松浦の文体は外国語の影響が強い。「川の光」42(読売新聞、2006年9月11日夕刊)を読み、再確認した。
「その」「それ」が頻繁に出てくる。欧米の言語なら「定冠詞」である。先行する名詞の前につき、その名詞(存在)が登場人物によって意識化された存在であることを明らかにする。
松浦は常に先行する存在を意識する。先行する存在を踏まえて意識を動かす。これはあたりまえのようで、あたりまえではない。
「ガムテープでぴっちり梱包されている。」という文には「その」「それ」がない。しかし、何が「ガムテープでぴっちり梱包されている」のかは誰にでもわかる。前に出てくる「ダンボール箱」である。だから省略される。省略によって文章にスピードが出る。多くの作家(文章家)はそうした手法をとる。
松浦もここではそうした文章作法を踏まえているが、他の部分では「その」「それ」を多用する。定冠詞によって存在を意識することで、意識の道筋を明確にする。松浦の意識の明瞭さは定冠詞によって動いている。そうしたことを告げる文章である。そしてこれは、松浦の描きたいのは、いつでも意識の流れ、意識の運動(それが意識の「ずれ」であっても)であることを意味する。
「川の光」はこれまでの松浦の小説と大きく違っているようにみえるが、松浦の文章が、「童話」風の作品であっても、意識の運動が重視されているという点からみると、たの作品と同質であることがわかる。
三匹は長いコンクリート壁に沿って走っていた。その切れ目に通用門のような扉があり、お父さんはそれと地面との間の細い隙間(すきま)にもぐりこんだ。チッチとタータも後に続く。庇(ひさし)の下にダンボール箱が転がっているのが目に入った。お父さんは駆け寄ってその上に飛び乗った。ガムテープでぴっちり梱包(こんぽう)されている。お父さんは躊躇(ちゅうちょ)することなく、その角をかじりはじめた。ほんの数分で小さな穴が開いた。それを広げるのにさらに数分。
「その」「それ」が頻繁に出てくる。欧米の言語なら「定冠詞」である。先行する名詞の前につき、その名詞(存在)が登場人物によって意識化された存在であることを明らかにする。
松浦は常に先行する存在を意識する。先行する存在を踏まえて意識を動かす。これはあたりまえのようで、あたりまえではない。
「ガムテープでぴっちり梱包されている。」という文には「その」「それ」がない。しかし、何が「ガムテープでぴっちり梱包されている」のかは誰にでもわかる。前に出てくる「ダンボール箱」である。だから省略される。省略によって文章にスピードが出る。多くの作家(文章家)はそうした手法をとる。
松浦もここではそうした文章作法を踏まえているが、他の部分では「その」「それ」を多用する。定冠詞によって存在を意識することで、意識の道筋を明確にする。松浦の意識の明瞭さは定冠詞によって動いている。そうしたことを告げる文章である。そしてこれは、松浦の描きたいのは、いつでも意識の流れ、意識の運動(それが意識の「ずれ」であっても)であることを意味する。
「川の光」はこれまでの松浦の小説と大きく違っているようにみえるが、松浦の文章が、「童話」風の作品であっても、意識の運動が重視されているという点からみると、たの作品と同質であることがわかる。