パスカル・ペティット「火蟻の手袋」熊谷ユリヤ訳(「現代詩手帖」9月号)。
あらゆることがらが越境する。精神・感受性は、あらゆる越境と融合のなかで形成される--と、私の頭のなかで、未消化なままのことばが動く。強烈なイメージの交錯、いや、イメージではなく、現実の交錯がある。パスカル・ペティットのことばの動きには。そして、その動きに、私は翻弄される。受け止めることができない。受け止めているのではなく、投げかけられたことばが、私の体にぶつかる。そして、そのときそのことばが痛いというのならいいのだが、自分の痛みよりも、そのことばを投げつけているパスカル・ペティットの痛みの方がはるかに強烈に感じられる。奇妙な言い方かもしれないが、ことばを投げつけるパスカル・ペティットの痛み、肉体の痛みを感じてしまうので、ことばを受け止めているという感じがしない。
「火蟻の手袋」の書き出し。
パスカル・ペティットは出生を秘密を知る。強姦の結果、生まれたのだと知る。そうした事実に向き合うことは、事実の「密林」に入り込むようなことだろう。入り組んだ事実という密林のなかで自分の肉体・精神・感性を捕らえなおそうとしている--そう思って読むと、そうではなく、パスカル・ペティットの描く「密林」は本当のジャングルなのである。「密林」は比喩ではなく、現実なのである。
実際に密林を訪ねる。そこで成人式の儀式を体験する。火蟻の手袋に手をつっこみ、その痛みに耐えるという儀式を体験する。
そこでの体験は、どれがパスカル・ペティットの体験であるのか、よくわからない。火蟻の攻撃に悲鳴もあげず耐えるのは彼女の肉体なのか、それとも母親の肉体、強姦されるときの痛みなのか、わからない。また火蟻が分泌する匂いは、自分が嗅いでいるのか、母が嗅いでいるのかわからない。そして、自らの分泌するにおいをもしかすると父も嗅いだのではないのか、と問わずにいられない。あるいは、父は、母の押し殺した悲鳴を聞いたのか、聞こえたのかと問わずにはいられない。それは火蟻の攻撃の痛みに耐えるために想像した幻だろうか。それとも、その幻があるからこそ、火蟻の攻撃する痛みがあるのだろうか。
こうしたさまざまな痛みの融合は、父と母の手紙の往復のなかにもある。そして、それを読んだ詩人のなかにもある。すべてが入り組む。火蟻が刺すときの肉体の痛みが、手紙のなかの痛みを引き出す。精神が痛いのではなく、肉体が痛いのだ。
腹が痛くてうずくまる人間を見ると、それが自分の肉体の痛みでもないのに、人間はそれを自分の痛みのように感じる。腹を抱えてうずくまっている人が腹が痛いのだとわかる。それと同じように、パスカル・パティットは父と母のやりとりした手紙を読みながら、彼らが互いに痛みをかかえていることをわかってしまう。肉体でわかってしまう。そのわかったことが火蟻の手袋という成人式の儀式でよみがえる。よみがるえとき、それは肉体の痛みでありながら、同時に、精神の、感性の痛みに変わる。
その2行の、切れ目のない連続。「密林」が象徴(精神のありようの比喩)ではなく、現実のジャングルだったように、火蟻の手袋という儀式のなかで、肉体と精神が密着し、入れ代わる。
強姦の事実を知ったことと、密林へ行くことの間には、時間的、空間的な「断絶」というか、距離がある。しかし、その隔たりを、先の2行はないものとして描く。そして、実際には、その密林と部族の人たちは切り離せないものなのに、1行の空白があって、
という具合にことばが進む。散文の構造とはまったく違った構造でことばが展開される。遠く離れたものが密着し、密着しているものが分離される。そして、その密着しているものを分離したときに生じる空隙に、遠く離れたものが侵入してくる。あるいは密着しているものの密着の内部から、遠くにあるものが、その密着の秘密はこれなのだというふうに自己主張してあらわれる。密着を破って噴き出してくる。
強姦の結果生まれた子どもであると知ったから密林へ行ったのか、密林へ行ったから強姦の結果生まれた子どもであるということを再び思い出し、その事実と向き合ったのか。そうしたことは、分離してみても無意味なことである。強姦の事実を知った。手紙を読んだ。密林へ行った。火蟻の手袋の儀式を耐えた。そうした体験は、融合して、切り離せないものになっている。切り離せないものになっているからこそ、切り離せないことばのまま噴出し、それがパスカル・ペティットという肉体としてその前に立ち上がってくる。詩を読む私の前に、ことばとしてではなく、肉体として立ち上がってくる。
「現代詩手帖」には他に3篇の詩が訳されているが、どれも強烈である。どこに触ってみても、そこから生の声が噴出してくる。まるで裸の女に触れたとき、女がもらす声のように。肉体に触ったのか、声に触れたのか、まるでわからない。そんな強烈さがある。
