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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(137 )

2010-09-04 09:25:24 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 西脇のことばは、突然飛躍する。たとえば、

エビヅルノブドウの線
ツルウメモドキの色
ヤブジラミの点点
魚の瞑想
小鳥の鯱立ち
藪の中飲の眼
藪の中に落ちた手紙
存在のさびしみをしる男の寝酒の
コップはクコの花のように紫である
距離と時間の差は形態と色彩の
差であるデカルトはこの差をおそれた
方向の差はエネルギーとなる
 
 「エビヅルノブドウ」からの3行、「魚の瞑想」からの4行。「存在のさびしみ」の2行。「距離と時間の差」からの3行。これをつなぐものが何なのか、よくわからない。よくわからないから、私はそれを「突然の飛躍」という。
 「エビヅルノブドウ」と「魚の瞑想」、あるいは「存在のさびしみ」の2行は、そのあとで書かれている「距離」と「時間」、「形態」と「色彩」と連動するのだろうか。
 「学校教科書」の「文法」では、最初に言ったことを、次に言いなおす形で繰り返すのが「作文」の作法である。同じことをことばを変えながら繰り返し、補足する。それが散文作法のひとつである。「文法」である。
 西脇のことばは、これにあてはまるのか。これをあてはめることができるのか。私には、それをうまくあてはめることができない。だから「飛躍」と呼ぶ。
 具体的な「もの」を語っていたのに、「距離と時間の差は形態と色彩の/差である」と突然抽象的になるのも、わからない。「距離と時間の差」は、それに先行する何に対応するのかさっぱりわからない。
 わからないのだけれど。
 私は、この「飛躍」が好きである。
 ことばがことばを突き破って動いていく。その突き破り方に、「感情」を感じる。「自由」を感じる。
 そして、その軽やかな飛躍からふりかえると……。
 「意味」の連動を説明できないのだけれど、「時間と距離の差」と呼ばれているものは、もしかすると「魚の瞑想」云々かもしれない。「形態と色彩の差」は「エビヅルノブドウ」の3行のことかもしれない。
 わからないのだけれど、そこに「和音」のようなものが、ふっと感じられる。書かれていることばを通りすぎてから(読みすぎてから)、ふと、読んできたことばが遠くから響いてきて、それが、「あ、こういう和音があるの?」という感じで聞こえてくる。

 私の書いていることは、何の裏付けもない。ただ私の「感じ」でいうのだ。その不思議な「和音」、ことばがことばを突き破ったことによって、突き破られたものの中から何かが響いてくる感じがある。
 私の書いていることは、誰の「読解」の助けにもならない。逆に、他人の「読解」の邪魔をするだけのものだと思う。私の「誤読」だけしかつまっていない。けれど、私は、そういうことを書きたい。誰の役にも立たない--私の役にも立たない「世迷い言」を書きたい。
 西脇のことばは、私のあらゆる「誤解」を超越して、そこにある。たどりつけない。だから、詩だと感じる。




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誰も書かなかった西脇順三郎(136 )

2010-09-03 19:01:33 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「失われたとき」のつづき。

パウル クレー パウル クレー
最終のインク
最終の形
最終の色

 こういう数行を読むと、西脇が絵画に強い関心と、西脇自身の鑑賞眼をもっていることがうかがえる。西脇が絵画的詩人と呼ばれるとき、きっとこういう行は「傍証」としてあげられるのだと思う。
 この「絵画的描写」はまだまだつづく。

最終の欲情
ホテルのランチでたべてやせた鶏も
砂漠にのさばるスフィンクスにしかみえない
藪の中にするオレーアディス ペディトゥース!
あいみてののちにくらべれば
セザンヌのこともピカソのことも思わなかった
エビヅルノブドウの線
ツルウメモドキの色
ヤブジラミの点点

 「ホテルのランチでたべてやせた鶏」という意表をついたことばもおもしろいし、「エビヅルノブドウ」云々の植物もおもしろいが、それよりももっとおもしろいのが、

あいみてののちにくらべれば

 である。「来歴」をもっていることば、そして、その「音」である。多くのカタカナにまじって、絶対に(ということはないかもしれないけれど、一般的に言って、絶対に)カタカナでは書かないことばが乱入してくる。それが、ことばの重力場を動かす。それまでつづいていたつながりを切断してしまう。
 切断するだけではなく、遠い「過去」をそこに噴出させる。

 こういう瞬間が、西脇の読んでいて、楽しいと感じるときだ。
 「あいみてののちにくらべれば」ということばのなかに「絵画的要素」が何もないのがいい。「あいみての」の「みて」が目に関係しているから「絵画」につうじるという見方もあるかもしれないけれど、ここでは和歌が、ことばが引用されているのであって、絵画的素材は引用されていない。






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誰も書かなかった西脇順三郎(135 )

2010-09-02 12:17:17 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「失われたとき」のつづき。

「淋しい故に我れ存在する」
アルミのたらいをもつてシャツ一枚きて
銭湯にかけこむ少年は淋しい光りだ

 私は、この3行が好き。前後の行とは無関係に好きだ。言い換えると、前後の行が語っている「意味・内容」とは無関係に好きだ、ということである。
 「淋しい故に我れ存在する」は西脇が繰り返すテーマである。それにつづく2行は「淋しい」を定義し直したものである。その少年の姿--それが美しいのはもちろんだが、私は「アルミのたらいをもつてシャツ一枚きて」という1行のなかにある「音楽」が好きだ。
 「アルミのたらい」とは「アルミの洗面器」のことだろう。まさか、大きなたらいをもって銭湯に行きはしないだろう。けれど、もしそれが「アルミの洗面器」と書かれていたら、そこに「音楽」はあったか。「音楽」はあるか。私は、たぶん、感じない。「アルミのたらい」だから「音楽」を感じる。「アルミ」「たらい」の音そのもののひびきのほかに、「たらい」そのものの意外性も影響しているかもしれない。
 「アルミの洗面器」ではなく「アルミのたらい」。何が違うのか、一瞬、わからない。わからないけれど、わかる。「たらい」じゃなくて「洗面器」だろうと、すぐ、わかる。その小さな違和感が、そこにあることばそのものを「孤立」させる。「独立」させる。西脇の流儀で言えば「淋しく」させる。まるで宇宙にほうりだされたたったひとつの「アルミのたらい」のようにくっきりと見える。
 それに「シャツ一枚きて」がぶつかる。
 これも、実に、「淋しい」。美しい。「音楽」がある。
 「銭湯にかけこむ少年は淋しい光りだ」は補足だ。けれど、この補足がないと「淋しい」がわからない。

