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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ロブ・ライナー監督「記者たち 衝撃と畏怖の真実」(★★★+★)

2019-03-30 19:13:49 | 映画
ロブ・ライナー監督「記者たち 衝撃と畏怖の真実」(★★★+★)

監督 ロブ・ライナー 出演 ウッディ・ハレルソン、ジェームズ・マースデン

 情報があふれる現在、それが本物であるか偽物であるか、どうやって判断するか。
 一番大事なのは、「だれが言っているか」ではなく、「どう言っているか」である。「言い方」のなかに、ほんとうと嘘がある。といっても、これを判断するのはとてもむずかしい。
 私は、そこに語られていることが自分の実感にあうかどうかで見極める。実感できないときは、とりあえず「疑う」。これは、ほんとうだろうか、と。それから「語られていることと自分が知っていることが合致するか」を少しずつ考える。
 この映画では、9・11のテロ事件と関係づけて、ビンラーディンをイラク(フセイン)が支援しているという「見方」が語られる。アフガニスタンもイラクもアメリカから遠い。(日本からも遠い。)だから、そこに語られていることの真偽を見極めようにも、見極めようがない、とも言える。政府が、「イラクは大量破壊兵器を持っている。ビンラーディンと結託している」と言えば、ついついそれを信じてしまう。政府が嘘をつくとは国民はふつうは考えない。
 だから、アフガニスタンとイラクの関係から考えないといけない。二つの国は、どういう関係? イスラム教徒の国だが、だからといって友好的な関係? 私からみれば(そして多くの非イスラム教徒からみれば)、イスラム教徒はイスラム教徒である。しかし、イスラム教徒にはシーア派とスンニ派がある。二つは対立している。敵対している。いっしょに行動するはずがない、かどうかまでは知らないが、対立しているということまでは、私は本で読んで知っている。アメリカにも、それを知っているひとがいるだろう。実際、映画にはそういうことを知っているひとが出てくる。(記者の恋人だ。)
 さらにアメリカ国なんで高まる愛国心(小学校で愛国心について教える)ことに対し、「愛国心なんて対立を生むだけで何の役にも立たない」ということをユーゴ(だったっけ?)で実際に体験してきた記者の妻が語る。「内戦」を引き起こすだけだ。国というものは愛の対象にはならない、ということかもしれない。
 さて、考えよう。生まれてからずーっと対立していた誰かの行動を支援するために、武器を用意するということがあるだろうか。そのだれかと共同して戦うということがあるだろうか。相手は、遠いアメリカである。これは、なかなかむずかしい。目の前に、長い間対立してきた相手がいる。それと戦う方が重要である。アメリカなんか、ほっておけ、というのが普通の態度だろう。
 どうもおかしい。
 イラクを攻撃するために、9・11テロが利用されている。ビンラーディンが利用されているのではないか。
 ストーリーをこんなふうに単純化してはいけないのだが、まあ、こういうことだ。こういう疑問が成り立つなら、それが成り立たないということが証明されない限り、疑問を捨ててはいけない。疑問だけが、真偽を見極める方法なのだ。「だれが言っているか」ではなく、「どう言っているか」。イラクに大量破壊兵器がある、というのは、どういう根拠に基づいて言われているか。もし、イラクが大量破壊兵器を隠し持っていたとして、それは何のためにつかうのか。
 イラクが核兵器を準備しているという情報に対する「疑問」の答えがとてもおもしろい。イラクがアルミ管を入手したというのは事実。核兵器のためにアルミ管が必要というのも事実。でも、そのアルミ管がそのままつかえるのか。ひとりの科学者(?)が、「あれでは細すぎて役に立たない」という情報を教えてくれる。「事実」は細部に隠れている。
 それやこれや。二人の記者が信頼するのは、「末端」の情報(実感)である。
 たとえば、きちんとした情報を提供しているのに、それが無視されつづける。おかしいんじゃないか、と疑問に感じている政府機関の職員。もしかすると、そこには「不満」が反映しているかもしれない。だから、簡単にそのことばを信じるわけにはいかないが、「情報操作」が行われていないかどうかの疑問の「糸口」になる。
 日本では、最近、次々と政府の発表する「統計情報(経済情報)」が意図的に操作されているという問題が起きた。景気は拡大している。好景気はつづいている。でも、ほんとうか。たとえば、コンビニで買い物をする。店員は外国人が多い。日本人は減っている。これはどういうことだろうか。日本人がコンビニ以外の仕事のために手をとられているためだろうか。それとも外国人の方が賃金が安いからだろうか。きっと、外国人の方が安いからだ。
 そうすると。
 もし、日本人がコンビニで働きたいといったとき、雇い主はどういうだろうか。外国人は時給六百円で働いている。同じ賃金でないと雇えない、というのではないだろうか。日本人の賃金を切り下げるために外国人が利用されているということはないだろうか。外国人を搾取し、その搾取を利用して、日本人を搾取する。
 こういうことが、改正入管法で外国人労働者を増やすことで行われようとしている。きちんと外国人を雇うのではなく、さまざまな制限をつけて、短期間だけ利用し、母国へ追い返す。そうすることで外国人の賃金をおさえ続け、それにあわせて日本人の賃金も下げていく。
 日本は人手不足人手不足というが、実際は、安い賃金で働かせることができない人手が不足しているということだ。極端な話、コンビニの店員の賃金が時給2000円なら、そして課税されない収入の上限が500万円なら、店員の年齢制限が80歳なら、パートの主婦はこぞってコンビニ店員に転職することを考えるだろう。年金生活者も、こぞって応募するだろう。
 もちろんここで書いたことは「空論」だが、空論であろうとなんであろうと、疑問を自分のことばで動かしてみることが重要なのだ。そのあとで、空論とわかれば空論を捨て去ればいいだけである。
 とか、あれこれ映画を見ながら、あるいは映画を見終わって考えた。
 考えるための「材料」としては、とても参考になった。マスコミの仕事は「疑問の材料」を提供すること、というのもいいなあ。でも、映画は物足りない。「真実」が権力を倒すという「大統領の陰謀」のような、すかっとした結末ではないからだ。でも、だからこそとても重要だとも言える。★一個は、映画を見てひとりでも多くのひとが考えるきっかけになればという期待を込めて増やした。
 (2019年03月29日、KBCシネマ1)

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戸田ひかる監督「愛と法」

2019-03-25 13:57:36 | 映画
戸田ひかる監督「愛と法」(★★★★)

