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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の死(3)

2024-11-25 23:50:33 | 考える日記

 

 

 『女に』が谷川俊太郎との「最初の出合い」だとすれば、『こころ』は「二度目の出合い」である。朝日新聞に「こころ」が連載されていたとき、何度かブログに感想を書いていた。連載が一冊になったとき、全部の感想書き直してみようと思った。ただし、「書き直す」(整え直す)という感覚ではなく、「初めて読む感覚」で書き直してみようと思った。最初は数篇をまとめてとりあげたが、そのあとは一日一篇、書く時間は15分、長くても30分と決めて書き始めた。「評論」でなく、「評論以前」を目指していた。詩を読むとき、だれも評論を書こうとは思わずに読み始めるだろう。その感じを、ことばにしてみたいと思った。詩に限らないが、どんなことばでも、それを読んだときの状況によって印象が違う。その「違う」ということを大切にしてみたいと思った。

 前回、ことばは鏡のように自分を映し出す。ことばを読まないと、自分の姿が確かめられないというようなことを書いたが、毎日鏡を見ても、その鏡に映しだす顔が違って見えるように、詩を読むたびに自分が違って見える。しかし、その「違い」はほかのひとから見れば「違い」ではないかもしれない。同じ「私の顔」かもしれない。また逆に「きょうの私の顔はいつもと同じだ」と私が思っても、他人から見れば「いつもと違う谷内の顔」ということもあるだろう。
 「違い」なんて、あってないも同然なのだが、それでも何らかの「私の変化」が誘い出されてくるだろう、そんなことを思った。

 これは、私には、想像以上におもしろい体験だった。何かを書くとき、どうしても、何かかっこいいことを書こう、ひとを驚かすような新しい視点を書こう、結論を書こうと身構えてしまうところがある。私には。
 『女に』を読んで「キーワード」を見つけ、そこから詩を読み直したというのも、まあ、気取っているといえば気取っている。
 ひとを驚かす、読者を驚かすのではなく、ただ自分の驚きを書くというのは、とても楽しい。書いていて、あ、これはさっき書いたことと矛盾するなあ、さっき書いたことが間違っているのかなあ、いま書いたことの方が間違っているのかなあ。どっちだっていい。間違えるには間違えるだけの「根拠」のようなものが、どこかにあるのだ。私の「読み違い」か、谷川の「書き違い」か、はたまたは、さっき食べた目玉焼きが原因か、隣の家で名吠えている犬の声が原因か。
 もし、さっき書いたことがはっきり「間違い」だとわかれば、そのとき「さっき書いたことは間違い」と言って書き続ければいいだけである。そう思った。

 私は「自由になる方法(自由になる、そのなり方)」を、『こころ』を読み、それについて書くことで学んだのである。きっと毎日一篇ずつ、30分以内という「制約」が逆自由になる方法を後押ししてくれたのかもしれない。そういえば、谷川は若いときから詩だけで食っているから、画板のようなカレンダーに締め切りを書き込んで、せっせと詩を書いたというようなことをどこかで読んだ記憶があるが、締め切りが迫っていると、どこかで「ことば」を手放さないといけない。もっと修正する時間が知ればと思いながら、一種の「あきらめ」と同時にほうりだし、書いてきたことばから解放される。そういうことかもしれないなあ、と思う。
 どんなに「でたらめ」を書こうとしても、どこかに自分が信じていることがまぎれこむし(そういうものを土台にしないとことばは動いてくれないし)、どんなに「ほんとうのこと」を書こうとしても、どうしても正直ではないものが紛れ込む。あっ、これはかっこよく書けたなあ、よし、これを「結論」にしよう、とか。
 この方法を、谷川自身がおもしろいと言ってくれたことが、私にはいちばんの収穫だった。
 打ち合わせのとき、私が「私はずいぶん失礼なことも書いていると思うけれど」というと、
 「いや、ほかのひとはみんな私(谷川)のことをほめよう、ほめようと身構えて書いているからつまらない」
 ということばが即座に返ってきた。
 そういえば、谷川と親しい田原が、「私は中国人で、敬語がうまくつかえない。だから、谷川先生となかよくしている」と言うようなことを、私に教えてくれた。
 そうか。

 それは別にして。
 このあと、私は不思議なことを体験した。
 『心を読む』と同じ方法をほかの谷川の詩集、あるいはほかの詩人の詩集でもやってみるのだが、どうもうまくいかない。自由に書けない。あれは田中角栄がやった「日本列島改造」と同じように、一度やったら二度とできない何かなのである。
 一冊の詩集の全編に対する感想、あるいは批評を書くときは、何かもっと新しい方法でやり始めないとだめなのである。自分のなかに新たな基準をつくり、同時にその基準を読んでいる作品を通して、壊しながら進むということばの運動をしないといけないのだろう。
 どういうことができるかわからないが、いつか、『世間知ラズ』の全篇について感想を書いてみたい。「父の死」は、私の好きな詩だし、それを書くことで「谷川俊太郎の死」を書けたらなあ、と思う。

(「谷川俊太郎の『こころ』を読む」出版の経緯は、「往復書簡」の形で本に書いてあるので、ここでは省略した。)


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「一読者」を叱る(谷川俊太郎の死とその報道その2)

2024-11-24 18:10:35 | 考える日記

 「谷川俊太郎の死とその報道」という文章を11月20日に書いた。この文章に対して、「一読者」というひとから、コメントがあった。22日の午前3時12分という、たいていのひとが眠っている時間に書き込まれていた。

新聞が違います (一読者)2024-11-22 03:12:53
東京では「20日の朝刊」ではなく、朝日、毎日、日経、読売の「19日の夕刊」で谷川さんの事が詳しく報道されていました。読売は19日の朝刊にも簡単な情報が出てました。あなたが住んでいる地域とは新聞の発行事情が違っています。そうことも考えた上で書いたほうがいいと思いますよ。谷川賢作さんの19日朝のfacebookの書き込みを読みましたか。葬儀は18日だったそうで、この時点では読売の報道はされていません。当然、静かに家族で見送ったことでしょう。あなたが怒る理由が何かありますか。

 私は新聞発行事情が違うことは知っている。だからこそ、私が最初に知ったのは19日の読売新聞朝刊(西部版・14版)だと明記し、「証拠」の写真も載せている。「一読者」は

東京では「20日の朝刊」ではなく、朝日、毎日、日経、読売の「19日の夕刊」で谷川さんの事が詳しく報道されていました。

 と書いているが、これはほんとうだろうか。私は確認していないのだが、あの記事は西部版14版だけに掲載されたものなのか。「一読者」が、東京のどこに住んでいるか知らないが、東京で発行される新聞は一種類ではないだろう。東京といっても広くて、地域によって発行されている新聞の内容が違うのではないか。「14版」の新聞と「13S版」の新聞、もしかすると「13版」も一部地域には配布されているかもしれない。これは福岡県内でも「14版」と「13S版」があり、同じ新聞が配布されているわけではないことから推測して書いているので、間違っているかもしれないが。
 (新聞の「○版」というのは、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞では、欄外のページ番号の近くに印刷されている。一面なら、左上の「1」の近く、その右側に印刷されている。数字が大きくなるほど、最新のニュースになる。)-
 新聞は、同じ新聞でも、地域によって原稿の締め切り時間が違うかもしれないだろうから簡単に推測はできないが、谷川俊太郎の死亡記事が読売新聞西部版(14版)だけに掲載されているとは信じられない。一面に掲載されるような特ダネ記事が、西部で発行される新聞だけに、先に掲載されるとは信じられない。東京で発行されている14版にも、大阪発行の14版にも、きっと掲載されているはずである。西部管内の読売新聞の記者が谷川俊太郎死亡の事実を知り、それを西部の新聞だけに掲載したということは、多分あり得ない。それに、もし西部の記者がつかんだ特ダネであるにしろ、あの記事は不完全すぎる。そういうあいまいな記事を西部の編集部が独自の判断で紙面化できるとは私には理解できない。これも推測でしかないので間違っているかもしれないが、「一読者」が読んだ読売新聞は「14版」ではなかったのではないか。
 「一読者」は新聞事情に詳しいようだから、何かを隠しているのかもしれない。「一読者」が東京で発行されている読売新聞の何版を読んだかを書いていないことに、私は疑問を持っている。もし、東京で発行されている19日の読売新聞14版に谷川俊太郎死亡の記事が載っていないというのなら、その「証拠写真」を見たいものである。私は、19日の西部版・14版を掲載した上で、読売新聞の姿勢を批判している。批判には「証拠(根拠)」が必要だと私は考えている。
 朝日、毎日、日経の「19日の夕刊」に谷川死亡の記事がのったのは、これはいわゆる「追いかけ」というものである。読売新聞の記事を読み、あわてて取材して夕刊に掲載したのだろう。読売新聞が夕刊でもその記事を載せているのは、朝刊の記事に不備があったからだ。その不備というのは、前のブログにも書いたが、死亡日時が不明(遺族が明かさないこともあるから、必ずしも間違いではないが)、死因がない(これも遺族が明かさないことがあるから、間違いではない)、一般に書かれている喪主が誰なのか書いていない(これも遺族が明かしたくないときは書かないだろう、書けないだろう)。それを補うために、すでに報道したニュースだけれど、夕刊で「補足」するために掲載したのだろう。新聞事情に詳しい「一読者」がどう判断しているのか知らないが、私はそう推測している。

 私が読売新聞の「初報」で問題にしたのは、いま、書いたことである。どうしても、記者が遺族に(「一読者」が書いている文章に則して言えば、谷川賢作に)、谷川俊太郎の死亡を確認して書いた記事とは思えない。もし谷川賢作に取材しているのなら、何日に死んだか、死因は何か、喪主はだれかは書けるはずである。確認していないから書けない。そして、夕刊では、それを確認したから記事にし、「死亡記事」を「完成」させたのだ。新聞事情に詳しい「一読者」なら、新聞の死亡記事がどういうスタイルで書かれているか知っているだろう。名前、年齢、肩書(ときには簡単な略歴)、死亡した日、死因、喪主(ときには住所を含む)、葬儀の日程(時には会場名を含む)などは必須事項であり、遺族が公表を拒んでいるときは、たとえば「死因は明らかにしていない」「住所は公開していない」などと補足する新聞もある。
 繰り返しになるが、そうした事実を遺族を通して確認したからこそ、「追いかけ」の形で書いている朝日新聞などには、それが明記されている。(読売新聞も、それを追加している。)不備な記事と完全な記事を比較するために、私は「証拠」として朝日新聞の記事も引用している。