アルミのたらいをもつてシャツ一枚きて

 この完璧な「音楽」に、また「音楽」をつづけるのは難しい。

ピエトロ ペルジーノを見に伊太利
に行つてきた友人からもらつたいばらの根に
つめるために八時頃街へ
パイプタバコを買いに出たが
この光りにあたつてそれは罪悪に
しかみえない--

 この、行の「わたり」のぎくしゃくとしたリズム。それがかろうじて「ことば」を独立させる。「ピエトロ」「ベルジーノ」というカタカナに「イタリア」ではなく漢字で「伊太利」ということばをぶつけるとき、ことばは互いの連絡切断され、孤立する。「アルミのたらい」のようになる。「に行つてきた友人からもらつたいばらの根に」は両端を切断され、「淋しい」。
 「八時頃」というのも、無意味に孤立している。だが、どんなに「無意味」「孤立」というものが出現しても、それは「アルミのたらいをもつてシャツ一枚きて」という美しさに匹敵できない。

アルミのたらいをもつてシャツ一枚きて

 は、「無意味」という「意味」ではなく、ほんとうに「意味」というものがないのだ。何とも関連していない。つながっていない。「友人」とも「外国」(伊太利)とも「パイプタバコ」とも--つまり、何らかの「教養」っぽいもの、「意味」っぽいものから孤立している。
 その1行が、もし何かとつながっているとしたら、それは宇宙の核、宇宙全体の虚無とつながっている。向き合っている。向き合うという形で、切断されたまま、つながっている。 

 意味・内容とは関係なく、私は、ただそういう1行に出会いたくて詩を読んでいるのだと、そういうときに気がつく。




旅人かへらず (講談社文芸文庫)
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誰も書かなかった西脇順三郎(134 )

2010-09-01 11:24:16 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 夏の間、西脇について一回も書かなかった。まだまだ夏がつづいているのだけれど(九州では11月になるまで、夏だ)、「夏の路は終つた」という「失われた時」の1行目をたよりに、また書きつづけてみることにする。

カーテンをしめて
失われた時を
考えよ
ぜんそくやみのプルーのように
ただ過去は神経のような根をはつた
暗い庭で混沌としてうす紫になつている
暗い神々のたそがれである

 「失われた時」はプルーストの小説のタイトルから借用したものである。だから「ぜんそくやみのプルー」のようなことばがでてくる。ことばは、どうしても「意味」を抱え込んでしまう。西脇においても、である。
 けれど、西脇は、そこから逸脱する。

あまりに植物的な植物的である
あまりに葉緑素的な
あいまいな盆地の沼地のくらやみだ

 「あまりに植物的な……」はニーチェのもじりだが、その次の行、「あまりに葉緑素的な」の「葉緑素」という音--ここに、私は、つよく西脇を感じる。植物→葉緑素という「意味」のつながりもあるのだけれど、そういう「意味」のつながりではなく、「葉緑素」という音そのものを美しさに西脇を感じる。
 「よーりょくそ」。
 日常的には存在しない音のつながり。音楽。
 そして、このあと詩は次のように展開する。

羅馬の宿で噴水の音にねむられない
あのポールの血統をうけた男も
蟋蟀の音におびえるマクベスも
人間の存在を語る唯一の音を避けた

 「音」「音」「音」がつづくのである。「噴水の音」はふつうに使うが「蟋蟀の音」はふつうにはつかわない。日本人ならば。
 「葉緑素」ということばを書いたとき、西脇は「音」を強く意識しているのだ。きっと。


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誰も書かなかった西脇順三郎(133 )

2010-07-11 15:20:41 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇順三郎のことばに対するまじめな研究論文を読んだ後につづけて書くのは、なんだか窮屈な感じがするが、まあ、書きつづけてみる。書きはじめれば、きっと気分も変わるだろう。(「日記」なので、私は気楽である。)
 『失われた時』(1960年)。その「Ⅰ」。

夏の路は終つた

 私はこの書き出しが好きだ。何が書いてあるか、はっきりとはわからない。有無をいわせず「終つた」と断定してしまう意志(?)の強さにぐいと引きこまれる。強いリズムに引きこまれる。

 「夏の路は終つた」。これはしかし、なんだろう。
 「夏の路は終つた」というが、現実にはそういうことはありえない。「夏」は終わるだろうが、「路」が終わるということはない。正確にいうなら、路を歩く夏は終わった--ということになるだろう。けれど、西脇はそういう「学校教科書」文法とは違ったことばをつかう。
 「夏の路は終つた」--この行で、他の読者はどんなイメージを思い浮かべるのだろうか。たとえば夏の野。丘のようになっている。路がのぼっていって、空中で途絶えている。あるいは、遠い遠い野。路は遠近法の焦点のように消えている。
 書きながら、あ、私は無理をしてイメージをつくり出しているなあ、と思ってしまう。私は、不思議なことにイメージを思い浮かべない。「路」がぜんぜん思い浮かばない。
 西脇が絵画的(イメージ)詩人であると聞くとき、私が落ち着かなくなるのは、こういう体験があるからかもしれない。
 私は「路」をイメージとして思い浮かべることができない。あえていうなら、私は突然、「イメージ」の欠落に落ち込む。「路」が見えないまま、その見えないものが何かあるとという短いことば、その短さの中にあるリズムの強さが、2行目へ一気に引きこむ。

