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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール「サアディの薔薇」ほか

2023-02-05 15:58:57 | 現代詩講座

マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール「サアディの薔薇」ほか(朝日カルチャーセンター、2022年01月30日)

 マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール「サアディの薔薇」を読んだ後、受講生の咲く日を読んだ。
 「サアディの薔薇」には中原中也の訳と、高木信宏の訳がある。

今朝私は薔薇を持つて来ようと思ひ
あんまり沢山帯に挟まうとしましたから
結び目は固くなり、挟みきれなくなりました。

結び目はやがても千切れて、薔薇は風に散り、
海の方までもいつてしまひました。
そしてもう、二度と帰つて来ませんでした。

波はそのために赤くなりました。炎えてゐるやうでした。
今宵、私の着物はまだその匂ひが匂つてをります……。
せめてその匂ひを、吸つてください。               (中原中也訳)

あなたに今朝、薔薇を摘んできたかった。
でも締めた帯にあまりにたくさん挿したので、
きつく締まりすぎた結び目はもう持ちきれませんでした。

結び目ははじけました。薔薇は風の中に
舞い上がり、みな海に向かい飛び去りました。
薔薇は水を離れず、もう戻ってはきません。

波は花で真っ赤になり、燃えたつよう。
今宵、私の着物はまだその香りで匂い立っています。
どうぞ私のそばにきて芳しい思い出を吸い込んでください。     (高木信宏訳)

 受講生の全員が中原の訳の方が好きだという。私は、かなり驚いた。ここに描かれる女性の年齢は何歳くらいだと思うか、と質問したら、今度は全員が三十歳くらい。これにも、驚いてしまった。
 中也の訳に好感を持った理由を聞いてみた。どのことばが印象に残ったかを聞いてみた。最終行の「匂ひを、吸ってください」がいい、と全員が言う。やわらかい感じ。薔薇の花に存在感があり、朝から晩までの時間の流れと薔薇の変化が重なる。薔薇に、象徴性を感じる。
 私は、別の角度から、ことばにこだわって質問してみた。「二人の訳のなかで、自分ならつかわないということばがあるかな?」
 こういう質問は、たいがいの受講生がとまどう。特にむずかしい(日常的にはつかわない)ことばがあるわけではないから、「自分はつかわない」という意識がなかなか生まれないのだと思う。それが著名な詩人の訳となれば、その訳に「違和感」を持つことに抵抗があるのかもしれない。
 しかし、私はだれの作品を読んでも、あ、このことばは私はつかわない。私と作者はここが違う、と感じ、そこから詩の読み方を変えていく。
 「中也は、結び目はやがても、海の方までも、と書いている。この『も』の意味は? こういう『も』をつかう?」
 「『も』には強い感情がこもっている」
 「では、高木の訳の『水を離れず』は?」
 「薔薇に意思があるように感じる」
 「摘んできたかった、の『きたかった』は?」
 「ことばが、中也に比べて強い」
 中也の訳とは、たぶん、「摘んできたかった」「水を離れず」という部分が決定的に違う。それが、最終行に端的にあらわれている。高木の訳は、「直接性」が強い。「密着性」が強い。これは、やわらかくない、ということでもある。
 問題の最終行は、

Respires-en sur moi l'odorant souvenir        

 私はフランス語をほとんど知らないのでいい加減なことを書くのだが「en」は場所や時をあらわす。しかも、特に特定の場所を、時間をさすわけではなく、「場所/時」が存在する「そこ」という感じ。「sur moi 」というのは「私の上」。かなり、なまなましい。セックスで言うと、肌と肌が触れ合って(直接接触して)いる感じがする。
 中也の訳には、この「直接性」がない、と私は思ってしまう。「souvenir」ということばは出てくるが、なにか、「思い出」というよりも、いま、そこで蠢いている「欲望」を、「いま」を私は感じてしまう。高木の訳の方が、この「露骨な欲望」を隠していておもしろいと思う。
 中也も高木も「着物」ということば(訳語)をつかっている。ここに、私は、とてもつまずいてしまった。原文は「robe」。一般的には「ドレス」と訳すと思う。中也も高木も「ドレス」ということばを知っていると思う。なぜ「着物」と訳したのか。「帯」と訳しているのは「ceintures 」(複数)である。「ドレスの帯(ベルト)」なら「複数」は変だなあ、と私は思う。(ファッションのことは知らないが。)
 私はフランス人ではないし、フランス人の友人もいないので確かめようもないのだが、この詩で書かれている「robe」は「部屋着」ではないのか。もっと言うと「寝間着」なのではないのか。そして、「せめてその匂ひを、吸ってください」、あるいは「どうぞ私のそばにきて芳しい思い出を吸い込んでください」というのは、夜の訴えではないのではないのか。
 つまり、女は、前の夜(というか、朝まで)、別の男といた。朝になって、薔薇を持って、別の男のところへ行く。(もしかすると、同じ男のところにもどる。)昨夜までの自分とは違う私を抱いて、あるいは違う前の(つまり思い出の)私を抱いてと言っているのかもしれない。
 「熱愛」の詩であるかもしれないが、「若い娘の純愛」ではない。私の感じでは、どんなに若くても五十歳は過ぎている女のことばだと思った。中也の訳は、若すぎる、と感じた。
 詩だから、もちろん、「正解」はない。
 ことばをどう読むかは、読者の自由。そのとき、大切にしてほしいと思うのは、「自分のことば」と「作者のことば」の違いである。「違い」を見つけないことには、詩人にほんとうに「出会う」ことはできない。「違い」を見つけて、そのあと「違い」があっても共通する部分があるのを発見し、「共感」が動く。

雪景色  杉惠美子

いつか見た
合掌造りの家並みの
真冬の旅の暖かさ
冬は荒れて
白の美しさを際立たせ
風も荒れて
雪を美しく描く
荒れ狂うという
おのれにいつか会ったなら
幻想的なまでに
それは美しいのだと
いつか自分に言ってやろう
荒れ狂って 閉じ込められて
やっと 解放され動き始める時がくる
赤い椿の花が咲いた
白い椿の花も咲いた
ようやく大きく育つ冬が来た

 真ん中付近にある「荒れ狂うという」ことばが強烈である。「冬」が「荒れ狂う」のか「おのれ」が「荒れ狂うのか」。どちらか、はっきりわからない。両方なのだろう。この曖昧性(二重性)を「改行」がつくりだしている。この行の「改行」の仕方が、とてもおもしろい。「荒れ狂う」からこそ「大きく育つ」が強く響く。「大きく育つ」のは何か。椿か。「おのれ」か。そういうことを考えさせてくれる。

氷片  青柳俊哉

氷片がふる 時のない空のうえから 
高架のうえを 宇宙船が飛翔する 
高速で走りすぎる 氷の車の形象のように

ひらきはじめた芙蓉の花に指をふれる 
わたしがふれられている 柔らかく
しっとりしているわたしたち

駅へむかうひとの 心の円錐の底へ
童子の面立ちがまう 風景があふれだして
生家と銀木犀のドームが空へひらかれる

金属的な響きを立て 氷片の中を
通過してくる意識の朝 時とものを離れ
世界がうまれかわるために

 「時のない空のうえから」。私は、ここにまずつまずいた。私は、こうは書かない、と思った。言い直すと、この書き方の中に、青柳がいると感じた。「空」はすでに「上」である。その「うえ」から、氷片がふる。私の知らない「うえ」を青柳は見ている。認識している。(もちろん「空のうえから」は、空という上の方から、なのかもしれないが。)

               2023 1.28   木谷 明

話しかける
ということは
聞いている
ということ  そうか

声が
きこえて
ほほえむのは
胸が
ふるえたから

この高木に十九羽のひながとまってくれる
ということは
会えている
ということ

雪が降ったら
手のひらで
溶かす

 「十九羽のひな」。この具体性がおもしろい。他の受講生からも「なぜ十九羽なのか、数えたのか」という質問が出た。小鳥ではなく「ひな」というのもおもしろい。「話しかける/ということは/聞いている/ということ」という「矛盾」を結合する一連目もいい。「矛盾」と思うとき、私のこころが動き始めている。どんなときでも、こころが動き始める瞬間がいい。

サナギ  永田アオ

冬の夜
葉っぱの裏や
石の下には
蝶になりたい
サナギたちが
春を待って
眠っている

春になったら
蝶になって
黄色い蝶になって
水平線を
めがけて飛んでいくんだ
その日を夢見て眠っている

冬の夜
葉っぱの裏や
石の下には
水平線になりたい
サナギたちが
春を待って
眠っている

 「黄色い蝶になって」が効果的だ。この行を中心にして「蝶になりたい」(一連目)と「水性線になりたい」(三連目)が結びつく。つまり、永田は「蝶になって、水平線まで飛んでゆき、水平線になりたい」と思っていると感じるのである。対称でありながら、対称が破られている。その「破る力」として、永田が存在している。そういうことを感じる。

悲しいときは  池田清子

悲しいときは
悲しいままに

悲しいときは

0 3 8 6
2 5 9
1 7 4
丸いの
半分丸いの
丸くなりたくないの

私は 4が好き
小学校に上がったとき
一年四組だったからかも

 最初に読んだとき、三連目が何を書いてあるのかわからなかった。ところが、受講生は全員が「数字の形」を分類しているのだと気がついて、感想を語った。へえーっ。私は「数字」に形があるとは思っていなかった。

 

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池田清子「時代はあった」、永田アオ「朝食」、木谷明「~眠れるソファ~」、徳永孝「あなたに届けられるなら」、青柳俊哉「細れ粒」

2023-01-29 12:44:42 | 現代詩講座

池田清子「時代はあった」、永田アオ「朝食」、木谷明「~眠れるソファ~」、徳永孝「あなたに届けられるなら」、青柳俊哉「細れ粒」(朝日カルチャーセンター、2022年01月16日)

 受講生の作品。

時代はあった  池田清子

地方のまち中に育った

友達と山に分け入ったり
兄妹で磯遊びをした思い出はない

でも
時代は、あった

すきま風を知っている
火吹き竹で火を吹いた
近所の大人達がもちをついた
火鉢の中でもちを焼いた
裏庭ではチャボにみみず
おちょうずの水は
ひしゃくか 指先でチョン
あんよポイ

