詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(62)

2009-04-22 01:10:13 | 田村隆一

 「生きる歓び」は田村が飼っていた猫と尾長(鳥)を追悼する詩である。

生のよろこび
生のかなしみ

死のかなしみ
死のよろこび

ぼくらはその世界で漂流している
神あらば
大爆笑になるだろう

死は卵だ
その卵を 破って

生はよみがえる
猫のチーコ 尾長のタケ
十八年も生きつづけて いま
桜の木の下で眠っている

人生痛苦多しといえども
夕べには茜雲あり
暁の星に光りあり
チーコ タケ
チーコは仔猫になって永福寺(ようふくじ)あとの草原をかけめぐれ
タケ 小さな山の上を小さな羽根で飛びまわれ

 死んでしまった猫と尾長が記憶の中でよみがえる。死者が記憶の中でよみがえる。それは誰もが体験することである。その誰もが体験することを、

死は卵だ
その卵を 破って

生はよみがえる

 と田村は書いている。
 ここに書いてあることは、誰もが知っていることなので、その知っていることを「比喩」として書いてあるだけ--と単純に思ってしまう。単純に、そう思ってしまうけれど、やはり、これは田村にしか書けない行である。田村しか書かなかった行である。
 死が生を生む。死を通って生はよみがえる--このことばは矛盾である。ふつうは生には死がやってくる。生を通り抜けて死にいたる。田村のことばは、その「時間」の流れとは一致しない。矛盾する。
 その矛盾を解体するために「卵」という比喩がつかわれている。「比喩」とは矛盾を解体するためにとおらなければならない「場」なのである。

 「時」には、甲という時と別の乙という時があって、それが出会った時に甲と乙との「間」として「時間」が動きはじめる。「差」(隔たり)があって、それが「間」であり、その「間」にこそ「自由」がある。
 このことを「比喩」にあてはめてみよう。
 「比喩」が「比喩」であるためには、その「比喩」は描こうとしている対象そのものではない。
 「死は卵だ」という「比喩」が成り立つためには、「死」と「卵」のあいだに「間」が、隔たりがなければならない。実際「死」と「卵」は同じものではない。「死」は「もの」ではない。手でさわることもできない。「死」と「卵」を勘違いするひとはだれもいない。そこには決定的な「間」がある。
 そして、それに決定的な「間」があるにもかかわらず、それではその決定的な「間」とは何なのか、私たちは、うまく語れない。少なくとも私にはそれを語ることができない。隔たりすぎていて、「間」というものを意識すらできない。「死」と「卵」は無限大に遠い。これでは、意識は動いていかない。
 別の例で説明する。
 たとえば「少女は薔薇」という比喩。「少女」と「薔薇」は同一ではない。ふたつの存在のあいだには「間」がある。しかし、それが比喩である時、その「間」を「美」という観念が駆け抜け、ふたつを結びつける。「間」は「間」でありながら、しっかりと結びつく。
 そのときの「美」というベクトルが意識される時、比喩は比喩になる。比喩を構成する要件にはふたつあることになる。ふたつの存在のあいだの「間」、そしてその間を結ぶ「ベクトル」。
 「死」と「卵」には巨大な「間」は存在するが、それを結びつけるベクトルはない。だから、これは、ふつうの「比喩」ではない。

 「死は卵だ」が「比喩」になるためには、「ベクトル」が必要だ。このベクトルを田村は「破って」という動詞でつくりだしている。「破って」という動詞が「死」と「卵」の「間」を駆け抜けることによって、それははじめて「比喩」になる。
 この運動をつくりだす時につかう「動詞」--そこに、田村の「思想」が凝縮している。
 何度も書いてきたが、田村の矛盾は、矛盾→止揚→発展という形で昇華はしない。存在を、その存在の存在形式を破壊し、対立構造そのものを解体するというのが、田村の矛盾の形式であった。そのときの運動のありようが「破って」ということばとして、ここに凝縮している。
 「破る」「破壊する」「解体する」--そのとき「間」も解体する。そして、その瞬間に「自由」があふれだす。「生きる歓び」が。

 別の角度からもう一度。
 「生」と「死」。その「間」。「間」をつくりだしている何か。「生」と「死」はまったく別のものであるけれど、そのふたつのものに「間」というものが存在しうるのか。「死」と「卵」の「間」は無限大だったが、「死」と「生」は? まったく違うものなのに、そのふたつのものに「間」はない。しっかり隣り合っている。分離不能である。「生」がおわったところから「死」なのである。「間」は存在しない。
 「間」が存在しないのに、「比喩」をつかう。「間」を呼び込むことばを田村はつかう。そして、「破る」という動詞を持ち込むことで、「間」の存在を明確にし、同時に「間」を破壊することで「自由」の在り方を指し示す。
 このときの「比喩」と「動詞」は、また、不思議なものに触れている。
 「その卵を 破って」と田村は書いているが、これは正確には(?)、「卵の殻を破って」ということになるだろう。「間」はほんとうは存在する。「卵の殻」のように破ってしまえば、その存在形式がかわってしまうほど存在そのものに密着したかたちで、ふたつのものをわける「間」がある。「間」は「無限大」ではなく、逆に「無限小(?)」だったのである。「無限大」と「無限小」が結びついている--そういう「存在形式」がある。「矛盾」がひとつのもののなかで固く結びついていることがある。それを田村は「破る」。「やぶる」ことで、その矛盾を「自由」に転換しようとする。

 そして、このとき、田村は「卵の殻」の「殻」ということばを省略している。省略すると同時に、1字分の「空白」、アキを書いている。
 これは、とても重要なことだと私は思う。
 「卵」には「殻」がある--ということは周知の事実である。「卵を破る」といえば「卵の殻を破る」というのに等しいことはだれでもわかる。だれでもわかるから「殻」を書かなかった。それは、ひとつの理由である。しかし、「殻」を書かなかったのは、それだけではないと私は思う。「殻」と書いて、そこに「小さな間」を出現させてしまうと、田村の書こうとしていることは違ってきてしまう。田村は、そういうことを無意識のうちに知っていたのだと思う。
 卵の2行は、

死は卵だ
その殻を 破って

 とも書くことができたはずだ。「卵」「殻」とことばをかえた方が「卵」を2回つかわずにすみ、ことばの変化が出たかもしれない。(そのかわり、なんとも「間延び」した、だらしないことばの動きになる。)
 しかし、「殻」と書いてしまえば、そこに「境界」ができる。「境目」ができる。「生」と「死」は確かに違った存在であるが、そこには「境目」はない。「殻」と書くと、その「殻」のなかに境目ができて、田村の生死観と違ってきてしまうのである。
 その、間違った方向へ動くベクトルを制御するために「殻」は省略されている。しかも、「破る」という動詞は絶対に書かなくてはならない。
 この複雑な問題を通り抜けるために1字空白が導入されているのである。空白によって、意識を緊張させているのである。
 多くの詩人が1字空白をつかう。改行をつかう。ほとんど無意識につかっいると思う。田村も無意識でつかう時が多いかもしれない。しかし、この「その卵を 破って」というときの1字あきには、精神の運動を正確に描こうとする意識がはっきり働いている。その意識が、つぎの「生はよみがえる」という行の前に、1行あきを呼び込んでいる。

 ことばには書いていいものと書いてはいけないものがある。

 1字あきという「間」、1行あきという「間」。この詩では、その「空白」に田村の思想が凝縮されている。
 --私は、ほんとうは、そこから書きはじめるべきだったかもしれない。
 「生きる歓び」は猫と尾長のことを思い出している小さな作品である。飼っていたペットのことを思い出すというのは誰もが体験する小さなことがら(?)である。けれど、

死は卵だ
その卵を 破って

生はよみがえる

 この3行(1行あきを含めれば4行)には田村の思想が凝縮している。ペットのことを思い出すという「内容」に目を向けると、読み落としてしまう大事なものが凝縮している。



新選田村隆一詩集 (1977年) (新選現代詩文庫)
田村 隆一
思潮社

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