あの暗い岩と黒苺の間を
ただひとり歩くことも終つた

 あ、「路」というのは、どこか山の中だね。それは「路」ではなく「径」という字でもあてるべきものかもしれないし、もしかすると「けもの道」ですらないかもしれない。だれも歩いていない。ただ西脇だけがぶらぶらと歩いているだけである。
 「路」なんて、ない。
 2行目にきて、あ、「路」なんてないじゃないか、ということに気がつく。そしてそのとき、「黒い岩」と「黒苺」は、見えるのである。「路」を消して、リアルに浮かび上がってくるのである。
 このイメージ(?)の、まったく見えなかったり、突然くっきりみえたりする「差」が楽しい。
 正確に表現することはできないが、西脇のことばは「イメージ」を残さない。次々に消してしまう。「絵画」というのは、イメージを平面に定着させたものである。けれど、西脇はイメージを定着させていない。むしろ、次々に消している。それは「絵画」ではない。(あえていえば、映画がイメージをつぎつぎに消しながら突き進むけれど……。いうならば、それは「映画的」であるかもしれないけれど、絵画的ではない--私にとっては。)

魚の腹は光つている
現実の眼の世界へ再び
楡の実の方へ歩き出す

 もう、ここには「路」は完全に消えている。そして黒い岩も黒苺も。
 「現実の眼」ということばを正直に信じれば、西脇にとって「夏の路」は「現実の眼」が見たものではなかったことになる。「魚の腹は光つている」からが「現実の眼」で見るものになる。
 「失われた時」はプルーストを思い起こささせる。「楡」はトーマス・マンを思い起こさせる。そうすると、「現実の眼」というのは必ずしも「現実」ではないかもしれない。「文学」というか、「芸術」をくぐりぬけてきた眼ということになるかもしれない。
 そのことから逆に、「夏の眼」を想像してみるなら、それは「文学(芸術)」を離れた眼になるかもしれない。なまの肉体の眼。いや、自然の眼。加工されていない眼。文学から遠く離れて、休んでいる眼。そういうことになるかもしれない。

 西脇は「眼」の経験を書こうとしている。けれど、それは私たちがふつうにいう「眼」ではない。「文学の眼」と「自然の眼」の違いを体験する眼である。
 私たちの意識は(当然目も、つまり視神経も)、私たちがなれ親しんできた「生活」に影響されている。知らず知らずに「文学的」に世界を見てしまう。それを「夏」に体験した「自然の眼」に、あたらしく体験させてみる--そのときの、内的変化(精神・意識の動き)を西脇は書こうとしている。
 私は、そう感じられる。
 「眼」が体験するものだから、それは一義的には眼にみえるイメージ(絵画)に似ているかもしれないけれど、それは絵画として定着させようとすると破綻してしまう--私は、そう感じてしまう。
 絵画とは別のものが西脇の「芯」に存在する--と私はいつも感じてしまう。




西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(132 )

2010-07-09 12:28:26 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 きょうも「番外篇」。八木幹夫「西脇順三郎の風土」を読んだ。「幻影」27(2010年05月31日発行)
 『旅人かへらず』の詩に登場する「風土」について書いている。「六五」の

よせから
さがみ川に沿ふ道を下る
重い荷を背負ふ童子に
道をきいた昔の土を憶ふ

 この「さがみ川」は「相模川」であり、八木は土地鑑がある。それで、西脇のことばを現実の風景と結びつけ、そのときに感じる「違和感」を手がかりに西脇のことばを考えている。
 きのう読んだ澤のことばに比べると、私は、八木のような読み方が好きだ。八木は八木で「正解」を追い求めているのかもしれないけれど、西脇が具体的にどの風景を描いているかということよりも、西脇のことばに触れて感じたことを書いている。
 たとえば、

 西脇さんは目にした現実を画家の目でデフォルメし、ことばで対象を無時間の世界に置き換えてしまう。

 という具合である。八木は西脇を「画家」の目をもった詩人ととらえている。ただし、その「画家」は、八木の目とは違った世界をとらえる。そのことを楽しんでいる。

詩人の意識の底には常に絵画的記憶が眠っている。
 詩に表現された現実は、写真や映像とは異なる。(略)詩のことばは固定的な現実的像を限定しない。読者の中で勝手に映像化されたり、ある種の情感に変化したり、五感とは異なった像を脳のどこかに自由に結ぶのだ。

 澤と八木の違いは、「読者」の「勝手」、「自由」をどれだけ認めるかという部分にあると思う。澤は読者の「勝手」「自由」を排除して、西脇のことばの「正解」を探しつづけている。八木は、「勝手」「自由」があってもいいじゃないか、という。それは、八木が、八木自身の「勝手」「自由」で、西脇のことばを読み、いろいろ思っているということだ。
 こういう読み方が私は好きだ。
 理由は簡単。
 あれ、八木さん、そうなの? と、気楽に言えるからである。私は「相模川」の風景を見たことがないので、八木よりももっと勝手に、もっと自由に西脇のことばを読んでいる。私は、風景を気にしていない。

 で、思うのだけれど。

 西脇って、ほんとうに絵画的? 私は西脇のことばから「絵画」を感じることは少ない。風景が思い浮かばない、というのではないけれど、もっと違うものを感じる。
 たとえば、『第三の神話』の部分、

ペルシャ人のような帽子をかぶつて
黒いタビラコのような鬚をはやした
男がこの庭を造つたのだゴトン
紫陽花のしげみから水車の女神が
石をたたいて猪を追う音がする。

 この部分にふれて、八木は、

 「男がこの庭を造つたのだゴトン」というところで思わず私は可笑しくて吹き出してしまった。

 と書いている。吹き出してしまったが、やがて、「ゴトン」がシシオドシの音だとわかり、ことばが京都の詩仙堂の庭に収斂していく、一枚の「絵」になるのを、「目にした現実を画家の目でデフォルメし、ことばで対象を無時間の世界に置き換えてしまう。」というような感想を書く。 
 うーん。
 なんだか、かっこよすぎて、「可笑しくて吹き出してしまった。」というところからずいぶん遠くまできてしまったなあ。もっと、おかしいまま、笑ってよ、笑ったら違ったものがあふれてこない? 私は、そう思ってしまう。
 私は、実は、「男がこの庭を造つたのだゴトン」では笑わない。読んだ瞬間「ゴトン」はなんのことかわからないが、おかしくはなかった。同時に、「ゴトン」がとても重要だと、瞬間的に感じた。瞬間的に重要だと感じたから、笑えなかった。なぜ、重要だと感じたのか。とても単純である。「ゴトン」がないと、その行のリズムがあわない。「音」が足りない。
 前の2行の、特に「タビラコ」というわけのわからないもの(その前に「ペルシャ」があるので、なんだか外国の何か、もしかすると人?と思ってしまいそうな何か)、つまり、「絵」として浮かんでこない(絵画的ではない)ことばとつりあわない。
 音のバランスがとれない。
 「男が庭を造つたのだ」だけでは、その1行は「意味」が「絵」になりすぎて、前の行とつりあわない。
 そのアンバランスを「ゴトン」という音が重しのようにととのえる。「タビラコ」と「ゴドン」というふたつの、わけのわからない音が2行にわたった存在することで、音のバランスをとっている。
 そのことを私は瞬間的に感じた。
 絵画ではなく、何かほかのものが、西脇のことばを動かしている。
 それを私は「音楽」というのだけれど。

