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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(122 )

2010-04-07 11:33:53 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇の詩は「誤読」を誘う。とても「誤読」したくなる。そして、「誤読」したあと、いや、これは「誤読」ではないかもしれない--とさらに、「誤読」したくなる。よするに、西脇の書いたときの思いとは関係なしに、私の好き勝手に読みたくなる。好き勝手に読んで、ああ、西脇はおもしろい、といいたくなる。
 「阿修羅王のために」の後半。

土の落ちかかつた土壁の穴から
庭が曲つて見える
梅と桜と桃が同時に咲いていた
この古い都を出てみると
黒い畑の中に白い光りのこぶしの木が
一本立つている
薬師寺のお祭に
諸国から集まつた数百の高僧にとならんで
管長の新しい説教をきいた

 「庭が曲つて見える」。うーん。なぜ、西脇はこんなに「曲がる」が好き? でも、この「曲がつて見える」の「曲が」るって、なんだろう。木の枝が曲がるならわかるが、庭が曲がる? 穴をとおしてだから、光の屈折でゆがんで? 違うね。これは、西脇独特の用語なのだ。まっすぐ(常識)を破壊する形で、ということだ。常識(流通概念)を破壊して存在するものに、西脇は詩を感じている。
 「土の落ちかかつた土壁」そのものが、すでに「破壊」に接している。「破壊」にはさびしい美がある。それはやはり、常識から逸脱する(常識を破壊する)ものである。

 こういう感覚は、どことなく、伝統的な日本の感性とも通い合う。俳句の美にも通じるものを感じる。
 そこで……。

管長の新しい説教をきいた

 この「主語」はなんだろう。「われわれ」だろうか。(引用部分にはないが、この詩には「われわれ」ということばがある。)西脇は、知人たちと奈良へ来ている。「薬師寺のお祭」に来ている。だから、「われわれ」が、管長の新しい説教をきいた。そう読むのが常識なのかもしれない。
 けれども、私は、瞬間的に「われわれ」ちは違う「主語」を思ってしまった。「こぶしの木」、畑のなかの一本のこぶしの木が、管長の新しい説教をきいた。そう思ってしまった。そして、あ、俳句だ、と思った。
 もちろん、こぶしを「きいた」の「主語」にするとき、そのこぶしには「私」が投影されている。「私」はこぶしになって、説教をきいている。そこには、実は、こぶしも、高僧も、私も、区別はない。それが俳句である。

 なぜ、そんなふうに感じたのか。
 西脇は「破壊」を美として書いているが、その破壊は単なる破壊ではない。それは破壊であると同時に、そこから新しい生成がはじまっている。破壊と生成は同じものである。矛盾したものが、あるものの、一瞬の形のなかに(運動のなかに)存在する。それは俳句の遠心・求心と同じ運動である。

 西脇は「西欧」と触れ合って詩を動かしたが、そこには東洋もどっしりと腰を降ろしている。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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誰も書かなかった西脇順三郎(121 )

2010-04-01 12:13:06 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇は時空間を自在に旅する。「プレリュード」に、その特徴がくっきりと出ている。

伊豆の岩に仙人草が咲いていた時分は
九月の初めで
人間の没落もまだ早い頃であつた。
十月の間はまだ望みもなく
すべて見当がつかなかつた。
青黒い蜜柑のなる林の中で
老人とばくちうちの話をして
日の暮れるのを待つていた。
(略)
十一月にはいつてから毎晩ボオドレエルの
夢を見たが奇蹟の予言とは思えなかつた
湖水を渡つて西下し始めた。
夕暮の空は野ばらに染まつた。
われわれはまだ何物かに近づいて行つた
のだということを知らなかつた。
ここでまた六月に少しもどりたいのだ
シモツケソウとウツボグサが岩の中から
ねじれ出ている川合村見た
染物やの男神愛染が坐つている
藍壺の存在もアポカリップスであつた
のだと思うと悲しみもますものだ。

 九月、十月、十一月と「時」が「常識的」に流れる。その流れにしたがって、風景が動く。時間と空間が一致している。
 そのあと、唐突に、

ここでまた六月に少しもどりたいのだ

 と時間が逆流する。そして、それにあわせて、突然「川合村」という固有名詞と「場」が出てくる。
 なぜ、ことばがこんなふうに動くのか。
 それは私にはわからないのだが、この1行に、私はなぜか安心した。ほっとした。そうだったのか、とふいに、こころのなかにあったわだかまりが消えた。
 これに先立つ行。さーっと読んでしまうが、何かしらひっかかるものがある。

湖水を渡つて西下し始めた。
夕暮の空は野ばらに染まつた。

 湖水を渡った太陽が、湖水のの向こう、西の方に落ち始める。そのとき夕暮れは「野ばら」の色に染まった--という風に風景を思い描くのだが、これって変じゃない? 十一月に野ばら? 花はもちろん咲いていないし、葉っぱだって、もう落ちてしまっていない? 秋の夕暮れを、野ばらにたとえるのは奇妙じゃない? 
 「比喩」というのは、「いま」「ここ」にないものをもってきて、「いま」「ここ」を強く印象づけるものだから、十一月に存在しない野ばらをもってきても不思議はないといえば不思議はないけれど、そんなことをすると、「いま」「ここ」にいるという存在の根拠のようなものが崩れてしまわないだろうか。秋の夕暮れは、秋の花の比喩でないと、秋という印象が壊れてしまわないだろうか。
 --というのは、たぶん「学校教科書」の「詩学」。
 西脇は、そんなふうには考えないのだ。

 壊れてしまっていいのだ。
 安直な(?)連想を破壊し、ありえないことばの運動、それが引き起こす乱調が、西脇の「詩学」だからである。
 破壊にこそ意識を向けさせるために、ここでは、それが破壊であるとわかるように「六月」がひっぱりだされてきている。「野ばら」も「六月」も西脇の、「わざと」書いたことばなのだ。

 なぜ、破壊するか。
 西脇のことばを借用すれば「何物かに近づいて行」くためである。教科書のことばの運動ではたどりつけないものに近づくためである。破壊の瞬間、その破壊のすきまから「何物」かが見える。
 で、その「何物か」とは何か。
 わからない。私には、わからないけれど、次の行が大好きだ。

染物やの男神愛染が坐つている
藍壺の存在もアポカリップスであつた

 「あいぞめ」を中心とする音のゆらぎ。「あいつぼ」と出会って「アポカリップス」という音が「存在」させられる。「あ」の響き、「ざじずぜぞ」、「あいつぼ」「アポカリップス」。
 何かが確実に「解体」した、という印象がある。その「解体」を経て、ことばは、再び十一月へもどる。

十一月になつてから前兆がますます
はげしくなつて足なみも乱れていた。

 乱れても存在してしまう「ことば」。乱れるから「自在」という感じがする。「自由」がそこに噴出してくる。



西脇順三郎絵画的旅
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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誰も書かなかった西脇順三郎(120 )

2010-03-25 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「はるののげし」という作品は、西脇にとって重要な作品かどうかわからない--というか、私は、何だろう、この作品は、と思ってしまうのだが、そう思いながらも、最後の3行、いやおしまいの1行が非常に気に入っている。

