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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(8)中井久夫訳

2009-01-19 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
窓の内と外    リッツォス(中井久夫訳)

外には陽に照らされた大きな雲。谷にさす大きな教会の影。
パンがナプキンに包まれて木に吊るされている。
風が山から吹き下ろす。階段の下の小さな迷路の中に風は隠れ家を作る。
窓の傍の女は羊毛でチョッキを編む
男は半長靴を脱いだ。自分の足を見つめる。
裸の足が黒土を踏む。女が編み棒を傍に置く。
起き上がる。ためらって、それから半長靴を手に取る。
両手を半長靴の中に入れる。膝まずく。寝台の下にはいずりこむ。



 晴れた日の谷間の集落。一軒の家。そのなかの男女を描いている。最後の2行が、私にはよくわからない。
 「起き上がる。」の主語は「女」か、「男」か。男は裸足で黒土を踏んでいるのだから、「起き上がる」のは編み物をしていた女だろう。編み棒を傍らに置いて、それから椅子から立ったということだろう。そして、男の履いていた半長靴を手にとる。両手を入れる。跪く。そのあとの「寝台の下にはいずりこむ」がわからない。女が「寝台の下にはいずりこむ」のか。なんのために? もしかすると、寝台の下に半長靴をしまいこむ、ということかもしれない。男はいつでも半長靴を脱いだあと、それをそのまま放り出しているのかもしれない。「自分で片づけて」と女は何度も繰り返し言ってきたかもしれない。しかし、男は片づけない。それで女が仕方なくいつものように片づけている--そういうことなのかもしれない。そんなふうに読むと、なんとなく私の知っているリッツォスに近くなる。
 窓の外にはいつもと変わらぬ風景がある。おだやかや谷間の風景である。
 一方、窓の内側、つまり家庭でも、いつもと変わらぬ光景が見られる。
 両方とも、いつもとかわらない。いつもとかわらないことが、ことばもなく(会話もなく)、いつものようにつづけられる。それが暮らしである。
 3行目の、「階段の下の小さな迷路の中に風は隠れ家を作る。」がとても美しい。とても繊細だ。
 もしかしたら、女もやはり、家のどこかに「隠れ家」を持っているのかもしれない。男は家の外に隠れ家を持ち、家庭を守っている女は女で、家の中に隠れ家を持っている。それは、どこ? 寝台の下? 私は、そうではなくて、たとえば男が脱いだ「半長靴」のなか、と考えてみる。女はそのなかに両手を入れてみた。そのとき女の両手が感じた男のぬくもり。それが女にとっての隠れ家かもしれない。その隠れ家を、そっと寝台の下にしまいこむ。大切な宝物のように、跪いた姿勢で。


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