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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む(6)

2016-06-28 11:23:44 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(6)(2016年06月27日)


 「第二章 安全保障」。

 「第一章 天皇」の文章は、とても奇妙だった。

天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。(自民党改正案)

 天皇は「日本国の元首である」、天皇は「日本国及び日本国民統合の象徴である」と「ひとつ」の「主語」が「ふたつの述語」を持っている。このとき、その「述語」が必ずしも一致しなくてもいいのかもしれないが。
 たとえば、「私の恋人は美人であり、聡明である」というとき「美人」と「聡明」は一致する(等しい)ものではない。「私の恋人は美人であり、短気である」というとき「美人」と「短気」は一致するものではない。こういうときは「私の恋人は美人である、しかし、短気である」と、「しかし」という「接続詞」で違うものを結びつけるということを「明示」することが多い。「しかし」がないときは、ふたつの「述語」は、暗黙のうちに「共通」のものとみなされる。「美人(長所)」と「聡明(長所)」は「長所」が共通する。イコールになる。「美人(長所)」と「短気(短所)」は「長所」「短所」が反対だから、「しかし」という「逆説」の「接続詞」が必要になる。
 天皇の「定義(?)」には「接続詞」がないから、「元首である」と「象徴である」は「暗黙」のうちにイコールになっていなければならない。
 でも、「元首」と「象徴」はイコール? 違うなあ。「元首」というのは「権力」という実行力をもった現実の人間。「象徴」というのは「現実」ではなく「方便」というか「虚構」に属する。「実」と「虚」が並列して結びつけられている。
 「元首」という肩書が「虚構」のものであるなら、どこかに「影の(ほんとうの)権力者」がいることになる。「虚構の元首」を「象徴」として存在させ、その影でほんとうの「権力者」が何かしようとしている。だれかがほんとうの権力者になろうとしている。そのために天皇を利用しようとしている。
 私は、そんなことを考えたのだった。
 しかも、その「天皇は」という書き出しは、後半「その地位は」と言い直されることで「主語」から「主題(テーマ)」に変更させられている。「天皇=元首=象徴」という「虚構のテーマ」は「主権の存する日本国民の総意に基づく」と定義されている。「天皇=元首」という「虚構」を「象徴」として受け入れ、「実際の権力」はここに書かれていないだれかに託すことを、日本国民は「総意」として受け入れる、と「定義」しているように感じてしまう。
 私は「法律家」ではないから、「法律的」にはどう読むのかわからないが、そう読んでしまう。

 「第二章 安全保障」も、「改正」部分が、とても奇妙である。
 第九条は「二項目」から構成されている。現行憲法と改正案を比較してみる。

第二章 戦争の放棄(現行憲法)
第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第二章 安全保障(改正草案)
第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。

 いちばん大きな違いは「放棄する」という「動詞」の位置の変化。
 現行憲法は、「日本国民は、戦争と、武力の行使は、放棄する」と要約できる。「これを」と書いているが「戦争と、武力の行使」というふたつのことを指しているので、「これら」と読むことができる。それを複数形ではなく「これ」と単数形で書いているのは、「これ」が指し示す内容が「補語」ではなく、「テーマ」だからである。「テーマ」は、この場合、最初に書かれている「戦争(放棄)」である。「戦争を放棄する」と最後に念を押しているのである。
 現行憲法は、「テーマ(主題)」と「主語」を明確に区別しながら書かれている。
 改正草案は、「日本国民は、戦争を放棄し、武力の行使は、用いない」。完全にふたつの文にわけることができる。改正案では「日本国民は」というの「主語」が一貫しているが、そこには現行憲法を貫いていた「テーマ」が「縮小」されている。「これ」という「テーマ」を指し示すことばを省くことで、「テーマ」そのものを変更している。
 そして、改正草案は、「テーマ」を省略し、「主語」だけを明記することで、ずるいことをやっている。
 「日本国民は戦争を放棄し、武力の行使は、用いない」。しかし「日本国」が「武力を行使する(結果的に戦争をする)」ことを憲法では禁じていない、と読み直すことができる。