よく
女の人がみる夢に
出てくるような
うす雪のかかる
坂道の石垣に
春ののげしが
金色の髪をくしけずつている。
これは危険なめぐり合いだ。
「まだあのひとと一緒ですか」
「まだ手紙が来ませんか」
「そうですかァ」

 「よく/女の人がみる夢に/出てくるような」というのは、なんともとぼけた感じがする。女といろいろ夢の話をしてきたことが、かるく語られている。そのよく話しあう女と出会った。あるいはのげしを見て、その女と出会ったような気持ちになった。
 女はいろいろ話しかけてくる。具体的なことはなにも書かれていない。会話は3行あるのだが、女・男・女というやりとりではなく、女の言ったことばが断片的に並べられている。西脇は、ここでは会話の内容(意味)を重視していない。
 では、何を書きたかったのか。
 ことばの調子、感じである。

「そうですかァ」

 あきらめか、未練か。よくわからないが(というのは、非常によくわかるが、という意味の反語だが)、女の「肉体」の「感じ」がそのままことばになっている。女がそこにいる、ということが実感できる。
 語尾の調子など、説明せずに「ァ」とだけ書いておしまい。この切り上げかたが、さっぱりしている。




最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社

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誰も書かなかった西脇順三郎(120 )

2010-03-23 12:14:05 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「茶色の旅行」は百人一首のパロディのようにして始まる。

地平線に旅人の坊主が
ふんどしをほすしろたえの
のどかな日にも
無限な女を追うさびしさに
宿をたち出てみれば
いずこも秋の日の
夕暮は茶色だつた。

 「しろたえのふんどしをほす」だと悪趣味だが、「ふんどしをほすしろたえの」には笑いがある。前者は「しろたえの……」というリズムが解体されていないから悪趣味なのだ。リズムそのものを解体して、そこに「しろたえの」というオリジナルを追加するとき、音楽がいきいきと動く。記憶が動く。音の不思議さは、いまがすべて「過去」になっていくことだが、西脇は、その「音楽」の法則を逆手にとっている。逆流する「音楽」がある。それが楽しい。
 その楽しさに飲み込まれて忘れてしまいそうになるが、「無限な女を追うさびしさ」というのは、西脇特有の言い回しだと思う。この表現のなかにも「ふんどしをほすしろたえの」と同じリズム構造がある、と私は思う。
 無限の女を追うことが、「私(にしわき)」の「さびしさな」のではなく、元の形にもどせば、女そのものが「さびしさ」であり、それを追う旅は「無限」なのだ。--とはいうものの、そのふたつは、切り離せないのだけれど。
 この詩のなかで、西脇は、陶器に絵つけをしたり、粘土をこねまわしたりしている。いろんな絵を描き、いろんな形のものをつくった。

そんなことをトツトリの宿で
イナバの女と酒をのみながら
心配をしたのだ。
この女にも平行線のように
永遠に於いて会うのだ。
女の心には紫のすみれを灰色に変化させる
染物やの術がある

 西脇にとって、女は「永遠」である。つまり、普遍である。男が常に動くのに対して、女は「永遠」にいて、男の運動を照らしだす。導く。西脇の願望は、「永遠」に、つまり女にたどりつくことである。女に「なる」ことである。男で「ある」、女で「ある」という状態ではなく、「なる」という運動--それが西脇の願望だ。
 そして、そういう運動のために、リズムの乱調が必要なのだ。「いま」を支配しているリズムを壊すことが。

 女とは何か。自然の無常である。それは男(ある)にとっては、永遠にたどりつけない。「なる」をめざしてみても、最後は「平行線」に出会うだけである。それは「さびしさ」に出会うことである。それは出会ってみなければ生じない「さびしさ」である。
 無限な女を追うことがさびしいのではない。追わなければさびしさは生まれない。運動としてのさびしさ。それは、いつでも西脇を待っている女なのである。




ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
文芸文庫

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誰も書かなかった西脇順三郎(119 )

2010-03-22 22:40:36 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「あかざ」は、自然の無常が好き、なぜなら詩は自然の無常と向き合ったとき、「私」のなかに生まれるものだから--という西脇の詩学が鮮明にでた作品である。詩の最初の方に、

だが考える人間の話をするのは
恥かしいのだ。

 という行が出てくるが、この「恥かしい」の定義はむずかしい。だから、そのことについては、書くことを保留しておく。
 後半の、ことばの動きが、私はとても好きだ。

翌朝はタイフーンが去つたひとりで山へ
あがつて青いドングリの実を摘んだ。
もう人間の話はやりたくない
でも話さなければならない
スリッパをはいて話をした。
紺色に晴れた尖つた山々のうねり
の下でこのテラコタの大人は笑つた
「ソバでも食べてお帰りなさい。また
忘れなければ花梨を送りますぜ」 

 「テラコタ」は「素焼き」のことだろうか。「素焼き」のように素朴な、いわば「自然の無常」と共鳴するひと--という思いが、西脇のなかにあるのだろうか。
 というようなことは、「意味」的には重要かもしれないけれど、これも保留。というか、書くのは省略。
 この後半の部分では、「スリッパをはいて話をした。」の1行が、とても好きだ。無意味である。「もう人間の話はやりたくない/でも話さなければならない」という重苦しさを完全に蹴っ飛ばしてしまっている。
 「スリッパ」という弾ける音が軽くて、気持ちがいい。
 そして思うのだ。最初に「保留」したこと、「恥かしい」のことを。
 「スリッパ」の軽い音、そして軽い存在(なくても、まあ、こまらない、少なくとも死ぬことはないなあ)--これが「恥かしさ」の対極にあるものだと。
 「考える人間の話をするのは/恥ずかしいのだ。」また、話したくない人間のことを話さなければならないのも「恥かしい」。だから、その話の内容は書かない。けれど、「スリッパ」をはいて話したことは「恥かし」くはない。「スリッパ」のことは書いても「恥かし」くない。だから、書いている。
 無意味と軽さ。話(考え?)をつなげてひとつのものにするのではなく、つながっていくものを叩ききることば、その音、その無意味さ--そこに、人間の「すくい」のようなものがある。
 最後の2行。
 西脇が何を話したか、そんなこととは関係がない。話(講演?)は話(講演)。終われば、話したことばなど捨て去って、ソバを食べる。その断絶のあざやかさ。それに結びつく「スリッパ」である。





評伝 西脇順三郎
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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誰も書かなかった西脇順三郎(118 )

2010-03-19 09:47:23 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 あるところで、「March Madness 」ということばが話題になっていた。音が美しい、と書かれていた。えっ? この音のどこが? 私はもともと耳がよくない(並外れた音痴でドレミも正確には歌えない)ので、私の耳の「美意識」がおかしいのかもしれないが、「March Madness 」ということばには共通の音がM しかない。他の音と響きあわない。私は、そこに「音楽」を感じることができない。
 私が「音楽」を感じ、音が美しいと感じるのは、たとえば西脇順三郎の「しゅんらん」である。タイトルも美しいが、書き出しがとてもすばらしい。

