goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジル・ルルーシュ監督「シンク・オア・スイム イチかバチか俺たちの夢」(★★)

2019-08-04 16:45:04 | 映画
ジル・ルルーシュ監督「シンク・オア・スイム イチかバチか俺たちの夢」(★★)

監督 ジル・ルルーシュ 出演 マチュー・アマルリック

 予告編を見たとき、「フランス版フルモンティ」かなと思った。そして、そんな気持ちで映画館へ行ったら、「シンク・オア・スイム イチかバチか俺たちの夢」をイギリスでリメイクするらしく、その作品の予告編をやっていた。「中年落ちこぼれおじさんコメディ」ならイギリスにまかせておけ、ということらしい。
 たしかに、そうだろうなあ。
 フランスの何がいけないのか。簡単に言えば「ことば」である。
 いや、イギリスもことばの国ではないか。
 そうなのだけれど、ことばの性質が違う。イギリスはシェークスピア、劇の国。フランスにも劇はあるが、フランスのことばは劇ではなく「哲学」。
 「劇」と「哲学」と、どう違うか。劇は対話。人と話す。つねに「他人」によって「異化」される。そして、その「異化」を効果的にするためには、自分を語るときもみずから自分を異化する。客観化。ユーモア。笑い。ことばは「もの」のように、そこに存在する。人間のものなのに、人間から独立して、「人間像」ならぬ「ことば人格」のようなものを浮かび上がらせる。
 哲学は独白。奇妙な言い方だが、ことばは「肉体(個人)」とは別のところにあって、それが「個人(肉体)」のなかにしみ込んできて、「人間」をつくる。
 劇と哲学では、ことばの動き方、人間から出て行くか、人間に入ってくるかという違いがある。
 それを象徴するシーンがある。車椅子のコーチに叱責されながら、体力をつけるために男たちが走っている。もう、限界。走れない。そのときそのコーチとかつてペアを組んでいた女性が言う。
 「語りかけなければ、つぶれてしまう」
 「語りかけるって、何を?」
 タイトルは忘れたが、ここで金髪の女は「本」を読み始める。すでに完成されたことば。もしかするとフランスでは誰もが学校で読まされたことがある本かもしれない。そのことば(哲学)がおじさんたちの「肉体」のなかへ入ってゆき、肉体を支える。思考の「よりどころ」になり、それがつっかい棒のように男たちを支える。
 笑ってしまうが、ここにフランスの「庶民の思想(肉体)」がいちばんくっきりと出ていると感じだ。これだからフランス人は「面倒くさい」んだよなあ、と思う。
 で、それが冒頭の「四角の穴に丸は入らないし、逆もまた真」というようなことば(哲学)があって、最後には「四角の穴に丸は入るし、逆もまた真」という「哲学」として反復される。
 一方、イギリスはどうか。シェークスピアはどうか。(と、ここでシェークスピアをもちだしてもしようがないのかもしれないが)。シェークスピアは「本」からことばをひっぱってこなかった。巷で庶民が話している「口語」をひっぱってきて、音とリズムをととのえた。「哲学」というよりも「暮らしの智恵」を持ち込むことで、登場人物に「過去」を与えるのだ。「自分」を語るときも、そうやって「自分を他人にしてしまう」のだ。「自分ではなく他人」だから、それを否定するのも楽しいというような、なんとも奇妙な「笑い」が生まれる。どうせ他人だもん、と思っているフシがある。
 あ、くだくだと映画とは関係がないことを書いてしまったか。
 映画に戻ると、何といえばいいか、登場人物がみんな「自分」をとっても大事にしている。自分を「笑う(突き放す)」ためではなく、自分を「守る」ためにことばを必死になって探している。古いことばで言えば「自分探し」だね。わかりやすいといえばわかりやすいが、こんなにたくさんの人間が「自分探しごっこ」をするのを見続けるのは、ちょっとげんなりするなあ。
 クライマックスのアースティックスイミング(かつてはシンクロスイミングと言った)のシーン。映画だから許せる「反則」がうまくつかわれている。重要な部分は「吹き替え」だが、それがばれないように(わかりにくくするために)、特別の照明をつかっている。オリンピックなどの競技会では照明は選手の動きがはっきり見えるように会場を明るくしている。この映画のようには絶対にしない。つまりこの映画は「嘘」を映像にしているのだが、映画はもともと嘘なんだから、これでいい。ここだけは、いかにもフランス人らしい「ずるい」方法だなあ、と感心した。
 さて、イギリス版は、どうなっているか。比較してみるのは楽しいかもしれない。
 (KBCシネマ2、2019年08月04日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャン=リュック・ゴダール監督「イメージの本」(★★★)

2019-07-29 22:04:09 | 映画


ジャン=リュック・ゴダール監督「イメージの本」(★★★)

監督 ジャン=リュック・ゴダール

 ルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」から始まり、次々に過去の映画が引用されるが、あまりに断片過ぎて、私が見たことがある映画かどうかもよくわからない。しかも多くの映像が特殊加工されていて、元の映画からかけはなれている。「イメージ(映像)」になってしまっている。「夢」と呼んでもいいかもしれない。ルイス・ブニュエルやフェデリコ・フェリーニの「道」はわかりやすいが、ほとんどがわからない。
 そういう映像を見ながら思うことは、ジャン=リュック・ゴダールの色彩には「遠近感」がないということである。サイケデリックということばがあるが、それに近い。このときの「遠近感」とは「空間」の遠近感だけではなく、むしろ「時間」の遠近感と言った方がいい。赤、黄色、青、緑。そういう色には、それぞれ「過去」があるはずだ。映画からの引用ならば、映画という「過去」が。それをなかったことにして、はじめてこの世界にあらわれてきたかのように「原色」で噴出させる。
 で、それは色彩がいちばん「抽象的」で目立って感じられる(私の場合は)。しかし色彩だけではなく、他の「シーン(あるいはカットというべきか)」や「セリフ」、あるいは「本からのことばの引用」も同じである。すべては「過去」を持っている。しかし、その「過去」を「過去」ではなく、「過去をもたないいま」として噴出させる。それは「未来」でもない。「時間」というものが存在しない「いま」。したがって、それを「永遠」と言いなおすこともできる。
 ゴダールのやっていることは、「いま」を「いま」のままスクリーンに定着させる。「過去」にも「未来」にも、それを引き渡さない。「ストーリー」にしない。「散文」にしない。「詩」にすることだ。
 こう書いてしまうのは、私が詩が好きだからかもしれない。
 別のひとは「音楽」というかもしれない。映画の後半に「音楽」が「ことば」によって少し説明される。和音がメロディーをつくる。一方、メロディーが和音を生み出すということもある。同じ旋律を重ねる必要はない。まったく異質なものがであったときも和音は誕生する。
 この定義の方が、ゴダールの映画を的確に表現しているだろう。映像(色、光、形)とことば(意味と無意味)、音楽(和音とノイズ)。ぶつかり合い、その瞬間に、それぞれがもっている「過去」を破壊し、それが散乱する瞬間に「いま」が絶対的なものとして誕生し、存在する。
 しかし、これでは私の感想ではなく、ゴダールがゴダールの映画を語ったことになりはしないか。
 私は、そのゴダールの論理を「破壊」するために、あえて書く。ゴダールが何よりも大事にしているのは「色の美しさ」である、と。ゴダールの色は混じらない。常に「個」として独立している。他の色と共存はするが、それは「融合」ではない。
 まあ、どうでもいいか。こういうことは。
 また変な映画をつくりやがって、勝手にしろ、と突き放すのがいちばんいいのかもしれない。

 (KBCシネマ1、2019年07月29日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガブリエレ・ムッチーノ監督「家族にサルーテ!イスキア島は大騒動」(★★)

2019-07-27 14:15:08 | 映画
ガブリエレ・ムッチーノ監督「家族にサルーテ!イスキア島は大騒動」(★★)

