監督 アトム・エゴヤン 出演 ジュリアン・ムーア、リーアム・ニーソン、アマンダ・サイフリッド
ことばが「妄想」を呼ぶ、ことばから「妄想」が暴走する。まるでフランス映画のような映画だねえ。--しかし、これを、どうやって映像にするか。むずかしいなあ。
セックスをことばは、いまはどこにでもあふれているので、それ自体は、もはやエロチックですらなくなってしまっている。たとえ、それを「清純」なアマンダ・サイフリッドが口にしても、である。ことばを超えるエロチック、しかも嘘のエロチシズムが必要なのだが、具現化されているとは思えない。アマンダ・サイフリッドの表情にそそられない。あ、これは私が男だから? アマンダ・サイフリッドが誘っているのが女だから? もし、女性から観てアマンダ・サイフリッドが魅惑的なら、この映画は成功しているということになるのだけれど。
ジュリアン・ムーアは、どうなんだろうか。「妄想」か「現実」--ではなく、彼女にとっては「妄想」が「現実」なのだが、その「妄想」が「ことば」によって引き起こされるのか、それともアマンダ・サイフリッドの姿によって引き起こされるものなのか。ジュリアン・ムーアは、あくまで「ことば」に反応しているけれど、そう? そんなもの? あ、これはさっき書いたことと関係してくるなあ。アマンダ・サイフリッドがどう見えるかということと関係してくる。
うーん。
クライマックス。ジュリアン・ムーアとリーアム・ニーソンがパブ(?)で会っているところへアマンダ・サイフリッドが偶然あらわれる。彼女に対するリーアム・ニーソンの態度(表情)からジュリアン・ムーアがアマンダ・サイフリッドの嘘に気づく。--そんなふうに人間の表情に敏感なジュリアン・ムーアが、「ことば」を語るアマンダ・サイフリッドの表情に何を感じていたかが、ちょっとわからない。
わからないように、隠していた?
それなら名演?
自分の容姿に自身をなくし、自分自身にいらだつ感じは、いいなあというか、うまいなあと思うのだけれど。
ジュリアン・ムーアとアマンダ・サイフリッドの「欲望」のずれ--これは、映画ではなく「ことば」そのもの、つまり「小説」の方がくっきりと表現できたのかも。あるいは、ジュリアン・ムーア、アマンダ・サイフリッドではなく、もっとヨーロッパっぽい(フランスっぽい)役者なら、おもしろかったのかなあ。どうも、二人の「肉体」には不透明さが足りない。つまり、ことばではわからないけれど、視線や触覚、嗅覚、聴覚が引きつけられていくという感じがしない。ほら、小道具に「音楽(聴覚)」「ローション(触覚、嗅覚)」が人間の欲望の奥に動いているということを暗示するものが丁寧につかわれているのにね。脚本家の意図と監督の演出方針、俳優の人間がかみあっていないのかな? ほかの役者で観てみたいという気持ちだけが残った。
(2011年06月13日、ソラリアシネマ3)

ことばが「妄想」を呼ぶ、ことばから「妄想」が暴走する。まるでフランス映画のような映画だねえ。--しかし、これを、どうやって映像にするか。むずかしいなあ。
セックスをことばは、いまはどこにでもあふれているので、それ自体は、もはやエロチックですらなくなってしまっている。たとえ、それを「清純」なアマンダ・サイフリッドが口にしても、である。ことばを超えるエロチック、しかも嘘のエロチシズムが必要なのだが、具現化されているとは思えない。アマンダ・サイフリッドの表情にそそられない。あ、これは私が男だから? アマンダ・サイフリッドが誘っているのが女だから? もし、女性から観てアマンダ・サイフリッドが魅惑的なら、この映画は成功しているということになるのだけれど。
ジュリアン・ムーアは、どうなんだろうか。「妄想」か「現実」--ではなく、彼女にとっては「妄想」が「現実」なのだが、その「妄想」が「ことば」によって引き起こされるのか、それともアマンダ・サイフリッドの姿によって引き起こされるものなのか。ジュリアン・ムーアは、あくまで「ことば」に反応しているけれど、そう? そんなもの? あ、これはさっき書いたことと関係してくるなあ。アマンダ・サイフリッドがどう見えるかということと関係してくる。
うーん。
クライマックス。ジュリアン・ムーアとリーアム・ニーソンがパブ(?)で会っているところへアマンダ・サイフリッドが偶然あらわれる。彼女に対するリーアム・ニーソンの態度(表情)からジュリアン・ムーアがアマンダ・サイフリッドの嘘に気づく。--そんなふうに人間の表情に敏感なジュリアン・ムーアが、「ことば」を語るアマンダ・サイフリッドの表情に何を感じていたかが、ちょっとわからない。
わからないように、隠していた?
それなら名演?
自分の容姿に自身をなくし、自分自身にいらだつ感じは、いいなあというか、うまいなあと思うのだけれど。
ジュリアン・ムーアとアマンダ・サイフリッドの「欲望」のずれ--これは、映画ではなく「ことば」そのもの、つまり「小説」の方がくっきりと表現できたのかも。あるいは、ジュリアン・ムーア、アマンダ・サイフリッドではなく、もっとヨーロッパっぽい(フランスっぽい)役者なら、おもしろかったのかなあ。どうも、二人の「肉体」には不透明さが足りない。つまり、ことばではわからないけれど、視線や触覚、嗅覚、聴覚が引きつけられていくという感じがしない。ほら、小道具に「音楽(聴覚)」「ローション(触覚、嗅覚)」が人間の欲望の奥に動いているということを暗示するものが丁寧につかわれているのにね。脚本家の意図と監督の演出方針、俳優の人間がかみあっていないのかな? ほかの役者で観てみたいという気持ちだけが残った。
(2011年06月13日、ソラリアシネマ3)
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