二月中頃雪が降っていた。

 これだけで、私は夢中になる。「にがつなかごろゆきがふっていた」。ひとそれぞれ発音の癖があって、同じ文字で書かれる音でもちがったふうに響くだろうけれど、私には、この行の「鼻濁音(が・ご)」と「な行(に・な)」の響きあいが美しい。私は音読をしないが、無意識に発声器官は動く。そのときの、快感が、とても好きである。
 鼻濁音から鼻濁音へかけてのリズムもとても好きだ。に「が」つなか「ご」ろゆき「が」。3音節ずつ、はさまっている。
 こんな操作を西脇が意識的にしているとは思えない。わざわざ指を折ってリズムをそろえているとは思えないのだが、とても気持ちがいい。きっと自然に身についたものなのだと思う。
 つづきを読むと、もっと美しい音が出てくる。

二月中頃雪が降っていた。
ヒエの麓の高野(たかの)という里の
奥の松林へシュンランを取りに出かけた
仁和寺の昔の坊主などは考えないことだ。
途中知合の百姓の家を訪ねた。
そのカマドの火がいかに麗しいか
また荒神のために釜ぶたの上に
毎週一度飾られる植物の変化を
よくみておくべきであるから。

 「ヒエの麓の……」ではじまる「の」の繰り返し(西脇は「の」という音が好きである。)。「仁和寺の」の「の」を含めた「な行」の揺れ。そして、

そのカマドの火がいかに麗しいか

 この行から、音が「か」の響きあいにかわる。その「か」まどのひ「が」い「か」にうるわしい「か」。次の行にも、その次の行にも「か」がゆれる。そして、

よくみておくべきであるから。

 あ、この「から」の「か」。「か」からはじまる「から」という音の明るい解放感。いいなあ。うれしくて、モーツァルトを聴いたときのように、笑いだしてしまうなあ。
 まあ、「意味」もあるにはあるだろうけれど、西脇はきっと、この「から」という音を書きたくて、この詩を書いたのだと私は直感する。(別なことばで言えば、「誤読」する。)
 その「か」と明るい響きは、次のようにひきつがれ、転調する。

それで読者は「シュンランはあつたか」ときく
だろう「ありました」という

 「あつたか」の「か」。その乱暴な(?)響きと「ありました」の明るい響き。これがもし、

それで読者は「シュンランはありましたか」ときく
だろう「あつた」という

であったなら、「音楽」はまったく違ってくる。暗くなる。「あつたか」「ありました」と「ありましたか」「あつた」では、「意味」は同じでも「音楽」が完全に別種である。。「あつたか」「ありました」という能天気(?)なというか、解放感に満ちた「音楽」のあとなので、次の飛躍が、まるで天空の虚無の輝きのように感じられる。

生まれた瞬間に見る男の子のペニスの
ような花の芽を出しているシュンランを
二株とイワナシを三株掘つた。

 西脇は「男の子のペニス」と書いているが、私には、これは天使のペニスにしか見えない。そういう現実離れした、明るい神がかりの飛翔。こういう至福を運んでくるのが「音楽」である。西脇の「音楽」である。



西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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誰も書かなかった西脇順三郎(117 )

2010-03-18 20:12:48 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「六月の朝」には、とても変なところがある。

ひじり坂と反対な山に
暗い庭が一つ残つている
誰かが何時種を播いたのか
コスモスかダリヤが咲く。

 タイトルは「六月の朝」。6月に、コスモスやダリヤが咲く? コスモスかダリヤというけれど、コスモスとダリヤは見間違えるような花? まさかねえ。
 どうしたんだろう。西脇は何を書きたかったのだろう。
 ぜんぜん、わからない。(西脇ファンの人、教えてくださいね。)
 西脇の名前がなかったら、この4行で、私はこの詩を読むのをやめていると思う。でも、西脇の全集のなかに入っているので、私は読みつづける。
 そして、まあ、私はいいかげんな人間にできているらしく、いまさっき、これはいったい何? と思ったことを忘れて、やっぱり西脇のことばの動きは楽しいなあ、と引き込まれていく。

ヴェロッキオの背景に傾く。
イボタの繁みから女のせせら笑いが
きこえてくる。

 ヴェロッキオ、イボタ。前者はイタリアの彫刻家・画家。後者は日本の(?)、初夏の白い花。ぜんぜん関係ないものが、カタカナの音のなかで交錯する。「意味」ではなく、「音」そのものが楽しい。濁音が意識を攪拌する。
 そして、この音は、その前の「コスモスかダリヤが咲く。」の濁音と呼応しているのだ。「コスモスかダリヤ」というのは「実景」ではなく、この詩のことばの音楽を活性化するために、わざと書かれたことばなのだ。
 「ひじり坂」「反対な山」「暗い庭」。この日本語たっぷりの音。そこから脱出するための、音の飛躍。そこにどんな植物が書かれていようが、それは「視力」を楽しませるものではなく、「聴力」を楽しませるためのものなのだ。だからこそ、せせら笑いが「きこえてくる。」なのだ。「繁み」に女を隠し、女を隠すことで、それまで見たもの、コスモス、ダリヤ(ほんとうは存在しない)を隠す。そこには何かを「隠す」繁みと、その奥から聞こえてくる「音」だけがある。
 そういう操作をしたあとで。

      よくみると
ニワトコにもムクの気にも実が
出てもう秋の日が悲しめる。

 もう一度、「視力」にもどる。そのときは、濁音は隠れてしまう。清音が、いま、ここを、いま、ここから引き剥がしてしまう。秋へ。しかも、秋の日の「悲しみ」へと。
 ここには視覚と聴覚の、すばやい交錯、錯乱、乱丁がある。

 あ、乱調と書くつもりが、「乱丁」か。
 私は脱線してしまうが、「乱丁」の方がいいかもしれないなあ。入り乱れて、それを無意識にととのえようとする精神がかってに動く。そのときの、軽い美しさ。美しさの軽さ。--西脇のこの詩には、そういうものがある。
 それは、次々に展開している。音を遊びながら。

キリコ キリコ クレー クレー
枯れたモチの大木の上にあがつて
群馬から来た木樵が白いズボンをはいて
黄色い上着を着て上から下へ
切つているところだ キリコ
アーチの投影がうつる。キリコ
バットを吸いながら首を動かして
切りつづけている。

 キリコ、クレー(画家)と木樵。「キリコ」「きこり」。かけ離れたものが、ことばの、その音のなかで交錯する。出会う。「群馬」「バット」というのはほんとうかな? ほんとうは違っているかもしれないけれど、ここでも「音」が選ばれている--と私は感じる。
 音優先の、ことばの動き。それは、まだまだつづく。

        おりてもらって
二人は樹から樹へと皮の模様
をつかつて永遠のアーキタイプをさがした。
会話に終りたくない。
彼はまた四十五度にまがつている
古木へのぼつていつた。
手をかざして野ばらの実のようなペンキを塗つた
ガスタンクの向うにコーバルト色の
鯨をみたのか
      アナバースの中のように
海 海 海
群馬のアテネ人は叫んだ
彼のためにランチを用意した
ヤマメのてんぷらにマスカテルに
イチジクにコーヒーに
この朽ちた木とノコギリのために--。