監督 ガブリエレ・ムッチーノ 出演 ステファノ・アコルシ、カロリーナ・クレシェンティーニ

 登場人物が多すぎて、ついていけない。イタリアでは有名かもしれないが、あまり顔なじみのない俳優ばかりなので、人間関係が覚えきれない。
 ストーリーは両親の「金婚式」の祝いに集まった家族(親類?)が嵐のためにフェリーが欠航して帰れなくなる。どうしても一泊しないといけない。あれこれしているうちに、登場人物それぞれの家族の問題(主に男女のいざこざ、あたりまえのことながら)が噴出してきて、ドタバタにある。
 というものなのだが。
 これが意外と「ごちゃごちゃ」してこない。「ひとつ」にまとまっていかない。つまり「いくつもの」どたばたを見たという感じは残るのだが、その「どたばた」から「結論」が出てくる(生まれる)という感じがない。これが「登場人物が多すぎる」という印象につながる。どんなに登場人物が多くても、それが「ひとつ」のストーリーに向かってまとまっていくなら、なんとなく「印象」は「ひとつ」になる。
 この「ばらばら」感は、いったい何なのか。
 と考えたとき、思い出すのは、和辻哲郎「イタリア古寺巡礼」。そのなかで和辻はシスティナ礼拝堂の壁画を見たときの印象を、「こんなにごちゃごちゃ描いているのに、ごちゃごちゃしていない。ここにはローマ帝国の『分割統治』の思想が生きている」というような具合に書いている。
 「分割統治」。これが、たぶん「イタリア人気質」なのだろう。この映画では、それは「両親」がいて、「子供たち」がいて、その「子供たち」がそれぞれ「家族(家庭)」をもっている。騒動は各家庭で起きる。「分割統治」だから、騒動は常にそれぞれの「家族(家庭)」のなかで展開される。そして、収束する。「家族」と「家族」が交渉しているように見えるシーンもあるが、それは「形式的」交渉であって、その交渉では登場人物の「心情(感情)」は変化しない。「心情(感情)」が変化するのは、あくまでもそれぞれの「家族(家庭)」内部の男と女の問題である。言い換えると、だれひとりよその家族(家庭)の恋愛問題にふれることで、触れた人自身の「心情/恋愛」が変化するわけではない。
 わっ、ばらばら。ぜんぜん「結末」に向かって動いていく「ひとつ」のストーリーがない。
 で、まあ、イタリア人ってこんな感じなのかと「理解」するには役立つが、そこから影響を受け、考え込むという映画ではないなあ。なんだか「めんどうくさい」という印象が残る。
 (KBCシネマ2、2019年07月27日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロバート・ゼメキス監督「マーウェン」(★★★★)

2019-07-25 20:24:20 | 映画
ロバート・ゼメキス監督「マーウェン」(★★★★)

監督 ロバート・ゼメキス 出演 スティーブ・カレル、人形たち

 スティーブ・カレルが人形をつかって写真を撮っている。それをロバート・ゼメキスが映画にしている。
 と、映画なのに、わざわざ映画にしている、と書いたのは。
 これは、つまり「虚構」を少しずつつくりあげることで、自分自身を救っている男の話であり、この男を映画にすることでロバート・ゼメキスは自分自身を救っているのだ。
 それが証拠(?)に、この映画は「事実」に基づいているらしいが、なんと「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の「タイムマシン」が登場するからである。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をつくっていたとき、ロバート・ゼメキスがどんな問題をかかえていたのかしらない。けれどロバート・ゼメキスにとって映画をつくることは彼自身を救い出すことだったのだと感じるのである。
 ロバート・ゼメキスはスティーブ・カレルをつかって、人形を撮影し続けた写真家を描いている。スティーブ・カレルは人形をつかって写真を撮る男を演じることで彼ではなくなっている。人形たちはスティーブ・カレルによって少しずつ形を変え、演技しながら人形ではなくなっていく。人形ではなく、スティーブ・カレルのまわりにいる実在の女性になっていく。これは奇妙な奇妙な、生々しい手触りのある虚構なのだが、これを周囲の人が虚構であると突っぱねるのではなく、「現実」として受け入れながらいっしょに生きている。
 このとき、虚構って何なのか。虚構によって救われているのは何なのか、という奇妙な「疑い」が私の肉体のなかから現われる。「疑い(疑問)」という「名詞」ではなく「疑う」という「動詞」になって動いているのを感じる。
 人形に引きつけられているのか、スティーブ・カレルに引きつけられているのか、映画のなかで展開されるストーリーに引きつけられているのか。言い換えると、私は何を見ているのか。それがよくわからない。
 スティーブ・カレルは変な役者で、色がない。透明である。そして、その透明が沈んでいく。クリストフ・ワルツも透明な役者で、芸達者だが、透明な部分は沈んでいかない。輝きになって存在を引き立てる。悪人をやってもなぜか色気がある。ところがスティーブ・カレルは前任をやっても色気がない。
 あ、脱線したか。
 で、その色気のなさが、この映画では奇妙な力になっている。人間が本来持っている色気(いのちの輝き)というものが人形に乗り移って、虚構のなかで生きている。さらにそれが動くことで、さらに色っぽくなる。その人形を撮った写真が、人形よりもさらに色っぽい。写真の中に、人形に「物語」を吹き込んだ人間のいのちそのものが映し出されているという感じなのだ。
 スティーブ・カレルはぜんぜん色っぽくない。目立たない。けれど人形になったスティーブ・カレルは色っぽく、彼を取り巻く女性たちにしっかり愛されている。女性たちが人形のスティーブ・カレルのいのちを助け続ける。(あ、これは、人形劇?のストーリーの話です。)
 奇妙な奇妙な映画なのだけれど、人形を少しずつ動かしているので、「手作り」の感じが残っていて、それもまた魅力的だ。もしスティーブ・カレルの役をクリストフ・ワルツがやったらぜんぜん違っていただろうなあとも思う。
 あ、最初にロバート・ゼメキスのことを書いたのに、途中からすっかり消えてしまっている。私はロバート・ゼメキスの映画はあまり好きではない。どういうわけか「細部」にリアリティーを感じられない。嘘っぽい映像に感じる。「ほんもの」ではなく「嘘(虚構)」つくるという意識が強いのかもしれない。でも、それがこの映画では、とても効果的だ。人形は人間ではない。けれど人間を演じる。人間の「意識」のなかで共演する。何か、そうするしかない「意識」のあがきのようなものが、スクリーンからにじみ出している感じがする。
 「フォレスト・ガンプ 一期一会」をもう一度見る機会があるかな、あればいいなあと思った。
 (中洲大洋スクリーン2、2019年07月24日日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パベウ・パブリコフスキ監督「COLD WARあの歌、2 つの心」(★★★)

2019-07-12 10:37:16 | 映画
パベウ・パブリコフスキ監督「COLD WARあの歌、2 つの心」(★★★)

