東野正『難破調』(2)(セスナ舎、2011年01月11日発行)
きのう「。し、の、死!」について触れたとき書き漏らしたことがある。(私は目の状態がよくなく、1回に書く時間を約40分と決めて、ただひたすら書いているので、脱線すると脱線したままになる。)
「。し、の、死!」にはおびただしい句読点がある。そして、感嘆符の挿入もある。これはいったい何なのだろうか。東野は、句読点を普通の読み方とは違った形でつかっている(少なくとも「学校教科書」では習わない形でつかっている)。もし、句読点が文章の「終わり」と「息継ぎ」を意味するのだとしたら、東野は、普通とは逆の使い方かさえしている。
たとえば、この書き出しは
とした方が、いくらか「文」の体裁が整う。「恥め、る。」「無い!か。」で文章がいったん完結する。ところが、東野はそういうスタイルをあえて破壊している。
ことばは「文章」に則して動くわけではない--そういう意識が東野にはあるのだと思う。そして、私はこの東野の句読点のつかい方に、とても「肉体」を感じる。ことばを書いているときの「肉体」の動きというか、「肉体」のなかでことばにならないことばが動く感じが感じられる。
ことばを書いているとき、ある「結末」というか、ひとつの文章が想定されているのだけれど、そのことばを書いている途中で(話している途中で)、ふいに脇道にそれてしまいたい欲望に動かされることがある。それは文章をいったん完結させたあと、こういうことも言いたかったと補足してもいいのかもしれない。実際、そんなふうに補足する方が読みやすいし、「意味」が通りやすいのだけれど、あ、これを言いたいのにという欲望は、書きはじめたひとつの文章が完結するまでは我慢していなくてはならない。これがちょっとつらい。我慢している間に気持ちがかわってしまうこともあるからだ。
そういう我慢をせずに、思いついた瞬間に、思いついたことばを割り込ませる。そういうことをしたら、どうなるのだろう。
意識の連続と切断が、たぶん「学校教科書」の句読点とはあべこべになる。東野の書いている句読点のように、読点「、」であるところが句点「。」になり、句点「。」であることろが読点「、」になるということがありうる。
突然の「ことば」の乱入を受け入れ、受け入れながら受け入れた段階でいったん完結させる。句点「。」を使う。しかし、その句点「。」を越えて、ことばが前のことばを引き継ぐ。その引き継ぎの意識が、その次の読点「、」によって回復させられる。--つまり、いま、乱入してきたことばを完結させるために便宜上句点「。」を使ったのだけれど、ほんとうは、ことばはまだまだつづいていくのだ、接続していくのだということを、句点「。」のあとの読点「、」は強調するのである。
この切断(乱入、逸脱の切断)と、切断を越えていく接続の仕方はとてもおもしろい。早稲田小劇場時代の白石佳代子の朗読で聞いてみたい気持ちにさせられる。ことば「肉体」のなかで独自に動くのだ。「頭」の整理を越えて、「肉体」の内部で融合している感覚を攪拌しながら突然噴出し、その噴出をこらえながら持続していくのだ--という感じがくっきりと浮かび上がると思う。
そういう視点から読んでいくと、
の「な」のあとの読点「、」は句点「。」であった方が、私にはおもしろい。「何がではなく」とことばが動こうとした瞬間、その否定のことばのなかに「苦」に通じるものが紛れ込む。「な」のあとにつづくはずの普通のことばを切断し、「苦」が乱入してくる感じがすると思う。その「苦」とはなんだろう。否定されたものの苦しみかもしれない。
この乱入、切断、あるいは切断という名の強引な接続--その瞬間、「いき(息)」が止まる。この「肉体」の感覚が「いき。」になる。それから乱入は、これは私がスケベだからそう思うのかもしれないが、強姦、性器の侵入--恥辱へとつながる。そのとき、強姦される苦しみ、そのときの「いき(息)」、そして「恥」ということばが乱れながら交錯する。
の「異。異、」は強姦された被害者の異義であり、呼吸であり、異義に反して漏れてしまう「声」かもしれない。
詩はつづいていく。
「固い地盤憎い、を。打ち込み、」は「固い地盤に杭を打ち込み」と切断なしのことばになると、「杭」はそのまま男根になり、「固い地盤」は女の抵抗になるだろう。それでも、なんとか貫通し(姦通し?)、子宮の底(奥)にたどりつけば、「いやいやはいいの」とという、気楽な男根主義の思い込みが射精のように溢れてくる。
