谷川俊太郎『詩に就いて』(21)(思潮社、2015年04月30日発行)

この詩には「詩」ということばが一回だけ出てくる。この「詩」も「内容/意味」が説明されない。谷川が「詩」と思うもの、くらいの意味である。読者が、各自かってに「詩」と思い込んでいるものを、その「詩」に重ねて読むしかない。
一方、「言葉」は何度も出てくる。繰り返されている。しかし、その「言葉」はみんな同じ「言葉」だろうか。
たとえば二連目、
この「言葉」は「同じ」ものか。「ペニスのように/硬くなり尖り」と「涎のように口元に垂れ」は私には「同じ」には思えない。ペニスと口元では「肉体」の部分として離れすぎている。ペニスも涎のようなものを垂らしはするが、それはあくまで「垂らす」であり、「垂れる」ではない。似ているが、「動詞」の動いていく「方向」が違う。
けれど、ペニスも涎も口も組み合わさって「一つ」の肉体を感じさせる。「一つの肉体」がペニスも涎も口ももっている。「肉体」でつながっている「別の器官」としての「言葉」。
「言葉」を「私」と置き換えてみる。さらに「私の肉体」と言いなおしてみる。そうすると、その三つがまじりあって、つながって見えてくる。私のペニスは硬くなり、私は涎を垂らす。それは別々の「私の肉体」だけれど、すべて「私の(一つの)肉体」。「言葉」は「私の肉体」なのだ。
その、つながって、まじりあって、全体としての言葉(の肉体)/肉体(としての言葉)が「眠る私を置き去りにする」。「私の肉体」が私を置き去りにする。--こういう感じなら、私(の肉体)は覚えているなあ。「私の肉体」を「私の本能/欲望」を言いなおすと、それがもっとはっきりする。「私の本能/欲望」は「私(の精神/理性)」を置き去りにして、夢のなかで淫乱に動いている。ペニスは勃起し、涎も垂らしている。そのペニスは「肉体」であり、「私」であり、「言葉」だ。そして「本能」であり「欲望」でもある。
谷川の「言葉」という表現は「ひとつ」だが、「主語」としては微妙に違っていて、その微妙な違いによって「動詞」も違ってくる。違ってくるけれど、その違いがあるから「全体」として「一つ」になる。
最初から読み直して「言葉」について考えてみる。
最初の「私が眠っているとき」とは「私に意識がないとき」ということか。「意識がない」といっても完全な無意識ではない。意識が何かを積極的に制御することがない、というくらいの意味になるだろう。そして何を制御できないかといえば、「言葉(無意識の肉体/欲望/本能)」を制御できないのである。
「私(精神/意識)」が眠っていて(機能していなくて)「言葉(肉体/本能/欲望)」を制御できないとき、「言葉」はうずくまっている。おとなしく、精神にあわせて眠ったふりをしているが、その「ふり」に隠れて動いている。人間が眠っているとき、その「外形」は動かないが「肉体」の内部では心臓が動いている。神経も動いている。同じように「言葉の肉体」も動いている。
どんなふうに?
このことばの展開はとてもおもしろい。
「私の言葉(無意識の肉体/欲望/本能)は私のからだのどこかにうずくまっている。ただし、じっとしているのではなく、私の言葉は他人の言葉とつるみ始めている。」こんなふうに、文法上は(意味上は)、「私の言葉は他人の言葉とつるみ始めている」ということになるのだろうけれど、私は「言葉」を「無意識の肉体/本能/欲望」と感じはじめているので、「私のからだ(のどこか)が他人の言葉とつるみ始めている」というように感じてしまう。さらに言いなおすと「私のからだ(本能/欲望)が他人のからだ(本能/欲望)とつるみ始めている」というように読んでしまう。
このとき「他の人々の言葉」はどこにあるのだろう。「他の人々のからだ」のなかにあると考えるのがふつうだが、そうだとすると「他の人々のからだのなかにあ言葉」と「私のからだのなかにうずくまっている言葉」が「つるむ」というのは、少し無理がある? できない?
