時里二郎「月をかたしく あるいは《月歌論》のための仮縫い」(「ロッジア」13、2014年02月発行)
時里二郎「月をかたしく あるいは《月歌論》のための仮縫い」はタイトルにあるように「論」なのかもしれない。私は「論」であろうが(散文であろうが)、詩であろうが、区別をしない。そこに「ことば」がある--というだけで読むのだが。
読みながら、思わず傍線をひいてしまったところが2か所ある。ともに13ページ。「結論」の部分といえるかもしれない。
西行も定家もほうりだして、これは時里が時里自身の詩について語ったことばのように私には思える。思わず、こんなふうに書き換えてしまう。、
このとき肝要なのは、月の見えない部分(満ち欠けの、「欠け」の部分)を、時里は月の見える部分(満月)のように、はっきりと「おぼえている」ということだ。
ことばが提示して、その結果「初めて構造が生ずる」、ことばの運動とともに世界が立ち現れてくるように見えるが、それは読んでいる私にとってそう感じられるだけであって、時里はことばの運動と同時に何かを発見しているわけではない。時里にはわかっている。時里は、それをおぼえている。おぼえていることを、ていねいにそれを再現する。
先の引用のあとには、
この部分も、
という具合に、書き直してみたくなる。そういうことばが、さーっと動いてしまう。私が時里になってしまう。時里が動かしていることばなのに、まるで自分のなかからあふれてきたことばのように錯覚してしまう。自分のことばが頭の中をひっかきまわし、幻を捏造しているように感じる。そういう錯覚を引き起こすくらい、時里のことばにはスピードと強靱さがある。何か、脳を直接刺戟してくる電流のようなものがある。
もう一か所は次の部分。
何か反論したい。特に「歌の三十一文字と月の満ち欠けの周期がほぼ釣り合っている」には反論したい。月の満ち欠けよりも歌のことばの方が確実に多い(過剰)なのに、それを「ほぼ」というのはおかしい。字余り、字足らずは30-32のあいだの揺らぎだと思うが、そこに29という文字数が入ることはめったにないのだから「ほぼ」というのはかなり強引だ、そういう反論を拒絶するスピードとリズムがある。それに呑みこまれてしまう。
そして(という接続詞でいいのかどうか、よくわからないが……)。
この部分には反論したい部分をわきにおいておいて、あ、語ってみたいと思う部分もある。
「ヒトの身体にも影響を及ぼしている」ということばの「身体」、それから「月の光が溶かし込まれている」の「溶かし込む」という動詞。身体に何かが溶かし込まれることを時里は影響と言っている。「溶かし込む」だから、その何かは「身体」そのものと「ひとつ」になる。区別できないから「溶ける」である。でも「溶ける(溶けている)」ということは「わかる」。識別できるものと識別できないものが「ひとつ」になっている。それが「身体」という「場」である。
あ、この部分をもっと書いてもらいたい。この部分から何か違ったものを聞きたいという欲望が、生まれる。でも、私は、それをどう書いていいかわからない。
時里のことばは、肉体そのもので反復する動きというよりも、頭の中で組み立てなおして動く運動なのに、それがときどき「肉体」と何かぞくっとする感じで融合することがある。そこへ誘い込まれたいなあ、その奥へ行ってみたいなと思うが、何かうまい具合にゆかない。
ことばと「身体(肉体)」が、どこかですれ違う。
何なんだろうなあ……。
そんなことを思っていたら、「歌窯」の次の部分。私は、ここまで書くつもりはなかったのだが--というか「月を……」を読んで何か書こうと思って書きはじめて、書けなくなってこれで「日記」はおしまいと思っていたのだが。少し時間があるので「ロッジア」をさらに読み進み、次の部分に出会ったのだ。(20-21ページ)
あ、時里は「身体(肉体)」さえも、ことばによってのっとろうとしている。
「付随する」「かわり」「仕組む」「負」「仮象」「存在する」「なくなる」--時里のことばの運動を語るためのことばがぎっしりつまっている。
とりあえず、そうか時里は「身体(肉体)」を「人形」をつかって「虚構化」するのか。そのとき「世界とことば」は「身体と人形」が交錯するのだな。「世界」が「身体」であるとき、「ことば」は「人形」、あるいは「世界」が「ことば」であるとき「身体」は「人形」、いや「世界」が「ことば」であるとき「人形」が「身体」である、と時里ならいうかもしれないなあ。
これは、また明日(あるいは別の機会)に考えよう。時間がきてしまった。(私は一日に40分しか書けない。目が疲れて、ことばが動かなくなる。最近は特に調子が悪く、パソコンモニターを見ると頭が重くなる。)
時里二郎「月をかたしく あるいは《月歌論》のための仮縫い」はタイトルにあるように「論」なのかもしれない。私は「論」であろうが(散文であろうが)、詩であろうが、区別をしない。そこに「ことば」がある--というだけで読むのだが。
読みながら、思わず傍線をひいてしまったところが2か所ある。ともに13ページ。「結論」の部分といえるかもしれない。
西行の歌が調和的な満月を目指しているとすれば、定家は逆に朔へ向かうベクトルを持つ歌といえるだろう。見える月の部分よりも見えない月をことばによって見ようとする。
ことばが提示して初めて月の光が生ずるような歌である。
西行も定家もほうりだして、これは時里が時里自身の詩について語ったことばのように私には思える。思わず、こんなふうに書き換えてしまう。、
見える世界の部分よりも見えない世界をことばによって見ようとする。ことばが提示して初めて世界の構造が生ずるような詩(ことばの運動)である。
