和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(24)(「現代詩手帖」2011年05月号)
きのう読んだ「09」(2011.3.27 )の最後の美しいことばがある。
ここにある「幸福」は「ぴったりだ」ということばに結晶している。何かを探す。それが一致する。探しているものと、探されているもの--であると同時に、僕と妹の、気持ちが「ぴったり」なのだ。星と早見盤の「一致」を借りて、ほんとうは僕と妹が「ぴったり」に重なり、その重なりに「宇宙」が重なることで祝福する。
ここには和合が、だれかと「ぴったり」と重なりたいという願いが込められている。
それは何度も繰り返される次のことばでも同じだ。
*
「10」は、「09」に書かれていた幸福とは逆のところからはじまる。
「汗」は「比喩」である--と、書いて、私はふと疑問にとらわれるのである。「汗」が比喩? 「比喩」とは、「いま/ここ」にないものを借りて、自分が向き合っているものを明瞭に浮かび上がらせる「ことばの技法」だが、汗が比喩?
正確には「精神の汗」「魂の汗」が「比喩」ということかもしれないが。
でも、違うのだ。
「汗」が「比喩」なのではなく、「精神」「魂」こそが「比喩」なのだ。
私の書いていることは、変に聞こえるかもしれない。私自身も、変なことを書いていると承知しているのだが、その変なことを追い詰めてみる。
「比喩」とは「いま/ここ」にないものを借りて「いま/ここ」にあるものを印象づける方法である。たとえば「きみの微笑みはバラである」というとき、「いま/きみのほほえみ」自体は「バラ」ではない。あくまで「ほほ」にひろがる「やわらかなふくらみ」あるいは「輝き」である。その周囲の「目」や「唇」--ようするに顔全体かもしれないが、顔はバラではないということを前提として、バラという比喩が成り立っている。バラが顔の上にないということを前提としている。
「私たちは精神に、冷たい汗をかいている。」はどうだろうか。「汗」は何をあらわしているのだろうか。「いま/ここ」にある何を「意味」して「汗」と言っているのだろうか。
実は、私は、わからない。
けれども、その「汗」そのものを強く感じる。「冷たい汗」を強く感じる。それは「肌」で感じる「冷たい何か」である。何かの拍子に、私自身がかいた「汗」の記憶がふいに甦ってくる。「汗」は実感である。「冷たさ」は実感である。
そうすると(というのは、飛躍があるかもしれないが、私のことばはそんなふうにしか動かない)。
そうすると「汗」が「比喩」なのではなく、もしかすると「精神」「魂」の方が「比喩」なのかもしれない。
「精神/魂」が「比喩」というのは奇妙な言い方だが、「比喩」の最初の定義にもどって言いなおすと、「いま/ここ」にないものを借りて、「いま/ここ」にあるものを明確にするのが「比喩」ならば、「精神/魂」が「いま/ここ」にないのだ。「精神/魂」を「いま」「ここ」に呼び出し、共有するために、和合は「汗」と「冷たい」をことばにしているのだ。
「冷たい汗」とともにある「精神/魂」。それを共有したいのだ。
次の部分を読むと、それを強く感じる。
サウナで流している汗。これはほんものである。「比喩」ではない。それは熱い汗である。その汗の実感--肌をたどって流れる実感は、私たちに何を教えてくれるだろうか。「肉体」の存在を教えてくれる。その汗と肉体の関係を実感しながら、和合は精神と汗とを感じている。「冷たい汗」というより「精神」を感じている。
場へ向かう牛、野菜を全部は遺棄して自殺した男--それを思い描く精神は「汗」を流している。「汗」を実感することで「精神」を実感する。「精神」を共有する。和合は、そういうことを書きたいのではないのか。
星座と星座早見盤が「ぴったり」重なるのを見て、「ぴったりだ」とはしゃいだとき、和合と妹の「こころ(精神/魂)」は「ぴったり」重なった。同じようよ、無残な牛、無残な農業の男性を思うとき、「精神」は「冷たい汗」を流しながら「ぴったり」重なる。「冷たい汗」ではなく、その「精神/魂」をこそ、和合は取り戻したい、共有したいと願っている。「冷たい汗」は、むしろ、共有したくないものである。「冷たい汗」をぬぐい去り、涙を拭くようにぬぐい去り、「精神/魂」をもう一度元気にしたいというのが和合の夢だろう。その夢のために、まず「精神/魂」というものがあることを、はっきりさせたいのだ。「精神/魂」を「いま/ここ」に呼び出したいのである。