 「一読者」が書いているように、谷川賢作がFacebookで谷川俊太郎の死を公表したのは、19日の朝である。つまり、読売新聞の報道のあとである。(朝のニュースのあとかどうかまでは、私は知らない。)遺族が公表する前に、どうして読売新聞は谷川俊太郎死亡の記事を書くことができたのか。
 新聞事情にくわしい「一読者」がほかに何を知っているか(何を隠そうとしているか)知らないが、私が推測する限り、谷川俊太郎の死を知りうるひと、谷川に親しいひとが、その情報を読売新聞の記者に「リーク」したのである。私は邪推が好きな人間だから思うのだが、こういう「リーク」をするのは読売新聞からの何らかの「見返り」を期待してのことだろう。(たとえば読売新聞に寄稿し、原稿料をもらうとか。)
 遺族が公表しないなら、公表されるまで待っていてもいいだろう。いったい、その「リーク」したひとは何が目的で「リーク」したのか。
 さらに。
 谷川俊太郎は、「感謝」という詩が朝日新聞に掲載されたように、朝日新聞と強いつながりがある。もし「リーク」するなら、なぜ朝日新聞の記者に「リーク」しなかったのか。これも考えてみる必要があるだろう。
 遺族がいつ公表するつもりだったか知らないが、谷川俊太郎の詩は毎月連載されている。少なくとも朝日新聞は、その締め切り日までには必ずその事実を知ることになるだろう。原稿が来なければ問い合わせるだろう。隠したくても、隠せないだろう。そういう関係のある朝日新聞ではなく、読売新聞なのは、なぜなのか。
 私は、「リーク」しただれかに対して怒っているのである。遺族が発表するまで、静かに待っていて、いったい何の不都合があるのだろう。黙っていると、そのひとは、何か損害でも受けるのか。さらに、そのひとは谷川俊太郎の死を知らせてくれたひとから「口止め」はされなかったのか。「遺族が○日に公表するから、それまでは多言しないように」と言われなかったのか。ふつう、「秘密」を語るとき、たいていのひとは「多言しないように」と付け加える。もちろん、言いふらしてほしくてわざと「多言しないように」ということもあるだろうが、谷川俊太郎の死は、そういう類のものではないだろう。
 いったい、遺族に確認せず(無断で)、その家族の死を公表する(報道する)権利が新聞にあるのだろうか。そんな非礼なことを、新聞に限らず、人間がひととしてしていいことなのか。私がいちばん怒っているのは、ここである。

 「一読者」の文章では、私は、次の部分にも非常に驚いた。

葬儀は18日だったそうで、この時点では読売の報道はされていません。当然、静かに家族で見送ったことでしょう。

 葬儀がすめば、それで遺族が「静かに家族で見送った」ことになるのか。遺族は、葬儀がすめば、もうさっぱりと谷川俊太郎の死を忘れて、日常生活にもどるのだろうか。葬儀のあとも、こころは揺れ動いているだろう。遺族がこころを落ち着けて、谷川俊太郎の死を公表する、ということがどうして待てないのか。
 読売新聞の報道が19日、つまり葬儀の18日のあとなので、何も問題がないとどうして言えるのだろうか。
 「一読者」はネットの情報にも詳しいようだが、谷川賢作以外のひともいろいろ谷川について書いている。そのなかには、「コメントをもとめられて忙しかった」というようなことを書いているひともいる。遺族でなくてさえ、そういうことに引き込まれ、「静か」ではいられなくなるひとがいる。遺族であるなら、たぶん、同じような対応に終われるだろう。だからこそ、たとえば谷川賢作も「コメント欄は「記帳コーナー」のようにあけておきますが、個々への返信はできません。お許しください。メッセージも同様です。」と「一読者」が読んだFacebookに書いている。なかなか「静か」にはなれないのである。そういうことがわかっている(想像できる)からこそ、遺族はすぐに谷川俊太郎の死を公表しなかった。

 「一読者」は新聞事情に詳しすぎて、こうした、ごく一般的な人間の動きを見落としているのだろう。「情報通」にはなりたくないものである。

*
この記事を読んだあと、東京と大阪で発行されている読売新聞の14版の紙面を送ってくれた。
私が推定して書いているように、14版の四面には載っている。「一読者」がどこに住んでいるか知らないが、「一読者」が住んでいるのが東京だとしても、そこは14版の配布地域ではないのだろう。
谷川俊太郎が住んでいるところに14版が配布されているかどうか知らないが、東京や大阪でも配布されている。
「一読者」は「事情通」であるけれど、私以上に「推定」だけで私の書いていることが間違いのように書いている。
「推定」だけでは間違えることがある。「伝聞」だけでは、それが正しいかどうかわからない。
だからこそ、私は読売新聞の記事が許せないと書いたのだ。
もし読売新聞に「リーク」したひとの情報が間違っていたら、どうなるのか。生きている人を「死者」にしてしまう。
最低限、家族に「事実」を確認すべきなのだ。「事実」を確認したら、そのときその家族は「喪主」がだれか、いつ死んだかくらいは正直に話してくれると思う。
そういうことを読売新聞の記者はしていない。

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谷川俊太郎の死(2)

2024-11-23 23:22:00 | 考える日記

 

 谷川俊太郎の「ことば」に初めて出合ったのは、いつか。私の場合、はっきり言うことができる。『女に』(マガジンハウス、1991年)を読んだときである。もちろん、「鉄腕アトム」は、それよりもはるか以前に知っている。しかし、それは「谷川俊太郎のことば」という意識とは関係がない。何も知らずに出合っている。『二十億年の孤独』も、その他の詩集も、『女に』以前に読んでいる。いや、読んでいるは正しくない。目を通している。しかし、それは「出合い」ではない。私のまわりに、偶然存在していたにすぎない。『旅』にしろ、『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』にしろ、あるいは『定義』『コカコーラ・レッスン』にしろ、読んでも感想を書くことはなかった。ラジオやテレビから聞こえる「流行歌」のような感じで、それが「ある」という印象だった。
 『女に』も、最初は、そこに偶然にあった一冊にすぎなかった。
 雑誌「詩学」から原稿の注文が来た。テーマは自由。詩について思っていることを書けばいい、というものだった。ちょうど谷川俊太郎が『女に』で、第一回丸山豊賞を受賞したあとだった。すでにいくつもの賞を受けている谷川の詩集に賞を与えることもないだろう。もっと若い人に譲ればいいのに、などということを知人と話したりした。「地方の市が主催する賞、その初めての作品だから、権威あるひとに与えることで、賞の権威を高めたいのだろう」というような「政治的」な感想を交わしたりもした。そういうことを含め、谷川批判を書くつもりで読み始めた。薄い詩集だし、どの詩も短いから、すぐに感想が書けるだろうと思って選んだのだった。
 詩集のテーマは、佐野洋子との愛。佐野洋子の絵もついている、おとなの絵本、という感じの一冊である。一読すると、非常に「軽い」。当時、私は中上健次の小説が好きでいろいろ読んでいた。中上健次の小説には、どの作品か忘れたが、主人公が「長々と射精した」ということばがある。そういう力みなぎる野蛮な(?)愛と比べると、なんとも弱々しい。吉行淳之介の、主人公が「弱々しく射精した」(だったかな?)というような、かなしいような切実さとも縁がない。中上とも吉行とも違う何か、中途半端な、簡単に言うと「男」を感じさせないことばである。そんなことを中心に批判を書くつもりでいた。ここに、どんな「新しいことば」があるのか。何もないのではないか。
 そして、実際にそう書き始めた。批評を書くときには、特に批判を書くときには、絶対に「引用」が必要である。その「引用」をしていたとき、私のなかで、突然、変なことが起きた。「少しずつ」ということばを含む「会う」を書き写しているとき、それは起きた。

始まりは一冊の絵本とぼやけた写真
やがてある日ふたつの大きな目と
そっけないこんにちは
それからのびのびしたペン書きの文字
私は少しずつあなたに会っていった
あなたの手に触れる前に
魂に触れた

 「私は少しずつあなたに会っていった」。意味はわかるが、どうも変である。「少しずつ」のつかい方が、いわゆる「学校教科書」のつかい方と違う。「会う」ことを繰り返して、私とあなたの関係は「少しずつ」かわって「いった」。私はあなたのことを「少しずつ」わかるようになった。わかるようになって「いった」。こうした書き方の方が「自然」だろう。そして、そういう「自然な」ことばの動きを谷川は熟知しているはずである。しかし、それを、あえて踏み外して、「私は少しずつあなたに会っていった」と書いている。なぜなんだろうか。何が書きたかったのだろうか。
 次の瞬間。あるいは、同時に。いや、そんなことを思う以前に。
 あ、「少しずつ」が書きたかったのだ、と私は直覚した。(先に書いた文章は、あとから「意識」を整理し直したものにすぎない。)
 ふたりの関係が「少しずつ」変化していく。そのときの「少しずつ」ということ、それを書きたかったのだと直覚した。愛には、出合った瞬間に、突然燃え上がるものもあれば、出合いがあったはずなのに愛にはならないものもある。谷川と佐野の場合、それは「少しずつ」愛になっていった。会うたびに、少しずつ愛が生まれてきた。愛が生まれた、愛が実った、ということよりも、そのときの「少しずつ」という変化、そのことを書きたかったのだ、と私は瞬間的に「悟った」。そして、それは私が先に書いたように、「学校文法」で整えてしまうと違ったものになってしまうのだった。「私は少しずつあなたに会っていった」と書くしかないのである。
 あるいは、こういうべきか。「少しずつ」と書いたために、そのあとの「ことばの運動」が「学校文法」からはみ出していくしかなかったのである。「少しずつ」をつかわなければ、きっともっとすっきりした形で書けたはずである。しかし、ほかのことばをおしのけて、谷川の肉体に隠れていた「少しずつ」が、「ことばの肉体」を突き破ってあらわれ、新しい「ことばの肉体」となって動いたのだ。「少しずつ」ということばが、ほかのことばをかえてしまったのだ。
 そして詩集を読み返すと、それぞれの詩に「少しずつ」が隠れている。書かれていないけれど、いくつもの詩に「少しずつ」を補うことができると気がついた。そういうことを私は「詩学」の文章なのかで書いた。
 同時に私は、こういう「どこにでも隠れていることば」、ほんとうは書かなくてもいいことばが、どうしても自己主張してあらわれてしまうことばを「キーワード」と名づけた。筆者にとって、わかりきっていることば、書かなくていいのだけれど、あるとき、そのことばがないとどうしても納得できずに書いてしまう、肉体となってしまっていることば。そうしたことばのなかに、作者そのものがいると感じる。それを「キーワード」と名づけ、詩を読んでみよう。私の、詩への向き合い方が決まった瞬間だった。
 谷川の詩を読みながら、私は私の「読み方」を発見したのだといえる。そのとき、私は初めて谷川のことばに出合ったのだと確信した。そして、それまで書いていた文章を全部破棄して、新たに書き直したのが、「詩学」に発表した文章である。