監督 戸田ひかる 出演 南和行、吉田昌史、南ヤヱ、カズマ、ろくでなし子

 大阪の弁護士夫夫(ふうふ)の活動を描いている。
 二人が担当した担当している訴訟が取り上げられる。女性性器を題材に作品をつくっている女性、擁護が必要な子ども、君が代斉唱のとき起立しなかった教師、無国籍のひと……。なぜ、ひとは自分がしたいことをできないのか。自分がしたいことをするのは罪なのか。
 彼らが抱える問題は、私には直接関係がない。
 と、言ってしまうと、そこでおしまい。
 ほんとうに関係がないのか、実は、わからない。でも、自分がしたいことができないと苦しみ悩んでいるひとがいるということ、そしてそのひとたちがしたいことをできないようにしている社会があるということは、ゆっくり考えてみる必要がある。
 私のしていることも、「それはしてはいけない」と突然言われるかもしれない。たとえば、こうやってブログに感想を書いていること。自分が思ったことを思ったままに書いているだけに、なぜ、いけない?
 たとえば。
 私は安倍の進める改憲に反対している。そういう考えをブログに書き続けた。本を出した。新聞のインタビューに答えたり、映画で自分の意見を言ったりした。このとき、私の務めている会社の「許可」が必要だった。本の内容もチェックされた。会社名を出すわけでもないのに。許可はされたけれど、こういうことも、窮屈な感じがする。
 そういうことが周囲にもわかるから、映画の上映会をするときもいろいろたいへんだった。手伝ってくれる仲間もいたが、なかなか観客を集められない。安倍批判をしているひとも、実際に上映会にまでは来てもらえない。いろいろな事情があるのだろうけれど、どこかで会社の視線を意識している。
 別の活動をしているひとも、「会社には知られたくない」と、会社の視線を気にしていた。その人が正しいと思っていることを仲間といっしょにしているだけなのだけれど。
 映画の中に「空気を読む」ということばが出てきたが、「空気を読んで、まわりのひとにあわせる」。そういうことが、じわりじわりと、ひとりひとりの生き方を窮屈にしてくる。
 ここから映画に戻る。
 そういう「窮屈さ」をはねのけようとして生きているひとに、ふたりは寄り添っている。その寄り添い方が、とても自然だ。相談を持ちかけられている弁護士なのだから、関係者に対して怒ったりしてはいけないのだろうけれど、怒りもする。自分の生活をふりかえって泣いたりもする。そうやって生きながら、助けを求めるひとのために何ができるか、社会はどうあればいいのかを、語るというよりも、そういう社会へ向けて自分の肉体を動かしていく。その感じがとてもいい。
 行き場をなくして、突然二人の家にころがりこんできた少年(青年といった方がいいかも)の態度がとてもいい。ふたりの生き方を、そのまま、そこにあるように受け入れている。二人の生き方はかわっているわけではない。「自然(あたりまえ)」と思っている。彼にとって必要なのは、ただ「受け入れてくれる」ひとだったことがわかる。ひとはだれでも、自分を受け入れてくれるひとを求めている。求められたら、そして求められていることに対して自分ができることがあるなら、それをすればいい。もちろん、できなければ、できないといえばそれでいいだろう。だれひとり、無理なことはしていない。
 登場してくるひとたちを見ていると、無理をしているのは、彼らを拒んでいる社会かもしれないと思えてくる。
 君が代斉唱のとき椅子に座った教師の同僚(たぶん)たちの反応が、端的だ。「起立するように決まってるから、起立したらいいじゃないか」。多くのひとがそう思うだろうけれど、このとき、「自分は起立したかったのか」どうかを問いかけてみるとわかる。「君が代が大好き。だから立って歌いたい」と思っていたかどうか。ほんとうに、そうならそのひとは歌えばいい。ほんとうにそう思うなら「君が代は嫌い。だから立たない」というひとの気持ちもわかるだろう。でも、好きか嫌いか自分で答えを出さずに、嫌いというひとに「起立して斉唱するのは決まり」というのは、もしかすると、どこかで無理をしているのかもしれない。校長からにらまれたらいやだな、とかね。
 小さな小さな判断かもしれない。でも、その小さなことが少しずつ積み重なってくる。それが窮屈な社会をつくっているのだとしたら、小さな小さなことを少しずつはね返していくことが自由につながる。そう感じさせるとてもいい映画だった。

 映画の前に、弁護士がこの映画について少し紹介した。
 気になったことがある。LGBTについて説明するとき、一部で「男性なのに女性のこころをもったひと(女性なのに男性のこころをもったひと)」というようなことばをつかった。一般的に、そういう言い方をするのだが、もうやめた方がいいのではないだろうか。
 「男性のこころ」「女性のこころ」というものは、ない。
 あるのは「自分のこころ」だけである。
 この映画に登場するひとたちも、だれひとりとして「男性のこころ」「女性のこころ」を主張していない。「自分のこころ」を主張している。
 「肉体」は生物学的な特徴から「男/女」に分けることができる。けれど「こころ」はそういう具合には分けることができない。「こう感じるのが男のこころ(女のこころ)」というのは「社会制度」と関係がある。「こころ」に一定の型を押しつけてくるものをはね返し、「自分」(ひとりひとり)のこころのために生きていくことを大切にしたい。
 弁護士には、「ひとり」であることを応援する仕事をしてほしいと思った。
 ちょっと話がかわるけれど。映画に戻るけれど。
 映画の中にいろいろな音楽が流れる。そのうちの一部は、主役の弁護士が自分でつくったもの。そして、自分で歌っている。この歌、へたくそです。でもね、それがいい。自分に歌いたいことがある。だから歌う。ミュージックビデオみたいなものもつくる。これはプロ(?)が加わってくるので、映像はなかなか見栄えがする。これもいい。みんな自分のできることをしている。自分のできることに対しては手を抜かない。下手であろうがなんであろうが、真剣。それが自分。できあがったビデオを見ながら、本人は「いいじゃないか」と思って見ている。連れ合いも「ほーっ」という感じで見ている。幸せというのは、こういうときに生まれてくる。他者を受け入れながら、ひとりひとりが自分のできることを手を抜かずに生きていく。そのみんなのしてきたことが、寄り集まって、いままでなかったものがふっと生まれてくる。その瞬間が、幸せ。
 「自分」がいきている人間を見る。それが映画。映画の本道をあるいている映画です。見てください。
 (2019年03月24日、福岡県弁護士会館)
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スパイク・リー監督「ブラック・クランズマン」(★★★★★)

2019-03-24 10:39:36 | 映画
スパイク・リー監督「ブラック・クランズマン」(★★★★★)

監督 スパイク・リー 出演 ジョン・デビッド・ワシントン、アダム・ドライバー

 スパイク・リーの「ドゥ・ザ・ライト・シング」を見たときの衝撃を忘れることができない。私がいかに黒人差別に加担していたかを知らされた。ハリウッド映画の描かれる「黒人像」をそのまま受け入れていたにすぎないかを知らされた。
 というような抽象的なことを書いてもしようがない。
 私は、その映画の中のアフリカ系アメリカ人の「家庭」にびっくりした。美しく整っている。乱雑さ、だらしなさと無縁である。考えてみれば、これは当然のことだ。ひとは誰であれ、自分の暮らしている場所は美しく整えたい。その方が気持ちがいい。つかいやすい。それだけなのだ。それだけなのに、こういうあたりまえを、私は忘れていた。
 この「あたりまえ」を、私はこの映画でも教えられた。
 ジョン・デビッド・ワシントンが警官になりたくて、警察に面接試験を受けに行く。その試験を署長(白人)とアフリカ系アメリカ人(肩書は聞き漏らした。それまでアフリカ系の警察官はいないというのだから、警察以外の職員かも)が担当する。このときの面接のやりとり(内容)がとても自然だ。差別の問題(きっといやなことに直面するだろう)というような指摘や、それに対してどうするつもりか、というようなことが、たんたんと進んでゆく。試験をする方も受ける方も、なんといえばいいのか、「わきまえ」を守っている。必要最小限、しかし必要不可欠なことは、そのなかできちんと処理されている。これは、どこにでもある世界だ。「どこにでもある」を「どこにでもある」ままに、スパイク・リーは描く。
 この映画でおもしろいのは、この「どこにでもある/わきまえ」が、しかし、なかなか「曲者」であるということだ。
 クライマックスというより、ハイライトか。ジョン・デビッド・ワシントンがKKKのトップを護衛することになる。ジョン・デビッド・ワシントンにしてみれば、潜入捜査でたどりついた大物、逮捕したい男なのになぜ護衛をしなければならないのか、という気持ちがあるだろう。一方、護衛される方にしても、殺してしまいたいと思っているニガーが護衛だなんて、頭に来る、という気持ちだろう。でも、KKKは秘密。「アソシエーション(団体)」の代表にすぎない。警官がニガーだからというので異議を唱えれば秘密がばれてしまう。受け入れるしかない。記念撮影も、肩を抱かれたことも、ぐっとがまんして受け入れるしかない。警官を殴れば、その場で公務執行妨害で逮捕される。ほかの仲間も同じだ。隠し続けるしかない。
 さらに、さらりと描かれているが、このパーティーのために仕事を求めてきたひとのなかにはアフリカ系のひともいる。「こんな差別的な団体だと知っていたら応募しなかった」というようなことを語り合っているが、彼らにしても、その思いを語り、即座に行動するということはできない。
 ここが問題。ここが、じつは一番恐いところだ。
 不満はいつも抑圧され、いつも差別は隠れている。隠れているというよりも、いつも隠されている。差別主義者は、差別を隠すことを知っている。
 これは取り締まる側にも言える。KKKの組織をつかんだ。けれども、それを摘発してしまうことはできない。この映画では、狂信的な夫婦の「爆弾テロ」が事件として処理されるだけだ。(映画では、明確に描かれていないが。)KKKが存在し、活動しているということは、公表されない。住民の不安をあおるからだ。
 すべては隠される。だからこそ、その後も差別は繰り返される。思い出したように、噴出してくる。事件はなくならない。映画の最後に流れる「現実のニュース」がそれを語っている。それは個人の反抗なのか。隠れた組織の指示によるものなのか。問題はそれだけではない。直接的な攻撃はしないが、「排除」という暴力がすすめられることがある。「アメリカ・ファースト」という主張そのもののなかには、暴力はないように見えるが、「排除」が隠蔽されている。
 隠されているものを、どうやって明るみに出すか。それとどう向き合うか。
 あ、これはジョン・デビッド・ワシントンの「潜入捜査」そのものだね。ストーリーがテーマそのものとなっている。巧みな脚本だ。
 (2019年03月23日、KBCシネマ1)