抱きしめたくなる、過去

 「時代」「過去」ということばが観念的ではないか、という指摘があった。「観念的」という意味では「地方」「まち」も観念といえるだろう。「思い出」も観念かもしれないが、それは,いったん脇においておく。
 たしかに「時代」は観念なのだが、その観念を「あった」と断定しておいて、四連目で具体的な「時代」の描写が始まる。「観念」が具体的に言い直される。この「言い直し」をスムーズにするためには「観念」からはじめる必要がある。
 観念は、何かを整理するときに必要だ。この詩では「過去」がそういう働きをしている。そして抒情詩の多くは、具体的なものをある観念で整理し直してみせるときに成立しているのだが、池田の四連目は観念的な整理にならずに、つまり、意味にならずに具体的なまま並列されている。それを象徴するのが「あんよポイ」である。だれも、その「意味」を理解できなかった。「あんよ」は「足」だと推測できるが、それがどうしたのか、だれもわからない。しかし「意味がわからなくても平気、記憶を語るときの音とリズムがいい」という指摘があった。この指摘につきる。
 どんなことばも意味(観念)を含んでしまうが、それを蹴散らしてことば(音)が動くとき、そこに何か楽しいものが生まれる。それが楽しい。
 最初に書いた「地方」「まち」「思い出」も観念であるというのは、そこに具体的なことが書かれていないからだ。抽象化された「意味」しかないからだ。その「意味」を「ない」と否定して、「ある(あった)」のは「時代」である、とさらに観念を強調する。そのあとで、その観念を「具体的」に語るというのは、たぶん、無意識にしたことだとは思うのだけれど、数学でマイナスとマイナスをかけるとプラスになるような効果がある。「ない」もの、「観念」が、「ある」にかわる。この「枠構造」もおもしろいと思う。
 ほんとうは「ない」ものが「ある」にかわる。その運動を支えるのが「ことば」である。というところから、今回の講座に集まった作品を読んでいく。

朝食  永田アオ

ボップアップのトースターは
トーストが好き
でもトーストは
トースターが嫌いで飛び上がってる

湯気を立てて
朝からブツブツ哲学を語る
コーヒー爺さんは
遠視が酷い

むかし
詩人が欲しいといった
春風で作ったゼリーを添えて
今日のささやかな朝を始める

 ことばにすることによって初めて存在するのは何か。「春風で作ったゼリー」が注目を集めた。(その詩人はだれですか? 立原道造です、というやりとりがあったが、特に「事実」に結びつける必要はないだろう。永田のつくりだしたことばと理解してもいいはずだ。)「コーヒー爺さん」と「遠視が酷い」も、ことばにしないと存在しない。
 私が最初に注目したのは一連目の「好き」「嫌い」ということばである。トーストも、トースターも「もの」であり、ものは感情を持っていない。擬人化されているのだが、ここにもことばにしないと存在しないものがあるといえる。
 すべては、ことばにしないと存在しない。
 「朝からブツブツ哲学を語る」ということばは「コーヒー爺さん」を修飾する。学校文法では「爺さん」に焦点をあてて、「爺さんが哲学を語る」と整理するかもしれないが、この二行は「コーヒーがブツブツ哲学を語る」とコーヒーを擬人化した方がおもしろいだろう。
 そういう世界の変化があるから、「春風で作ったゼリー」も、何か実在するもののように見えるくるし、だれかが作るのではなく春風そのものが春風のゼリーを作ると読むこともできる。そのあとの「ささやか」もことばがつれてきた「新しい世界」として輝く。「ささやかな朝」というのは、だれでもがつかうことばに見えるが、この詩では、それがしっかりと詩の最後をおさえている(落ち着かせている)のは、ことばによって「ある」をつくりだす運動がゆるぎないからだろう。

~眠れるソファ~  木谷 明

ねえこのソファ ちょうだい
そう言って 眠って 
持って行かない

帰って来るたび 眠って
やっぱりこのソファ ちょうだい
いいよ
と言っているのに


このソファがなくなったら
どうなるかな


つつみこまれるようだね って

座れば眠ってしまう

家族が座って そして眠った

いいよ 持っていってください

 「この詩は、見たもの、体験したことを書いている。写生している」という指摘があった。ことばにしなくても「ある」世界が前提になっている、その「ある」世界から別の世界へ行っていないという意味だと思うが。
 ほんとうに、ここに書かれていることは、すべて「ある」のか。
 娘かだれか明確に書いていないが、一緒に暮らしただれかが、「ソファをちょうだい」といい木谷が「いいよ」と答える。しかし、持っていかない。たしかに、そのことが、嘘を交えずに「ある」がままに書かれているのだろうが、ほんとうにすべてが「ある(あった)」のか。
 池田の詩を読んだとき、リズムが問題になったが、この詩でもリズムが重要である。リズムの中でも、行間がつくりだすリズムが大切である。「間(ま)」もまた、ことばがつくりだす「ある」なのである。
 後半の行をつめてしまうと、まったく違う詩になってしまう。その起点となる「と言っているのに」の「のに」という語尾、語尾が含むゆらぎも、ことばにしないと明らかにならないものを含んでいる。「のに」を書かなければ、つぎのことばは出てこない。だから「のに」にによって「行間」も「ある」ことができた、と言い直すこともできる。

ライブハウスから  徳永孝

Gue のアルバムジャケットの
シックな絣柄の模様

居酒屋の垂れ布のデザイン

らふのアルバムジャケットは
まっ黒な地に鮮やかな絵の具をたらしたよう

診察所の棚の上の小箱

あいみょんのファーストアルバムには
大きな卵焼

スーパーのお弁当箱にも容器いっぱいの長い卵焼

ライブハウスの閉じた音楽空間から
色や形が
街に世界に滲み出してきている

 最終連が徳永の言いたいことであり、それはことばにしないと存在しないもの(ことばが存在させた現実)ということになるのだが、これは、私の見方では「要約/整理/結論」である。「結論」は、詩の場合、ときどき、それまでの生き生きとあらわれていた世界を壊してしまう。
 詩の感想を語り合うとき、どうしても詩の世界を要約した後、それについての感想を言うことが多い。たとえば、この詩の場合なら、ミュージシャンのアルバムジャケットで見たもの、それに類似したものを街のなかで見かけ、あ、ミュージシャンの世界が街にあふれている(滲み出しいている)ということが、生き生きと鮮やかに書かれている、という具合。
 要約すると、安心してしまうが、それでは詩が死んでしまう。「生き生きと鮮やかに書かれている」と感じたのは、どのことばから? 私は、それを聞きたい。自分には思いつかないことばは何? それこそが、作者がことばにすることによって生まれてきたもの、「ある」になったもの。
 この詩では、たとえば「長い卵焼」である。その直前にある「大きな卵焼」は多くの人がつかう表現である。でも「長い」ということばと卵焼を結びつけることは、ふつうはしない。だいたい、「長い」って、どれくらいの長さ? 何センチ?
 「スーパーのお弁当箱にも容器いっぱいの長い卵焼」という一行を読んだら、その卵焼の大きさがわかる。目に浮かぶ。この一行で、この作品は詩になっている。しかし、最後の三行で、詩を壊してしまっている。
 もし、アルバムジャケットとの関係を明確にしたい(街に「滲み出している」をつたえたい)というのであれば、「居酒屋の垂れ布のデザインになった」「診察所の棚の上の小箱になった」「スーパーのお弁当箱にも容器いっぱいの長い卵焼になった」という具合にすれば伝わると思う。自分が見たものをことばにする、そのとき、すでに「ある」は起きている。事件は起きている。詩というの事実は生まれている。それを「整理/要約」しては、学校の国語の授業の先生の説明になってしまう。
 どうしても最終連の三行が必要ならば、最終連にではなく、最初に書いた方がいい。池田が「過去」と抽象的に書いた後、具体的に言い直しているように、「滲み出している」を最初に書いた後、それを具体的に言い直した方が「要約」に陥らずにすむ。

細れ粒  青柳俊哉

葦原は白く靡き 
  水辺を行く鳥の
    羽に雪がふる 

 細れ粒の肌触り 
   細れいく群青の波頭の移り
     ひとすじの薄日のさす岸に

  朝がふり 蒼穹を
    つきぬけていく透明な
      鳥かげ 葦の葉擦れの音に 

   舞い遊ぶ金色の水粒 
     幼いものの至福のように
       ちらちらきらめいて

 青柳の作品は、出発点には現実の風景があるかもしれないが、そこからどんどんことばを展開させていく。青柳自身「具体的なものを書いたのではなく、気持ちを書いている」という。つまり、すべてがことばによって「ある」になっていると言えるし、だからこそどのことばによって「ある」が生まれているかと見つめなおすのはむずかしいのだが。
 私が、これはいいなあ、と感じたのは「朝がふり」。この「ふる」の動詞のつかい方。ふつうは「朝がくる」(日が昇る)のような言い方をする。朝は、ふつうには地平線上というか水平線上というか、人間と同じ高さ(あるいは低いところ)からやってくる。しかし、青柳は「朝がふり」と書く。上から、突然襲ってくる感じだ。待っている余裕がない。
 そのあとの「蒼穹を/つきぬけていく透明な/鳥かげ 葦の葉擦れの音に」の「つきぬけていく」の主語は、学校文法では「鳥かげ」か「葦の葉擦れの音」になるのかもしれないが、私は朝が「蒼穹を/つきぬけて」降ってきて、世界が透明になったように錯覚する。
 私は青柳のことばを「誤読」しているかもしれない。しかし、詩とはもともと世界に対する「誤読」なのだから、私は作者の「意図」を気にしないのである。作者が言いあらわそうとしているものよりも、私が作者のことばをとおして見たもの(感じたもの)の方がおもしろいと感じれば、それを詩と呼ぶ。
 蒼穹(天)から啓示のように降ってくる朝、その透明な力、降ってくるものが透明であるだけではなく、世界を透明にしてしまう力、それが「降る」ととらえることば、精神の運動、そこに詩がある、と。

 


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青柳俊哉「野生のひかり」、永田アオ「夕陽」、杉惠美子「砂時計」ほか

