注釈(1)
一行目。「火曜日」ということばは「回避」を象徴している。はじまりの必然をはぐらかしているのは、これからはじまる詩が記憶と不安を語るものだからである。書かれなかったはじまりは、詩人の記憶のなかにしまいこまれ、それが「地下鉄」とか「花屋」ということばと出会うたびに噴出する。そういう詩全体の構造も暗示している。
二行目。「銅版画」は、その細い線を予告することで、三行目の「新しい散歩道は雨になった」の「雨」を印象づける。細い雨、密集して降る雨が見えるようだ。四行目の、風に吹かれて、群れたり離れたりするという雨の姿(精神の象徴的描写)も暗示している。効果的な比喩である、と私は思う。それとは別に、私はここで別のことをしておきたい。詩人はなぜ「エッチング」ではなく「銅版画」ということばを選んだのか。濁音を嫌う詩人が多いが、この詩の作者は、「有声音」の豊かさが濁音に満ちていると感じているからだ。この独特の感覚は、五行目の「水仙の花びらが濡れて腐っている」ということばに通じるものである。
三行目。「新しい」と「雨」ということばは、エリオットの「四月は残酷な月」という有名な行を意識している。「残酷な」ということばをつかわずに、「残酷」をいいあらわすために間接的に「引用」している形だ。エリオットから、どこまで離れることができるかを、試している。効果的とはいえない。何かを意識するということは、いつでも「離れる」という運動にはつながらない。接続するという運動になってしまう。むしろ、エリオットの内部へ入り込み、ことばを突き破った方がよかったのかもしれない。
四行目。草稿では「唇の絵」と書かれていた。私はたまたまノートを見る機会があったので知っている。「絵の唇」と推敲されることで虚構性が強まった。「肉体」そのものではなく、描くという行為のなかで、動く記憶。この行は、二行目との「和音」を感じながら味わう必要がある。「銅版画」と「インクの素描」。どちらも「線」という共通要素があるが、一方は間接的、一方は直接的である。しかし、この「間接性」と「直接性」は、事実(あるいは今といえばいいのか、現実といえばいいのか)と記憶の問題に重ね合わせて考えるとき、簡単に断定できない。記憶とはすでに「いま」存在しないものである。そういうものに触れるには、表現の「間接性」がふさわしいかもしれないからである。一行目の注釈で触れたが、たの詩のテーマは回避された記憶との精神的葛藤である。「唇の絵」を「絵の唇」と書き直しているところに、詩人の感情の交錯を読み取るのは、私ひとりだけではあるまいと思う。
五行目。「夕刊」ということばと「寒くなった」ということばが、ひどく生々しい。このことばを書いたために、この詩は、ここで終わることになってしまった。四行目で「インク」と書いてしまい、そこから「濡れる」ということばが連想されたのも失敗の原因である。隠してきたものが皮膚感覚で、皮膚によってあからままになった。抒情を好むひとは評価するかもしれないが、私は、嫌いだ。
補足。五行目に、「土曜日」ということばを詩人が残しているのは、この詩のそれぞれの行が「火曜日」から「土曜日」の一日一日であるということを語っているかもしれない。そうであるなら、四行目の「食器棚」は「夕刊」と呼応することで、どんな不安もまた陳腐へと修練するというアイロニーになっている。「寒くなった」は「あたたかい」ものを欲望しているありふれた男の姿であるともいえる。
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