ジル・ルルーシュ監督「シンク・オア・スイム イチかバチか俺たちの夢」(★★)
監督 ジル・ルルーシュ 出演 マチュー・アマルリック
予告編を見たとき、「フランス版フルモンティ」かなと思った。そして、そんな気持ちで映画館へ行ったら、「シンク・オア・スイム イチかバチか俺たちの夢」をイギリスでリメイクするらしく、その作品の予告編をやっていた。「中年落ちこぼれおじさんコメディ」ならイギリスにまかせておけ、ということらしい。
たしかに、そうだろうなあ。
フランスの何がいけないのか。簡単に言えば「ことば」である。
いや、イギリスもことばの国ではないか。
そうなのだけれど、ことばの性質が違う。イギリスはシェークスピア、劇の国。フランスにも劇はあるが、フランスのことばは劇ではなく「哲学」。
「劇」と「哲学」と、どう違うか。劇は対話。人と話す。つねに「他人」によって「異化」される。そして、その「異化」を効果的にするためには、自分を語るときもみずから自分を異化する。客観化。ユーモア。笑い。ことばは「もの」のように、そこに存在する。人間のものなのに、人間から独立して、「人間像」ならぬ「ことば人格」のようなものを浮かび上がらせる。
哲学は独白。奇妙な言い方だが、ことばは「肉体(個人)」とは別のところにあって、それが「個人(肉体)」のなかにしみ込んできて、「人間」をつくる。
劇と哲学では、ことばの動き方、人間から出て行くか、人間に入ってくるかという違いがある。
それを象徴するシーンがある。車椅子のコーチに叱責されながら、体力をつけるために男たちが走っている。もう、限界。走れない。そのときそのコーチとかつてペアを組んでいた女性が言う。
「語りかけなければ、つぶれてしまう」
「語りかけるって、何を?」
タイトルは忘れたが、ここで金髪の女は「本」を読み始める。すでに完成されたことば。もしかするとフランスでは誰もが学校で読まされたことがある本かもしれない。そのことば(哲学)がおじさんたちの「肉体」のなかへ入ってゆき、肉体を支える。思考の「よりどころ」になり、それがつっかい棒のように男たちを支える。
笑ってしまうが、ここにフランスの「庶民の思想(肉体)」がいちばんくっきりと出ていると感じだ。これだからフランス人は「面倒くさい」んだよなあ、と思う。
で、それが冒頭の「四角の穴に丸は入らないし、逆もまた真」というようなことば(哲学)があって、最後には「四角の穴に丸は入るし、逆もまた真」という「哲学」として反復される。
一方、イギリスはどうか。シェークスピアはどうか。(と、ここでシェークスピアをもちだしてもしようがないのかもしれないが)。シェークスピアは「本」からことばをひっぱってこなかった。巷で庶民が話している「口語」をひっぱってきて、音とリズムをととのえた。「哲学」というよりも「暮らしの智恵」を持ち込むことで、登場人物に「過去」を与えるのだ。「自分」を語るときも、そうやって「自分を他人にしてしまう」のだ。「自分ではなく他人」だから、それを否定するのも楽しいというような、なんとも奇妙な「笑い」が生まれる。どうせ他人だもん、と思っているフシがある。
あ、くだくだと映画とは関係がないことを書いてしまったか。
映画に戻ると、何といえばいいか、登場人物がみんな「自分」をとっても大事にしている。自分を「笑う(突き放す)」ためではなく、自分を「守る」ためにことばを必死になって探している。古いことばで言えば「自分探し」だね。わかりやすいといえばわかりやすいが、こんなにたくさんの人間が「自分探しごっこ」をするのを見続けるのは、ちょっとげんなりするなあ。
クライマックスのアースティックスイミング(かつてはシンクロスイミングと言った)のシーン。映画だから許せる「反則」がうまくつかわれている。重要な部分は「吹き替え」だが、それがばれないように(わかりにくくするために)、特別の照明をつかっている。オリンピックなどの競技会では照明は選手の動きがはっきり見えるように会場を明るくしている。この映画のようには絶対にしない。つまりこの映画は「嘘」を映像にしているのだが、映画はもともと嘘なんだから、これでいい。ここだけは、いかにもフランス人らしい「ずるい」方法だなあ、と感心した。
さて、イギリス版は、どうなっているか。比較してみるのは楽しいかもしれない。