2023-01-15 17:27:24 | 現代詩講座

青柳俊哉「野生のひかり」、永田アオ「夕陽」、杉惠美子「砂時計」、池田清子「論理的」、木谷明「白写」、徳永孝「あなたに届けられるなら」(朝日カルチャーセンター、2022年12月19日)

 受講生の作品。

野生のひかり  青柳俊哉  

十二月の晦日に 光のうすい
野をさまよう 藪に入り
みずみずしいうらじろの 
大きな羽を 袋いっぱいつめる 

雲にふれる赤松の葉と 雲を降りて
崖に荒ぶる竹の茎を 地平に凍える蝋梅
の灯りと 霙を跳ねるゆずりはの房を
ふかふかの 盥のようなバケツに束ねる 

野生のひかりで餅をつつみ 頂きに
天啓の蜜柑をのせて 神をこしらえる 

なぜ十二月の晦日に ひかりを集めて
太陽のめぐりに 心をあわすのか

 四連目「神をこしらえる」。この「こしらえる」が印象的だ。手元にあるものをあつめて「こしらえる」。それは無からの想像ではない。手元にあるものは、もしかすると「神」が与えてくれたものかもしれない。それに新しい形を与えるというよりも、そこにあるものの秩序を新しくする。存在が新しいのではなく、存在する「形式」が新しい。そういうことを考えさせる。

夕陽  永田アオ

秋の日
夕陽が
町を
家々を
朱く染め
たくさんたくさん
朱く染め
染め余って
川にこぼれて
川の上を
洪水のように
溢れて行った
夕陽はみんな
行ってしまって
町はすっかり暗くなった

いまごろ
夕陽たちは
海の向こうで
朝日になるのを
待っている

 「染め余って」の「余る」がとてもおもしろい。そのあとに「溢れる」という動詞が出てくる。「余る」は「余分」ではないのだろう。最初から「量」が決まっていて、それよりも「量」が多いという状態ではなく、「染める」という動詞に勢いがあって、その勢いが「余って」「あふれる」。
 この運動のリズムが全体を貫いている。
 だから「町はすっかり暗くなった」で終わることができずに(?)、明日の朝にまで言ってしまう。とても自然だ。

砂時計  杉惠美子

今年一年の砂時計がもうじき終わる
除夜の鐘とともに 静かに
上と下を返す

また一年の砂時計が同じ速さで降りてくる
音はないけれど 勢いもあるし
強さもある
まわりから支配もされないし
外からのタイマーが 鳴るわけでもない

ひたすら 自分の時間を進むだけ

干渉もされないし、見えない力に
怯えてもいない

 永田の詩で「余る」と呼ばれていたものは、この詩では「勢い」「強さ」と言い直されている。それが「ある」。この「ある」は詩の中で二回繰り返されている。「ある」よりも「ない」の方が多く繰り返されている。しかし、私には「ある」の方が強く響いて来る。なぜだろうか。「ある」はことばとしては書かれていないが、無意識(肉体)を貫いているからだ。
 三連目「ひたすら 自分の時間を進むだけ」は「ない」をつかって言えば「ひたすら 自分の時間を進むしかない」になる。しかし、「ある」を補って読むこともできる。「ひたすら 自分の時間を進むだけである」。ここには決意が「ある」のだ。
 それは「勢い」も、「強さ」も「ある」。持っている。

論理的  池田清子

私は論理的ではない
ということを
論理的に証明できれば
私は論理的ではない

私は論理的ではない
ということを
論理的に証明できなければ
やっぱり
私は論理的ではない

私は、論理的である

 池田の詩にも「ない」と「ある」が交錯する。私は瞬間的に「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」というパラドックスを思い出したが、「論理」というのは、「後出しジャンケン」だから、なんとでも説明がつく。「多くのクレタ人は嘘つきだと、ひとりの正直なクレタ人が言った」とも説明しなおすこともできるし、「多くのクレタ人は嘘をつかないが(正直だが)、ひとりの嘘つきのクレタ人が『クレタ人は嘘つき』だ嘘をついた」。
 論理は最初から絶対的なものとして存在するものではなく、つくり出すもの(青柳がつかっていたことばでいえば「こしらえる」)ものだからである。すでに存在するものを整えなおす。そして、それはいつでも「ある」になってしまうものである。
 もうひとつ、「ない」が存在する(ある)と発見したのはギリシャ人であるというということも思い出した。
 池田の書いている「ある」も「余った/ある」かもしれない。

白写  木谷明

さらさらさらさらと
人は出かけて
行きもせず帰りもせず

さらさらさらと
目には風当たり

たぐりよせ
今日も昨日もたぐりよせ
明日に折り返すものはないことを
知りながら

玄関を開ける

 「論理的」に考えると、たぶん一連目の「行きもせず帰りもせず」につまずく。いったいどっちなのか、と。こういうときは、私は、その動詞がどういう具合につかわれることが多いか考える。「会社へ行く」「家へ帰る」。この例だと、木谷の書いていることは非論理的になる。しかし、私たちはたとえば「古里へ行く/古里へ帰る(帰省する)」ということがある。こういうとき、「行くの? 帰るの?」と問いかける人はいないだろう。このとき、たぶん意識しない動詞に「いる/ある」がある。私はいま「家(ここ)」にいる。そこを起点にして、ある場所へ「行く」、ある場所へ「帰る」。このとき「行く/帰る」は物理的には同じ方向への動きだが、意識的には違うのである。
 その「意識」に注目して「行く/帰る」のほかにどういう動詞がつかわれているかを見てみる。おもしろいのが「たぐりよせる」である。ここにないものを、ここにたぐりよせる。それは、意識がここから、ここではない場所へ行く(帰る)ことでもあるだろう。そのとき「行く/帰る」のどちらをつかうか。
 木谷は、決めない。かわりに「開ける」という動詞をつかう。どちらを選ぶかは、そのひとにまかされている。「昨日/今日/明日」のすべてを「開けたまま」にしておく。
 「白写」は造語。どういう意味かは、読んだ人が考えればいいだろう。

あなたに届けられるなら  徳永孝

あなたが私の事を思い出し悲しんでいる様子や
時々私に会いたくてこちらに来たいと思っているのを
見ていると心配です。

あなたがこちらへ来るのはまだ早すぎます
そちらの生活を充分味わってからでも遅くはない
と思いませんか?

あなたが日々暮らしていて
幸せでいる様子が見られたなら
私も安心してこちらの生活を送れます。

時が満ちあなたがこちらへ来た時には
それまでのお互いの出来事や思いを心ゆくまで語り合いましょう。
私にはこちらで気の合う新しい仲間もできました。

あなたにもこれからまた多くの出合いが有ることでしょう。
ああそうだ、いつかあなたにチャンスが巡って来れば
新しい恋をするのはどうでしょう?

嫉妬しないのか? ですって
そうですね、するかもしれませんが
あなたの幸せが私のよろこびですから

 「届ける」(届く)という動詞は、タイトルにはあるが、本文にはない。それは徳永の意識のなかに深く根づいているから、ことばにならなかったのである。すべてのことばを届けたい、ということである。

 

 


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池田清子「白」、青柳俊哉「モナリザ」、杉惠美子「クリスマス」、木谷明「葉音」、徳永孝「招待状」

2022-12-16 17:42:40 | 現代詩講座

池田清子「白」、青柳俊哉「モナリザ」、杉惠美子「クリスマス」、木谷明「葉音」、徳永孝「招待状」(朝日カルチャーセンター、2022年12月05日)

 受講生のひとりが西脇順三郎の詩を持ってきた。まず、それを読んで、そのあとみんなの作品に西脇に通じるものがあるか(似たことばづかいがあるか)、あるとすればどれか、ということから語り始めた。

秋 2  西脇順三郎

生垣の
さんざしの秋の中に
あごをさして
居眠る
乞食の頭を
よこぎる
むらさきの夢は
ミローの庭の
断面
に黒く流れる                            


ミロー   ジョアン・ミロ20世紀のスペインの画家。シュルレアリスム。
西脇順三郎 1894年(明治27年) - 1982 年(昭和57年)詩人、英文学者。第二次世界大戦前のモダニズム、ダダイスム、シュルレアリスム運動の中心人物。
出典    禮記 1967 年(昭和42年)

 西脇を初めて読む受講生もいて、独特のことばの選択、リズムへの反応が強かった。「乞食」ということばを詩につかうのも新鮮だったようだ。「乞食は何も持たない自由人をイメージしている。西脇らしい」と西脇を読んだことのある受講生。「さんざしの秋の中には、ふつうは秋のさんざしの、という言い方をする。ことばの順序が逆でおもしろい」「最終行の、助詞のにが一番上にきているところが今風」「あごをさして、がわからない」「うっとりと眠る様子ではないか」「ミローの庭の断面の、断面が想像できない」「むらさきの夢、がわからない」「黒く流れる、が強烈」「西脇が黒を使うのはめずらしいのではないか」
 私は、特に解説はしなかった。こういう詩がある、こういうことばの動かし方がある。それに出会うことが大切だと思う。「さんざしの秋の中に」というか「秋のさんざしの中に」というか、あるいは「秋のさんざしの中に」というか。ことばは、たぶん、さまざまな暮らしのなかで「修正される」。「その表現は不自然だ。こういうのが自然だ」という具合に教えられ、少しずつ、整えられる。この「社会」が少しずつ教え込む「教育」から、どこまで自由になれるか、と書くとおおげさかもしれないが、ことばを意識的にいままでとは違う形で動かしてみる、いままでつかわなかったことば、詩には不似合いだと思っていたことばをつかってみると、詩はかわるかもしれない。

白  池田清子

建ったばかりの
真っ白な壁
白い陸屋根

真っ白なシーツ
白いワイシャツ、白いシャツ、
白いワンピース

背景も
やっぱり
白にしようか

白い部屋の真ん中に この絵を掛けて
白いレースのカーテンを
天井からつるそう
白くて柔らかい薄い生地を
机や椅子に無造作にかけよう
白いシーツ、ワイシャツ、ワンピースは
壁に 貼りつけるとしよう