 (「キーワード」が何か特別なことばではなく、ふつうは省略してしまうけれど、あるときどうしても書かなければならないことばとしてあらわれてくるもの、ととらえたのは今村仁司か、井筒俊彦か、わたしははっきりとは覚えていない。あるアラビア圏の経済学者が書いた「マルクス論」は、ほかの国の誰それの書いたものとそっくりである。違うのは、アラビア圏のひとが書いた文章のなかに「直接」ということばが差し挟まれている。それはなくても意味が通じるが、彼は、それを書かざるを得なかった。「直接」ということばがイスラム教の「キーワード」である、というようなことを指摘していた。その意味を、私は谷川の「少しずつ」を読んだときに感じ取ったのである。だから、その谷川論を含んだ『詩を読む 詩をつかむ』の批評を今村仁司が詩なの信濃毎日新聞に書いてくれた、そこに「キーワード」をつかった詩の読み方を紹介してくれたとき、私はとてもうれしかった。)

 「少しずつ」を各詩篇に補いながら詩集を読んでいくとき、私は、なんともいえず興奮してしまった。あ、ここにも、またここにも、「少しずつ」が隠れている。ときには別のことばになっている。しかし、それは「少しずつ」と書き換えても、なにもかわらない。それを見つけることは、隠れている谷川の肉体を隠れん坊で見つけるときのような喜びであり、変ないい方になるが、セックスしている感じでもある。あるところに触れたら、相手の肉体が反応して動く。予想もしていなかった動きがはじまる。動いたのは相手の肉体なのに、自分の肉体がそれに刺戟されて動いてしまう。私が書きたいと思っていたことが、次々に変わっていく。私が動いているのか、相手が動いているのか、わからない。新しい相手が生まれ、新しい私が生まれる。切り離せない。切り離すと死んでしまう。それを私は「ことばの肉体」の動きとして味わっている。興奮して、もう、どうなってもいい、と感じ始める。私のしていること(こうした読み方)が、正しいのか間違っているか、そんなことはどうでもいい。楽しい。私のやっていることは、はたから見れば、きっとみっともない。しかし、セックスというものはそういうものだろう。どんなに上手にやっても、それは不格好なカッコウに見える。見てはいけないカッコウにしか見えないだろう。それでもいい。変だ、みっともない、と批判されてもかまわない。楽しいから。快感があるから。変なことをしないと、新しい快感は生まれないのだ。
 私が谷川俊太郎を発見したのではなく、私が谷川俊太郎によって発見されたのだ。
 「ことば」を読むということは、相手(筆者)の真実を見ることではない。「ことば」は鏡であり、「ことば」を通してでしか(「ことば」を読むことによってでしか)、私は私を確認できない。「ことば」は私がだれなのか、どういう姿をしているかを映し出してくれる鏡なのだ、私がだれであるかを気づかさせてくれるものなのである。そういうことを、私は『女に』を通して知った。
 『女に』は、右ページに谷川のことば、左ページに佐野の絵がある。佐野にとって「ことば」は絵(線)なのだろう。詩集のなかで、ふたりは互いにふたりを発見し、発見することでつぎつぎに、しかし「少しずつ」変わっていく。この「少しずつ」は「確実に」でもある。そんなことをも感じさせてくれる。

 谷川のことば。それは、私の最初の「邪心」を打ち砕いた。谷川を批判してやろうという思いを、あっさりと打ち砕いた。谷川のことばには、何か、そういうくだらない「野心」を打ち砕き、そういう邪心をもった人間さえも受け入れ、変えてしまう力があるということだろう。
 この『女に』以降、私は谷川の詩を読むのが好きになった。今度はどんなセックス(ことばの肉体のセックス)ができるだろう、と思ってしまうのである。そのあと、どんなふうに私は変わっていけるだろうと、詩を書くときのように興奮してしまう。

  この文章もまた、カッコウ悪く、みっともないものだろう。つまり、他人に見せるための「体裁」をもっていないだろう。私はいつでも、私の書いている「相手」のことしか気にしていない。「他人」なんか、どうでもいい。谷川はもうこの文章を読むことはないのだが、それでも私は谷川にだけ向けて、この文章を書いている。それなら公表するな、とひとはいうかもしれない。しかし、谷川は谷川の詩を読んだひとのなかにきっと生きている。私のことばのなかにも生きている。だから、その谷川のことばとセックスするために書くのである。あるひとにとっては、それは「オナニー」にしか見えないだろう。しかし、そんなことは関係ない。「あんたの知ったことではない」と私は思っている。嫌いならひとのセックスを覗くな、というだけである。

 (『女に』論を含んだ『詩を読む 詩をつかむ』は、1999年思潮社刊。古書店でなら手に入るかもしれません。)


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谷川俊太郎の死とその報道

2024-11-20 22:31:05 | 考える日記

 

 谷川俊太郎が死んだ。(私は、敬称もつけないし、「死亡した/亡くなった」とも書かない。敬称つけたり、「死亡した/死去した」というようなことばをつかうと、谷川が遠い存在になってしまうと感じるからだ。)
 私がその報道に、最初に触れたのは11月19日読売新聞朝刊(西部版、14版)だった。谷川俊太郎の死以上に、その「報道」に私は衝撃を受けた。ふつうの「死亡記事」とはまったく違っていたからだ。
 こう書いてある。

 日本の現代詩を代表する詩人で、「二十億光年の孤独」や「朝のリレー」など数多くの親しみやすい詩が人々に愛された谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが、18日までに死去した。92歳だった。

 ふつうは、こうは書かない。どう書くか。朝日新聞(11月20日朝刊、西部版、14版)は、こう書いている。

 「朝のリレー」「二十億光年の孤独」など、易しくも大胆な言語感覚で幅広く愛された、戦後現代詩を代表する詩人の谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが13日、老衰のため死去した。92歳だった。葬儀は近親者で行った。後日「お別れの会」を開く予定。喪主は長男の音楽家賢作さん。

 どこが違うか。朝日新聞は、死んだ日にち、原因を明記している。さらに葬儀が近親者だけで行われたこと、「お別れの会」が予定されていること、喪主がだれなのかを書いている。読売新聞には、これが書いていないばかりか、死んだ日を「18日まで」と不明確なまま書いている。
 なぜなのか。
 読売新聞は、谷川俊太郎の死を、遺族から確認していないのだ。葬儀が行われたかどうか、喪主が誰なのかも確認していないのだ。つまり、読売新聞は「だれかからの伝聞」を信用して、「裏付け」をとらずに記事にしている。
 たぶん読売新聞の記者のだれかと懇意のひとが、記者に「情報」を漏らしたのである。記者は、谷川と親しい複数の「関係者」に接触、情報を確認はしたかもしれない。しかし、肉親(遺族)には確認していない。
 こんな失礼なことがあるだろうか。

 谷川賢作が、父の死をすぐに公表しなかったのには、それなりの理由があるだろう。静かに家族で見送りたい。十分に、家族で父のことをしのび、こころが落ち着いたあとで公表したいという気持ちがあったのかもしれない。
 その静かに父をしのぶ気持ちを、読売新聞は叩き壊したのである。読売新聞の報道を見て、多くのマスコミが問い合わせをしただろう。その対応に、遺族は大忙しではなかったか。もし、遺族が考えたように(というのは私の推測だけれど)、落ち着いてから公表するなら、あちこちからの「問い合わせ」にこたえるというようなことをしなくてすむだろ。もちろん公表したあとにも「問い合わせ」はあるだろうが、公表したあとなら、少しはこころの準備もできているだろう。
 
 読売新聞の対応もひどいが、その「情報」を漏らしただれかも、ほんとうにむごいことをする。谷川俊太郎と親しい人間なら、谷川俊太郎の意志を尊重するだろう。まさか、「私が死んだら、読売新聞に真っ先に知らせて、特ダネを書かせてやってくれ」と、そのだれかは頼まれたわけではないだろう。第一、そういうことなら、谷川俊太郎は、そのだれかにではなく、賢作や、その他の家族に伝えていることだろう。どう考えても、そのだれかが、谷川自身や、遺族から頼まれて読売新聞に知らせたわけではないだろう。
 これは完全な邪推のたぐいだが。
 その情報をリークしただれかは、「情報を教えたんだから、お礼に読売新聞に書かせて」とでも言ったのだろうか。言わなくても、情報を教えられた記者は、そのだれそれに原稿を書かせる手配をするかもしれない。原稿を書けば、「謝礼(原稿料)」は出る。谷川俊太郎の死を、その人たちは「商売」にしている。
 このことに、私は、激しい怒りを覚えたのである。