 現行憲法も、主語は「日本国民」なのだから、「国民は戦争を放棄するが、国が戦争を放棄することを禁じていない」と読むことができる、という意見も成り立つかもしれない。
 だからこそ、「第二項」がつけくわえられている。

(現行憲法)
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 ここには「日本国民は」という「主語」は書かれていないが、「日本国民は、国の交戦権は、これを認めない」という意味である。「テーマ」は「日本の交戦権」である。それに先立つ「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」というのも、「これを保持しない」と「これ」と言い直されていることからわかるように「テーマ」である。
 また現行憲法が「武力による威嚇又は武力の行使は」と「又は」という接続詞がつかわれていることにも注目したい。「又は」は反対のことというか、違った概念を導くときにつかわれる。ここからは、私の推測になるのだが、「武力による威嚇」とは日本から外国への行為であり、「武力の行使」とは「防戦」のことではないのか。日本から外国へ武力で威嚇はしない、また、外国から武力で威嚇されても武力で防戦しない、と言っているように感じる。改正案の「及び」では「外国から威嚇されても」という感じが抜け落ちる。
 日本国民は「国」に対して、何があっても「国の権力(交戦権)」を認めない、と宣言している。「国」に主権があるのではなく、国民に主権があるから、国民は国に対して命令することができるのである。
 「第二章 戦争の放棄」で「主語」を明確に「日本国民は」と書いている理由は、そこにある。

 改正草案はどうか。

2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。

 「国の交戦権」がすっぽり落ちている。そして「自衛権」という概念が持ち出されている。つけくわえられている。いや、すりかえられている。「自分を守る」というのは、「肉体」にぐいっと迫ってくることばである。だれでも死にたくはない。ましてや殺されたくはない。だから「自衛権」と言われると、それに反対する「根拠」がなかなか見つけにくい。「又は」と「及び」の違いにもどって言えば、「外国から武力で威嚇されたら」、「防戦に武力をつかわざるを得ない」「武力で自衛する(自衛権を発動する)しかない」と言われると、反論はむずかしい。「言論で交渉をつづける」と反論すれば「空想論だ」と言われるだろう。「外国から武力で威嚇されたら」という論自体が「空想」なのだけれど。
 しかし、それ以上に、重要な変更がここにある。
 「主語」はどうなったか。
 「日本国民は、自衛権の発動を妨げるものではない。」と読み直すことができるかもしれないが、改正草案は、

前項の規定は

 と書いている。「規定」は「妨げない」。これは、私のような素人にはわかりにくいが、単なる「解釈」だ。「解釈」を書いている。「意味」を説明しなおしている。その意味の説明のし直しを「日本国民」がしている、と改正草案を書いた自民党は言いたいのかもしれないが、そうではない。
 それは現行憲法にはない「第九条の二」を読むと、はっきりする。改正草案は、次のように書いている。

第九条の二
我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。


 第一項の「主語」は何か。わからない。「日本国民」と読めないことはない。「日本国民は、国防軍を保持する」という文章は成り立つ。
 しかし、そのあとはどうか。第二項はどうか。
 「国防軍は」と書き出される。「主語」が「日本国民」から「国防軍」にすりかえられている。「日本国民」の意志は、以下では完全に無視される。
 それを決定づけるのが、改正草案の「第九条の三」である。

国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。

 「国防軍」という「主語」がいきなり「国は」と変わっている。
 現行憲法では、「戦争の放棄」についての「主語」は「日本国民」で一貫していたが、改正草案では「日本国民→国防軍→国」へと変化している。
 なぜ、「国防軍」から「国」へ「主語」を変化させなければならなかったのか。