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イングマール・ベルイマン監督「ファニーとアレクサンデル」(★★★★★)

2019-03-22 10:28:33 | 映画
イングマール・ベルイマン監督「ファニーとアレクサンデル」(★★★★★)

監督 イングマール・ベルイマン 出演 ペルニラ・アルビーン、バッティル・ギューベ、アラン・エドワール、エバ・フレーリング、グン・ボールグレーン

 最初に見たときはクリスマスのシーンにただただ圧倒された。あとにつづく陰鬱なシーンはせっかくのクリスマスシーンを台なしにするようで、無残な気持ちがした。でも、再び見ることができて、発見が多かった。
 いちばんの発見は、時間の処理である。特に二部に入ってからがびっくりしてしまう。
 かけはなれた場所で起きるできごとを、カメラを瞬時に切り換えて映し出して見せる。(もちろん、これは編集、ということなのだが。)そうすると違った場所なのに、それが同じ時間に起きていることになる。実際に同時に起きていることがあるかもしれないが、そういうことはかけはなれた場所でのできごとなので、誰にもわからない。
 しかし。
 記憶というのは、かけはなれた時間も場所も「いま/ここ」のように整えてしまう。「あのとき、ここではこういうことが起きていたが、あそこではああいうことが起きていたのか。そして、これとあれは、完全につながっていたのか」と言う具合に。
 この映画のひとつのクライマックス。アレクサンデルが人形工房で迷子になる。幽閉されている男の部屋に招き入れられ、その男と話をする。男はテレパシーのようにアレクサンデルの頭の中をことばにしてみせる。そのとき、教会では、ほとんど寝たきりの女性がランプを倒して、それが衣服に燃え移り、火まみれになって部屋を飛び出す。男の語っていることばにつづいてそういうシーンが映し出されると、まるでアレクサンデルの願望がそのままかけはなれた場所で実現されているようにも見える。
 でも、これは正確に言いなおすならば、その事故を警察が母親に報告にきたのをアレクサンデルが聴いて、あ、きのうのことばは、こういうことだったのか、と整えた結果だろう。幽閉されていた男が語ったことばは、抽象的で、現実的な描写ではないのだから。
 ことばが先にあって、現実があとからやってくる、というよりも、ひとはことばによって現実を整える。そのとき、時間や場所は「距離感」をなくして凝縮する。「追憶」のなかで世界は緊密に結びつき、より濃密になる。
 アレクサンデルの父親が、ハムレットの「亡霊」の練習をしていて、倒れる。それは事故なのだが、その後、母が再婚し、新しい父が世界を牛耳はじめると、まるで「ハムレット」の世界がそのまま現実になったように思える。幼いアレクサンデルには、そうとしか思えない。復讐心がわく。父の「亡霊」も見える。
 クリスマスシーンも濃密だが、その後の陰惨な物語もまた濃密である。いつまでたっても終わらないのじゃないかと錯覚させる。
 映画の中で、アレクサンデルの祖母が「子どものときの、終わらないのじゃないかと思う濃密な時間」というようなせりふをちらりともらす。ファニーが「クリスマスの晩餐は長いから嫌い」とつぶやく。子どもにとっては、どの時間も非常に長い。(小学生のとき、夏休みは永遠に終わらないんじゃないかと思うくらい長かったなあ。)その長い時間、濃密さが、この映画の中に、そのまま動いている。

 「野いちご」もそうだが、「追想」なのだからストーリーはある。初めがあって、終わりがある。けれど、そこにあるのはストーリーではなく、ストーリーを突き破って動いていく人間の存在の充実だ。アレクサンデルの叔父の大学教授(?)夫婦のやりとり、夫婦げんかなど、アレクサンデルにとっては何の関係もないようなものだが、その存在が「思い出」の奥で、ほかの人間といっしょになって動いている。こういうことも、きっとあとから「あのとき、こういうことがあったんだよ」と聞かされ、ひとつのストーリーになっていくんだろうけれど。
 登場する人間のひとりひとりが、むごたらしいくらいに生々しい。

 それにしても、と思う。
 デジタル化された映像はたしかに美しい。しかし、デジタルでこれだけ美しいならフィルムはもっとつややかで美しいだろうと悔しくなる。フィルムを劣化させずに残す方法はないのだろうか。
 (2019年03月21日、KBCシネマ1)
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イングマール・ベルイマン監督「野いちご」

2019-03-17 08:28:03 | 映画
イングマール・ベルイマン監督「野いちご」(★★★★★)

監督 イングマール・ベルイマン 出演 ビクトル・シェストレム、イングリッド・チューリン

 ベルイマン生誕 100年。デジタル版の上映。
 私が「野いちご」を見たのは大学生のとき。当時、毎日新聞社が「名画シアター」のような催しをやっていた。ぼんやりした記憶だが、半年 500円で毎月1本の上映。小倉の井筒屋(デパート)ホールが会場。1本あたり 100円以下の料金、しかも毎回はがきで連絡が来るという、信じられない企画だった。でもさすがに、これでは赤字がかさむだけということなのだろう。私が見始めて2年しないうちに打ち切りになったと思う。
 私はそのころ映画を見始めたばかりで、まだ映画の何を見ていいのかもわからずに、ただ見ていた。老人が夢見ているだけの、奇妙な映画という印象しかなかった。
 今回見直して、あ、すごい、とただただ驚いた。
 モノクロがとても美しかった。とくに最初の夢の白と黒の対比が強烈だ。主人公の顔が、建物の内部の闇(影)をバックに浮かび上がるシーンは鮮烈だ。影だから、実際は光はあるのだが、光を消してしまって闇にしている。無にしてしまっている。無といっても、日本人(東洋人)が考えるような、すべての存在を生み出す前の渾沌というのではなく、ほんとうに何もない、拒絶としての無。その無の中に存在する人間、という印象が強烈だ。
 ストーリーとしては、老人(大学教授)の「夢」をつないでいるだけである。ロードムービーと組み合わせているところが、とても斬新である。なんといってもすごいのは、「グリーンブック」のような、あるいは「最強の二人」のような結末がないことだ。単に一日が終わったというだけだ。いまでも、誰かがこの手法で取ったらびっくりすると思う。移動は、登場人物をまきこむための「方便」にすぎない。
 車の移動の途中で、場所が変わり、登場人物(脇役)が変わる。ある意味では脈絡がないのだが、脈絡がないだけに、登場してくる人間の姿がくっきりする。ストーリーにとらわれることがない。ストーリーなんてないのだ。人間が生きている、存在しているということ自体の中に究極のストーリーがある。生きている意味は、それぞれの人間の中にしかない。共有などできない。共有できない「存在としての人間」がいるだけだ。
 このストーリーのない展開の中で、では、何が起きるのか。
 女の感情が、肉体を突き破って出てくる。男(主人公)はそれに翻弄される。女の欲望の強さに男がついていけない。主人公は女に裏切られ続ける。恋人は別の男を選び、妻は別の男とセックスをする。それを主人公は見てしまう。そして、何もできない。
 神は存在するか、存在しないか、というような議論も持ち込まれる。そういうことを話すのは男なんだけれどね。
 で。
 こういう展開の中で、主人公は何を見たことになるのだろうか。夢と思い出がいりまじりながら一日が過ぎていくとき、主人公は恋人や妻の裏切りを見ただけなのか。あるいは主人公が見たのは、女たちではなく、何もできなかった自分自身だったのか。ほんとうに生きているのは、女たちなのか、男の私のなのか。妻が死んでいるだけに、そんな疑問も浮かび上がってくる。
 これは、こう言い換えることもできる。
 誰かが何かを語るとき、それは対象について語っているか、それとも自分自身を語ることになるのか。
 見終わると、突然、そういう「哲学的」というか、「文学的」というか、強い「問い」を突きつけらる。
 まあ、こういうことは、「答え」を出さなくてもいい。衝撃を受けたという「事実」さえ、肉体に残ればいいことだと私は思っているのだが。
 それにしても。
 ベルイマンの描く女はなまなましい。肉体を突き破って感情がむき出しになる。映画なのだから、そこまでむき出しにしなくても感情がわかるのだが、ベルイマンは逆に考えているのかもしれない。映画なのだから、単に感情を動かすのではなく、肉体がスクリーンからはみ出すくらいに描かないと、映画にする意味がない。観客が耐えられなくなるくらいでないとだめ。観客の網膜を突き破って、観客の肉体に侵入していく、というところまで求めているのかもしれない。「役」を見せているのではなく、「女」そのものを見せている。だから、「そんな感情をぶつけられても、私はあなたの男ではない」と言いたくなる。こんな演技というか、「むき出しの感情」を監督から求められたら、女優はたいへんだ、と思ってしまう。
 というようなことも二十歳になるかならないかの大学生のときは、わからなかったなあ。
 (2019年03月16日、KBCシネマ2)

