監督 トム・フーパー 出演 エディ・レッドメイン、アリシア・ビカンダー
男と女は、どこが違うか。
触覚が違う。これは、ジェーン・カンピオンの映画から私が感じたことであって、ほんとうにそうなのかどうかはわからないのだが。
ジェーン・カンピオンは「ピアノレッスン」「ある貴婦人の肖像」で触覚を官能の入口として描いていた。「ピアノレッスン」はピアノそのものが指で触れるものだが、ハーヴェイ・カイテルがピアノの下にもぐりこみ、ホリー・ハンターのストッキングの穴から足に触れるシーンがなんとも魅惑的だ。穴から触れられてホリー・ハンターが一瞬動揺する。それはセックスの始まりというよりも、エクスタシーに近い。何か、自分自身でストッキングの穴を探して、自分で触っている感じだ。穴があることを知っているから、触られている感じが強まる。触られているのに、触っている感じ。自分の発見。そこを触ってほしい。ほしくない。いや、触ってほしい。それが、そのまま、ピアノを弾く指の動きになる。「ある貴婦人の肖像」では冒頭、ニコール・キッドマンがベッドの飾り房に顔を触れさせ恍惚とした表情を見せる。これもセックスの始まりというよりエクスタシーである。
ふたつの映画で私が感じたことは、「触る」感覚が、男と女では違うということ。男は何かに触るとき、触られているとは感じない。あくまで触っているのだが、女は触りながら、同時に触られていると感じるのだろう。「ある貴婦人の肖像」のシーンで特に感じたのだが、顔に飾り房が触れるとき、その飾り房はニコール・キッドマンの指そのものなのである。男の指というよりも、その指の動きを思い出し、もっと理想的な指そのものになっている感じだ。
で、この映画。エディ・レッドメインが、妻のアリシア・ビカンダーの絵のモデルのバレリーナを訪ねるシーン。楽屋(?)裏を通る。衣装がたくさんぶら下がっている。それにエディ・レッドメインが指で触れながら歩いていく。これを見た瞬間、私は、カンピオンのふたつの映画を思い出したのだった。このとき、エディ・レッドメインはまだ自分のなかに存在する女に気がついていないのだが、指の方が先に気がついている。衣装に触りながら、指が衣装に触られる。その官能から離れられない。それが、おもしろい。この「指」の目覚め(?)は、そのあとストッキングに触るシーン、さらにバレエの衣装の感触に引き込まれていくシーンと繰り返される。衣装は、女にとっては「肌(肉体)」そのものであり、衣装に触れることは肌に触れることであり、衣装に触れながら女は衣装が自分の肉体を愛撫してくるのを感じている。触れること/触れられることが一体になっている。触れる/触れられるが女のなかで「完結」している。
このときのエディ・レッドメインの指の演技が、とてもおもしろい。目やからだ全体も演技するのだけれど、特に手が演技する。その手の演技は、最初は過剰である。女を発見し、女をなぞっている。学んでいる。手本を「他人」にもとめているところがある。モデルを探している。そのために、覗き窓へ行って、女がどんなポーズをとるのか、手はどんなふうに動かして男を誘うのかを研究(?)したりする。目で女を盗み、手で女を生きる。
しかし、だんだん女そのものになると、(自分の「ほんとう」が女であるとわかってくると)、不思議なことに、過剰な手の動き(手の演技)は影をひそめる。手は女であることを強調しなくなる。これが、この映画のいちばんおもしろいところかもしれないなあ。からだは痩せて、弱い女のようになるのだが、演技そのものは女を強調しなくなる。わざとらしさがなくなる。女になろうとするのではなく、女になってしまった感じなのだ。
最初の方では、エディ・レッドメインは男物のスーツを着ているときの方が全体が女っぽい感じ。ドレスを着ると肩の大きさ、手の大きさが目につき、男っぽさが目につく。だから、手で女を演じる必要があったのだろう。けれど、ストーリーが進むに連れて、手の演技をしなくなるにしたがって、ドレスがからだになじんで、男っぽさがなくなる。女を見ている感じになる。演技を見ている感じがなくなる。違和感がなくなる。
これは、不思議。いやあ、おもしろいなあ。
アリシア・ビカンダーは、対照的に、「演技」をもっぱら「内面」に集中させている。「肉体」の変かは「目」だけである。最初から最後まで、女の肉体である。まあ、あたりまえなのだけれど、エディ・レッドメインがどんなふうに変わろうが、アリシア・ビカンダーはエディ・レッドメインを愛したときのままの女である、というのが、女の強さをあらわしていて、おっ、すごいと思う。
男は動揺するが、女は動揺しない、と言い切ってしまうと、いろいろな反論が押し寄せてきそうだが、女はかわらないのだ、きっと。この映画のなかでは、アリシア・ビカンダーは変わらないことによって、エディ・レッドメインを支えつづける。エディ・レッドメインがどんどん変わっていくが、アリシア・ビカンダーは最後まで変わらない。変わらないまま、空に舞うスカーフにエディ・レッドメインが見た「凧」を見たりする。
この「かわらない」ことを演じつづける演技力というのは、すごい。
最後になって、リシア・ビカンダーはエディ・レッドメイン(夫)を支えつづけただけではなく、この映画そのものを支えつづけていたのだと気がつく。リシア・ビカンダーはこの演技でアカデミー賞(助演女優賞)を取っているが、なるほどなあ、と感心した。
(2016年03月20日、天神東宝4)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
男と女は、どこが違うか。