 いま、ここにある風景と、いま、ここにない風景が音のなかで出会い、動く。衝突のたびに、「永遠」がきらめく。永遠とは、不可能、あるいは、不在そのものかもしれないが、そういう意識を笑うように、最後にあらわれる「ノコギリ」。
 あ、その音のなかに「キリコ」がいて「木樵(きこり)」がいる。まるで、「ノコギリ」というのは、「キリコ」と「きこり」「の・コギリ」みたい。「の」というのは「助詞」です、はい。



旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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誰も書かなかった西脇順三郎(116 )

2010-03-16 10:02:18 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「二人は歩いた」。この詩のなかに、とても好きなことばがある。

キノコとキチラガイナスとが人間の最後の象徴に達していたことを発見して
二人はひそかによろこんだ
この男の友は蝶々の模様のついた縮緬の
シャツを着ていた
ハイヒールの黒靴をはいたおめかけさんの着ている
tea-gownのようで全体として
けなるいものだ

 「けなるい」。この形容詞は現代ではあまりつかわないように思う。広辞苑には「けなり・い」という形容詞と、「けなり・がる」という自動詞が載っている。例文は、狂言と西鶴の胸算用から引用されている。
 この形容詞を、私の田舎では、私の子どもの頃はごくふつうに使った。うらやましい。ごくふつうに、と書いたけれど、自分で「あれが、けなるい」とはあまり言わず、「何をけなるがっているのだ」と他人をたしなめるときによくつかった。他人は他人。自分は自分。比較してはいけない。--いけないといわれると、なおのこと、そのことをしてしまうのが子どもというものだから、そんなふうにたしなめることが効果的かどうかはわからない。わからないけれど、そのことばを通して、私は「他人」というものをはじめて知ったと思った。「他人」というか、「他人」と「自分」の違いというか……。
 西脇は、たんに「うらやましい」というだけの意味でつかっているのかもしれないが、うらやましいけれどことばにしては言わず(友には語らず)、ただ詩に書き留めただけかもしれない。きっと声に出して、「そのシャツがけなるい」とは言わなかっただろうと思う。「けなるいものだ」という1行の言い切りかた、そのリズムに、そういうことを感じた。声に出していってしまってはいけない感情だから、書くにしても、できるかぎりの凝縮のなかに、そのことばを置いている--そんなことを感じた。
 そして、その抑制(?)のリズムは、次の部分と呼応する。

自転車に乗つて来た女の子から道をきいて
エコマの上水跡をさぐつた
玉川の上水でみがいた色男とは江戸の青楼の会話にも出てくることだが二人は心にかくした

 「心にかくした」。
 ことばを動かしているのは、あらわしたいものがあるからだが、一方で隠したいものがあってことばを動かすこともある。こういう気持ちは矛盾しているとしかいえないけれど、矛盾しているからこそ、おもしろいのだと思う。
 そして、この矛盾のつくりだす「リズム」というものが、きっとことばを貫いている--と私はひそかに感じている。
 「けなるいものだ」は詩のことばとして書かれている。けれど、それは「玉川の上水でみがいた色男」か、あるいは「青楼の会話」か、あるいはそのふたつをあわせたものかはわからないが、そのことばを「心にかくした」ように、実際には、その場ではあきらかにされなかったことばである。
 その、実際には(現実には)、声としてだされなかった「思い」としてのことば--それが、ふいに噴出しながら詩をいきいきさせるのだと思う。

 また、そういうことと「二人」、あるいは「ふたつ」ということが、どこかで関係しているとも感じる。「ひとつ」ではなく「ふたつ」。そのとき、何かしらの「対立」がある。その「ふたつ」(ふたり)は、たとえある場所をめざしていっしょに歩いていても「ひとつ」にはならない。「ふたつ」のままである。そのことがつくりだす「リズム」がある。
 西脇は、人間とは、融合しない。「他人」とは「ひとつ」にはならない。「他人」に共感するときも、「他人」に対して、というよりも、他人の「何か」に対してのことである。たとえば、「蝶々の模様のついた縮緬の/シャツ」とは「ひとつ」になりたい、という気持ち「けなるい」が生まれるが、そのシャツを着ている男そのものにはなろうとはしない。「気持ち」を隠したまま、いっしょに歩く。
そのときの「わざと」そうするこころ、それが、そのままリズムとなって詩を動かす。


西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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誰も書かなかった西脇順三郎(115 )

2010-02-27 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「デッサン」は、私にはとりとめのない詩に感じられる。しかし、その書き出しはとても好きだ。

初めもない終りもない世界に
とりくむことはほねが折れる
どうして始めるかわからない。

 何に対して「どうして始めるかわからない。」と書いたのかわからないが、私は、西脇がこの詩を書きはじめたことに対して、その感想を書いているのだ思った。
 自分のしていることについて自分で感想を書く。書くということは、ことばを動かしてしまう。いや、ことばが動いてしまうと言うべきなのか。

旅からもどつてノートを整理する
ことは実にいやな角度と色彩を
もつていると思う。

 書くということはことばを動かすこと。そして書くということは、思うことよりも「時間」がかかる。そうすると、その「時間」のあいだに(書いているあいだに、考えていることを書き終わるあいだに)、また考えが忍び込んでしまうことがある。
 「旅からもどつてノートを整理することは実にいやなことである」、と書こうとするが、一気に書ける(考える、感じる)ことができるのは、「旅からもどつてノートを整理する」までである。そうする「ことは実にいやな」と書いているうちに、というか、書こうとしているうちに、「いやな」が「角度」と「色彩」の違いだということがわかってきて、それが紛れ込む。ノートを整理するとき、「視点」をかえなければならないというような大げさなことではなく、たとえば机に座っている。ぼんやり、何かを見ている。それをやめて、ノートを開く--ただそれだけでも、視界は変わる。それが「いや」のすべてだ。
 一般的に、文章というのは、そんなふうにして文章を書いている途中に紛れ込んできた雑念(?)のようなものを省略しながら(除外しながら)、結論へむけてことばを動かしていくものである。けれど、西脇は、そういう直線的なことばの動かしかたをしない。
 逆に、結論へむけてまっすぐに進もうとすることばを、破壊し、ねじまげてしまうもの、「ノイズ」のようなものをていねいにすくいながら、ことばを書きすすめる。
 意識--結論へむけてというか、まあ、先へ先へと進もうとすることばの、その方向をねじまげてしまうもの、そこに「いのち」を感じているからだろう。(ねじ曲がった樹木に対する嗜好は、そういう思想の反映である。)あらゆるものは、ねじ曲がる。そのねじ曲がるという動きには、結論へむけて動くベクトルに対して、ふいに侵入してくる何かがあるからだ。

ノートは時間の混迷を避けることが
出来ない全く化石になつてしまつた。
春の次に冬が来たり、春がつづいてまた
春になることもある。

 意識、時間は、分断されながらつづいていく。分断から分断へ、脱落もある。西脇は脱落を補おうとはしない。それは侵入を阻止しないのと同じである。
 ことばに対して「矯正」をほどこさない--それが西脇の、ことばに対する基本的な姿勢だ。文脈を破壊するものがあるなら、その破壊する力の方に、いのちがある。破壊する力が弱ければ、そういう攻撃に対して、前へ進む力はまけたりはしない。侵入を拒絶して、ただ進むだろう。
 純粋な、ことばそのものへの信頼が、西脇のことばを支えている。




旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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誰も書かなかった西脇順三郎(114 )

2010-02-26 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 ふと、思い出したことがある。「現代詩手帖」2009年10月号は、金子光晴と西脇順三郎の「特集」を組んでいた。西脇をめぐって、吉岡実、那珂太郎らが対談している。昔の対談の採録である。そのなかで、たしか那珂だったと思うのだが、「淋しい」というようなことばが頻繁に出てくるので、西脇の詩にびっくりしたと発言している。詩は「淋しい」を「淋しい」ということばをつかわずに書くもの--そう思っていたから、と。
 あ、そうか。
 でも、「淋しい」ということを「淋しい」ということばをつかわずに書くのは、その詩が「感情」を表現するものだからだろう。もし、西脇が「感情」を表現することを目的として詩を書いていなかったとしたら、つまり「淋しい」ということばの意味を、より繊細に、より深く、よりリアルに書こうとしていたのでなかったなら、「淋しい」は「淋しい」と書いてしまうだろうなあ。
 那珂がびっくりしたのは、那珂自身が、無意識のうちに詩を「感情」を書くものと定義していたからだろう。「四季」の詩を読んできていたので、とも書いていたので、たぶん、そういうことなのだろう。
 では、西脇は何を書こうとしていたのか。
 「十月」に「叙事詩」ということばがあるが、西脇が心を動かしていたのは「抒情」に対してではなく「叙事」だったのかもしれない。

二十年ほど前は
まだコンクリートの堤防
を作らない人間がいた。
あのすさんだかたまつたシャヴァンヌの風景があつた。
ススキの藪の中に
キチガイ茄子のぶらさがる
あの多摩川のへりでくずれかけた
曲つた畑に
梨と葡萄を作つている男
の家に遊びに行つた。
地蜂の巣をとりに
牛肉を棒の先につけて
イモ畑をかけ出した
あの叙事詩。

 「二十年前」と「いま」を比較して、物思いにふける。これは、「抒情詩」ということかもしれないが、ここに書かれているのは「作る」という人間の生きかたである。「作る」というとき、そこには「感情」があるかもしれないけれど、それは「作ったもの」のなかにこそある。作ったものが美しければ、それを作ったひとは美しい--という事実関係があるのであって、そのときの「感情」には、西脇はあまり配慮をしていない。
 何を作ったか、何をしたか--それを書くのが叙事詩。西脇は「叙事詩」の流儀にしたがってことばを動かしている。
 那珂のことばにしたがえば、つまり「淋しい」を「淋しい」ということばをつかわずに書くのが詩なら、「叙事詩」の場合も「叙事詩」ということばをつかわずに書くのがいいのかもしれないが……。
 西脇がここで「叙事詩」ということばをつかったのには、理由がある。
 「抒情」(感情)が、あらゆる人間に共通であるように、「叙事」も時間と場所を越えて、人間に共通のものだからである。--少なくとも、西脇は、「叙事」(物を作る、そしてそこに人間がいるという関係)はあらゆる時間、あらゆる場所に共通する「こと」と考えていた。感じていた。もし、西脇に「抒情」というものがあるとすれば、それは「ものを作る人間のこころ」である。それが一番重要な「感情」である。そして、そのときの「感情」というのは、「思い」ではなく、「工夫」である。
 具体的に言えば、「地蜂の巣をとる」ために「牛肉を棒の先」につけるという「工夫」(蜂を引き寄せるための工夫)、それを担いで「かけ出す」という「工夫」。人間の実際の「肉体」の動き--肉体を動かすのが「感情」なのである。そして、そのときの「肉体の動き」が叙事なのである。
 この「工夫」「肉体の動き」「肉体に刻印されるもの」は時間と場所を越える。この「叙事」の事実は、次のように展開される。

十月の末のころでその男の縁側で
すばらしい第三の男にあつたのだ。
彼は毎日肩のやぶれたシャツを着て
投網で魚をとるのだがその
顔はメディチのロレンゾの死面だ。
すばらしい灰色の漆喰である。

 多摩川の近くに住む男。それがイタリアのメディチ家とつながる。時間も場所も違うが、人間の顔に刻印されたもの--その「肉体」が何をしてきたかが刻印しているもの。それが同じ。「感情」はどこかにあるかもしれない。しかし「感情」はどうでもいい。「毎日肩のやぶれたシャツを着て/投網で魚をとる」という「肉体」の「仕事」(肉体を動かしてするさまざまな工夫)、そしてそれが具体的になるとき、そこに詩がある。「抒情」ではなく「叙事」としての詩がある。

 西脇は、あるところで詩とは「わざと」書くものだといっている。この「わざと」は「工夫」と同じである。人間の仕事もまた「わざと」するものである。「わざと」棒の先に牛肉をつてけ走る。それは地蜂を引き寄せる「工夫」である。「わざと」のなかに、人間のすることがらの「すべて」があるのだ。「思想」があるのだ。

 西脇のこころは「叙事」がむすびつける時空を超えた「場」で遊ぶ。

彼は柿を調布のくず屋から買つてきた
剃刀でむいて食べた。
終りは困難である。
登戸のケヤキが見えなくなるまで
畑の中で
将棋をさして来た。

 「感情」は語らない。けれど、「将棋」のようなルールに従って展開するゲームの中では、こまの動きに、そのひとが思っているあれこれが微妙な影を落とす。その、こまの動き、どう動かすかという「工夫」の、その「叙事」なのか美を、「抒情」と呼ぶことができるかもしれない。





西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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誰も書かなかった西脇順三郎(113 )

2010-02-25 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『第三の神話』の巻頭の詩。「猪」。その書き出しに驚く。

タビラコというのはギリシャ語では
なく大原の女のなまりだ。

 「タビラコ」は、「田平子」だろう。黄色い花をつける小さい草。でも、カタカナで書くと、うーん、何だろうと思う。「ギリシャ語」ということばが目に入ってくるので、外国語?とさえ思ってしまう。
 こういう部分からも、西脇は「絵画的詩人」というよりも「音楽的詩人」という印象が生まれる。西脇は「耳」で、というか、「音」で世界をとらえていたのだ。
 と、書いたあとで、私は矛盾したことも書く。
 この詩の不思議さは、書き出しの2行の、行のわたりにある。
 
「では/なく」
 
 2行目の行頭の「なく」が1行を読み終わらないうちに視界に入ってくる。そのことが、西脇のことばを活性化させている。
 「なく」は、「タビラコはギリシャ語で(あり、それ)は」○○という意味である、という具合に動いていく意識も、「タビラコはギリシャ語ではなく」○○語であるという文なろうとする意識も、一瞬のうちに否定してしまう。

 西脇はとても耳のいい詩人だと思うが、また、同時に視力も非常にいい詩人なのだと思う。「もの」を見る目というより、「文字」を見る目がいい。2行目の「なく」が無意識に与える影響を「肉眼」で知ってしまっていて、それを必然のようにして書き分けてしまうのだ。
 
 文字を読む視力は、詩をつづけて読むともっとはっきりする。

タビラコというのはギリシャ語では
なく大原の女のなまりだ。
タビラコは巡礼は小便を避くべきだ。
タビラコは女と飲む心の酒杯で
この聖杯をさがしに坂をのぼつた時は
もう暗かつた牧歌のような門をくぐり
石垣を上つて山腹の庭へ出てみた。