監督 パベウ・パブリコフスキ 出演 ヨアンナ・クーリグ、トマシュ・コット

 恋愛の描き方は、会話の仕方に似ている。日本人(同士)の会話は、相手の反応を見ながら少しずつ進む。ときには話していることばを相手が引き継いで語り始める。ふたりの共同作業といえば共同作業だけれど。外国人の会話というのは、話し始めたら話は最後まで言ってしまう。言い終わってから、相手が話し始める。恋愛も「私はこんな風にあなたを愛している」「私はこう愛している」と語り終わってからセックスがはじまる。「ことば」ではなく「しぐさ」も含めてだけれど。
 で、こういう「恋愛」を見ると。私なんかは「恋愛」を見ている感じがしない。独立した「個人」と「個人」が、たまたま出合い、ひとつの時代を生きたという印象の方が強い。こんなに「個人」として「独立」したまま、自分の思いを語るだけで、それが「恋愛」なのか、という、なんというか「圧力(重さ)」のようなものを感じてしまう。「恋愛」というよりも「思想劇」だなあ。
 この映画の主人公(女性)はポーランドの「いなか舞踊団(歌劇団?)」の一員であり、やがて歌手として成功するが、やっぱりポーランドのいなか(?)へ帰っていく。そういうストーリーのなかで、私は、ふたつのセリフに驚いた。「個人」というものの「自覚」の強さにうならされた。
 ひとつは主人公自身のことばではない。公演でスターリンを讃える歌を歌わせる計画が持ち上がる。舞踊団の女性指導者は「いなかの人間は指導者を讃える歌なんか歌わない」と主張する。結局、押し切られて歌うことにはなるのだが、このときの「いなかの人間」の「定義」が私には非常に納得がいった。私もいなか育ちである。「偉い人」なんか関係ないと、いつも思う。自分の生活があるだけ。誰が偉かろうが、そのひとを讃えたくらいで苦しい生活は変わらない。そんな他人のことなんか知ったことではない、と思う。
 もうひとつは、男が女に亡命を持ちかける。しかし主人公はついていかない。再開したとき男は「どうして来なかったのか」と質問する。女は「自分に自信がなかった」と答える。「男の方が自分よりはるかに優れていて、対等ではない。だからついていくことができなかった」。これは「恋愛」よりも「個人」を重視した生きたかである。「恋愛」というのは自分がどうなってもかまわないと覚悟して相手についていくことだと私は思っていたが、この女はそうは考えていない。あくまで「自分」が存在し、「自分」をどう生きるかを考えて動いている。「恋愛」もその「一部」である。「自分の生き方」は自分で決める。「自分を自分に語る」。そのあとで相手と話す。そのときの「ことば」は完結している。
 こういう「まず自分がいる(自分を完結させる)」という生き方だから、二人は別れ、それぞれの恋人(夫や妻)との暮らしの一方、それとは別に昔からの「恋愛」も平行させて生きる。「恋愛」は出合っているふたりの間で動くものであって、それぞれの「背後」は関係がない。「背景」とは関係なく「個別の恋愛」として「完結」させることができる。「いなか」の、「土着のいのち」そのものの恋愛を見る思いがする。
 そうか、「中欧(東欧)」というのは、こういう文化なのか、とも。
 映画の最初の方に、「いなかの歌」を集めているシーンがある。テープを聞きながら、「まるで酔っぱらいががなりたたている」という感想を舞踊団を計画しているひとりがもらすが、その「酔っぱらいのがなりたて」の歌がとてもいい。歌は人に聞かせる前に、まず自分で歌うもの。その人が「完結」させるもの。つまり「聴衆」を必要としていない。その歌い方にも、会話や恋愛に通じるものを感じた。
 映画は、最後は、ふたりが「恋愛」を成就させるのだけれど、成就した恋愛よりも、そこへ至るまでの「自己主張(自己完結)」のぶつかり合いの方が、強くて、とてもいい。モノクロのスクリーンが、この映画に、独特の強さを与えているのもいい。
 (KBCシネマ、スクリーン2、2019年07月11日)
 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤井道人監督「新聞記者」(再追加)

2019-07-03 22:56:57 | 映画
藤井道人監督「新聞記者」(再追加)

 安倍政権の「暗部」を描いたと話題になっている映画を批判するのは、少し心苦しい。「疵」には目をつぶって、「政治映画」を撮ったことを評価した方がいいのかもしれないが、私は、やはり気になる。
 こんな映画の撮り方でいいのだろうか。
 映画の冒頭、画面が揺れる。ハンディカメラで撮っているのだろう。ドキュメンタリーではよくあることだ。カメラマンが被写体に迫っていく。そのとき自然に揺れてしまう。これは、いわば観客に対して、この映画は「フィクション」ではなく「ドキュメンタリー」ですよ、と告げることになる。ドキュメンタリーでなくても、それに近いものですよ、という「演出」である。役者というよりも、制作側の「演技」である。
 これが、たとえば「仁義なき戦い」のように、最後までつづくのならいいのだが、途中から「手振れ」がなくなる。導入部だけドキュメンタリーを装って、途中からフィクションに「鞍替え」してしまう。
 象徴的なのが最後。女性記者がスマートフォンで電話をかけながら走る。このときこそカメラは揺れないといけないのに、揺れない。カメラはフィクションであると宣言し、女優に演技をさせる。クライマックスで、内閣調査室の男が、走ってくる記者に気づき、交差点の向こうで「ごめん」と唇を動かす。このときもカメラはぜんぜん揺れない。しっかりと男の唇の動きを映し出す。しっかり映し出さないと「ごめん」が観客に伝わらないから、と言えばその通りかもしれないが、はっきり映さなくても「ごめん」とわかると思う。日本人はだいたいこういう表情を読みながらことばを理解することになれている。ここで男が「ありがとう」とか「ばかやろう」と言わないことは、わかっている。
 で、これは、結局、観客の「感情」に訴えることで決着をつけるという「抒情」映画なのだ。
 このことが、私はいちばん気に食わない。
 政治の暗部を「抒情」にしてしまっていいのだろうか。
 問題の獣医大学が、自分の息子が獣医師になりたいといったから獣医大学をつくってやるという「加計学園」のような「人情もの」なら「抒情」でも笑い話にできるが、細菌兵器をつくるための大学なら「抒情」で終わらせてはだめだろう。人間を殺す、戦争のための学問の悪用を暴くのに、「抒情」でけりをつけるというのは、私は納得がいかない。
 映画を実際につくっているひとたちは、どういう思いで、この映画を見たのだろうか。つくるとしたら、やはりこんなふうに「抒情」で終わらせるのだろうか。そのことを聞いてみたい。

 (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン2、2019年06月30日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤井道人監督「新聞記者」(★★)

2019-06-30 19:06:50 | 映画
藤井道人監督「新聞記者」(★★)

監督 藤井道人 出演 シム・ウンギョン、松坂桃李

 「話題」になっているらしいが、あまりにも予想通りのつまらなさでがっかりしてしまった。
 テーマは「ジャーナリズムと民主主義」ということになるのだろうが、ジャーナリズム、民主主義、そして政治に共通するのは「ことば」である。「事実」をことばで、どう表現するか。表現が成立したその瞬間、「事実」は「真実」にかわる。こういう「ことばのドラマ」、「ことば」の対立と動きを映画で描くことはなかなかむずかしい。「ことば」は映像になりにくいからね。そのむずかしさと、映画はどう向き合っているか。最初から向き合うことを投げ出している。
 悪役(?)の官僚が「国と民主主義を守る」と言うが、その「ことば」のなかにしか「民主主義」は出てこない。聞き漏らしたのかもしれないが、主役の新聞記者は「民主主義」ということばを語らない。さらに「政治家」が登場しない。官僚の陰に隠れている。「上」という比喩(ことば)でしか登場しない。つまり、ジャーナリズムのことばと政治家のことばが対立し、そのなかから「事実」があぶり出され、「真実」にかわっていくという展開がない。
 これではねえ。
 いくら「獣医大学」だの、「レイプ事件の容疑者を逮捕しなかった」だの、「官僚をスキャンダルで追い落とす」だのということが描かれても、安倍にとっては、痛くもかゆくもない。単に「娯楽映画」に終わっているし、(なんといっても「獣医学部」は生物兵器?をつくるための研究機関という設定では、日本で起きたこととはあまりにも違いすぎるし)、「悪いのは官僚」という安倍の「官僚切り捨て」作戦の追認で片がついてしまう。「政治家(安倍)がそれを指示したという証拠」はどこにもなく、官僚が「忖度」し、かってにやったことですんでしまう。
 私が安倍なら、大喜びするだろうなあ。「ほら、悪いのは官僚。私(安倍)は、どこにも関与していないだろう? だれも私(安倍)から指示されたとは言っていないだろう?」これでは安倍は「無実」だという宣伝映画である。
 こんな映画でジャーナリズムを描いたとか、政治(の暗部)を描いたとか、よく言う気になるなあ。
 私たちはもっと「ことば」を鍛えないといけない、ということだけは教えられる。
 日本にあふれているのは、この映画の中に出てきた「ツイッター」のたかだか140字の「罵詈雑言」であって、「論理を積み立てていくことば」ではない。民主主義とは無関係の「ことば」だ。「民主主義」とは「多数決」(多いものが正しい)ではなく、対立点をどこまでもどこまでも「ことば」で語り尽くすことだという意識が完全に欠落している。
 だいたいが安倍のやっている政治というのは、「安倍晋三記念小学校」という名前の学校をつくってくれるひとを優遇するとか、「息子が獣医になりたいといっているから、そのために大学を造りたい」という友人の手助けするとか、「国家」のあり方とはぜんぜん関係のない単なる「人事」だ。自分がうれしい、相手も喜ぶ、よかったよかった、という金を使ったお遊びにすぎない。これが高じて、武器を大量購入すればトランプが喜んでくれる、軍隊を指揮するチャンスもやってくる(なんとしても軍隊を指揮して戦争をしてみたい)という自己満足のための「金遣い遊び」にすぎない。
 官僚を描くなら描くでいいのだが、その官僚を突き破り、安倍にまで「ことば」をぶつけないと映画にはならないのだ。
 こういう映画、アメリカでは必ずと言っていいほど実際の大統領が映像で登場する。安倍、あるいは菅の実際の映像を組み込まないことには、「政治映画」としては完全な失敗。前川元次官とか、望月記者とか、そういう人はタイトルバックで補足的に登場すればいいのであって、狂言回しとして登場しても、ばからしくて見ていられない。