 それは、たとえば、次のような部分の感想を読んだときにも感じる。うーん。八木さん、そう感じるの? 私はまったく違うふうに感じるのだけど、とついつい、いいたくなる。

 三
  自然の世の淋しき
  睡眠の淋しき

 第一行目の詩句はまず常識の範囲で受け止めることができる。しかし「睡眠の淋しき」とはどういうことなのか。「ねむりの淋しき」と大和ことばでも可能なところを敢えて「睡眠(すいみん)」と漢語を持ち込んでくる点が新しい。さらに作品(二)の「人の世の淋しき」と作品(三)の「自然の世の淋しき」とは照応関係にもなっている。「人の世」と「自然の世」が等価であると言いつつ、いきなり「睡眠」が淋しいという発想には可笑しさと哀しさがつきまとう。

 私は、ここには「さ行」の音の響きあいがある、しか感じない。「し」ぜん。「す」いみん。「さ」び「し」き。そしてそれは、作品(二)の「うす明りのつく」のう「す」あかりとも呼応する。
 「意味」とは違うもの、「絵」とは違うものが西脇のことばを動かしていると私は感じてしまうのだ。
 それは、(四)かたい庭、(五)やぶがらしという一行ずつの詩においてもそうである。「かたい庭」を八木は枯山水の石庭と読んでいて、私は、思わず、あっ、と声を上げてしまったけれど(私は何も生えていない、土がかたくなった庭を思ったのだ)--それはそれとしておいて……。ここでも私は、「か」たいにわ、やぶ「が」らし、という音の呼応があるとしか感じないのだ。八木は枯山水の「枯淡」とヤブガラシの生命力の対比を読みとっているけれど、私は、「かたいにわ」「やぶがらし」とつづけて読むとき、とても気持ちよい音があるとだけ感じて、それがうれしい。
 あの有名な、「天気」でも同じ。

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日。

 くつがえ「さ」れたほう「せ」きのようなあ「さ」/なんぴとかとぐちにて「さ」「さ」やく/「そ」れはかみの「せ」いたんのひ。--読んでいて、とても気持ちがいい。「さ行」はちょっと複雑で、ほんとうは「さ行」と「し行」にわけなければいけていのかもしれないけれど、この詩では、ちゃんと「し」が避けられて「さ行」だけが響きあっている。「ささ」やく、から「そ」れは、への音の移行が、私は特に、あ、いいなあ、と感じる。

よせから
さがみ川に沿ふ道を下る
重い荷を背負ふ童子に
道をきいた昔の土を憶ふ

 これも「沿ふ」「背負ふ」「憶ふ」という音のなかにある「お・う」のくりかえしがリズミカルでいいなあ、と感じる。そして、その音の美しさに聞きほれてしまうので「道をきいた昔の土を憶ふ」という行の変(?)な感じを、まあ、いいか、と思ってしまう。「道をきいた/昔の土を憶ふ」と切れるの? 「童子に道をきいた」でひとつながり? 昔の土って、その道は昔は土だったけれど、いまは舗装されている、ということ?
 わかんないけれど、まあ、いいか……。



 ついでに。
 八木のいっている「画家の目」という感じは、澤のことばで言いなおせば「イメージ」ということになるのだと思う。
 その澤が、「雨」という作品について書いていた。

南風が柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした。
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。

 この詩から、澤は「ダエナ」をひっぱりだし、ギリシャ神話をだし、エロチシズムを説明している。それは「正解」としかいいようのない注釈(解釈)なのだと思うけれど、こういう解説を読みながらも、私は、やはり「音楽」を感じる。
 「絵」を持ち込んで説明されているにもかかわらず、私が感じるのは「絵」ではなく、「音楽」である。
 「絵」というのは、私の感覚では「空間」である。「雨」では、視線が青銅、噴水、ツバメ、潮(海?)、砂、魚、寺院、風呂場、劇場とぬらしていく。それは「空間」のなかに、配置しなおすことができる。
 でも、「ダエナ」は? 雨が青銅から劇場までぬらしていくのが「いま」という時間だとすれば、「ダエナ」は? それは私には「いま」に属しているとは感じられない。「空間」が破られて、「空間」ではないものがあらわれている。
 それは、八木のことばを借りていえば「時間」かもしれない。八木は「無時間」ということばをつかっているが、「無時間」とは、「いま」を逸脱している、超越しているということだと思う。
 そういう「時間」のなかに「音楽」がある。「音楽」は「絵画」とは違って「空間」がけではなく「時間」がないと成り立たない。



野菜畑のソクラテス―八木幹夫詩集
八木 幹夫
ふらんす堂

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誰も書かなかった西脇順三郎(131 )

2010-07-08 11:33:06 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(131 )

 「誰も書かなかった西脇順三郎」というタイトルから離れてしまうのだけれど、きょうは、「他人が書いている西脇順三郎」。
 「幻影」というのは「西脇順三郎を偲ぶ会」の会報である。その27号。(2010年05月31日発行)澤正宏の「『ギリシア的抒情詩』の奥深さ」。2009年06月06日の記念講演が採録されている。
 とても驚いた。「コリコスの歌」という詩を引用しながら、澤は語る。

 浮き上がれ、ミュウズよ。
 汝は最近あまり深くポエジイの中にもぐつてゐる。
 汝の吹く音楽はアドビス人には聞こえない。
 汝の喉のカーブはアドビス人の心臓になるやうに。

