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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行『ふしぎな鏡の店』再読

2007-03-19 22:44:29 | 詩集
 清岡卓行『ふしぎな鏡の店』再読(思潮社、1989年08月01日発行)。
 この詩集は夢を描いている。
 「ふしぎな鏡の店」では、清岡はさまざまな形の鏡が展示されている店へ入る。そこで1枚の鏡に惹かれる。

わたしがとりわけ惹かれたのは
空中から見た
いびつな火口の形である。

--鏡のたわむれの中で
  ひとは無限に表面にいる
夭折した評論家の言葉だ。

店の主人は ほかならぬその表面を
鏡の枠のさまざまに奇抜なデザインで
鮮やかに示したかったのか
それとも隠したかったのか。

不規則な魅力の火口の形をした
鏡の右端(みぎはし)を
わたしは右手の指でそっと突き
鎖で吊りさげられたその鏡を
ゆっくり半回転させた。

--あっ 裏もやっぱり鏡なんですね!
わたしは思わず声をあげた。

左右は変わったが
同じ火口の形をした鏡。
わたしは頭がくらくらとし
脾臓のあたりに 深い快感が生じた。

--そうですとも
  表面の裏側は またしても表面だ
  なんて 書いていますからな
店の主人が得意そうに応じた。

 この作品には3人の人物が登場する。「わたし」と「評論家」と「店の主人」。この3人が「言葉」をとおして不思議な具合に重なり合う。
 「蘭陵酒」では、李白のことばと清岡のことばは重なり合わなかったが、この作品では3人のことばが重なり合う。というより、3人が、評論家のことばをとおして重なり合うというべきなのか。
 そして、この重なりあいは、とても奇妙だ。
 たとえば「長城」では、清岡が兵士や娘と重なることで世界が拡大して行き、その世界のなかには歴史まで入ってきたが、ここではそういう「広がり」はない。むしろ、凝縮がある。「わたし」「評論家」「主人」の区別がなくなる。同じことを考えている。つまり「表面の裏側は またしても表面だ」と。それと同じように、3人も区別がなくなっているのだと。
 そしてこれはまた、「示したかったのか」と「隠したかったのか」が、「表面の裏側は また表面」と言うのに等しいことを意味している。「示す」と「隠す」はぴったり重なり合い、どちらから見ても「表面」なのである。「裏面」は存在しない。あるいは、どちらも「裏面」であり、「表面」は存在しない。
 「示したかったのか」それとも「隠したかったのか」は、二者択一ではない。両方ともしたかったことなのだ。
 そして、この論理にしたがうならば、「鏡のたわむれの中で/ひとは無限に表面にいる」は評論家のことばではなく、同時に「わたし」のことばであり、また「主人」のことばでもある。
 そう考えるとき、この作品で清岡は「夢」について語っているというよりも、「夢」そのものを語っているように思える。
 清岡の詩、そのことばは、もちろん清岡の書いたものであり、清岡のものであるのだが、それがいったん読まれてしまえば、清岡のものであると同時に読者のもの。ことばのなかで、清岡と読者が分離不能に重なり合い、ことばを共有する--そういう詩の夢が託されているのではないのだろうか。
 水平に広がるのではなく、いくつもの層を重ねるように重なる詩人と読者、読者の数だけ層があるのだけれど、その層は区別がつかない。そうした世界への夢が託されていないだろうか。

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ステファヌ・プリゼ監督「愛されるために、ここにいる」

2007-03-19 22:13:06 | 映画
監督 ステファヌ・プリゼ 出演 パトリック・シェネ、アンヌ・コンシニ

 タンゴを踊るうちに男と女の距離がしだいに近付いて行く。音楽の使い方が変化がとてもいい。
 とてもすばらしいシーンが三つある。
 一つ目。
 最初に男と女が近付いたあと……。女が男に「車で送ってくれ」と頼む。その車内。タンゴの曲は流れていない。流れていなけれども、とても小さく幻のように、リズムが聞こえる。そんな感じで男と女の様子が映し出される。そのふたりの胸の中で、静かに思いだされているメロディーとリズム。それが胸に響いてくる。あ、どこかで絶対、極小の音がなっているはず、と耳をすます。しかし、耳からは聞こえない。私の体のなかから聞こえる。この瞬間、私は、この映画が好きになった。
 音楽なしで音楽を感じさせる。そういうことができる監督であり、また出演者だ。
 映画の醍醐味である。
 あとは、加速度的に突き動かされていくだけだ。
 二つ目。
 2度目の車内。男と女はタンゴのステージを見た。男と女が激しい情熱を隠しながら踊っている。その音楽が車内に鳴り響く。もちろん、これはカーステレオではなく、男と女の内部で鳴り響いている音楽が、そのまま映画として再現されている。このシーンは、先に書いた音のない音楽があってこそ、とても感動的だ。1回目の車内では音として表現していないのに、それが音として聞こえる。それがあるからこそ、2回目が、いわばバックグラウンドミュージックなのにバックグラウンドミュージックではなく、心そこから響いている音楽だと感じられるのだ。
 三つ目。
 いったん不仲になった男と女がよりを戻す。そしてタンゴを踊る。部屋の中。このときの音楽は? レコードをかけている? かけていない? わからない。わからなくていいのである。
 実際にレコードで音楽が鳴っていようが、あるいは鳴っていまいが同じことなのである。二人のなかには音楽が存在し、二人はそれを単に思いだして聞くだけではなく、それにあわせてダンスができる。耳をすまし、幻の音楽を聴くことはだれにでもできる。しかし、その幻の音楽を共有し、それにあわせてタンゴを踊ることができるのは、愛し合っている二人だけである。数も数えなければステップもことばにしない。体が共鳴している。
 そして、このときわかるのだ。
 レコードは鳴っていない、と。たとえ鳴っていたとしても、二人はレコードの音楽を聴いて、それにあわせて踊っているわけではない。二人のなかにある音楽にあわせて踊っているのだから。
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