 あ、書き忘れたことがひとつ。主人公は「自分を信じ、疑え」(だったかな?)ということばを父から教えられたことばとして大切にしている。この「ことば」を私なりに言いなおすと、「自分のことばの動きを信じ、他人のことばを疑え(嘘か真実かを確かめろ)」ということだと思う。主人公は「事実/真実」はなんだろうとは思うが、他人の言ったことばの嘘(ここが矛盾している)ということを突き詰める形でことばを動かしていない。これも、この映画を非常に弱いものにしている。
 安倍はこう言っているが、自分の知っていることをことばにして言いなおすと、安倍の言っていることが信じられない。間違っているのじゃないか。たとえば「100年安心年金」というけれど、年金だけだと毎月5万円も赤字になる。貯金がなくなってしまったら、私の老後はどうなる? 安倍は年金を増額してくれるのか。
 自分の知っていることを、自分でことばにする。そこから民主主義が始まる、と私は信じている。

 (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン2、2019年06月30日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミキ・デザキ監督「主戦場」(再び)

2019-06-15 17:30:18 | 映画
ミキ・デザキ監督「主戦場」(再び)

監督 ミキ・デザキ

 「慰安婦少女像」をめぐって、私には、長い間わからないことが一つあった。なぜ、アメリカに像をつくろうとするのか。慰安婦問題が「日韓」の問題なら、アメリカに慰安婦像をつくることは、あまり関係がないのではないか。アメリカに像をつくっても、韓国人や日本人の目に触れる機会は少ない。慰安婦の歴史はアメリカ人とは直接関係がない。(奴隷を解放したリンカーンの像を韓国につくっても、韓国の歴史とは関係がないのと同じように。)では、アメリカはなぜ像をつくることを支持したのか。「人権問題」に対する意識だけで、慰安婦像をつくることを支持したのか。どうも、理解できなかった。しかし、「理由」が、この映画を見てわかった。
 韓国はアメリカを利用しているのである。韓国が、アメリカを説得したのだ。実に頭がいい。言い換えると、思想が明確だ。
 アメリカは世界戦略上、韓国を重視している。利用している。もしかすると日本よりも重視しているかもしれない。いや、私なら、日本よりも重視する。なんといっても北朝鮮と陸続きである。それは中国とも、ロシアとも陸続きであるということだ。つまり、陸軍がそのまま北朝鮮、ロシア、中国へと移動できる。
 アメリカが韓国に「日韓和解(日韓合意)」を要求し、韓国を利用するなら、韓国の主張をアメリカは支持すべきである。韓国は、アメリカの世界戦略を受け入れる「見返り」に、そう主張しているのだ。日本は韓国を侵略した。その結果、朝鮮半島の分断も起きた。その侵略戦争のとき、日本軍は韓国人女性の人権を踏みにじった。女性を慰安婦にした。この歴史をしっかりと認識し、その認識の「証」として慰安婦像をアメリカにもつくらせる。歴史認識が共有されるなら、アメリカが韓国を世界戦略に利用することを容認する。そういう「思想」を韓国は明確に主張した。慰安婦像は、アメリカが日本より韓国を重視している証拠になる。アメリカがなんというか知らないが、韓国は、そう受け止めるだろう。その韓国重視の証拠がないかぎりは、韓米日(たぶん韓国なら、こういうだろう)の関係は安定しない。このことを「世界中」に明確にしたのだ。
 韓国人はとても頭がいいし、思想を生きるのが韓国人の特徴だから、その思想を貫いたのである。
 ここから、こんなことも思う。
 アメリカは広島と長崎に原子爆弾を落とした。そのために多くの市民が死亡した。このことに対して、日本はもっと抗議をすべきなのだ。原子爆弾をつかわなくても戦争を終わらせることはできる。広島の被害の大きさから、長崎で何が起きるかアメリカは知っているはずである。それなのに、アメリカは蛮行をくりかえした。
 アメリカが世界戦略上、日本の地理的位置を重視するのはわかる。そして、日米協力というものが必要というのなら、日本がアメリカから協力を求められたとき、「でも、アメリカが原子爆弾を落としたために、日本人を何人も死んだ。そしていまも後遺症で苦しんでいる」とチクリチクリと厭味をいうべきなのだ。「きちんと広島、長崎で慰霊をして、原爆はつかわないと誓ってください」と言うべきなのだ。鶴見俊輔が言っているように、そういう「権利」は日本人にはある。そしてその「権利」は「人間としての義務」だ。
 日本が(安倍が)、世界戦略上、「日米同盟」が重要というのなら重要でかまわないが、それは何もアメリカの言い分どおりに従うということではない。現実として(実働として)「日米同盟」は守るが、原爆に対する厭味はやめない。そういう「生き方」ができるはずである。
 いくら日本がアメリカの「核の傘」に守られているのだとしても、それはアメリカの戦略。日本としては核兵器には反対と言えるはずである。核保有国と手を結ぶのではなく、核を持たない多くの国と手を結び、「核兵器のために日本はこれだけ苦しんできた」と訴えることはできる。
 そういうことを、「論理の矛盾」と指摘する人がいるだろう。日本政府の立場は、「アメリカの核に守られているのに、核兵器反対と主張するのは論理的矛盾だ」というものだ。しかし、「思想」というのは「論理」ではない。「矛盾」したところがあっても、ぜんぜんかまわない。人間はいろいろな矛盾を抱えながら生きているから、ところどころに矛盾が噴出してきてもいい。噴出してくる矛盾を抱えながら、そのときそのとき、できることをするしかないのだ。
 韓国の多くのひとは、侵略戦争をしかけてきた日本と協力することを好まないだろう。「韓米日」の軍事協力に疑問を感じているだろう。でも、現実として、それが必要ならば、どこかで「疑問」をしっかり明らかにしておく。日本に対して、厭味をつたえておく。それを忘れない。
 こういう生き方を、私たちは学ばなければならない。
 そんな厭味がなんになるかわからないかもしれないが、少なくとも、ある行動が「暴走」するのを防ぐことができる。厭味を言われた瞬間、だれでも、一瞬、行動が止まる。それが大事だ。
 実際、慰安婦像(少女像)を見たとき、私はひるんでしまう。私が韓国人女性を強姦したわけではない。戦争に行ったわけではない。私自身は、何も悪いことはしていない。でも、何か、ひるむ。
 慰安婦問題に対して、日本政府は、「日韓合意」で決着した、と主張する。保証金も払った。すべて解決した。そう主張するとき「慰安婦像」は「厭味」に感じられるのだろう。「反省して、金を払ったんだから、像を取り除いてほしい」というとき日本政府が感じるのは、きっと「金」では解決できない心情というものがあるということを知っているからだ。厭味というのは、心情を刺戟する。だから効果的なのだ。だから必要なのだ。
 ほんとうに「日韓合意」ですべて決着がついていると信じているなら、慰安婦像は、日本軍が韓国人女性を慰安婦にしたという歴史的事実を語っているだけに過ぎないから気にする必要はない。気になるのは、歴史というのは単に「事実」ではなく、そこには「心情」があるからだ。そして人間は心情なしでは生きていけないからだ。「思想」は「理性」だけではなく「心情」も必要なのだ。

 慰安婦は存在しなかったと主張する人たち。彼らは「心情」だけを語っているように見えるが、まったく逆で「心情」を語っていないのだろう。杉田水脈は韓国人や中国人に最先端の科学技術をつかったものはつくれないというような差別的な発言をしていたが、それも「心情」ではなく、彼女なりの「論理」である。そして「心情」を含まない「論理」というのは、「頭」だけで動かしてできるものだから、どんなでたらめでも言える。韓国人や中国人は日本人より劣っていると平気で「論理」にしてしまう。