「論理的」にはできないのだろうけれど……。
私は、ふと、こんなことを思う。誰かが道に倒れて腹を抱えてうめいている。何も話せない。見た瞬間、あ、このひとは腹が痛いのだと思う。感じる。他人の肉体の痛みなどわかるはずがないのに、「わかる」。ことばをつかわず、「肉体」がかってに「肉体」と「肉体のことば」を交わしてしまうのだ。自分の肉体のなかにある「痛み」が他人の肉体の動きに誘われて甦ってきて「痛い」というのだ。その声を聞いてしまうのだ。そのとき、その声は自分の声であると同時に他人の声だ。
そういうことが「現実」におきるならば、「夢の中で」、自分が覚えている「他人の言葉(肉体)」と「自分の言葉(肉体/本能)」が交流する(つるむ)としても別に不自然なことではない。
一連目の最終行は、そう言っているように見える。
そう「見える」けれど、谷川は「私に見えない夢の中で」と書いている。
困ってしまう。「見えない」なら、なぜ、わかる?
こんなふうにことばを動かしながら、私はさらに困ってしまう。
「路上で倒れて腹を抱えてうめいている人を見た」ときの例と重なるかもしれないが……。
「見えない(見ていない)」のに「わかる」ということは、日常ではたくさんある。子どもが隠れてオヤツを食べる。見ていない。けれど、「わかる」。あの人とこの人はセックスをしている。肉体関係がある。「見えない/見ていない(聞いていない)」のに、「わかる」。浮気している。「見えない/見ていない」のに「わかる」。
それは「意識」が判断するのではなく、むしろ「肉体(からだ/無意識/本能/直観)」が感じ取るのだ。「感じる」を「わかる」と言い換えることがある。特に「からだ」が関係することには「からだ(肉体)」が反応してしまう。
そういう「肉体」そのものとして、谷川は「言葉」を掴み取っている。「言葉は肉体」なのだ。「言葉の肉体」が、「私が眠っているとき(私が意識で制御できないとき)」にかってに動き回っている。つるみ始めている。快感のために? あるいは、あたらしいことばを生むために?
どう説明すればいいのかわからないが、「からだ(肉体)」と「言葉」がセックスしている、「谷川の言葉」は「肉体」になってしまって、「他人の言葉」とセックスをする。谷川は「言葉は肉体である」と感じている--そう思ってしまう。
これは「誤読」なのか、それとも私がいつも感じていることを谷川の詩を利用して、言いなおしているだけなのか。
見極めるのが、とてもむずかしい。
もう少し余分なことを書いてみる。
二連目の、「詩」ということばが出てくる直前の、「言葉はもう眠る私を置き去りにして」。この「置き去りにして」を「離れて」と読み直すと、「もののあわれから遠く離れて」(「いない」)、「詩は体を離れ星々に紛れてゆく」(「詩の妖精1」)と重なり、その「離れた」先に詩があるということとも重なる。
「言葉の肉体(からだ)」と「言葉の肉体」がセックスをして、人間がセックスをしたとき、その最高潮で「エクスタシー(私から脱出してしまう)」ように、言葉も言葉の肉体とセックスをしたとき、それぞれの言葉の肉体を離れて(同時に谷川の肉体からも離れて)、どこかへ行ってしまう、ということか。
でも、「星々に紛れる」のではなく、この作品では「愚かな人波に揉まれている」。
「詩の妖精」と「人間の肉体(からだ)」の違いが、ここに書かれているのか。
そうだとして、最後の「愚かな」は、どういうことだろう。「意味」はどう読めばいいのだろう。

私を置き去りにする言葉
私が眠っているとき
言葉はうずくまっている
私のからだのどこかに
そして他の人々の言葉と
つるみ始めている
私に見えない夢の中で
言葉はペニスのように
硬くなり尖り
言葉は涎のように口元に垂れ
言葉はもう眠る私を置き去りにして
詩になろうと●きながら
愚かな人波に揉まれている
(谷内注=●は「足」偏に「宛」。もがく)