私も 白い服を着ていよう

 池田は「西脇の詩とは真逆の世界だ」と自己評価した。最初の三連だけでいいのではないか、という意見の一方、四連目がおもしろいという意見があった。最初の三連だけでは抽象的すぎる。四連目があるから具体的になる。
 西脇の特徴は、そこに書かれていることばが「具体的」ということだと思う。
 池田の詩では、「無造作」が西脇の具体性に通じるかもしれない。整えられ、抽象に消化される前の存在感。「白いシーツ、ワイシャツ、ワンピースは/壁に 貼りつけるとしよう」の「貼りつける」も新しいつかい方をしていると思う。


モナリザ  青柳俊哉  

氷河湖にしずむ山岳と
隆起する海底との境に立つ 
夕日に明るむ女の額 背後の
細い谷に密生する 有明すみれ

幼いイエスが春の綿毛を
ふきちらした アルプスを越えて来る
葦毛の白い皇帝の馬たちの 息吹の朝へ 
女は嚏(くさめ)して 黒い歯を覗かせわらった

裸にされた花婿のイエスのために
柔らかい口角の女の永遠のために 唇のうえ
の髭の三日月が かき消されるとしても 
額のむこうの すみれは輝きつづける

 青柳の自己評価。「センテンスが長い。イメージが近いものを持ってきている。西脇はかけ離れたイメージを結びつけるので、ことばのインパクトが強い」
 「イメージの広がり、辞書の定義とは違うイメージ、意味をことばにこめているという点に西脇に似ているのではないか」という指摘があった。
 私は「女は嚏して 黒い歯を覗かせわらった」が西脇のことばの運動に少し似ていると思った。「嚏」に含まれるユーモアが効果的だ。
 その行について「ミローの庭の/断面/に黒く流れる」を思い出すという受講生もいた。
 二回登場する「すみれ」も西脇の好みそうな音、色である。「の髭の三日月が かき消されるとしても」の行頭の「の」も西脇に通じる。切断されたイメージが、強引に結びつけられる。その瞬間に、世界が、動く。そのときの衝撃が詩なのだと私は思う。

クリスマス  杉惠美子

ある日 新聞広告が目に入り
旅に出かけた
何かに出会える気がした

欲しいものは何? 

 もうすぐ クリスマス
 サンタさんに手紙を書いて
 クリスマスツリーを飾って
 靴下を下げよう

あの時の あの人からの言葉
あの時の あの人からの手紙
あの時の あの人からの報告

旅の空の下
道の駅で来年咲く花の種を買った

 杉の自己評価。「西脇は、イメージの彼方にあるものが高い。私のは、かわいらしい」。西脇のイメージが拡散的であるのに対し、杉のことばは身近な存在を結びつけているという意味だろうか。ことばの意味が「日常」の周辺で動いているという点では、池田の世界に近いか。
 「西脇に通じるものがあると思う。抽象的なところがあり、暗い気持ちにならないところが西脇の詩を読んだときと同じ」「古典的な感じがする部分が西脇に似ている」「生活感が違う」「あの時の、を繰り返しリズムを整えるやり方。リズムのことを考えているのが西脇に似ている」
 私は「新聞広告」ということばは「乞食」に通じると思う。イメージではなく、存在感がある。「道の駅で来年咲く花の種を買った」の「来年」も抽象的ではなく、非常に具体的な感じがする。どんな花か、花の名前ではなく「来年咲く」というのがおもしろい。花の種は、今の季節なら、たいてい「来年咲く」。二年先、十年先ではない。つまり、ふつうはいわなくてもわかることなのだが、それをわざわざ言うと、そこに「手触り」がでてくる。そういう「手触り」の出し方が、西脇に似ているかもしれない。

葉音  木谷 明

…………なに、
……わたし、
落ち葉、
振り向く、

そう、
そう。

枯れ葉、
落ち葉、
振り向く。

そう、
そう。

   *

降る……
……離れる……   
空振れて落葉(らくよう)の葉音

 木谷の自己評価。「風景を、心象風景に落とし込むところが似ている。私の詩は、透明度がある。時代背景が違うし、西脇の詩には男の視点があり、生活のとらえ方が違う。行わけの仕方は、西脇の詩はいまっぽく、似ている」
 「そう、/そう。という音、表記の仕方が似ている」「感覚的なことロスが似ている」と受講生の指摘。
 私は、最終行の音への配慮が、西脇に通じるかと思った。音そのものは西脇に似ているとは感じないが、音を重視してことばを動かすという方法は西脇に通じると思う。

招待状 徳永孝

アリスから夜のお茶会への招待状が届きました

チューリップやスズランの花を飾って
そうそう彼女のことですから
ユーカリの小枝も添えるでしょう

きっと彼女のお気に入りの
白磁のティーセットと
銀のスプーンを使うでしょう

お茶はダージリンかアールグレイかそれともオレンジペコ?
ストレートとミルクティーどちらが合うかしら
彼女の趣向が楽しみです

ナイチンゲールも来るそうです
気のおけない同士の静かな会にしたいそうです
三月うさぎ達のお茶会で懲りたな、と思いました

さて何を着て行きましょうか
ちょっとしたプレゼントも有った方が良いかしら
これから少し忙しくなりそうです

 徳永の自己評価。「自分の詩はイメージが具体的でわかりやすい。現実の風景を描きながら、奥にあるイメージを描いている」。
 「アリスという架空の人物、現実にはないイメージをもってくる、その世界観、精神の自由度が似ている」「ナイチンゲールからの三行が、主客が交代するというか、アリスの気持ちが突然出てくるところが、飛躍があって似ている」
 「ナイチンゲール」からはじまる三行について言えば、「、と思いました」がない方がより西脇に近くなると思う。イメージの躍動感を、「論理」が押さえ込んでいる。西脇なら、論理を叩き壊すためにイメージを躍動させる。西脇が書いているのは、イメージの躍動というよりも、論理の躍動である。

 

 

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(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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杉惠美子「小春日和」、徳永孝「雲の橋」、青柳俊哉「フィルター」、永田アオ「スポーツバッグ」、木谷明「十一月の挨拶」

2022-12-02 23:34:37 | 現代詩講座

杉惠美子「小春日和」、徳永孝「雲の橋」、青柳俊哉「フィルター」、永田アオ「スポーツバッグ」、木谷明「十一月の挨拶」(朝日カルチャーセンター、2022年11月21日)

 受講生の作品。

小春日和  杉惠美子

やわらかなものは みどり児の手
やわらかなものは 秋の陽だまり
やわらかなものは 明日を待つこころ

視線を少し遠くに向けて
次の季節を予感しようと思う
待ってみようと思う

少しバランスが取れてきそうな気がする
心を拡げることが出来たら
違う時間が流れそうな気がする

 どの行が好き? そこから詩に近づいていくことにした。「待ってみようと思う」。最後につながる行。待つことが大切。問題があっても、待っていれば解決する。「違う時間が流れそうな気がする」。少しずつ気持ちが外へ動いていく。それが違う時間、違う世界につながる。「やわらかいもの」の繰り返しの理由がここにある。「やわらかなものは みどり児の手」。手を思い浮かべながら、最後につながる。と言う具合に意見が分かれた。意見が分かれるというのは、とてもいいことだと思う。
 私は「やわらかなものは 明日を待つこころ」。少し理屈っぽいかもしれないが、「やわらかなものは」という繰り返しが理屈っぽさを消している。リズムにのって、無意識に読んでしまう。あるいは理屈っぽさを読み落としてしまう、といえばいいのか。これは、なかなかできない「技巧」というものである。そして、この「こころ」が二連目で「思う」ということばにかわり、三連目で「気がする」ということばにかわる。「待つ」ときの「こころ」の変化が、それとはわからないように書かれている。その変化のはじまりが、この行にある。二連目、三連目の「思う」「気がする」はなくても、成立する。もちろん、それを削除するときは「思う」だけではなく「と思う」を削除しないと行けないし、「気がする」は「な気がする」を削除し「な」のかわりに「だ」(形容動詞の語尾)をつけくわえないといけない。しかし、こういうことは、無意識にできる。「思う」「気がする」はなくても、成立する、とはそういう意味である。そのうえで、「思う」「気がする」を削除したものと、元の詩を比べてみるとわかると思うが、「こころ」「思う」「気がする」は、ことばこそ違うが「やわらかなものは」ということばの繰り返しと同じように、繰り返すことでリズムをつくっていることがわかる。
 杉は、そういうことを意識していないかもしれない。無意識に、ことばが変化しているからこそ、そこに「正直」があらわれる。「正直」がことばの奥深いところで動いていると、詩が、とても自然に響いてくる。
       

雲の橋  徳永孝

青空に長く弓なりに伸びる
一本の飛行機雲
遠くに広がる白い雲へ続く橋

雲の国には何が有るのかな
どんな人達が住んでいるのかな
橋を渡って行ってみよう

細いけれど
まっすぐだから
楽に行けそうだよ

あ、橋のあそこが風で乱れてきた
崩れ落ちる前に
急いで通りすぎよう

こんどは雲のもやがかかってきた
道を踏み外さないよう
用心して行かなくちゃね

やっと着いた大きな雲の国
雲の草原に寝ころがって
しばらく休けい

 「しばらく休けい」。オチが軽やかでいい。がんばって、たどりつき、休憩するという感じがいい。「あ、橋のあちこちが風で乱れてきた」。情景を想像できる。「雲の草原に寝ころがって」。同じ気持ちになる。大きな雲のイメージが自然に浮かぶ。
 私は「遠くに広がる白い雲へ続く橋」。「続く」という動詞が、イメージを「つづけている(つないでいる)」。変化を追いかけて、それがイメージとしてつづいているのだが、その出発点が「続く」という動詞のなかにある。
 少し疑問を書けば。「飛行機雲」は雲のない晴れ渡った空にあらわれる。想像の上では、それは「大きな雲」につながるかもしれないが、私は、現実の風景としては飛行機雲が別の大きな雲につながることはないと思う。(見た記憶がない。)詩は現実を書くものではないから、もちろん「空想」を完結させてかまわないのだが、「青空に長く弓なりに伸びる」という「写生のことば」ではじまった運動が「空想」にかわっていくときは、その「空想」のなかに「写生としての描写」があった方がいいと思う。「雲の草原」は「弓なり」に比べると、比喩として常套句という感じがする。

