詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩木誠一郎「夜のほとりで」、北川透「出会い」

2018-12-05 12:57:24 | 2018年代表詩選を読む
岩木誠一郎「夜のほとりで」、北川透「出会い」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 岩木誠一郎「夜のほとりで」(初出『余白の夜』1月)については、感想を書いた記憶があるが、もういちど書いてみる。

のどの渇きで目覚めて
台所に向かう
いやな夢を思い出したりしないように
そっと足を運び
ひんやりした空気に
触れる頬のほてりが
しずまるまでの時間を歩いてゆく

ずいぶん遠くまで
来てしまったらしい
冷蔵庫の扉には
たくさんのメモが貼られていて
読みにくい文字をたどるたび
失われたもののことが
ひとつずつよみがえる

 二連目の「ずいぶん遠くまで/来てしまったらしい」がとてもいい。寝室から台所までだから「遠い」ことはない。空間としての距離は「近い」。空間ではなく、時間が「遠い」のだ。
 「時間」ということばは、すでに一連目に登場しているが、「時間」の指し示すものは違う。一連目は、あくまで「短い間」である。家のなかでの、寝室から台所へ移動するまでの「時間」。一分とか、二、三分とか。その短い間にも、頬は冷気に触れて冷たくなる。
 二連目は、「短い時間」ではない。「思い出」にかかわってくる。しかし、「いやな夢」の思い出ではない。それは、やはり「近い時間」だ。
 そうではなくて、「いつかわからない」時間だ。いつ、とはっきり思い出せないから「遠い」。でも、なぜ思い出せないのに、思い出なのか。
 「たくさんのメモ」が、メモが書かれた瞬間を思い起こさせるからだ。いや、これは正確ではない。メモを書いた瞬間など、めったに思い出さない。何も思い出さないけれど、メモは、ある「時間」があったことを告げている。メモのなかには、岩木が書いたものではなく、家族が書いたものもあるだろう。それは岩木とは無関係かもしれない。岩木の思い出ではない。けれど、そこに「時間」が「あった」ということを教えてくれる。この「あった」という感じが「遠い」なのだ。
 だから、この「遠い」は、それこそ次の行にあらわれる「たくさん」と言い換えることができる。「たくさんの時間をくぐりぬけてきてしまった」(たくさんの思い出を生きてきてしまった)。
 誰もが知っている簡単なことばなのに、読むたびに、そのことばが指し示すものが違ったものに見えてくる。こういう瞬間が、楽しい。

 北川透「出会い」(初出「西日本新聞」1月1日)。「これまで生きてきた年数よりも/これから生きられる わずかな年月を/想うようになった」と始まる。その最終連(三連目)。

賑やかな街の交差点で
大勢の人と並んで信号を待つ
誰もむっつりしてことばを発しない
でも 人はことばだけではなく
存在でも語りかける 青信号で一歩を踏み出す
働く者の喜びと悲しみ それがどうして
わたしの心音と共鳴しないことがあろうか

 「人はことばだけではなく/存在でも語りかける」が北川の書きたかったことだろうか。これはさらに「働く者の喜びと悲しみ それがどうして/わたしの心音と共鳴しないことがあろうか」と言いなおされている。
 感動的ではある。この「感動」というのは、自分が感じたことがないところへ自分を連れていってくれるという感動である。「働く者」(自分ではない者、労働者)と「自分」は同じ人間ではない。同じ立場の人間ではない。けれども、どこかで「心音」が共鳴する瞬間がある。いっしょに生きているのだから。そういう「夢」を見せてくれる。
 感動というのは、別なことばで言うと、自分が自分ではなくなることを夢見ることができる瞬間に動いているのだろう。「いま、ここ」にいる私を忘れ、他人の「いま、ここ」に自分を重ね、同じ気持ちを感じるというのが感動なのだろう。
 それこそ「心音が共鳴する」瞬間。
 でも、私は、そのことばよりも、その直前の

