小縞山いう「絵画」(「現代詩手帖」2015年08月号)
小縞山いう「絵画」は「新人作品」欄の入選作。朝吹亮二が選んでいる。
書き出しの五行。奇妙な「送り仮名」がある。「花」「草」「指」「風」という基本的なというか、子どもでも知っている名詞のあとに、名詞の最後の音がひらがなで書かれている。
どう読むのだろう。
私は「花な」を「はな」と読んだ。「はなな」とは読まなかった。そして、「花な」を「はな」と読んだときに、私のことばのなかに何か知らないものが入ってくるのを感じた。知らないものとは、何か。そう考えたとき、目に止まったのが、
小縞山は目の前にある存在「花」だけを見ているのではない。「花」の「あちらがわ」にあるものを見ている。その「あちらがわ」が「な」になって「花」の背後から「こちらがわ」へはみだしてきている。
タイトルに「絵画」とある。そして、詩の全体が(書き出ししか引用していないので、それだけではわからないが)カギカッコ「 」でくくられている。対象がそこにあり、それをたとえば色と形でとらえ直したものが「絵画」、それをことばで再現したものが「詩(文学)」だとすれば、「絵画」の「あちらがわ」には存在があり、「詩」の「あちらがわ」にもまた存在がある。「絵画」も「詩」も存在のすべてをとらえきれない。とらえきれないものが、「絵画」や「詩」を突き破ってあふれてくる。
これは、しかし私の言い方が悪い。逆なのかもしれない。
優れた「絵画」や「詩」を読むと、そこに描かれている「色/形」を超えるものを感じる。「詩」もそこに書かれている「ことば」以上のことをかってに感じてしまう。「絵画」や「詩」を突き破って、「絵画」「詩」以外のものを感じる。描かれている対象の「いのち」のようなものを感じることがある。「あちらがわ」から何かが「こちらがわ」へはみだしてくるのを感じる。
こういう瞬間のことを小縞山は「花な」というような表記で表わそうとしているのかもしれない。
これは「絵画」に限って言えば、たとえば「輪郭」をはみだす「色彩」のようなものかもしれない。私の好きな画家、ピカソに「女の顔」という絵がある。白を主体とした女の顔が描かれている。背景はブルー。女の顔には黒い線の輪郭があり、頬の白はその輪郭をはみだしている輪郭が頬の内側に入り込んでいるといえばいいのか。この、一種の「乱れ」が、女の「いのち/肉体」の強さを感じさせる。「輪郭」をはみだしていく「色」として、「輪郭」ではとらえきれない存在の力を感じさせる。
そんなことも思った。
その不思議な「はみだし」とどう向き合うか。
小縞山は「はみだし」とは言わずに「滲みはじめる」と「滲む」という動詞をつかっている。「あちらがわ」から「ことらがわ」へ「滲む」。その「越境」。
その「越境」とどう向き合うか。
「喩」とか「色彩(ペールトーン)」とか、あるいは「虚ろ」とか「透明」という具体的ではないことばと対比させることで、小縞山は向きあおうとしているように見える。
これは、私には、残念な感じがする。後半は引用しないが、「はみだし/滲み」がもっている力が、徐々に、「存在」そのものの力ではなく、「観念」あるいは「概念」に変質していくような感じがする。言い換えると、小縞山が「肉体」で感じたものではなく、「頭」でとらえたもの、さらに言い換えるなら「頭」でおぼえたことばによって全体をととのえようとしているように感じられる。「越境」が取り締まられている感じがする。
「境」を超えてやってくるものは、「こちら」を犯すのか、あるいは「こちら」を豊かにするのか。「取り締まる」ときは「犯す」ものを許さないという規制が働いているのだが、何か、そういう「頭の権力」のようなものが感じられる。
「色彩(ペールトーン)」というのは、私の印象では、とても「いやらしい」ことばだ。ふつうのひとは、そんな具合には言わないだろう。「色ろ」となぜ書かなかったのだろうと思ってしまう。
「透明」ということばが、また「いやらしい」。「滲む」というのは「透明」とは違う動き(動詞)だろう。「不透明」あるいは「あいまい」が「滲む」という「動詞」には似合うと思う。
「花な」「草さ」というような表記は表記であるかぎりにおいて「透明」(明晰)である。「漢字+ひらがな」として識別されてしまう。その「輪郭(境界)」を越境する力、それを「滲む」という力で乗り越え、「境界(輪郭)」をなくすところまでゆけたらとてもおもしろいのになあ、と思った。そうしたことをやってもらいたいなあ、と期待している。
小縞山いう「絵画」は「新人作品」欄の入選作。朝吹亮二が選んでいる。
「うすむらさきに濡れた
花なびらのなかに
広大な草さむらがあり
草さむらのあちらがわ