 11月17日の朝日新聞に掲載された「感謝」は、谷川の「最後の詩(絶筆)」かもしれない。その最終行。

感謝の念だけは残る

 谷川は、そう書いている。私は、この一行を読みながら、谷川が書いてきたことばはすべて「感謝」だったのだと気がついた。
 谷川の代表作は何か。「父の死」か、「鉄腕アトム」か「かっぱ」か。さらに、谷川は戦後現代詩のトップランナーか。谷川の作品は、歴史に残るか。そんなことは、どうでもいい。谷川のことばのなかには「感謝」が存在する。「生きている」ことに対するはてしない「感謝」が存在する。それは、残るのだ。
 私は、それと向き合う。
 谷川俊太郎が「ありがとう」と感謝のこころをあらわす、私はそれに対して「ありがとう」と答える。その対話、そのあいさつだけで、私はうれしい気持ちになる。

 その気持ちがあるなら、こんな文章など書かず、谷川俊太郎に対して「ありがとう」とつぶやいていろ、というひとがいるかもしれない。
 しかし、その「ありがとう」を交わすためには、なによりもまず、谷川俊太郎の「ありがとう」という声を聞き取らず、自分の「金儲け」を優先したひとがいたということを批判しておきたいのである。そうした、あまりにも人間的な(?)生き方は、谷川のことばの対極にあるものだろう。谷川を取り巻いていたひとのなかには、そうした人間的な(?)欲望を生きていたひともいることになる。寛大な谷川俊太郎は、そういうひとをも受け入れているのかもしれないが、私は、そこまで寛大になれない。

 怒りがおさまったら、谷川の詩について、また書いてみたい。「ありがとう」の気持ちをこめて。

 

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山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」ほか(あるいは、「好き」ということ)

2024-10-13 12:33:25 | 考える日記

山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」ほか(あるいは、「好き」ということ)

監督・脚本 山中瑶子 出演 河合優実

 山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」は、たいへんな評判らしい。カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞したことも、その「好評」を後押ししているようだ。河合優実が主演した「あんのこと」、あるいはグー・シャオガン監督、ジアン・チンチン主演「西湖畔に生きる」もそうだが、「好きになれる人物」が登場しない映画、あ、この役者が演じたこの瞬間をまねして演じてみたいと感じさせてくれるシーンがないと、私は、その作品が好きになれない。
 「好き」ということばは誰でもがつかうが、その定義はむずかしい。私は「好き」というのは、その瞬間に、自分自身が消えてしまうことだと定義している。たとえば「ぼくのお日さま」の主人公は、少女がアイススケートをしているのを見て、フィギュアスケートが瞬間的に「好き」になる。そして、コーチが少女に指導していたことを耳にして、ふとその回転をまねしてみる。あるいは「リトル・ダンサー(ビリー・エオット、だったけっけ?)」でふと見てしまったバレエにひきつけられ、ボクシングをしているのに、ピアノのリズムで動いてしまう。さらに、彼は入学試験の面接で、踊っているとはどういう気持ちかと聞かれて「好き」というかわりに「自分が透明になる」と答える。この「透明」は私が言う「自分が消えること=好き」と同じだと私は感じている。「自分」というものがいなくなる、「自分」が消えて、「自分」では制御できない「肉体」が動き始める。そこには「感情」も「理性」もない。ただ「世界」だけが存在する。「世界と一体になる」という感じである。「好き」とは「世界との一体化」と言いなおすことができる。
 で、ここから「ナミビアの砂漠」を見直す。
 主人公(名前は忘れた)の河合優実は、一緒に暮らしている男(前半と後半は別の人間、つまりふたり)に対して、突然「暴力的」になる。いったん男の存在を否定し始めると、抑えが利かなくなる。徹底的に暴れる。これは、どうしてなのか。私の定義では、その瞬間が「好き」だからだ。男に対して暴言を吐き、暴力を振るう。その瞬間が「好き」なのだ。女は怒っているが、怒っている自覚はないだろう。「夢中」になっている。「無我」になっている。それしか「無我/自分が消え世界と一体化する瞬間」が存在しないのだ。
 それ以前は(それ以外の時間は)、どう「世界」のなかで存在しているのか。女が「暴力的」になる前には伏線がある。最初の伏線は、最初の男に対する伏線は、喫茶店で聞いた「ノーパンしゃぶしゃぶ」の会話である。こんな話題を、いまの若者が知っているのというのは私には驚きだったが、その「ノーパンしゃぶしゃぶ」で女が感じているのは、女は男の欲望の対象だ、という不満である。これが札幌出張の男が風俗店へ行ったことを知り、「怒り」となって爆発する。もしかすると、彼女は、その風俗の女であったかもしれないのだ。いま一緒に暮らしているが、それはほんとうに愛しているからなのか。それとも、セックスの対象とみなされているのか。これは、男が否定しようがしまいが、関係ない。彼女は、そう信じ、傷つくのである。そして、その傷に耐えられず、暴力的に反抗する。男の行為を否定する瞬間、彼女は「無我」になる。あるいは、「ほかの女と一体になる」と言えばいいか。風俗店で男とセックスをした女になる。「世界」になる。男が女を傷つけている世界そのものに向かって「無我」になる。暴力的になっているときだけ、彼女は男の世界から「解放」されるのである。それは世界を解放したい欲望と言いなおすことができる。
 もうひとりの男に対する暴力は、男が前につきあっていた女の「胎児のエコー写真」を見つけたところからはじまる。こどもはどうなったのか。堕胎した/堕胎させたのだろう。つきあっていた女は傷ついただろう。その傷を、男は、どうやってつぐなうのか。男は「小説」を書いている。きっと「小説」のなかで、自分の気持ちを「清算」するのだろう。そう思った瞬間から、暴力的になる。ここでも、女は、男の前の女、妊娠し、堕胎させられた女そのものになる。「無我」になっている。彼女が怒るのではなく、男の前の女になって怒る。
 ふたりの男は、女が「無我」になっていることに気がつかない。自分の目の前にいる、一個の「肉体を持った女」しか見えていない。女と「和解」するには、男も「無我」になるしかないのだが、それは、できない。男(ふたり)が女と暮らし始めたとき、暮らし始めようとしたとき、たぶん男にも「無我」の一瞬があったはずであるが、いまは、それを「再現」できない。男の行為が徹底的に否定されているわけだから、「無我」になれない。「無我」の「無」と「否定」の結果たどりつく世界ではなく、「肯定」のゆえに、自然とたどりついてしまう世界だからである。
 女が「安定」する、つまり世界が「好き」で満たされるのは、セラピーを受けているときではなく、スマートフォンで「ナミビアの砂漠」のシーンを見ているときである。オアシス(?)にシマウマが水を飲みにやってくる。こないときもあるが、くるときもある。それを「無我」になって見ている。「目的」もなく、ぼんやりと。この「無我」は「肯定」の結果ではないが、すくなくとも「否定」のゆえの世界ではない。
 「西湖畔に生きる」には、マルチ商法にのめりこむ女(母)が登場するが、彼女は息子から説得されても、そこから抜け出せない。家も売り払い、商法にのめり込む。言われるままに、大量の商品を買い込まされる。彼女は「買い物をしているときの自分が好き」というようなことを言う。「好き」とは、やはり「無我」なのだ。夫に逃げられ、新しい男との仲も引き裂かれ、彼女が「無我」になれるのは「金を使っているとき」だけなのだ。


 「好き」の結果、たどりつく世界は、たしかにおもしろくはある。山中瑶子は脚本を書き、映画を撮っているとき、たしかに「好き」なことをしているのだと思う。だから、その「無我」の充実感がスクリーンにあふれている。河合優実は、演技をしているときが「無我」なのだろう。だが、これは「頭」で整理した感想であって、無意識に書いてしまう感想ではない。「反感」の方がはるかに強い。
 私は「無我」を見るのが、ほんとうに大好きである。
 たとえば、私がいちばん好きな「木靴の樹」には、ミネクの両親が、ミネクのノートを開き、学校で習って書いた「L」を見ながら、「これはエルという字だ」という。そのとき、父親は字を読んでいることを忘れ、「無我」になって、ミネクになってノートにエルの字を書き続けている。ああ、ノートに「L」を書きたい、と私は思う。
 そういう瞬間が、「ナミビアの砂漠」を見ているとき、私には訪れない。「ぼくのお日さま」でも「リトル・ダンサー」にも、そういう瞬間はある。ビリーの父が、スト破りをする瞬間、あるいはビリーの合格を知って、道を書けていくシーン、仲間に自慢しに行くシーンは、私自身がバスに乗っているし、道を走っている。

 カンヌの「批評家」がどういう評価をしたのか、私は知らない。「評判」をあおっている日本の批評家(?)の意見も、私は調べたわけではない。ただ、二、三、ネットで見かけた記事(動画)では、彼らは「登場人物が好き」とは言っていなかった。あのシーンを自分でもやってみたいと言っていなかった。私は、そういう批評は嫌い。「マトリックス」を見たあとは、弾丸を身を反らして避けるシーンをしてみたり、やくざ映画を見たあとは肩をいからして映画館を出るという人の「行為」(肉体の変化)が好き。
 「頭」では、私は何かを好きになれない。

 「好き」の補足。
 私は和辻哲郎の文章が好きである。何度も書いたことだが「鎖国」には、世界一周をしてきた船がスペイン沖でスペインの船と出合う。そして、そのとき航海日誌をつけていた男が「日付が一日違う」ということに気がつく。この文章を読むとき、私は、和辻なのか、航海日誌をつけていた男なのか、それとも航海日誌をつけていた男に「きょうは○日だ」と告げた男になっているのかわからない。ただ「あ、日付変更線は、この発見があったからできたのだ」と思う。そして、そう思ったのは、私なのか、和辻なのか、あるいは航海日誌をつけていた男なのかもわからない。人間の区別がなくなる。全員が「無我」になる。そして「事実」が「真実」になる。そういう瞬間へ導いてくれることばが、私は好きである。

 