 (KBCシネマ1、2019年06月08日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミキ・デザキ監督「主戦場」(追加)

2019-06-10 07:41:26 | 映画
ミキ・デザキ監督「主戦場」(追加)

監督 ミキ・デザキ

 きのう書いた感想では書き切れなかったものがある。追加で書いておく。

 この映画でいちばんの疑問点は、「慰安婦はいなかった」(慰安婦問題は存在しない)と主張する杉田水脈らの論理が非常に「人種差別的」であるのに、彼らが平然とそれを語っていることである。そしてまた、映画が公開され、人気を呼ぶと、彼らが「だまされた」「レッテル張りだ」と映画公開に対して抗議し、映画の上映の中止を求めたことである。いつも主張していることを、いつもどおりに語っている(と、私には思える)。それが「自身たっぷり」の表情になってあらわれている。どうして映画を批判するのかわからない。
 この疑問を解く「カギ」はサラリと描かれている安倍の姿である。安倍が政権を握ってから人種差別的な発言が横行するようになった。杉田は「中国や韓国には日本を上回る技術を開発する能力はない」と断言しているが、スマートフォンは中国、韓国製の方が日本製よりはるかに売れている。それを見るだけでも、杉田が事実とは違うことを言っていることがわかるが、こうした杉田のような発言は、安倍の登場と同時に加速した。
 なぜ、こういうことが平気でできるのか。
 アメリカが世界戦略の一貫として安倍を支えているからだ。アメリカは安倍を必要としている。その安倍におもねって発言していれば、安倍に重用される。そうわかっているからだ。きのう書いたが、杉田らはまた「政治的人間」なのである。「人間関係(人に好かれるかどうか)」だけを頼りに発言しているのだ。
 逆に見ていけばいいだろうか。映画のなかで紹介されている「河野談話」を発表した河野は、首相をつとめていない。背景に複雑な政党間の動きがあるのだが、きっとアメリカの思惑もからんでいる。政権がめまぐるしく交代したが、アメリカが「理想の首相」を見出せずに、方針がきまらなかったということだろう。(途中で、小沢の「追放」ということが起きる。この点については、「不思議なクニの憲法」という映画のなかで、孫崎享が克明に語ってる。アメリカが画策したのである。)
 このだれとだれがいつからいつまで首相だったか、資料を見ないといえないくらいの首相交代は、第二次安倍政権の成立と共に終わる。一気に、「長期政権」の時代に変わる。そのとき「河野談話」の「見直し」ということが、するりと滑り込んできている。言い換えると、河野談話から、講和談話見直しまでの期間が、目まぐるしく政権が交代した時期なのである。(第一次安倍政権のときは、「見直し」はしていない。)映画には描かれていないが、その間の首相と河野談話の「評価」を併記してみると、この問題の「本質」が見えてくる。
 そして、河野談話の「見直し」ということにあわせて、2015年に「日韓合意(慰安婦合意?)」が成立している。「金を払って決着」というところを「妥協点」にしようとした。このことは映画にも描かれ、この「日韓合意」がアメリカの世界戦略の一貫だったと説明されている。日韓対立がつづいていては、極東におけるアメリカの戦略(軍事的安定)が成立しないからだ。アメリカの世界戦略を有効にするために、「日韓合意」が締結させられたのである。これに対して、韓国国内から激しい批判が起きた。「人権」が「金」でかってに処理されたからだ。一方日本では「金をもらって決着したのに、なぜ、問題をぶりかえすのか」という論理が展開された。「人権」問題は金で解決できることではないのに……。
 この「日韓合意」は、アメリカにとって重要な「合意」手ある。極東の「安定(アメリカの望む安定)」には「日韓」の「協力」と日本の「軍備」が重要である。「日韓の協力」というよりも、日本の軍備強化という点で、安倍の思想とアメリカの戦略は「一致」した。アメリカにとって安倍の「理想」は好都合だった。安倍はどんどん軍備を強化する。武器の調達はアメリカからである。アメリカの軍需産業は潤う。アメリカの軍需産業は、アメリカ大統領を支える。アメリカは安倍を手離さない。「政治的人間」である杉田らは、それを見抜き、安倍にすり寄っている。安倍がアメリカに媚びへつらっているのと同じである。媚びへつらっているかぎり、「政権」の「うまみ」を独占できる。安倍がアメリカが「味方」してくれているから、いつまでも首相でいられると思っているように、杉田らは安倍にすり寄っていればいつまでも社会から重宝されると思っているのだ。
 日本は「政治」で動いている国なので、アメリカは簡単に支配できる。けれども韓国は「思想の国」である。同じようには支配できない。だから「慰安婦問題」が再燃する。アメリカの「人権派の思想」がそれに同調する。もちろん、「慰安婦問題はなかった」という主張も、それにあわせて展開されるが。
 つまり、「人権」か「国際戦略」か、という攻防がアメリカの内部にもあり、それが日本にも反映されてきている。日本のなかにある問題がアメリカに反映しているということではない。韓国は被害者なので、一貫して「慰安婦問題」を訴えることができる。
 そして日本のなかに存在する「人種差別」意識が、アメリカが安倍を支えているということを利用する形で拡大した。ヘイトスピーチが横行し始めたのは第二次安倍政権以後であることが、それを裏付けている。「日本会議」や「靖国神社」が、それを利用している。

 「慰安婦問題」は「日韓問題」ではない。「人権問題」でもない。むしろ「アメリカの世界戦略問題」である、という視点から考え直さないと、「和解」にはたどりつけないだろうと教えてくれる映画だ。
 (KBCシネマ1、2019年06月08日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミキ・デザキ監督「主戦場」(★★+★★★)

2019-06-09 22:34:55 | 映画
ミキ・デザキ監督「主戦場」(★★+★★★)

監督 ミキ・デザキ

 慰安婦問題と日本人、韓国人、さらにアメリカ人はどう向き合っているか。話題のドキュメンタリーである。
 私は、「慰安婦は存在しなかった」という人の意見をきちんと聞いたことがなかったので、それをきちんと聞いてみたかった。ちょっと「肩すかし」である。学者らしき人も登場し発言しているが、杉田水脈、ケント・ギルバート、櫻井よしこら、「事実」をつきつめるというよりも「心情」を語るという感じの主張が多く、「慰安婦は存在した」と語る人の「事実」を記録したいという主張と隔たりが大きすぎて、論戦になっていない。
 慰安婦の問題がむずかしいのは、「証言」の困難さにある。「慰安婦は存在しなかった」と主張する人は、「慰安婦をさせられた」という女性の証言が必ずしも一貫していなことを「根拠」にあげるが、性的被害を被害者が「一貫した論理」で語ることはもともとむずかしいことだろう。そのときの屈辱や悲しみがこみあげてきて、「正確」に語れと要求するのは失礼だろう。「正確さ」がない(矛盾した証言がある)と批判するが、むしろつらい体験を矛盾なく語っているとすれば、その「正確さ」の方に疑問があるとさえ言えるかもしれない。
 また被害者がいれば、加害者もいることになるが、加害者の方には自分のしたことを正直に語る責務があるかもしれないが、同時に自分のしたことを語らない権利もある。どんなことがらに対しても、人は自分にとって不利なことは証言しなくていいという権利を持っている。自分がしたことが悪いことであり、それを語れば非難されるとわかっていれば、非難を承知で告白するのはかなり勇気のある人間である。
 性被害の実像は、客観的にはなりにくい。この客観的になりにくい被害とどう向き合うかは、困難な問題を多く含んでいる。

 慰安婦問題は、歴史問題というよりも、人権問題なのである。言い換えると、絶対に「過去(歴史)」にはならない問題、常に「現在」の問題なのである。「慰安婦は存在しなかった」と主張する人たちには、この感覚が完全に欠如している。
 慰安婦でなくても、たとえば、本人の意思で結婚した夫婦であっても、生活している過程で愛情が破綻した場合、人はセックスを拒否できる。意志にそぐわないセックスを強要すれば、それは人権侵害になる。ドメスティックバイオレンスなど、いま、日本でも話題になっていることを土台にしても、それは明らかである。そのために苦悩している女性がいる。また男性もいるだろう。セクシャルハラスメントも同じである。
 歴史問題であるけれど、現実の問題でもあるという視点からの意見は、また「慰安婦は存在した」と主張している人の側からもあって当然だと思うのだが、そういう指摘も明確には感じられなかった。それも残念だった。

