中尾太一「詩篇A/lone」(「イリプスⅡnd」07、2011年05月25日発行)
中尾太一「詩篇A/lone」は複数の詩篇から構成されている。その内の1篇「1 名無しのゴンベエからの手紙」。中尾の作品の中では、とてもわかりやすいと感じた。あ、これは「誤読」しやすい、「誤読」が楽しい--という意味であるのだけれど。
何が書いてあるのかというと--それは、まあ、わからない。わかるのは「話されないもの」、ふつうは、ことばとか「こと」を指していると思うが、それが「総雨量」と呼ばれていることである。話されるべきこと、その「総量」がすべて話されずにある。この「総量」を中尾は「総量」とと呼ばずに「総雨量」と言っている。
なぜ、「総雨量」ということばをつかったのか。これが、わからない。この作品がわからないことの第一の原因は、ここにある。
そして、そのわからないことを、そのままにしておいて、その次のことばを追っていくと「それ(総雨量)は決まっていた」ということばがやってくる。これは具体的にはよくわからないが(総雨量の量自体はわからないが)、まあ、決まっていたというのだから決まっていたんだろうなあ、と「論理」はわかる。「/年の暮れに降る雪は別にして」というのは、気象関係では「雨」に「雪」を含めるのだろうけれど、ここでは含めないということなんだろうなあ、と「論理」はわかる。
で、面倒なので途中を省略するけれど、私が「わかる」と書くとき、わかっているのは中尾が書いていることばが「論理」をもって動いているということである。その「論理」の主語は「話されないもの/話されないもの(話されずに隠されたもの)」ということになるのかもしれない。そして、その「話されないもの」の計量単位として「総雨量」ということばがつかわれている、ということである。
これは、簡単に言ってしまえば、あることを語る文脈が、既存の文脈以外ものに侵略されている状態である。「話されないもの」という「主語」が「総雨量」という単位をつかって、「数学(数学を偽装した)」文脈によって侵略されているということである。xという変数(?)をつかって、「話されないもの」と「時代」の関係が数学的に整理されるということである。
中尾は、「話されないもの」の「事実(内容?)」というよりも、「話されないもの」と「時代」の関係について書こうとしている--ということがわかる。
で、実際に、それが数学的に整理されるとどうなるかというと……。純粋数学じゃないから、わかったような、わからないような感じになる。
中尾太一「詩篇A/lone」は複数の詩篇から構成されている。その内の1篇「1 名無しのゴンベエからの手紙」。中尾の作品の中では、とてもわかりやすいと感じた。あ、これは「誤読」しやすい、「誤読」が楽しい--という意味であるのだけれど。
「話されないものの総雨量が温存されてある時代に生まれた
それ(総雨量)は決まっていた/年の暮れに降る雪は別にして
それ(総雨量)はその時代に覚えたものと釣り合う程度に
変化はしたが/まあだいたい決まっていた
それ(総雨量)は隠れた/隠れたそれ(総雨量)に対応するxは
話されることが多くなるにつれて異界のほうへ器を大きくする
空白というやつだ/空白というのは時間に対応するxだが
ここでの空白がもっぱら未来を志向していることは隠せない
何が書いてあるのかというと--それは、まあ、わからない。わかるのは「話されないもの」、ふつうは、ことばとか「こと」を指していると思うが、それが「総雨量」と呼ばれていることである。話されるべきこと、その「総量」がすべて話されずにある。この「総量」を中尾は「総量」とと呼ばずに「総雨量」と言っている。
なぜ、「総雨量」ということばをつかったのか。これが、わからない。この作品がわからないことの第一の原因は、ここにある。
そして、そのわからないことを、そのままにしておいて、その次のことばを追っていくと「それ(総雨量)は決まっていた」ということばがやってくる。これは具体的にはよくわからないが(総雨量の量自体はわからないが)、まあ、決まっていたというのだから決まっていたんだろうなあ、と「論理」はわかる。「/年の暮れに降る雪は別にして」というのは、気象関係では「雨」に「雪」を含めるのだろうけれど、ここでは含めないということなんだろうなあ、と「論理」はわかる。
で、面倒なので途中を省略するけれど、私が「わかる」と書くとき、わかっているのは中尾が書いていることばが「論理」をもって動いているということである。その「論理」の主語は「話されないもの/話されないもの(話されずに隠されたもの)」ということになるのかもしれない。そして、その「話されないもの」の計量単位として「総雨量」ということばがつかわれている、ということである。
これは、簡単に言ってしまえば、あることを語る文脈が、既存の文脈以外ものに侵略されている状態である。「話されないもの」という「主語」が「総雨量」という単位をつかって、「数学(数学を偽装した)」文脈によって侵略されているということである。xという変数(?)をつかって、「話されないもの」と「時代」の関係が数学的に整理されるということである。
中尾は、「話されないもの」の「事実(内容?)」というよりも、「話されないもの」と「時代」の関係について書こうとしている--ということがわかる。
で、実際に、それが数学的に整理されるとどうなるかというと……。純粋数学じゃないから、わかったような、わからないような感じになる。
たとえばある人間の/最期/の語りにおける/F/がある人間の語りの中で
現在・未来がそうであるものとして恐怖されている
ということを/どう/自分の経験として話すか/が/今日の
空白の中で/考えなければいけないが
少なくとも/自分の経験として話す/こと/は
脅迫の目的を/すべて/に対して持つ/だろう
無限に近い/話される/こと/への配慮のそれ(総雨量)が
異界の土地に染み込むとき
自分たちの/x/は/無限/そのものであるような時空に関与する
X' である/その係数を/記憶の細部に掛ける
ここで特徴的なのは(私は「意味」を考えずに、特徴を見るだけである)、ふつうの文体(?)が数学の文体(?)によって破壊され(微分され?)、とぎれとぎれになっているということである。おびただしい/(スラッシュ)がことばを区切っている。
その/が意味するものは何?
中尾はわかっている。わかっていないかもしれないが、その/こそが書きたいものだと、書かれていることを読むとわかる。/はことばにならない何かである。ことばにならないものが、それこそ「書かれないもの」の「総雨量」が振り込む激しい雨の降る角度で/になっている感じで、一続きの文脈を破壊している--そのことがわかる。
で、このことから、私は考えるのだ。
あ、中尾は、いままである文脈(文体)を、たとえば数学文脈、それは相関関係を語る文脈で語りなおしていきたいのだ、その語り直しをすること(その文体をつかうこと)が、中尾にとって「思想」なのだ。
既存の文体を破壊し、別なものにする--そのときにふいにあらわれる、たとえば/(スラッシュ)としての文体が、中尾の書きたい「思想」なのだ。
そのことばがたどりつく「結論」(意味・内容)は、まあ、どうでもいいのだ、というとあまりに大雑把すぎるが、そのときそのとき、適当に、こういうことかなあ、と思えばいいのだと思う。「結論」には「思想」などない。「肉体」となって動く「文体」だけが思想」なのである--と中尾の、何が書いてあるかわからないことばを読みながら、考えた。
数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集 中尾 太一 思潮社