国民と協力して、

 ここに突然復活してくる「国民」に意味がある。「軍隊」というのは「ひとり」では構成できない。人間が必要になる。そして、その人間というのは「最高指揮官/内閣総理大臣」という要職についている少数の人間のことではなく、実際に兵隊となり、戦場で人を殺し、殺される多数の人間である。
 そういう兵隊を確保するために、どうするのか。
 「徴兵制」である。
 「国民と協力して」というのは「徴兵制」によって国民を兵隊にして、という意味である。
 「内閣総理大臣が最高責任者なのだから、内閣の閣僚と戦争に賛成した与党の国会議員だけで日本を守ってくれよ。高い金を出して立派な武器を買ったんだから、庶民が兵隊になんかならなくても大丈夫でしょ? 日本を守ってくれると言ったから投票したんであって、兵隊になるために投票したんじゃないよ」
 こういう「論理」は、まあ、通じない。
「国」が「国民」を支配する、という自民党の「思想」が、「主語」を変更することであらわれている、ここに自民党の「思想」を読み取るべきだと、私は思う。

 と、ここまで書いてきて、突然、気がついたことがある。
 「第一章 天皇」「第二章 戦争の放棄」(改正草案では「安全保障」)。まだ「国民」が「主題(テーマ)」になっていない。
 「国民主権」なのに「主役」の「国民」がテーマになっていない。「国民」がテーマになるのは「第三章 国民の権利及び義務」である。
 第一章が「天皇」なのは、たぶん、日本の特殊事情。明治憲法を一気に書き直すことができなかったということだろう。現行憲法を「押しつけ憲法」と自民党は言っているが、ほんとうに「押しつける」気持ちがあるなら、「天皇」から憲法をはじめないだろうなあ、と私は感じる。日本が「天皇」のことをまず「定義」するように要請したのだろう。
 「第二章 戦争の放棄」というのも、「国民の実感」が優先されたのだろう。「国民とは何か」という定義よりも、「戦争は、もう絶対にいや」という気持ちが「国民」のあいだに「天皇への敬意」と同じように、みちあふれていたのだろう。もろちん「日本に戦争をさせたくない」という連合国側の思いも反映されているだろうが、「国民」の「定義」の前に「戦争の放棄」があることを、忘れてはならないと思う。
 いちばん大事なことは最後に言う、というひともいるが、たいていはいちばん大切なことから言いはじめるのが人間だ。
 「意味」とか「思想」は、ことば(用語)のなかにだけあるのではない。どういう順序で語るか、どう言い直すか、というところにもあるのだ。

 (詩を読むのと同じ方法で、「自民党憲法改正草案」を読んで、思ったことを書いています。私の「感想」は間違いだらけかもしれないけれど、間違いのなかでしか語れないものもあると思う。間違うというのは、ひとつの必然なのだと思う。
 だから、というと変だけれど。
 多くのひとが、それぞれの自分のことばで「憲法改正草案」を読んで、思っていることを語ってほしいと思う。
 音楽が好きなひとには音楽が好きなひとにしかみえない何かがあるだろう。美術が好きなひとには、また美術が好きなひとにしかみえない問題点が見えると思うし、エッチが好きなひとにはエッチが好きなひとにしかみえない問題点がある。実感から生まれることばは、すべて「思想」だ。)

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田中紀子「プリズム」

2016-06-28 08:53:58 | 詩集
田中紀子「プリズム」(「豹樹Ⅲ」26、2016年06月20日発行)

 田中紀子「プリズム」は、いま生きている母を描いているか、生きていた母を描いているのか、よくわからない。どちらとも読むことができる。生きていた母だとしても、記憶の母だとしても、田中のなかにいま生きているからだろう。

母は
リビングのソファに身を沈ませて
鶴を折りつづけていた

私は
台所で
廊下で
リビングで
庭で
立ち働いて

母は
折りつづけ

私は
立ち働いて

母は
時折手を休め
深々と溜息をつくとき
身体中が瞬きながら
光の粒に分解されて
煌めいた

私は
ああそこにいたのね
とその度ごとに
驚くのだった

溜息と共に
少しずつ零れおちた
光の粒は
静かに
音も立てずに
消えていった

 六連目の「そこにいたのね」の「そこ」が、わからない。
 わからないのに、この「そこ」が美しいと感じる。

 「そこ」とは「リビング」「ソファ」か。そうかもしれないが「場所」とは思えない。
 そこは「溜息」を指しているのか。「光の粒」か。あるいは「煌めいた」という「動詞」か。
 あるいは「深々と溜息をつく」の「深々」かもしれない。「つく」という「動詞」かもしれない。「身体中が瞬きながら」の「瞬く」という「動詞」かもしれない。
 「身体中」の「身体」かもしれない。
 いや、「時折手を休め」の「手」かもしれないし、「休める」という「動詞」かもしれない。
 書かれている「全部」が「そこ」。「母」という存在が「そこ」かもしれない。