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クリント・イーストウッド監督「運び屋」(★★★★★)

2019-03-10 09:31:00 | 映画
クリント・イーストウッド監督「運び屋」(★★★★★)

監督 クリント・イーストウッド 出演 クリント・イーストウッド、ブラッドリー・クーパー、ローレンス・フィッシュバーン、マイケル・ペーニャ、ダイアン・ウィースト、アンディ・ガルシア

 劇的に撮ろうと思えばどこまでも劇的に撮れる映画だろうけれど、実に淡々としている。考えてみれば、どんなに劇的な人生であろうとそのほとんどの部分は「日常」であり、日常は淡々としているものだ。
 最初のクライマックス(?)、自分が運んでいるものがドラッグだと気付く。そこへ警官がやってくる。ドラッグ探査犬もいる。予告編でもちらりと見えた。どうなるんだろう。はらはら、どきどき。でも、一瞬で切り抜けてしまう。痛み止めクリームの匂いで犬を引きつける(鼻を麻痺させる)という知恵も機転が利いているが、そのあとの処理が素早い。イーストウッドの演技も素晴らしいが、さっと消えていくときの警官の演技(犬をコントロールする演技)が素晴らしい。自然体そのもの。まるで何もなかったみたい。実際に、何も起きないのだが、この何も起きないところにドラマがある。
 監視役の二人にチキンサンドイッチを振る舞うシーンもいいなあ。「なんで、こんなところに立ち寄るんだ」「西部一うまいチキンサンドを出すからだ」。で、食べた瞬間の監視役のやくざの表情がかわる。うまい。その「うまい」という表情が自然すぎるくらい自然だ。「バベットの晩餐」で喋ってはいけないといわれていた近所の老人たちがワインを口にした瞬間、顔の表情がゆるむシーンに似ている。ひとは、うまいものを食べた瞬間にこころが明るくなる。それが顔に出る。
 このシーンなどストリーそのものには何の関係もないような部分なのだけれど、その積み重ねが、ストーリーを「日常」にしてしまう。監視役の二人が盗聴マイクから流れてくるイーストウッドの聞いている曲をバカにしているうちに、だんだんその気になってくるところとかね。
 こういうことがあって、孫娘の卒業式に出席したイーストウッドがダイアン・ウィーストの咳に気づき、それが「運び屋」のストーリーの奥の、ほんとうのストーリーにつながっていく。このシーンも、ほんとうに短い。けれど印象に残る。だから、最後にあれが伏線だったと、自然に納得できる。
 ダイアン・ウィーストが死んでゆくシーンは、もっと感情的に盛り上げようとすれば盛り上がるシーンだし、感情的に盛り上げようとしなくても盛り上がってしまうシーンだが、イーストウッドはきわめて淡々と撮ってしまう。考えてみれば「主人公」とはいえ、それは観客にとって「他人」。のめりこんでしまうと「他人」ではなくなる。映画の楽しみは「自分」ではなく「主人公」になってしまうことだけれど、それは瞬間的なことであって、観客は観客の人生にかえっていかなければならない。そういうことを承知しているから、さらりと「こういうことがありました」という感じにおさえてしまう。おさえても、それは静かに触れてくる。この「触れてくる」という感じがとてもいい。
 「もっと」と思うときもあるけれど、「もっと」は観客のそれぞれが自分の人生で実践すればいいことなのだろう。
 ブラッドリー・クーパー、ローレンス・フィッシュバーン、マイケル・ペーニャ、ダイアン・ウィースト、アンディ・ガルシア。出演者の誰もが「主役」を演じることができるのだが、みんな「脇役」に徹している。イーストウッド自身「脇役」を演じている感じがする。
 ブラッドリー・クーパーとの朝のコーヒーショップでの会話、アンディ・ガルシアの豪邸での監視役のやくざとの会話など、大切なことはイーストウッドがセリフにしているのだけれど、そのセリフの向こう側にブラッドリー・クーパや監視役のやくざの人生が「事実」として動く。その「事実」を浮かび上がらせる産婆としてイーストウッドがいる。「脇役」として生きている。
 ハイウエーでパンクしたアフリカ系家族とのやりとり、女性ライダーたちとのやりとりという「エピソード」にすぎない部分にも、「事実」とその「事実」が噴出してくる瞬間に動いている「他人の感情」をしっかり浮かび上がらせている。浮かび上がらせるためにイーストウッドがいる。
 で、ね。
 これが何というか……。イーストウッドの演じた「運び屋」の男の性格そのものなのだ。自分のことに集中していればいいのに、ついつい「他人」に目を向けてしまう。「他人」から評価されたい、評価されるときの喜びを味わいたいという欲望が主人公の体にしみついてしまっている。そのために「家族」をほっぽりだしてしまう。「家族」も「他人」なのに「身内」なので、ついついないがしろにしてしまうということなんだろうなあ。「家族」よりも「他人」に喜んでもらいたい。それが、イーストウッドを逸脱させてしまう。という具合に、ストーリー全体にもおおいかぶさってくる。
 この不思議な不思議な「構図」(映画構造)が、泣かせる。
 (2019年03月09日、ユナイテッドシネマキャナルシティ・スクリーン2)
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ピーター・ファレリー監督「グリーンブック」(★★★)

2019-03-04 08:58:09 | 映画
ピーター・ファレリー監督「グリーンブック」(★★★)