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ネタばれ、その2

2024-08-03 21:55:06 | 考える日記

 映画、あるいは芝居において、監督+出演者と観客とは、どう違うのか。何が違うのか。
 いちばんの違いは、監督+出演者は「結末」を知っている。(ネタばれ、を承知である。)一方、観客は「結末」を知らない。
 しかし、「結末」を知らなくても、対外の場合は「予測」がつくし、こんな奇妙な例もある。男と女が恋に陥る。ふたりはほんとうは兄弟なのだが、幼いときに生き別れになっていて、それを知らない。しかし、観客は、それを知っている。そして、ふたりはいつ自分たちが兄弟であると知るのだろう、とはらはらしながら見守るということもある。
 で、ここで問題。
 兄弟であることを知らない男女という設定でも、役者は(そして監督は)脚本を読んでその事実を知っている。だから、ほんとうに大事なのは、役者や監督が「結末」を知っているにもかかわらず、まるで知らない、初めての「できごと」を体験しているという具合に演じ、演出しなければならないということである。
 いい映画、いい芝居というのは、それが演じられる瞬間において、それを演じる役者(演出する監督)が「結末を知らない」と感じさせるものなのだ。観客は、すべてを知っている。しかし、役者、監督は何も知らない。その「結末」がどうなるか知らない(いましか存在しない)と感じさせなければならない。
 観客が「結末」を知っているのだけれど、もしかしたら、それとは違う「結末」があらわれるかもしれないと感じさせる、あるいは「結末」を忘れさせる演技、シーンが、いちばんいい演技であり、シーンなのだ。観客の知っている「結末」を忘れさせてしまうような「現在」を噴出させる演技、芝居がいい演技、いいシーンというものなのだ。
 こういうことは、非常にむずかしい。だからこそ、ある何人かの監督は、脚本なしに、即興であるシーンを撮ることがある。何が起きるか、だれもわからない。その瞬間、その「いま」がとてもリアルになるからだ。

 ちまたでよく言われている「ネタばれ禁止」問題というのは、結局のところ、役者が下手くそになった(魅力的ではなくなった)、監督が下手くそになったという「証拠」にすぎない。
 また観客の多くが、役者の演技を見なくなったという「証拠」にすぎない。
 だからなのだと思うが、いわゆる「完璧な脚本」の映画が、ただ、それだけでいい映画として評価される傾向が生まれてきている。そんなものは、映画にせずに、ただ「脚本」として発表すればいいのではないのか。映画である以上、あるいは芝居である以上「脚本のでき具合、結末」を忘れさせる充実した「いま」が必要なのである。
 役者や監督に「ネタばれ」を叩き壊してみせる「肉体」の力がなくなったからこそ、「ネタばれ禁止」などということが言われるのだろう。

 具体例なしで書いてきたので、わかりにくいかもしれない。最後に、いい役者の具体例を書いておこう。「さゆり」という映画。役所広司が、たしか足の悪い男を演じていた。彼は、もてない。しかし、渡辺謙に近づきたい女がいて、役所を出汁につかおうとする。ちょっかいを出す。それを役所は、女が自分に気があると勘違いする。そして、その女にとても親切にする。つまり、すこし恋仲の男が見せるようなコビをふる。そのシーンを見た瞬間、ほんとうに役所が振られるかどうか知らないはずなのに、私は「おいおい、役所、お前は振られるんだぞ。出汁につかわれてるんだぞ。脚本を読んでいないのか」と、笑いだしてしまった。役所は、「パーフェクトデイズ」でも、おもしろかった。トイレ掃除のとき、三目並べの紙をみつける。いったん、それを捨てる。しかし、もういちどそれを最初にあった壁の隙間に戻す。それがどうなるか知っているはずなのに、まるで何も知らない。ただ、もしかしたら誰かが三目並べのつづきを書き込むかもしれないと、ふっと予想する感じで肉体が動く。それが、とてもよかった。きっと三目並べをはじめた誰かが書く。役所が期待してるとわかるから。一度もスクリーンに登場しない人間の感じている「見なくても(あわなくても)わかる」という意識の動きさえ引き出して見せる演技だった。 

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ネタばれ

2024-07-29 18:13:14 | 考える日記

 「ネタばれ」ということばは、私は、どうにも好きになれない。何か「下品」な響きがある。その「ネタばれ」について、どう思うか、とある映画ファンから聞かれた。私は、最近は映画を見ていないので、映画について語るのはむずかしいのだが。
 私は、いわゆる「ネタばれ」というものを気にしたことがない。
 映画の結末を言わないでくれ、というのだが、結末がわかっていると何か不都合なことがあるのだろうか。
 映画にかぎらないが、多くの芸術・芸能は、未知の「結末」を知るために見たり、聞いたりするものではないだろう。多くの場合は「結末」を知っていて、その上で見たり、聞いたりする。これはギリシャ悲劇にはじまり、シェークスピア、近松も同じ。歌舞伎も同じだろう。「忠臣蔵」のストーリーを知らずに「忠臣蔵」を題材にした歌舞伎を見に行った江戸時代の人間なんて、いたんだろうか。知っているからこそ、見に行くのである。「映画」だけ、「結末」がわかっているとおもしろくない、ということはありえない。
 私は音楽ファンではないが、コンサートを聞きにいくとき、「予習」としてCDを聞く人もいるだろう。バレエも同じ。ジャズも同じ。ロックコンサートだって、みんなと一緒に歌うために、家で練習する人だっているだろう。みんな、それが何であるか、あることがどう展開するか知っていて、その場へ行く。
 どんなものでも「結末」というか、ストーリー(音楽ならば、旋律か)は同じだが、その「表現方法」が違う。その違いを味わうために見たり聞いたりするのだろう。「結末/展開」がはっきりわかっていた方が、その到達点へ向けて、出演者が(指揮者が、監督が)どんな工夫をしているか、それを見たり聞いたりするのがおもしろいのである。
 こういう言い方は好きではないが、「ネタばれ」はルール違反だとか何とか言うひとは、映画にかぎらず、楽しみ方を知らないのだろう。映画会社の「宣伝」に、頭の動きをにぶらされた人間なのかもしれない。「ストーリー」以外の「情報」を味わう能力を奪われた人間なのかもしれない。
 「ネタばれ」はルール違反と言いながら、映画会社の宣伝を受け売りしている「批評家」めいた人間が、私は、好きになれない。そうした強欲な宣伝マンに比べると、いわゆるミーハーの方が映画をよく知っている。よく見ている。
 何年か前、私は永島慎司(だったかな?)の漫画を原作にした映画を見に行ったことがある。映画館に到着するとロビーは、若い女性でいっぱい。彼女たちが、原作の漫画を知っているはずがない。なぜ?と思ったら。主演が、嵐の二宮なんとかが主役なのだった。彼が見たくて見に来ている。いいなあ。映画は、そういうものである。(芝居も、クラシックコンサートも、何もかも)。知っているものの、それでも知らない何かを見つけるために、見る、聞く。「私は、きょう、これを新しく見つけた」というために、見たり聞いたりする。いや、そんな面倒なことはしなくて、ただ「二宮、かっこいい、大好き」という自分の気持ちを確認するために見る、聞く。
 そのさらに昔、オードリー・ヘップバーンの「暗くなるまで待って」という映画。劇場の灯が全部消される。真っ暗になる。しかし、ある瞬間、ぱっとスクリーンが明るくなり、「キャー」という悲鳴が響きわたる。その悲鳴が大好きで、何度も何度も「暗くなるまで待って」を見たという男がいた。当時は入れ替え制ではなかったから、朝から晩まで、映画館にいる。ずーっと映画を見続けるのではなく、「キャーッ」という悲鳴が聞こえることを見計らって、劇場に入るのである。この楽しみは「ネタばれ」あっての楽しみである。私は意地悪な人間だから、こういうときは「ネタばれ」しない。知らないあなたは、映画ファンではない。そういう人には、私が書いた「楽しみ」がわかるはずがない。
 これは、映画や芸術だけではない。いまパリでオリンピックが開かれている。私は関心がないからテレビを見ないが、好きなひとはテレビを見、新聞を読み、さらにはネットで「記録」を検索して見るだろう。「結果」は知っている。けれど、見る。さらには、その「感想」を誰かに言ったりもする。
 小説も、詩も、哲学も同じ。すでに読んだことがあるものを、繰り返し読む。繰り返し読むことができるものだけが、おもしろい。「ネタばれ」してもしても、それでもなおかつ語りたいことがあるというものが、おもしろい。「ネタばれ」したらおもしろくなくなるものなど、最初からおもしろくないものなのだ。

 

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「資源」ということば(読売新聞の「書き方」、あるいは「罠」)

2024-06-08 21:08:00 | 考える日記

 最近、読売新聞でつづけて「資源」ということばに出合った。いずれも「安保問題」に関してのアメリカ人の発言である。とても奇妙なつかい方をしている。
 ひとつは2024年6月6日の、欧州各国がインド太平洋で「安保を強化している」というもの。アジア安保会議に出席した米調査研究期間ジャーマン・マーシャル財団の中国専門家、ボニー・グレーザー。
 南シナ海、台湾海峡で欧州の艦艇が活動しているのは「(この地域の)安定維持に欧州が貢献する意志があるという中国へのシグナルになっている」と語った上で、こう言っている。

もし米国がウクライナ支援や欧州の安全保障から手を引けば、欧州がインド太平洋に割ける資源は限られ、関与は薄まるだろう。

 もうひとつは、6月8日の記事。元国防次官補代理、エルブリッジ・コルビー。「中国の侵略 今すぐ備えよ」という見出しの記事のなかで、台湾が「アメリカがウクライナ支援を継続すべきだ」と訴えていることに関しての発言である。

