清岡卓行『ふしぎな鏡の店』再読(思潮社、1989年08月01日発行)。
この詩集は夢を描いている。
「ふしぎな鏡の店」では、清岡はさまざまな形の鏡が展示されている店へ入る。そこで1枚の鏡に惹かれる。
この作品には3人の人物が登場する。「わたし」と「評論家」と「店の主人」。この3人が「言葉」をとおして不思議な具合に重なり合う。
「蘭陵酒」では、李白のことばと清岡のことばは重なり合わなかったが、この作品では3人のことばが重なり合う。というより、3人が、評論家のことばをとおして重なり合うというべきなのか。
そして、この重なりあいは、とても奇妙だ。
たとえば「長城」では、清岡が兵士や娘と重なることで世界が拡大して行き、その世界のなかには歴史まで入ってきたが、ここではそういう「広がり」はない。むしろ、凝縮がある。「わたし」「評論家」「主人」の区別がなくなる。同じことを考えている。つまり「表面の裏側は またしても表面だ」と。それと同じように、3人も区別がなくなっているのだと。
そしてこれはまた、「示したかったのか」と「隠したかったのか」が、「表面の裏側は また表面」と言うのに等しいことを意味している。「示す」と「隠す」はぴったり重なり合い、どちらから見ても「表面」なのである。「裏面」は存在しない。あるいは、どちらも「裏面」であり、「表面」は存在しない。
「示したかったのか」それとも「隠したかったのか」は、二者択一ではない。両方ともしたかったことなのだ。
そして、この論理にしたがうならば、「鏡のたわむれの中で/ひとは無限に表面にいる」は評論家のことばではなく、同時に「わたし」のことばであり、また「主人」のことばでもある。
そう考えるとき、この作品で清岡は「夢」について語っているというよりも、「夢」そのものを語っているように思える。
清岡の詩、そのことばは、もちろん清岡の書いたものであり、清岡のものであるのだが、それがいったん読まれてしまえば、清岡のものであると同時に読者のもの。ことばのなかで、清岡と読者が分離不能に重なり合い、ことばを共有する--そういう詩の夢が託されているのではないのだろうか。
水平に広がるのではなく、いくつもの層を重ねるように重なる詩人と読者、読者の数だけ層があるのだけれど、その層は区別がつかない。そうした世界への夢が託されていないだろうか。
この詩集は夢を描いている。
「ふしぎな鏡の店」では、清岡はさまざまな形の鏡が展示されている店へ入る。そこで1枚の鏡に惹かれる。
わたしがとりわけ惹かれたのは
空中から見た
いびつな火口の形である。
--鏡のたわむれの中で
ひとは無限に表面にいる
夭折した評論家の言葉だ。
店の主人は ほかならぬその表面を
鏡の枠のさまざまに奇抜なデザインで
鮮やかに示したかったのか
それとも隠したかったのか。
不規則な魅力の火口の形をした
鏡の右端(みぎはし)を
わたしは右手の指でそっと突き
鎖で吊りさげられたその鏡を
ゆっくり半回転させた。
--あっ 裏もやっぱり鏡なんですね!
わたしは思わず声をあげた。
左右は変わったが
同じ火口の形をした鏡。
わたしは頭がくらくらとし
脾臓のあたりに 深い快感が生じた。
--そうですとも
表面の裏側は またしても表面だ
なんて 書いていますからな
店の主人が得意そうに応じた。
この作品には3人の人物が登場する。「わたし」と「評論家」と「店の主人」。この3人が「言葉」をとおして不思議な具合に重なり合う。
「蘭陵酒」では、李白のことばと清岡のことばは重なり合わなかったが、この作品では3人のことばが重なり合う。というより、3人が、評論家のことばをとおして重なり合うというべきなのか。
そして、この重なりあいは、とても奇妙だ。
たとえば「長城」では、清岡が兵士や娘と重なることで世界が拡大して行き、その世界のなかには歴史まで入ってきたが、ここではそういう「広がり」はない。むしろ、凝縮がある。「わたし」「評論家」「主人」の区別がなくなる。同じことを考えている。つまり「表面の裏側は またしても表面だ」と。それと同じように、3人も区別がなくなっているのだと。
そしてこれはまた、「示したかったのか」と「隠したかったのか」が、「表面の裏側は また表面」と言うのに等しいことを意味している。「示す」と「隠す」はぴったり重なり合い、どちらから見ても「表面」なのである。「裏面」は存在しない。あるいは、どちらも「裏面」であり、「表面」は存在しない。
「示したかったのか」それとも「隠したかったのか」は、二者択一ではない。両方ともしたかったことなのだ。
そして、この論理にしたがうならば、「鏡のたわむれの中で/ひとは無限に表面にいる」は評論家のことばではなく、同時に「わたし」のことばであり、また「主人」のことばでもある。
そう考えるとき、この作品で清岡は「夢」について語っているというよりも、「夢」そのものを語っているように思える。
清岡の詩、そのことばは、もちろん清岡の書いたものであり、清岡のものであるのだが、それがいったん読まれてしまえば、清岡のものであると同時に読者のもの。ことばのなかで、清岡と読者が分離不能に重なり合い、ことばを共有する--そういう詩の夢が託されているのではないのだろうか。
水平に広がるのではなく、いくつもの層を重ねるように重なる詩人と読者、読者の数だけ層があるのだけれど、その層は区別がつかない。そうした世界への夢が託されていないだろうか。