フィルター  青柳俊哉

太陽はうすく細く
厚い砂の層に覆われていく地球 
砂から伸びている 無数の
仄白い鉱物 鉱物の周りを 
衛星のように
球体がめぐっている

球体の中に 
人は花になって生きていた 
砂と石のうえを浮遊する 光る花の群れ 
風にそよぐことも 砂に根を下ろすこともなく 
光も水も もとめない花々 
花が光自身であったから
花の意識にとっては生も死もないのかもしれなかった 
球体の中央に 
二つのフィルターの口が開いていて 
そこから ひときわ眩しい花々が
吸い込まれるように消え   
吹き散らすように生まれていた

星の空間が 内部へ折り返し
花の球体をうみだす 
花の光を浴びて 鉱物は樹木のように
伸びていく 二つの空間を
フィルターが結び 星の光を
いのちへ変えていた

 「球体の中に/人は花になって生きていた」。美しい。花が好きなので、こんな風だったらいいなあと思う。「花が光自身であったから」。花から光へ、それが最後に星に変化していく。その変化が美しい。「花の意識にとっては生も死もないのかもしれなかった」。人間以外は、みんなこうなのだろうか。生も死もない世界。無垢なイメージが美しい。「フィルターが結び 星の光を/いのちへ変えていた」。わからないけれど、イメージが美しい。「球体が何かわからない」という声も出て、これに対して青柳は「星の空間が 内部へ折り返し/花の球体をうみだす」が書きたかったと言った上で、太陽が沈み、死が訪れる、そのあと死が生へとかわる感じとつけくわえた。循環、円環のイメージか。
 私は「球体の中央に/二つのフィルターの口が開いていて」がイメージできなかった。なぜ「二つ」なのか。青柳によれば、「二つ」というよりも、フィルターの「両面」というイメージらしい。

スポーツバッグ  永田アオ

横長のスポーツバッグを抱きしめて
電車の中で丸くなって眠っている
少女よ
下にも置かず抱きしめているそのスポーツバッグは
とても大切なものなんだろうね
あなたはきっと知らないが
わたしたちもあなたをとても大切に思っているよ
だから、ビクッと目を覚まし
ずりおちそうなスポーツバッグを抱えなおして
恥ずかしそうにしなくていいんだよ

(どうかこの少女を戦禍が襲いませんように)

少女よ
眠りなさい
みんなであなたを守るから
あなたが抱きしめている
そのスポーツバッグみたいに

 「下にも置かず抱きしめているそのスポーツバッグは」。気持ちがこもっている。「眠りなさい」。呼びかけているところがいい。「みんなであなたを守るから」。少女への気持ちが、ここに集約されている。「恥ずかしそうにしなくていいんだよ」。少女を包み込む視線がいい。「ビクッと目を覚まし/ずりおちそうなスポーツバッグを抱えなおして」がリアリティーがあっていい。
 私も「下にも置かず抱きしめているそのスポーツバッグは」が印象に残った。特に「下にも置かず」が単に「客観的描写」を超えて、少女の気持ちになっているところがいい。「抱く」という動詞は、途中で「抱える」ということばにかわり、ふたたび「抱く」があらわれる。その途中に「守る」というこどが出てくる。「抱く(抱える)=守る」である。そしてそれは「大切な」ものだから「抱き、抱え、守る」。このことばの呼応が強固で美しいのだが、「下にも置かず」がそれをていねいに「肉体」で言い直している。どんなふうに、抱き、抱え、守るのか。「下に置かず」というと、大事にしている感じが強くなる。その少女の気持ちが、永田に影響し、「抱く」ということばを誘っているのだと思う。

十一月の挨拶  木谷明

あ、お月さま
この頃 機嫌がいいようね
こんなに はやい じかんから
白く ぽっかり
日毎 お顔が ふっくらしてく
おかえり
浮かびに来ただけ ふとりに来ただけ
でも おかえり 夕方だから、そういうよ
それで
夜空に光ったら いってらっしゃい っていう

 「でも おかえり 夕方だから、そういうよ」。いい感じ。夕方の、なつかしい感じを思いだす。「浮かびに来ただけ ふとりに来ただけ」。月のセリフだが、ぶっきらぼうな感じいい。ふとるというネガティブなことを言っている。「この頃 機嫌がいいようね」。話しかける感じがいい。「夜空に光ったら いってらっしゃい っていう」。いってらっしゃいが、新鮮。
 月がふとる(満月に近づいていく)ことを、人間が太ると重ね合わせ、ネガティブ(健康的ではない?)という声があったことに、私は驚き、新鮮な気持ちにもなった。私は、その前の「ふっくら」とあわせ、満月(に近づく)を肯定的にとらえている。書いている木谷も私も「意味の定型」にとらわれているかもしれない。
 私も「でも おかえり 夕方だから、そういうよ」が好き。「そういうよ」は月に言っているというよりも、自分自身を納得させているのだと思う。月への気持ちであると同時に、自分の気持ちを確かめる。そのために、言う。それは最終行にも繰り返されている。ことばは、だれか、相手に向かって言うものだが、ときには自分自身に言うこともある。自分を整えるために言う。詩も、だれかに向かって書くのだが、同時に自分を整えるためにも書く。自分でもわからない何かを、はっきり自分のものにするために書くのだと思う。

 

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平野峰子「しずめる」

2022-11-22 21:26:43 | 現代詩講座

平野峰子「しずめる」(現代詩通信講座、2022年10月19日行)

 現代詩通信講座の内容を一部紹介する。googlemeetをつかっての講座。

しずめる  平野峰子

あなたと 仲良くしたいから
そのままの関係を続けたいから 争いを好まない
ほんの少し我慢する わたし
それは ほんとに寄り添うということだったのだろうか
幾たびか ほんの少しだけ

でも 超新星のように老いた星は
とてつもない質量になってしまっていた

ほんの少しは 気づかない間に
理解し難い重さになってしまっていた
少しずつというのは 実感が伴わない
少しずつが積ると 地層が変わる

その重さは 背骨を砕き
胸を突き破る程の痛みになっていく
地球上でもっとも重いイリジュウムを集め
滝つぼに その痛みを音もなく 波立ちもさせず
消えるように沈めたい

星の光が届くとき すでに星はその状態ではないのだけれど
今も 今も 光っている・・
光り続けていると信じ 私は見上げる
私とともにあるわたしが
しっかりと 肩を抱いている

 親友がいる。有効な関係をつづけたい。争いを避けるために我慢をする。しかし、その我慢が蓄積し、どうにもならなくなる。友好に亀裂が入る。感情が爆発する。そのあとで、まだ友好がつづいていてほしいと願う。あるいは、その友情を思い、自分のなかで大切に守る。こういうことは、多くのひとが経験することだと思う。
 平野は、このことを「超新星の質量」「地層」というふたつの存在を通して語っている。「超新星の質量」は感情の爆発を連想させる。「地層」は「我慢の蓄積」を連想させる。「少しの我慢」がある日、蓄積し続け、ある日、超新星のように爆発する。そこで終わるのではなく、その遠い星を見ながら、光の過去を思う。超新星は爆発したが、そこには何もなくなったのではなく、いまも光がある。その光は「私」のなかに生きている、ということを表現したいのだと理解できる。
 超新星の比喩もわかるし、地層の比喩もわかる。地層の部分に書かれている「その重さは 背骨を砕き/胸を突き破る程の痛みになっていく」という二行は、感情の蓄積(苦しみの蓄積)の比喩として、とてもいい。
 でも、読んでいて、なんとなく読みにくい。
 超新星の爆発(すでに存在しない)といまも見える光のことを言いたい思いが強く、そのために超新星ということばを先に言いすぎている。二連目は最終連につながっていくのだが(そして、そのことが平野のいちばん言いたいことだとわかるのだが)、語り方が急ぎすぎていると思う。
 そこで、こんな提案をしてみた。二連目の二行の位置を変えてみたらどうだろうか。こんなふうに。

あなたと 仲良くしたいから
そのままの関係を続けたいから 争いを好まない
ほんの少し我慢する わたし
それは ほんとに寄り添うということだったのだろうか
幾たびか ほんの少しだけ

ほんの少しは 気づかない間に
理解し難い重さになってしまっていた
少しずつというのは 実感が伴わない
少しずつが積ると 地層が変わる

その重さは 背骨を砕き
胸を突き破る程の痛みになっていく
地球上でもっとも重いイリジュウムを集め
滝つぼに その痛みを音もなく 波立ちもさせず
消えるように沈めたい

でも 超新星のように老いた星は
とてつもない質量になってしまっていた

星の光が届くとき すでに星はその状態ではないのだけれど
今も 今も 光っている・・
光り続けていると信じ 私は見上げる
私とともにあるわたしが
しっかりと 肩を抱いている

 一連目の「ほんの少しの我慢」が二連目で「ほんの少し」「少しずつ」にかわり、それが「積もる」、そして「地層」になる。三連目で、その「地層」の姿を描く。いろいろな「重さ」が積み重なっている。その深層には「地球上でもっとも重いイリジュウム」がある。「重い質量」の凝縮は「超新星の質量」をとつながる。この部分は、「起承転結」でいえば、「転」になる。世界がいったん飛躍する。そして、その集積された質量の爆発(層の爆発、と読むこともできる)が、最終連で「あなたと私/わたし」の関係をあらわすものとして語り直される。その超新星の爆発は、宇宙の彼方で起きるのだけれど、地球に戻って言えば、深い「滝つぼ」で起きている何かでもある。
 「滝つぼ」と「宇宙」の関係(三連目と四連目の関係)を、もう少し書きこむ必要はあると思うけれど、「超新星」の二行を後ろに回した方が、詩の展開が劇的になるし、それまでの「我慢の蓄積」から「地層」への世界の変化が「ほんの少し/少しずつ」によってスムーズになると思う。
 起「ほんの少し」承1「少しずつ蓄積」承2「地層(重い質量/蓄積の極限)」転「超新星の爆発(重い質量の爆発)」結「いまも存在する過去(過去を抱きしめ、可能性を信じる)」
 こういう展開ができると思う。
 思いついたことを思いついたまま、忘れないうちに書いておくというのは必要なことだけれど、書き終わったら、一呼吸置いて、ことばの動きを見直してみることが大事だと思う。その過程で、足りないことば、余分なことばも見えてくる。
 ことばは書いた人のものである。しかし、同時に、ことばは読んだ人のものでもある。書いたことはいったん忘れて、読むひとになって、ことばの動きの連続性を見直してみると、詩は読者に届きやすいものになるかもしれない。
 ただ、このとき注意しなければいけないのは、ことばの動きのスムーズさにとらわれてはいけないということ。
 二連目に「超新星」があらわれたのは、たぶん「老いた星」の「老いた」と関係している。そこには「長い年月」という意識、さらには作者の「人生」が反映されている。どうしても、そのことを「ほんの少し我慢する」という形で生きてきた人生を、まず語りたいという気持ちがあるからだろう。それは重要なこと。
 だから、いま、とりあえず二連目の二行の位置を変えてみたのだけれど、そこで整理された意識をもう一度組み立て直す形で、二連目へもどすにはどうすればいいかを考えるといいと思う。とりあえず入れ替えた形では、まだ何かが不足している。その不足しているものを補ってみると、二行を二連目へ戻す方法も見つかるかもしれない。それができれば、そのとき、この詩は一つの「完成形」になると思う。
 私が提案したのは、その「完成形」へ行くための試みのひとつである。