誰もむっつりしてことばを発しない

 がいいなあ、と思う。この一行が好き。
 ここには「感動」はない。この瞬間、むっつりしている人と「心音」は「共鳴」しない。むしろ、共鳴しないことを実感するといってもいい。
 何の接点もない「他人」がいる。「非人情(非情)」が、ここにある。この「拒絶感」の「手触り/不機嫌さ」のようなものが、リアルでいいなと思う。
 「現実」を感じることができるからだ。感動よりも「事実」の方がおもしろい。




*

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岡本啓「野ウサギ」、新川和江「さわる」

2018-12-04 11:07:24 | 2018年代表詩選を読む
岡本啓「野ウサギ」、新川和江「さわる」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 岡本啓「野ウサギ」(初出「かばん」17年12月号)。

なにを眺め
なにを見落としているのだろうか
しゃがむと
野ウサギはまだあたたかかった
純白の腹と灰の毛並み
息をひきよせようと
身体をのばしているかのように見えた

 一連目。最後の二行が「写実」。「ひきよせる」と「のばす」という反対方向の運動が結びつき、ウサギの死の瞬間を活写する。「見えた」は「なにを眺め/なにを見落としているのだろうか」と書き始めたために、おのずとあらわれてしまった動詞だが、ない方が「真実」になる。「見えた」は、「真実」を「客観化」する分、ことばが弱くなる。
 でも、いいなあ。
 思わず傍線を引き、読み返してしまう。
 詩は、こうつづいていく。

あと数分でついえてしまう
野のむき出しの魂

市街では知ることのない存在が
ハイウェイにかかる孤独な橋で
あらゆる関係からほどけて
ひとりでに去っていく

 「写実」が崩れる。
 岡本は「見えた」というかもしれないが、私は「魂」を見たことがない。「むき出しの魂」も、わからない。「見えた」というよりも、ことばの力を借りて、「見ようとしている」と感じた。
 ここからは、ことばでしか書けないこと、言い換えると肉眼で見たものではなく、意識(精神)の運動が見たものへとことばが動いていく。「あらゆる関係からほどけて/ひとりでに去っていく」は、そういうことばの運動の、この作品での頂点であると思う。こういう抽象力を実際の風景のなかで動かすところに岡本の力があるのかもしれない。
 でも。

立ち上がり
そのまま白鳥山の森にはいって
クモの巣をはらった
山頂はみつからなくて、だれともすれ違わなかった
また枝を踏み、もとの橋にさしかかる
さっきの野ウサギがいない

ハイウェイの速度は
どこまでも湧きあがっていく
晴れやかな空に
はるか一羽、旋回する鳶が
白をつかんでいるのが見えた

 「野ウサギがいない」。これは「事実」だろう。そして、そのことばのあとには「見えた」ではなく「見た」ということばが省略されている。
 抽象へ踏み込んだことばを、もう一度「現実」に引き戻し、ことばを落ち着かせている。私は「あらゆる関係からほどけて/ひとりでに去っていく」、いや、「去っていってしまった」ものを思い、とても静かな気持ちになる。
 でも。
 最終連で、いやあな気持ちになる。鳶が死んだ野ウサギをつかまえて空を飛んでいるのが、ほんとうに「見えた」のか。「魂」が鳶の力を借りて、天へ帰っていく、飛翔していくと読んでもいいのだけれど。
 嘘っぽいなあ、と思う。
 ほんとうに何かを見たときは「見た」という動詞は、知らず知らず省略される。「見たもの」「見えてしまった事実」に驚き、「見た」ということばを補うことを忘れてしまうのが人間だ。「さっきの野ウサギがいない」には「見た」がなかった。
 「見なかった」ものを「見た」というために「見えた」ということばがあるように思う。「見なかった」けれど「見えた」と書くことで、ことばの運動を終わらせる。「事実」を終わらせるのではなく、「ことばの運動」(論理)を完結させる。そのための最終連だね、これは。
 私は、こういう作品が嫌い。
 ちょっと村上春樹を思い出しながら、「嫌い」ということばを追加しておく。ここには「論理の運動」が詩を装って書かれているだけだ。