この詩には「詩」ということばが一回だけ出てくる。この「詩」も「内容/意味」が説明されない。谷川が「詩」と思うもの、くらいの意味である。読者が、各自かってに「詩」と思い込んでいるものを、その「詩」に重ねて読むしかない。
一方、「言葉」は何度も出てくる。繰り返されている。しかし、その「言葉」はみんな同じ「言葉」だろうか。
たとえば二連目、
言葉はペニスのように
硬くなり尖り
言葉は涎のように口元に垂れ
言葉はもう眠る私を置き去りにして
この「言葉」は「同じ」ものか。「ペニスのように/硬くなり尖り」と「涎のように口元に垂れ」は私には「同じ」には思えない。ペニスと口元では「肉体」の部分として離れすぎている。ペニスも涎のようなものを垂らしはするが、それはあくまで「垂らす」であり、「垂れる」ではない。似ているが、「動詞」の動いていく「方向」が違う。
けれど、ペニスも涎も口も組み合わさって「一つ」の肉体を感じさせる。「一つの肉体」がペニスも涎も口ももっている。「肉体」でつながっている「別の器官」としての「言葉」。
「言葉」を「私」と置き換えてみる。さらに「私の肉体」と言いなおしてみる。そうすると、その三つがまじりあって、つながって見えてくる。私のペニスは硬くなり、私は涎を垂らす。それは別々の「私の肉体」だけれど、すべて「私の(一つの)肉体」。「言葉」は「私の肉体」なのだ。
その、つながって、まじりあって、全体としての言葉(の肉体)/肉体(としての言葉)が「眠る私を置き去りにする」。「私の肉体」が私を置き去りにする。--こういう感じなら、私(の肉体)は覚えているなあ。「私の肉体」を「私の本能/欲望」を言いなおすと、それがもっとはっきりする。「私の本能/欲望」は「私(の精神/理性)」を置き去りにして、夢のなかで淫乱に動いている。ペニスは勃起し、涎も垂らしている。そのペニスは「肉体」であり、「私」であり、「言葉」だ。そして「本能」であり「欲望」でもある。
谷川の「言葉」という表現は「ひとつ」だが、「主語」としては微妙に違っていて、その微妙な違いによって「動詞」も違ってくる。違ってくるけれど、その違いがあるから「全体」として「一つ」になる。
最初から読み直して「言葉」について考えてみる。
最初の「私が眠っているとき」とは「私に意識がないとき」ということか。「意識がない」といっても完全な無意識ではない。意識が何かを積極的に制御することがない、というくらいの意味になるだろう。そして何を制御できないかといえば、「言葉(無意識の肉体/欲望/本能)」を制御できないのである。
「私(精神/意識)」が眠っていて(機能していなくて)「言葉(肉体/本能/欲望)」を制御できないとき、「言葉」はうずくまっている。おとなしく、精神にあわせて眠ったふりをしているが、その「ふり」に隠れて動いている。人間が眠っているとき、その「外形」は動かないが「肉体」の内部では心臓が動いている。神経も動いている。同じように「言葉の肉体」も動いている。
どんなふうに?
言葉はうずくまっている
私のからだのどこかに
そして他の人々の言葉と
つるみ始めている
このことばの展開はとてもおもしろい。
「私の言葉(無意識の肉体/欲望/本能)は私のからだのどこかにうずくまっている。ただし、じっとしているのではなく、私の言葉は他人の言葉とつるみ始めている。」こんなふうに、文法上は(意味上は)、「私の言葉は他人の言葉とつるみ始めている」ということになるのだろうけれど、私は「言葉」を「無意識の肉体/本能/欲望」と感じはじめているので、「私のからだ(のどこか)が他人の言葉とつるみ始めている」というように感じてしまう。さらに言いなおすと「私のからだ(本能/欲望)が他人のからだ(本能/欲望)とつるみ始めている」というように読んでしまう。
このとき「他の人々の言葉」はどこにあるのだろう。「他の人々のからだ」のなかにあると考えるのがふつうだが、そうだとすると「他の人々のからだのなかにあ言葉」と「私のからだのなかにうずくまっている言葉」が「つるむ」というのは、少し無理がある? できない?
