浦歌無子「頭のなかではねる単音」、橋本シオン「デストロイしている」(「ココア共和国」19、2016年06月01日発行)
浦歌無子「頭のなかではねる単音」は
と始まる。
あ、「頭のなかではねる単音」というけれど、音がぜんぜん「はねない」。おもしろくないなあ、と思っていたら、左目が左のページをぐいっとつかみとる。
あ、ここはおもしろい。楽しい。「ハムレットの像」は「ハムレット」の方がもっと「音」になるかなあ。
「バッタ」「バター」「ハムトースト」「ハムレット」「アルファベット」というのは、書き出しの尻取りの繰り返しのようでもあるけれど、そしてそれを「グラデーション」と呼ぶのもおもしろいと思うけれど。
いや、ここに「グラデーション」という「意味」をひきずってはいけないなあ、と思う。「グラデーション」なんて、最初から「予定調和」。誰がやっても、「意味」っぽくなる。連続する変化というのは「ゲシュタルト」だからというか、「ゲシュタルト」というのは「変化の連続」をベクトル化したものだから--と、私はテキトウな嘘をつきたくなってしまう。
つまり、そんなことを考えるとおもしろくなくなる。
で、「ハムレットの像」に戻るのだけれど「像」がない方がいいのは、「ハムレット」だけの方が「固有名詞」だからだ。「ハムレットの像」にしてしまうと、そこに像をつくったひと、像の材質(ブロンズか、コンクリート化、大理石か)というようなものが、それこそ「グラデーション/連続する変化/接続する変化」として絡みついてきてしまう。「ハムレット」だけの方が、読者それぞれが知っているハムレットのまま孤立し、グラデーションを断ち切る。「単音」になりきれる。
そう思いながら、この詩って、全体はどうなっているのだろうと、読み直してみる。
途中に、
という二行が出てくる。「そとがわ」と「うちがわ」は「連続/接続」している。それを「もっと」ということばを差し挟むことで、その「連続/接続」を断ち切ろうとしているのだが、逆に動いてしまわないか。「そとがわ/うちがわ」の「連続/接続」をぐいぐい内部にひっぱりこんで、「うちがわのうちがわ」まで「そとがわ」と「連続/接続」させてしまうことになっていないか。
「……だから」「……だから」「……して」「……して」という繰り返しも「連続/接続」をひきずっている。あえて、そういう「ひきずる」感じを強調することで「単音」を瞬間的に強調したいのかもしれないけれど。
でも、それは効果的なのかなあ。
浦の詩では「骨」の詩がとても印象的で、私はまだそこからぬけ出せないのだが、あの「骨」の詩では、骨それぞれの「固有名詞」が「単音」としてはじけていた。一方で繰り返しあらわれる「骨」そのものが、そこに「連続/接続」が具体的に書かれていないにもかかわらず、「肉体」に「連続/接続」してくる感じがした。「孤立」と「連続/接続」が、読んでいて、私の「肉体」のなかでぶつかりあう楽しさがあった。
ああいう作品をもっと読みたいなあ、とどうしても思ってしまう。
*
橋本シオン「デストロイしている」は小詩集。「ヨシエ」が登場する作品が、私は好きである。その「ヨシエ」の書き出し。
「ヨシエは蒲団の中で芋虫のように這いずりまわっていたのに」と書かずに格助詞「は」を省略し、読点「、」にしたところに、橋本の「肉体/思想」があると言えばおおげさだろうか。
「ヨシエ、蒲団の中で芋虫のように這いずりまわっていたのに」と書くとき、「ヨシエ」は登場人物(主役)ではなく、「主題(テーマ)」なのだ。「ヨシエという人間がいる。彼女は……」を短縮していうと「ヨシエ、蒲団の中で……」になるのだ。
だから二連目、
この書き出しは、実は「ヨシエ、彼女はだいきらいだ都庁が、あの姿形が、そそり立つ男性器みたいで。」である。
「主語」ではなく「主題」。どう違うのか。
うーん。「意識」のありかたが違うとしか言えないのだが……。
「ヨシエ」の行動がいろいろ描かれるが、橋本は「行為」そのものに溺れない。「行為」を書くのは「ヨシエ」という人間、彼女が考えていることを浮き彫りにするため、という意識が強く働いていると思う。
ここに書かれている「行為」を「私/橋本」もするけれど、だからといって、ここに「私/橋本」が書かれているのではなく、そのことばのなかで動いているのは「ヨシエ」であるという、「切断」が強調されている。
ちょっと外国語っぽい。フランス語やスペイン語で、こういう言い回しがあると思う。主役を最初に言って、それを代名詞で受けて文章がつづいていくというのが。「ヨシエは……」ではなく、「ヨシエ、彼女は……」という「構文」があるように思う。日本語で書かれているのに、「翻訳」みたいな、乾いた感じがするのは、そのせいかな?