 新川和江「さわる」(「阿由多」17年12月)と比較してみよう。

公園のベンチに
老人がひとり 腰かけている
なんという木か知らないが
背後に大きな木があって
いちばんしたの枝が
ときどき 老人の肩にさわる
吹くともない風があって
枝をそよがせているのだが
じぶんの肩に手をおいてくれるひとが
まだいるのだ と老人は思っている
木の枝であることを
じゅうぶん承知していながら
振り向かず
そう思っている

 ここには「見た(見る)」がないが、書き出しの二行は、「公園のベンチに/老人がひとり 腰かけている」のを「見た」である。もちろん、ベンチに座っている新川自身を「客観的な目」で描写しているのであって、肉眼で見ているのではない、と読むことができるが、いずれにしろ「見た」を補うことができる。
 同じように「背後に大きな木があ」るのを「見た」、「いちばんしたの枝が/ときどき 老人の肩にさわる」のを「見た」と読むことができる。
 さらに、「じぶんの肩に手をおいてくれるひとが/まだいるのだ と老人は思っている」のを「見た」と補うことができる。
 で、この「見た」なのだが。
 私は「過去形」で書いてきたが、日本語のことば(動詞)は不思議で、何かに感動すると「過去」のことなのに「現在形」で描写してしまうことがある。感情の動きには「現在」しかないからだろう。
 この「じぶんの肩に手をおいてくれるひとが/まだいるのだ と老人は思っている」のを「見た」は「見る」の方が、強い「実感」になる。「見た」ではなく「見る」、「見ている」なのだ。
 そして、いったん「実感」が動き出すと、とんでもないことが起きる。
 「木の枝であることを/じゅうぶん承知していながら/振り向かず/そう思っている」のを「見る」のだが、「思っているのを見る」は「思ってみる」へとするりと変化する。「見ている老人/見えている老人」が「思ってみる」ということばのなかで、するりと新川に変わってしまう。「自画像」が突然出現する。
 新川は公園で見かけた老人を描いたのか、自画像を描いたのか、という区別はなくなる。見かけた老人を描いたにしろ、それはことばで描いている内に自画像になってしまう。主客が「一体」になる。「ひとつ」になる。この瞬間、詩が生まれる。
 私は、こういう作品が好きだ。「論理」を「実感」が壊して動いてしまう詩が好きだ。

 私は、好きと嫌いを、こんなふうに区別している。


*

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貞久秀紀「松林のなかで」

2018-12-03 12:28:32 | 2018年代表詩選を読む
貞久秀紀「松林のなかで」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 貞久秀紀「松林のなかで」(初出「カルテット」4、17年11月)は、どう読まれているのだろうか。
 読んだあと、私のことばは、どう動いていくことができるか。

松林のなかの道を歩いていたひとで
この子もまたわたしと歩いていることにいくどか気づくようにみえたのは
松ぼっくりにかけ寄り
近くしゃがんでこわごわ触れてもどるたび
あいた目でわたしをさがしては
とらえた一果を分けあたえてくれるときだった

 「主語」は何だろうか、「述語」はどれだろうか、何だろうか、と問うことは詩の読み方として適切ではないかもしれない。しかし、私はいつでも「主語/述語」を探して読む。
 私は「気づくようにみえたのは」を「主語」、「ときだった」を「述語」と読む。「気づくようにみえたのは」の「気づく」の「主語」は「この子」かもしれないが、私は「歩いていること」と「誤読」する。「わたし」とか「子ども」とか、「人間」ではなく、「動詞を含むできごと」と読む。「動詞(できごと)」が「主語」となって、別の「動詞」を「述語」へと動かしていく。「人間」は「わたし」も「子ども」も「ことばの運動」を成立させるための「方便」であり、また、「論理(意味)」を攪拌させる手段にすぎない。
 ここに書かれているのは「歩く」「気づく」「かけ寄る」「しゃがむ」「もどる」「さがす」「とらえる」「分ける/あたえる」という「動詞」であり、その「動詞」の方便として「わたし」や「子ども」がつかわれている。「きみ」でも「老婆」でもいいのだ。もちろん「子ども」と「わたし」がいれかわってもいい。「子ども」は「記憶の子ども」、「わたし」が「想像のわたし(未来のわたし)」であってもいい。というか、そういう不確定な「入れ換え」を促すために仮に書かれている。人は(読者は)、誰に自分を重ねて読むか。作者の指示にしたがう必要はない。作者自身も、自分を作品の登場人物に重ねているわけではない。たとえそれが「私小説」であっても。
 しかし、読者は「動詞」を自分の「肉体」で反復しながら、ことばの世界へ入っていく。「歩く」という動詞にであったとき、走りたくても走れない。泳ぎたくても泳げない。車で移動したくても移動できない。もちろん飛行機でも行けない。「動詞」のなかで、読者は作者と出会い、また登場人物と出会う。それ以外に、出会いようがない。
 で。
 (ここから、かなり飛躍する。私自身、まだ、考えていないことを、これから書くので、飛躍するしかない。私は「結論」というものを想定して書いているわけではなく、ことばがどこまで動くかを知りたくて書くからである。)
 で、「気づくようにみえたのは」を「主語」、「ときだった」を「述語」と読むとき、「主語」と「述語」のあいだに入り込んできたいくつもの「動詞」が気になる。「動詞」というのはとても簡単な仕組みをもっている。「動く」。そして「動き(動詞派生の名詞)」というのは「時間」を必要としている。「ときだった」は「とき」という「名詞」と「ある」の「過去形」がくっついたもので、正確には「述語」とは呼べないものかもしれないのだが、私は国語学者でも国語教師でもないので、テキトウにそう呼んだ「ツケ」みたいなものに直面する。そして同時に、この「とき」こそが問題なんだよなあ、とも思う。
 ここが、飛躍だね。
 そして、飛躍してしまうしかないところに、実はこの詩のキーワードがある、とも思う。一回限り、強引に「ことば」にしないことには動かせないものに出会う。私自身は「わかっている」が、それを「他人にわかる形」で書くために、どうしてもつかわないといけないことばがある。
 たぶん、貞久も、無意識というか、どうしようもなくてつかったことばが、ここに隠れている。「とき」が。
 それが証拠に(?)、貞久は、この「とき」をすぐに言いなおす。言いなおすことで隠そうとする。隠そうとすることは、あらわしてしまうことでもあるが。
 どう隠すのか。どう、あらわすのか。

ある日

 このほとんど無意味な一行を挟んで、詩のことばは反復する。

ある日
この子が松ぼっくりをたづさえ
あたえようと来てさがしはじめているところに小さな余地がひらけ
触れうる固さをもつわたしが待っていた
それを子はともによろこび
ひらかれてゆくこの手のひらの途中に
乾いた松を置いた

 この「ある日」は、いつ? 前半の部分よりも「あと」? そうではなくて、これはやはり「とき」のずれのなかで反復し、「とき」とは何かを「意味」にしようとしているということだろう。
 「わたし」と「子ども」の関係、松林のなかを歩き、松ぼっくりをみつけ、それを「分け/あたえる」ということが繰り返されている。繰り返すことで、動詞の意味と、時間の意味を、辞書には書かれていない意味にまで高めようとしている。抽象といってもいいし、概念といってもいいし、哲学と呼んでもいい。
 で。(再び、「で」であるが……)
 私は、こういう詩、こういうことばの運動が嫌いである。
 うさんくさい。(なんといっても、「あたえる」という動詞が「外国語」っぽい。)
 「ある日」を中心にして、「対称」の世界が描かれ、対称になった瞬間に「比喩」が「抽象」に変化し、「意味」が動く。その「意味」が「哲学」を指向する。たぶん「外国」の。
 この運動は、完結している。学者の「論文」のようだ。完結しているから矛盾はない。矛盾はないから「完璧」に見える。たぶん、その完璧さゆえに、こういう詩は評価される。「完璧」をうさんくさいという人は、たぶん、いない。でも、私はうさんくさいと感じる。身を引いてしまう。身を引きながら、遠くから、「違うぞ」と声を上げる。





*

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稲川方人「はなぎれのうた」

2018-12-02 13:37:58 | 2018年代表詩選を読む
稲川方人「はなぎれのうた」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 稲川方人「はなぎれのうた」(初出「三田文学」秋期号、17年11月)を読みながら、詩は、いつからこんなに長くなったのだろうと思った。こんな長い必要があるのか。

いまは店を閉めた無人の豆腐屋のガラス戸に
伊野町の四辻に揺れている影を
いつまでも大切にと
紙切れが貼ってある
夏の陽にも
冬の陽にも
それは少し濡れながら人の眼を避け
思慕の行方にためらっている
飛行機雲が消えていく虚空にも
笑う人や
泣く人がいて
電線の風が鳴ると彼らの声が鎮まる
約束のような死者への思いが尽きず
海の名を宛名にした手紙に
新しい日付けを添えて
僕は来た道を帰り
帰った道をまた戻る

 「風景」(光景)をただ描写していく。光景は比喩になり、抽象を重ねて意味になるか、ならないか。意味になることを拒んで、折れ曲がっていくようでもある。そういう視点から見れば、これは江代充の詩の方法に似ているかもしれない。違うのは、江代の詩が短いのに対して、稲川の詩が長いという点である。
 私が引用したのは作品の書き出しの方である。「思慕の行方にためらっている」までで、十分に完結していると思う。ここまでは、私はとても「いい気持ち」で読み進んだ。
 それ以後は、それまでの行に別の行を重ねることで、抽象(意味)を促しているように思えた。
 「飛行機雲が消えていく虚空」は「店を閉めた無人の豆腐屋のガラス」と重なる。人のいない店のガラス戸。そのガラスの「虚空」に、飛行機雲の空が映っているようにも感じられる。ガラスはそのまま「虚空」になって、空にひろがる。飛行機雲は、張り紙である。張り紙が飛行機雲である。「泣く人/笑う人」の対比は「夏の陽/冬の陽」と重なる。「人目を避け」は「声が鎮まる」、「死者への重い」は「思慕の行方」と重なる。「ためらっている」は「来た道を帰り/帰った道をまた戻る」に重なる。
 重なったからといって、そこからはっきりした「抽象/意味」が出てくるわけではないが、まだ書かれていない「意味」を見つけ出そう、自分のものにしようとしている運動を感じる。
 で。
 読み通すと、私の感じでは一篇の詩というよりも、「一冊の詩集」と言う感じがする。たぶん、数行ずつの短い詩として、一冊の詩集として読んだなら、私は感動したと思う。詩と詩が呼び合って、静かに変化していく。読み進むたびに、さっき読んだばかりのことばが違う音で鳴り響く。そしてそれが、まだ読んでいない詩のことばを静かに育てる、あるいは生み出すという印象となってひろがっていくように思う。

ヒバの木々の下に桃色の水晶は光り
小さな墓がいくつも並んで海鳴りを聞いている
「東京ワルツ」の千代田照子さん
昭和二十九年の春に
母の細い歌があなたを真似ておりました

 豆腐屋のガラス戸は「水晶」に、「あなた」は「千代田照子」にと重なる。「死者」は「千代田照子」なのか「母」なのか。ふたりとも死んだのか。「母の細い歌があなたを真似ておりました」という「翻訳調」のことばの動きも、反復しながらの前進を感じさせる。この一行のなかに、すでに「言い直し」があるのだ。

遠いところにいるあなたの憂慮
それを僕は誰にでも伝えてみたかった
どんな文字も竪琴を乗せるあなたの膝の上で
意味を紡いでいるから
拙い国、暴力の国
小さな命の群れの
その怨みは優しい怨みだから
決して途絶えることのないよう
決して奪われることのないよう

 どこで切断するか、読者によって違うと思うが、私はこうやって、あえて「切断」することで稲川を「抒情詩」と「誤読」したい。






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朝吹亮二「人の野」

2018-12-01 10:55:23 | 2018年代表詩選を読む
朝吹亮二「人の野」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 「現代詩手帖」2018年12月号に「アンソロジー 2018年代表詩選 130選」が載っている。はじめて読む作品が多い。少しずつ感想を書いてみる。

 朝吹亮二「人の野」(初出「文藝春秋」17年11月号)。

秋の、野の、ひろがり
人の野だから、小鳥たちはさえずる、粘菌たちは繁茂する
颱風が去って、化粧する朝、乳香が煙っている
冷めた紅茶、燃えかす、ゆっくりしかすすまない時計
おもいで、が降りつもる、のだろうか
ここは本当の、室内、なのだろうか
また風が、立って、逆まいて
やんで、波動が消える、朝
何かがさえずる、人の野、誰もいないのに

 わからないことがたくさんある。
 「人の野」がわからない。それだけではなく「人の野だから」の「だから」がわからない。もし「人の野」ではなく「野」だったら小鳥はさえずらないのか。「だから」は「理由」や「原因」をあらわしているとは思えない。
 「小鳥たちはさえずる、粘菌たちは繁茂する」は「事実」ではなく、朝吹が「気づいたこと」なのだ。もちろん「客観的事実」と「朝吹が気づいたこと/認識したこと」は同じことを指すかもしれないが、朝吹が書いているのは「主観的事実」というものである。
 つまり、それは「比喩」であり、どんなに具体的であっても、具体ではなく「抽象」であり、まだ実現していない「概念」へ向けて朝吹をひっぱっていこうとすることばなのだ。
 「認識としてのことば」が交錯しながら(たがいに刺戟しながら)、ひとつのことばだけでは言えないものを「抽象化」する。いろいろな「名詞」があるが、「動詞」の方に私は注目して読む。
 「ひろがる」と「繁茂する」は似ている。「去る」と「冷める」にも共通項がある。それは「繁茂する」とは異質だ。しかし「ひろがる」には重なるものがある。そこにあったものが「去る」と「ひろがり」が残される。「冷める」は「あたたかいもの」が「去る」ことであり、それが去ったあとには「冷たさ」が「ひろがる」。「燃えかす」は名詞だが「燃えて、かすが残る」という具合に動詞にしてみることができる。それはやはり「冷える/去る」と重なる。
 これに「ゆっくりとしかすすまない」という副詞と動詞がおおいかぶさる。あるいは、それらのことばのなかから「ゆっくり」と「すすむ/すすまない」があらわれてくる。「すすむけれど、ゆっくり」という「矛盾」を印象づける。(ここには「煙る」も反映している。)
 「矛盾」は疑問を呼び覚ます。

おもいで、が降りつもる、のだろうか
ここは本当の、室内、なのだろうか

 繰り返される「なのだろうか」。これが、この詩のキーワードだ。「おもいで」と存在(名詞)を提示しておいて、それを半分否定する。「室内」も同じ。その瞬間「おもいで」も「室内」も存在せず、疑問に思うという動詞だけが残る。ことばだけが残る、と言い換えてもいい。ひとはことばなしには「疑問」をもつことができない。
 人とは「疑問」をもつという動詞として存在するのだ。疑問は答えを抽出するためのものである。もちろん、それは「正解」というものではない。「疑問」と同様、人をある方向へ導くだけである。「方向」をあたえるにすぎない。

 こう読んでくると「人の野」が何なのか、わかる。もちろん、この「わかる」は、私は「誤読する」ということだ。
 朝吹は、この詩に書いてあるとおりのことを書いている。しかし、私はそれを朝吹が想定したとおりには読むことができない。書かれていることば、読まれたことば。それは、違うものである。私は読んだことばについて書く。つまり、私がどう読んだか。どう「誤読」したか。言い換えると、朝吹のことばを、どうねじ曲げたか。
 考える、疑問に思う。そのとき、考えや疑問といっしょに存在してしまう「野」、それを「人の野」と朝吹は呼んでいる。それは、いつでも存在する「物理的な野(地理的な野)」ではなく、ことばとともにあらわれ、「比喩」として動き始めたあと、その「比喩」を「抽象」に変えていく。何かしらの「意味」になろうとする。(「立つ」「逆まく」「消える」からも同じことがいえるが、省略する。)
 「野」といいながら、「野」ではないもの、「室内」ということばが出てくるのはそのためである。ことばによって存在させられ、比喩から抽象、意味へと動いていくものだからこそ、そこには「野」の対極にある「室内」が必要になってくる。

 「人の野、誰もいないのに」、そこには「ことば」が動く。「ことば」が「人の野」をつくりだす。詩をつくりだす。



密室論
クリエーター情報なし
七月堂
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