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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

倉橋健一「化身」、橋本和子「季節」

2011-05-20 09:34:35 | 詩(雑誌・同人誌)
倉橋健一「化身」、橋本和子「季節」(「イリプスⅡnd」07、2011年05月25日発行)

 倉橋健一「化身」は、一か所非常に気になるところがあった。

よくあることだが、冬場、とくに空気の乾いた明け方には、私はきまって一頭の草食動物に化身する。グルゴール・ザムザの経験した、ある朝目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫になっているのを発見したのと同じ経験だ。ただ私のばあいは、毒虫ならヌ中央アジア産のアルガリヒツジになっている。飼い慣らされて家畜になり、モーゼの十戒によって燔祭りの生贄になることを運命づけられた若いヒツジだ。そのまま私は寝床のなかで背中を丸め四肢を曲げて、ひたすら屠られる瞬間を待っている。食欲旺盛な神の胃袋を満たすための。そのあとはどうなるのか。いつのまにか夢とよばれる荒野をさまよっている。そのまま夢に助けられて私はいまこして体験を素(もと)にみじかい詩を書いているのだが、といってアルガリヒツジの孤独な吐息を忘れているわけではない。私は半身はヒツジ。屠られる寸前を生きている。

 「そのあとはどうなるのか。」ここがいいなあ。ここが美しいなあ。美しい--ということばでいいのかどうかわからないが、そこで私は立ち止まったのである。ほう、とことばをみとれてしまった。
 そうだねえ、生贄のヒツジは神に食べられたあと、どうなるのだろう。--そんなことは、考えたことはなかった。生贄のヒツジの行く末は、まあ、人間は考えない。生贄を捧げることによって、自分たちの暮らしがかわること(よくなること)を考えるけれど、食べられたヒツジのことは考えないなあ。
 そういう「考えないこと」を人間は考えることができる。そして、そのことをことばにすることができる。ことばにすることができるから考えることができるか、それとも考えることができるからことばにするのことができるのか--と、わけのわからないことを、私は即座に考えてしまったが……。
 あ、いや、これは正確ではないなあ。
 私が考えたのではなく、高橋のことばに「感染」して、そういう世界に誘い込まれたのである。

そのあとはどうなるのか。いつのまにか夢とよばれる荒野をさまよっている。

 変でしょ?
 「明け方には、私はきまって一頭の草食動物に化身する。」というのは、「現実」というよりは「夢」のなかのできごとだね。ほら、「私は寝床のなかで背中を丸め四肢を曲げて、ひたすら屠られる瞬間を待っている。」と「寝床」が出てくるでしょ?
 夢のなかで「そのあとはどうなるのか」と考えて、「夢とよばれる荒野」に目覚める。あれっ、何がどうなっている? いつのまに入れ代わっている?
 よくわからないのだけれど、そのよくわからない「入れ代わり」のターニングポイント(?)に「そのあとはどうなるのか」という「考え」が働いているところがおもしろいのだ。
 倉橋の文体は、何かを「感じる」ときに動くのではなく「考える」ときにうごきはじめるのだ--ということを、この「そのあとはどうなるのか」ということばが証明している。
 アルガリヒツジに化身すること、生贄になり神に食べられること、ヒツジが孤独な吐息を吐いていること--そういうことは、すべて「思考」というか、「考え」ではなく、むしろ「考え」(理性)から離れた「まぼろし」のようなものである。「理性」の外にあるものである。それが、しかし、くっきりと見えるのは「そのあとはどうなるのか」というしっかりとした(?)考え、理性の動きが働いたときなのである。
 理性、あるいは「論理」の存在が、倉橋の「幻想」を映し出す「鏡」になっているのだ。その「鏡」の一瞬の、透徹した輝き、美しい光に、私は、ほーっと息をもらしてしまったのである。 



 橋本和子「季節」に書かれているのは何だろう。なんとなく、入院している「母」、しかもいろいろなチューブで生命を維持している状態の母のことを思い出しているように読むことができるのだが……。
 2連目が、ともかくおもしろい。

こんな季節の変わり目は  どちらにしても地面が厚焼き玉子に似
ていて  食べるのが楽しみなのをきみにばれないよう  心を配
るから  中心がない
のかわくわくするのかぞわぞわするのかわんわんするのか
そういうのがくるくる回りながら
かけてく
あわてるでもなく  のんびりでもなく
そういえば
壊れたあたしを吊るす  というかくくる でもなくぐるぐるまき
にして箱に
放り込む  その箱持ってタクシーで  深夜についたら
くだというくだにまとわれて

 「地面」が「厚焼き玉子」という「比喩」のなかに入ってしまうのが、とても変。それを「食べる」というのがどういうことかわからないが、なぜか、厚焼き玉子になった地面・地面になった厚焼き玉子--その何かわからないものを食べてみたい気持ちになるのだ。この変な気持ちは「地面/厚焼き玉子」という「比喩」、「比喩」なのかのかけ離れた存在の一体化が、とても衝撃的で、私には消化しきれないところから生まれてくる。
 わけがわからなくて、そのわけのわからない「存在感」に圧倒されてしまうのだ。
 こういう「存在感」が確立されてしまうと、もう、ことばは自由だねえ。

のかわくわくするのかぞわぞわするのかわんわんするのか

 この区切りのなさがいいなあ。
 「地面/厚焼き玉子」を区別できないように(そんなふうに、まったくかけ離れたものさえ「比喩」になってしまうと区別がつかなくなるように)、何か区別のつかないことが起きて、くっついたまま動いていくのだ。
 あ、そうだなあ、と思う。
 私はもう両親が死んで、二人ともいないのだけれど、その両親が死ぬときの、その瞬間というのは、何か「現実的」ではない。何かが「くっついている」。自分が考えたいこと、感じたいこととは別の何かが勝手にやってくる。そして、考えなければならないこと、感じなければならないことを、攪拌してしまう。何か、急に忙しくなる。
 そういう感じが橋本のことばのなかに存在していて、おもしろい。あ、こういうことは「おもしろい」と呼んではいけないことなのかもしれないけれど、その不思議な「区別のつかないもの」に引っ張られてしまう。

 で。
 
 というのは、私の、何の根拠もない「飛躍」(誤読)なのだが、この橋本の不思議なことばは、もしかすると倉橋の書いた「あとはどうなるのか」という妙に冷徹な論理の力とどこかで通い合っている感じがするのだ。
 同じ「イリプスⅡnd」07に掲載されていることが、そういう印象を引き起こすのかもしれないが--そうだとすれば、おもしろいなあ。「同人誌」を出すおもしろさは、そういうことろにあるかもしれない。ほんとうは別々のものなのに、ひとつの雑誌に掲載された瞬間、何かが通い合う。通い合うように、ことばが自律して動いて行ってしまう。作者の手を離れ、ことば自体の力で互いを呼びあうように動いてしまう。

 そういうことが、ある、と思う。





詩が円熟するとき―詩的60年代環流
倉橋 健一
思潮社

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