監督 ピーター・ファレリー 出演 ビゴ・モーテンセン、マハーシャラ・アリ

 アカデミー賞作品賞受賞作品。
 予告編では手紙のシーンがおもしろかった。本編ではどう生かされているか。それを楽しみに見に行った。さりげなくて、しかもとても効果があった。
 マハーシャラ・アリがビゴ・モーテンセンに手紙の書き方を指導している。ほとんど代筆という感じなのだが。
 その二人が「グリーンブック」に掲載されているホテルの一室に泊まる。そこでの会話。マハーシャラ・アリには兄弟がいるのだが、疎遠だ。ビゴ・モーテンセンが「手紙を書けよ」だったか「会いに行けよ」だったか、そんなことを言う。マハーシャラ・アリは「兄が私の住所を知っている」というような返事をする。ビゴ・モーテンセンは少しあきらめながら、それでも「寂しくなったら、頼ることも必要だ」というようなことを言う。それで会話は終わるのだが……。
 ラストシーン。クリスマスの夜。ビゴ・モーテンセンを家に送り届けた(ボスと運転手が交代している)あと、自宅に帰ったマハーシャラ・アリ。ひとりで寂しい。ふとビゴ・モーテンセンを思い出したのだろうか。ビゴ・モーテンセンが盗んだ翡翠をテーブル(?)の上に置いてながめる。それからシーンがかわって、ビゴ・モーテンセンの家の玄関。マハーシャラ・アリがシャンパンを抱えて立っている。会いに来たのだ。
 ここ、涙が、突然こみあげてくる。
 いやあ、いいなあ。うれしいなあ。
 ボスと運転手が交代し、雪の道を車で走ってくるシーンで、二人の関係がボス・運転手という上下関係でなくなったことが示されているのだが、これは家族でクリスマスという約束を守らせたいという「同情」、あるいは「配慮」とも受け取ることができる。マハーシャラ・アリの「紳士性」の象徴とも、理解できる。
 でも、ビゴ・モーテンセンの家を訪問したのは違う。寸前、「家に寄っていけ」という誘いを断っているのだから。その、いったん断った「訪問」を思い出したようにして、やってくる。寂しかったら、人に頼る。弱さを受け入れる。自分は弱い人間であるということを、人に見せる。そういうことができる人間に、マハーシャラ・アリは変わったのだ。ビゴ・モーテンセンと「旅」をすることで。
 この映画を「最強の二人」や「ドライビング・ミズ・デイジー」と比較する人がいるが、私は「真夜中のカウボーイ」を思い出した。ラストシーン。デスティン・ホフマンが小便を垂れ流しながら死んで行く。それをジョン・ボイトが看取る。その、小便を垂れ流して死んで行くときのダスティン・ホフマン。その胸のなかには、そばに頼れる人がいるという「安心感」がやはりあったのではないか、と思う。見たのは遠い遠い昔だが、あの時も私は泣いてしまったなあ、と思い出すのだった。
 人は弱くなることができる。弱くなっても生きて行ける強さを持っている。そういうものが出てくる瞬間。それを美しいと思う。ラストシーンの演技は、マハーシャラ・アリにしかできなかったかもしれない。アカデミー賞(演技)は、実在の人物を演じると受賞しやすい。演技に対する評価と、登場人物に対する評価が混同されるのかもしれない。マハーシャラ・アリの受賞にも、そういう部分があるかもしれないが、ラストシーンはとてもいい。彼が天才的なピアニストであるということを忘れてしまう。ひとりの人間として、そこに立っている。マハーシャラ・アリ、おめでとう。
 (2019年03月03日、ユナイテッドシネマキャナルシティ・スクリーン13)
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グザビエ・ルグラン監督「ジュリアン」(★★★★+★)

2019-02-23 10:48:43 | 映画
グザビエ・ルグラン監督「ジュリアン」(★★★★+★)

監督 グザビエ・ルグラン 出演 レア・ドリュッケール、ドゥニ・メノーシェ、トーマス・ジオリア

 不気味な映画である。冒頭から、気持ち悪さがあふれてくる。
 女性がふたり歩調をそろえて廊下を歩いている。白いスーツと赤いシャツ。ドアを開ける。離婚した夫婦の、親権をめぐる調停が始まる。子供(ジュリアン)の陳述書が読み上げられ、それぞれの弁護士、当人の発言もある。何が真実なのか、わからない。で、そのわからないことが不気味なのではなく、ここに登場する人物構成が非常に不気味なのだ。
 裁判官(?)と秘書、夫婦とそれぞれの弁護人。合計六人。でも男は、子供との面会を求める父親一人。あとの五人は女だ。これが、この映画のすべてを語っている。女が世界を支配している。もう、結末は見なくてもわかる。男が敗北する。
 予告編にもこの冒頭のシーンはあったのだが、人員構成までは気がつかなかった。だからどんな展開か予測することはできなかった。
 不気味さは、ラストシーンであからさまになる。
 怒り狂った男が別れた妻のところへ銃を持ってやってくる。ドアにむかって発砲し、家に入り込む。そのとき妻とジュリアンは浴室に隠れる。バスタブに身をひそめ抱き合っている。ジュリアンにしてみれば母親の子宮に帰る感覚か。母親にしても、ジュリアンをもういちど子宮に引き込み、もういちど産み直すという感じかもしれない。
 実際に、母親が「もう、終わった。これで解決」とジュリアンに言い聞かせるシーンは、父親が逮捕されたから殺されることはないという以上の「響き」をもって聞こえてくる。
 ジュリアンに向かって言っているというよりも、自分自身に向かって言っている。これで夫が暴力的であるということの「証拠」ができた。だれも夫を弁護しない。目撃者がいる。警官が目撃しているし、その前に通報した人もいる。夫と別れることができる。愛人との生活が始まる。子供も手放さなくてすむ。そう自分を納得させている感じがする。
 ジュリアンにもはっきりわかったはずである。もう父親のことを完全に忘れることができるだろう。そう信じ込めるように産み直したのだ。--ある意味で、母の書いた脚本通りに物語は進んだのである。夫の性格を把握した上で仕組んだのである。
 問題はジュリアンである。
 なぜ母をかばいつづけたのか。ときには父親の憎しみをあおるような嘘をついている。姉のパーティーがある。その日は父親との面会日なので、ジュリアンはパーティーに行けない。けれども面会日を変更すれば行ける。父親は同意するが、ジュリアンは母親に「父親が面会日の変更はできないと言っている」と嘘をつく。母親の怒り、母の両親の怒りを父親に向けさせる。そうやって母親の味方をする。
 ジュリアンの11歳という年齢が微妙だ。まだ「男」になっていないだろう。母親離れができないない。父親が銃をもっておしかけたとき、「一緒に寝ていい」とベッドにもぐり込む。さらにバスタブの中で母に守られるようにしておびえている。これが13歳、15歳だったら、どうか。きっと反応が違う。
 ジュリアンは少年だが、男ではない。女だとは言わないが、男になっていない。つまり、少年もまた「女」に属している。女があつまり、女を守っている。女の主張を通すために、女が団結している。
 父親の襲撃を通報する隣人が老女、浴室から出てきても大丈夫だとドア越しにつげる警官が女性なのも、偶然というよりは意図した脚本だろう。
 ほんとうのラストのラスト。クレジットが流れ始めてから、かすかに「音」が聞こえる。逮捕されていくときの男があばれている「音」のように聞こえる。フランス人なら「声」も聞き取ることができるかもしれないが、私には「抵抗している男の音」としかきこえなかった。それも非常に小さい音だ。彼の、「妻には愛人がいる」という主張は正しいのだが、それを知っているのは映画の観客だけであり、映画の中では「証拠」がない。「目撃者」がいない。

 文学的というか、なんというか。ハリウッドでは絶対につくることのない映画のひとつである。そこに敬意を込めて★1個を追加。

 (2019年02月22日日、KBCシネマ1)
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ビョルン・ルンゲ監督「天才作家の妻 40 年目の真実」(★★)

2019-01-28 19:42:04 | 映画
ビョルン・ルンゲ監督「天才作家の妻 40 年目の真実」(★★)

