谷川俊太郎『詩に就いて』(14)(思潮社、2015年04月30日発行)

人がいない。「無人」「誰もいない」「人影はない」「誰もいない」と言いなおされている。「けれど詩がある」。「(だから)こそ詩がある」と言いなおされている。
詩は、人とは無関係である、ということになる。人とは無関係に詩は「ある」。
では、人がいるとき、そこには何があるのだろう。詩でなければ、散文か。人とものとの関係、あるいは人と人との関係。人との関係は詩ではないのか。
また、人がいないとして、それでは、たとえばそこにある「木の床」「背景」「舞台」というものは、どうやって認識されるのか。それが「ある」となぜ言えるのか。「人がいない」は「この作品を書いている詩人以外はいない」「谷川以外の人はいない」ということになる。孤独で、ただ「もの」と向き合っている。そういう「孤独」と「もの」との「関係」が詩であるということか。
だが、ここには「孤独」というものもない。「谷川」を含めて「人」の気配がない。「孤独」とは、ことばとは裏腹にひどく「人」の匂いのするものである。
では、ここにあるのは、何か。
「ない」と「ある」の関係だ。
「人がいないとき、そこに詩がある」という「関係」。「無」と「有」の、「関係」がある。
しかし、この「無」と「有」の関係というのは、詩というよりも哲学的なテーマという感じがする。ギリシャの昔、「無」が「ある」と考えたのは誰だったか。「無」が「ある」ということを考えられるのはなぜだろうか。
こういうことを考えると、詩ではなく、散文になってしまうかな? 「論理」を考えはじめると「散文」になってしまうかな?
谷川は「論理」を突きつめずに、ふっと、違う「場」へ動いてしまう。
「そう考えるのは何か恐ろしい」。「何か」はあいまい。「おそろしい」は「論理」というより感情か。
そして突然、
矛盾したこころの動きを書いている。
おもしろい(?)のは、「神がいる(ある)」を前提としたことば「涜神」が最初にあらわれることである。(「神がいない」ならば、「神を冒涜する、涜神する」ということも不可能だから。)
前半では「人はいない(ない)」けれど「詩はある」。
いまは「神はいる(ある)」が「信用していない」と「ある」が先にきて「ない」があとにくる。
どうして「ない」と「ある」の順序がかわってしまったのか、わからないが、この変化ために前半から後半への飛躍がいっそう大きなものになって感じられる。いままで書いてきたことをまるごと否定する、壊してしまう。無にしてしまう。そのあとで、違う「場(次元)」へ飛躍してしまったという感じになる。
その突然の変化のなかで……。
「神がいる(ある)」の「主語」を「詩」に変えると、「詩がある」になる。「詩がある」、けれど「人はいない」。前半を、そんなふうな順序にすると、きっと、それこそ何か恐ろしい感じがする。
また「涜神という言葉が思い浮かぶ」の「言葉」の存在もおもしろい。「言葉がある」。だから、思い浮かんだ。谷川が「神」を信じるかどうかではなく、「神」という「言葉」があったために、「涜神」という「言葉」もあり、それが谷川のこころを動かしている。
こころが動いて行って「言葉」をつくるのではなく、「言葉」が先にあって、人をつくる。
最後の三行が、何か恐ろしい「詩」に感じられるのは、そういう「言葉」と「人」の「関係」を語っているためだろうか。
「言葉」が「人」をつくる。
「言葉」にそういう力があるなら、「言葉」で書かれた詩もまた「人」つくる。
これは谷川の、究極の「詩論」だ。
こんな「結論」めいたことばは、保留しなければならない。
保留のために、少し、逆戻りして余分なことを書いておく。
書き出しの「無人」を「誰もいない空間」と言いなおしたあとに、谷川は
と書いている。何でもない表現のようだが、「木の床」の「木」が谷川らしい「癖」だと思った。「木」には何か温みがある。自然を思い起こさせる。懐かしさがある。こういう感覚は「日本人」に共通するものかもしれない。谷川は、こういう「共通感覚」のようなものを詩の導入部の「定型」としてつかう。「定型」を動かして行って、最後に「定型」を壊す。「涜神」というのは、日本の伝統的な神々に対しても言うかもしれないが、私の印象ではキリスト教のような「絶対神」に対してつかうことばのように感じられる。
思考、あるいは感性が、前半は「日本的」なのに、最後の三行は西洋的。こうした切断と接続も、最後の三行の印象を強くしているように思う。

涜神
突然アタマの中が無人になった
みんなどこかへ出て行ってしまったのだ
誰もいない空間
でも木の床がある
背景のようなものもある
舞台……と言ってもいいかもしれない
人影はないけれどそこに詩がある
いやむしろ誰もいないからこそ詩があるのかもしれない