 台湾は可能な限り、武装する必要がある。米国の資源には限りがあり、やるべきことを選ばなければならない。

 ふたりが語っている「資源」とは何か。ふつうは、資源というと石油とか水とかを思い浮かべるが、もちろんそうした意味ではない。
 「軍事資源」であり、それは言い換えると「軍備(艦船やミサイル)」であり、もっと言い換えると「軍事費(予算)」である。
 アメリカの予算(あるいはアメリカに同調している欧州の予算)には限りがある。アメリカが単独で世界の安全を守るわけにはいかない。それぞれの国がそれぞれの国を守るために軍事費を増やし(アメリカから軍備を購入し)、アメリカの「仮想敵国」と対応すべきである、と言っているのである。
 「資源」を先のふたりのアメリカ人が、英語で何と言っているのか、私には想像もつかないが、「資源」という同じことばで翻訳されているところをみると、たぶん同じことばだろう。同じ読売新聞の記事なのだから。そして、それがふたりに共有されていることばならば、そのことばはアメリカでは(政治家、軍事関係者のあいだでは)、認識の共有を示すことばでもあるだろう。台湾や日本は(また欧州も)、もっと軍事費を使え。アメリカの負担を軽くしろ、という認識が共有されているのである。

 さて、ここからである。
 ロシアのウクライナ侵攻。もちろん侵攻したロシアが悪いのだが、その背後には、アメリカの「思惑」が動いているのではないか。もし、ロシアとウクライナのあいだで紛争が起きたとき、欧州はどれだけ「軍事費」をつぎ込む決意があるか、それを見てみようとして「裏で」仕組んだ結果、紛争が起きたのではないのか。
 いま、アメリカではウクライナ支援が以前ほどではなくなっている。そして、欧州では武器の供与などが積極的になっている。よくわからないが、その武器にもアメリカの技術や部品がつかわれているだろう。アメリカはヨーロッパで金を稼ぎ、ヨーロッパに金をつぎ込ませている。
 同じことが、これから「台湾」をめぐって行われようとしている。アメリカの「資源」には限りがある。しかし、もし、日本や台湾がアメリカの「資源(軍備)」を購入するならば、その金はアメリカの「資源(予算の増額)」につながるだろう。軍需産業からの「税金」が増えるからね。同時に日本や台湾が軍備を増強した分、アメリカは軍備を減らすことができる。一石二鳥だ。

 ふたりのアメリカ人が「資源」ということばをつかったにしろ、それをそのまま「資源」と翻訳するのではなく、日常的に私たちがつかっていることばに翻訳して記事にすれば、ふたりの発言は違ったものに見えてくる。そうしないのは、読売新聞が、アメリカの戦略にそのまま加担するということである。

 軍隊というのは、基本的に「自分の国を守る」組織だろう。しかし、アメリカがやっているのは「自分の国を守る」ということではない。「警察」となって、世界を支配しようとしている。アメリカが金もうけしやすい国にするために、動いている。アメリカの金もうけに反対する国は許さない、取り締まるという「警察」として動いている。
 その「旗印」として「自由主義」とか「グローバル化」ということばがつかわれている。アメリカの言う「グローバル」は各国の独自性を認めた多様な社会ではなく、アメリカの資本主義によって支配された「単一」の世界である。アメリカの金もうけ各国が協力する世界である。
 アメリカが豊かになれば、その豊かさは世界に還元されるというひともいるかもしれない。安倍政権のときに流行した「トリクルダウン」だが、そんなものは実際には起きなかった。金持ちがより金持ちになり、貧乏人がより貧乏人になった。同じことが起きるだけである。
 実際、同じことが世界で起きたではないか。
 ロシア・ウクライナ戦争の影響で世界中のインフレが進んだ。物価が上がったのは、企業が「利潤」を上げようとしたためである。庶民の給料が物価にあわせてどれだけ上がろうが、その「増加分」は、企業がインフレによって確保する利益の「増加分」には及ばない。企業は企業の利益を確保した上で(露骨に言えば、増やした上で)、労働者の賃金を上げているにすぎない。トヨタが賃上げの結果、利益が激減した、というようなことは絶対に起きないのである。
 さらに軍事費にまわす「予算」が足りないというのなら、国民の税金を増やせ。賃金を上げれば必然的に「所得税」も上がる。それを軍事予算に回せばいいじゃないか。そういう「議論」も、きっとどこかで行われているはずである。トヨタは、たしか組合要求を上回る賃上げを行ったが、これなんかも、私からみると従業員のためというよりは、「国策」(軍事予算増額)に協力することで、政府からの「見返り」を期待してのことだろうなあ。
 だれも言わないが。
 ロシア・ウクライナ戦争にしろ、イスラエル・パレスチナ戦争にしろ、その支援によって、アメリカの軍需産業が大赤字になったというようなことは絶対に起きない。アメリカの軍需産業がウクライナ支援のために武器を無償で提供し、そのために大赤字になった、そして倒産した、というようなことは絶対に起きない。
 いま起きていることと同時に、絶対に起きないことにも目を向けて、ことばを動かしていく必要がある。そして、そのとき、ことばを常に自分の知っている範囲の意味でつかうことが大切なのだ。
 アメリカの軍事専門家が「米国の資源」ということばをつかうなら、「それは、たとえばアメリカの石油のことですか? 電力のことですか? あるいはアップルなどの新商品をつくりだす能力のことですか?」と尋ね、意味を明確にする必要がある。
 かつて、(いまでも)、日本では、何か新しい「概念」で国民をごまかすとき「カタカナ語」がつかわれたが、最近は手が込んできて「漢字熟語」、「既成のことば」もつかうようになってきたようだ。
 
 「新聞用語」(ジャーナリズム用語)には、気をつけよう。

 

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イタリアの青年と「論語」を読みながら

2024-04-04 21:24:51 | 考える日記

 いま、イタリアの青年といっしょに「論語」を読んでいる。中国語ではなく、日本語で。テキストは岩波文庫(金谷治訳注、和辻哲郎が「孔子」を書くときにつかったテキスト)。私は中国の歴史をまったく知らないので彼からいろいろ教えてもらうことが多い。日本語は私の方が彼よりも詳しいので、日本語教師としていっしょに読んでいるのだが、きょう、とてもおもしろいことを体験した。
 イタリアの青年は「論語」を読むくらいなのだから、ふつうの日本語はほとんど問題がない。会話は、博多弁(福岡弁)が得意で、私よりも上手だ。その彼が、つぎの文章でつまずいた。

子曰く、已んぬるかな。吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり。
先生がいわれた、「おしまいだなあ。わたしは美人を好むように徳を好む人を見たことがないよ。」

 イタリアの青年は「現代語訳」の「わたし」は孔子ですね、と念を押す。正しい。しかし、つづきを、「わたし(孔子)は色を好む」と読み、変だなあ、と混乱したのである。「論語」を読み進んで、孔子が好色ではないことを知っている。もう一度「わたしは孔子だよね」と問い返してくる。この「わたし(孔子)」は「わたしは/見たことがない」とつづくのだが、この主語と動詞の距離の遠さが誤読の原因だった。
 多くの外国語の場合、「わたしは見たことがない、美人を好むように徳を好む人を」というような「構文」になる。主語と動詞が密接である。
 外国語文体のような倒置法(の文体)を避けるときに、「美人を好むように徳を好む人を、わたしは見たことがないよ」と現代語訳すれば、誤解はされなくなる。しかし、直前に「おしまいだなあ(已んぬるかな)」という心情の吐露があるので、日本人の感覚では、直後に「わたしは」と言いたくなる。「おしまいだなあ」という気持ちが強いから、「わたしは」とつづいてしまう。これが、日本語の特徴なので、「おしまいだなあ。美人を好むように徳を好む人を、わたしは見たことがないよ。」にすると、なんというか「理屈っぽい」感じになる。「うるさいなあ」という感じになる。(このニュアンスは、なかなか説明しにくい)。「おしまいだなあ。わたしは、美人を好むように徳を好む人を見たことがないよ。」と主語の後に読点「、」を挿入する方法もあるが、これもちょっと「うるさい」。ことばのスピード感がなくなる。
 金谷は「日本語教材(テキスト)」を書いているわけではなく、日本人向けに書いているから、どうしてもこうなるのだが、この「日本語の問題点」を理解できるようになれば、私は彼に何も教えることがなくなるなあ、と後から思った。
 と、書いて、少し脱線するのだが。
 このことを書く気になったのは、実は、ほかに事情がある。私は、私が通っているスペイン語教室の先生だった人の短編を翻訳を試みているのだが、その過程で、これに類似したことにぶつかったのである。
  「わたしは見たことがない、美人を好むように徳を好む人を」のような文体に出会って、はた、と悩んだのである。英語で言えば「that」以下の文が長い。そして、長くなるに連れて、その長い部分が「装飾的」に感じられて、「美人を好むように徳を好む人を、わたしは見たことがないよ」とはしにくいのである。するならば「わたしは美人を好むように徳を好む人を見たことがないよ」にするしかないのだが、今度は、それがまたややこしい。このまま日本語で例を書けば、「その美人というのはクレオパトラか小野小町のような古典的な顔だちなのである」というような具合に長いのである。つまり、あえて書けば、「私は見たことがないよ、クレオパトラか小野小町のような古典的な顔だちの美人を好むように徳を好む人を」が原文のスタイルである。これを「私は、クレオパトラか小野小町のような古典的な顔だちの美人を好むように徳を好む人を、見たことがないよ」にすると、うーん、昔の大江健三郎みたいな入り組んだ文体になってしまう。そういう文体だと思って、なれてしまえば理解できるが、なれるまでに気が滅入るかもしれない。
 で。
 「おしまいだなあ(已んぬるかな)」と書いたら(言ったら)、どうしてもその直後に「わたしは」とつづけたくなるというような「文体論(感情論?)」は、日本語検定試験なんかでは問題になることもないし、文学や哲学の奥深くにまではいりこまないかぎり、まあ、どうでもいいことじゃないかと処理されてしまう問題なのだが、こういう問題があるから、実は文学、哲学はおもしろい。
 ちなみに。原文では、問題の部分は、「已矣乎、吾未見好徳如好色者也」。「やんぬるかな、わたしは見たことがないよ、徳を好む人を、まるで(徳を)美人を好むように(好む人を)」になる。主語(わたし)と動詞(見る/見たことがない)が直接結びつき、それから「徳を好む」という大事なことが語られ、追加して「美人を好むように」がつづく。エッセンスは「私は、見たことがないよ、徳を好む人を」であり、「美人を好むように」は「補足」である。これが「日本語」になると、順序がまるで逆だから、それはやっぱり日本語学習者には、たいへんな「つまずき」の原因になる。

