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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平林敏彦「叛旗はきょうも」

2017-03-19 15:00:06 | 詩(雑誌・同人誌)
平林敏彦「叛旗はきょうも」(「交野が原」82、2017年04月01日発行)

 平林敏彦「叛旗はきょうも」は風景にたんたんと自己を重ねていく。

おお あれに見えるは浚渫船か
世界はけだし激動のさなかにあるが
あの船は日がな一日
水の底にたまっている土砂や老廃物を
さらっては掻き出し またさらいながら
ただ一度の生涯を終えるのだ
おれっち人間もしばしば赤恥をさらし
また逆に居直ったりして
ずたずたな一生を送り
あとは野末の石の下ということになるが
それだけではいかにも釈然としない

 「浚渫船」が自己か、浚渫船に掻き出される「老廃物」が自己か。両方である。ここに「かなしみ」があるのだが、こういう書き方は「理解」できるけれど、「納得」まではしない。何か既視感がある。私は最近、「抒情詩」というものが嫌いになったのかもしれない。
 ところが。

あらためて夜霧に浮かぶ浚渫船を見遣れば
言いようもない孤影の物悲しさと
そのくせどこか骨っぽい
サムライくずれの矜恃にも似たおもむきが
そこはかとなく漂っているではないか

 ここで、あっ、ここはいいなあ、と思ってしまうのだ。「夜霧」とか「孤影」とか「物悲しい」とか、その反対(?)の「骨っぽい」とか「サムライくずれの矜恃」とか、それこそ「抒情詩」の「常套句」としか言えないことばが並んでいる。「言いようのない」という手抜きの(?)ことばもある。簡単に言いなおすと「俗っぽい」。「そこはかとなく漂っている」というのは、その一行だけ読めば傍線で消してしまいたいくらいである。でも、いいなあ、と思うのである。
 なぜだろう。
 「あらためて」という一語がそこにあるものを清めている。
 ただ見えるものを見つめて、見えるものに自己を重ねたのではない。見えるものを見えるものとしてとらえ、「あらためて」自己を重ね合わせている。その自己がすでにだれもが書いていることであっても、「あらためて」書くことによって平林になっている。「あらためて」発見した自己。それは「新しい」自己である。「新奇」なものではない。見慣れたものかもしれない。しかし、そこに「正直」がある。
 この「正直」を「然り」ということばで受け継いで、詩は、こう閉じられる。

然り 嵐もあれば風も吹く
男の旅路は険しいが
叛旗はきょうも河口の空に鳴っている

 ここも既視感があるといえば既視感がある。しかし、「然り」の一語、「正直」をしっかり肯定することばが既視感を貫いて何かを伝える。美しさを伝える。
 「正直」の発見と、その「肯定」。それが美しい。


平林敏彦詩集 (現代詩文庫)
クリエーター情報なし
思潮社

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