だがそう考えるのは何か恐ろしいような気がする
涜神ということばが思い浮かぶ
神を信用していないのに
人がいない。「無人」「誰もいない」「人影はない」「誰もいない」と言いなおされている。「けれど詩がある」。「(だから)こそ詩がある」と言いなおされている。
詩は、人とは無関係である、ということになる。人とは無関係に詩は「ある」。
では、人がいるとき、そこには何があるのだろう。詩でなければ、散文か。人とものとの関係、あるいは人と人との関係。人との関係は詩ではないのか。
また、人がいないとして、それでは、たとえばそこにある「木の床」「背景」「舞台」というものは、どうやって認識されるのか。それが「ある」となぜ言えるのか。「人がいない」は「この作品を書いている詩人以外はいない」「谷川以外の人はいない」ということになる。孤独で、ただ「もの」と向き合っている。そういう「孤独」と「もの」との「関係」が詩であるということか。
だが、ここには「孤独」というものもない。「谷川」を含めて「人」の気配がない。「孤独」とは、ことばとは裏腹にひどく「人」の匂いのするものである。
では、ここにあるのは、何か。
「ない」と「ある」の関係だ。
「人がいないとき、そこに詩がある」という「関係」。「無」と「有」の、「関係」がある。
しかし、この「無」と「有」の関係というのは、詩というよりも哲学的なテーマという感じがする。ギリシャの昔、「無」が「ある」と考えたのは誰だったか。「無」が「ある」ということを考えられるのはなぜだろうか。
こういうことを考えると、詩ではなく、散文になってしまうかな? 「論理」を考えはじめると「散文」になってしまうかな?
谷川は「論理」を突きつめずに、ふっと、違う「場」へ動いてしまう。
「そう考えるのは何か恐ろしい」。「何か」はあいまい。「おそろしい」は「論理」というより感情か。
そして突然、
涜神ということばが思い浮かぶ
神を信用していないのに
矛盾したこころの動きを書いている。
おもしろい(?)のは、「神がいる(ある)」を前提としたことば「涜神」が最初にあらわれることである。(「神がいない」ならば、「神を冒涜する、涜神する」ということも不可能だから。)
前半では「人はいない(ない)」けれど「詩はある」。
いまは「神はいる(ある)」が「信用していない」と「ある」が先にきて「ない」があとにくる。
どうして「ない」と「ある」の順序がかわってしまったのか、わからないが、この変化ために前半から後半への飛躍がいっそう大きなものになって感じられる。いままで書いてきたことをまるごと否定する、壊してしまう。無にしてしまう。そのあとで、違う「場(次元)」へ飛躍してしまったという感じになる。
その突然の変化のなかで……。
「神がいる(ある)」の「主語」を「詩」に変えると、「詩がある」になる。「詩がある」、けれど「人はいない」。前半を、そんなふうな順序にすると、きっと、それこそ何か恐ろしい感じがする。
また「涜神という言葉が思い浮かぶ」の「言葉」の存在もおもしろい。「言葉がある」。だから、思い浮かんだ。谷川が「神」を信じるかどうかではなく、「神」という「言葉」があったために、「涜神」という「言葉」もあり、それが谷川のこころを動かしている。
こころが動いて行って「言葉」をつくるのではなく、「言葉」が先にあって、人をつくる。
最後の三行が、何か恐ろしい「詩」に感じられるのは、そういう「言葉」と「人」の「関係」を語っているためだろうか。
「言葉」が「人」をつくる。
「言葉」にそういう力があるなら、「言葉」で書かれた詩もまた「人」つくる。
これは谷川の、究極の「詩論」だ。
こんな「結論」めいたことばは、保留しなければならない。
保留のために、少し、逆戻りして余分なことを書いておく。
書き出しの「無人」を「誰もいない空間」と言いなおしたあとに、谷川は
でも木の床がある
と書いている。何でもない表現のようだが、「木の床」の「木」が谷川らしい「癖」だと思った。「木」には何か温みがある。自然を思い起こさせる。懐かしさがある。こういう感覚は「日本人」に共通するものかもしれない。谷川は、こういう「共通感覚」のようなものを詩の導入部の「定型」としてつかう。「定型」を動かして行って、最後に「定型」を壊す。「涜神」というのは、日本の伝統的な神々に対しても言うかもしれないが、私の印象ではキリスト教のような「絶対神」に対してつかうことばのように感じられる。
思考、あるいは感性が、前半は「日本的」なのに、最後の三行は西洋的。こうした切断と接続も、最後の三行の印象を強くしているように思う。
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