監督 ビョルン・ルンゲ 出演 グレン・クローズ、ジョナサン・プライス、クリスチャン・スレイター

 グレン・クローズが好演しているという評判なので見に行ったのだが。
 確かに一生懸命演じてはいるのだが、映画の細部が甘すぎる。いちばんの欠点は、ノーベル賞を受賞した作家の作品がどんなものかぜんぜんわからないことだ。引用されるのはジョイスのことば。おいおい。そりゃあ、ないだろう。かわりに「批評」が語られる。しかし、その批評というのは、もうすっかり忘れてしまったが「新しい文体」とか「文学に革命をもたらした」とか、まあ、読まなくても言えるもの。具体的に、どの作品のどの部分が、ということが語られないと批評とは言えない。感想ですらない。
 つぎに問題なのが、天才作家の人間性の描き方があまりにもずさん。少なくとも大学教授をやっていて、自分で作品を書いたこともある人間が、妻の書いたものを自分の名前で発表して、それが評価されてうれしいということなんてあるのだろうか。後ろめたさを感じずに、受賞を喜べるものなのか。
 と書いたあとで、こういうことを書くのは変なのだけれど。
 これを「天才作家のノーベル賞受賞」と引き離して、夫婦の「日常」と思ってみると、このだめさ加減がたっぷりの夫というのは、なかなかうまく演じられている。夜中にベッドでチョコレートを食べ、「糖分をとると眠れなくなる」と注意されるシーンなんか、うまいなあ。こいつ、いつも家でそうしてるんじゃないのか、と思わせる。とても損な役どころで、こんな役をよく引き受けたなあと思ってしまうのだが、ほんとうにいいだらしがない。グレン・クローズがいなければ、ジョナサン・プライスは何もできない。髭についた食べ物のカスさえぬぐい取れない。グレン・クローズが、「ついている」とジェスチャーでしめさないといけない。この、間抜けぶりを、とても自然にやっている。とても天才作家には見えない、という感じをそのまま出している。
 グレン・クローズの演技は、ある意味ではジョナサン・プライスの演技があったから、際立って見える。上っ面でしかない男、それと対照的な女の内面の葛藤。グレン・クローズはジョナサン・プライスにかわってことばを書いたのではなく、精神というものを演じたのだ。
 でもねえ。
 その精神が、やっぱり「小説のことば」として再現されないと(引用されないと)、映画としては弱いなあ。だれそれとの浮気のことを書いたとかなんとかとか、それはストーリーであって「文体」ではないからね。
 この映画は、そいう意味では、「幻の小説」同様ストーリーを描いているだけで、人間を描いていない。描いているふりをしているだけ。
 唯一、これはいいシーンだなあ思ったのが。
 若いときのグレン・クローズが、女性作家の講演を聴く。その作家が若いグレン・クローズに向かって、大学の図書館の本を手渡す。大学出身の作家の本だ。本を開くと、パリッと音がする。誰も開いたことがない。ただ陳列されているだけだ。女流作家の本は、そういう運命にある、と語るシーン。本がきちんと演技している。そして、それがそのままストーリーを支えている。
 この本のような演技を役者はしないといけない。はじめて発する悲鳴が、聴く人の胸に響くような、一瞬なのに、決して忘れることができない「事実」を噴出させるような演技を。
 (2019年01月27日、T-JOY博多スクリーン11)
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ピーター・バーグ監督「マイル22」(★★★)

2019-01-21 09:46:53 | 映画
ピーター・バーグ監督「マイル22」(★★★)

監督 ピーター・バーグ 出演 マーク・ウォールバーグ

 マーク・ウォールバーグはじめ、イコ・ウワイスもアクションが見物かもしれないが、うーん、カメラが演技をしすぎる。いや、こういう言い方はまちがいで、逆かもしれない。カメラが手抜きをしすぎる、という方が正しいかもしれない。
 アップが非常に多い。それも、たとえばマーク・ウォールバーグの顔を半分だけとか。ある状況のなかでカメラが移動していってアップになる、感情の高まりに合わせてカメラが顔をクローズアップする、というのではない。最初から一部しか見せない。大半はスクリーンの外側に押し出されている。
 で、このカメラワークが、そのままストーリーになる。
 登場人物(特にマーク・ウォールバーグ)が知っているのは、「事件」の全体ではない。一部だけである。しかも、その一部というのは自分で確認した一部ではない。他人が提供してくる情報の一部である。全体はマーク・ウォールバーグの知らないところにある。現場にいない人間がマーク・ウォールバーグに情報を与えて、行動をさせている。
 こういうことだけなら、「ミッション・インポッシブル」でもそうなんだろうけれどねえ。スパイものだけに限らず、いまや戦争映画も、前線にいる人間よりも司令室にいる人間の方が細部の情報を総合的に把握していて、兵士はコマンドに従ってうごくだけみたいなところもあるが。
 この映画の目新しさ(?)は、全体を把握しているのがマーク・ウォールバーグの上司(ジョン・マルコビッチ)だけではない、というところか。ジョン・マルコビッチがマーク・ウォールバーグに提供する情報自体が、別の集団によって提供された一部である。ジョン・マルコビッチらをつきとめるために仕組まれた「罠」というのが本当の「事件の構図」となっている。
 こういう面倒なことは、「巨視的」に描こうとすると、どうしても大がかりになる。映画づくりがたいへんだ。だから、「逆手」をとって最初から「細部」だけを見せる。全体は、最後の最後で「どんでん返し」で明らかにする。
 その目的に向かって、カメラはひたすら「部分」にこだわる。全体を見せるふりをしながら全体を隠す。とても「あざとい」映画である。
 マーク・ウォールバーグが手首のゴムバンドでいらいらを表し、イコ・ウワイスが指をつかって精神統一をする(メディテーションといっていたなあ)、それとおなじ方法をロシアのスパイ(?)がやっているのをちらりと見せる。このカメラの小細工に、ことば(脚本)は一役買う。ローレン・コーハンは一児の母親。「マザー」である。マーク・ウォールバーグがそのことイコ・ウワイスに告げ、ローレン・コーハンと協力する。その一方、イコ・ウワイスは「マザーによろしく」と最後の最後で「事件」の種明かしをする。これも映画としては「あざとい」としかいいようがない。
 ★2個という感じなのだが、マーク・ウォールバーグが、とっても損な役を(カメラの演技が中心の映画だからね)、「肉体」で懸命に支えているところに「ほだされて」、★1個を追加した。アクション映画なのに、マーク・ウォールバーグは顔(皺)で演技し、アクションはのっぺり顔のイコ・ウワイスに譲っている。こういうことができる役者を、ほんとうは演技派というのかもしれない。
 (2019年01月20日、T-JOY博多スクリーン5)


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パブロ・ソラルス監督「家へ帰ろう」(★★★★)

2019-01-13 20:55:54 | 映画
パブロ・ソラルス監督「家へ帰ろう」(★★★★)

監督 パブロ・ソラルス 出演 ミゲル・アンヘル・ソラ

 ナチスのユダヤ人虐殺を生き延び、アルゼンチンで暮らしていた老人がポーランドに帰るロードムービー。
 終盤に、非常に素晴らしいシーンがある。
 主人公が命の恩人を訪ねて、かつて住んでいた家へ向かう。その裏通りというか、路地の風景のとらえ方がすばらしい。同じ路地のシーンは、前半にも出てくる。そのときは、主人公は命からがらドイツ兵から逃れてきたときのもの。ふらつく足で家にたどりつく。最後のシーンは車椅子に乗って、若い女性にともなわれて路地に入り込むのだが、見た瞬間に、なつかしくなる。あ、この道を覚えている、という感じが蘇る。それは私の知っている「ふるさと」ではない。でも、ふるさとの道や家並みを思い出すときのように、記憶がざわつく。時代が過ぎているから、もうかつてと同じではない。路地の舗装も、家々の様子も(たとえばドアや窓も)違っている。違っているけれど、その違いの奥から知っているものが蘇ってくる。その感じが生々しい。
 この生々しさが、地下室へ通じる階段へつながり、窓越しに級友との対面になるのだが、これはもう「予定調和」のようなもので、見ていて感情がざわつくという感じではないのだが。
 どうしてなのかなあ。
 その直前の、表通りのシーンでも、私は奇妙な感じに襲われた。すっかり新しくなっている表通りは、主人公の知っている通りではない。スクリーンに映し出されるのも初めてである。だから私も、その街を知らない。その知らない街がスクリーンに映し出された瞬間、私は自分の肉体がふわーっと浮くような感じがした。それまでの風景描写とは違う。一種の「違和感」が肉体そのものをつつむ。
 それまで主人公が、自分の足で歩いていたのに、ここでは車椅子に乗っているということが影響しているのだと思う。はっきりとはわからないが、カメラの位置がいままでよりも低くなっているのかもしれない。そのため風景をなんとなく見上げる感じになる。視線が上を向く。足元を見ない。足元が視野に入ってこない。視線に誘われて、肉体が浮く、という感じになる。
 この感じをひきずって、路地に入っていく。まるで、足が地につかないまま、記憶、あるいは夢のなかへ引きずり込まれる感じだ。
 で。
 映画を思い返すと、この「不安定な足」の感覚というのは、最初から意図されていたものだとわかる。
 主人公は右足が悪い。いのちを護るためには切断も考えないといけないくらいである。その主人公はアルゼンチンからスペイン(マドリッド)へ、マドリッドからパリへ、さらに列車でポーランドへ向かうのだが、ドイツの土地は踏みたくない。でも、列車乗り換えのときはプラットホームに降りなければならない、足でドイツに触れなければならない、という「難題」が控えている。そういうエピソードを含んで、足という、肉体を刺戟し続けている。それが無意識に私の肉体にしみ込んで、最後の街のシーンがとても生々しく感じられるのだ。
 さらに言えば。
 主人公が最初に巻き込まれるトラブルが、二階の窓が開いているという見上げるシーンで象徴され、最後のクライマックスの入り口が地下室に通じる階段を見下ろすシーンというのも、なかなかおもしろい。途中、マドリッドにいる娘、はじめてみる孫娘とのシーンに階段がつかわれているのもおもしろい。主人公の足の感じを、常に観客に意識させる。ロードムービーなのに、足が悪い老人が主人公であり、そのことが映像の揺れに奇妙な「実感」を与え続けている。
(2019年01月13日、KBCシネマ2)
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ブラッドリー・クーパー監督「アリー スター誕生」(★★★★★)