 何かぜんぜんわかりませんね。だけれども、「コリコスの歌」というタイトルに注目しますと、資料に写真がありますが、「コリコスの歌」というタイトルは、実はそこに載せている『イメージズ』という、これはリチャード・オールディントンという人が書いた詩集ですが、そのタイトルをもらってきているわけです。

 澤は、簡単に言うと西脇のことばの「出典」を全部調べ上げようとしている。そして、実際、それを調べ上げているのである。
 書き出しの「浮き上がれ、ミュウズよ。」はH・D(ヒルダー・ドゥーリトル)という人の「OREAD」の「Whirl up, sea --」を借用したものである。そしてそれは、この詩がイメージの詩であることを語っている。「アドビス人」の「アドビス」はヘレスポントス海峡近くのトルコの町であり、「田舎の人」という「意味」を持っている。そして、その「田舎の人」というのは「日本人」である。
 そういうことを調べ上げた上で、澤は、「コリコスの歌」で西脇は、イメージの豊かな詩、新しい日本の詩を書くことを宣言している。その新しい詩は、藤村の感覚に親しんでいる日本人にはわからない。--そう宣言している、と解説している。

 なるほどねえ。

 この「なるほどねえ」という感想が、澤のことばを読めば読むほど、くりかえし、私の中から沸き上がってくる。西脇の書いていることばの「意味」がくっきりと見えてくる。こんなにくっきりとみえてくるということは、澤の解説が「正解」ということの証なのだろうと思う。
 無学の私は、澤のことばに対して、どんな反論もできない。
 ただただ、よくまあ、こんなに調べてくるものだなあ、と感心する。

 で、感心しておきながら、こんなことを書くのは変なのかもしれないけれど。澤の楽しみって、何?
 たぶん、ことばの「意味」を突き止めることなんだね。
 「意味」を突き止めるために、ひとつひとつ、ことばの「出典」をつきつめる。「出典」が描き出す「ことばの地図」によって、「ことばの街」を復元する。「意味」という「時空間」を再現する。あるいは補強する--といえばいいのかな? 
 あ、たいへんだなあ。
 澤は何度も西脇には追い付けない。全容を解明できない--と書いているけれど、その全容を解明できないと知ること、認識すること、その認識の証拠として「わかる」ことを正確に「わかる」と明記する--それが、たぶん、澤の楽しみなのかもしれない。
 西脇にはたどりつけないんだけれど、私はここまでたどってみました、と言えることが澤の楽しみなんだろうなあ。
 あ、すごいなあ。
 でも、とても変な気持ちになる。

 西脇の詩が、これ以上ないくらい「正解」として分析され、「意味」が特定されているのに、澤のことばを読んだあとでは、西脇の詩がそんなにおもしろいとは感じられないのだ。西脇がやろうとしていることはとてもよくわかるけれど、なんといえばいいのかなあ、ある詩人がやろうとしいること(本意)を正しく認識したり、そこに書いてあることを正しく把握することが、そんなに大切なのかなあ、と疑問に感じてしまう。
 あ、正しい(?)いいかたではないね、これは。
 簡単に言うと、澤のことばを読むと、澤が西脇のことばの「意味」を特定し、(特定でき)、そのことをとても喜んでいるということは、とてもよくわかる。あ、ここまで調べ上げ、「正解」にたどりついた--うれしい。その「うれしい」という喜びは、とてもよくわかる。
 でも、その喜びに、西脇の詩の楽しさが隠されてしまっている。澤の喜びが、西脇の詩を上回っている。
 澤は西脇に追い付けない、と書くけれど。

 追い付く必要ってあるの?

 私は、そこに疑問を感じてしまう。だれかに追い付き、追い越す必要って、あるの? 文学というのは、たしかに、それを書いた人の思想(感情)を正しく知る必要があるのかもしれないけれど、正しいことが「追い付く」こと?

 これは私の「自己弁護」になってしまうから、書いてはいけないことなのかもしれないけれど。
 私は「正解」にたどりつくよりも、あ、私はまた間違ってしまった。書いても書いても間違ったことしか書けないなあ。なぜ、こんな間違いへ間違いへと誘うことばを他人は書くのかなあ。そして、そのことばに誘われて、間違えてしまうことが、なぜ、こんなに楽しんだろう、と思う人間なのだ。
 うまく言えないけれど、こどもが、「してはいけません」といわれると、ついついその禁じられたことをしてしまうように、私は、何か間違ったこと、悪いことをしたい。自分自身を裏切るようなことがしてみたいのかもしれない。好きなひとについて行くと、「道」を踏み外してしまう。ようするに、自分の知らなかったことを、そしてしてはいけないということをしてしまい、してしまったあとで、でも、あれは自分の意思ではなくて、悪い友達に誘われたからそうなってしまった--そんなふうに、ずるい弁解をしたいのかもしれない。
 「間違い」のなかに、何か、自分を逸脱していくもの、自分のコントロールできないなにかがある--それが楽しいのだと思う。

 「正解」は、とても窮屈なのだ。

 で、ここで、こんな飛躍をすると、岡井隆に叱られるかもしれないけれど--岡井隆の『注解する者』、あの詩集の「注解」は「正解」ではあるんだろうけれど、生活というか日常にまみれている、暮らしの汚れが染み込んでいる。そのために、間違った美しさ、不純な美しさに達している。それがいいんだよなあ、と思うのだ。
 澤のことばには「間違い」がない。あるかもしれないけれど、素人には指摘できる「間違い」がない。岡井のことばには、こんな読み方は失礼かもしれないけれど、あ、奥さんをこんなふうにからかうのか、聴講生の質問にこんな具合にいらいらするのか、かわいいねえ、なんて俗っぽい感想を差し挟むことができ、そういう瞬間に、「好き」という気持ちが生まれ、積み重なって「大好き」になる。人を好きになるというのは、自分がどうなってもいいと思うこと、とんでもない「間違い」の一歩なのだけれど、その一歩が、澤のことばに対しては踏み出せないなあ。
 「間違っています。正解は、これです」と叱られそうで……。
 これが岡井なら(会ったことはないのだけれど)、「あんた、ばかですねえ」とこつんとたたかれる。そのとき、あ、岡井の手が自分の頭に触ってくれた、覚えていたいからシャンプーするのはやめよう、なんて、とんでもないことを考えてしまうんだけれどなあ。