 どれかを特定して「そこ」と指し示すことができないのは、そのすべてが「ひとつ」になっているからだろう。

 「そこ」とは別に、六連目にはもうひとつわからないことばがある。「その度ごとに」の「その度」。(ここにも「その」という形で「そこ」に通じるものが書かれている。指し示すという田中の、ことばの肉体が動いている。)
 「その度」とは、母が「手を休めるとき」か、「溜息をつくとき」か、「瞬くとき」か、「分解されるとき」か、「煌めいたとき」か。これも、特定することはできない。やはり「ひとつ」になっているからである。どれかの「とき」をとりだして、「それ」と特定すると何か違ったものになる。あらゆるものが「特定できない」かたちで、深く結びついている。関係し合っている。

 「その度」ではなく、「その度ごとに」の、「ごとに」目を向けるといいのかもしれない。
 「ごと」は「毎」。「毎日」の「毎」。「繰り返し」である。
 五連目のなかに書かれている「動詞」、「動詞/述語」の「主語」となっている「名詞」。それは、一回きりのことではなく、繰り返されているのである。(繰り返しは「母は/折りつづけ」「私は/立ち働いて」という形で先にあり、ここでは「繰り返し」そのものが凝縮されている感じがする。)
 だからそれがたとえ一回きりであったとしても、その一回のなかにそれまでにあったことがすべて存在し、繰り返されている感じがする。
 言い換えると、「手を休める」「溜息をつく」「身体中が瞬く」「光の粒に分解される」「煌めく」ということが一回だけだったとしても、「手を休める」のなかに「溜息をつく」ということが繰り返されている。「身体中が瞬く」ということも、「光の粒に分解される」「煌めく」も繰り返されている。
 「ひとつ」の「そこ」から、瞬間瞬間に、あることが「ことば」になって生まれる瞬間瞬間に、その「ことば」を「生む」別の「動詞」として存在している。すべてのことがつながりながら、「その度ごとに」姿を変えて、動いている。繋がって、生きている。

 この「繋がり」は「ことば以前」の、まだ名づけられていない「ひとかたまりの状態/エネルギー」かもしれない。
 「ことば以前」の「名づけられない」何かが、瞬間瞬間、「ことば」になって生み出されている。生み出されて「ことば」になる。

 同時に。

 この瞬間、「そこ」にいるのは「母」ではなく、「私」でもある。
 「そこ」「その」が特定されていないように、「いた/いる」の「主語」も特定されていない。
 「母はそこにいたのね」と気づく(驚く)のではなく、「私」そのものが「そこ」にいたのだ。「母」となって、「そこ」にいた。「そこ」に
いる。
 生み出される(生まれる前の)私であり、生まれたあとの私であり(こども時代の私であり)、それから母となった(こどもを持った)私、あるいは(こんなことを書いてはいけないのかもしれないが)死んで行く私。「いのち」の繋がりとしての「私」がそこにいる。
 そこにいるのは「母」でもなく「私」でもなく、「いのちの繋がり」そのものであり、それがある瞬間には母になり、また「私」になる。

 タイトルの「プリズム」は、「ひとつ」光を「いくつか」に分けてみせる。「ひとつ」の「光」が「プリズム」を通ることによって、「いくつもの」光に分かれて生み出される。
 それに似たことが、ここでは「起きている」のである。「生まれている」のである。
 (プリズムは光を「分光する」。その「分光」の「分」をつかって「分節」ということもできるのだが、「分節する」ではなく、私は「生み出す/生まれる」と考えたい。)

*

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