触覚が違う。これは、ジェーン・カンピオンの映画から私が感じたことであって、ほんとうにそうなのかどうかはわからないのだが。
ジェーン・カンピオンは「ピアノレッスン」「ある貴婦人の肖像」で触覚を官能の入口として描いていた。「ピアノレッスン」はピアノそのものが指で触れるものだが、ハーヴェイ・カイテルがピアノの下にもぐりこみ、ホリー・ハンターのストッキングの穴から足に触れるシーンがなんとも魅惑的だ。穴から触れられてホリー・ハンターが一瞬動揺する。それはセックスの始まりというよりも、エクスタシーに近い。何か、自分自身でストッキングの穴を探して、自分で触っている感じだ。穴があることを知っているから、触られている感じが強まる。触られているのに、触っている感じ。自分の発見。そこを触ってほしい。ほしくない。いや、触ってほしい。それが、そのまま、ピアノを弾く指の動きになる。「ある貴婦人の肖像」では冒頭、ニコール・キッドマンがベッドの飾り房に顔を触れさせ恍惚とした表情を見せる。これもセックスの始まりというよりエクスタシーである。
ふたつの映画で私が感じたことは、「触る」感覚が、男と女では違うということ。男は何かに触るとき、触られているとは感じない。あくまで触っているのだが、女は触りながら、同時に触られていると感じるのだろう。「ある貴婦人の肖像」のシーンで特に感じたのだが、顔に飾り房が触れるとき、その飾り房はニコール・キッドマンの指そのものなのである。男の指というよりも、その指の動きを思い出し、もっと理想的な指そのものになっている感じだ。
で、この映画。エディ・レッドメインが、妻のアリシア・ビカンダーの絵のモデルのバレリーナを訪ねるシーン。楽屋(?)裏を通る。衣装がたくさんぶら下がっている。それにエディ・レッドメインが指で触れながら歩いていく。これを見た瞬間、私は、カンピオンのふたつの映画を思い出したのだった。このとき、エディ・レッドメインはまだ自分のなかに存在する女に気がついていないのだが、指の方が先に気がついている。衣装に触りながら、指が衣装に触られる。その官能から離れられない。それが、おもしろい。この「指」の目覚め(?)は、そのあとストッキングに触るシーン、さらにバレエの衣装の感触に引き込まれていくシーンと繰り返される。衣装は、女にとっては「肌(肉体)」そのものであり、衣装に触れることは肌に触れることであり、衣装に触れながら女は衣装が自分の肉体を愛撫してくるのを感じている。触れること/触れられることが一体になっている。触れる/触れられるが女のなかで「完結」している。
このときのエディ・レッドメインの指の演技が、とてもおもしろい。目やからだ全体も演技するのだけれど、特に手が演技する。その手の演技は、最初は過剰である。女を発見し、女をなぞっている。学んでいる。手本を「他人」にもとめているところがある。モデルを探している。そのために、覗き窓へ行って、女がどんなポーズをとるのか、手はどんなふうに動かして男を誘うのかを研究(?)したりする。目で女を盗み、手で女を生きる。
しかし、だんだん女そのものになると、(自分の「ほんとう」が女であるとわかってくると)、不思議なことに、過剰な手の動き(手の演技)は影をひそめる。手は女であることを強調しなくなる。これが、この映画のいちばんおもしろいところかもしれないなあ。からだは痩せて、弱い女のようになるのだが、演技そのものは女を強調しなくなる。わざとらしさがなくなる。女になろうとするのではなく、女になってしまった感じなのだ。
最初の方では、エディ・レッドメインは男物のスーツを着ているときの方が全体が女っぽい感じ。ドレスを着ると肩の大きさ、手の大きさが目につき、男っぽさが目につく。だから、手で女を演じる必要があったのだろう。けれど、ストーリーが進むに連れて、手の演技をしなくなるにしたがって、ドレスがからだになじんで、男っぽさがなくなる。女を見ている感じになる。演技を見ている感じがなくなる。違和感がなくなる。
これは、不思議。いやあ、おもしろいなあ。
アリシア・ビカンダーは、対照的に、「演技」をもっぱら「内面」に集中させている。「肉体」の変かは「目」だけである。最初から最後まで、女の肉体である。まあ、あたりまえなのだけれど、エディ・レッドメインがどんなふうに変わろうが、アリシア・ビカンダーはエディ・レッドメインを愛したときのままの女である、というのが、女の強さをあらわしていて、おっ、すごいと思う。
男は動揺するが、女は動揺しない、と言い切ってしまうと、いろいろな反論が押し寄せてきそうだが、女はかわらないのだ、きっと。この映画のなかでは、アリシア・ビカンダーは変わらないことによって、エディ・レッドメインを支えつづける。エディ・レッドメインがどんどん変わっていくが、アリシア・ビカンダーは最後まで変わらない。変わらないまま、空に舞うスカーフにエディ・レッドメインが見た「凧」を見たりする。
この「かわらない」ことを演じつづける演技力というのは、すごい。
最後になって、リシア・ビカンダーはエディ・レッドメイン(夫)を支えつづけただけではなく、この映画そのものを支えつづけていたのだと気がつく。リシア・ビカンダーはこの演技でアカデミー賞(助演女優賞)を取っているが、なるほどなあ、と感心した。
(2016年03月20日、天神東宝4)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
![]() | 英国王のスピーチ コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD] |
クリエーター情報なし | |
Happinet(SB)(D) |