佇む少女の指びが風ぜに揺れている
書き出しの五行。奇妙な「送り仮名」がある。「花」「草」「指」「風」という基本的なというか、子どもでも知っている名詞のあとに、名詞の最後の音がひらがなで書かれている。
どう読むのだろう。
私は「花な」を「はな」と読んだ。「はなな」とは読まなかった。そして、「花な」を「はな」と読んだときに、私のことばのなかに何か知らないものが入ってくるのを感じた。知らないものとは、何か。そう考えたとき、目に止まったのが、
あちらがわ
小縞山は目の前にある存在「花」だけを見ているのではない。「花」の「あちらがわ」にあるものを見ている。その「あちらがわ」が「な」になって「花」の背後から「こちらがわ」へはみだしてきている。
タイトルに「絵画」とある。そして、詩の全体が(書き出ししか引用していないので、それだけではわからないが)カギカッコ「 」でくくられている。対象がそこにあり、それをたとえば色と形でとらえ直したものが「絵画」、それをことばで再現したものが「詩(文学)」だとすれば、「絵画」の「あちらがわ」には存在があり、「詩」の「あちらがわ」にもまた存在がある。「絵画」も「詩」も存在のすべてをとらえきれない。とらえきれないものが、「絵画」や「詩」を突き破ってあふれてくる。
これは、しかし私の言い方が悪い。逆なのかもしれない。
優れた「絵画」や「詩」を読むと、そこに描かれている「色/形」を超えるものを感じる。「詩」もそこに書かれている「ことば」以上のことをかってに感じてしまう。「絵画」や「詩」を突き破って、「絵画」「詩」以外のものを感じる。描かれている対象の「いのち」のようなものを感じることがある。「あちらがわ」から何かが「こちらがわ」へはみだしてくるのを感じる。
こういう瞬間のことを小縞山は「花な」というような表記で表わそうとしているのかもしれない。
これは「絵画」に限って言えば、たとえば「輪郭」をはみだす「色彩」のようなものかもしれない。私の好きな画家、ピカソに「女の顔」という絵がある。白を主体とした女の顔が描かれている。背景はブルー。女の顔には黒い線の輪郭があり、頬の白はその輪郭をはみだしている輪郭が頬の内側に入り込んでいるといえばいいのか。この、一種の「乱れ」が、女の「いのち/肉体」の強さを感じさせる。「輪郭」をはみだしていく「色」として、「輪郭」ではとらえきれない存在の力を感じさせる。
そんなことも思った。
その不思議な「はみだし」とどう向き合うか。
嫋やかに喩の花なびら
毟られて色彩(ペールトーン) 滲みはじめる
虚ろさの透明の縫跡へ
少女は爪めをたて
降るはずのない雨めを望み
届かない空らを裂こうとした
小縞山は「はみだし」とは言わずに「滲みはじめる」と「滲む」という動詞をつかっている。「あちらがわ」から「ことらがわ」へ「滲む」。その「越境」。
その「越境」とどう向き合うか。
「喩」とか「色彩(ペールトーン)」とか、あるいは「虚ろ」とか「透明」という具体的ではないことばと対比させることで、小縞山は向きあおうとしているように見える。
これは、私には、残念な感じがする。後半は引用しないが、「はみだし/滲み」がもっている力が、徐々に、「存在」そのものの力ではなく、「観念」あるいは「概念」に変質していくような感じがする。言い換えると、小縞山が「肉体」で感じたものではなく、「頭」でとらえたもの、さらに言い換えるなら「頭」でおぼえたことばによって全体をととのえようとしているように感じられる。「越境」が取り締まられている感じがする。
「境」を超えてやってくるものは、「こちら」を犯すのか、あるいは「こちら」を豊かにするのか。「取り締まる」ときは「犯す」ものを許さないという規制が働いているのだが、何か、そういう「頭の権力」のようなものが感じられる。
「色彩(ペールトーン)」というのは、私の印象では、とても「いやらしい」ことばだ。ふつうのひとは、そんな具合には言わないだろう。「色ろ」となぜ書かなかったのだろうと思ってしまう。
「透明」ということばが、また「いやらしい」。「滲む」というのは「透明」とは違う動き(動詞)だろう。「不透明」あるいは「あいまい」が「滲む」という「動詞」には似合うと思う。
「花な」「草さ」というような表記は表記であるかぎりにおいて「透明」(明晰)である。「漢字+ひらがな」として識別されてしまう。その「輪郭(境界)」を越境する力、それを「滲む」という力で乗り越え、「境界(輪郭)」をなくすところまでゆけたらとてもおもしろいのになあ、と思った。そうしたことをやってもらいたいなあ、と期待している。
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