この「1分」とは何だろう。私には、よくわからない。ただ「遅れたままだ」が、和合の実感であることは納得できる。
和合は「遅れ」を次のように書いている。
大震災を和合は直接体験している。しかし、その「事象」がはっきりしてくるのはあとからなのだ。季村敏夫が『日々の、すみか』で書いたように「出来事は遅れてあらわれる」。「1分」は、その「遅れ」の象徴(比喩)である。
この膨大な映像、あふれる「事象」と「精神/魂」はまだ向き合えない。「精神/魂」は「目」や「耳」に遅れてあらわれる。ことばで形をつくらないことにはあらわれることもできない。
ああ、だから、せめて、まず「汗」を感じ、「冷たい汗」を感じることから「精神/魂」を「いま/ここ」に呼び出そうというのか。
そのために、ことばは、どんなふうに動けばいいのだろうか。
和合は、あらゆるものに「ことば」を見出そうとしている。あらゆるものをことばにすることで、ことばが動きだすのを励ましている。ことばとともにあらわれる「精神/たましい」を励ますように。
きのう読んだ「09」(2011.3.27 )の最後の美しいことばがある。
幼い頃。僕は家の近くの野原で星座早見盤をまわしている。妹が追っかけてきた。懐中電灯を持ってきた。「早く、早く、お兄ちゃん」。待ってろよ。妹が照らす灯りを頼りに、星空と手の中の早見盤を合わせる。出来た。ぴったりだ。はしゃぐ、僕と妹。瞬く星。もう一度、星と空を探させて下さい。
(64ページ)
ここにある「幸福」は「ぴったりだ」ということばに結晶している。何かを探す。それが一致する。探しているものと、探されているもの--であると同時に、僕と妹の、気持ちが「ぴったり」なのだ。星と早見盤の「一致」を借りて、ほんとうは僕と妹が「ぴったり」に重なり、その重なりに「宇宙」が重なることで祝福する。
ここには和合が、だれかと「ぴったり」と重なりたいという願いが込められている。
それは何度も繰り返される次のことばでも同じだ。
明けない夜は無い。
(64ページ)
*
「10」は、「09」に書かれていた幸福とは逆のところからはじまる。
私たちは精神に、冷たい汗をかいている。
私たちは魂に、垂らしているのだ。冷たい汗を。そして東日本の時計はものみな、1分だけ遅れたままだ。
(64ページ)
「汗」は「比喩」である--と、書いて、私はふと疑問にとらわれるのである。「汗」が比喩? 「比喩」とは、「いま/ここ」にないものを借りて、自分が向き合っているものを明瞭に浮かび上がらせる「ことばの技法」だが、汗が比喩?
正確には「精神の汗」「魂の汗」が「比喩」ということかもしれないが。
でも、違うのだ。
「汗」が「比喩」なのではなく、「精神」「魂」こそが「比喩」なのだ。
私の書いていることは、変に聞こえるかもしれない。私自身も、変なことを書いていると承知しているのだが、その変なことを追い詰めてみる。
「比喩」とは「いま/ここ」にないものを借りて「いま/ここ」にあるものを印象づける方法である。たとえば「きみの微笑みはバラである」というとき、「いま/きみのほほえみ」自体は「バラ」ではない。あくまで「ほほ」にひろがる「やわらかなふくらみ」あるいは「輝き」である。その周囲の「目」や「唇」--ようするに顔全体かもしれないが、顔はバラではないということを前提として、バラという比喩が成り立っている。バラが顔の上にないということを前提としている。
「私たちは精神に、冷たい汗をかいている。」はどうだろうか。「汗」は何をあらわしているのだろうか。「いま/ここ」にある何を「意味」して「汗」と言っているのだろうか。
実は、私は、わからない。
けれども、その「汗」そのものを強く感じる。「冷たい汗」を強く感じる。それは「肌」で感じる「冷たい何か」である。何かの拍子に、私自身がかいた「汗」の記憶がふいに甦ってくる。「汗」は実感である。「冷たさ」は実感である。
そうすると(というのは、飛躍があるかもしれないが、私のことばはそんなふうにしか動かない)。
そうすると「汗」が「比喩」なのではなく、もしかすると「精神」「魂」の方が「比喩」なのかもしれない。
「精神/魂」が「比喩」というのは奇妙な言い方だが、「比喩」の最初の定義にもどって言いなおすと、「いま/ここ」にないものを借りて、「いま/ここ」にあるものを明確にするのが「比喩」ならば、「精神/魂」が「いま/ここ」にないのだ。「精神/魂」を「いま」「ここ」に呼び出し、共有するために、和合は「汗」と「冷たい」をことばにしているのだ。
「冷たい汗」とともにある「精神/魂」。それを共有したいのだ。
次の部分を読むと、それを強く感じる。
私たちは、冷たい汗をかいている。仕方がないから夕暮れには、大衆サウナへと行った。そこでは精神に、冷たい汗をかく屈強な男たちが、相当の熱気の中で座っていた。
私たちは、汗をかいている。ある男が言う。「昨日は、飯館で何も知らない牛が、トラックに並べられて、場へいくのを見た。何台もトラックが牛を乗せて、走っていった。ナチスドイツがかつてもたらした光景のようだった」。私たちは精神に、冷たい汗をかいている。
私たちは、汗をかいている。別の男が言う。「農業を営んでいた男性が、畑の野菜を全て廃棄した夜に、悲しくも自らの命を絶った」。私たちは精神に、冷たい汗をかいている。
(65ページ)
サウナで流している汗。これはほんものである。「比喩」ではない。それは熱い汗である。その汗の実感--肌をたどって流れる実感は、私たちに何を教えてくれるだろうか。「肉体」の存在を教えてくれる。その汗と肉体の関係を実感しながら、和合は精神と汗とを感じている。「冷たい汗」というより「精神」を感じている。
場へ向かう牛、野菜を全部は遺棄して自殺した男--それを思い描く精神は「汗」を流している。「汗」を実感することで「精神」を実感する。「精神」を共有する。和合は、そういうことを書きたいのではないのか。
星座と星座早見盤が「ぴったり」重なるのを見て、「ぴったりだ」とはしゃいだとき、和合と妹の「こころ(精神/魂)」は「ぴったり」重なった。同じようよ、無残な牛、無残な農業の男性を思うとき、「精神」は「冷たい汗」を流しながら「ぴったり」重なる。「冷たい汗」ではなく、その「精神/魂」をこそ、和合は取り戻したい、共有したいと願っている。「冷たい汗」は、むしろ、共有したくないものである。「冷たい汗」をぬぐい去り、涙を拭くようにぬぐい去り、「精神/魂」をもう一度元気にしたいというのが和合の夢だろう。その夢のために、まず「精神/魂」というものがあることを、はっきりさせたいのだ。「精神/魂」を「いま/ここ」に呼び出したいのである。
私たちは魂に、垂らしているのだ。冷たい汗を。そして東日本の時計はものみな、1分だけ遅れたままだ。
この「1分」とは何だろう。私には、よくわからない。ただ「遅れたままだ」が、和合の実感であることは納得できる。
和合は「遅れ」を次のように書いている。
私は地震の日の夕方、ある大きな建物へと出かけた。知人と合わなくてはいけなかったからだ。知人を待っている間に、警備室のテレビを、盗み見た。その時からだ。私の本当の震災が始まったのは。
黒い波、全てを飲み込み、辺りを覆い尽くす、今という脅威。何百、何千。繰り返される画面映像。牙を剥く、現在。
黒い波、全てを飲み込み、辺りを覆い尽くす、今という脅威。何百、何千の…。繰り返される画面映像。知人に方をたたかれた。すぐ尋ねた。「これ、何?」。私たちの震災の真顔だよ。
(66ページ)
大震災を和合は直接体験している。しかし、その「事象」がはっきりしてくるのはあとからなのだ。季村敏夫が『日々の、すみか』で書いたように「出来事は遅れてあらわれる」。「1分」は、その「遅れ」の象徴(比喩)である。
この膨大な映像、あふれる「事象」と「精神/魂」はまだ向き合えない。「精神/魂」は「目」や「耳」に遅れてあらわれる。ことばで形をつくらないことにはあらわれることもできない。
ああ、だから、せめて、まず「汗」を感じ、「冷たい汗」を感じることから「精神/魂」を「いま/ここ」に呼び出そうというのか。
そのために、ことばは、どんなふうに動けばいいのだろうか。
バスに乗ろうとして、それを待っている、鳩の群れが遠くの空からやってくる、意味の深遠な雲から飛来する、未来の言葉なのか。
(66ページ)
和合は、あらゆるものに「ことば」を見出そうとしている。あらゆるものをことばにすることで、ことばが動きだすのを励ましている。ことばとともにあらわれる「精神/たましい」を励ますように。
![]() | 現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌] |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |