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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」

2018-10-22 00:16:51 | 映画
スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」

監督 スタンリー・キューブリック

ユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多のIMAX(スクリーン12)で見た。製作50年を記念しての、2週間限定の上映。
 他の劇場はどうか知らないが、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多のIMAX(スクリーン12)では、見てはいけない。がっかりする。私は地方都市に住んでいるので巨大なスクリーンで、70ミリのフィルム版を見たことがない。最初に見たのは小倉の古い映画館(いまは、もうない)だった。フィルム上映で、横長のスクリーンだった。そのときの印象がいちばん強い。あと何回か見た。午前10時の映画祭でも2010年4月3日に見ている。これはフィルム版だ。このときも横長のスクリーンだ。私の感覚では、縦1、横2という感じ。ところが、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多のIMAX(スクリーン12)はかなり正方形に近い。横のサイズが完全に不足している。これでは昔のテレビを大きくしただけである。「宇宙」の感じがしない。
 私は、昔からユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多の音が大嫌いである。大きければそれでいいだろうという感じで、がんがん鳴らしている。耳が痛くなるだけである。月の基地で全員が耳鳴りに襲われるシーンの衝撃が台無しである。「青きドナウ」はまるで洪水だ。

 大好きな映画を見るとき(再映を見るとき)は、よほど注意しないといけない。
 「午前10時の映画祭」では「ゴッドファザー」のフィルム版が無残だった。漆黒の黒が安い喪服の黒になっていて、私は大変なショックを受けた。「七人の侍」は、デジタル版がよくない。かつらがつけていることがくっきりわかる顔が、かつらの境目を処理して目立たないようにしている。「映像」は「狙い」に近くなるのかもしれないが、手作りの力強さがなくなる。クライマックスも映像処理してつくったんじゃないか、と思ってしまう。(最初のフィルム版は、そういう処理ができなかった。)

 私は、この映画では、ハルが「デイジー……」と歌うところが大好きだ。ハル頑張れ、負けるな、と思わずコンピューターを応援してしまう。で、大好きだから、大変な勘違いをする。8年前の「午前10時の映画祭」のときの感想で、あのデイジーの歌はハルが記憶が壊れていくことに抵抗して(何とか記憶を保とうとして、知性を保とうとして)自発的に歌ったのだと思っていたが、違っていたという感想を書いた(と、思う)。それなのに、私はまだやっぱりハルのことを勘違いしている。コンピューターをつくった博士に歌を教わるシーンがあって、そこにはデイジーが一面に咲いているという映像があると思い込んでいた。そんなシーンなどない。2010年に見たときは、しかし、それには気づいていない。記憶が間違っていたとわかったのに、記憶間違いに気づきながらも、そこに昔の記憶をひきずっていた。
 で、変なことを書くのだが。
 映画にしろ、他の芸術にしろ、「間違って覚えている」というのは大切なことだと思う。衝撃が、「間違い」を引き起こして、それが記憶になる。その間違いの中には、間違うことでしかつかみとれない何かがある。私は、いまでも(いつでも)、ハルが大好きだ。デイジーを歌う場面が大好きだ。そのときハルはデイジーの花畑を見ていないが、私は見ている。見える。スクリーンにないものまで見てしまう。このとき、私は、ほんとうに映画の中にどっぷりと浸っていたのだと思う。デイジーの花畑が見えなかったのは、私が映画に浸っていない証拠である。つまり、この映画は、私を勘違いさせるほどの魅力を持っていない。これは、すべてユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多のIMAX(スクリーン12)のせいだ、と断言する。
 ほかの映画館は、どうか知らない。この映画館では、絶対に見るな、と言いたい。特に、フィルム版を見たことがある人は、がっかりしてキューブリックの映画を見る気持ちがなえてしまうかもしれない。


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大森立嗣監督「日日是好日」(★★)

2018-10-14 20:48:21 | 映画
大森立嗣監督「日日是好日」(★★)

監督 大森立嗣 出演 樹木希林、黒木華

 もしかすると樹木希林最後の出演作? 大変な人気である。だから批判的なことは書きにくいのだが。
 おもしろくない。樹木希林の演じている茶道の先生が「いい人」すぎておもしろくない。だいたい樹木希林は「いい人」を演じていても、どこかで一瞬、そうじゃない人間の姿を見せる。
 「歩いても、歩いても」では原田良雄が演じる夫をずーっと我慢して支えてきた妻を演じていたが、思い出の曲に「ブルーライト・ヨコハマ」を持ち出してきて、私は「秘密」を知っている、と「毒」を放つ。わかる人(原田良雄)にだけわかる感じで、毒を放つ。世のなかは、どんなことでもありうる。そう知っていて、そのすべてを受け入れ、同時に恨み言もいうのである。人間は矛盾しているが、その矛盾を「肉体」がのみこんで、抑えている。それを「肉体」そのものとしてスクリーンに定着させる。
 今回は、そういうシーンがなかった。樹木希林のお茶の先生が死んだということが彼女の行動のどこかに影響しているらしいことは、他人のセリフで語られるけれど、樹木希林が「肉体」で表現しているわけではない。これでは、おもしろくない。
 樹木希林自身、体力的にもむりがあったのかもしれない。どのシーンも、力を抜いている(自然体でいる)というよりも、力がこもっていない。かろうじて「形」を演じているという印象が残る。これは、人間の矛盾を演じていないということからくる印象かもしれないが。
 黒木華という「地味」の代表のような役者を使っているのは、それはそれでいいのだが、彼女が茶道の神髄に触れるシーンがワンパターンである。「音」が完全に消える。「無」の境地を「無音」で表現している。これは一回目は効果的だが、それが何度も繰り返されるとばかばかしくなる。「無」が感覚をとぎすまし、それが世界を輝かせるというのは、それが茶道の神髄だとしても、見ていて退屈である。
 この映画を見るくらいなら「万引き家族」をもう一度見た方がいい。海辺で、みんなが楽しむ姿をみながら、聞こえない声で何かをいう。(唇が動いている)。そのことばを、樹木希林の「遺言」と思い、耳を澄ます方がいい。「万引き家族」では、樹木希林は人間のやさしさも、いやらしさも、存分に「肉体」にしていた。そして、いやらしさを持っているにもかかわらず、ぐいと人を引き込む力を持っていた。
         (KBCシネマ1、2018年10月14日)


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ルツィヤ・ストイェビッチ監督「ラ・チャナ(La Chana) 」(★★★★)

2018-10-09 06:34:38 | 映画

ルツィヤ・ストイェビッチ監督「ラ・チャナ(La Chana) 」(★★★★)

監督 ルツィヤ・ストイェビッチ 出演 ラ・チャナ、アントニオ・カナーレス、カリメ・アマジャ

 フラメンコを私は見たことがない。しかし、このフラメンコ・ダンサーには衝撃を受ける。映画のなかで、ラ・チャナから踊りを習っている女性が「あなたのリズムは当時のものとは思えない」ということばが出てくる。これに対して彼女は「私のリズムだもの、当然だわ」と答えている。時代を超えている。いつでも「いま」なのだ。
 象徴的なのが、自宅で椅子に座って踊るシーン。おそらく音楽はない。彼女の「肉体」のなかにあるリズムに身を任せて踊る。それにクラシック音楽が重なる。(何かは書かない。)彼女がその曲に合わせて踊っているというよりも、彼女の踊りとリズムに合わせてピアノが音を奏でている。彼女の踊りに、音楽そのものが誘われて、ピアノの音が踊っている感じなのだ。あまりの美しさに、息を呑む。
 ラ・チャナは、リズムさえしっかりしていれば踊れると言う。リズムを「コンパス」と言っていた。「指針」(導く力)のことだろうか。その導く力にしたがって、彼女は「肉体」の奥へ奥へと入っていく。「肉体」の奥の「扉」を開け放つ。「肉体」の奥へ入りことが、「肉体」の奥にあるもの、「魂」を解き放つ。生きる欲望。生きる喜び、と私は言いなおしたい。それが彼女の「肉体」を突き破るようにしてあふれてくる。足でつくりだすリズムが、まるで炎のようだ。足先から火がつき、からだ全体が燃える。「肉体」の内部にあったものが、燃えながら新しい「色」、誰も知らない「色」で世界を染め上げていく。
 踊り終わると、何もない。観客の拍手も聞こえない。自分自身の、苦しい息の音しか聞こえない。
 ああ、すごい。
 踊りのシーンでは、過去の映像がつかわれている。画質が粗い。テレビから取ったものは、映像の乱れもある。しかし、そういうものをおしのけて、彼女の踊りがあふれてくる。
 いま、フラメンコダンサーがどんな踊りを踊っているのか知らないが、彼女の踊りはいまでも「前衛」だろうと思う。つまり「永遠」をつかんでいると思う。
 ドキュメンタリーなので、つらい過去も語られる。しかし、同時に、穏やかな日常も描かれている。時代を生き抜いた人間だけがつかみとることのできる「至福」がある。

(以下のスペイン語はグーグル翻訳)

Nunca he visto el flamenco. Sin embargo, esta bailaora de flamenco se escandaliza. En la película, a una mujer que aprende baile de La Chana se le ocurre la palabra "Tu ritmo es improbable en ese momento". Al contrario, ella responde: "Es mi ritmo, por supuesto". Más allá de la era. Es "ahora" en cualquier momento.
Lo simbólico es la escena en la que te sientas en tu silla y bailas en casa. Probablemente no hay música. Baila contigo mismo en el ritmo de su "cuerpo". Y la música clásica se superpone. (No escribo su title). En lugar de hacer que ella baile la canción, el piano toca los sonidos de acuerdo con su baile y ritmo. En su baile, la música en sí está invitada y el sonido del piano está bailando. Demasiada belleza, me quedo sin aliento.
La Chana dice que si tienes un ritmo firme puedes bailar. El ritmo se decía que era "compas". ¿Es una "guía" (el poder de guiar)? De acuerdo con el poder de guiar, ella profundiza en el "cuerpo" hacia atrás. Abra la "puerta" detrás del "cuerpo". Entrando en la parte posterior de "cuerpo", desatando "alma", lo que está detrás de "cuerpo". Deseo de vivir. Quiero reformular que me complace vivir. Se desborda a medida que perfora su "cuerpo". El ritmo que lo hace con los pies es como una llama. Desde el antepié, el fuego está encendido, todo el cuerpo arde. Los que estaban dentro del "cuerpo" teñirán el mundo con un nuevo "color" mientras se quema, el "color" desconocido.
Cuando el baile termina, no hay nada. Ni siquiera puedo escuchar a las audiencias aplaudidas. Sólo puedo escuchar mi propio sonido de respiración.
Muy impresionante.
En la escena del baile, se utilizan imágenes pasadas. La calidad de la imagen es basta. El sacado de la televisión también tiene perturbación de la imagen. Sin embargo, al deshacerse de esas cosas, su baile se desborda.
No sé qué tipo de baile baila la bailarina de flamenco, pero creo que su baile sigue siendo "jardines de vanguardia". En otras palabras, creo que estoy captando la "eternidad".
Ya que es un documental, también se cuenta el doloroso pasado. Sin embargo, al mismo tiempo, también se dibuja la vida cotidiana tranquila. Hay "dicha" que solo los humanos que sobreviven a los tiempos pueden captar.











https://www.youtube.com/watch?v=MEcM30ccpCo&feature=youtu.be
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三上智恵、大矢英代監督「沖縄スパイ戦史」(★★★★)

2018-09-25 11:04:26 | 映画
三上智恵、大矢英代監督「沖縄スパイ戦史」(★★★★)

監督 三上智恵、大矢英代

 第二次大戦末期の「沖縄戦」を描いたドキュメンタリー。少年ゲリラ兵、マラリア地獄、スパイ虐殺と三部で構成されている。背後に「陸軍中野学校」がある。「陸軍中野学校」の兵士が沖縄に潜入し、沖縄での戦争をより悲惨な結果へと導いた。
 映画の最後に、戦争は国民を守らない、戦争が守るのは兵士(軍隊)と権力者だけであるというようなことが語られる。その視点で貫かれた作品である。
 見ながら思ったことは、そういう沖縄戦をとおして見えてくる、「いま、起きていること」である。
 佐川事件(森友学園事件)を、私は思い出しながら見ていた。
 安倍が、安倍や昭恵が森友学園の土地売買に関与していたら、首相も国会議員も辞めると見得を切った。そのために佐川が資料の改竄をした。部下に改竄をさせた。その結果、近畿財務局の職員が自殺した。
 これは「佐川学校」が引き起こした「財務省戦争」である。自殺した職員は、「少年ゲリラ兵」である。「少年ゲリラ兵」に採用されたのは、優秀な生徒たちである。単に体力的にすぐれているというよりも、頭脳的にもすぐれていた。それこそ成長していれば「陸軍中野学校」で士官になる教育を受けた(受けることができた)だろう少年たちである。彼らは、とても優れているが、少年だから(経験が不足しているから)、全体の状況までは見渡せない。全体の活動を組織できるわけではない。命じられるままに、命じられたことをする。「お前はひとりで陣地に帰れ」と山の中で突然言われて、必死になって逃げ延びるというようなこともさせられる。自殺した職員も優秀な能力をもった人間、選ばれた人間である。ふつうのひとは財務省の職員にはなれない。その彼は、「お前ひとりでやれ」と言われ、そうするしかなかったのだろう。「国民のために」働くのではなく、「ひとりの独裁者のために」働かされた。その「働き」が国民のために、どう役立つのか、はっきり知らされることもないままに、仕事を強いられた。職員は「少年」ではない。分別がある。だからこそ、「これは自分の仕事ではない」と苦悩して、自殺してしまった。
 もし「陸軍中野学校の士官」が沖縄で「少年ゲリラ」を組織しなかったら、少年の多くは死なずに済んだだろう。同じように、もし佐川が資料の改竄を計画し、それを実行しなかったとしたら、近畿財務局の職員は自殺せずにすんだだろう。職員を自殺に追い込んだのは、安倍であり、佐川なのである。もちろん、それを明確に証明する「証拠」はない。だから安倍は開きおなっているのだが。
 「マラリア地獄」からは、長期間拘留された籠池夫婦のことを思い出した。なぜ、逃亡する恐れもない人間、証拠を隠滅する恐れのない人間を長期にわたって拘留したのか。拘留している間に、籠池夫婦の生活の場で何がおこなわれたのか。だれも知らない。「マラリア地獄」ではマラリアの危険がある島に島民を閉じこめている間に、飼っていた牛などの家畜を全部軍部が取り上げている。食糧にしている。島民に食べさせるのではなく、軍が生き残るために、住民のものを奪っている。籠池夫婦を拘留している間、捜査当局は何をしたのか。籠池夫婦を守るための「資料」を、安倍を守るために奪ったということはないのか。その「資料」があれば籠池夫婦が生き延びることができるはずなのに、それを奪い、安倍を守るためにつかった(牛を食べるように、「資料」を消してしまった)ということはないのか。
 権力者(軍隊)は、彼ら自身を守るためには何でもする。国民は、彼らを守るための「道具」に過ぎないと判断している。
 「スパイ虐殺」からは、加計学園事件(前川事件)を連想した。
 最近、文科省の官僚が次々に辞任に追い込まれた。もちろん「接待汚職」という「事実」があってのことなのだが、私はほかのことも「妄想」する。なぜ、文科省ばかり? ほかの官僚は「接待」を受けていない?
 文科省には前川前次官によって教育を受けた職員がいるはずだ。前川のように、政権の「腐敗」を指摘する人間がまた出てくるかもしれない。そういう職員は、安倍から見れば「スパイ」だろう。敵側に通じている人間に見えるだろう。処分してしまえ、ということだ。辞任することになった官僚が実際に「スパイ(政権を裏切る)」かどうかは問題ではない。政権は、職員の細部の行動を把握している、いつでも「処分」できるぞ、ということを見せつければ、それでいい。政権に逆らえば、「証拠」をでっちあげて追い込むこともできる。すでに私たちは、前川が「風俗店通い」というレッテルで誹謗・中傷されたことを見ている。
 権力は権力を守るためになら何でもする。そして、そのために平気で他人を利用する。また、それに協力する人(組織)も出てくる。いったん「スパイ虐殺」の動きがはじまれば、「スパイ」は捏造され、処分される。
 ここから、これから起きることも予想できる。
 安倍は憲法改正をもくろんでいる。独裁者になって、戦争を引き起し、軍隊を指揮する、国民を支配するという野望を持っている。
 その安倍を批判する活動をすると、どうなるだろうか。「言論の自由(思想の自由)」は憲法で保障されている。だから安倍批判をしたからといって、「スパイ虐殺」のようになことは起きない。弾圧はされない、と思うかもしれない。しかし、安倍批判そのものではなく、ほかのことを取り上げて、個人を批判し、抹殺するということがあるのではないか。前川を「風俗店通いをしている不道徳な人間」とレッテルを貼ったように。それこそ、「風俗店に出入りしているのを見た」「妻以外の女(夫以外の男)とホテルに入るのを見た」(山尾事件、だ)ということで「人格攻撃」をする。「人格的に問題がある」、だから安倍の改憲論を批判する資格はない、という具合だ。「秘密」を公開されたくなかったら、安倍批判を辞めろ、という間接的な弾圧だ。
 いま書いたように、こういうことはすでに起きている。もう起きていることは、これからさらに起きるのだ。前川とか、山尾とか、ふつうの市民ではない人間だけを対象として起きるのではなく、ただ街頭でビラ配りをした、デモに参加した、安倍批判の映画を見に行ったという市民を対象にしても起きるだろう。
 そして、そういうことが起きると、「密告」が起きる。自分を守るために、他人を「密告」する。「密告」することが、「権力側である」という証拠になり、保身につながるからである。
 安倍のもとで、こういうことははじまっている。
 逆の「証拠」で、それを「証明」できる。女性をレイプした安倍の「知人」は、逮捕 されなかった。「セクハラ罪はない」と麻生は言った。「LGBTのひとは生産性がない」と言った杉田は擁護された。安倍の「知人/友人」なら、どんなことをしても守ってもらえる。しかし、そうでなければ徹底的に批判される。
 こういう「戦い」は見えにくいが、日本はすでに「内戦状態」であり、安倍は独裁者として平然と生きている。

 あ、沖縄のことを書き忘れた。
 沖縄に米軍基地があるかぎり、沖縄は攻撃対象になる。「沖縄戦」は再び起きる。そのとき、沖縄県民を「自衛隊」は守らない。米軍は、もっと守らない。沖縄県民の反対を押し切って、辺野古基地の建設が進んでいる。そのために全国から機動隊までもが動員されている。権力、軍隊は、国民を犠牲にしても何もと思わない、ということが現実として証明されている。私たちは、いま、その現実の真っ只中にいる。
 「沖縄戦」は、はじまっている。
 (2018年09月24日、KBCシネマ1)



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沖縄の戦世―県民は如何にしてスパイになりしか
クリエーター情報なし
琉球プロジェクト
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アニエス・バルダ、JR監督「顔たち、ところどころ」(♡♡♡♡♡)

2018-09-23 19:25:24 | 映画


アニエス・バルダ、JR監督「顔たち、ところどころ」(♡♡♡♡♡)

監督 アニエス・バルダ、JR 出演 アニエス・バルダ

 アニエス・バルダとJRのふたりが、ふつうの(?)フランス人の顔を写真にとって、その写真を巨大な壁に貼り付ける、という旅を追ったドキュメンタリー。いわゆるロード・ムービー。
 私は、こういう映画が大好き。ちょっとルノワールの映画の味に似ている。アニエス・バルダは、いわゆるヌーベルバーグの監督なのだけれど。
 どこがルノワール的かというと。
 自分を押しつけない。登場人物(役者)の中から出てくる(あふれてくる)ものに丁寧に寄り添う。人間が生きているがままの姿を、「私はあなたが大好きです」という感じでつつみこみ、励ます。
 そのとき「登場人物」というのは「他人」だから、思いがけないことが起きる。監督ひとりでは思いつかないことが起きる。そして想像力が刺戟される。「未知」のものが、そこからはじまる。どこまで「未知」が「未知」のまま世界を広げていくかわからないけれど、こういう「時間」はどきどき、わくわくする。
 あ、いま「事件」が起きている、その「現場」にゆきたい。そこにいる人といっしょの時間を過ごしたい、と思う。
 うれしくて、うれしくて、前半は涙が出そうだった。
 フランスの「田舎町(田舎の村)」。そこで初めて出合う人。そのひとの、ことば。どこかから借りてきたことばではなく、そこで生きて、自分で考えたことばを話す。借り物ではないから、とても強い。
 いろいろなことばが生きているが、田舎の村の年金で暮らすホームレス(?)は、まるで哲学者だ。自慢の家を見に来い、という。言ってみると屋根のない家だ。「母は月の優しさを持っていた。父は太陽の激しさ(厳しさ)を持っていた。私は、それを引き継いでいる。私は宇宙だ」というような、壮大なことばを自然に声にしている。手作りしたモービルのようなものが、青空に揺れる。そのときは真昼なのに、その男の声を聞いていると、青空の中に星が輝いているのが見える。満天の、星の海である。
 打ちのめされる。
 そういう、ことば(暮らし)とは別のものもきちんと映画にしている。村のレストランで働く女性。彼女の写真を拡大して、レストランの外壁に貼る。二人の子どもがやってくる。母親の写真をバックに「自撮り」する。そのあと、写真の母親の足を「こちょこちょ」とくすぐる。女性は裸足で写真に納まっている。あ、この母親は子どもをあやすとき、足をこちょこちょとやったのだな、ということが自然にわかる。子どもだから、ほかの登場人物のように「含蓄のあることば」を言うわけではないが、この「こちょこちょ」の「肉体のことば」がとてもいい。正直だ。そして、その子どもの正直が、そこで語られる大人たちのことばの「正直」を保証する。誰もが、自分自身の、暮らしの中でしっかりと「肉体」で覚え込んだことばをしゃべっているのだ。そう教えてくれる。
 あたたかくて、正直で、苦労から逃げ出さずに、がんばって生きている人が、こんなにたくさんいる、ということに、ほんとうに涙が出てくる。
 でも、最後に悲しいエピソードがひとつ用意されている。
 アニエス・バルダは、かつての友人、ゴダールを訪ねていく。しかし、約束の時間にゴダールの家に行ってみると、扉は固く閉ざされている。「呼び鈴」がない。ガラス窓に「伝言」が書いてある。会えないのだ。
 それまで、一度も会ったことのない人と会い、ことばを交わし、写真を撮り、互いに刺戟を与えながら生きることができたのに、旧友には会えない。窓に書かれたことばは、かつてほかの場所で聞いたことばだ。
 これは、とても悲しい。
 けれど、この悲しさが、また前半の美しいことば、出会いを、強く思い出させてくれるという「隠し味」になってもいる。
 もしかすると、前半の出会いにも、悲しく、つらいことがあったのかもしれない。でも、アニエス・バルダは、楽しく、想像力をゆさぶるようなシーンを大切にし、それを映画のエンジンにしたのだ。そういうことも想像できる。アニエス・バルダの「生き方」が、最後にそっと差し出されていることになる。
 「ゴダールの好きなパンを買ってきたのに」と言って、袋に入ったパンをゴダールの家の扉(その取っ手)に結びつけるシーンは涙が出るなあ。
 笑って笑って、うれし泣きしたあと、悲しい涙も流す。でも、それが前半の感動を、そっと落ち着かせる。まるで何も見なかったような、自然へと世界がもどっていく。静かな世界に戻りながら、目をこらせば、いますぐそばにある喜びが見えてくるよと語りかけてくれるようでもある。
 こういう映画は、私は大好きだ。だから、今回は★ではなく♡マークで点数をつけてみた。



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チャン・ジュナン監督「1987、ある闘いの真実」(★★★★)

2018-09-17 12:45:43 | 映画
監督 チャン・ジュナン 出演 キム・ユンソク、ハ・ジョンウ、ユ・ヘジン

 全斗煥大統領による軍事政権下の韓国を描いている。学生が反共取り締まりの警官から拷問を受け、死ぬ。その真相をめぐる攻防。警察と検察、マスコミの攻防。「真実」を告げたいと思っているのはマスコミだけではない。真実を告げたい人は、マスコミを利用しようとも考える。このあたりの動きがとてもおもしろいのだが……。正義派の検事が捜査資料を新聞記者に渡すシーン、記者が解剖医は必ずトイレにやってくると予想しトイレに隠れて待つシーン、看守がエロ本(?)を利用して情報を伝えるシーンなど、こういうことが「事実」を支えていると教えてくれ、とても心強い感じがした。
 一方、見ながら私が考えつづけたことは、いま、日本で起きていることである。
 日本で起きているいろいろなこと、安倍が関係しているさまざまなこと。森友学園、加計学園、女性暴行事件。「真実」を告げるために誰が声をあげるか。前川・前文部次官は、声をあげた。しかし、その声を手がかりにマスコミが「真実」をつきとめるところまではいかなかった。
 その後、森友学園、加計学園事件にしても、さまざまな資料が出てきた。安倍の主張している論理を否定するものが次々に出てきた。しかし、安倍を追い込めなかった。
 どうしてだろう。
 これから書くことは、推測である。「妄想」かもしれない。
 映画の中では、さまざまな拷問がおこなわれている。そのなかの最大の拷問は、要求を飲まないなら(言う通りにしないなら)家族がどうなっても知らないぞ、というものである。愛する家族がどうなってもいいのか。この「ことば」による拷問に、ひとは耐えることができない。言われるがままになる。
 もしかしたら、日本でも同じことが起きているのではないのか。
 国会議員や官僚、さらにマスコミの記者たちは、何らかの「ことばによる拷問(脅迫)」を受けているのではないのか。
 安倍を支持しないなら、次の選挙では自民党として公認しない。対抗馬を立てて、お前を落としてやる。そういうことが平然とおこなわれているのではないか。実際、最近、石破派の大臣が「安倍を支持しないなら辞表を出せ」と言われたと報道されている。大臣を脅すくらいだから、実力のない国会議員を「落とすぞ」と脅すくらい簡単だろう。「安倍を支持しないと、大臣の椅子を与えない(干すぞ)」という脅しも平気でおこなわれている。そして、それに多くの議員が屈している。
 官僚やマスコミで働いている人にも、圧力がかかっているかもしれない。「そういうことをしていると、出世させないぞ」と。前川・前次官にしても、何もわるいことはしていないのに「出会い系のバーに出入りしていた」と新聞に書かれ、菅は記者会見で「そういうところに出入りしていて何もないということは信じられない」という具合に人格を否定することを語っていた。
 前川・前次官はやましいことをしていなかったが、もし「秘密」をもっている人がいたとしたらどうだろう。「秘密をばらすぞ」と。「家族(家庭)はどうなるかな?」自民党の安倍支持派の議員は、どうだろうか。誰も、どんな「秘密」も抱えていないだろうか。
 こういう「脅し」は「拷問」と違って、「証拠」というものが明確には存在しない。「拷問」なら肉体に「傷跡」が残る。「ことばによる脅し」は、こころにしか傷跡が残らない。こころというのは、「見えない」。
 森友学園(佐川事件)では、ひとりの自殺者が出た。しかし、その自殺が森友学園(佐川事件)での圧力によるものであるという「証拠」はない。こころの傷は、生きているときにことばにして訴えない限り、証拠にならない。生きているときに訴えたとしても、「証拠」として採用されるとはかぎらない。
 この「圧力」は、非常に強い。深いところで人間をじわじわと痛めつける。
 「幼稚園に落ちた、日本死ね」という発言が問題になったことがある。そのとき、「そういうことを言うのは共産党だ」というような主張が安倍の口から出たと記憶している。これは「共産党を支持するなら幼稚園にいれないぞ」という「脅し」を間接的に語ったものだ。「もし子どもを幼稚園にいれ、仕事を続けたいなら自民党を支持しろ」と脅しているのだ。
 若者は、この手の「脅し」にとても敏感である。「空気を読む」(忖度する)ことに、大変な労力を払っている。まわりを常に気にしている。
 人手不足が深刻で求人倍率が高い。だからといって、つきたい仕事につけるわけではない。求人率をあげているのは、介護や建築工事というような、厳しい仕事である。つきたい仕事につくためには、安倍批判をしていてはむり。会社の要求にしたがって、従順になるしかない。
 自分では何も考えず(考え、疑問を持つと、脅される対象になる)、「だって安倍しか日本をまかせられるひとはいない」という「ことば」をそのまま復唱する。そういっている限りは、安倍からにらまれる恐れはない。会社の面接でそう答えればいい。いま、会社の面接試験では支持政党を聞いたりしてはいけないことになっているが(信条で人を差別してはいけない)、これが逆に働いている。「信条」を隠して生きていかないと、生きていけない時代になっている。
 「私は共産党支持者です。それが何か問題ですか? 自動車をつくるとき、共産党支持者だと欠陥品になるのですか?」
 そういう人を社員として抱え込まない限り、社会は閉塞する。
 障害者雇用率を国も地方の公共機関も平気でごまかしていた。すべてをごまかし、自分にとって都合のいいことだけを「数字」として出す。それが、いま安倍がおこなっていることだ。社会操作だ。
 映画について少しも書いていない。これでは映画の感想ではない、と思う人がいるかもしれないが、映画を見て思ったことがこういうことである。だから、感想である。ひとは、何かに触れて何を思うか、思ってみるまで見当がつかない。
 (2018年09月16日、KBCシネマ1)



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ジアド・ドゥエイリ監督「判決、ふたつの希望」(★★★★★)

2018-09-10 00:03:27 | 映画
ジアド・ドゥエイリ監督「判決、ふたつの希望」(★★★★★)

監督 ジアド・ドゥエイリ 出演 アデル・カラム、カメル・エル・バシャ

 二人の男の些細なぶつかりあいが法的劇に発展する。二人とも思うことがあり、譲らない。いわば「理念」の衝突、という感じなのだが。
 むしろ、脇役に徹しているふたりの妻がおもしろい。味がある。争ってもしようがないのに、なんとか丸く治められないの? という「なだめ役」が中心なのだが。

 最初は「意味」がわからなかったシーンが、最後にわかるようになっている。そして、そこに男と女の違いがある。
 妊娠している妻は、こんな街はいやだ、よそへ行きたいという。ところが男は、やっと買った家だ、ここから出て行かない、という。でも、男のほんとうの「決心」は、そういう経済的なことではない。いま住んでいる街が、彼の「ふるさと」の近くだからである。「理念」ではなく、思い出を生きている。それは楽しい思い出とは言えないが、そこから離れては生きていけない。男の「原点」なのだ。
 女はそうではなくて(原点にこだわるのではなくて)、「いま」にこだわっている。あるいは「いま」から先、「これから」にこだわっている。「生きていく」ということを最優先に考えている。生まれてくる子どもを育てるには、ほかの環境の方がいい。(もうひとりの女の方も、「いま」をよりよく生きるためにノルウェーへ行くことを夢見ている。)
 「いま」を生きるという姿勢(願い)は、男に静かに静かに影響してくる。
 影響があらわれる最初のシーンが、大統領(?)と面会した後。二人は別々の車を運転して帰るのだが、工事の仕事をしている男の車のエンジンがかからない。車修理を仕事にしている男は、それをバックミラーで見ると引き返してきて、修理してやる。敵対しているのだけれど、いま、相手が困っているなら、そしてその困っていることに対して自分が何かできるなら、それをやる。自分ができることと同時に、「いま」が大切なのだ。男の方にも「いま」を生きるという「本能」は残っている。
 このシーンを見たとき、私は、映画はここで終わる、と思った。ここには、「いま」をどう生きるかという「答え」のようなものがあるからだ。「いま」を生きるしかないのが現実だ。そして、その「いま」にこそすべてがある。
 で、このあと、映画は急展開する。
 法廷で、自動車修理工(妻が妊娠している男)の「過去」がわかる。彼もレバノン国内で「難民」のように生きた時代があった。自分が生きていた場所を奪われ、家族が離散したという過去があった。そのとき彼は幼い少年で「戦う」ということを知らなかった。逃げることしかできなかった。
 そのあと。
 建築工事の男が自動車修理工を尋ねてくる。わざと侮蔑的なことばを投げかけ、殴られる。殴った後、自動車修理工は自分のこぶしをじっとみつめる。暴力を肯定するわけではないが、ひとは暴言を吐いてしまうことがあるのと同じように、思わず暴力をふるってしまうことがある。それは相手を傷つけることが目的というよりも、自分の怒りを(肉体を)解放するということなのだ。全面肯定してしまってはいけないが、「戦い」にはそういう側面もある。それは「自衛」(自己防衛)と呼ばれる。(裁判でも、何度か問題になっている。)
 このシーンも非常に良くて、私は、ここでも、これでこの映画は終わるのだと思ったら、またつづきがあった。「判決」が下されるシーンまで、あった。
 でも、まあ、「結論」はどうでもいい。二人の男は、「和解」が済んだ。「いま」がほんとうにふたりのあいだで動き始めた。それまでは「いま」ではなく「過去」が二人を支配していた。二人は「過去」を「判決」のなかに封印して、「いま」をこれから生きていく。

 男は「過去」、女は「いま」というのは、二人の男の弁護士が男と女(父と娘)という対比でも描かれていた。当然の帰結として「いま(女)」が勝訴する。女を前面に出しているのではないのだけれど、その出し方がとても巧みな映画だ。この「女の勝利」が、この映画に明確な輪郭を与えている。
 脚本が非常によくできているし、役者もうまい。
 (2018年09月09日、KBCシネマ2)



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クラウス・レーフレ監督「ヒトラーを欺いた黄色い星」(★★★★)

2018-08-29 18:12:00 | 映画
クラウス・レーフレ監督「ヒトラーを欺いた黄色い星」(★★★★)

監督 クラウス・レーフレ 出演 マックス・マウフ、アリス・ドワイヤー、ルビー・O ・フィー、アーロン・アルタラス、ビクトリア・シュルツ

 とても地味な映画である。なぜ地味かというと、ヒトラー政権下のベルリンに潜伏し生き延びたユダヤ人を描いているからである。潜伏するということは、社会と隔離されること。つまり情報がない。彼らが見聞きするのは世界の一部に過ぎない。いまのようにネットがないのはもちろんだが、テレビもない。ラジオはあるが自由に聞けるわけではない。
 だから、劇的なことは起こらない。唯一、友人が電話をかけた後、ゲシュタポに逮捕されるくらいである。幾分のはらはらはあるけれど、彼らが生き延びることはすでにわかっている。経験者が証言しているのだから、彼らが死ぬはずがない。
 それなのに。
 引き込まれる。私は自動販売機で買ったアイスコーヒーを一口飲んだだけで、後は飲むのを忘れてしまった。
 なぜなんだろうか。
 そこに描かれていることが「事実」だからである。そして「事実」というのは不思議なことに「全体」がなくても成立する。いや、ユダヤ人虐殺という「全体」はすでにだれもが知っているから、「全体」がないということにはならないが。しかし、この映画に登場する人たちは、生き延びているあいだ(潜伏しているあいだ)、「全体」を知らない。知らないというよりも「わからない」。
 匿ってくれる人がいるにしろ、その人がいつまで匿ってくれるのか、それが「わからない」。いつ隠れ家を出て行かなければならないのか、隠れ家を出てしまったらどうなるのか、「わからない」。
 「わかる」のは、いま、自分が生きているということだけだ。生きていくために何をしなければならないか、それを考えなければならない。それだけが「わかる」。「わかる」ことだけが「事実」として目の前にある。それ以外に「世界」がない。
 そして、「わかっている」のに、やはり失敗もする。身分証明証の偽造をしながら、せっかくつくった証明書をストーブで燃やしてしまうということもある。鞄を電車の中に忘れるということもある。
 この緊張感が、「映画」のように緊張感を誇張するのではなく、淡々と描かれる。映画なのに、である。そこに引き込まれる。「映画」を見ているのではなく、「事実」を見ているという気持ちになる。
 さらに、映画を見終わった後、これは「事実」のほんの一部に過ぎないということも知らされる。四人が証言しているだけなのだから。語られない「事実」がもっともっとあるのだ。語られないことがあって、いまがある。そのことにも衝撃を受ける。
 それにしても、人間とはすごいものだと思う。どんなときにも、自分自身の考えを持ち、自分で行動する力がある。嘘をつくことを含めて、人には生きる力がある。生き延びた人が主人公なので、それを支えた人は「脇役」に徹しているが、「脇役」の人もそれぞれが考えて生きている。最後に「ユダヤ人を匿うのは、ドイツ(国家)を救うためだ」と言われたとひとりが語る。アメリカで講演するときは、匿ってくれた人の名前をひとりひとり挙げる、と女性が証言する。女性が必ず名前をあげるというドイツ人もまたヒトラーの政権下を生き延びた人なのだと知らされる。
 映画の登場人物は、歴史に名前を残す「立派な人」ではない。でも、そうであることが、立派なのだ。生きている、生きるために自分でできることをする、ということがかけがえのないことなのだ。

 ひるがえって。
 いま日本で、安倍独裁政権を「生き延びる」人が何人いるか。日本のために「生き延びる」人が何人いるか。日本のために、というのは、世界のために、でもある。どうやって安倍独裁政権を「生き延び」、未来を生きるのか、そのことを問われたような気持ちにもなった。
 (2018年08月29日、KBCシネマ2)




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ジェイソン・ライトマン監督「タリーと私の秘密の時間」(★+★)

2018-08-19 20:31:41 | 映画
ジェイソン・ライトマン監督「タリーと私の秘密の時間」(★+★)

監督 ジェイソン・ライトマン 出演 シャーリーズ・セロン、マッケンジー・デイビス

 やっていることは「わかる」のだが……。
 子育てはつらい。ほとんどが母親に任せっきり。父親は何もしない。どこの国でも似たようなものなのだろう。
 そのとき母親はどんな「夢」を見るか。
 赤ん坊が夜泣きをする前に授乳するのはもちろん、家事も完璧にこなす。こどもたちにも何一つ不自由はさせない。完璧な母親になる。
 でも、そういうことは、むり。
 どうすれば、それができる?
 誰かが手伝ってくれたら。夫(父親)が手伝ってくれないのなら、夜のベビーシッターがいるといいなあ。赤ちゃんの世話だけではなく、眠っている間に家事も手伝ってくれたら助かるなあ。ふつう、ベビーシッターは昼間の仕事だけれど。うーん、「ナイトシッター」か。
 「ナイトシッター」なのだから、夜のお手伝いも。つまり、疎遠になっているセックスの手伝いも……。
 あ、そうか。
 母親たちは、こんなふうになればいいなあ、と考えているのか、と「わかる」が、でも、わたしの「わかる」はあくまで男から見た「わかる」なのかもしれない。

 この映画では、シャーリーズ・セロンが、いわば「二重人格」のような感じで、「ナイトシッター」と「母親」をこなしてしまう。忙しすぎて、気持ちが暴走して「二重人格」になる。夜、家族が寝ている時間に、すべてをやってのける。家の掃除をし、こどものオヤツも手作りする。「ナイトシッター」がやってくれた。助かるわ、と夫には言う。
 このシャーリーズ・セロンの「ほんとうの夢」は、若いときのように、もう一度飲んで踊って、騒ぎたい。「青春を謳歌したい」である。
 そして、実際に、それをやってしまう。赤ん坊が寝ついている。家族もみんな寝ている。いまなら「夜遊び」に行ける。「ナイトシッター」といっしょにブルックリンへ出かける。
 その「夢」を実現した後、どうなる?
 もう、覚めるしかない。
 「毎日が同じ繰り返し。それが幸せなのよ」と「ナイトシッター」は言う。それは、シャーリーズ・セロンが夫を選んだときの「思い」だったのだろう。男との付き合いは複数あった。メリーゴーラウンドの「馬」みたいに、とっかえ、ひっかえの日々。でも選んだのは「馬」ではなく、「ベンチ」だった、ということが映画の途中で語られる。これもまた「女の夢」なのかもしれない。
 でも、それは「男の夢」ではないか、と私は、かなり疑問に思っている。
 「夜遊び」が好きな奔放な女。でも結婚し、こどもを生み、日々同じことを繰り返して平和な家庭をつくる。
 「女の夢」を描くふりをしながら、実は「男の夢」を押しつけていないか。
 どうも、そういう気がする。
 この映画の中では、男(夫)は、ぜんぜん変わらない。仕事中心に生きている。家事、育児の手伝いはしない。寝る前にはテレビゲームに夢中。セックスしようと誘いかけてくることは、もうない。この男が変わらないと、どうしようもないのだが。
 事故を起こした妻を心配し、「俺が悪かった」なんて、口先で言うだけだからね。

 監督が男だから、こういう映画になったのかもしれない。「マイケル」を撮ったノーラ・エフロンがつくれば、こんなふうにはならないだろうなあ、と思う。
 もっと、「男の知らない女」が前面に出てくる作品になったと思う。この映画には「男の知らない女」は出てこない、というのがとても残念。こんな映画で、「女の気持ちが描かれている」と言うようでは、男の視線に洗脳されすぎていると思う。

 ★一個追加は、シャーリーズ・セロンの「肉体改造演技」に対して。私は、こういう「肉体改造演技」というのは演技ではないと思っているが。でも、ここまでやるのか、と感心した。予告編でもびっくりしたが、ぶざまに太っている。その太った腹をさらけだし、こども(女の子)に「ママの体、どうしちゃったの」と言わせている。大笑いしてしまったが、考えてみると、これも「男のことば」。夫(男)はそう言いたいのだが、男が言うと夫婦喧嘩が始まる。こどもに言わせて(しかも女の子に言わせて)、それは男の「視線(主張)」ではない、とごまかしている。
 映画館は満員だったが、世の女性陣よ、こんな映画にだまされてはいけないよ。
 (2018年08月19日、KBCシネマ1)



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ルーシー・ウォーカー監督「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」(★★)

2018-08-08 21:09:51 | 映画
ルーシー・ウォーカー監督「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」(★★)

監督 ルーシー・ウォーカー 出演 キューバの音楽家たち

 映画はむずかしいなあ。映画で「見る」のは何なのだろうか。前作は、キューバで生きつづけた音楽の力をなまなましく伝えていた。私は音楽には疎いので、キューバの音楽のことは何も知らなかった。だから、とてもおもしろかった。年をとっても音楽を生きている姿がかっこよかった。
 今回は、続編。もう死んでしまった人もいる。もちろん、その人たちの映像もある。でも、最後まで音楽といっしょに生きようとしている。
 それはそれで感動的なのだが。
 実は、いちばん興味深かったのは、音楽のシーンではない。オバマ大統領の発言だ。「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」がホワイトハウスに招かれて、演奏をする。そのときオバマは20年前に彼らのCDを買った、というようなことを言う。そのとき「いまの若い人は知らないかもしれないけれどCDというのは丸い盤で……」。
 あ、そうなんだ。いまは音楽の媒体はもうCDではないのだ。(もちろんレコードでもない。)ネットでダウンロードする音源が主流なのだ。「もの」はどこにもなく、情報だけがある。
 これは、考えれば恐ろしい。
 それよりも、このオバマのことばを聞いた瞬間、私がなぜこの映画にのめりこめないかがわかった。
 音楽は、その音楽が実際に演奏されている「場」で体験しないと音楽にならないのだ。映画はさまざまなライブを再現してくれる。でも、それは、どうもスクリーンの外にまではみ出してこない。「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のメンバーが音楽を生きているということは「頭」ではわかるが、どうも「実感」として感じることができない。遠いのだ。音楽というよりも、「情報」として見てしまう。こういう老人がいる。まだツアーをやっている……。
 うーむ。
 私は最近は音楽をまったくといっていいくらいに聞かない。街では若者が(そしてかなりの年配の人も)イヤホンで音楽を聞いている。私もiPodを持っていたが、あれで音楽を聞いて以来、どうも音楽になじめなくなった。音の善し悪しを聞き比べる耳をもっていないので、音質が気に食わないとかそういうことをいうつもりはない。ただ、耳をふさいで、音楽だけを聞くという感じが「肉体」にあわない。どうも楽しめない。聞いて何をしてるんだろう、と感じてしまう。何のために聞いているのか。こういう曲があるという「情報」のために聞いている気がしてきたのだ。
 あらゆるものが「情報」といえば「情報」になるのだが、それが気に食わない。「情報」以外のものがほしいなあと思う。
 思えばCDができたころから、妙だったなあ。レコード(LP)は針を落とすときぽつんとノイズが入る。LPの途中の曲を聞くときは、針を正確に落とすのに気をつかう。そこには何か「肉体」がかかわるものがあった。CDはスイッチ、リモコンを押す指くらいしか「音楽」に参加しない。便利といえば便利なのだが、あのころから私は違和感を感じ始めていたのかもしれない。
 あ、話がずれてしまったかなあ。
 この映画も、何と言うのか、その後の「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」はどうなった?という「情報」を伝えることに終始している感じがする。
 「情報」をおもしろく感じないのは、「情報」は操作されている、という思いが強いせいなのか。
 (2018年08月08日、KBCシネマ2)



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上田慎一郎監督「カメラを止めるな!」(★★+★)

2018-08-05 21:41:28 | 映画
上田慎一郎監督「カメラを止めるな!」(★★+★)

監督 上田慎一郎 出演 濱津隆之、真魚、しゅはまはるみ

 人気が「社会現象」になってしまった映画なので、なんだか書きにくいが。
 私は、そんなに感心しなかった。(私が見たときは、上映が終わると拍手が沸き起こったのだが。)
 でも、気に入った部分は二シーンある。
 ひとつはゾンビを追いかけて屋外に出たカメラが倒れて草原だけを映しているシーン。ふつうの映画ならカットされるか撮りなおしになるのだが、テレビに生中継という設定なので、それができない。その瞬間もゾンビの襲撃はつづいており、音(声)だけがそれを伝えている。ここには「現実」がある。負のクオリティーが生きている。こういうことは、映画はやってこなかった。(「木靴の樹」には、黄色い市内電車が映る、というシーンもあるが、あれは再撮影ができなかったということだろう。)
 もうひとつは、「趣味」の話をするシーン。「護身術」を実際にやって見せる。「ぽん」と声を出すというような、無意味な説明が「現実」となって、映画という虚構を突き破っている。正のクオリティーである。このシーンも、実際にはトラブルがあって、アドリブという設定だが、現実のアドリブにありそうなくだらなさがとても効果的だ。
 この二つのシーンにかぎらないのだが、この映画の「成功」は映画現場を知っている人が脚本を書いたことにある。現実に体験したことを、脚本に生かしている。映画は、どうみても「チープ」だが、脚本にはリアリティーがある。(だれでも一本は「傑作」が書ける。自分の体験を書くことだ、というようなせりふが「祭の準備」にあったような気がするが)。このミスマッチが映画を活気づかせている。
 でもねえ。
 この本編+メイキングフィルムという「構成」が、なんとも「あざとい」。言い換えると、同じ手法は二度と使えないということ。一回かぎりの「瞬間芸」のようなものだということ。
 それでもいいのかもしれないけれど。
 比較してはいけないのだろうけれど(すでに比較してきているけれど)、私は、この手の映画では「ぼくらの未来に逆回転」が好きだなあ。ビデオ店のビデオがだめになったので、自分たちで「名作」をつくってしまう。それを客がおもしろがって借りに来る。人気が出てしまって、てんやわんや。この映画には、映画への愛があった。
 「カメラを止めるな!」にも愛があるんだろうけれど、むしろ「野心」と「戦略」の方が目についてしまう。映画はストーリーではなく、映像そのもののなかにある「事実」を見たい、というのが私の希望(欲望)だなあ。
 (2018年08月04日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン3)




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テイラー・シェリダン監督「ウインド・リバー」(★★★★)

2018-07-30 10:37:43 | 映画
テイラー・シェリダン監督「ウインド・リバー」(★★★★)

監督 テイラー・シェリダン 出演 ジェレミー・レナー、エリザベス・オルセン

 知っている人にはわかりきったことでも、知らない人にはまったくわからないことがある。たとえば冬の雪山、単に雪が積もっているだけではなく気温が氷点下30度にもなる雪山を、装備もなく走ったらどうなるか。肺がやられてしまう。血液が凍り、それがつまって窒息する。知らない人は、雪山で血を吐いて倒れている少女をみつければ殺されたと思う。けれど、それは殺人ではなく、「事故」だ。問題は、その「事故」の背景に何があるか、なぜ少女は雪の山を走らなければならなかったか。少女は、雪山を走ればそうなることを知っていたはずだ。でも走らずにはいられなかった。なぜなのか。
 ここから始まる「謎解き」は、とてもおもしろい。おもしろいといってはいけないものを含んでいるのだが。つまり「知っている/知らない」の奥に、たいへんな問題が隠されているのだが。
 だが、おもしろい、と私は書き始める。
 どこにでも、そこに暮らしている人にしか見えないものがある。暮らしている人には、それが見えすぎる。でも、それを見えない人に伝えるのは非常にむずかしい。見えない人が「見えない」ということに気づくまで、「問題」は存在しないことになる。
 この過程を、急がずにゆっくり見せていくところに、脚本(あるいは監督)のすごさがある。エリザベス・オルセンが「見えない」ものが「見える」ようになるのといっしょに、観客も「見える」ようになっていく。
 これにジェレミー・レナーが絡んでくるのだが、この配役が絶妙だと思った。
 エリザベス・オルセンはジョディー・フォスターのように「神話」になっていない。強いか弱いか、わからない。ジェレミー・レナーは体格が小さくて、絶対的な強さというものを感じさせない。生きていくには「マッチョ」でなくてもいい。土地(暮らし)に根ざすための「知恵」を身につけていけば、生きて行くことができる。むしろ、「弱さ」を自覚している方が「生き抜ける」。
 最初の方で、ジェレミー・レナーはスノーバイクを降りて山の中へ入っていくとき、白い防寒服を重ね着する。それは野生の動物の眼から逃れるという意味もあるのだろうけれど、このあたりの丁寧さが説得力の伏線となっている。「生きる」ために何をするべきか、熟知している。それが、彼の強さなのだ。
 知っていることを「肉体」に深く叩き込む。「肉体」そのもので知っていることと向き合う。そう言いなおすとき、そこに「悲しみ」の問題もそのまま重なってくる。ジェレミー・レナーは悲しみを抱えている。それを「肉体」に押し込めて、それを「強さ」に転換して生きている。
 それが「物語」のもうひとつの主題だ。
 それは映画が終わった後のクレジットの「字幕」で、もう一度明るみに出る。ネイティブアメリカンならだれもが知っていること、けれどそれ以外のアメリカ人はだれもしらないことがある。したがって、日本人もそういうことは気にかけたことがない、つまり知らないことがある。その落差の大きさを知らされる。
 知っている人はみんな知っている。しかし、それを「知らない(なかったこと)」にしようとする力が「社会」を覆っている。いつの時代も、どこででも、そういうことが起きている。「私はあなたのニグロではない」と同様に、この映画は、そういうことを静かに告発している。

 ということとは別に。

 私は、ジェレミー・レナーは妙な役者だなあ、と思った。最初に見たのは「ハート・ロッカー」だが、そのときは爆発処理のために、なにやら「ころころ」という感じの服を着ている。白い服だ。今回も防寒のために「ころころ」に着膨れている。最終的には白い服だ。この「白い、ころころ服」がとても似合っている。そういう恰好をすると「肉体」は消えてしまうし、顔もよく見えない。「ハート・ロッカー」の場合は、顔を覆うガードがあるので、ぜんぜん見えない。それなのに、あ、「人間がいる」と感じさせる。他人からはわからないが、その人にはよくわかっていることがある。そういう「役」を、白い、無色の、何にもそまっていない色をまとって演じる。そういうことができる役者なのだ。これはなかなか珍しい、と思う。

 (2018年07月29日、KBCシネマ1)



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ラウル・ペック監督「私はあなたのニグロではない」(★★★)

2018-07-29 15:24:07 | 映画
ラウル・ペック監督「私はあなたのニグロではない」(★★★)

監督 ラウル・ペック 出演 ジェームズ・ボールドウィン、メドガー・エバース、マルコムX 、マーティン・ルーサー・キング・Jr.

 ジェームズ・ボールドウィンの未完の小説をもとにしたドキュメンタリー。
 そこに描かれている黒人差別の問題を日本の「非正規雇用」と重ね合わせてみると、それはそのまま日本の問題に見えてくる。
 正規雇用(正社員)は非正規雇用の実体をよく知っている。「知らない」と言い張る人もいるだろうが、それは「考えない」ことにしているだけだ。実際に同じ職場で、同じように仕事をしているのだから。
 いま、かつての「非正規雇用」あるいは「派遣」は「子会社での正規雇用」という形で隠蔽されつつある。子会社をつくり、そこで正社員として雇う。ただし給料は本社の水準とはあきらかに違う。低賃金である。そうすることで浮かした金を「親会社の正規社員」の賃金に回す。もし、この問題に気づき、「親会社の正規社員」が「格差はおかしい」と言えば、その人はすぐに「子会社」に出向ということになるだろう。出向の場合、賃金は「親会社」での賃金がベースになる。ただし、ずーっと同じ基準が適用されるわけではなく、賃金改定のたびに「子会社」の基準が適用される。つまり、切り捨てられるのである。そういう仕組みを知っているから、「親会社の正規社員」は何もいわない。自己保身に懸命で、いま起きていることに目を向けない。そればかりではなく「派遣」が「子会社での正規雇用」という形で身分保証ができたのだから、それはいいことだ、と経営者の代弁さえする。
 また海外研修生という形での「雇用」も重ねて見ることができる。低賃金で労働力を確保するために、海外から「研修生」を受け入れる。「研修生」は日本で学んだ技術を母国に持ち帰り、母国の発展につなげるという「名目」でつけられた「名称」に過ぎない。労働力として恒久的に受け入れる(移民として受け入れる)と賃金を上げつづけなければいけない。賃金が高くならないうちに母国に返してしまう。つぎつぎに低賃金の労働者を確保しつづけるための「方便」である。
 こういうことも実際に同じ仕事をしている人間にはわかることである。それがわからないなら、一緒に仕事をしていることにはならない。現実に起きていることは、だれにでもわかる。わかっているが、何も行動を起こさない。それがいまの日本である。
 アメリカでは黒人が自己主張したが、日本では非正規雇用の人も、子会社の正規社員も、海外研修生も声を上げない。もちろん親会社の正規社員は声を上げるはずがない。なぜか。そういうことをすれば、即座に失職するからである。
 安倍の独裁(アベノミクス)は、そこまで日本人を萎縮させている。そういうことを思いながら、見た。だれもが知っている。だれもが実感している。それなのに、その「実感」は声になって広がっていかない。それだけではなく、安倍批判をすると「反日」ということばで集団攻撃が始まる。「アメリカ」をあくまで白人を中心にした国家と見るように、政権批判をしない人だけを「日本人」と定義し、批判する人を「非日本人」として排除する。「反日」を口にする人は、「反日」と他人を排除すれば「愛国者」になったつもりでいる。だが、彼らは「国家」を考えたりはしない。自分の「いま」を守るために、個人的な理由で「反日」ということばをつかって他人を排除する。
 日本には、いま「排除」の構造がどんどん広がっている。
 (2018年07月28日、KBCシネマ1)