西脇順三郎のモダニズム―「ギリシア的抒情詩」全篇を読む
沢 正宏
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誰も書かなかった西脇順三郎(130 )

2010-06-06 22:25:33 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『失われた時』。「Ⅰ」の書き出し。

夏の路は終つた
あの暗い岩と黒苺の間を
ただひとり歩くことも終つた
魚の腹は光つている
現実の眼の世界へ再び
楡の実の方へ歩き出す

 抽象と具象の交錯する感じがおもしろい。夏の間、西脇はひとりで歩き回った。路傍には暗い岩があり黒苺もあったのだろう。そういう過去の描写(?)に、ふいに、時制を破ってことばが闖入する。

魚の腹は光つている

 この現在形。強烈な印象は「過去形」にならずに、「現在形」のまま、未来へと時間を破っていく。
 そのあと……。

秋の日の夜明けに
杏色の火炎があがる
ポプラの樹の白いささやきも
欲情のつきた野いばらの実も
宿命の人間をかざる
復讐の女神にたたられた
秋の日の小路を歩きだして
どうしてももとへかえれない

 「宿命」「女神」というような、「過去」が誘われてでてくる。「時間」がまったく無秩序になる。そういう印象が私にはする。そして、この無秩序、時間の「枠」が外れてしまうのが、西脇の詩であると思う。
 詩に「時間」は存在しない。「時間」を突き破るとき、その時間を突き破るという運動が詩なのだ。



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誰も書かなかった西脇順三郎(129 )

2010-06-02 23:02:34 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇のことばは「もの」と向き合っているのか。「もの」と対応しているのか。つまり、「流通言語」のように、「りんご」ということばは「りんご」と向き合っているのか。これは、むずかしい。
 セザンヌの「りんご」が「りんご」と向き合っているか--というと、私は向き合っていながら向き合っていないと思う。「りんご」ではなく、りんごの「形」「色」と向き合って、そこからその形と色を超越しようとしているという形では向き合っているが、「りんご」になろうとはしていない。
 同じように、西脇のことばは、「もの」と向き合いながらも、「もの」とは向き合っていない。「もの」になろうとはしていない。
 そして、これからが、ちょっと面倒くさい。
 セザンヌの「りんご」が「りんご」になろうとしないことによって、絵画としてのりんごになるように、西脇のことばも「もの」になろうとしないことによって、詩のなかで「もの」になっていく。

 あ、こんな書き方ではわからないね。整理して説明したことにはならないね。--でも、それ以上は、私には書けない。漠然と、私は、そういうようなことを考えている。西脇のことばを読みながら。

 「神話」。

九月の末に
驚くべきひとに会いに
野原を歩いていたことがあつた
何も悲しむべきことがなかつた
粘土の岩から茄子科の植物が
なすのような小さな花をたらして
いるが悲しむほどのものではない

 ここに書かれている「茄子科の植物」。これはもう「植物」ではない。「驚き」や「悲しみ」のように、人間の感情であり、そうであることによって、「ことば」になっている。
 それは「混同」である。
 数行先に、次の行がある。

つゆ草が
コバルト色の夏を地獄へつき落とそうと
している以外に
人間と神話との混同をみることが
出来ないのだ

 「混同」することで、どちらでもなくなる。「もの」を「ことば」を超越する。それは「ことば」ではないから、それをことばで説明することはできない。できないけれど、そんなけとを言ってしまうと、批評(感想)というものは成り立たないので、不可能と知っていながら、こんなことを書いている。



西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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誰も書かなかった西脇順三郎(128 )

2010-06-01 22:44:16 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 長い間、書くのを休んでいたので、どこまで書いたか、どんなことを書いたか、ほとんど忘れている。
 『第三の神話』のなかの「弓」。

山の路をおりて来ると
落葉の中にたそがれのような宝石
をひろつた どういう女のものかな
どこへ行つても女のものばかりだ

 「たそがれのような宝石」は「(覆された宝石)のやうな朝」の対極のものだろう。そうすると「女」は「神」の対極としての存在かもしれない。「神」の対極にあるのは「人間」だが、西脇は、そのなかでも「女」を対極として選んでいる。

どこへ行つても女のものばかりだ

 は、何を指して言っているのか、よくわからないが、それを「人間」と考えるといいのかもしれない。「神」のものではなく、「人間」のもの。
 これは、別な言い方をすれば、西脇は「人間」のものではなく、「神」のもの--つまり、「永遠」を探している、ということなのかもしれない。「永遠」がみつからない。そのかわりに「人間のもの」ばかりを見つけてしまう、と。
 そう考えると「たそがれのような宝石」に「意味」がでてくる。

 でも、「意味」が、いいことかどうか、むずかしい。こんなふうに「意味」にことばをつくくりつけていいものかどうか。

 最後の2行。

ものはそれ自身でない時に
初めてそれ自身になるのだ

 この「反語」。矛盾。「もの」が「もの」ではないとき、というのはどういうときだろう。「もの」がその「もの」の名前で呼ばれないときである。
 別な名前で呼ばれるとき。
 これは、詩を書いている人間なら直感的にわかることかもしれないが、「もの」が「比喩」としてつかわれたときが、それにあたる。
 「(覆された宝石)のやうな朝」は「朝」ではない。「宝石」でもない。「たそがれのような宝石」も「たそがれ」でもなければ「宝石」でもない。
 西脇の書いている「もの」は「ことば」と置き換えることもできるかもしれない。

ことばはそれ自身でない時に
初めてことば自身となるのだ

 そこから、こんなことも考えられる。

人間はそれ自身でない時に
初めて人間自身となるのだ

 そして、ここからもう少しことばを動かして、

人間(男)は男自身でない時に
(つまり、女である時に)
初めて人間自身となるのだ

 これは、西脇が男だからそう考えるのであって、女だったら逆に考えたかもしれない。つまり、自己否定--その先に、「それ自身」がある。
 「神」が自己否定したら何になるだろう。--というようなことは、しかし、ここでは考えるのはやめておこう。ちょっと頭をかすめたのだけれど。