 

 

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杉惠美子「冬木立」、池田清子「頼もう!」、徳永孝「道を渡る」、青柳俊哉「胡桃の中の精霊」、永田アオ「雨」、木谷明「誘い」

2022-11-10 00:18:54 | 現代詩講座

杉惠美子「冬木立」、池田清子「頼もう!」、徳永孝「道を渡る」、青柳俊哉「胡桃の中の精霊」、永田アオ「雨」、木谷明「誘い」(朝日カルチャーセンター、2022年11月07日)

 受講生の作品。

冬木立  杉惠美子

深い木立の奥に
私が置き去りにした家がある
その家の縁側を温める
柔らかな陽射しも
炬燵のぬくもりも
確かに覚えているのに
二度と訪ねることなく
時が過ぎた

ある日のこと
私はふと、そこに戻った

ずっとずっと続く裸木の風景は
一体の空気感を創り出し
渾身の力を込めて
私に何かを伝えた

 ここに書かれている家は、森の中に一軒だけあるのだろうか。何軒かあったとしても、杉が思い出しているのは一軒である。風景描写ではなく、情景描写。「確かに覚えているのに」ということばを手がかりに読めば、それは「記憶の風景」ということだろう。そして、二連目の「そこに戻った」の「そこ」とは「記憶」のことだろう。「その家」の「その」に通じる「そこ」。家を意識する、「その意識」のことだろう。
 最終行の「何か」とは、何か。「ことばでは言えない何か」と言ってしまうと、「答え」になりすぎてしまうだろう。直前の「渾身の」という表現は、空気を張りつめさせ、透明にさせる。一連目の「温める」「ぬくもり」の対極にある。その変化が、とてもいい。詩のなかで(詩を書くことで)変わるものがある。その変化としっかり向き合っている強さがある。

頼もう!  池田清子

自分の力ではどうにもならない時
頼むのは
神様?
頼むのは
時?
時は神様?

自分の力ではどうにもならない時
頼むのは
音楽? 絵画? 本?

自分の力ではどうにもならない時
頼むのは
友達? 家族?
いつもじっと見守ってくれる人たち

はて
何に頼もうか

頼もう! 

 「自分の力ではどうにもならない時」が繰り返される。繰り返すたびに「頼む」対象が変化していく。三連目、「友達? 家族?」と自問した後、それを「いつもじっと見守ってくれる人たち」と言い直している。言い直すことで、不思議な変化が生まれる。具体的に「相手」が見えたせいかもしれない。ふいに池田の中に力が湧いてきたのかもしれない。「何に頼もうか」と悩むのは何も頼むものがなくなったから、でもある。本当に悩んでいたら「藁にもすがる」。そんなことはしなくていい。それよりも、この力が湧いてきた瞬間の、その力を試してみたい。最後の「頼もう!」には、道場破りに挑む侍の気概のようなものがある。明るい。
 「自分の力ではどうにもならない時」から、この「頼もう!」への変化がいい。

道を渡る  徳永孝

横断歩道の橋を渡って
対岸の歩道まで行こう
濁流に流木が荒々しく過ぎる

まず信号機を確認して
あれこれと気になるけれど
車と足もとだけを注視して歩を進める

やばい!
ナンバープレートの数字が気になる
2、5、3、9、11、7、13…で割り切れるかな
今は調べるのをがまんして数字だけを憶えておこう

やっと着いた対岸の歩道
これでひと安心
もう因数分解で遊んでいいよ

 道路を渡る前の不安、渡っているときの緊張感、緊張しているときほど考えてはいけないことを考えてしまう、ということはあるだろう。そのあとの、解放感。三連目の数字は、素数ということでもないようだし、因数分解と何か関係があるのかどうかもわからないが、わからないところがあるからいいのだと思う。
 途中に出てくる「あれこれと気になるけれど」の「あれこれ」と比較してみるといい。「あれこれ」も何かわからないが、この「わからなさ」は別のことばで言えば「わかりすぎる」あれこれである。言い換える必要、「あれこれ」とは何かを考えなくても納得してしまう。つまり、だれもが思い浮かべる「あれこれ」であって、三連目の数字はだれもが思い浮かべることのできないつながりである。
 

胡桃の中の精霊 -土偶のかたち-  青柳俊哉

草雲雀を追って 古代の森に紛れる 
マスカット色の大きな胡桃を 
桃の化石で割く 日焼けした
ハート形の顔の 二つのまん丸い眼に 
わたしの中の精霊がうつる わたしたちを
養ってきたいのちが透けて重なる

ある夜 わたしを越えて成長した
頭のうえに ピンポン玉のような
白い花を三つ四つつけて つよい乳の香りを
ながしつづけた 匂いのやむ朝
わたしは 彼女の長いねむりの中へ入り 
いのちの原形をもとめて 泳いでいった

 「わからない」「わかる」ということを考えたとき、二連目の「ピンポン玉のような」が私は全くわからなかった。一連目に登場する「胡桃」の花を思い浮かべようとしたが、どうにも思い浮かばない。栗の花のように、何か、長い房のようなものがぶら下がっていたように思う。ピンポン玉と重ならない。そのことについて受講生からも質問が出た。青柳によれば、一連目の胡桃と二連目と花は関係がないそうである。もう一か所、最後の「泳いでいった」にもどういう意味だろう、という疑問が出た。受講生に、では、どんなことばを考えるか質問してみたら「さまよった」「求めていった」「歩いていった」「入っていった」というようなことばが出た。一連目の、見つめている青柳から、動く青柳にかわっている。青柳は「投身する」というイメージがあったという。私は三行前の「ながし」に水を感じたので、「泳いでいった」と自然な感じて受け止めた。
 この詩は、「かわる」ということでいえば、一連目と二連目で、青柳の意識が向き合っている対象がかわっていて(青柳の説明)、それがわかりにくいのが問題だが、詩とは(あるいはことばとはといった方がいいかもしれない)、自分のことばなのだけれど、書いているうちにかわっていく(何か違うものに気づき始める)ときに、不思議なおもしろさがある。
 わからないけれど、そのわからないところを飛び越してしまえ、という声が自分の中から聞こえたら、それに従った方がいい。いつか、何かが、再び「わかる」という形でやってくるだろう。

雨  永田アオ

むかし たくさんの民族がいて
それぞれのことばを持っていた
それぞれのことばで愛や憎しみを語っていた
たくさんの民族は戦いが好きで
おおきなことや ちいさなことで殺し合った
たくさんの民族が殺し合って
たくさんの民族がいなくなった
いなくなった民族のことばはきえてしまった

いや
ことばはきえることなく
ひとびとの思いをかかえ
空にあがり風になり
雲になり雨になった
だから
こんな雨の日は何千もの何万もの
ことばが降ってくる
夥しいことばが
私に降ってくる
わたしは耳をふさぎ
体を丸めてしゃがみこむ
それでも 
みしらぬことばたちは
とぎれることなく
わたしを叩きつづける
わたしの悲鳴は音をもたない

 民族とことば。これは大きな問題なのだが、政治や歴史に踏み込まずに、神話風に提起した後、二連目で、世界がぱっと変化する。ことばが雨になり降ってくる。その雨がふたたびことばになって降ってくる。その変化の中に、たくさんの民族の戦いが関係している。こういう素早い変化も神話といえば神話の世界かもしれない。
 最後の「わたしの悲鳴は音をもたない」はこころを引っ張られることばである。これは、どういうことだろうか。「ことばにならない」「声にならない」「無力だ」。いろいろな意見が出た。
 もしかすると、その「悲鳴」は、民族の戦いのなかで消えてしまった「ことば」でなら表現できる「音」かもしれない。ほんとうは、永田には、それが聞こえる。だからこそ、「耳をふさぎ」聞かないようにしている。その結果、「悲鳴」を「音/ことば」にできないのだろう。
 少ないことばを何度も繰り返しながら、その繰り返しのなかで「意味」が融合し、そこから、それまで存在しなかった「悲鳴」ということばと「音」が新しい結晶のようにあらわれてくる。
 この変化は、とても新鮮だ。