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江戸時代は、いつまでか

2024-02-19 23:16:42 | 考える日記

 私は他人の「評判」を気にしないのだが、知人にすすめられて、ちらりと聞いたユーチューブでの「世界のおきく」の「評判」が、とんでもないものだった。
 何がひどいといって、発言者のだれもが「田舎の生活(昔の生活)」を知らない。
 この映画について、私はすでに「さぼる」ということばは江戸時代にない、と批判した。それに類似したことを批判しているのだが。
 たとえば、(1)あの時代、おきくが食べているご飯があんなに白いはずがない(2)糞尿をつめた樽(桶)を手に持って、糞尿をばらまくというのは変だ。せめて足で蹴るくらいだろう、というものがあった。
 (1)について言えば、モノクロ映画なので、ご飯がどれくらい白いかはわからない。他のものとの対比で白を強調して撮影したかもしれない。それに、彼らは江戸時代の白米を実際に見たことがあるのか。「あんなに白いはずがない」は想像でしかない。
 (2)は、糞尿のつまった樽(桶)に実際に接したことがない人のことばである。それはたしかに汚い。しかし、農民にとって、樽(桶)はとても貴重。足で蹴って、その弾みで樽(桶)が壊れたらどうなるのか。いまの暮らしから見て、どんなに汚い(不衛生)に見えたとしても、それだけで農民が糞尿の樽(桶)を手で触るはずがないと判断してはいけない。貴重な道具を、農民が足で蹴ったりするはずがない。けんかをするときでも、道具は大切にする。

 こんなことを書いてもだれも信じないかもしれないが。
 私の子供時代は、糞尿のつまった樽や桶を担いで、山の畑、山の田んぼまで運ぶというのは、子供もする仕事だった。服が汚れたり、体が汚れたりするが、それは洗えばきれいになる。服にしみついたものは、なかなかとれないが、だからこそ、そういうときは汚れてもいい服で仕事をする。だれもが、それくらいの「工夫」をする。
 糞尿で汚れるのも、泥で汚れるのも、同じ汚れである。友達が肥え壺に落ちたりしたら、みんな笑ってからかったりするが、仕事で汚れているときはからかったりはしない。両親や兄弟、あるいは子供たちがが汚れた体で野良仕事から帰って来たと、彼らに対して、家族の誰が「汚い」と言うだろうか。糞尿は汚いかもしれないが、仕事で、それにまみれるとき、それは汚くはない。生きるために、必要なことなのだ。
 そういうことは、「江戸時代」でおわりではなく、昭和、しかも戦後もそうだったのである。

 「世界のおきく」から離れてしまうが。
 私の生まれ故郷の集落は、みんな貧しかった。いまでこそ、どの家でも畳を敷いているが、私の子供時代は畳を敷くのは、葬式だとか結婚式だとか、特別なときだけであり、ふつうは「板の間」だった。畳が傷まないように、畳を積み上げておく台のようなものも、どの家にもあった。雪国なので、冬はさすがに板の間は寒い。どうするか。筵を敷くのである。その筵は、どうやってつくるか。機織り機のようなものがあって、それでつくる。これも、たいていは子供の仕事である。私もしたことがある。ついでいいえば、縄をなうのも、もちろん大人もするが、たいていは子供に割り振られる。みんなが手を動かして仕事をしていた。それは東京オリンピックのころまでは、どこでも当たり前だった。
 さらに。
 ドン・キホーテに、旅籠屋では、藁の上に毛布をかけてベッドを急ごしらえする描写があるが、薄い布団の下に藁を敷いてクッションにするということも、ごく日常的だった。藁だから、すぐにへたる。これを新しいものに取り替えると、日向の温かい匂いとやわらかい感触につつまれ、なんだか豊かになった気持ちになる。
 そういう時代が、つい先日まであったのだ。100年前のことではないのだ。「江戸時代」の生活は、東京オリンピックのころまでは、まだ日本の隅々に残っていたのだ。

 誰に言うべきことでもないのだが、ふと、書いておく気になった。

 

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池田佳隆って、知ってる?(読売新聞から見えてくること)

2024-01-08 21:02:50 | 考える日記

 自民党安倍派の裏金問題。池田佳隆が逮捕された。そこで私が思ったことは、ただひとつ。池田佳隆って、誰? なぜ、池田が逮捕された? 誰が情報を流した?
 池田佳隆は読売新聞(2024年1月8日)の情報によれば

日本青年会議所会頭などを経て12年衆院選愛知3区で初当選。21年衆院選は小選挙区で敗れたが比例復活し、4回目の当選を果たした。文部科学副大臣などを歴任した。

 政治に強い関心があれば「文部科学副大臣」で記憶している人がいるかもしれないが、ふつうは知らないだろう。そのとき、だれが文科相だった? ほら、言えないでしょ? だいたい小選挙区で敗れ、比例復活する人である。支援者だって「限度」があるのだろう。つまり、知らない人は投票しない、という感じの人なのだと思う。
 で、これからである。
 私は邪推が好きな人間というか、なんでも想像してしまう人間なのだが。
 この逮捕劇の裏には、たぶん、こう思う人間がいるのだ。つまり、

お前は下っぱ議員のくせして、金をネコババしすぎるぞ。

 だって、そうでしょ? 小選挙区で当選できない(支持者が少ない)人が、どうやってパーティー券を「ノルマ」以上に売りさばける? 誰が買う? きっとパーティー券を大量に買った人(買わされた人)がいる。そして、その人はパーティー券の売り上げがどういう風に動いているかを知っている。キックバックされることを知っている。そして、そのキックバックは、私の推定だが、きっとパーティー券を買った人へとさらに「還流」していくはずである。
 つまり。
 選挙のときの「買収費用」となって、返ってくる。
 みんな言ってるでしょ? 選挙には金がかかる。言いなおすと、買収しないと当選できない。
 きっと「買収」の金が少なかったのだ。だから、パーティー券を買った人は怒っている。もっと「還元」しろ。(もっと金をよこせ)。お前が当選できたのは、おれが支えてやったからだぞ。いろいろ手を回したからだぞ。お前なんか、お前だけの力では小選挙区では絶対当選できないんだぞ。キックバックされた金はネコババせず、みんなよこせ。

 ここで思い出すのが、統一教会。安倍と親密な関係にあった。
 統一教会が信者をだましてあつめた金が、どうつかわれたか私は知らないが、きっと「選挙対策」にもつかわれたはずだ。統一教会は、統一教会の力(組織力)で議員を当選させ、その議員を操るということを試みていた。きっと池田もその「標的」のひとりだろう。それは「文部科学副大臣」という肩書にもうかがうことができる。統一教会は、「教育」を通しての「洗脳」も狙っていた。

 パーティー券の売り上げのキックバックというのは、たぶん、他の派閥でもやっている。それなのに、なぜ安倍派が標的になっているのか。統一教会と関係があるのではないか。それは、今回の問題が表面化したときからあちこちでささやかれていた。でも、その糸口が見つからなかった。(私には、見つけられなかった。)
 今回、池田の「経歴」というか、過去の肩書を読売新聞で読んだとたん、私には以上のようなことがぱっと閃いたのである。
 これは、やっぱり、統一教会からの「反撃」なのである。
 誰もが知っている「大物議員」ならパーティー券の売り上げも多いかもしれない。したがってキックバックされる金額も多いかもしれない。しかし、私のような政治に疎い人間には、池田佳隆というような「下っぱ」の議員がそんなにたくさんパーティー券を売りさばけるとは思えない。安倍派のキックバック総額は5億円といわれる。池田が受け取った金額は4800万円。約1割弱。信じられないね、池田がそんなにたくさんのキックバックを受け取るほど「集金能力」があるとは。きっと「集金」を支える影のシステムがあったのだ。その「影のシステム」が、いま、自分たちが冷遇されていることに対して起こっている。反撃し始めたのだ。正義の名を借りて「情報」を流すことで。

 しかし、新聞はおもしろいね。いろんな情報が「無意識」に書かれている。その「無意識」を掘り起こすと、いろんなものが見えてくる。

 

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プラトン「饗宴」

2024-01-01 16:51:57 | 考える日記

プラトン「饗宴」(鈴木照雄訳)(プラトン全集5、岩波書店、1986年10月09日、第三刷発行)

 2024年の読み初めに「饗宴」を選んだ。そのなかに「中間」ということばが出てくる。「知と無知との中間」(75ページ)という具合である。さらにつづいて76ページには、こういう文章がある。

正しい思いなしとはいま言ったようなもの、つまり叡知と無知との中間にある

 ここから私は、和辻哲郎、林達夫、三木清、中井久夫という、私の大好きなひとたちの文章を思い起こすのである。
 「中間」としての「思いなし」。
 中井久夫は「シンクロ」ということばをつかう。林達夫は「想像力」、三木清は「構想力」、和辻哲郎は「統一力(統合力)」か、あるいは「直観」か。いいかげんな読者なので、はっきりとは覚えていないが、全体的な真理(叡知)とそうではないもの(無知)との間にあって、何かを感じ、それを動かす。その動いていく力を信じる。動いていく力を信じて、ことばを追いかけていく。そのとき、何かとシンクロする形で、一つのものが姿をあらわす。
 「思いなし」という表現が象徴的だが、それは「絶対的真実(真理)」ではないかもしれない。それでも、その「思いなし」がなければ、人間は生きていけない。何かを「正しい」と「思いなし」て「中間」を生きていく。

 こんなふうに「要約」してはいけないのかもしれないが、好きな本を(その著述家のことばを)読みながら、私は自分が何が「好き」なのかを探している。私の読み方は、もちろん「誤読」だろうけれど、その「誤読」を通して、好きな著述家のことばが少しずつ重なってくるのを感じるのは、とても楽しい。
 広いことばの世界の「中間」で、少しだけれど、「正しい」ものがどこにあるのか、その「方角」が見えてくるように感じられる。もちろん、それは錯覚で、結局、何もわからなかったなあと思いながら死んでいくのだろうけれど、ソクラテスではないが「無知」を自覚できて死ぬのが私の理想だ。
 まだまだ、「私は何かがわかっている(これからも何かがわかる)」と思ってしまう。そこから、抜け出すことは、できない。それでいいのかもしれないが。

