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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和辻哲郎『自叙伝の試み』

2019-01-03 17:00:27 | その他(音楽、小説etc)
和辻哲郎『自叙伝の試み』(和辻哲郎全集第18巻)(岩波書店、1990年10月08日、第3刷発行)

 私は和辻哲郎の文章が好きだ。なぜ好きなんだろう、といろいろ考えていたが、「一校生活の思い出」の文章にであったとき、理由がわかった気がした。
 和辻はドイツ語の授業、試験の採点について書いている。和辻は55点だった。和辻自身は一か所しか間違いに気づいていなかった。その点数に驚いた。

Ergänzungという言葉が補遺とか補足とか訳されているのを忘れていて、完全にすること、全体的なものに仕上げることというような語義の上から、自分勝手な訳をつけたのであった。それ以外にはどこをどう間違えたか自分ではわからないので、いろいろ友人たちに聞いてみると、岩元先生は自分のつけた訳語と違った訳語をつかえば、一箇所ごとに五点ずつ引くのだそうだという話であった。

 「語義の上から、自分勝手な訳をつけた」という部分に、私は共感した。「勝手な訳」と書いているが、これは和辻流の訳、和辻が理解していることばでの訳ということだろう。つまり、和辻は、それが何語であれ、自分流に理解するということをこころがけているということを意味すると思う。
 流通している訳語(教えられた訳語)をつかえば、「訳文」の意味はとおりやすい。しかし、それは自分の理解した通りかどうかわからない。岩元先生は「補遺」「補足」と言ったのかもしれないが、和辻は「補遺」「補足」とは聞かなかった。和辻は「完全にすること」「全体的なものに仕上げること」と聞いた。そして、その「聞いた」ことを答えに反映させた。
 私はこの「先生が言ったこと」ではなく、「和辻が聞いたこと」を語る(解答する)という姿勢が好きなのだ。

 和辻の文章は、和辻の知っていることを積み上げていく形で動く。この自叙伝では、村の地理や家系のことから書き始められている。私は和辻の生まれ育った場所については何も知らない。家系にもまったく関心がない。だから、最初の部分は何が書いてあるのか、さっぱりわからない。かなり退屈だ。和辻がそういうことを一生懸命書いているということしかわからない。
 他の部分も、わからないことが書いてあるのだけれど。
 読み終わると、そのわからないもの、知らないものが、「美しい形」になって目の前にあらわれてくる。
 この感じは、私が昔見た、田んぼづくりの風景に似ている。五十年ほど前のことである。家の前に段違いの田んぼが二枚あった。段違いである。これを近所の人が、ひとりで一枚に造り直している。耕運機で高いところの田んぼを掘り返して崩していく。平らになるまで何度も何度も掘り返す。だんだん平らにしていく。たいへんな苦労だ。うーん、こんなめんどうなことをよくやるなあ。そのうち田んぼができて、水を張って、苗を植える。そのときはまだなんとも思っていなかったが、秋になって稲が実る。その黄金の色が美しい。ああ、こんな美しい田んぼになったのか、と驚く。
 あの驚きとそっくりなのだ。
 和辻の文章というのは、和辻の知っていることだけを積み重ねていく。もちろん他の人の書いたものも知識として吸収し、踏まえているが、借りている感じがない。自分のものにして、その自分のものにしたものだけをつかっていく。他人の説を利用して自分の説を補強するのとは違った味がある。
 これがとてもいい。

 こんなことを書くと和辻から叱られるかもしれないが(もう死んでいないから直接叱られるということはないのだが)、その書き方は「普遍的な正しさ(真理)」を求めているという感じがしない。和辻の「肉体」のなかで生まれてくる一回限りの正しさ真剣に探しているという感じがする。
 この一回限りの正しさというのが、私の求めているものだから、そう感じるのかもしれない。

 私はいつも、そう思って書いている。私の書いたことが、他の人に共有される「正しさ」を含んでいるかどうかは、私にはどうでもいい。私にとって大切なのは、考えること、ことばを動かすことである。それが「真理」かどうか、気にしない。「誤読」と批判されても、それでいい。
 思ったことを少しずつ書いていく。すると、何かが、我慢しきれなくなったように、ぱっと動いて、あふれてくる。それは、書き始めたとき考えていたこととはたいてい違っている。でも、その瞬間が、とても楽しい。そして、そのあふれてきたものを書いてしまうと、ことばが動かなくなる。そこでおしまいにする。
 つづきは、ある日突然、まったく違うところで動き始めるかもしれない。このままおわるかもしれない。それでいいと思っている。

 上野で初めて見た染井吉野と山桜の比較のことや、いろいろこころを動かされる文章が多いのだが、次の部分を最後に引いておく。和辻の村では、蚕を飼い、生糸をつくり、機を織り、和服をつくっていた。自分たちが着るためである。

母たちは、好きな色に染めて、機にかけて、手織りで織ったのである。織物としての感じは非常におもしろいものであったように思う。今ああいうものを作れば、たぶん非常に高価につくであろう。しかし母たちの時代の人にとっては、自分たちの労力を勘定にいれないので、呉服屋で買うよりもずっと安かったわけである。

 「自分たちの労力を勘定にいれない」ということばが「肉体」に響く。胸が熱くなり、涙がこぼれる。






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池澤夏樹のカヴァフィス(15)

2019-01-03 09:37:32 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
15 声

そしてその声と共に一瞬、我々の
人生の最初の詩の声がよみがえる--
すぐに消える夜の遠い音楽のように。

 この最終連について、池澤は書く。

失われた人々の声は言葉としての意味が揮発してしまい、ただ音楽性だけがかすかに残っている。

 「声」はんと「言葉」はたしかに似ている。共通項をもっている。しかし、「失われた人々の声は言葉としての意味が揮発してしまい」というのは、どうだろうか。カヴァフィスは「意味」という認識で「声」ということばをつかっているのか。
 「我々の/人生の最初の詩の声」というとき、そこには確かに死者の声が含まれるのだが、同時に「私の(カヴァフィスの)」声も含まれるのではないのか。
 「最初の詩の声」は「ことば」以前のものではないだろうか。

 ある人が何を言ったか思い出せない。しかし、声は思い出せる。声を聞けば、それが誰であるかわかる、ということはないだろうか。
 ひとはことばの「意味」を聞き取ると同時に、「声」そのものを聞き取る。そして「声」の方が記憶として強く残る。
 この不思議さ。
 
 私は、こんなことも思う。
 昔、詩を書いた。その「ことば(意味)」は思い出せないが、書いた瞬間をおぼえている。「声」をおぼえているが「意味」をおぼえているわけではないので、そのときの「ことば」は再現できない。
 そういうことはないだろうか。

人生の最初の詩の声がよみがえる--

 こう書くとき、この「詩」はだれかの書いた詩ではなく、つまり「失われた人々」の詩ではなく、カヴァフィスの詩だと思う。「意味」てではなく、「意味」になる前の「声」だと思う。カヴァフィス自身の詩なのに「我々の」と書くのは、「未生の意味」は誰のものでもなく、詩人すべての声だからだろう。









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