最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
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誰も書かなかった西脇順三郎(127 )

2010-04-12 23:30:48 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「第三の神話」は長い詩である。こういう長い詩は、私は適当にページを跳びながら読む。行を飛ばして、あっちへ行ったり、こっちへ来たり。
 次の部分が、とても好きだ。

さわらのさしみとなすで神々の饗宴となった
深い深い夢はわれわれをみる
われわれは夢をみない
化学はもう物理として説明する方がよい
ポエトリとは何事ぞ
早く物理をやるべきだ

 「さわらのさしみとなす」。この音の動きはとても美しい。「さ行」は、ほんとうは「さ行+し行」だと思うけれ。「さ」わら「さ」しみの頭韻とのあと、さ「し」み、な「す」とつづくと、その響きがとても美しくなる。「し」が「す」に支えられて、「さ行」から飛び出して、というか、ちょっと離れた場所できらきら輝いているように感じる。その印象が、「さ行+し行」という印象に重なる。
 「深い深い夢はわれわれをみる/われわれは夢をみない」の対になっている行は、私をちょっと立ち止まらせる。深い深い夢はわれわれを「夢」みる--ではない、ということが、私を立ち止まらせる。夢は直接、われわれを見る。夢自身の「肉眼」でわれわれを見る。
 あ、そうか、夢にも「肉眼」があるのか、と、はっと驚く。
 「われわれ」のことは知らないが、私は「肉眼」ではな夢を見ない。夢を見るとき、私は眼を閉じているからね。
 でも、夢がわれわれをみるとき、夢は「肉眼」を閉じないのだ。夢はわれわれを夢見たりしないのだ。
 そして、その夢って何? われわれが見た夢?
 何かわからなくなるね。わからなくなるけれど、不思議なことに、何かを納得してしまう。
 そしてすぐに、

化学はもう物理として説明する方がよい

 これは、そうだねえ。そのとおりだねえ。化学反応式なんて、物理だもんねえ。
 納得しながら、「さわらのさしみ」から「物理」まで、このスピードがものすごい。何に納得したのかわからないような、ことばのスピードだ。「意味」ではなく、たぶん、スピードに納得させられているんだなあ、と感じる。
 「ポエトリ」が出てくるのは、まあ、西脇が詩人だからなんだろうなあ。


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誰も書かなかった西脇順三郎(126 )

2010-04-11 23:27:14 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 西脇は、いつも「音」そのものに飢えている。それは、「第三の神話」のつづきを読めばわかる。

大亀の上にのつかつている石碑の
碑文を旅の学者が大きな笠を
かぶつて驢馬にのつて
あごで判読しているのを
白い服を着た少年が聴いて
いるのもよく見える
最後のツクツクボーシも鳴いている
ことがよくわかるような気がした
四十雀が松の中にとんでいるのも
こんな風景を女の家の朱色に塗つた
二階の窓から鳥を見る望遠鏡でみた

 「みた」。「見た」こと、視界が描かれているのだが、その「音」のない世界で、西脇は「音」を聴いている。
 「最後のツクツクボーシも鳴いている/ことがわかるような気がした」の「こと」がとても不思議だ。
 西脇にとって「音」とは「こと」なのだ。「素材」というより、そのなかで何かが動いていて、その動きが「こと」なのだ。ツクツクボーシが鳴いている。その鳴き声ではなく、鳴いている「こと」。なぜ、鳴いているのか。その「理由」のようなものが、「こと」。
 この「こと」は、見ることができない。見えない。どんな望遠鏡でも、「こと」は見えない。
 「こと」を引き受けるのは「気」である。「気がした」の「気」。
 それは、こころ、ということかもしれない。

 「音」は「こころ」と触れ合うのだ。こころ、の接触。そのとき、どこかで「音楽」が鳴るのだ。それを西脇はすばやくつかまえる。




旅人かへらず (講談社文芸文庫)
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誰も書かなかった西脇順三郎(125 )

2010-04-10 23:48:09 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 西脇のことばは、ある対象があって、それを語るというよりも、ことばがある対象を引き出してくる。いま、ここにない何かをここにひっぱりだすために動いている。
 「第三の神話」の書き出し。

秋分の日は晴れた
久しぶりに遠くの山がはつきり見える
曲りくねつた松の木の間を
丁髷を結んだ主人の後から
琴と酒を袋に入れてかついでいる
少年の従者が歩いているのまで
も見える
    ああそれからまた
魚の骨のようなトゲのある
古木のサイカチの木の下にある
大亀の上にのつかつている石碑の
碑文を旅の学者が大きな笠を
かぶつて驢馬にのつて
あごで判読しているのを
白い服を着た少年が聴いて
いるのもよく見える

 3行目までは現実に「見た」風景かもしれない。けれど、それ以後は「いま」「ここ」から見える風景ではない。「松」を見ることによって、そこにはないものがひっぱりだされてきているのだ。そして、それは一気に見えるのではない。ことばとともに、1行ずつ、見えてくるのだ。
 それは「見えている」風景をことばで追いかけているのではなく、「見えない」風景をことばでひっぱりだしているのだから、リズムに乗るまでに、ちょっと時間がかかる。

も見える
    ああそれからまた

 この改行、空白の形が、私はとても好きだ。「も見える」まで動いてきて、いったん、ことばが止まってしまう。次にどんなふうに動いていくか、一呼吸がある。その一呼吸は「改行」の呼吸とは違う。改行して、それから、前の1行を無言で追いかけて、追い付いて、それから動きだすのだ。
 いきなり「存在」をひっぱりだすのではなく、「ああ」という「声」を出して、ことばを誘っている。「ああ」は詠嘆ではなく、ことばを、音を誘うための「誘い水」のようなものだ。「それからまた」という「無意味」なのことばの、「音」。「音」があって、ことば生まれる。
 つづく「の」の連続。西脇のことばに特徴的にみられる動き。
 そして、「……の……の……の」の果に「のつかつて」の「の」の乱調がある。私は一瞬、

