を立てて作品を区別しているわけではないが、目次を見ると作品群のあいだに一行空きがある。そして三つにわかれている。「隙間」から「あなたへ」までが最初の部分。「十七歳某君の日記より」から「木と詩」までが次の部分。「小景」から「おやおや」までが最後の部分。
最初の部分の作品群は詩をいろいろな形で「定義」しようとしているように思える。真ん中の部分は(まだ三篇読んだだけだが)、「定義」しようとはしていない。すでに「定義」はすんでしまった。いや、詩は「定義」などできることではない。詩には「定義」からはみだすものもある。それをただ「詩」ということばでほうり出す。読者がかってに考えてくれればいい、そう言っているようにも見える。
この作品の、最後の「詩」を自分のことばでどう定義しなおし、谷川のことばと向き合うか。そのことが問われている。

死んで行く友に代わって言う
君は見たはずだ
ぼくの右の目尻から
涙が細く一筋流れているのを
悲しみではない
悔いでも未練でもない
自分を哀れんでもいないし
自分に満足もしていない
ただぼくは深く感動していたのだ
自分の一生がそのとき
詩と化していることに
「死んで行く友に代わって言う」のだから「君」が「谷川」で「ぼく」が「死んで行く友」になる。友はもうことばを話せない。だから代わりに言うのだが、その「言っている意味(内容)」がとても複雑だ。
最終行の「詩」とはどういうものを指して言っているのか。
「感動していた」だから、「美しい」? 肯定的な内容? でも「満足もしていない」と二連目に書いてある。詩ということばで私たちが一般的に想像する「美しい」「正しい」「真実に満ちたもの」など肯定的なものなら、「満足していない」がどうも落ち着かない。「不満」とも書いてないのだから、なお、どうとらえていいのかわからない。
これまで見てきた「詩の定義」を思い出すと、詩は「未生のことば」。あるいは「無意味」。
「未生のことば」は、まだ肯定的な要素があるかな? これから「生まれる」のだから、そこには何か「生まれるだけの価値」がある。でも、「死んで行く」と「生まれる」は、どうも合致しない。「矛盾」が詩なのだけれど、死んで行くときに新しく何かが生まれるのに感動するというのだったら、それは「満足」につながる感じがするなあ。
そうすると、ここに書かれている「詩」とは「無意味」? 無意味となっていくこと、無意味と化すことに感動していた。
そう読むと、びっくりしてしまう。
死んで行く本人がそういうなら、まだわかるけれど、それを見つめる谷川が、死んで行く友人に代わって、「自分の一生が、無意味になっていくことに感動していた」と言い切ってしまうところに、「何か恐ろしいような気がする」。これは、この作品の前に置かれている「涜神」に出てきたことばだけれど……。
「自分の一生が、無意味になっていくことに感動していた」と言ってしまうと、何かそれは、人が生きるということを完全に「否定」している感じがする。この「否定」は「涜神」の表現を借りて言えば「神を信用していない」というときの「否定」に似ている。そこに「神」が「ある(いる)」を前提として、「神を信用していない」というように、そこに「人間の人生がある」を前提として、なおかつそれが「無意味となってゆく」。「人生の意味信じない」、「自分の信じてきた人生意味よりももっと違う意味がある、それに比べたら自分の人生は無意味だとわかった」、つまり「人生」とは違った次元に到達したと感動しているのか。無意味になっても、なおその無意味を支える巨大な何かがあると発見して感動しているのか。
「あなたへ」の最終連にあったことばも思い出す。
あなたは生きていける
俄雨とともに入道雲ともに
その他大勢の誰かただ一人とともに
死が詩とともに待ってくれている
その思いがけない日まで
「死」と「詩」がともに(いっしょに)待っている。
「死」はたいていの場合、人間にとっては「否定すべき」ものである。その「否定」と、「詩」という肯定的なもの(美しい、真実、真理)がいっしょとはどういうことだろう。死は詩(肯定的な価値)を無意味にするのか、死の否定的な要素を詩が肯定的なものに変えるのか。「追悼文」などというのは、後者の部類だなあ。そのひとの生涯を肯定的にとらえ、その人を惜しむ。でも、どうも谷川の書いていることは、一般的な意味とは逆だなあと感じる。
詩は死を無意味にする。巨大な無意味で死をつつみこんでしまう。死さえも無意味にするのが詩というものか。
この詩集は特に章を立てて作品を区別しているわけではないが、目次を見ると作品群のあいだに一行空きがある。そして三つにわかれている。「隙間」から「あなたへ」までが最初の部分。「十七歳某君の日記より」から「木と詩」までが次の部分。「小景」から「おやおや」までが最後の部分。
最初の部分の作品群は詩をいろいろな形で「定義」しようとしているように思える。真ん中の部分は(まだ三篇読んだだけだが)、「定義」しようとはしていない。すでに「定義」はすんでしまった。いや、詩は「定義」などできることではない。詩には「定義」からはみだすものもある。それをただ「詩」ということばでほうり出す。読者がかってに考えてくれればいい、そう言っているようにも見える。
この作品の、最後の「詩」を自分のことばでどう定義しなおし、谷川のことばと向き合うか。そのことが問われている。
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