 「タビラコは巡礼は小便を避くべきだ。」というのは、「タビラコは仏の座ともいうので、巡礼はそれに小便をかけるようなこと、仏の座の咲いているところで小便などしてはいけない」くらいの「意味」なのかもしれない。
 けれど「田平子」ではなく「タビラコ」とカタカナで書かれているので、1行目の「ギリシャ語」と文字(表記)の上でつながり、「大原の女のなまりだ」と書かれているにもかかわらず、なんだか外国の何かを感じさせる。そして、それが「巡礼」と結びつくので、「タビラコ」っていったい何? という疑問がわいてくる。
 いいかえると、「タビラコ」の「意味」が固定されない。
 「田平子」では、きっと一気に「意味」が固定され、おもしろくなくなる。
 「意味」が固定されず、ことばがことばとして独立し、かってな連想を誘う(誤読を誘う)ものが詩だと私は信じているが、「意味の固定」を否定する、「意味」を破壊するということを、西脇は「視力」の力でもおこなっている。
 「では/なく」という不思議な表記の仕方が、それを耳ではなく、それを見てしまう目に影響を与え、その作用が意識全体を動かすのだ。

 このカタカナ表記と日本固有のものの出会い(タビラコ=田平子、ギリシャ語≠大原の女のなまり)の形は、最後まで、この詩を活性化させている。

山茶花の大木が曲つていた
花が咲いていてこわかつた
ペルシャ人のような帽子をかぶつて
黒いタビラコのような髭をはやした
男がこの庭を造つたのだゴトン
紫陽花のしげみから水車の女神が
石をたたいて猪を追う音がする

 シシおどしが、とても新しいもののように見えてくる。

続・幻影の人 西脇順三郎を語る

恒文社

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誰も書かなかった西脇順三郎(112 )

2010-02-21 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『トリトンの噴水』。この長い散文詩(?)には、一か所、忘れらないところがある。この作品は途中から改行がなくなる。段落がなるなる。その直前の段落である。

 サピアンス夫人を初め、もろもろの女がToiletteに行つゐる間に私は考へた。人間はナタ豆のやうに青くなつた。

 「人間はナタ豆のやうに青くなつた。」ではなく、その前の「サピアンス夫人を初め、もろもろの女がToiletteに行つゐる間に私は考へた。」がとても印象的だ。そこに書かれていることが、とても俗っぽいというか、誰でもが経験することだからである。
 まあ、人がトイレに行っている間に考えるか、あるいは自分がトイレに行っている間に考えるかは、人によって違うかもしれないが、トイレというのは人と人を完全に切り離す。プライバシーの意識というような高級(?)なことではなく、もっとありふれた次元のことなのだが、それがありふれていて、手触りがあるだけに、この詩の中に出てくるさまざまな外国語に比べて、ぐっと身近に感じられる。そのために、この行が印象的なのだ。
 そうしてみると(というのは変な言い方だが)、ことばというのは、ある意味では、読者(私だけ?)は、自分のしっていることばだけしか理解しないということかもしれない。自分の知っていること、自分のわかること以外は、知らない、とほうりだしてしまうことができる--特に、文学、詩の場合は。
 わからないこと、知らないことを読んだってしかたがない。

 そして、またまた、そうしてみると、なのだが……。

 ネプチュンの涙は薔薇と百合の間に落ちて貝殻のほがらかなる偶像を蹴つて水晶の如き昼を呼ばん。

 たとえば、この文を、どう読むことができるか。
 あ、他人のことは別にして、私のことを書こう。
 私は、ここでは「意味」を探して読まない。だいたい、この文の「主語」「述語」の関係を、私は真剣には追わない。いや、追うことができない。

 ネプチュンの涙は(う、わかる)薔薇と百合の間に落ちて(うん、わかる)貝殻の(わかる)ほがらかなる(わかる)偶像を蹴つて(わかる)水晶の如き昼を(わかる)呼ばん(わかる)。

 (わかる)ということばを挿入してみたが、私は、西脇の文を、ひとつの文としてではなく、それぞれの部分として(わかる)と感じているだけである。そのわかったものをつないで「意味」をわかりたいとはまったく感じない。
 「ネプチュンの涙は」「昼を呼ばん」という文に短縮すれば短縮できるかもしれない。それが「意味」だとすれば「意味」かもしれない。けれど、それは、まあ、どうでもいい。その、「ネプチュンの涙は……昼を呼ばん」という短い文(?)の間から、つぎつぎにこぼれていったことば、そのことばの輝きをただ美しいなあ、思って読むだけである。
 こぼれながら、「意味」から逸脱し、「無意味」になることば。そういうものが、なんといえばいいのだろう、先に引用した「Toiletteに行つゐる間」のように、手触りとして実感できる。
 そして、それを感じることができれば、それは詩として、十分なのではないか、と思うのである。




ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
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誰も書かなかった西脇順三郎(111 )

2010-02-19 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「体裁のいい景色(人間時代の遺留品)」は断章で構成されている。私は「意味」を気にしない読者だけれど、ときどき「意味」も考える。似たことばがでてきたとき、あ、これはこれの言い換えか、という具合に。
 ひとはだれでも、同じことを同じことばで繰り返すか、別のことばで繰り返すことの方が多い。新しい何かを言うよりも。新しいこと--というのは、そんなに多くないのかもしれない。繰り返しの中の「差異(ずれ)」のなかにしか新しいことがないのかもしれない。ことばは、もうすでにあふれるほど書かれてしまっているから……。

   (1)

やつぱり脳髄は淋しい
実に進歩しない物品である

 「脳髄」と「淋しい」は西脇の詩のなかでは頻繁に出てくる。出てくるたびに私は、西脇は「淋しい」が好きなんだなあと感じる。その「淋しい」は、私の感じる「淋しい」とは少し違うと思うけれど、その違いをつきつめて考えることはしない。「ひとがいなくて淋しい」とは違う何か、けれど「人がいないときの淋しい」にも通じる何か--それくらいの感じでしか読んでいない。
 すこし、考えてみることにする。
 この2行を「学校教科書文法(あるいは解読法?)」にしたがって読めば、脳髄は進歩しない、だから「淋しい」物品である、ということになる。進歩しないことが「淋しい」に通じる。「脳髄」を「物品」と対象化することで、進歩しないことは「淋しい」ことであると、客観的(?)に定義している。
 でも、進歩って何? 「脳髄」には日々、いろいろなものが蓄積される。学習をとおして、いわば「進歩」するのが脳髄である。「何が」進歩するのか--そのことが省略されているので、この2行は、正確(?)には「意味」をとることができないけれど、まあ、学習による知識の蓄積--そういうものはほんとうの進歩ではない。そういうものでいっぱいになってしまう脳髄というのは「淋しい」。
 「学校教科書解読法」では、これくらいまで考えるのかな? でも、なんというのだろう、こういう解読そのものが、西脇からいわせれば「淋しい」の典型かもしれないね。