このとき肝要なのは、月の見えない部分(満ち欠けの、「欠け」の部分)を、時里は月の見える部分(満月)のように、はっきりと「おぼえている」ということだ。
ことばが提示して、その結果「初めて構造が生ずる」、ことばの運動とともに世界が立ち現れてくるように見えるが、それは読んでいる私にとってそう感じられるだけであって、時里はことばの運動と同時に何かを発見しているわけではない。時里にはわかっている。時里は、それをおぼえている。おぼえていることを、ていねいにそれを再現する。
先の引用のあとには、
橋姫伝説があって、宇治十帖があって(つまり、ことばがまず設えられて)そこに月の光が溶かしこまれるわけだから、月はいきおい幻想の光を帯びる道理である。
この部分も、
いくつもの「文学(世界構造を描き出すことばの運動)」があって(それを時里は満月のようにくまなくおぼえていて)、そこに時里は強調したい世界構造をことばで上書きするのわけだから、ことばは二重構造になり、いきおい幻想の闇を深める道理である。
という具合に、書き直してみたくなる。そういうことばが、さーっと動いてしまう。私が時里になってしまう。時里が動かしていることばなのに、まるで自分のなかからあふれてきたことばのように錯覚してしまう。自分のことばが頭の中をひっかきまわし、幻を捏造しているように感じる。そういう錯覚を引き起こすくらい、時里のことばにはスピードと強靱さがある。何か、脳を直接刺戟してくる電流のようなものがある。
もう一か所は次の部分。
わたしたちは、月の引力が潮の干満を操り、ヒトの身体にも影響を及ぼしていることを自明のこととしているにもかかわらず、月の引力が、歌という詩型を決定づけていることについてはあまりにも無自覚である。歌の三十一文字と月の満ち欠けの周期がほぼ釣り合っているのは偶然ではない。家人はみずからの歌語の息づきに月の光が溶かしこまれていることに気づいていない。家人はみずからの歌の調べに月が関与していることを知らない。
何か反論したい。特に「歌の三十一文字と月の満ち欠けの周期がほぼ釣り合っている」には反論したい。月の満ち欠けよりも歌のことばの方が確実に多い(過剰)なのに、それを「ほぼ」というのはおかしい。字余り、字足らずは30-32のあいだの揺らぎだと思うが、そこに29という文字数が入ることはめったにないのだから「ほぼ」というのはかなり強引だ、そういう反論を拒絶するスピードとリズムがある。それに呑みこまれてしまう。
そして(という接続詞でいいのかどうか、よくわからないが……)。
この部分には反論したい部分をわきにおいておいて、あ、語ってみたいと思う部分もある。
「ヒトの身体にも影響を及ぼしている」ということばの「身体」、それから「月の光が溶かし込まれている」の「溶かし込む」という動詞。身体に何かが溶かし込まれることを時里は影響と言っている。「溶かし込む」だから、その何かは「身体」そのものと「ひとつ」になる。区別できないから「溶ける」である。でも「溶ける(溶けている)」ということは「わかる」。識別できるものと識別できないものが「ひとつ」になっている。それが「身体」という「場」である。
あ、この部分をもっと書いてもらいたい。この部分から何か違ったものを聞きたいという欲望が、生まれる。でも、私は、それをどう書いていいかわからない。
時里のことばは、肉体そのもので反復する動きというよりも、頭の中で組み立てなおして動く運動なのに、それがときどき「肉体」と何かぞくっとする感じで融合することがある。そこへ誘い込まれたいなあ、その奥へ行ってみたいなと思うが、何かうまい具合にゆかない。
ことばと「身体(肉体)」が、どこかですれ違う。
何なんだろうなあ……。
そんなことを思っていたら、「歌窯」の次の部分。私は、ここまで書くつもりはなかったのだが--というか「月を……」を読んで何か書こうと思って書きはじめて、書けなくなってこれで「日記」はおしまいと思っていたのだが。少し時間があるので「ロッジア」をさらに読み進み、次の部分に出会ったのだ。(20-21ページ)
歌を紡ぐのに生身の身体はいらない。生身の身体に付随するヒトの霊が邪魔なのである。木偶(でぐ)にはそれがない。それがないかわりに木偶の身体はその欠落を埋めるべく言の霊を付着させる奥部(おうぶ)を持っている。凹部(おうぶ)とも表記するが、かといって、それは身体のどこにも仕組まれていない。つまり、木偶そのものが、(人形そのものが)、奥部であり、凹部なのだ。負の身体とでも呼べばいいだろうか。木偶は物であり、見られ、触られするが、それは仮象にすぎない。言の霊が憑くときにだけ、存在し、歌をこの世に伝える。皮肉なことに、その時木偶の身体は見えない。言の霊が憑けば、当然人形の身体ではなくなるからである。
あ、時里は「身体(肉体)」さえも、ことばによってのっとろうとしている。
「付随する」「かわり」「仕組む」「負」「仮象」「存在する」「なくなる」--時里のことばの運動を語るためのことばがぎっしりつまっている。
とりあえず、そうか時里は「身体(肉体)」を「人形」をつかって「虚構化」するのか。そのとき「世界とことば」は「身体と人形」が交錯するのだな。「世界」が「身体」であるとき、「ことば」は「人形」、あるいは「世界」が「ことば」であるとき「身体」は「人形」、いや「世界」が「ことば」であるとき「人形」が「身体」である、と時里ならいうかもしれないなあ。
これは、また明日(あるいは別の機会)に考えよう。時間がきてしまった。(私は一日に40分しか書けない。目が疲れて、ことばが動かなくなる。最近は特に調子が悪く、パソコンモニターを見ると頭が重くなる。)
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