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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

青柳俊哉「青い馬のかげ」、徳永孝「わたしが死ぬ時」、池田清子「歯車」

2021-07-31 18:38:27 | 現代詩講座

青柳俊哉「青い馬のかげ」、徳永孝「わたしが死ぬ時」、池田清子「歯車」(朝日カルチャーセンター福岡、2021年07月19日)

 受講生の作品。

  青い馬のかげ  青柳俊哉

  枯れ木の中を風が吹きすぎて
  意識のわたしは一途に 年輪のそよぎへ内向する 

  波立つ木目の層から 白樺の樹林が立ち上がる 
  岸一面に 夥しい花粉が風浪の形に敷かれて
  それを乱す生物のかげはみえない
  水に映る一頭の青い馬のかげがわたしをみつめる
  それはまだうまれていないわたしの そして 
  わすれられたわたしの 像であるかもしれない 
  ………………
  雨がふりはじめた 青いかげが揺らぐ 
  樹林が乱れる 枯れ木の水面に
  いくつも輪がうまれて わたしの中の
  雪のかげが波立ちきえる 

 「全体が静かな感じ。白と青のイメージで統一されている」「凛とした感じ。冬の印象がある。青い馬は、エリック・カールの絵本にも出てくるので親しみを感じる。最初静かだったのか、徐々に動きが見えてくるのかいいなあ」「終わりの方の、雨と雪の関係がよくわからない」
 少し質問をしてみた。かげ、が何回か出てくる。最後の「雪のかげが波立ちきえる」の「かげ」は、具体的には何を指しているだろうか。
 「わたしの、白いきれいなかげ」「イメージは浮かぶが、消えていく」
 こういうことは、答えはあって、答えはない。ひとりひとりが、それぞれに自分で思い浮かべればいい。もちろん、そのとき「わからない」があっても、いい。
 私が質問してみたのは、タイトルとも関係する。「青い馬のかげ」「青い」は何を就職しているのか。「青い馬」なのか。「青いかげ」なのか。それとも「青い馬の青いかげ」なのか。「意識のわたし」という青柳のテーマを示すことばが二行目に出てくる。それは、結局、「意識のわたし」の象徴ということになるだろう、と私は考える。意識だから、自在に動く。あるときは「青い馬」、あるときは「青いかげ」。
 この作品は、実は、ひとつづき、一連で構成されていた作品だったのだが、私は、「それを乱す生物のかげはみえない/水に映る一頭の青い馬のかげがわたしをみつめる」の二行の「みえない」「みつめる」の対比がおもしろく、そこから世界が変化し始めるので、連を分けてみると効果的かもしれないと語った。
 その後、青柳が推敲したのが、掲載の作品。青柳の意識としては「三連構成」。途中の「………………」は次の「雨」をイメージ化したもの。
 この雨を「………………」とあらわすのは、とてもおもしろい試みだと思う。
 私が「連」を考えたとき、思い浮かんだのは、次の形。

枯れ木の中を風が吹きすぎて
意識のわたしは一途に 年輪のそよぎへ内向する 
波立つ木目の層から 白樺の樹林が立ち上がる 
岸一面に 夥しい花粉が風浪の形に敷かれて

それを乱す生物のかげはみえない
水に映る一頭の青い馬のかげがわたしをみつめる
それはまだうまれていないわたしの そして 
わすれられたわたしの 像であるかもしれない 

雨がふりはじめた 青いかげが揺らぐ 
樹林が乱れる 枯れ木の水面に
いくつも輪がうまれて わたしの中の
雪のかげが波立ちきえる

 二連目の四行は、他の連と違って、「ことばの数」が少ない。水に映る青い馬のかげとわたしが対面している。そこに書かれているのは「具体物」というよりも「像」(イメージ)である。「意識のわたし」が「像」として対象化されている。意識が集中し、象徴(イメージ/像)を生み出している感じがする。
 林の中へやってきた。湖(川かもしれない)の岸で「青い馬」と出会う。ただし、その馬は「水に映る青い馬のかげ」である。それとわたしが対話する。そのあと雨が降り、雨に叩かれて水面の「青い馬のかげ」は消える。そういう時間経過というか、ストーリーのようなものも、中央の4行を独立させると、明確になるかもしれない。
 雨のために「水面に/いくつもの輪がうまれ」、イメージ(影)が消えるというは、意識から現実へ帰る感じがする。
 一連目(現実)、二連目(心象)、三連目(現実)。現実風景と心象風景を明確に区分する必要はないが、重点の置き片が、現実、心象(意識)、現実という形にした方が、意識が結晶する感じがすると思う。