 「歴史」の問題として、私にとって収穫だったのは、日韓交流が日韓独自の交渉によって形成されたものではなく、常にアメリカの世界戦略によってつくられたものであるという指摘だ。アメリカは世界戦略の一貫として、日本と韓国を利用している。日本と韓国が敵対していては、アメリカの世界戦略が機能しない。オバマさえ、その戦略にしたがって日韓和解をお膳立てした。もちろんほかの見方もあるだろうが、この映画では、その問題を手早く描いていた。
 そして。
 実は、これこそが「主戦場」というタイトルに影響している。というか、ミキ・デザキ監督が描きたかったのは、これだと気づかされた。「慰安婦問題」をどう処理するかの「主戦場」は「日韓」ではなく、アメリカが舞台なのだ。アメリカの「世界戦略」が舞台なのだ。
 だからこそアメリカの大学院生が、自分の国の問題として、この映画をつくったんだろうなあ。日本人や韓国人のためにつくった映画ではない。
 トランプがこの映画では描かれていないが、つまりトランプが「日韓」の関係をどう考えているかわからないが、日韓問題はアメリカの世界戦略と関係づけて見ていかないと、どうなるかわからない。
 極端な話、北朝鮮とアメリカが「敵対関係」を解消し、「友好条約」を締結した場合、日韓の関係はどうなるのか。南北統一が実現したら、日本と南北統一国家との関係はどうなるのか。それに対してアメリカはどう関与してくるのか。
 アメリカでは「慰安婦問題」を世界戦略(世界に共通する人権の問題)として向き合っている。少なくともこの映画ではそう描かれているのに、日本は(日本の政府は)、「日韓の戦後処理問題」としてしかとらえていない。
 私は、なんというか、落ち込んでしまった。しばらく椅子から立ち上がれなかった。
 「慰安婦問題」を、この映画が描いているように、アメリカの世界戦略と関係しているとは考えたことがなかったからだ。アメリカから見れば、日本は、ほんとうにアメリカの一部なのだと、はっきり感じた。

 ということとは別に、こんなことも考えた。
 よく中国は経済の国、韓国(朝鮮)は思想の国、日本は政治の国と言われる。この映画では中国は出てこないが、韓国人の動き、日本人の動きを見ると、たしかにそうなのだと思う。
 冒頭、元慰安婦だった女性が韓国の大臣に対して、「なぜ被害者である自分たちの意見も聞かずに、勝手に日本と交渉をし、協定を締結したのか」というような批判をする。自分の「人権」を明確に主張している。個人の権利として、自分のことばで語っている。思想そのものを語っている。自分の尊厳を取り戻す権利は自分にあるのであって、国が勝手に決めることではないと主張している。思想の国だ。ひとりひとりが思想を持っている国だ。
 日本はどうか。どうやって国を動かしていくか。アメリカの要求にあわせて動いている。「政治」というのは簡単に言いなおせば、こび、へつらいによって、関係をスムーズにするということ。思想によって方針を決めるのではない。アメリカに気に入られるように国家の方針を決める。
 これは、安倍によって、さらに加速している。
 で、問題は。
 私はまた引き返してしまうのだが。
 いまは人権侵害が「売り」のトランプが大統領だから、安倍は思うがままに人権侵害路線で、トランプに媚びへつらっているが、人権派の大統領が誕生したとき、どうなるのかなあとも思う。安倍のもとでは、日本は完全に孤立し、それこそ戦争へ突入するというたいへんなことが起きるのではないのか。
 これは、そういう意味では、日本への警告の映画だとも言える。
 (KBCシネマ1、2019年06月08日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アスガー・ファルハディ監督「誰もがそれを知っている」(★★+★)

2019-06-03 22:43:52 | 映画

アスガー・ファルハディ監督「誰もがそれを知っている」(★★+★)

監督 アスガー・ファルハディ 出演 ペネロペ・クルス、ハビエル・バルデム、リカルド・ダリン、エドゥアルド・フェルナンデス、バルバラ・レニー

 謎解き映画というのは私は好きではない。途中で「答え」がわかってしまい、退屈になる。「良質(と言われる)」な映画ほど、「わかりやすい」。カメラが演技するからだ。「伏線」をカメラの「演技」で描き出すからだ。
 この映画では、リカルド・ダリンがアルゼンチンからやってきて、警官上がりの私立探偵(?)と会ったあとのシーン。ペネロペ・クルスと二人で車で村へ帰っていくのだが、このときの二人の乗った車のシーンが、他の映像と完全に違っている。走る車をただ映しているのではなく、誰かが後ろから追いかけている(尾行している)ときの、その視点でフレームができている。ほんとうに追跡しているかどうかは問題ではなく、誰かが「後ろ」から二人を追っている。それは「意識」だけかもしれないけれど。ということは、リカルド・ダリンと私立探偵を引き合わせた者(その会合のとき、そこにいたひと)の誰かが「犯人」ということになる。
 で、そのあとの展開は、ただただ「犯人隠し」のためのストーリーになる。こうなると、私の感覚では「映画」ではなく、「紙芝居」になってしまう。
 ただ、この映画には「推理」を越える隠し味があって、それが気に入って★をひとつ追加した。
 どういう「隠し味」かと言うと。「こどもは親の秘密を知る」「親はこどもの秘密を知る」ということ。これが二重に組み合わさっている。
 誘拐される娘の父親が、実は母親(ペネロペ・クルス)の昔の恋人(ハビエル・バルデム)だったというのは、安っぽいメロドラマみたいで「秘密」どころか、誰もが想像する通り。しかし、誘拐犯はペネロペ・クルスの兄と妹だったと、母親(ペネロペの母、つまり誘拐されたのは母親から見れば孫)が知ってしまうというのはなかなか「味」がある。その「真実」を母親はペネロペ・クルスには言うことができない。
 ペネロペ・クルスが娘に対して「あなたの父親はハビエル・バルデムだ」と言えないように、母親は「おまえの娘(つまり、孫)を誘拐したのは、おまえの兄と妹だ」と言えない。なぜ言えないか。娘を傷つけてしまうからだ。母親が気にかけているのは、いつも娘が傷つかないように、ということだけだ。
 だから。
 ほら、ペネロペ・クルスの妹が「誘拐犯」の一人であると気づいたとき(何か変だと気づいたとき)、母親は彼女を最後まで詰問することはない。わかっているけれど、どこかで追い詰めない。最後の最後のシーン。母親は息子を呼び止める。そして何か言おうとする。ここで「結論」を映さずに映画は終わるのだけれど、これはなかなかおもしろいなあ。母親にとって、娘というのは「分身」なのか。息子は「分身」とまでは言えないのか。そういうことを思ったりする。
 この映画には、また、もうひとつとても不思議な「味」がある。リカルド・ダリンがしきりに「神」を口にするのだが、この神が私にはスペイン人の言う神とはちょっと違うと感じた。妙に「個人的」というか、「直接的」に聞こえる。神と自分は直接、契約を結んでいる。それは「キリスト教」というより、「イスラム教」の信じ方に似ていると感じた。イスラム教と言っても、いろいろあるだろうから簡単にこんなことを書いてしまってはいけないのだろうが、ここにアスガー・ファルハディ監督の「イラン人」性のようなものが出ていると感じた。
 (KBCシネマ1、2019年06月03日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エマニュエル・フィンケル監督「あなたはまだ帰ってこない」(★)

2019-05-27 19:53:40 | 映画
エマニュエル・フィンケル監督「あなたはまだ帰ってこない」(★)