「論理的」にはできないのだろうけれど……。
私は、ふと、こんなことを思う。誰かが道に倒れて腹を抱えてうめいている。何も話せない。見た瞬間、あ、このひとは腹が痛いのだと思う。感じる。他人の肉体の痛みなどわかるはずがないのに、「わかる」。ことばをつかわず、「肉体」がかってに「肉体」と「肉体のことば」を交わしてしまうのだ。自分の肉体のなかにある「痛み」が他人の肉体の動きに誘われて甦ってきて「痛い」というのだ。その声を聞いてしまうのだ。そのとき、その声は自分の声であると同時に他人の声だ。
そういうことが「現実」におきるならば、「夢の中で」、自分が覚えている「他人の言葉(肉体)」と「自分の言葉(肉体/本能)」が交流する(つるむ)としても別に不自然なことではない。
一連目の最終行は、そう言っているように見える。
そう「見える」けれど、谷川は「私に見えない夢の中で」と書いている。
困ってしまう。「見えない」なら、なぜ、わかる?
こんなふうにことばを動かしながら、私はさらに困ってしまう。
「路上で倒れて腹を抱えてうめいている人を見た」ときの例と重なるかもしれないが……。
「見えない(見ていない)」のに「わかる」ということは、日常ではたくさんある。子どもが隠れてオヤツを食べる。見ていない。けれど、「わかる」。あの人とこの人はセックスをしている。肉体関係がある。「見えない/見ていない(聞いていない)」のに、「わかる」。浮気している。「見えない/見ていない」のに「わかる」。
それは「意識」が判断するのではなく、むしろ「肉体(からだ/無意識/本能/直観)」が感じ取るのだ。「感じる」を「わかる」と言い換えることがある。特に「からだ」が関係することには「からだ(肉体)」が反応してしまう。
そういう「肉体」そのものとして、谷川は「言葉」を掴み取っている。「言葉は肉体」なのだ。「言葉の肉体」が、「私が眠っているとき(私が意識で制御できないとき)」にかってに動き回っている。つるみ始めている。快感のために? あるいは、あたらしいことばを生むために?
どう説明すればいいのかわからないが、「からだ(肉体)」と「言葉」がセックスしている、「谷川の言葉」は「肉体」になってしまって、「他人の言葉」とセックスをする。谷川は「言葉は肉体である」と感じている--そう思ってしまう。
これは「誤読」なのか、それとも私がいつも感じていることを谷川の詩を利用して、言いなおしているだけなのか。
見極めるのが、とてもむずかしい。
もう少し余分なことを書いてみる。
二連目の、「詩」ということばが出てくる直前の、「言葉はもう眠る私を置き去りにして」。この「置き去りにして」を「離れて」と読み直すと、「もののあわれから遠く離れて」(「いない」)、「詩は体を離れ星々に紛れてゆく」(「詩の妖精1」)と重なり、その「離れた」先に詩があるということとも重なる。
「言葉の肉体(からだ)」と「言葉の肉体」がセックスをして、人間がセックスをしたとき、その最高潮で「エクスタシー(私から脱出してしまう)」ように、言葉も言葉の肉体とセックスをしたとき、それぞれの言葉の肉体を離れて(同時に谷川の肉体からも離れて)、どこかへ行ってしまう、ということか。
でも、「星々に紛れる」のではなく、この作品では「愚かな人波に揉まれている」。
「詩の妖精」と「人間の肉体(からだ)」の違いが、ここに書かれているのか。
そうだとして、最後の「愚かな」は、どういうことだろう。「意味」はどう読めばいいのだろう。
![]() | 詩に就いて |
谷川 俊太郎 | |
思潮社 |