あらゆることがらが越境する。精神・感受性は、あらゆる越境と融合のなかで形成される--と、私の頭のなかで、未消化なままのことばが動く。強烈なイメージの交錯、いや、イメージではなく、現実の交錯がある。パスカル・ペティットのことばの動きには。そして、その動きに、私は翻弄される。受け止めることができない。受け止めているのではなく、投げかけられたことばが、私の体にぶつかる。そして、そのときそのことばが痛いというのならいいのだが、自分の痛みよりも、そのことばを投げつけているパスカル・ペティットの痛みの方がはるかに強烈に感じられる。奇妙な言い方かもしれないが、ことばを投げつけるパスカル・ペティットの痛み、肉体の痛みを感じてしまうので、ことばを受け止めているという感じがしない。
「火蟻の手袋」の書き出し。
お父さんへ。お母さんが死んだあと、お父さんと
お母さんが交わした手紙を全て読んで、自分が
強姦の果実なのだと知ってしまいました。そして、
密林の奥深くへと入って行きました。そこで会った
部族の人たちが、手紙の儀式を手伝ってくれました。
成人式の試練に耐えようとする少年の介添えを
するように。長老たちは 巨大な火蟻の巣を襲い
黒く艶のある獰猛な兵隊蟻を三〇〇匹捕らえ
蟻の腹部に生えた毒針が内側にならぶように
シュロの繊維でつくった手袋を編み込みました。
パスカル・ペティットは出生を秘密を知る。強姦の結果、生まれたのだと知る。そうした事実に向き合うことは、事実の「密林」に入り込むようなことだろう。入り組んだ事実という密林のなかで自分の肉体・精神・感性を捕らえなおそうとしている--そう思って読むと、そうではなく、パスカル・ペティットの描く「密林」は本当のジャングルなのである。「密林」は比喩ではなく、現実なのである。
実際に密林を訪ねる。そこで成人式の儀式を体験する。火蟻の手袋に手をつっこみ、その痛みに耐えるという儀式を体験する。
そこでの体験は、どれがパスカル・ペティットの体験であるのか、よくわからない。火蟻の攻撃に悲鳴もあげず耐えるのは彼女の肉体なのか、それとも母親の肉体、強姦されるときの痛みなのか、わからない。また火蟻が分泌する匂いは、自分が嗅いでいるのか、母が嗅いでいるのかわからない。そして、自らの分泌するにおいをもしかすると父も嗅いだのではないのか、と問わずにいられない。あるいは、父は、母の押し殺した悲鳴を聞いたのか、聞こえたのかと問わずにはいられない。それは火蟻の攻撃の痛みに耐えるために想像した幻だろうか。それとも、その幻があるからこそ、火蟻の攻撃する痛みがあるのだろうか。
こうしたさまざまな痛みの融合は、父と母の手紙の往復のなかにもある。そして、それを読んだ詩人のなかにもある。すべてが入り組む。火蟻が刺すときの肉体の痛みが、手紙のなかの痛みを引き出す。精神が痛いのではなく、肉体が痛いのだ。
腹が痛くてうずくまる人間を見ると、それが自分の肉体の痛みでもないのに、人間はそれを自分の痛みのように感じる。腹を抱えてうずくまっている人が腹が痛いのだとわかる。それと同じように、パスカル・パティットは父と母のやりとりした手紙を読みながら、彼らが互いに痛みをかかえていることをわかってしまう。肉体でわかってしまう。そのわかったことが火蟻の手袋という成人式の儀式でよみがえる。よみがるえとき、それは肉体の痛みでありながら、同時に、精神の、感性の痛みに変わる。
強姦の果実なのだと知ってしまいました。そして、
密林の奥深くへと入って行きました。そこで会った
その2行の、切れ目のない連続。「密林」が象徴(精神のありようの比喩)ではなく、現実のジャングルだったように、火蟻の手袋という儀式のなかで、肉体と精神が密着し、入れ代わる。
強姦の事実を知ったことと、密林へ行くことの間には、時間的、空間的な「断絶」というか、距離がある。しかし、その隔たりを、先の2行はないものとして描く。そして、実際には、その密林と部族の人たちは切り離せないものなのに、1行の空白があって、
部族の人たちが、手紙の儀式を手伝ってくれました。
成人式の試練に耐えようとする少年の介添えを
という具合にことばが進む。散文の構造とはまったく違った構造でことばが展開される。遠く離れたものが密着し、密着しているものが分離される。そして、その密着しているものを分離したときに生じる空隙に、遠く離れたものが侵入してくる。あるいは密着しているものの密着の内部から、遠くにあるものが、その密着の秘密はこれなのだというふうに自己主張してあらわれる。密着を破って噴き出してくる。
強姦の結果生まれた子どもであると知ったから密林へ行ったのか、密林へ行ったから強姦の結果生まれた子どもであるということを再び思い出し、その事実と向き合ったのか。そうしたことは、分離してみても無意味なことである。強姦の事実を知った。手紙を読んだ。密林へ行った。火蟻の手袋の儀式を耐えた。そうした体験は、融合して、切り離せないものになっている。切り離せないものになっているからこそ、切り離せないことばのまま噴出し、それがパスカル・ペティットという肉体としてその前に立ち上がってくる。詩を読む私の前に、ことばとしてではなく、肉体として立ち上がってくる。
「現代詩手帖」には他に3篇の詩が訳されているが、どれも強烈である。どこに触ってみても、そこから生の声が噴出してくる。まるで裸の女に触れたとき、女がもらす声のように。肉体に触ったのか、声に触れたのか、まるでわからない。そんな強烈さがある。