「ヨシエ」が登場する二つ目の作品は「ヨシエと性行為について」であり、
と書き出される。それから性行為と、その感想が書かれるのだが、「肉体」を感じさせるというよりも、「距離」というか、「肉体」を見つめる「精神」の方が浮かび上がる。「肉体」を「精神」でみつめなおす「二元論」。とても「乾いている」。
「座標」ということば。「具体的な行為」を抽象化する「定義」。「実存/定義」の「二元論」というのだろうか。これも「我思う、ゆえに我あり」から始まる、フランスの「二元論」だなあ、というようなことを考えた。「ヨシエは思った。」の「思う」という「動詞」がとても印象に残る。
浦歌無子「頭のなかではねる単音」は
青から薄藍薄藍から紺碧紺碧から群青群青から瑠璃
瑠璃から藍藍から紺青紺青から漆黒って
グラデーション変わってく
と始まる。
あ、「頭のなかではねる単音」というけれど、音がぜんぜん「はねない」。おもしろくないなあ、と思っていたら、左目が左のページをぐいっとつかみとる。
バッタが見せる夢はすこし変わっていて
中央に大きな池のあるレストランで
わたしはバターのたっぷりぬられたハムトーストを食べていて
池にはハムレットの像が沈んでいて
頭のなかではアルファベットが脳みそにあたってはねて
あ、ここはおもしろい。楽しい。「ハムレットの像」は「ハムレット」の方がもっと「音」になるかなあ。
「バッタ」「バター」「ハムトースト」「ハムレット」「アルファベット」というのは、書き出しの尻取りの繰り返しのようでもあるけれど、そしてそれを「グラデーション」と呼ぶのもおもしろいと思うけれど。
いや、ここに「グラデーション」という「意味」をひきずってはいけないなあ、と思う。「グラデーション」なんて、最初から「予定調和」。誰がやっても、「意味」っぽくなる。連続する変化というのは「ゲシュタルト」だからというか、「ゲシュタルト」というのは「変化の連続」をベクトル化したものだから--と、私はテキトウな嘘をつきたくなってしまう。
つまり、そんなことを考えるとおもしろくなくなる。
で、「ハムレットの像」に戻るのだけれど「像」がない方がいいのは、「ハムレット」だけの方が「固有名詞」だからだ。「ハムレットの像」にしてしまうと、そこに像をつくったひと、像の材質(ブロンズか、コンクリート化、大理石か)というようなものが、それこそ「グラデーション/連続する変化/接続する変化」として絡みついてきてしまう。「ハムレット」だけの方が、読者それぞれが知っているハムレットのまま孤立し、グラデーションを断ち切る。「単音」になりきれる。
そう思いながら、この詩って、全体はどうなっているのだろうと、読み直してみる。
途中に、
そとがわでは雨の音
もっとうちがわから聞こえるのは
という二行が出てくる。「そとがわ」と「うちがわ」は「連続/接続」している。それを「もっと」ということばを差し挟むことで、その「連続/接続」を断ち切ろうとしているのだが、逆に動いてしまわないか。「そとがわ/うちがわ」の「連続/接続」をぐいぐい内部にひっぱりこんで、「うちがわのうちがわ」まで「そとがわ」と「連続/接続」させてしまうことになっていないか。
「……だから」「……だから」「……して」「……して」という繰り返しも「連続/接続」をひきずっている。あえて、そういう「ひきずる」感じを強調することで「単音」を瞬間的に強調したいのかもしれないけれど。
でも、それは効果的なのかなあ。