2018-12-26 09:45:56 | 映画
ブラッドリー・クーパー監督「アリー スター誕生」(★★★★★)

監督 ブラッドリー・クーパー 出演 ブラッドリー・クーパー、レディー・ガガ

 午前10時の映画祭「裸の島」を見る予定だったのだが、すでに上映が終了していた。それで、たまたま「アリー スター誕生」を見たのだが、これはたいへんな「拾い物」であった。
 予想以上にすばらしかった。
 ブラッドリー・クーパーは、この作品が初監督。監督術はクリント・イーストウッドから学んだというが、まさにイーストウッドのような手際のよさ。あらゆるシーンがしつこくない。感情をぱっと動かし、そこで断ち切ってしまう。余分に見せない。
 クライマックスはどこか、というと、レディー・ガガがスターになる瞬間。ブラッドリー・クーパーに誘われて、ステージで歌い始める。その歌声に観客が熱狂する。このときのレディー・ガガの不安と驚きと喜び。それに寄り添うブラッドリー・クーパー。これをステージの上から観客を背景に捉えている。まるで自分がブラッドリー・クーパーかレディー・ガガになって歌っている気分だ。観客の熱狂にあおられて、ふたりは歌の世界に没頭していく。観客に聞かせているというよりも、観客が見ている前で、ただ自分の世界に没頭していく。まるでセックスである。他人なんか気にしない。いまが幸せ。そういうエクスタシーの瞬間がある。
 レディー・ガガは歌手だから歌がうまいのは当たり前だが、ブラッドリー・クーパーもうまい。これにも感心した。
 それにしても、と思うのは。
 映画はやっぱり映像と音楽なのだ。セリフなんかは関係ないなあ。
 すでに知り尽くされたストーリーだから、ストーリーなんかに観客は感動しない。ストーリーをつくりだす映像と音楽にしか注目しない。そうわかっていて、オリジナルの音楽と映像をぶつけてくる。凄腕である。
 思えばイーストウッドは「センチメンタル・アドベンジャー」では歌手を演じ、「バード」や「ジャージー・ボーイズ」もつくっている。映像と音楽を親和させることに熟達している。
 「アメリカン・スナイパー」で一緒に仕事をするだけで、イーストウッドの最良の部分をすべて吸収している。ブラッドリー・クーパーは、イーストウッドの後継者になったといえる。どこまで世界を広げていくか、とても楽しみである。「ハングオーバー!」が最初に見た映画だが、そのときは軽い美形役者くらいにしか思わなかったのだが。あ、軽い美形役者のロバート・レッドフォードも初監督「オージナリ・ピープル」でアカデミー賞作品賞と監督賞をとっていたなあ。ブラッドリー・クーパーもとれるかな? 期待したい。応援したい。

(2018年年12月12日、中洲大洋スクリーン1)

 *

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アマンダ・ステール監督「マダムのおかしな晩餐会」(★★)

2018-12-12 19:44:53 | 映画
アマンダ・ステール監督「マダムのおかしな晩餐会」(★★)

監督 アマンダ・ステール 出演 トニ・コレット、ハーベイ・カイテル、ロッシ・デ・パルマ

 ロッシ・デ・パルマ(アルモドバルが起用したスペインの「泣く女」のような女優)を予告編で見かけたので、見に行った。パリで働くメイド役。晩餐会の出席者が13人なのは不吉、ということで急遽、「レディー」のふりをする。
 あとはおきまりのドタバタなのだが、どうしても「紋切り型」。
 監督はアマンダ・ステール。はじめてみる監督。原作も彼女が書いている。フランス人らしい「いじわるな紋切り型」が随所に隠れている。アメリカ人は金にこだわる(成り金趣味)、イギリス人は醜いのにゲイが多い。スペイン人は宗教熱心で貧乏。でも、フランス人は恋愛を上手に渡り歩くしゃれ者。
 つまり、「しゃれ者」の視点から、成り金が引き起こしたドタバタを、イギリス人とスペイン人に演じさせ、それぞれの「よそもの」を「みせもの」にしている。登場人物では、トニ・コレットの恋人とハーベイ・カイテルの恋人だけが傷つかずに、テキトウに恋愛を楽しんでいる。トニ・コレットの恋人なんて、トニ・コレットが裸でプールに飛び込んできたのに、知らん顔して帰ってしまうからねえ。彼にとっては、単なる遊びということを、さらっと描いている。
 さて、これをスペイン人が見たら、どう思うかなあ。
 ロッシ・デ・パルマはベッドの枕元には、キリストの幼子とマリア様の絵を飾っている。「だれの絵?」と聞かれて、だれが描いたかではなく「キリストとマリアの顔が大事なのだ」と答えるところは、いかにもスペイン人らしいが、そう感じる私も「紋切り型」でスペイン人を見ているのかも、と少し反省したりする。
 ロッシ・デ・パルマの一途な感じはなかなかいいんだけれどね。
 これをもしペネロペ・クルスが演じたら、逆に「品」がなくなるだろうなあ、とも思う。晩餐会のハイライト(?)の「おっぱいには三種類ある、おちんちんにも三種類ある」というジョークは、ロッシ・デ・パルマが言うから「味」が出る。気取らずに、脇目もふらず生きていく、という逞しさが、そのまま「人柄」となる。
 ラストシーンは、フランス人ならではの「装ったクール」である。
 身分がばれて、失恋し、トニ・コレットの家を去っていくロッシ・デ・パルマ。この恋の一部始終を書いていたハーベイ・カイテルの息子に、ロッシ・デ・パルマに勘違いの一目惚れをしていた男が聞く。「結末は?」「まだだ」「人はだれでもハッピーエンドが好き。主人公は走っていき、雨のなかでキスをする」。さて、去っていったロッシ・デ・パルマは男に追い掛けられ、雨のなかでキスをするか。これを監督は観客にまかせている。どう判断するかは、観客次第。どう答えても、監督は「ばかねえ」と笑うつもりでいる。こういう終わり方は「余韻」ではなく、「いやみ」である。
 ロッシ・デ・パルが出ているので★2個にした。何度でも見たい顔である。
(2018年年12月12日、KBCシネマ1 )

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ナタウット・プーンピリヤ監督「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」(★★)

2018-11-04 20:16:52 | 映画
ナタウット・プーンピリヤ監督「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」(★★)

監督 ナタウット・プーンピリヤ 出演 チュティモン・ジョンジャルーンスックジン、チャーノン・サンティナトーンクン

 中国だったか、韓国だったか、大規模なカンニング事件があった。それを題材に、タイの監督がつくった映画。
 実際の事件はどうだったのか知らないが、カンニングの背景に貧富の格差があるところが、「現代的」かもしれない。「図式的」という指摘もあるかもしれないが、そうか、タイでも貧富の格差が問題になっているのか、と思った。経済のグローバル化にあわせて、貧富の格差もグローバル化したということか。次はきっと、高齢化問題がグローバル化するな。
 ということは、さておき。
 おもしろいのは、映像がなかなか「正当派」というか、スタイルがととのっているところ。最初のカンニングの、靴のシーンなど、とてもいいなあ。靴下だけになった足をぱっと組んで隠すところ。靴が机と机のあいだの通路に飛び出したのを、答案を提出しに行くときにひっかけて履くところ。とてもきめが細かい。この部分がていねいだから、その後のカンニングが大規模になっていく様子が、荒唐無稽でなくなる。
 答えを教える方法に、ピアノの指さばきを思いつき、方法化するのもおもしろいなあ。私は高校のとき、悪友と片手二進法アルファベットというのを考えたことがある。握り拳からスタートする。親指を立てる(1=A)、人指し指を立てる(01=B)、親指と人差し指(11=C)、中指だけ(001 =D)……という具合で、アルファベットを完全に表現できるのだが、Dぐらいまでは一気に覚えられるが、あとが指を動かしながら確かめるので、時間がかかってうまくいかなかった。で、そうかピアノか、と感心したのだが、私は音痴だったし、ピアノになじみのある悪友もいなかったなあ。こういう方法が成立するのは、貧富の格差があるとはいうものの、最低限ピアノを弾いていないとできないわけだからなあ。それなりに経済的に落ち着いている生徒が「貧乏」をやるのだから、タイはいま日本の高度成長期という感じなのかなあ、というような余分なことも思ったりした。というよりも「富裕」クラスが豊かさを握りしめているということかも。そうすると、それは日本のいまの社会にもつながる。一部の人間だけが富を奪っている。そういうこともグローバル化しているのだ。
 脱線した。
 このピアノから始まる「答えの伝達方法」が、クライマックスでは「答えの記憶方法」にかわる。このときの映像も、とてもおもしろい。記憶することに没頭する少女の机がするすると前へ動いて行って、ピアノを弾き始める。「音」として覚え込む。
 で、これがねえ。
 主人公の少女は、最後の方で、逃走しながら「答え」を送信する。地下鉄の駅を歩きながら送信する。そこにストリートミュージシャンの音楽が飛び込んでくる。すると、一瞬、少女は混乱する。覚えている音が、耳から入ってくる現実の音に攪乱される。案内表示の「ABCD」がそれに追い打ちをかける。この部分は、最初のカンニングのシーンと同様、傑作である。ぐい、と引き込まれる。このシーンには★5個つけたい。
 でもなあ。なんか、いやな感じが残る。「貧しさに負けた」というのが、いちばんいやな感じの原因だろうなあ。何が貧富の格差を生み出しているか、ということへの視点が欠けている。そこを描かないと、「貧しさ」が悪を引き起こすという論理になってしまう。さらには「貧しいことは悪いことだ」ということにもつながっていく。
 安倍のやっていることは、「貧しいことは悪いことだ」であり、さらに「貧しいのは、おまえたちが悪いのだ」という「自己責任」論へと進み、「貧しい人間は、働かせるだけ働かせ、捨ててしまえばいい」とい世論を生み出していく。まあ、そんなことをこの映画は言っているわけではないのだが、なんというか、「悪事」の爽快感がない。「悪事から立ち直る少女」にすがすがしさを見る、というのでは、それこそ、安倍の「貧乏人は貧乏人らしく生きろ」という論理のようで、私は、ぎょっとしてしまう。
 金持ちの天才が、貧乏人から金を搾取するために、カンニングビジネスをはじめるというのなら、この映画は、もっと違ったものになったと思う。この試験に合格しないと、就職もできない。だから、助けてという「貧乏人」を相手に、金持ちが「いくら払う?」と持ちかけ、ビジネスを主導する方が、きっと「現実」そのものをあぶりだすことになる。子会社をつくって社員を移籍させ、低賃金にしてしまう(いちおう、正社員だね)とか、「資本家」がやることは、そういうことだからね。子会社へ行くのがいやなら退社しろ(首だぞ)、と脅し賃金を下げる。あるいはアップ率を抑え格差をつくりがしていくという具合にね。
           (2018年年11月04日、KBCシネマ1)


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サミュエル・マオス監督「運命は踊る」(★★★)

2018-10-29 00:56:34 | 映画
サミュエル・マオス監督「運命は踊る」(★★★)

監督 サミュエル・マオス 出演 リオル・アシュケナージ、サラ・アドラー、ヨナタン・シライ

 この映画の映像は、吐き気を催すくらい気持ちが悪い。私は目が悪いせいか、特にそう感じた。目を開けていられない。それも、冒頭の荒野のなかの道から始まる。車で走っているらしいが、全体がわからない。道路はまっすぐだ。一点透視の構造なのだが、焦点となって消えていくのではなく、空中に浮かぶ感じて道が途切れる。おそらくその先は下り坂で、坂の頂上が見えるという「絵」なのだが、この冒頭から私はくらくらしてしまった。先があるのに先が見えない。それを延々と見せられる。
 つぎに目をつぶりたくなるのが、息子の戦死を聞いた父親が椅子から立ち上がり、歩くシーン。これを天井から映し出している。床の幾何学模様は「六面体」を斜め上からとらえたもの(平行四辺形を三つ組み合わせたもの)を繰り返すパターンなのだが、この無限の三つ、終わりがない感じに、私の目はついていけない。どうしても目をつぶってしまう。
 その前の、壁の抽象画も、目を引きつけるけれど、引きつけられた目を維持することができない。目をつぶりたくなる。
 で。
 思わず目をつぶるのだけれど、この映画は、目をつぶっていてもいい映画である。セリフが極端に少ないから、目で見ていないとわからないはずなのだが、このことばの少なさが逆に映像をかってに作り出すのである。一瞬だけ見た映像が、網膜の奥にことばで押しつけられるという感じ。
 どうして、こんなにしゃべらないのか。ことばが少ないのか。
 それは登場人物の「肉体」のなかでことばが動き回っているからだ。激しすぎて、そのままでは「肉体」の外に出ることができない。抑圧というか、制御というか。
 あ、イスラエルは、「ことばの国」なのだ。私はイギリスをことばの国と考えていたが、そのイギリスとは別の意味で「ことばの国」である。
 私はキリスト教徒ではないのだが、田川建三の「新約聖書(本文の訳)」(作品社)を最近読んでいて、「ことば」ということばが頻繁につかわれていることに気づいた。イスラエルはもちろんキリスト教ではないのだが、もとは一つの「神」。そして「神」というのは、まず「ことば」なのだ、と知らされた。
 その伝統というのか、血というのか、そういうものがイスラエル人には引き継がれている。(バーブラ・ストライザンドやビリー・ジョエルが信じられないくらいくっきりとことばを発音するのも、何か、そういうものの影響があるかもしれない。)「ことば」を発することで「神」と向き合っている。「神」と向き合うために、ことばを探している。それは、対話の相手が誰であれ、同じなのだ。その人に向き合うと同時に、「神」と向き合う。自分自身が「神」となって、他者と向き合うということかもしれない。「神」にふれるまでは、ことばを発しない。
 この緊張感が、私のようないい加減な人間には、また非常に苦痛である。私なんか(この文章もそうだが)、考えずにことばを発してしまう。ことばを言ってしまってから、意味を考える人間である。つまり、口からでまかせ。私のような「口からでまかせ」人間には、この映画で語られることばは「強すぎる」。だから、思わず目をつぶる。目を閉ざせば「ことば」が見えなくなる。ことばは「聞く」ものだけれど、イスラエル人のことばは聞いていると、その「形」が見えてくるような、エッジが非常に強いことばなのである。精神の動きを語る(浮かび上がらせる)という感じではなく、精神の存在を「形」にするといえばいいのかもしれない。
 まあ、こんな「印象」はいくら書いてもしようがない気もするが。
 イスラエル人はどう見るのか(聞くのか)、キリスト教徒はどう見るのか(聞くのか)、イスラム教徒はどう見るのか(聞くのか)、それをだれかに尋ねてみたい。
 映画のなかに、父親の兄弟が出てきて「私たちは無神論者だ」というようなことを言う。イスラエルの(あるいは他の一神教の)無神論者にとっては、どう聞こえるのかも、ぜひ聞いてみたい。
 私は、「神」が存在するかどうかを考えたことがない「無神論者」なので、そういう人たちとは、この映画のことばの聞こえ方が完全に違うだろうなあ、と思う。
           (2018年年10月28日、KBCシネマ1)


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