誘い  木谷 明

もうすぐ高原へ行く
行きたくて行っていなかった あの高原へ
行ったことのないあの高原へ

日中暮らして今まで通り 午後の
風が冷たく吹いたら
すみれがかる空に出掛け
月はわらった左の頬で

もうすぐ高原へ行く

未だ日暮れは浅く 輝きは 焔い

 木谷の書く「あの高原」は、杉の書いた「その家」に似ているかもしれない。重要なのは「高原」「家」ではなく「あの」「その」という意識である。意識の中にあらわれてくる何かの「象徴」が「高原」であり「家」である。「高原」「家」は、象徴のままゆるぎがないが、「あの」や「その」は少しずつ別のことばにかわっていく。その「変化」のなかに詩が動く。
 この詩では「すみれがかる空に出掛け/月はわらった左の頬で」が印象的だ。一瞬、「高原」を忘れてしまう。だからこそ、私は言うのである。「高原」ではなく「あの」という意識こそがこの詩の中心である。その「あの」を別のことばで言い直したのが「すみれがかる空に出掛け/月はわらった左の頬で」という、書いた木谷にしかわからない(あるいは書いた木谷にもわからない)何かなのである。
 詩を朗読するとき、木谷は「月はわらった 左の頬で」と一呼吸の間を入れた。私は、ちょっと混乱した。私は「間」のないことばの運動を感じていた。月が左側の頬(だけ)で笑った(右の頬は笑っていない)と感じた。木谷の読み方では、木谷の左の頬の方で、と聞こえたのである。こういうことは、まあ、印象なので、ひとそれぞれによって違うと思うけれど。
 そういうことも含めて、詩のなかで、ことばが今までつかっていたことばと違うものになっていく(変化していく)のを楽しむのは、詩のいちばんの喜びだと思う。

 

 


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徳永孝「Gifted Being」、池田清子「生きてる」、永田アオ「ドーナツの夕方」、杉恵美子「落ち葉」、木谷明「三島の青のり緑いろ」、青柳俊哉「暁」

2022-11-04 21:04:11 | 現代詩講座

 受講生の作品。

Gifted Being  徳永孝

風の音に耳をすます
深い森の木々と奏でるコントラバスの響き
家のひさしを過ぎて行くポリフォニー
ビルの谷間でスイングするジャズ

雨の中たたずみ頭を挙げる
顔にかかる雨粒の感触
空から地上へ川から海へふたたび空の雲へ
変容し地上を循環するあまたの水を思う

月の無い夜友人と空を見上げる
幾千万の星々かすむ銀河
星座を形作る明るい星達またたきもせずゆっくりと巡る惑星
時おりの流れ星は宇宙からの手紙

それらを感じている私の魂(たましい)
美しさおどろき喜び
当てもなく彷徨う思考
満ち足りて

その心の働きは
人に対する
神様の贈り物(ギフト)
かも知れない

                   Rachel Carson "The Sens of Wonder"より

 風の吹く森からはじまり、世界が次々に語られる。一連目は音楽(空気の振動、風)、二連目は水の循環、三連目は宇宙。四連目は、そうした世界を「魂」「思考」に収斂させ、最終連で「神様の贈り物」とまとめる。四連目の「満ち足りて」ということばが美しいが、書いていることが多すぎて、「意味」を読まされている感じになる。美しい世界が「神様(から)の贈り物」というのではなく、美しいと感じる心こそが「神様(から)の贈り物」という主張はわかるが、「心の働き」を「要約」しすぎている感じがする。

生きてる  池田清子

「ちゃんと食べてる?」と
一人暮らしの兄に聞いた

「自分の場合 栄養がどうのより
食べるか食べないかの問題」

そうか
生きてるから
食べてるのよね

 生きているということは、食べている、ということ。電話(?)で兄が応対するなら、それは生きているのであり、生きているなら食べている。「食べているから、生きている」のではなく「生きているなら、食べている(証拠)」。論理がちょっとねじれている。そして、その論理のねじれに作者は説得されてる。説得させられたことを、そのまま書いている。
 最終連の「納得感」を納得できるかどうかによって、感想が変わってくるだろう。
 私は、「栄養がどうのより」という表現に、少しつまずいた。意味はわかるが、私は、こうは言わない。「栄養がどうのこうのより」と「こうの」を入れる。意識的に省略したのか、無意識にそう書いたのか。受講生に、どういうか聞いてみた。九州で暮らしている受講生は「どうのより」と「こうの」を含めない形でつかうということだった。

ドーナツの夕方  永田アオ

ドーナツを食べて
真ん中の空洞は残して
ポケットに入れて家を出た
やっと体の中の隙間が閉じたので
飲みこんであげることはできないんだ
歩道橋を上がって
下を見たら
道がハの形になってて
その両側の信号がずっとずっと
向こうまで向こうまで赤だった
空洞に見せてあげようと
ポケットからだしたら
空洞は
手の中でちょっと揺れてから
すうっと空に昇って
夕方の白い薄っぺらい月になった
しばらく
ハの形の赤い点描の向こうの
しらっちゃけた月を見ていた
淋しくなったので
歩道橋を降りた
信号が青になったかどうかは
知らない

 今回の講座では、受講生が、わからないところを「考える(想像する)」のではなく、作者に質問する、という形で語り合った。「道がハの形になって、というのはどういうことですか?」「一点透視の遠近法で描かれた絵のように」というやりとりはあったが、「ドーナツを食べて/真ん中の空洞は残しては、どういうことですか?」という質問はなかった。この書き出しを読んだとき、そういう質問が出るだろうと想定して、今回の講座のスタイルをかえたのだが、誰も質問しなかったということに、私はちょっと驚いた。
 ドーナツは、ふつうは、真ん中が空っぽ。それを食べ残すことはできない。でも、詩では、それを書いてしまうことができる。具体的なものではなく、ことばだけの運動がはじまる。「空洞に見せてあげようと」から「夕方の白い薄っぺらい月になった」までは、ことばのなかだけにしかない世界。だれも、永田の書いている「空洞」を見ることはできないし、触ることもできない。いわば、非現実、虚構。簡単に言えば、嘘。
 この講座をはじめたとき、どこまで嘘を書けるか、嘘を書いてみようというようなことを私は受講生に言った。谷川俊太郎は、赤ん坊でもなければ、女子高校生でもない。しかし、平気で赤ん坊の気持ちや女子高校生の気持ちを「ぼく」「わたし」の形で書く。嘘を書く。でも、ことばの動きそのものに、嘘を感じない。ここに、詩の秘密がある。
 書かれていることが「真実」であるとか、「美しい」とかではなく、そしてそれが「現実」かどうかではなく、ことばの動きが「ほんとう」に感じられるかどうか。「ほんとう」に感じられれば、それが詩。
 みんなが、永田のことばの運動、特にドーナツの空洞に疑問を持たなかったというのは、永田のことばが詩として受講生に受け入れられたということだ。

落ち葉  杉恵美子

うらとおもて
月あかりに影をつくり
夜の膨らみの中で
静かな音をたてる

螺旋を描いて
心の中に落ち葉が
ひとつ

虚と実が見える

あと少しだけ
生きられるとしたら
あの人に手紙を書こう

 杉は、ずばり「虚と実が見える」が見える、と書く。しかし、人間に実際に見えるものは「虚」ではなく、「実ではない」が直感できるということ(あるいは証明できるということ)であって、「虚」は見えない。見ないからこそ「虚」という。「虚と実」は「うらとおもて」と書き出されている。人間の(だれかの)、行動の裏が見える。いま、そこには、ないものが見える。「ない」が「ある」ということを発見したのはギリシャ人らしいけれど、この「ない」を「ある」ように書くのが詩かもしれない。
 この作品では、最終連をどう読むかが話題になった。飛躍している(論理的ではない)という意見があったが、私は、飛躍が、ここでは詩だと思った。
 「虚と実が見える」というのは、「虚が見えた」ということかもしれない。しかし、それを否定するのではなく、受け止めて、手紙を書く。つまり批判の手紙ではなく、別の種類の手紙を書く。その手紙を書くという行為の中に、作者の「実」がある。私は、こういう「実」を「正直」と呼んでいる。どんな手紙を書いたか書いていないが、そこでは「実」の「こころ」が動くはずだ。
 そういうことを感じさせる。

三島の青のり緑いろ  木谷明

三島食品が品質に自信をもってお届けしてきた
すじ青のりを伝統の青いパッケージで作る事が
できなくなりました。国内産地での記録的な不漁が続いた為です。
陸上養殖をふくめ原料確保につとめていますが
しばらく時間がかかりそうです。
その間、今できる精一杯の
青のりを準備しました。
でも待っていてください。
必ず帰ってきますから。

と、じっと読んでしまう緑のパッケージの裏書き。


まるで花束をもらったときのような
やさしい気持ちをあなたに

これはトイレットペーパーの袋。


こんな世の中がいい

 実際に作者が見た(読んだ)ことばを引用し、そのあと、瞬間的に「見た(読んだ)」報告し、最後に感想を言う。このことばの関係を、行の空き(一行と二行をつかいわけている)で示す。これは、なかなか度胸のいることである。読者がわかってくれるかどうか、どこにも保障はない。
 でも、私は、それでいいのだと思う。こんなふうに書きたい、という「意思」のなかに詩がある。詩は、いつでも読者にとどくとは限らない。
 とどいたらいいなあ、くらいの気持ちがことばを自由にすると思う。

暁    青柳俊哉

光をむかえるために
空は赤く澄みわたって
稲妻に草の穂が明るむ
あざやかに鶏鳴が飛び立つ

空をうつす田の
薄い氷に新月がそそいでいる

地平線へ伸びる 
ひとすじの野の道
背を吹く風の灯

わたしは空と地に引かれ
広大な無限の弧となって
暁へ解放されるのか

 「あざやかに鶏鳴が飛び立つ、というのは実際に目撃した(体験した)ものですか」「季節はいつですか」という質問が受講生から出た。青柳は「鶏鳴を聞いただけ。ことばと季節の整合性は考えない」と答えた。ことばは現実をそのまま書いているのではない、ということになる。青柳の場合は、ことばの運動なのか、イメージの運動なのか、区別がつきにくい。もちろん区別をしなくてもいいものである。ことばとイメージが一体になって運動している。ただ、イメージの方が「視覚的」なので、印象が強いから、イメージが豊かな詩という感想が生まれるのだと思う。
 青柳は、こころ(精神、意識、頭)に浮かんだイメージこそが「ほんもの」、それをあらわすことばこそが「ほんもの」という世界を描いている。最初に読んだ徳永がつかっていることばで言えば「心の働き」。「心の働き」は「ことば」でしか表現できない。「ことばの働き」というかわりに、そのとき実際に動いたことばを書くと、詩が自然に、ことばのなかからあらわれてくると思う。
 この詩では、最終行の「のか」をめぐって意見が交わされた。「のか」と疑問にするのではなく、「解放される」で終わった方がいいのでは。疑問だと弱くなる、という意見である。私は「のか」という疑問は、単純な疑問ではなく、読者の「答え」を待っている「問いかけ」だと読んだ。「もちろん、解放されるだ」という答えを期待している。