 私の家は貧乏だった。小学校、中学校時代、私の家には、教科書以外の本は一冊もなかった。高校生のとき、岩波文庫の「ソクラテスの弁明」を買った。とてもうれしかった。からだも健康とはいえないし、目も悪い。残された時間で何冊、どれだけ本を読むことができるかわからないが、ともかく読みたい。
 読めば読むほど「中間」が広がり、どこへもたどり着けないのだけれど、でも読みたい。まだ私は生と死の「中間」にいる、とあらためて気がついた。

 

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デジタル化という罠

2023-12-18 20:00:49 | 考える日記

 パソコンがダウンした。電源を切ろうにも、マウスも反応しない。私はたまたま予備のパソコンをもっていたから対応できるが、予備のパソコンのないひとはどうするのだろうか。
 ウィルス対策のメーカーと話していてわかったのだが、パソコンの(ハードディスクの)寿命は4-5年くらいらしい。もちろん、こまめなメンテナンスをすれば、もっとのびるのだろうけれど。
 しかし、そんなことを熟知してパソコンを買うひとが何人いるだろうか。
 そう思ったとき、また、別の風景が見えてきた。
 私は年金生活者で、預金もない。こういう人間が、デジタル社会にどう対応すればいいのか。パソコンが動いているあいだはなんとか社会についていけるかもしれない。スマートフォンが動いているあいだは、やはりついていけるかもしれない。
 しかし、そういうものがいったん故障したら? 動かなくなったら?
 情報から完全に取り残されてしまう。「苦情」も、いまは電話ではなく、メール対応だ。だれに助けを求めるにも、デジタルをとおしてでしかつながらない。
 もし、それが不安なら。
 ここからだね、私がいいたいほんとうのことは。
 常にデジタル危機を「生きた」状態にしておかないといけない。しかも、デジタル情報はどんどん拡大していて、それに対応するためには「新しい機器」が必要である。私は「初代」のiPadをもっているが、それはもう目覚ましにつかっているだけだ。得たい情報は、「初代」では入手できない。アプリが更新されていて、そのアプリに「初代」は対応していない。だから、私は泣く泣く別のiPadを買ったが、これにしたっていつまで「最新アプリ」に対応できるかわからない。
 スマートフォンも同じだ。私は2年前、スペインへ旅行したが、旅行するためにアプリが必要だった。それは古いスマートフォンでは対応しない。しかたなく、新しいスマートフォンを買った。それも、いまでは「旧式」だ。
 つまり、デジタル情報社会を生きていくためには、実は、常に新しい機器を買わないといけない。
 これって、強欲な資本主義のひとつの形ではないのか。新しい製品を買わせ続けるための「方便」なのではないのか。
 なんにでも寿命はある。それは知っている。洗濯機だって冷蔵庫だって、いつかは故障する。しかし、デジタル機器ほどのスピードで「更新」を強要されるものはないだろう。
 いつだったか、老後(60歳以降)をそれなりに生活するためには、夫婦二人で2000万円の貯蓄が必要といわれたことがあったが、その2000万円に、この「デジタル機器の更新費」は含まれているか。きっと、想定されていないだろう。

 貧乏になって、初めて見えてくる「社会の罠」というものがある。そのひとつが、このデジタル機器の寿命(更新の必要性)だ。もし政府が本気で「デジタル化社会」の推進を考えているのなら(つまり、メーカーの言いなりになって、デジタル機器の売り上げで景気回復を狙っているのでないなら)、老人がどうやって「デジタル機器を更新するか」ということを明示しないといけない。
 今後、私が体験したようなことは、どんどん起きてくる。パソコンやスマートフォンはもっている。しかし、それが動かない。そうすると、故障したパソコンやスマートフォンをもっているひとは、情報を手に入れることができないし、情報の交換もできない。これは、考えてみれば、高齢者に「政府批判/政治批判」をさせないための、新しい方法なのだ。
 新しいデジタル機器を買えない老人は、政治に文句を言えない。「苦情はメールで受け付けています」と、ひとことで拒否されてしまう。そういう世の中が、すぐそこまで来ている。「デジタル格差」というのは、デジタル情報に対応できる「知識/知的能力」があるかどうかだけの問題ではなく、「経済能力」があるかどうかも含めているということを思い出さなければならない。

 

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和辻哲郎の「公平」(そして向田邦子)

2023-12-10 21:44:04 | 考える日記

 和辻哲郎『日本古代文化』の「初版序」におもしろいことが書いてある。和辻はこの本を書くまで日本の古代文化のことを研究してきたわけではない。それでも書かずにはいられなかった。どういう立場で、書くか。

自分は、一個の「人間」として最も公平だと思われる立場に立って、自分の眼をもって材料に向かった。

 この文章をどう読むかはひとによって違うだろうが、私は「公平」ということばにつきうごかされた。一個の人間として公平とはどういうことか。古代文化の研究をしている人間と、それをしてこなかった人間は「学問的」には「公平」ではない。前者は「知識」をもっている。後者は「知識」をもっていない。しかし、同じ人間だから「公平」に「眼」をもっている。その「公平である眼」をたよりに、つまり「知識」にたよらずに、古代文化に向き合った、というのである。
 人間はだれでも眼をもっている。これは「公平」である。その「公平」をたよりに、和辻は考える。この眼を肉体と言い換えると、私がいつも書いていることに通じるのだが、あ、そうか、私は知らないうち和辻に影響されてそう考えるようになっていたのだと、あらためて気がつくのである。

 和辻が「序」で書いた「眼」は「目」という表記にかわって、次のような強く、美しい文章になる。古代の日本人が漢に渡り、その生活を見て日本に戻ってくる。そのときの日本人を想像して、和辻は、こう書いている。

自ら海を渡って自らの目をもって漢人の生活を見て来たものは、いかに多く新しい知識を、いかに強く新しい情熱を、得て来たことであろう。

 自分の「目で見る」、すると「情熱」が生まれる。目から情熱への変化。いったんは「知識」と書きながら、「情熱」と書き直さずにはいられない和辻。
 私が和辻の文章が好きなのは、そこに「知識」が書かれているからではなく「情熱」が書かれているからだとあらためて思う。たとえば『ニイチェ研究』を読む、そうするとそこにはニイチェに関することが書かれている。そこから「知識」を得ることができる。でも、そこで得る「知識」を頼りにするくらいなら、ニイチェの本を直接読んだ方が早いだろう。しかし、和辻を読んでしまう。それは、そこに和辻のニイチェへの「情熱」が書かれているからだ。私はいつでも「知識」ではなく、「情熱」を読んでいるのだと思う。

 脱線するが。

 私はいまイタリアの青年と一緒に向田邦子の『父の詫び状』を読んでいる。そのなかの「隣の神様」に、こんな一行がある。

私は四十年にわたって、欠点の多い父の姿を娘の目で眺めてきた。

 ここにも「目」がある。向田は「公平な目」とは書かずに「娘の目」と書いているのだが、私はやっぱり「一個の人間として公平な目」だと思う。このとき「公平」とは「客観的」といういう意味ではない。人間ならだれでも肉親を愛してしまう。そういう「必然」を「公平」と、私は呼びたいのである。
 そして人間の「必然」というのは「愛情」のことなのだ。愛してしまう、ということなのだ。

 ここから強引にひるがえって言えば。
 和辻は「日本の古代文化」を愛してしまったのだ。だから本を書かずにいられなかったのだ。「愛」だから、他人から見ればときどき「ばかげている(間違っている)」。でも、だからこそ(つまり他人から批判されるのはあたりまえの部分があるからこそ)、そこには他人にはどうすることもできない「一個の人間」としての「正しさ」がある。

 

 


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和辻哲郎の「正直」

2023-12-08 22:59:26 | 考える日記

 私は和辻哲郎の文章が好きだ。なぜ、好きか。『桂離宮』のなかで、和辻はこう釈明している。さまざまなことを和辻は書いているが、

専門家の所説に基づいたところもあるが、主としてわたくしの現状から受けた印象によったのであって、歴史的に確証があったわけではない。

 林達夫なら絶対に書かないことを和辻は書いていることになる。
 「確証がない」ことを書く、というのは、著述家にとっては間違ったことかもしれない。しかし、「印象」には、「歴史的事実」とは別の真実があるだろう。生きている人間の真実、そのひとが生きてきた仮定で身につけてきた、そのひとの真実(事実)である。和辻は、客観的な歴史よりも、彼自身の歴史(個人の歴史)を優先する。そこから「歴史」へ近づいていく。和辻自身の「いのち」をひきずって、「歴史」へ近づいていく。
 「印象」は「推測(憶測)」に、つまり、思考へと変化する。その変化は「自ずから」起きるのである。そして、和辻は、この「自ずから」に対して正直である。
 そこに和辻の「自然」が滲んでいる。
 この「自然」を「道」と言い換えていいかどうかわからないが、私は言い換えたいと思っている。
 和辻のことばが「自ずからの力」で動いた瞬間、ことばが輝きだす。「ここが好き」というときの「好き」の感情に、嘘というものがいっさいまじっていない。だから「道」と言い換えたくもなるのである。

 『桂離宮』で和辻が書いていることは、「歴史(建築の過程)」的視点から見ると間違っているのかもしれない。しかし、そこに書かれている「印象」はとても鮮やかで説得力がある。「歴史的視点」からもおなじような「美の定義」に到達できるかもしれないが、それは無意識に動いてしまう「印象」の強さを持ちうるかどうかわからない。
 「間違い」があっても、私はかまわないと思う。私は「歴史家」ではないから、そういうことは気にしない。「間違う」ことでしかたどりつけない「真実」というものがあっても、私はかまわないと思っている。「正直」なら、それでいいと思っている。

 

 

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