あ、これではフェミニストに叱られると思うのだが、この「肉体」の「呼吸」は、私には信じられる。東野のことばのなかで何か信じることができるものがあるとすれば、この切断と接続から、ふいにあらわれてくる男根主義(男根思想)だろうと思う。男根主義に賛成というのではないのだが、ここには「正直」があると感じられる。
東野に特徴的な「視覚」の優位性、呼吸さえも句読点によって視覚化するこの「視覚」へのこだわりは、もともと「頭」優位の「男根主義」によるものである。
「知る。詩、」は「印、徴」であり、象徴である。
そして、句読点は東野にとって「肉体」の「象徴」ということになるかもしれない。そういうことを考えさせてくれる(こんなふうに「誤読」を許してくれる)という点で、この詩は非常におもしろい。
おもしろい--と書きながら、矛盾したことを書くようでもあるのだが、この「肉体」(呼吸)を「文字」にしてみせる手法は、それはそれでいいのだが、その「脱線」を「漢字(表象文字、表徴文字)」に頼ったとき、うーん、私は生理的に反発を感じてしまうのだ。これは私の生理の問題だから、「こんなことを書かれてもそれは私のしようとしていることではない」と東野に反論されるだけかもしれないのだが……。これがもし、漢字ではなく、「ひらがな」として書かれていたら、とてもおもしろいのではないかと思うのだ。「視覚」ではなく「聴覚」だけを頼りに、そのことばが「肉体」のどこをとおってやってくるか、それを「読者」にまかせてしまうと、とてもおもしろいものになるのではないか、と思うのである。
もっとも、これは「漢字」まじりのことばを読んだあとだから言えることかもしれない。

きのう「。し、の、死!」について触れたとき書き漏らしたことがある。(私は目の状態がよくなく、1回に書く時間を約40分と決めて、ただひたすら書いているので、脱線すると脱線したままになる。)
「。し、の、死!」にはおびただしい句読点がある。そして、感嘆符の挿入もある。これはいったい何なのだろうか。東野は、句読点を普通の読み方とは違った形でつかっている(少なくとも「学校教科書」では習わない形でつかっている)。もし、句読点が文章の「終わり」と「息継ぎ」を意味するのだとしたら、東野は、普通とは逆の使い方かさえしている。
と思う。何がではな、苦、そう!いき。なり、恥め。る、いや始。
められても異。異、のでは。無い!か、
たとえば、この書き出しは
と思う。何がではな、苦、そう!いき、なり、恥め、る。いや始、
められても異、異、のでは、無い!か。
とした方が、いくらか「文」の体裁が整う。「恥め、る。」「無い!か。」で文章がいったん完結する。ところが、東野はそういうスタイルをあえて破壊している。
ことばは「文章」に則して動くわけではない--そういう意識が東野にはあるのだと思う。そして、私はこの東野の句読点のつかい方に、とても「肉体」を感じる。ことばを書いているときの「肉体」の動きというか、「肉体」のなかでことばにならないことばが動く感じが感じられる。
ことばを書いているとき、ある「結末」というか、ひとつの文章が想定されているのだけれど、そのことばを書いている途中で(話している途中で)、ふいに脇道にそれてしまいたい欲望に動かされることがある。それは文章をいったん完結させたあと、こういうことも言いたかったと補足してもいいのかもしれない。実際、そんなふうに補足する方が読みやすいし、「意味」が通りやすいのだけれど、あ、これを言いたいのにという欲望は、書きはじめたひとつの文章が完結するまでは我慢していなくてはならない。これがちょっとつらい。我慢している間に気持ちがかわってしまうこともあるからだ。
そういう我慢をせずに、思いついた瞬間に、思いついたことばを割り込ませる。そういうことをしたら、どうなるのだろう。
意識の連続と切断が、たぶん「学校教科書」の句読点とはあべこべになる。東野の書いている句読点のように、読点「、」であるところが句点「。」になり、句点「。」であることろが読点「、」になるということがありうる。
突然の「ことば」の乱入を受け入れ、受け入れながら受け入れた段階でいったん完結させる。句点「。」を使う。しかし、その句点「。」を越えて、ことばが前のことばを引き継ぐ。その引き継ぎの意識が、その次の読点「、」によって回復させられる。--つまり、いま、乱入してきたことばを完結させるために便宜上句点「。」を使ったのだけれど、ほんとうは、ことばはまだまだつづいていくのだ、接続していくのだということを、句点「。」のあとの読点「、」は強調するのである。
この切断(乱入、逸脱の切断)と、切断を越えていく接続の仕方はとてもおもしろい。早稲田小劇場時代の白石佳代子の朗読で聞いてみたい気持ちにさせられる。ことば「肉体」のなかで独自に動くのだ。「頭」の整理を越えて、「肉体」の内部で融合している感覚を攪拌しながら突然噴出し、その噴出をこらえながら持続していくのだ--という感じがくっきりと浮かび上がると思う。
そういう視点から読んでいくと、
と思う。何がではな、苦、そう!いき。なり、恥め。る、
の「な」のあとの読点「、」は句点「。」であった方が、私にはおもしろい。「何がではなく」とことばが動こうとした瞬間、その否定のことばのなかに「苦」に通じるものが紛れ込む。「な」のあとにつづくはずの普通のことばを切断し、「苦」が乱入してくる感じがすると思う。その「苦」とはなんだろう。否定されたものの苦しみかもしれない。
この乱入、切断、あるいは切断という名の強引な接続--その瞬間、「いき(息)」が止まる。この「肉体」の感覚が「いき。」になる。それから乱入は、これは私がスケベだからそう思うのかもしれないが、強姦、性器の侵入--恥辱へとつながる。そのとき、強姦される苦しみ、そのときの「いき(息)」、そして「恥」ということばが乱れながら交錯する。
異。異、のでは。無い!か、
の「異。異、」は強姦された被害者の異義であり、呼吸であり、異義に反して漏れてしまう「声」かもしれない。
詩はつづいていく。
岩場。固い地盤憎い、を。
打ち込み、底から。安全な設計思想により。確実なものにしたい、
ものにしたいと。ゲスな下心が上心を手ご。め!にして。いやいや
はいいの。
「固い地盤憎い、を。打ち込み、」は「固い地盤に杭を打ち込み」と切断なしのことばになると、「杭」はそのまま男根になり、「固い地盤」は女の抵抗になるだろう。それでも、なんとか貫通し(姦通し?)、子宮の底(奥)にたどりつけば、「いやいやはいいの」とという、気楽な男根主義の思い込みが射精のように溢れてくる。
あ、これではフェミニストに叱られると思うのだが、この「肉体」の「呼吸」は、私には信じられる。東野のことばのなかで何か信じることができるものがあるとすれば、この切断と接続から、ふいにあらわれてくる男根主義(男根思想)だろうと思う。男根主義に賛成というのではないのだが、ここには「正直」があると感じられる。
東野に特徴的な「視覚」の優位性、呼吸さえも句読点によって視覚化するこの「視覚」へのこだわりは、もともと「頭」優位の「男根主義」によるものである。
知る。詩、と、か言っ。て、途方も泣く、脱。線して、
脱落し。て、途方に、くれ!て、脱丁して、い、苦。都、なんの!
ことも泣くて、いや無。くてそれは詰まり、高度死本趣義の禅面、
的展。開に桶。る水た、まり、いや!金あまりが目にあまり。あま
り金と、縁の。ない私!(私はない?)との問、題に、す愚。それ!
たりす、ることな。く、
「知る。詩、」は「印、徴」であり、象徴である。
そして、句読点は東野にとって「肉体」の「象徴」ということになるかもしれない。そういうことを考えさせてくれる(こんなふうに「誤読」を許してくれる)という点で、この詩は非常におもしろい。
おもしろい--と書きながら、矛盾したことを書くようでもあるのだが、この「肉体」(呼吸)を「文字」にしてみせる手法は、それはそれでいいのだが、その「脱線」を「漢字(表象文字、表徴文字)」に頼ったとき、うーん、私は生理的に反発を感じてしまうのだ。これは私の生理の問題だから、「こんなことを書かれてもそれは私のしようとしていることではない」と東野に反論されるだけかもしれないのだが……。これがもし、漢字ではなく、「ひらがな」として書かれていたら、とてもおもしろいのではないかと思うのだ。「視覚」ではなく「聴覚」だけを頼りに、そのことばが「肉体」のどこをとおってやってくるか、それを「読者」にまかせてしまうと、とてもおもしろいものになるのではないか、と思うのである。
もっとも、これは「漢字」まじりのことばを読んだあとだから言えることかもしれない。
