山本純子「秋」、松下育男「ブランコのように」(「交野が原」67、2009年10月01日発行)
山本純子「秋」はことばの動きがとても自然である。「頭」で書くのではなく、「声」で書くひとだけがもっている自然な動きがある。耳で聞いてわかる距離へしかことばが跳ばない。(バッタのことを書いているので、ついつい、「跳ばない」ということに、連想がうごいてしまったようだが……。)
その全編。
「何時の方」というのは一回だけだとわかりにくいが、何度も出てくると時計を利用した方向だとわかる。(アメリカの戦争映画の兵士の指示みたいだね。)あっち、こっち、といわず、東西南北ともいわず、この時計をつかった方向の指示の仕方は、広い広い野原で、方向の基準が、いまいる点であることをはっきり教えてくれる。(これが、最後に、効果的にきいてくる。)
バッタに誘われるままに、あっち、こっちとさまよい、
というバッタに出会う。
この2行は、いいなあ。バッタと遊んでいる。バッタが遊んでくれている。隠れん坊の子どもが「モクトンの術」なんていいながら、「木になっているんだから、見えないはず」と言っているような感じ。「童心」が、こんなふうに自然によみがえってくるのは、ここに書かれていることばが、「頭」ではなく、一度「声」をとおして書かれているからだろう。
そんなバッタにさそわれながら、あっちこっち、どこまでも野原を動いていくが、バッタはつかまらない。いつまでも、つかまらない。
ひとりぼっち。
と、突然、「秋はセンチメンタル」という感じで「ひとりぼっち」の世界へまぎれこむ。「秋は、やっぱりひとりでセンチメンタルに浸らなくっちゃ。」バッタは、遊びながら、そんなことを、遠くから聞こえる「声」で語りかけてくる。
こういうセンチメンタルは好きだなあ。
ほんとうは、センチメンタルではない。でも、秋は、やっぱりセンチメンタルにならなくっちゃ。孤独になって、もの思いにふけらなくっちゃ。なんてことを、ちょっと軽口のように言ってみる。ひとに聞かせてみる。この軽さ。この、おかしさ。
「声」というのは不思議なもので、「頭」のことばと違って、必ず相手がいることろで発せられる。(ひとりごと、という例外はあるけれど。)そして、相手がいるということは「ひとり」ではない、ということ。そういう状況で、あえて、センチメンタルを強調するように「一人」を状態を語る。「秋は私を/一人にしたがるのである」と。
「秋」といっても、実際に、秋が人間に働きかけるなんてことはない。ここでの「秋」とは定型化した、「秋」という概念だね。
その概念を、ちょっとからかっている。それが楽しい。
*
松下育男「ブランコのように」は3行ずつの連が重なってひとつの詩になっている。その連の、3行目に工夫がある。
中途半端に終わるのである。そうすることで、ことばが、「こころ」の中へ帰ってゆく。引き返してゆく。
こういう動きをセンチメンタル、と私は呼んでいる。
山本純子のセンチメンタルには、センチメンタルを笑う余裕があったが、松下のセンチメンタルにはそういう余裕がない。どっぷりと浸ってしまう。どこまでもどこまでも浸りつづけるために、中途半端にことばを終わるのである。
終わりから2連目だけ「慣れません」という断定があるが、これは、最後の「ゆくような」という中途半端を強調するための、わざと書かれた断定である。
「頭のいい」作品である。
「慣れません」の連の前に、「水のちゅうしん/のみほして」と、考えないとイメージできないようなもの書いて、それが「哀しみ」であるかのように書いておいて、「このよにいまだ/慣れません」と断定する。
そしてもう一度「ゆくような」と、「こころ」そのものを放り出してみせる。
「いつから乗っていただろう」ということばの繰り返し、そして七五調のリズム。1行目は必ず「7+5」の12音で書き、そのあと2行目を「7」、3行目を「5」で書く。声に出すと気持ちよさそうだが、「頭」でつくられたリズムなので、私にはなんとも気持ち悪く響いてくる。センチメンタルというのは、「頭」でつくられるものだ、とあらためて思った。
山本純子「秋」はことばの動きがとても自然である。「頭」で書くのではなく、「声」で書くひとだけがもっている自然な動きがある。耳で聞いてわかる距離へしかことばが跳ばない。(バッタのことを書いているので、ついつい、「跳ばない」ということに、連想がうごいてしまったようだが……。)
その全編。
秋へ
足を踏み出すと
二時の方へ
十一時の方へ
五時の方へ
次々に
跳ぶものがいて
急いで
二時の方へ
行ってみると
細い草につかまって
ショリョウバッタが
ツンと横を向いている
今は
草になっているところ
という姿へ向かって
ここへ跳びたかったのかい
と聞くと
キチキチの
どこへ跳んでも草っぱら
と跳んでいくので
それなら
おどかすことを
恐れずに、と
気ままに足を踏み出すと
八時のほうへ
一時のほうへ
次々に
跳ぶものがいて
秋は私を
一人にしたがるのである
「何時の方」というのは一回だけだとわかりにくいが、何度も出てくると時計を利用した方向だとわかる。(アメリカの戦争映画の兵士の指示みたいだね。)あっち、こっち、といわず、東西南北ともいわず、この時計をつかった方向の指示の仕方は、広い広い野原で、方向の基準が、いまいる点であることをはっきり教えてくれる。(これが、最後に、効果的にきいてくる。)
バッタに誘われるままに、あっち、こっちとさまよい、
今は
草になっているところ
というバッタに出会う。
この2行は、いいなあ。バッタと遊んでいる。バッタが遊んでくれている。隠れん坊の子どもが「モクトンの術」なんていいながら、「木になっているんだから、見えないはず」と言っているような感じ。「童心」が、こんなふうに自然によみがえってくるのは、ここに書かれていることばが、「頭」ではなく、一度「声」をとおして書かれているからだろう。
そんなバッタにさそわれながら、あっちこっち、どこまでも野原を動いていくが、バッタはつかまらない。いつまでも、つかまらない。
ひとりぼっち。
と、突然、「秋はセンチメンタル」という感じで「ひとりぼっち」の世界へまぎれこむ。「秋は、やっぱりひとりでセンチメンタルに浸らなくっちゃ。」バッタは、遊びながら、そんなことを、遠くから聞こえる「声」で語りかけてくる。
こういうセンチメンタルは好きだなあ。
ほんとうは、センチメンタルではない。でも、秋は、やっぱりセンチメンタルにならなくっちゃ。孤独になって、もの思いにふけらなくっちゃ。なんてことを、ちょっと軽口のように言ってみる。ひとに聞かせてみる。この軽さ。この、おかしさ。
「声」というのは不思議なもので、「頭」のことばと違って、必ず相手がいることろで発せられる。(ひとりごと、という例外はあるけれど。)そして、相手がいるということは「ひとり」ではない、ということ。そういう状況で、あえて、センチメンタルを強調するように「一人」を状態を語る。「秋は私を/一人にしたがるのである」と。
「秋」といっても、実際に、秋が人間に働きかけるなんてことはない。ここでの「秋」とは定型化した、「秋」という概念だね。
その概念を、ちょっとからかっている。それが楽しい。
*
松下育男「ブランコのように」は3行ずつの連が重なってひとつの詩になっている。その連の、3行目に工夫がある。
いつから乗っていただろう
はてなくこいで
いたような
いつから乗っていただろう
そらのたかさに
きらわれて
いつから乗っていただろう
どこへもいかない
のりものなんて
いつから乗っていただろう
水のちゅうしん
のみほして
いつから乗っていただろう
このよにいまだ
慣れません
いつから乗っていただろう
はてなくこいで
ゆくような
中途半端に終わるのである。そうすることで、ことばが、「こころ」の中へ帰ってゆく。引き返してゆく。
こういう動きをセンチメンタル、と私は呼んでいる。
山本純子のセンチメンタルには、センチメンタルを笑う余裕があったが、松下のセンチメンタルにはそういう余裕がない。どっぷりと浸ってしまう。どこまでもどこまでも浸りつづけるために、中途半端にことばを終わるのである。
終わりから2連目だけ「慣れません」という断定があるが、これは、最後の「ゆくような」という中途半端を強調するための、わざと書かれた断定である。
「頭のいい」作品である。
「慣れません」の連の前に、「水のちゅうしん/のみほして」と、考えないとイメージできないようなもの書いて、それが「哀しみ」であるかのように書いておいて、「このよにいまだ/慣れません」と断定する。
そしてもう一度「ゆくような」と、「こころ」そのものを放り出してみせる。
「いつから乗っていただろう」ということばの繰り返し、そして七五調のリズム。1行目は必ず「7+5」の12音で書き、そのあと2行目を「7」、3行目を「5」で書く。声に出すと気持ちよさそうだが、「頭」でつくられたリズムなので、私にはなんとも気持ち悪く響いてくる。センチメンタルというのは、「頭」でつくられるものだ、とあらためて思った。
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