浦の詩では「骨」の詩がとても印象的で、私はまだそこからぬけ出せないのだが、あの「骨」の詩では、骨それぞれの「固有名詞」が「単音」としてはじけていた。一方で繰り返しあらわれる「骨」そのものが、そこに「連続/接続」が具体的に書かれていないにもかかわらず、「肉体」に「連続/接続」してくる感じがした。「孤立」と「連続/接続」が、読んでいて、私の「肉体」のなかでぶつかりあう楽しさがあった。
ああいう作品をもっと読みたいなあ、とどうしても思ってしまう。
*
橋本シオン「デストロイしている」は小詩集。「ヨシエ」が登場する作品が、私は好きである。その「ヨシエ」の書き出し。
ヨシエ、蒲団の中で芋虫のように這いずりまわっていたのに、気づけば
トーキョーのネオンと踊る。ぐじゅぐじゅの夢から醒めて、あの夢はた
だしかばねを踏み潰すだけのほこりをかぶったゆめの夢の世界だった
と、ヨシエは遠い目で言う。
「ヨシエは蒲団の中で芋虫のように這いずりまわっていたのに」と書かずに格助詞「は」を省略し、読点「、」にしたところに、橋本の「肉体/思想」があると言えばおおげさだろうか。
「ヨシエ、蒲団の中で芋虫のように這いずりまわっていたのに」と書くとき、「ヨシエ」は登場人物(主役)ではなく、「主題(テーマ)」なのだ。「ヨシエという人間がいる。彼女は……」を短縮していうと「ヨシエ、蒲団の中で……」になるのだ。
だから二連目、
だいきらいだ都庁が、あの姿形が、そそり立つ男性器みたいで。
この書き出しは、実は「ヨシエ、彼女はだいきらいだ都庁が、あの姿形が、そそり立つ男性器みたいで。」である。
「主語」ではなく「主題」。どう違うのか。
うーん。「意識」のありかたが違うとしか言えないのだが……。
「ヨシエ」の行動がいろいろ描かれるが、橋本は「行為」そのものに溺れない。「行為」を書くのは「ヨシエ」という人間、彼女が考えていることを浮き彫りにするため、という意識が強く働いていると思う。
ここに書かれている「行為」を「私/橋本」もするけれど、だからといって、ここに「私/橋本」が書かれているのではなく、そのことばのなかで動いているのは「ヨシエ」であるという、「切断」が強調されている。
ちょっと外国語っぽい。フランス語やスペイン語で、こういう言い回しがあると思う。主役を最初に言って、それを代名詞で受けて文章がつづいていくというのが。「ヨシエは……」ではなく、「ヨシエ、彼女は……」という「構文」があるように思う。日本語で書かれているのに、「翻訳」みたいな、乾いた感じがするのは、そのせいかな?
「ヨシエ」が登場する二つ目の作品は「ヨシエと性行為について」であり、
子供を持つ男の性器が、十五年ぶりに女に触れる。ヨシエはまだ二十四歳
と六ヶ月で、皮膚にはまだハリがある。
と書き出される。それから性行為と、その感想が書かれるのだが、「肉体」を感じさせるというよりも、「距離」というか、「肉体」を見つめる「精神」の方が浮かび上がる。「肉体」を「精神」でみつめなおす「二元論」。とても「乾いている」。
男の汗を拭ってやりながら、約一時間の行為は終了し、男性器も女性器
も、何も変わりがないと、ヨシエは思った。形と意図が違うだけで、同
じ座標で蠢いているだけの、歳をとっても、果たして何も変わらないの
だと。
「座標」ということば。「具体的な行為」を抽象化する「定義」。「実存/定義」の「二元論」というのだろうか。これも「我思う、ゆえに我あり」から始まる、フランスの「二元論」だなあ、というようなことを考えた。「ヨシエは思った。」の「思う」という「動詞」がとても印象に残る。
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