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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

黒木和雄監督「紙屋悦子の青春」

2006-09-26 23:52:06 | 映画
監督 黒木和雄 出演 原田知世、永瀬正敏、松岡俊介

 冒頭、病院のシーンがとても長い。まるで芝居である--と思って見ていたら、原作は松田正隆の同名戯曲だった。「父と暮らせば」につづいて黒木和雄は戯曲を題材に映画を撮っている。黒木が訴えたいのは戦争の非人間性である。最後の部分に「明日があるということのしあわせ」というようなことばが出て来るが、「TOMMOROR/明日」以来、黒木は「明日」を突然奪ってしまうのが戦争である、「明日」を奪ってしまうから許すことができない、と訴えている。それはとてもよくわかる。よくわかるが、映画そのものとしては、冒頭のシーンが長すぎる。また、原田知世、永瀬正敏の若い二人に老人を演じさせることにもむりがあったように思う。会話から「きのう」が伝わってこないのである。
 「きのう」は会話とは別に「きのう」そのものとして映像化される。つまり、この映画の主題である「紙屋悦子の青春」が芝居で言えば劇中劇のようにして差し挟まれる。
 「きのう」の部分、特にお見合いでおはぎを食べるシーンは芝居では伝えることのできない表情のアップが美しい。おいしいものを食べるという手の動きが美しい。こういうシーンがもっとあればいいのに、とどうしても思ってしまう。
 映画には映画が得意な描写がある。芝居には芝居の得意な描写がある。冒頭の病院の屋上のシーンなどは、同じことばの繰り返しだが、客の目の前に役者の肉体があることによってせつせつと胸に響く(と思う)。これが映画だと、ちょっとそらぞらしい。映画は役者の肉体をも伝えるけれど、こういう動きの少ないシーンでは、人生がろこつに表に浮いてしまう。どんなにメークに凝ってみても、実際の人間の皺には到達できない。皺が抱え込む時間には到達できない。体温というか、空気を伝えることができない。黒木はたぶん原作の松田に敬意をはらって、冒頭のシーンを戯曲のまま再現したのだろうけれど、映画には不向きなシーンだと思った。
 この冒頭がもっと簡潔に処理されていれば、この映画の印象はもっと強くなったと思う。

 黒木作品で私がもっとも好きな映画は「美しい夏キリシマ」である。何よりも宮崎・霧島の風景、光が美しかった。戦争、人間の引き起こした破壊行為とは無関係に輝き続ける自然。そのなかにあって、人間は苦悩する。不倫もする。すべてを受け入れて、あるいは拒絶して、絶対的な存在としてそこにある自然。こんなにこんなに自然は美しいのに、人間は、やっぱり悲しい。苦しい。その対比の中に、生きていることの意味が浮かび上がる。人間は自然のように絶対的な美しさにはかなわない。しかし、苦悩する中に、人間の美しさが輝きだす。悲しみの中に人間の美しさが輝きだす。その輝きがいっそう輝きをますためにも「明日」はなくてはならない。いのちは「きのう」でおわってはならない。そういうことを、しっかり感じさせてくれる映画だった。


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田中庸介「すいか」

2006-09-26 23:42:28 | 詩集
 田中庸介「すいか」(読売新聞9月19日夕刊)。

引越し祝いにすいかをもらった。
友人の夫妻がわざわざ朝早く
団地の玄関まで持ってきてくれた。
私が朝のごみを捨てて上がってくると、
友人が手をふるふる振って帰るところだった。
奥さんも手をふるふる振って帰るところだった。
立派なすいか割りに使えるほど大きな、
うちの冷蔵庫に入らないほどの大きな、
緑と黒の縞模様のすいかだ。
すいかの国では頭がすいかだ。
みずみずしい、
赤と黒の想念のかたまりが、
ジューシーな頭の中にぐるぐる回っている。
ところどころに白いシイナ、
黒い種にはかっちり愛がつまっている。
すかっと出刃包丁で解体すると、
甘い甘い想念が、頭からわらわらと流れ出し
夏の道路の上にこぼれ落ちる。
ああもったいない。もったいないよ。
午後には暑くなって
はじめての客が来た。みんな
二切れずつ食べて「おいしい。こんなおいしい
すいかはない」と言ってもう一切れに
また手がのびた。水餃子を作って
夜の公園で花火をやって
残ったすいかはラップをかけて
明日の朝、妻と二人でたべようと言っていたのに
ついつい忘れてそのままになった。
ことしの夏はすいかを食べた。

 とても単純な詩である。友人夫婦からスイカをもらった。食べた。そういうことを書いている。それなのに引きつけられる。

すいかの国では頭がすいかだ。

 という1行が強烈だからである。何のことかわからないからである。わからないけれど、なぜか、頭の変わりにすいかを乗せている人間がいる国を思い浮かべてしまう。田中のことばのスピードは、そういう変なものを可能にしている。読者の意識を、ことばの自然なリズムに乗せてしまう。ここに田中の詩のおもしろさがある。
 頭がすいかということは、頭がみずみずしいことだ。赤と黒の想念のかたまりが、ジューシーな頭の中にぐるぐるまわっていることだ、と田中のことばのままに、それを思い浮かべてしまう。
 ここに登場する「想念」ということばは観念的なことばであり、厳密に定義しようとすれば難しいけれど、今では日常的に誰もがつかってしまっている。田中はこういうことばを詩の中に自然に取り込み、それを魅力的に輝かせる。
 この「想念」ということばが登場した瞬間から、「頭」は「想念」そのものにとってかわられ、「おいしい想念」というものがあるとしたら、それは今目の前にあるすいかのようにみずみずしくてジューシーなものに違いないとさえ思ってしまう。そういうものをすいかを食べるように食べたいと思ってしまう。そう思い込ませる不思議な文体の力が田中にはある。
 切れば、そこからみずみずしい液体が、甘い甘い液体が溢れだし、こぼれてしまう。「ああもったいない。もったいないよ。」と叫ばずにはいられないほどのジューシーな「想念」。そういうものがあれば、どんなにすばらしいだろうと思う。そうした想念で手をべたべたにして、口の周りもべたべたにして、おいしいおいしいといってかぶりつきたい。「想念」とはそういうものであってしかるべきだ、と思ってしまう。
 すいかと「想念」は本当は同じ次元のものでなくてはならないのだ。
 たぶん田中はそういうことを言いたいために、この詩を書いているのだと思う。
 そして、そういう一種の哲学的なことを書きながら、ことばを日常そのものへ帰してしまう。同じ次元へ帰してしまう。すいかをもらった。大きくて冷蔵庫に入らないので包丁で割って冷蔵庫にいれた。客がきたのですいかを出した。おいしいといって食べて帰った……。
 まるで「想念とはジューシーであるべきだ」という哲学(思想)を隠してしまいたがっているようでさえある。
 しかし、これは隠しているのではなく、思想というものは、そんなふうに日常に紛れている。日常の中にしか哲学や思想は存在しない。すいかのみずみずしさ、ジューシーさ、切ればこぼれる豊かな甘いにおい、それをみずみずしいと感じるこころ、ジューシーと感じる肉体、甘いと感じる感覚--そういうものこそ、本当は「想念」そのものなのである。そういうものが含まれない「想念」などはない。そう告げたいのだと思う。

 田中の詩を読むと、田中はすいかについて書いたのか、それとも理想の想念についての思いを書いたのか、よくわからない。両方を書いたと思うのが一番いいだろう。すいかと想念は同じ。みずみずしくて、ジューシーで、甘いのが一番。
 ここには、田中の肉体でつかみとった「真実」がある。それが美しい。



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