  わたしが死ぬ時  徳永孝

  絵本の中の犬のデイジーは
  走るアーサーにもう付いて行けなくなり
  体のあちこちに不調を感じながら
  いつものように眠った後
  もう起き上らない

  お父さん 振亜(ツェンヤ)さん お母さん
  みんな
  動かなくなって
  いなくなった
  もう戻ってこない

  アーサーは
  小犬のメイジーに出会い
  わたしも また
  新しい人々に出会い
  毎日生活している

  この世の理屈では
  だれでも衰えていき最後は死ぬ
  私も同じ
  でも それは
  遠い世界のだれか他の人の事のよう

  朝 目覚めた時
  きのう眠りに落ちた瞬間は
  どうしても思い出せない
  そんな日々の繰り返しのうちに
  やがて目覚めない朝が来る

 「死ぬ時、というタイトルのことばは重いが、絵本の中のの世界から始まり、いつのまにか夢の中つづいて終わっていく。絵本から始まるので、意味のとらえ方が深刻にならないのがいいなあ」「ことばが自然に動いているのがいい」
 徳永は「死=動かなくなる(動かない)」という世界観でことばを動かしている。だから、二連目に愛着があると語った。
 受講生が指摘した「自然な動き」とは、どういうことだろうか。
 そのことばに誘われて、私は連の構成を、そのとき分析してみた。
 一連。絵本、アーサー、死。(A)
 二連。現実、父母、知人、死。(B)
 三連。A+B。死と生の現実。意識で整理している。
 四連。意識だけを追いかけている。「理屈」ということばが象徴的。起承転結の「転」にあたる。(C)
 五連。現実。絵本から始まった「イメージ」が、意識として「結(論)」を生み出す。「きのう眠りに落ちた瞬間は/どうしても思い出せない」は、現実と意識の関係を象徴していて、とてもおもしろい。それが「死(目覚めない朝)」につながっていくことばの運動が自然だと思う。

  歯車  池田清子

  穏やかな
  多分きっちりとした
  かみあわせだった
  途中
  回転が悪くなったら
  オイルをさして動かした

  歯数と回転数は
  反比例すると習った
  私がゆっくり一回転する間
  相方は、少ない歯数で
  何回も何回も回っていてくれたような気がする

  止まってしまった
  はずれてしまった

  片われを失くした歯車は
  不要なぎざぎざが無くなって
  つるんとした
  ただの円盤になってしまった

  方向が定まらず
  ただ、ころころ ころころ

  時々、ぱたっと倒れて
  上を見上げて、また
  自由に
  ころころ ころころ

 「最終連の、自由に、がいいなあ。悲しさが感じられ、切ない。二人は相性のいい歯車だったんだなあ、とわかる」「歯車は突起があり、ギザギザしているイメージがあるが、それとは逆の穏やかなということばから始まるのが印象的。ぎざぎざがなくなるのは、私には壊れていくという印象。つるんとした、という表現が出てきてびっくりした」
 私は三連目の「くれた」ということばが、とてもいいと思った。「くれた」ということばのなかに、感謝の気持ちがある。「私」の感謝が「くれた」のなかに込められている。感謝から見直した世界が、そのあとにつづく。見直すといっても、過去を振り返るのではなく、自分のいまをみつめる。歯車でいられるのは、相手が歯車である時。かみ合う歯車がなければ、ぎざぎざがあっても、円盤。つるりとしている。だから、制御がきかない。つまり「方向が定まらない」。
 こんな姿を「相方」が見れば、笑うかもしれない。「ぱたっと倒れ」れば、「ほらみたことか。私がいないとだめなんだ」と言うだろう。
 それはそうなんだけれど。
 でも、転げ回りながら、それを自由と強がってみる。そうすると、ほんとうに自由になったような気もする。それは「矛盾」だけれど、そういう「矛盾」のなかにこそ、生きている感じがつまっている。
 池田は後半の三連について「自分を出したかった」と語ったが、自分がきちんと書かれていると思う。私の感想は、「誤解」かもしれないが、そういう「誤解」を受け入れてくれる強さが、この池田の詩にはある。不謹慎な言い方になるかもしれないが、「相方」が死んだ時、自分はぎざぎざのなくなった歯車だと思い、ころころ転げ回り、これが自由か、と思ってみたい気持ちになる。繰り返される「ころころ」が暗くないのがとてもいい。

 

 

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