 (いま、「物品」ということば、その「音」について書いてみたいという欲望にとてもつよくかられているので、ちょっと挿入する形で……。
 この2行でいちばん驚くのは「物品」ということば、その「音」である。
 私の「音感」でいえば、ここは「代物(しろもの)」ということばがくる。さび「しい」、「し」んぽ「し」ない「し」「ろ」ものであ「る」。「し」の「音」と「ら行」が交錯する。のう「ず」い「じ」つに、という「ざ行」の通い合いも「し」につながる。「ず→じ→し」という具合。
 でも、西脇は「物品」と書く。
 この「音」を聞いた瞬間(見た瞬間、読んだ瞬間と言い換えるべきか)、私の「脳髄」の「音」は、西脇に比べると、格段に「淋しい」ことがわかる。
 「物品(ぶっぴん)」は冒頭の「やつぱり」と呼応しているのである。
 「淋しい」ということばをつかいながら、どこかに「やっぱり」淋しくはない「音楽」をひそませている。
 それが西脇だ。)

 「淋しい」にもどる。

   (2)

湖畔になる可く簡単な時計を据付けてから
おれはおれのパナマ帽子の下で
盛んに饒舌つてみても
割合に面白くない

 「淋しい」は「割合に面白くない」と言い換えられている。たんに「面白くない」ではなく「割合に」ということわりがあるが、この「割合に」という不思議な「思い入れ」のようなものが「淋しい」と深く関係しているかもしれない。
 客観的ではなく、主観的な、何か。不足感。それが「淋しい」かもしれない。

 (で、またまた脱線。
 「湖畔になる可く簡単な時計を据付けてから」の「なる可く」は「なるべく」と読ませるのだと思う。
 でも、そう読んだあと「簡単な」という「音」がつづくと、いま「べ」と読んだばかりの「可」を、「肉体」は「か」と読み替えている。そして、それが「据付けてから」の「か」へジャンプしてゆく。間にあることばを飛び越えて、なる「か」く「か」んたんなとけいをすえてつけ「か」ら--という具合になってしまう。
 「意味」と「音」が「文字」(書きことば)によって、とんでもない具合に暴走してしまう。
 それは「パナマ帽子の下(した)で」「盛んに饒舌(しゃべ)つてみても」にも通じる。「饒舌つて」の「舌」に目が触れたとき、「しゃべって」と読むべきであることはわかっているのに「した」と読みたくなる。「下」と「舌」が重なり合う。そして、「饒舌つて」を「しゃべって」以外の「音」でどう読めば面白くなるんだろうか、とどきどきしてしまう。
 でも、これって、「割合に」面白くない。どちらかというと「淋しい」。しゃきっとした感じで、何かが動かない--「進歩」がないからね。)

 もう一度「淋しい」にもどってみる。

   (4)

青いマンゴウの果実が冷静な空気を破り
ねむたき鉛筆を脅迫する
赤道地方は大体に於いてテキパキしていない

   (5)

快活なる杉の樹は
どうにも手がつけられん
実にむずかしい

 「テキパキしていない」は「淋しい」に通じると思う。「進歩」がないからね。「ねむたき」も「淋しい」に通じるだろう。停滞しているものは「面白くない」。だから「淋しい」。--「やつぱり脳髄は淋しい/実に進歩しない」は、そんなふうに形を変えて表現されている、ということかもしれない。
 「むずかしい」も「淋しい」だろう。(4)(5)は、絵を描いているときの描写だろう。「快活な」杉の絵を描くには手がおいつかない(手がつけられん)。「むずかしい」。だから「さびしい」。
 そうすると(?)、「淋しい」の対極にあるのは、「快活」ということかもしれない。「テキパキ」ということになるかもしれない。快活でテキパキしているものは「面白い」。そうでないものは「淋しい」。

 でもね、西脇は、次のようにも書くのだ。

   (8)

頭の明晰ということは悪いことである
けれども上級の女学生はそれを大変に愛する

 「淋しい」は「面白くない」というふうに「明晰に(あ、私の分析は明晰ではなかった?)」結論づけてしまうのは「悪いこと」である。
 わからないことを、わかったように分析し、そこに道筋をつけ、あたかも「進歩」したかのように装うこと--脳髄にできるのは、そういうことにすぎない。そういう擬似的な脳髄の操作、作業。それこそが、実は「淋しい」である。

 人間は、どうしても、そういう「悪」に染まってしまう。「脳髄」を持っているかぎり、その罠に陥ってしまう。ここから、どうやって脱出するか--西脇が考えているのは、ほんとうは、そういうことだと思う。
 「淋しい」には「脳」を破壊し、そのあとの世界を夢見る何かがこめられている、と私は感じている。





ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
小沢書店

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誰も書かなかった西脇順三郎(110 )

2010-02-18 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 「修辞学」という詩がある。「修辞学」とは何か--を定義しているのだろうか。たしかに、そんなふうに読むことはできる。その書き出しが、私は好きである。ここに西脇の「修辞学」に関する「哲学」が書かれていると思う。

足のヒョロ長い動物でないのである。

 詩を定義して、かけ離れたものの突然の出会い、ということがある。西脇のこの1行は、その定義をそのまま生かしている。
 西脇の場合の、「かけ離れたもの」は「ない」と「ある」。「ない」と「ある」はまったく別の概念である。それがこの1行において出会っている。「足のヒョロ長い動物」は重要ではない。それは「もの」ですらないかもしれない。西脇にとっては「もの」とは「概念」である。この詩では「概念」を「もの」として扱っているのである。「ない」と「ある」が出会ったとき、どうなるのか。「ない」ということが「ある」ということは、どういうことなのか。
 考えると、ややこしい。面倒くさい。
 このややこしく、面倒くさいことが書かれている1行が、しかし、ほんとうにややこしく面倒くさいかといえば、そうでもない。そんなことを感じ、考えるよりも、何か別なのもに突き動かされる。
 「であいのである」。「でない/のである」というのが、たぶん学校教科書の文法分析になると思うけれど、私には「でない/の/である」という具合に見える。「の」が「である」と「でない」を固く結びつけている。
 「の」は不思議な粘着力を持っている。なんでも結びつけることができる。かけ離れたものを突然結びつけたものが詩ならば、その結びつけを可能にする「の」、その粘着力こそ詩だということになる。
 あ、でも、何かが違うなあ。
 私が感じるのは、そんなややこしいこと、面倒くさいことではない。

足のヒョロ長い動物でないのである。

 この書き出しの1行を読んだとき、私は「ではないのである」の真ん中にある「の」に「肉体」が反応してしまう。この「の」がおもしろい、と感じてしまう。そしてそれは、先に書いたような、かけ離れたものの出会い、結合、その力--ということとは、あまり関係がない。
 この「の」は、それより先に「足の長い動物」ということばのなかにも登場している。それが響きあっている。その響きあいがおもしろいと感じるのだ。
 この「の」は隠れた部分で「長い」にも影響している。この1行が「足の短い動物でないのである」ではおもしろくない。音が響きあわない。「足のヒョロりと細い動物でないのである」もだめ。「ヒョロ長い」(ながい)の「な行」の存在が、この1行をすばやく読ませている。(ついでながら、「ながい」は鼻濁音で読むとさらにスピード感が増す。
 この1行には、ほかの「音」も響きあっている。そして「音楽」をつくっている。「動物(どうぶつ)」「で」「で」という「だ行」。「ヒョロ長い」というだらりとのびた音の響き、リズムが「でないのである」の「ひょろながい」音楽にそのままつながっている。

