岡島弘子「桃の夢」、岡本啓「コンフュージョン・イズ・ネクスト」、小山伸二「cloud nine 8」(「現代詩手帖」2014年12月号)
岡島弘子「桃の夢」(初出「そうかわせみ、」12、2014年07月)は桃を描いているのか、岡島を描いているのか。母や父が出ててきて「おもう」という動詞をつかうのだが、それは私には「母は、そうおもっただろう」と岡島(桃)が思っているように感じられる。「おもう」の動詞の中で岡島(桃)と母、あるいは父が「ひとつ(ひとり)」になっている。「母」「父」と区別されているが「おもう」という動詞「ひとつ」でつながることで、全てが「ひとつ(ひとり)」になる。
岡島は桃の実のように、両親の手作りの洋服で身をつつみ生きてきたのだろう。両親が洋裁店を開いていたのだろうか。
この3連目が美しい。他の連は「おもい」が満ちていて、それはそれでいいのだけれど、この3連目は「動詞」が生き生きしている。「動詞」のなかに「世界」のよろこびがある。世界を呼吸するリズムがある。
詩は、父母のもとをはなれて独立するまで(独立したときの天地の感覚まで)書いているが、私は、そういう「意味」から無関係な感じで世界が動く3連目が好き。
ほかが悪いという意味ではない。ほかの連も美しいが、3連目が特にすばらしい。
*
岡本啓「コンフュージョン・イズ・ネクスト」(「朝日新聞」2014年07月01日)。
4行目から6行へかけての「口語」がいい。カギ括弧に入っていない。それでも、きみが「言ったことば(口語)」だとわかる。なぜだろう。リズムが、口語なのだ。思いついたことを、文章にととのえている暇がない。最小限の「文」として、とぎれとぎれにあらわれる。それは欲望の暴動のようにも思える。
この文体と、それとは別の「地の文体」が交錯しながら詩は動いていく。
最後の2行。
それはそうなのだろうけれど、4-6行目の口語の暴動に比べると、なんとなく落ち着きすぎていて「暴動」という感じがしない。「意味」があるからかなあ。「意味」を背負わされると、ことばはどんなに過激なことを書いても「おとなしい」。「意味」などわからずに、ただおもしろそう、と「肉体」が反応するのが「暴動」なのだと思う。
最後の2行は、岡本が男だから、そう書くのだろう。女なら、どう書くだろうか。やはり「一人の女から産まれて」と書くだろうか。書かないだろうと思う。そこに「独特の意味」があり、それが窮屈なのかもしれない。落ち着きすぎている印象を引き起こすのかもしれない。
「きみ」の口語に拮抗するリズムがあれば違った印象になるのかも。
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小山伸二「cloud nine 8」(初出『きみの砦から世界は』2014年07月)。
この3行が書き出しとなかほどと終わりに出てくる。その間に「新宿駅地下道」「誰も知らない中央線(海の底を走っている)」が出てくる。新宿駅/中央線という「日常」の「闇」を見つめ、闇を見つめることで「光」(月)を育てたいと思っている。「闇」が月の前提になっているところがセンチメンタル(わかりやすすぎる)かな、と思う。闇からではなく、真昼の直射日光からはじめて月を育てるときは、ことばはどんなふうに動くのだろう。そんなことを思った。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
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岡島弘子「桃の夢」(初出「そうかわせみ、」12、2014年07月)は桃を描いているのか、岡島を描いているのか。母や父が出ててきて「おもう」という動詞をつかうのだが、それは私には「母は、そうおもっただろう」と岡島(桃)が思っているように感じられる。「おもう」の動詞の中で岡島(桃)と母、あるいは父が「ひとつ(ひとり)」になっている。「母」「父」と区別されているが「おもう」という動詞「ひとつ」でつながることで、全てが「ひとつ(ひとり)」になる。
かけられた袋の中で 桃の実の母はおもう
ぬいしろ やまおり 三つ折りぐけ
母のかいなにつつまれて
桃の実はみつをたくわえる
かけられた袋の中で 桃の父はおもう
いちまいの紙型
立体裁断のハサミのうごき
桃の実は小さな宇宙にまもられる
岡島は桃の実のように、両親の手作りの洋服で身をつつみ生きてきたのだろう。両親が洋裁店を開いていたのだろうか。
袋をうかいして吹きすぎる風
雨は袋をリズムよくたたき
陽はじゅうまんした水蒸気に
じゅっ、とアイロンをかける
この3連目が美しい。他の連は「おもい」が満ちていて、それはそれでいいのだけれど、この3連目は「動詞」が生き生きしている。「動詞」のなかに「世界」のよろこびがある。世界を呼吸するリズムがある。
詩は、父母のもとをはなれて独立するまで(独立したときの天地の感覚まで)書いているが、私は、そういう「意味」から無関係な感じで世界が動く3連目が好き。
ほかが悪いという意味ではない。ほかの連も美しいが、3連目が特にすばらしい。
*
岡本啓「コンフュージョン・イズ・ネクスト」(「朝日新聞」2014年07月01日)。
肩のあまったシャツ
もたれかけた指をはなすと
頬にニュースのかたい光があたった
あっおれだ、いま
映った、いちばん手前だ、ほらあいつ
ほらいま煉瓦を投げつける
興奮しながらきみは
母親のひたした豆スープを口に運ぶ
4行目から6行へかけての「口語」がいい。カギ括弧に入っていない。それでも、きみが「言ったことば(口語)」だとわかる。なぜだろう。リズムが、口語なのだ。思いついたことを、文章にととのえている暇がない。最小限の「文」として、とぎれとぎれにあらわれる。それは欲望の暴動のようにも思える。
この文体と、それとは別の「地の文体」が交錯しながら詩は動いていく。
最後の2行。
一人の女から産まれて
ここにいる、それじたいが暴動だ
それはそうなのだろうけれど、4-6行目の口語の暴動に比べると、なんとなく落ち着きすぎていて「暴動」という感じがしない。「意味」があるからかなあ。「意味」を背負わされると、ことばはどんなに過激なことを書いても「おとなしい」。「意味」などわからずに、ただおもしろそう、と「肉体」が反応するのが「暴動」なのだと思う。
最後の2行は、岡本が男だから、そう書くのだろう。女なら、どう書くだろうか。やはり「一人の女から産まれて」と書くだろうか。書かないだろうと思う。そこに「独特の意味」があり、それが窮屈なのかもしれない。落ち着きすぎている印象を引き起こすのかもしれない。
「きみ」の口語に拮抗するリズムがあれば違った印象になるのかも。
*
小山伸二「cloud nine 8」(初出『きみの砦から世界は』2014年07月)。
月を育てる
闇からはじめて
月を育てる練習をする
この3行が書き出しとなかほどと終わりに出てくる。その間に「新宿駅地下道」「誰も知らない中央線(海の底を走っている)」が出てくる。新宿駅/中央線という「日常」の「闇」を見つめ、闇を見つめることで「光」(月)を育てたいと思っている。「闇」が月の前提になっているところがセンチメンタル(わかりやすすぎる)かな、と思う。闇からではなく、真昼の直射日光からはじめて月を育てるときは、ことばはどんなふうに動くのだろう。そんなことを思った。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。