大亀の上ののつかつている石碑の

 と読んでしまった。「上に乗つかつている」ではなく、「上の乗つかつている」である。たぶん「の」の方がリズムがいいと、私は思うのだけれど、ただし、「に」ではなく「の」だとすると、その次の「碑文を」「大きな笠を」の「を」の繰り返しへの「転調」がむずかしくなると思う。その行にも「……の……の」ということばがほしくなってしまう。「上の」ではなく「上に」という変化があって、「碑文を」「笠を」がとても読みやすくるなる。
 こういう部分に、私は、西脇の「音楽」を感じる。
 つづく「かぶつて」「のつて」のリズムも、「……を……を」のリズムを引き継いでいる。リズムを引き継ぎ、「音」を引き継ぎながら、西脇のことばは、存在をひっぱりだすのだ。
 こういう「存在」は「見える」ということばが象徴的にあらわしているように、一瞬「視覚的」に感じられる。「見える」ものの変化だから「視覚的」であるという印象が生まれまる。西脇は「視覚的な詩人」だという印象が生まれる。
 でも、私には、どうしても西脇は「視覚的詩人」であるよりも、「聴覚的詩人」である。

あごで判読しているのを
白い服を着た少年が聴いて
いるのもよく見える

 「判読」(読む)「聴いて」(聴く)。そのことばのなかに「音」がある。視覚的なもの、「見る」をかきつづけながら、西脇は、どうしても「音」をともなう「読む」「聴く」を書かずにはいられなかったのだと思う。
 西脇は、いつでも「音」そのものに飢えている。


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誰も書かなかった西脇順三郎(124 )

2010-04-09 23:35:20 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇の詩のおもしろさに、ふいに飛びこんでくる口語の響きがある。「ジュピーテル」の、釣りをする部分。カマスを狙っているのだが……。

淡紅色のみみずを入れておく桃の
ブリキのカンはヴィーナスにみえた
時々風草をつんで風の方向をさぐる
「なんだまた鮒の野郎か」

 「なんだまた鮒か」ではなく「鮒の野郎か」。その「野郎」のなかに、ふいに連れの男の過去が噴出してくる。それはみみずを「淡紅色」と描写したり、わざわざ空き缶を「桃の/ブリキのカン」と描写する感覚とは違っている。そのために、ことばが乱入してきたという印象がある。そして、その乱入によって、ことばの動きがいきいきとする。ことばは、ことばに出会うために存在している、そのために動いているということがわかって楽しくなる。
 最後の数行。

こんどもこのギリシャ人をさそって
またソバ屋でお礼の木杯を巧みに
あげようと思つて夕暮に
天使のまねをして翼をつけて
訪ねてみた
「端午の節句でヒロセという村へ
行かれました」
「それはどうも」

 男は留守だった。応対した女(たぶん)は、「(夫は)ヒロセという村へ/いかれました」と「敬語」をまじえてしゃべっている。その敬語につられて「それはどうも」と、なんともあいまいな反応をする西脇(たぶん)。
 このリズムと、前にでてきた「鮒の野郎か」の違い。落差。
 ことばは、それぞれ「過去」をもっている。そして、その「過去」は、「口語」でこそ、くっきりと出てくる。ヴィーナスやギリシャにも「過去」というものがあるが、そういう「土地」を離れたことばではなく、その「土地」に生きている人間の「過去」。「肉体」というものが、ふいにことばのなかに乱入してきて、「文語」を破壊する。
 その瞬間に、私はおもしろみを感じる。




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誰も書かなかった西脇順三郎(123 )

2010-04-08 23:42:13 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇のことばは、どこで区切っていいかわからない。句読点がわからないときがある。「蘭」という作品。

矢車草をくわえた男が立つていた
永遠は時間の一点に
集まつてその一点に消える
永遠という女は思わず
身体を弓のようにまげる
永遠は悲しみとよろこびの間
をはてしなく行く
青みのかかつた茄子と
赤い唐辛のマネの絵
のついてピカソ焼きの
コップでコーヒーを飲んだ

 「永遠という女は思わず」は一般的(?)には「永遠という女は/思わず身体を弓のようにまげる」と書くところを、わざと行かえの位置をずらしたものなのか、あるいは、私は(あるいは男は)「永遠という女」のこと「は」「思わず」、自分の「身体を弓のようにまげる」のか。
 たぶん、前者なのだが、私は毎回毎回、後者のように読んでしまう。
 「永遠は時間の一点に/集まつてその一点に消える」という対になった2行が思念的というか、思考なので、それについて「思う」(肯定)一方、女のことは「思わず」(否定)と対にして読んでしまうのである。
 そして、その瞬間から、ことば(私のなかのことば)がぎくしゃくする。
 何か変なリズムになる。
 この変なリズムが、「をはてしなく」「のついた」という、「助詞」が冒頭に来る行のリズムで叩かれる。そして、叩かれて、永遠という女(のこと)は思わず、と読んでいた部分が、永遠という女は/思わず身体を弓のようにまげる、というふうにととのえられていく。
 これは不思議な体験である。
 ことばは、最初から「意味」(論理)をもって動いているのではなく、動いていく過程で、互いにことばを鍛え直しているという感じがする。そして、その「鍛え直し」のようなものこそ、詩だと感じるのだ。
 ある特別な思考(感覚)を表現するのではなく、ことばが動いて、ことば自身を鍛えることで、いままでとは違ったところまで動いていく--そういうことが詩なのだと感じるのだ。

太陽をよけるために
黄色い蘭を買つて
それで二人は口をかくして
永遠の微笑を見えなくした

 変だねえ。「太陽をよけるため」といいながら、口を隠すことが太陽をよけることになる? 何かが違う。何かが「流通言語」の「意味」とは違う。それがどう違うのか、つきつめるのはむずかしい。そして、そんなことをつきつめるよりも、蘭で口を隠し「永遠の微笑を見えなくした」ということばに、逆に、「永遠の微笑」、そしてその「口元」を見てしまう。感じてしまう。
 隠すことが見せること--というのは矛盾だけれど、そういう矛盾のなかで鍛えられ、育ってくるものを感じてしまう。
 そこに、やはり詩を感じるのだ。




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