監督 エマニュエル・フィンケル 出演 メラニー・ティエリー、ブノワ・マジメル

 マルグリット・デュラスの小説「苦悩」は読んでいないが、デュラスの小説が原作、予告編の「君が必要としているのは苦悩か、夫か」というシーンを見たいのと、ブノワ・マジメル(「人生は長く静かな河」では、子役だった!)が出るので見に行ったのだが。
 駄作。
 小説を読んだ方が絶対におもしろいと思う。映画になっていない。大事なところはナレーションになっていて、そこに風景とメラニー・ティエリーが映っているだけ。ナレーションなしで、そのときのマルグリットの「思想」と「感情」が伝わってくるのならいいけれど、ナレーションなしでは「描写」がわからない。
 小説は「ことば」だから、風景(描写)と思想、感情は「地続き」になる。だから、どんな風に書いても(とはいえないかもしれないが)、「一体感」が生まれる。渾然とした感じが、読者を引きつける。
 でも、映画では、映像とことばが分離してしまう。映像と無関係なことばなら、まだ刺戟があるが、映像をなぞっていてはだめ。あ、ことばを映像がなぞっているのかもしれないけれど。
 唯一の見せ場は、予告編にあった「君が必要としているのは苦悩か、夫か」と友人がマルグリットに問いかけるシーン。マルグリットは友人を平手打ちするが、ここの「作家」の宿命のようなものが凝縮していて、そこだけが光っている。「苦悩」が作家を育てる。作家のことばを豊かにする。言い換えると、マルグリットが小説を書けるのは、苦悩があるからだ。その苦悩が、「夫が帰って来ない」というものであっても、作家は「苦悩」を必要とする。問題を図星されて、マルグリットは、反射的に、ヒステリーを起こす。ヒステリーの中へ逃げ込むことで、自分自身を「解放」する。
 でも、まあ、こんなシーンは、「物書き」に興味がなければ、どうでもいいシーンだろうけれどね。私は「作家」にもデュラスにも関心があるので、なるほどなあ、と思って見たのであった。
 もうひとつ、見たいと思っていたブノワ・マジメル。
 うーむ。フランスの「美男子俳優」のはずだったが。いや、いまでも「美男子」なのかもしれないが、まるでジェラール・ドパルデューを見るみたい。ぶくぶくに太ってしまった。最初に登場するとき、上着を脱いでいてカッターシャツ姿なのでビール腹がそのまま目に飛び込んでくる。役どころにあわせて太ったというのではなく、単に不摂生で太ったというところ。「人生は長く静かな河」から見ているから、この変化には、あきれかえった。フランスでは、太っているかどうかは、もてる、もてないとは関係がないということがわかり、中年太りの人には「朗報」かもしれないけれどね。
 中年太りといえば、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」に出るディカプリオもスーツを着ていても太っていることがあからさまにわかるくらい太っていたなあ。目の感じがチャールズ・ダーニングに似ていると思っていたが、体型も似てきてしまった。(身長は違うけれど。)
 という具合に、見た映画からどんどん感想が離れていってしまう作品。
 (KBCシネマ1、2019年05月27日)
人生は長く静かな河(字幕スーパー版) [VHS]
ダニエル・ジュラン
EMIミュージック・ジャパン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トーマス・ステューバー監督「希望の灯り」(★★★★★)

2019-05-14 18:05:31 | 映画
トーマス・ステューバー監督「希望の灯り」(★★★★★)

監督 トーマス・ステューバー 出演 フランツ・ロゴフスキ、サンドラ・フラー、ペーター・クルト

 映画は、まるで「2001年宇宙の旅」のように始まる。始まってすぐ「あ、これは『2019年地球の旅』だ」と思った。
 「美しき青きドナウ」に乗って、巨大スーパーの倉庫をフォークリフトが疾走する。巨大な棚は宇宙船の内部にも、ハルのメモリーにも見える。キューブリックに見せてやりたい。音楽と映像の融合は、それだけですでに完璧な映画だ。ストーリーなんか、いらない。
 この映画は「音楽」だけではなく、「音」そのものにも非常に凝っている。スーパーの内部の、ノイズ(フォークリフトの走る音とか、荷物の上げ下ろしの音とか)がきちんと聞こえる。このあたりの処理は、ジャック・タチか。ジャック・タチは「日常の音」を取り出して見せたが、トーマス・ステューバーはただ「ノイズ」として、そこにほうりだしている。
 「ノイズ」をていねいにとらえる一方、セリフはとても少ない。ほとんど何もいっていないくらいである。
 で、そうこうしているうちに、変なことに気がつく。映画の音は「音楽(そこにはありえない楽曲)」か「ノイズ(現実にひそんでいる音)」のはずなのに、フランツ・ロゴフスキがサンドラ・フラーを陳列棚越しに見るとき、「海の音」が聞こえる。これは何だろうか。私は、フランツ・ロゴフスキがサンドラ・フラーに一目惚れしたことを象徴的にあらわしているのかと思った。女を見て海を思い出す。女を海だと思って見ている。打ち寄せる波のように、繰り返し繰り返し寄せてくるもの。いわば、フランツ・ロゴフスキだけに聞こえる「こころの音楽」。主人公にしか聞こえないのだけれど、その「音」を聞くことで観客は、主人公になってしまう。そういう「効果」を引き起こす「映画テクニック」と思って見ていた。聞いていた。実際、主人公は、女に引かれていく。それは他の従業員が見てもそれとわかるくらいだし、女もそれに気づく。
 ところが、この「海の音」は「心象の音」ではなかった。
 映画の最後の最後で、それがスーパーの中に「実在する音」だと明らかにされる。もちろん、多少処理が施してあって「海の音」に聞こえるようにしているのだが。
 この「心象の音」が「実在の音」だと「種明かし」するシーンは、いろいろな映画音楽のなかでも特筆に値する美しさだ。今見たからそう思うのかもしれないが、いままで見た映画の中でもっとも美しい「音楽」だ。
 武満徹の音楽を、ふと思った。武満徹の感想を聞いてみたい、と思った。
 この「音楽」以外では、私は「ミツバチのささやき」でアナが父親の懐中時計のオルゴールの音に気づき、アナが気づいたと父親が気づくシーンと、「父パードレ・パドレーネ」で主人公が遠くから聞こえてくるオーケストラにこころを揺さぶられるシーン(実はオーケストラではなく一個のアコーディオンだったのだが、それがオーケストラに聞こえた)というシーンが好きだ。
 このふたつの「音楽」と比べると、格段に新しい、画期的な「音楽」だと思った。「ノイズ」というものは世界に存在しない。あらゆる音が「音楽」にかわる可能性を秘めた響きであると宣言するのだから。
 そして、この「音楽」のありかたは、映画のストーリーというが、テーマそのものにもなっている。人間の「幸福(希望)」というものは、どこにあって、どんなふうに生きているのかということを暗示するものになっている。
 小さな作品だが、ぜひ、見てください。

 (KBCシネマ2、2019年05月14日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポール・シュレイダー監督「魂のゆくえ」(★)