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シドニー・シビリア監督「いつだってやめられる 10人の怒れる教授たち」(★★)

2018-07-18 20:04:54 | 映画
シドニー・シビリア監督「いつだってやめられる 10人の怒れる教授たち」(★★)

監督 シドニー・シビリア 出演 エドアルド・レオ、グレタ・スカラーノ、バレリア・ソラリーノ

 私は「いつだってやめられる7人の危ない教授たち」を見ていないのだが。
 うーん、これはたしかにイタリアならではの人間劇である。合法ドラッグをめぐる大学教授たち。専門がそれぞれ違う。言い換えると、個性派ぞろい。そんな人間がどうやって団結する? 一つの目的に向かって結集する?
 私は、ここで和辻哲郎を思い出してしまう。和辻はシスティーナ礼拝堂の有名なフレスコ画について、こんなことを言っている。「あれだけごちゃごちゃ描いていて、それがうるさくないのはイタリアが独立統治の国だからだ」と。つまり、それぞれの都市が独立した感じで統治されているのがイタリア。ローマとフィレンツェでは、同じ国とは思えないほど空気に違いがある。そういう「生き方(思想)」を反映して、それぞれの区画が独立している。他の領域を侵害しない。
 システィーナ礼拝堂で、私はなるほどなあ、と思ったが、その「なるほど」をこの映画でも感じた。教授たちは、それぞれ専門がある。その専門のことは、まあ、他の人も知ってはいるが、他人の分野には口出ししない。その人にまかせてしまう。そうすると、それぞれは協力するしかなくなる。一人でできることは限られているからね。
 そして、この独立統治が警察でも行われている。組織なのに、組織ではない。自分はこれをやるんだ、と決めて、その分野を統治している。ドラッグを取り締まる(摘発する)組織なのに、それがぜんぜん大がかりではない。「個人の趣味」という感じがする。躍起になる女刑事とその上司。警察は、ほとんど二人しかでてこないのは、この映画の世界が女性刑事が「独立統治(独立操作)」する領域だからである。こんな嘘みたいな組織構成は、たぶんイタリア以外では考えられない。イタリア人は、こういう「独立統治」をあたりまえと思っているようである。
 だから(と言っていいのか)、活躍するジャーナリストも「独立統治」の女性。ひとりでブログを書いているだけ。「どこの新聞?」と聞かれて「フリーランス」と平然と答えている。ひとりで、彼女自身のブログを統治している。
 この映画がおもしろいのは、でも、実はその後のことかもしれない。主人公の「独立統治(国家)」はいったん亡びる。そうすると、彼らが知らないうちに、それとそっくりの「独立統治(組織)」が暗躍していて、しかも、主人公たちの「失敗」をしっかり学んでいるので、どじは踏まない。失敗はすべて主人公たちの「独立統治(組織)」に押しつけてしまう。
 ローマ帝国は遠い歴史のかなたで滅んでしまったようだが、あいかわらずイタリア(ローマ)は悠然と存在している。ローマ帝国というのは、いわば泥棒の国だが、いまはそれを「国家」としてはやっていないが、「個人」にまかせて知らん顔をしている部分がある。「独立統治」というのは、「統治しない部分」を常に残しておいて、その「統治しない部分」は他人にまかせてしまうということでもある。
 イタリア人を個人的に知っているわけではないが、このばらばらでありながら統一感を保つというのは、イタリアならではなんだろうなあと思う。フランス人なら、もっと個人と個人が密接になるし(他人の悩みを共有したりするし)、アメリカ人なら合理的組織をボスを頂点とした強固なものにするだろうなあ。アメリカならヒエラルキーを「民主主義」と言いなおして、組織を作るだろうなあ、などと思いながら見た。

 (2018年07月18日、KBCシネマ1)



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ミシェル・アザナビシウス監督「グッバイ・ゴダール!」(★★★+★)

2018-07-15 20:28:20 | 映画
ミシェル・アザナビシウス監督「グッバイ・ゴダール!」(★★★+★)

監督 ミシェル・アザナビシウス 出演 ルイ・ガレル、ステイシー・マーティン

 ゴダールの映画は地方都市では上映されることが少ない。やっとやってきたと思ったら、フィルムは雨降り状態、というものが多い。いまはデジタル上映なので、雨降りフィルムとか、途中で頻繁にフィルムが切れて上映が中断するということはないが、昔は、それはそれはたいへんだった。そういう「不完全」な状態でしかゴダールを見たことがなかったので、もう30年も前だろうか、東京で「ヌーヴェルバーグ」(アラン・ドロン主演)を見たときは、驚きで椅子から転げ落ちてしまった。あ、こんなにきれいな映像なのか。いまでも、あの衝撃は忘れられない。
 この映画は、まるでそのゴダールの映画そっくり。色がともかくきれいだ。赤、黄色、青の三原色に白と黒。みんなくっきりと、堅牢な色をしている。マティスの色だ。冒頭の、ステイシー・マーティンが本を読むシーンの黄色いセーター、背後の赤い本。強烈だ。
 ステイシー・マーティンの前半のヌードも、きれいなヌードだ。ただただきれいに撮っている。開いた口だけで表現するセックスもいいなあ。ゴダールは基本的に美しいものが好きだ。映像を美しく撮るのが好きだ。
 学生運動が激しかった時代のパリの、学生と機動隊の衝突も、こういう表現はよくないのかもしれないが、美しい。舗道の敷石を剥がして機動隊にぶつけるシーンは、「パリの舗道の石の下は砂だった」だったっけ、あの有名な(忘れていて有名もないけれど)ことばを思い出させる。
 私がいちばん気に入っているのは、映像がポジからネガに転換し、それにレコードの音飛びが重なるシーン。CDではありえないノイズなのだが、そのノイズの中でポジとネガが交錯し、レコードをなおしに行こうとする女をゴダールがそのままでいい、とひきとめるところ。ノイズのなかにある美しさをそのまま映像と音にしている。それに、二人の気持ちが交錯する。
 わああああ、映画だなあ。叫びたくなるくらい美しい。
 後半の、二人がわかれる原因(?)になる映画、ヌードが問題になる映画を、現実の中で先取りするシーンは、とてもおかしい。男女ともヌードのはずの映画が、ゴダールの抗議(?)で女はヌードではなくなる。男だけがヌードになる。そういう話をしながら、ゴダールの裸があらわれる。いまは、こういう時は無修整なのだ。このあたりの、不思議なユーモアもいいなあ。
 ゴダールはいろんな映画を撮っているが、この映画で描かれているのは初期のころ。そして、その初期のころの映像を感じさせる雰囲気が、とても楽しい。私の見たのは雨降り映画なので、初期の雰囲気といっていいかどうか、まあ、わからないのだけれど。別れた女の本が原作なので、ゴダールに批判的だが、映画づくりそのものはゴダールに浸っている感じが楽しくて、★一個を追加した。
 (2018年07月15日、KBCシネマ1)

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ジャン=リュック・ゴダール Blu-ray BOX Vol.1/ヌーヴェル・ヴァーグの誕生
クリエーター情報なし
KADOKAWA / 角川書店
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