 ことばは「意味」を伝達するけれど、「意味」にはならない「音楽」もつたえる。あるいは、生み出すといえばいいのだろうか。
 西脇はこの詩で、かけはなれたものをいろいろ結びつけ、概念に刺戟を与えているが、その「意味」だけではなく、西脇は、緩急自在に「音楽」を生み出していく。1行目の音楽は、すぐに別の「音」そのものをひっぱりだす導入部にもなっている。

乾酪の中から肩を裸に出している一つの貴婦人はアランポエポエネエポエとす。

 翻訳調のごつごつした文章。特に「肩を裸に出している」「一つの貴婦人」が荒っぽい。「ひとつの」は不定冠詞をわざわざ日本語にしたものだけれど、そういうときだって、ふつうは「ひとりの」と書くべきところを、西脇は、わざと「一つの」と書いている。ことばを、わざとそんなふうに荒々しくさせておいて、

アランポエポエネエポエ

 この音は「エドガー・ランポー」を思い起こさせるが、そういう「意識」をかきまぜながら、「アランポエポエネエポエ」と「無意味」な音にしてしまう。西脇は、「意味」ではなく、最初から「音楽」を書こうとしているだけなのだ。

 --こう書いてしまうと、私が最初に書いた「西脇は概念をものとしてあつかっている」ということからずれてしまった印象を与えるかもしれない。
 いや、印象だけではなく、じっさいにずれてしまっているのかもしれないけれど。
 「概念」を「もの」としてあつかうことで、「概念」を「無意味」にする。さらに、その運動を「意味」で固定するのではなく、「音楽」でどこかへ逃がしてやる--そういうことを西脇はしているのではないだろうか。
 そう思った。



西脇順三郎全詩引喩集成
新倉 俊一
筑摩書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(109 )

2010-02-15 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 ことばは何の(どんな)力で動いていくのだろうか。ことばは動いていくのではなく、ひとがことばを動かす--という考えがあることは知っているが、私には、ことばはことばで動いていく、と感じられる。それは草花(植物)が草花自身の力で育っていくのに似ている。たしかにひとはそれを植えることができる。育てることができる。けれど、その草花そのものに生きる力がないと育ちはしない。同じことがことばにも起きていると思うのだ。
 そのとき、ことばは、たとえば詩人の「土壌」から何を吸収し、どんな力を育てているのか。
 「紀行」という断章でできた作品。その「4」の書き出し。

多摩人よ
君たちの河原を見に来た。
岩の割れ目に
桃の木のうしろに
釣り人の糸はうら悲しいのだ。
ヴィオロンの春だ。
よしきりの足跡は
小石に未だにぬれている

 この数行は「旅人かへらず」を思い出させる。

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい

 「紀行」の登場人物は「旅人」となって多摩の河原へやってきた。「岩間」ではなく「岩の割れ目」に目をやって、そこでことばを動かしはじめている。ただそれでは「旅人かへらず」と同じままだ。そこで、少し「ずれ」る。

岩の割れ目に
桃の木のうしろに

 西脇のことばは「並列」を利用して(?)、すっと動く。そして、動いたあと、ことばは、ことば自身になってしまう。

桃の木のうしろに
釣り人の糸はうら悲しいのだ。

 「うしろに」「うら悲しいのだ」。このふたつのことばは「意味」をもっているかもしれない。もっているかもしれないけれど、私は「意味」よりも「音」に誘われてしまう。「河原」「岩の割れ目」と「釣り人」はつながっているかもしれない。つながって、河原で釣りをする人というイメージ、「意味」を作り上げるかもしれない。
 けれど、私は、そういう「意味」を忘れてしまう。
 「うしろに」「うら悲しいのだ」--この「音」の響きあいのなかに引き込まれて、ほかのことを忘れてしまう。「桃の木の横」「桃の木の傍ら」では「うら悲しい」ということばは動いてくれない。「うしろに」「うら悲しい」でも、何かが微妙に違う。「うしろ」と「うら悲しい」が呼応し、「に」と「のだ」が呼応しあっている。「うしろ」という3音節、「うら悲しい」6音節のリズムが、「に」の1音節、「のだ」の2音節のリズムとして繰り返される。
 こんな言語操作は意識してできることなのだろうか。私には意識してできることとは思えない。ことば自身が呼び掛け合って生きているからこそ、こういう不思議な音楽が生まれるのだと思う。
 そして、そういう「音楽」となったことばは、西脇の「土壌」から、とんでもない(?)ものを吸い上げる。

ヴィオロンの春だ。

 あらら。「ヴィオロン」と言えば「秋」でしょう。「うら悲しい」と言ったら「秋」でしょう。「秋の日の/ヴィオロンの」、それからなんだっけ、「うら悲し」でしょ?
 西脇のことばの草木は、でも、そういうものを単純に吸い上げず、どこかでことばの関節を脱臼させ「春」となって噴出する。
 この脱臼の瞬間にも、私は「音楽」を感じる。ゆかいな、笑う「音楽」だ。
 それは「旅人かへらず」のことばを借りて言えば「やかましい」音楽だ。
 この詩は、でも「旅人かへらず」ではないから、「かけす」は消える。かわりに「よしきり」が闖入してくる。そして、「濡れる(濡らす)のは「舌」ではなく、「小石」であり「足跡」だ。

よしきりの足跡は
小石に未だにぬれている

 あ、なんと美しい「黒」。水のあと。光の春に、ふいに残された新鮮な色の対比。乾く小石の「白」と、そのうえの小さな「黒」い印。
 この「黒」と「白」は、すこし進んで、次のようにかわってしまう。

黒玉のこの菫を摘み
はながみの間にはさんで

 「黒玉」と「はながみ」(白)。「白」は「小石」でも「はながみ」でも隠されている。「はながみ」という乱暴な「音」は「白」というイメージを隠すのに最適だ。

 それにしても、なんという不思議さだろう。
 「はながみ」という乱暴な「音」ではなく、これが「ハンカチ」だったら、この詩の「黒」と「白」は「抒情」になってしまう。そしてきっと「音」を失ってしまう。「はながみ」という乱暴な「音」か、それまでのことばの奥にある「音」の呼応を活性化させているのだ。「ハンカチ」だと「抒情」に収斂してしまい、「意味」になってしまう。「古今集」あるいは「新古今」につらなる「意味」になってしまうが、「はなじみ」という「音」がそれを破って、もう一度「音」そのものにもどるのだ。
 こんな動きは、とても人間には操作できない。いや、西脇はふつうの人間ではなく天才だから、その操作ができる、ということも可能だろうけれど、私は、こういう場合は、西脇は天才だから、ことばがそんなふうに勝手に呼応し合って「音楽」になるのをきちんと聞き取り、それをことばとして書くことができると言いなおしたい。あくまで、ことばが勝手に生きて、それを詩人が追いかけるのだ。



西脇順三郎の研究―『旅人かへらず』とその前後 (新典社選書)
芋生 裕信
新典社

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