2019-05-10 19:55:40 | 映画
監督 ポール・シュレイダー 出演 イーサン・ホーク、アマンダ・セイフライド

 ポール・シュレイダーの名前にだまされて、見てしまった。イーサン・ホークはぜんぜん好きになれない役者。ますます嫌いになった。
 この映画の何がくだらないか。「情報量」を切り詰めて、「上品」を気取っているところだ。イーサン・ホークの暮らしている教会、その居住部分は実に簡素だ。必要最低限のものしかない。教会がそういうものであるかどうか、私は知らないが、「人間」のにおいというか、暮らしのにおいがない。
 「情報量」を切り詰めるというのは、他のところでも徹底している、と言いたいのだが、一箇所だけ「情報」が溢れている。その「情報過多」の部分をどう見るかで、この映画の「見え方」がぜんぜん違ってくる。
 問題のシーンはどこかというと。
 イーサン・ホークの教会は、設立 150年(だったかな?)の祝いをする。その打ち合わせに金儲けをしたい人間がからんでくる。その男とイーサン・ホークのやりとり。イーサン・ホークはアマンダ・セイフライドを通して聞きかじった「自然保護運動」(あるいは環境破壊)のことを、自説として語る。上司(?)から、そのことをとがめられるくらい過剰に語る。
 ここ、変でしょ?
 自然保護に関心をもつ理由は、ただひとつ。アマンダ・セイフライドの存在。彼女には夫がいる。夫はカナダで逮捕されたのだが、アマンダ・セイフライドが妊娠しているとわかり、保釈された。その夫は地球の将来を心配して、こどもが誕生することには反対している。アマンダ・セイフライドは、夫を説得するよう、イーサン・ホークに依頼する、というのが「関係」のはじまりなんだけれど。
 これは、どうしたって、嘘丸出しのスタート。
 あからさまに言えば、イーサン・ホークとアマンダ・セイフライドは最初からできている。アマンダ・セイフライドはイーサン・ホークの子を妊娠した。「どうしよう」と相談に来たのだ。(イーサン・ホークが女たらしというか、どれくらい女にもてるかは、彼につきまとう女をもうひとり登場させることで暗示している。)
 じゃまになったアマンダ・セイフライドの夫を、どう「処分」するか。過激な運動家にしてもう一度逮捕させるか。そのために「自爆スーツ」を登場させている。あるいは地球の将来を悲観して自殺させるか。つまり、自殺にみせかけて、射殺してしまうか。
 どちらにしろ、イーサン・ホークを洗脳させてしまうくらいに、アマンダ・セイフライの夫が「自然保護」に夢中になっているということを「他人」に知らせる必要がある。その「証人としての他人」に、変な金儲けが狙いの男と上司が選ばれたわけだ。
 あ、私の書いている「見方」は妄想?
 そうかなあ。むしろ、映画全体が「妄想」なのだ、というのが私の見方。
 映画はイーサン・ホークが日記を書くことにしたというところから始まるが、いい年をした男がなぜ突然「日記」なんか書こうと決意するのか。ありえない。「日記」なんて、よほど正直な人間でない限り、「他人が読む」ことを前提としている。だから、そこでは自分が考え出した、都合のいいことだけが書かれる。脳というのは、それでなくても、あらゆることを自分の都合のいいように変えてしまって「解釈」する。「事実」をねじまげてしまう。
 で、この「妄想映画」が「妄想」に過ぎないという「種明かし」は、イーサン・ホークのアマンダ・セイフライドの「瞑想ごっこ」に「妄想シーン(非現実的シーン)」を重ねることでおこなわれる。な、なんと、横たわったイーサン・ホークの上にアマンダ・セイフライドが重なり、両手をあわせると、二人の体は宙に浮き、幻想の世界を飛んでゆくのだ。あきれかえってしまうではないか。
 ラストシーンはどうなるか。
 妄想のでたらめの収拾がつかなくなってしまっている。イーサン・ホークに「自爆テロ」まがいのことをさせようとしたり、キリストの苦難を体現させようとしたり、でも、アマンダ・セイフライドがイーサン・ホークを見つけ出し、キスをしてめでたしめでたし。その後、どうなったかを描かず、突然終わる。結論を観客に委ね化「芸術映画」を装う。
 なんだ、これは。
 イーサン・ホークがマンダ・セイフライドができていたというのも「妄想」で、こんなふうにハッピーエンドになりたいという「妄想日記」を映画にしたのかもしれない。
 「解釈」はどうとでも言ってしまえる。
 きちんと「意味」を通すなら(ストーリーを意味にするなら)、どこかの大衆食堂のようなところの「過剰なおしゃべり」と、ラストの直前の「瞑想ごっこ/幻想シーン」を整理しないと、「自然保護団体」から苦情が来るぞ。
 私は「苦悩」を「高級」と定義する考え方が大嫌い。こういう「芸術みせかけ」映画も大嫌い。「金返せ、いや、金はくれてやるから時間を返せ」と叫びたい。何が「魂のゆくえ」だ。
 (KBCシネマ2、2019年05月10日)
アメリカン・ジゴロ [Blu-ray]
リチャード・ギア,ローレン・ハットン,ヘクター・エリゾンド,ニーナ・ヴァン・パラント,ビル・デューク
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャンニ・アメリオ監督「ナポリの隣人」(★★★★)

2019-04-09 19:14:07 | 映画
ジャンニ・アメリオ監督「ナポリの隣人」(★★★★)

監督 ジャンニ・アメリオ 出演 レナート・カルペンティエリ、ジョバンナ・メッツォジョルノ、ミカエラ・ラマゾッティ

 「ナポリの街はナポリで生まれ育った人しか受け入れない」というようなセリフが映画のなかに出てくるが、これはイタリアのすべての都市について言えるかもしれない。私はローマとフィレンツェ以外は行ったことがないので、映画を見た感じや聞きかじりのことをつなぎ合わせての印象に過ぎないのだが。和辻哲郎がシスティナ礼拝堂の天井画、壁画について、こんなにたくさん描いて、それが混乱しないのは、ローマ帝国が各都市の政治を各都市にまかせた(独立自治)ということと関係があるかもしれない、というようなことを書いていたのを思い出す。
 人と人との関係、干渉と不干渉の関係が「独立自治」ということばと結びついて迫ってくる。「わがまま」のあらわし方が、フランスやイギリスとは違うなあ。フランスではどんなときでも自己主張した方が勝ち。自己主張できない人間は個性を欠くので人間として評価されない。イギリスではどんなこともことばにしない限り存在したことにならない。イタリアでは他人には口出ししない。
 で、この映画。
 他人には口出ししない、とはいうものの、家族って、他人? それとも他人を超えるつながり? 「兄弟は他人のはじまり」と日本の諺では言うが。親子は? つながりを求めながら、つながりを拒否されたときは、どうするか。拒絶したいのに、つながりを要求されたときはどうするか。干渉/不干渉のバランスが、とても生々しい。
 これは冒頭のシーンに象徴的に語られる。シングルマザーの女性が法廷通訳をしている。被告の言っていることを通訳するのが仕事だが、通訳の領域を踏み出して、知っていることを証言しようとする。すると、裁判官が「通訳だけしなさい」と命じる。裁判官の判断に干渉するな、ということだ。仕事としてはそれで充分なのだが、女性は、割り切れない。「真実は何?」
 ひとはだれでも「真実」を知りたい。でも、その「真実」は「個人的問題(わがままの問題)」として不干渉を求められることがある。干渉することで、「真実」が違う様相を持つことがあるということか。「他人真実」に影響を与えてしまうことがある。「他人の真実」をどこまで尊重しながら、同時に自分の「真実」を守るか。逆に言うと、どうやって「嘘」をつくか。「嘘」のなかにある「真実」、「嘘」をつくことでしか守れないことをどうやって他人に伝えるか。
 とてもむずかしい。
 この映画では、最後に「嘘」が二つ出てくる。
 法廷通訳をしている女性が父の昔の愛人の家を訪ねていく。「父が行方不明だ。ここに来ていないか、来たことがないか」。愛人は「何も知らない。男が死んだとしても知らせてくれるな」と言う。愛人は父親に会っている。「嘘」をついたのだ。
 もう一つ。通訳をしているとき、父親が裁判所に現れる。娘はアラブ系の被告の通訳をしながら、被告の語ったことばではなく、自分の思っていることを語る。「裁判所にきたのは、初めてだ」。これは被告のことではなく、傍聴している父親のことである。「三日間、彼を街を探し回った」。これは娘が父を探し回った、ということであり、被告のことばではない。けれど、被告がそう証言しているとも受け取ることができる。そして、知っている詩をつけくわえる。これは、被告のことばではないだろう。
 この瞬間、父と娘のこころが響きあう。つながる。
 それはミケランジェロの絵が、枠のようなもので仕切られながら(ブロックごとに独立しながら)、全体として一つの世界になるのと似ている。

 映画のテーマとしては、イーストウッドの「運び屋」に似ているものもあるのだが、人間と人間の関係の描き方が、あまりにもイタリア的ということになる。ローマ帝国的といえばいいのか。アメリカでは「不干渉」を「愛情がない」と言い切ってしまう。責められた方も「愛情がなかった」と反省し、決着するというか、一種のハッピーエンドへと収斂するが、「不干渉」を前提とする国では、そう簡単にはことが運ばない。
 あ、ここから感想を書き始めればよかったかな、といま思うが、書き直してもしようがない。たぶん、ここまで書かないと思いつかなかったことなので、書き直すと違ったものになる。
 映画は映画だけれど、なんともいえず「文学(小説)」っぽい作品で、岩波で上演された理由も、そこにあるかもしれない。「小説」を書くときの参考になるようなシーンの連続だった。主演のレナート・カルペンティエリはイタリアの映画の主演賞をいろいろ取ったようだが、こういうつらい演技はイタリア人にもむずかしいとういことか。
 (2019年04月06日、KBCシネマ2)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする