詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北原千代「果樹園のまひる」

2010-10-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北原千代「果樹園のまひる」(「ばらいろの爪」2、2010年09月23日発行)

 北原千代「果樹園のまひる」は不思議な風景である。こういう風景がどこにあるのかわからないが、そこに書かれている「肉体」が奇妙に(わからないのに、という意味である)恋しいのである。そんなふうになってみたいのである。

かぐわしいオリーヴの
あぶらが喉をとおって
わたしを緑の木にしていった

うでをひろげ枝を張り
繁る葉のかさなりに 熟した実をゆらして
きんいろの陽をあびていた

手斧をさげた檜山の祖父が
果樹園にあらわれ
わたしのにおいを嗅いで
梢を撫でた

オリーヴの木になったこと
謝りたくてしかたがなかった
戦いでうけた ひたいの銃創を陽に
かがやかせながら祖父は
わたしの幹の秘密を りりりと撫でた

おお ここにいたのか いっしょうけんめいな迷子よ

ひじの下から
足はそのまま園にあるよう
祖父はやさしくわたしに手斧を揮い
異国風に刈りそろえた

 ほんとうの果樹園ではないかもしれない。オリーブ油のにおい、味が「わたし」をオリーブの木にかえていく。オリーブを食べながら(オリーブオイルをつかった料理を食べながら)、北原はオリーブの木になる。想像力のなかで、いま、ここにはないオリーブの木になる。
 この、何かを食べ、「木になる」という感じが、私にはなぜか、とてもよくわかるのである。単なる個人的な体験だけれど、私は「木」を想像し、「木になる」ということがとても好きなのだ。果実を食べるだけではなく、たとえば公園の木に触れる、そしてその木になってみるということがとても好きなのである。
 だからだろう。北原の書いているオリーブの木がどういう木なのかはまったくわからないが(そして、私は実物のオリーブの木を見たことがないので、どう想像していいのかわからないのだが)、なぜか、2連目の「うでをひろげ枝を張り」という行を読むと、私の「肉体」が同じように「うでをひろげ」てしまうのだ。そして腕は枝になり、そこには葉が繁り、実がなるという感じが、とても気持ちがいいのである。
 しかし、ここから先は、私が絶対に想像できない世界だ。そして、そこからはじまる世界がとても魅力的なのだ。
 北原は、木になったあと、そこに太陽を、その「きんいろの」光を呼び込む。世界が「木」から木の外へと広がっていく。
 あ、おもしろいなあ、と思う。
 その「外」の世界は、単なる風景ではない。「果樹園」ではない。そこに「祖父」がやってくる。北原に近しい人間がやってくる。そして、その近しい人間は、木を見つめ、そこに北原を見つけてしまう。北原は見つけられてしまう。

わたしのにおいを嗅いで

 は、「木」としての「におい」なのかもしれないけれど、「木」になるまえの北原自身のにおいかもしれない。いや、私は、それを北原自身のにおいと読み、とてもおもしろいと感じるのだ。
 「におい」から祖父はその木が北原だと気づく。そして、気づかれてしまった北原は、木になってしまったことを謝りたい。人間でいたいのに、ふと、木になってしまった。想像力が、そんなところへ北原をつれていってしまった。北原はつれてこられてしまった。北原は想像力によって拉致されてしまった。「いま」「ここ」から違う場所にきてしまった。そういうことを謝りたい。
 それに対して、祖父は、

おお ここにいたのか いっしょうけんめいな迷子よ

 と、言う。
 実際に、祖父がそういうかどうかはわからない。それは北原の「願い」なのだ。だれか近しい人に、北原の想像力が北原をとんでもないところへ連れ去ったということを知ってもらいたい、受け入れてもらいたいのだ。北原は迷い込んだ想像力の世界で、近しい人と出会いたいのだ。
 「謝る」というのは「謝罪」ではなく、ともかく声をかけることで接触したいということだと思う。
 これに対して祖父は「いっしょけんめいな迷子よ」と北原が生きていることを認める。北原が想像力でたどりついた世界を否定するのではなく「いっしょうけんめい」の結果だと受け入れ、それをはげましているような感じだ。
 間違っている。木になるなどというのは人間として間違っている。(人間は人間になる、のが正しいのだ。)けれど、その間違っていることを「いっしょうけんめい」ということばで積極的に肯定し、受け入れる。
 その肯定される一瞬を含めた世界まで北原の「木」は獲得する。その瞬間の幸福。
 これが、この獲得が、とても美しい。うらやましい。恋しい。ほかに的確なことばがあるのかもしれないけれど、思いつかない……。
 その幸福があれば、木になってしまったのだから、ほかの木のように切り揃えられても、それはそれで気持ちのよいことなのだ。

紡錘形の実は きんいろに降った
いくつも
いくつも降り散った
檜山の罪のおんなのように 髪はみじかく断たれた

ごめんなさいは 檜山の言葉でなんというのだったろう
りりりりりり たえまなく樹液が流れるのを
てのひらでぬぐってくれた
白い糸杉のような足取りで 祖父はあちらへ行く
ひたいの亀裂がふかく 血潮のあとが透けて見える

いくすじもの光が降り
ゆれている果樹園の脇の小径を

 この詩は、もしかすると「檜山」なのに「檜」にならずに「オリーヴ」になってしまった「わたし」を、「いっしょうけんめいな迷子」と受け止めてくれた祖父との永遠のわかれを思い出している詩かもしれない。
 受け止めてくれるという、やさしい叱り方。その前で「わたし」はだれにも知られないことばで泣いたことがあるのだろう。
 そして、そういう世界は「オリーヴ」と「祖父」とが出会った世界であり、祖父が「あちらへ行く」(彼岸へ行く)と同時に消えてしまう。消えるけれど、「わたし」の記憶にはしっかり残る。そのしっかり残ったものを、さらにしっかり定着させるために北原はことばを動かし、詩にする。

 その運動のすべてを「木」がつないでいる。「木」になることのできる「肉体」がつないでいる。
 遠い幻のようで、胸の奥にある現実のように、とても恋しい。


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