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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

水木ユヤ「網戸」、山本純子「電池」

2016-09-13 09:01:39 | 詩(雑誌・同人誌)
水木ユヤ「網戸」、山本純子「電池」(「ヘロとトパ」、2016年09月20日発行)

 水木ユヤ「網戸」、山本純子「電池」を読みながら、詩のはじまり、詩の終わりということについて考えた。
 水木ユヤ「網戸」。

星がない
風がない
空がない
網戸の向こう側には
何もない
LEDの体温を見誤った
虫たちが
網戸にぴたりと
貼りついている
関節がきしむ扇風機の風に
透きとおった羽を
規則正しくゆらされている
虫たちは
何もないところから
姿をあらわし
何もないところへ
消えてゆく

 「何もない」が、ぐいと迫ってくる。これは「星がない/風がない/空がない」を言いなおしたもの。「ない」が、そこに「ある」という感じ。「無」から姿をあらわし、「無」へ消えていく。
 とても清潔だ。
 この清潔感は、たぶん人間の暮らしに「ある」ものとの対比から生まれる。「網戸」「LED」「扇風機」。それは「星」や「風」や「空」に比べると、なんとなく、うるさい。ちまちま、ごちゃごちゃしている。「無」の方がさっぱりしていて、開放的で、気持ちがいい。この感じが清潔感だな。
 で、詩は、ここで終わってもいいと私は思うのだが、水木は、次の5行を付け加えて終わる。

わたくしは
網戸のこちら側の
何かあるはずの場所にいて
何かをしている
はずである

 これは「網戸」「LED」「扇風機」の「ある」暮らしを言いなおしたものだが、なんとなく、「理屈」っぽい。
 言わないと落ち着かない気持ちもわかるけれど、言わなかった方が、読者がかってに考えることになるので、おもしろいかもしれない。
 「清潔」だったものが、急に「濁ってくる」感じを覚えた。この「濁ってくる感じ」を「いきるかなしみ」ととらえ、ここがいいという人もいるだろうけれど。



 山本純子「電池」。

電池には
プラス極とマイナス極があって
たのしい気分とこわい気分が
発生している

それで 夜
かいちゅう電灯をにぎると
たのしいような
こわいような気分が
手のひらから
からだ中にひろがっていく

 これは、一連目から書いたのかなあ。
 書いたのは一連目からかもしれない。けれど、「こころ」の方は二連目から動いている感じがする。
 懐中電灯を手にした子ども。まわりは真っ暗。楽しくて、怖い。この楽しくて怖いを、別なことばで言いなおせないだろうか。ちょっと考える。すこし変わったことを言って、友達や両親を驚かせてみたい。「表現の欲望」(ことばの欲望)が動く。
 で、一生懸命考える。学校で習ったことを、動かしてみる。
 「電池には/プラス極とマイナス極」がある。プラスとマイナスは反対。楽しいと怖いは反対。反対のものがぶつかると、何かが起きる。何かが「発生」する。
 ことばにすると、それが、「実感」にかわる。
 この「実感」が、

手のひらから
からだ中にひろがっていく

 と言いなおされる。
 一連目と二連目が、そのことばが往復しながら、強くなっていく。「肉体」として見えてくる。

 水木の、網戸を挟んだ虫と人間も、ことばになって往復していたのだが、往復しすぎたのかもしれない。往復しすぎると、そこに「道」がくっきりとできすぎる。アスファルト舗装された道、いや高速道路になってしまう。つまり「肉体」ではなく、論理、思考(頭)になってしまう。
 詩は、あ、ここに「道」があるのかなあ。だれかが歩いた跡がある。踏みしめた草が倒れているというくらいの感じがいいのかもしれない。あ、この「肉体」の感覚、わかるなあ、というくらいがいいのかもしれない。
 「何もないところから/姿をあらわし/何もないところへ/消えてゆく」というのは「哲学的」であるけれど、日本語の「肉体」のなかには「無常観」が動いていて、それは知らず知らずに聞いていることばとつながっているから、「理屈」っぽくはないね。

 どこから書き始め、どこで終わるか、むずかしい。

ふふふ ジュニアポエム
山本 純子
銀の鈴社

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