(KBCシネマ2、2019年08月04日)
監督 ジル・ルルーシュ 出演 マチュー・アマルリック
予告編を見たとき、「フランス版フルモンティ」かなと思った。そして、そんな気持ちで映画館へ行ったら、「シンク・オア・スイム イチかバチか俺たちの夢」をイギリスでリメイクするらしく、その作品の予告編をやっていた。「中年落ちこぼれおじさんコメディ」ならイギリスにまかせておけ、ということらしい。
たしかに、そうだろうなあ。
フランスの何がいけないのか。簡単に言えば「ことば」である。
いや、イギリスもことばの国ではないか。
そうなのだけれど、ことばの性質が違う。イギリスはシェークスピア、劇の国。フランスにも劇はあるが、フランスのことばは劇ではなく「哲学」。
「劇」と「哲学」と、どう違うか。劇は対話。人と話す。つねに「他人」によって「異化」される。そして、その「異化」を効果的にするためには、自分を語るときもみずから自分を異化する。客観化。ユーモア。笑い。ことばは「もの」のように、そこに存在する。人間のものなのに、人間から独立して、「人間像」ならぬ「ことば人格」のようなものを浮かび上がらせる。
哲学は独白。奇妙な言い方だが、ことばは「肉体(個人)」とは別のところにあって、それが「個人(肉体)」のなかにしみ込んできて、「人間」をつくる。
劇と哲学では、ことばの動き方、人間から出て行くか、人間に入ってくるかという違いがある。
それを象徴するシーンがある。車椅子のコーチに叱責されながら、体力をつけるために男たちが走っている。もう、限界。走れない。そのときそのコーチとかつてペアを組んでいた女性が言う。
「語りかけなければ、つぶれてしまう」
「語りかけるって、何を?」
タイトルは忘れたが、ここで金髪の女は「本」を読み始める。すでに完成されたことば。もしかするとフランスでは誰もが学校で読まされたことがある本かもしれない。そのことば(哲学)がおじさんたちの「肉体」のなかへ入ってゆき、肉体を支える。思考の「よりどころ」になり、それがつっかい棒のように男たちを支える。
笑ってしまうが、ここにフランスの「庶民の思想(肉体)」がいちばんくっきりと出ていると感じだ。これだからフランス人は「面倒くさい」んだよなあ、と思う。
で、それが冒頭の「四角の穴に丸は入らないし、逆もまた真」というようなことば(哲学)があって、最後には「四角の穴に丸は入るし、逆もまた真」という「哲学」として反復される。
一方、イギリスはどうか。シェークスピアはどうか。(と、ここでシェークスピアをもちだしてもしようがないのかもしれないが)。シェークスピアは「本」からことばをひっぱってこなかった。巷で庶民が話している「口語」をひっぱってきて、音とリズムをととのえた。「哲学」というよりも「暮らしの智恵」を持ち込むことで、登場人物に「過去」を与えるのだ。「自分」を語るときも、そうやって「自分を他人にしてしまう」のだ。「自分ではなく他人」だから、それを否定するのも楽しいというような、なんとも奇妙な「笑い」が生まれる。どうせ他人だもん、と思っているフシがある。
あ、くだくだと映画とは関係がないことを書いてしまったか。
映画に戻ると、何といえばいいか、登場人物がみんな「自分」をとっても大事にしている。自分を「笑う(突き放す)」ためではなく、自分を「守る」ためにことばを必死になって探している。古いことばで言えば「自分探し」だね。わかりやすいといえばわかりやすいが、こんなにたくさんの人間が「自分探しごっこ」をするのを見続けるのは、ちょっとげんなりするなあ。
クライマックスのアースティックスイミング(かつてはシンクロスイミングと言った)のシーン。映画だから許せる「反則」がうまくつかわれている。重要な部分は「吹き替え」だが、それがばれないように(わかりにくくするために)、特別の照明をつかっている。オリンピックなどの競技会では照明は選手の動きがはっきり見えるように会場を明るくしている。この映画のようには絶対にしない。つまりこの映画は「嘘」を映像にしているのだが、映画はもともと嘘なんだから、これでいい。ここだけは、いかにもフランス人らしい「ずるい」方法だなあ、と感心した。
さて、イギリス版は、どうなっているか。比較してみるのは楽しいかもしれない。
(KBCシネマ2、2019年08月04日)