監督 黒木和雄
出演 原田知世、永瀬正敏、松岡俊介
冒頭、病院のシーンがとても長い。まるで芝居である--と思って見ていたら、原作は松田正隆の同名戯曲だった。「父と暮らせば
」につづいて黒木和雄は戯曲を題材に映画を撮っている。黒木が訴えたいのは戦争の非人間性である。最後の部分に「明日があるということのしあわせ」というようなことばが出て来るが、「TOMMOROR/明日」以来、黒木は「明日」を突然奪ってしまうのが戦争である、「明日」を奪ってしまうから許すことができない、と訴えている。それはとてもよくわかる。よくわかるが、映画そのものとしては、冒頭のシーンが長すぎる。また、原田知世、永瀬正敏の若い二人に老人を演じさせることにもむりがあったように思う。会話から「きのう」が伝わってこないのである。
「きのう」は会話とは別に「きのう」そのものとして映像化される。つまり、この映画の主題である「紙屋悦子の青春」が芝居で言えば劇中劇のようにして差し挟まれる。
「きのう」の部分、特にお見合いでおはぎを食べるシーンは芝居では伝えることのできない表情のアップが美しい。おいしいものを食べるという手の動きが美しい。こういうシーンがもっとあればいいのに、とどうしても思ってしまう。
映画には映画が得意な描写がある。芝居には芝居の得意な描写がある。冒頭の病院の屋上のシーンなどは、同じことばの繰り返しだが、客の目の前に役者の肉体があることによってせつせつと胸に響く(と思う)。これが映画だと、ちょっとそらぞらしい。映画は役者の肉体をも伝えるけれど、こういう動きの少ないシーンでは、人生がろこつに表に浮いてしまう。どんなにメークに凝ってみても、実際の人間の皺には到達できない。皺が抱え込む時間には到達できない。体温というか、空気を伝えることができない。黒木はたぶん原作の松田に敬意をはらって、冒頭のシーンを戯曲のまま再現したのだろうけれど、映画には不向きなシーンだと思った。
この冒頭がもっと簡潔に処理されていれば、この映画の印象はもっと強くなったと思う。
*
黒木作品で私がもっとも好きな映画は「美しい夏キリシマ
」である。何よりも宮崎・霧島の風景、光が美しかった。戦争、人間の引き起こした破壊行為とは無関係に輝き続ける自然。そのなかにあって、人間は苦悩する。不倫もする。すべてを受け入れて、あるいは拒絶して、絶対的な存在としてそこにある自然。こんなにこんなに自然は美しいのに、人間は、やっぱり悲しい。苦しい。その対比の中に、生きていることの意味が浮かび上がる。人間は自然のように絶対的な美しさにはかなわない。しかし、苦悩する中に、人間の美しさが輝きだす。悲しみの中に人間の美しさが輝きだす。その輝きがいっそう輝きをますためにも「明日」はなくてはならない。いのちは「きのう」でおわってはならない。そういうことを、しっかり感じさせてくれる映画だった。
冒頭、病院のシーンがとても長い。まるで芝居である--と思って見ていたら、原作は松田正隆の同名戯曲だった。「父と暮らせば
「きのう」は会話とは別に「きのう」そのものとして映像化される。つまり、この映画の主題である「紙屋悦子の青春」が芝居で言えば劇中劇のようにして差し挟まれる。
「きのう」の部分、特にお見合いでおはぎを食べるシーンは芝居では伝えることのできない表情のアップが美しい。おいしいものを食べるという手の動きが美しい。こういうシーンがもっとあればいいのに、とどうしても思ってしまう。
映画には映画が得意な描写がある。芝居には芝居の得意な描写がある。冒頭の病院の屋上のシーンなどは、同じことばの繰り返しだが、客の目の前に役者の肉体があることによってせつせつと胸に響く(と思う)。これが映画だと、ちょっとそらぞらしい。映画は役者の肉体をも伝えるけれど、こういう動きの少ないシーンでは、人生がろこつに表に浮いてしまう。どんなにメークに凝ってみても、実際の人間の皺には到達できない。皺が抱え込む時間には到達できない。体温というか、空気を伝えることができない。黒木はたぶん原作の松田に敬意をはらって、冒頭のシーンを戯曲のまま再現したのだろうけれど、映画には不向きなシーンだと思った。
この冒頭がもっと簡潔に処理されていれば、この映画の印象はもっと強くなったと思う。
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黒木作品で私がもっとも好きな映画は「美しい夏キリシマ