 

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青柳俊哉「空間」、木谷明「その前へ」、杉恵美子「夜がきたら」、永田アオ「秋の音符」、池田清子「清涼飲料水」、徳永孝「我がまま」

2022-10-14 23:15:29 | 現代詩講座

青柳俊哉「空間」、木谷明「その前へ」、杉恵美子「夜がきたら」、永田アオ「秋の音符」、池田清子「清涼飲料水」、徳永孝「我がまま」、(朝日カルチャーセンター、2022年10月03日)

 受講生の作品。

空間  青柳俊哉

少女の中に 大きな時間があり
初めに 蝶のかげがめばえていた

太陽の照りつける白昼に
茫茫と伸びる夏草の中に立ち 身体が 
かげの中へ 傾いていくのを自覚した

成長していく空間の 胸の奥から 
微かな蝶の光がうまれ 翼からそよぐ風で
体は明るい翅脈の線に透けていった

少女は風にふかれる太陽
羽のかげに写る ひまわりやゆりの野原だった

心を超えていくものの法悦の中で
花へ遡る 蝶の空間だった

 少女の中に無限の時間、空間があふれている。少女の成長を温かく見守っているのを感じる。時空間が大きい。五連目が美しい。「茫茫」という書き方がいい、と好評だったが、一方で「法悦」ということばが宗教的で気にかかる、わかりにくいという声があった。青柳は、少女から蝶へ、蝶から花へと固体(個体)の生と死を超えていく過程をあらわしたかったと語った。すでに「時間」「空間」ということばがあるから、それ以外のことばをつかいたかったのだと思うが、私も、「法悦」は観念的すぎると思った。ただ、前にも「自覚」というかなり観念的なことばがあるから、「脈絡」(文体)としては破綻していない。どこまで観念的なことばを詩に書き込むかはむずかしい。観念のことばだけで構成する詩を書いてみるのもおもしろいかもしれない。
 私は「蝶のかげがめばえ」から「蝶の光がうまれ」という変化を、もっと深く、そこに焦点をあてるようにして書いたらおもしろいだろうなあ、と思った。

その前へ  木谷 明

ずっとどこかの落書きで
もう見つけられないのかと
思っていた あのやさしい落書きが
目の前に

好きすぎて一瞬で閉じてしまった
さよならできたわけじゃない
振り向く理由は

こんな背表紙見返し一ページ目にあるなんて

まさかの自己裏切りも甚だしく 

 最終行の「自己裏切り」に意見が集中した。一言で言えば「わかりにくい」のだが、わかりにくいからこそ、読み方がわかれる。それが詩のおもしろいところだと思う。「落書き」とどういう関係にあるのか。誰が書いた落書きなのか。作者が書いたのか、別のひとが書いたのか、作者だけれど別のひとが書いたと想定しているのか。「やさしい落書き」の「やさしい」をどう読むか。これは、いわゆる「行間を読む」ということにつながるのだが、こういうことは「答え」を出さなくていい。というか、作者の「意図」と読んだひとの感想は別のものだから、作者の意図と読者の感想が重なれば、それが正しいというわけでもない。つまり、「解答」というものはない、ただ、ことばを読んで、読者があれこれ思うことができればいいのだと思う。
 そういう揺れ動きのなかで、受講生のひとりが「こんな背表紙見返し一ページ目にあるなんて」に注目し、これがおもしろいと言った。たぶん、この一行が全体のなかで、非常に具体的だからだろう。「背表紙見返し一ページ目」。これを見間違える人はいない。どの本にでもあるが、その「事実」がゆるぎない。たしかに、この一行は、この詩の「事実」を支えている。その対極に「落書き」と「自己裏切り」がある。
 「裏切り」というのは不思議なもので、裏切られてがっかりするときもあれば、裏切られて安心するときもある。ある願いが、思い通りにかなって、あまりに簡単すぎて逆に裏切られたような気持ちになるときもある。
 ひとは、はらはらどきどきや、悲しみ、絶望にさえ、「手応え」のようなものを感じてしまうものなのである。だからこそ、「答え」はいらない。「答え合わせ」は詩には必要ではない。読んで、語り合って、そういう読み方もあるのか、とことばの可能性を感じ取れればそれでいい。このことばを別な形でつかってみよう、と思うようになったら、詩人に生まれ変わっていると言えるだろう。

夜がきたら  杉恵美子

夜がきたら蝋燭を点す
今日いちにちが揺れていて
今日 語り合った君と
今日 別れた君と
昨日から約束していた君と
私の中の今日のわたしと
このまま
草稿のままに
終わりそうな私が
ゆらゆら揺れて美しい

 最終行の「美しい」をめぐって、意見がわかれた。なくても美しいがつたわる。美しいは重複にならないか。私が美しいといえることが美しい。
 「草稿のままに」も、わかりにくいという意見と、「草稿のままに/終わりそうな私」がありのままの姿を書いていて、いい、という意見。「草稿のまま」を未完成ととるか、その未完成を、完成に向けて整えるのを拒むととるか。これもまた、「答え合わせ」をする必要はない。書かれている詩の世界へどこまで進んでいくか、どんなふうに入っていくかは読者の自由である。
 この詩のなかには、いくつものゆらぎがある。「君」とは語り合ったのか、別れたのか、約束していたけれど合わなかったのか。それは「私/わたし」のありかたによって違ってくるだろう。「私」か「わたし」かによって、それは違ってくるかもしれない。
 どんなふうに違う? それは読者が自分自身の体験と、この詩のことばをどう重ね合わせるかによって違ってくる。そして、その結果、読者がつかみとるものに「間違い」ということはない。
 「意味」はそれぞれのひとが自分で生きるものだからである。
 私が「講座」でやっているのは、そういうことである。百点の「答え」を出すことではなく、出てきた答えを、答えというものから解放し、自由にすることである。この詩の中に動いていることばでいえば「ゆらす」こと。
 書いたひとをもゆらすようになると、とてもいい。読者の声を聞いて、「あ、私の書きたかったことは、こういうことだったのか」と作者が思ったとき、そのときこそ、詩が動いて、生きているのだ。読者にであって、新しいいのちをもって動き始める。

秋の音符 永田アオ

街中に音符があふれていた
子どもたちが音符にぶら下がって
遊んでいた
手のとどかない小さな子は
大きな子が抱えて
音符の先に座らせてあげたりしていた
ああ、もう秋が来てたんだ
音符に耳をあてると
トンボが羽根を開く音や
草に咲く花をわたる風の響きが
メロディの隙間から聞こえてきた
しばらくして
音符は空に帰っていった
子どもたちはもう
虹のほうへ
走り出してた

 「音符」は何の比喩か。わからないけれど、絵本にしたら楽しいだろうなあ。発想がすばらしく、実際に音符が存在しているように感じる。イメージが鮮明で、そのイメージに動きがあるのがいい。
 私は、「メロディの隙間から聞こえてきた」の「隙間」という音符を超えることばの動き(メタとしてのことばの動き)がとてもいいと思った。「ああ、もう秋が来てたんだ」というのは散文的な一行だが、この散文の力が、イメージというか空想を支える力になっているとも感じた。
 この詩でも、最後の部分に、意見の「ゆらぎ」があった。どうして「虹」なのかということと、「走り出してた」という表現が不安定ということ。「走り出していた」の方が落ち着くという意見である。これはなかなかおもしろい。「遊んでいた」「していた」「聞こえてきた」「帰っていった」という文体のつづきで言えば、たしかに「走り出していた」である。
 しかし、私は、ここは「走り出してた」と「い」がない方が「文体の拘束」から解放されていていいと思う。世界が広がっていく感じがする。子どもだけでなく、世界が見える感じがする。また「ああ、もう秋が来てたんだ」(来ていたんだ、ではない)とも響きあっていい。先に「ああ」の一行について散文的と書いたのだが、その一行には散文から少しずらす(解放する)音の工夫がされていることを気づかされる。とても微妙な技巧が隠されていることがわかる。しかし、こういう音の感じ方、音と世界の関係、文体の整合性をどう考えるかは、ひとそれぞれである。

清涼飲料水  池田清子

自販機の前で
母子の会話
「何飲む?」
「シュワってするの」
「それ たんさんっていうとよ」
「えっ、じゃあたんにもあると?」

きっと たんいちも知っているに違いない

 母子の楽しい会話、子どもの発見が楽しい。最後の一行に、子どもの成長を感じ取っている作者の視点が生きている。オチが楽しい。
 という声にまじって、朗読を聞いてはじめて意味がわかった。黙読したときはわからなかった、という声もあった。
 その影響かもしれないが、講座の後、「じゃあ たんにも……」と一文字空けた方がいいだろうか、と池田から聞かれた。私は空けない方がいいと思う。「読みにくさ」も詩の魅力。特に、こういう短い詩の場合、読みにくさが読者を立ち止まらせる。そして、そのあとで、読者が、あっ、こういうことだったのかと気づく。その気づきも詩のひとつである。読む先から、すべてがわかってしまっては、詩の楽しみはない。
 ぜんぜんわからない詩は困るかもしれないが、ここのところがわからないけれど、いろいろ感じる(考える)というのが楽しいと思う。

我がまま  徳永孝

空高く滑空する一羽の鳥
君もひとりなのかな
下の方からもう一羽が近寄ってくる
二羽は一諸になり遠くへ飛んで行く

道を歩けば
後になり先になり進む自転車の女学生達
熱心に話しながら歩く男の子のグループ
静かにゆっくりと過ぎる子供連れの男女

居酒屋では
カップル、家族、友人達らしき
それぞれのグループ
ひとりぼっちは居ない

友達って仲間って必要なの?
相手に合せる面倒くささ
理解してくれる人は欲しいけど
今日もわたしは我がままにひとり

 最終連。「我がままにひとり」に共感を覚える。一人が好きというのは我がままだろうか。自己肯定でおわるところがいい。三連目「ひとりぼっちは居ない」を挟んで最終連にむすびつけるところがいい。三連目がないと最後が成り立たない、と受講生。
 私は、一連目の「下の方から」という表現がとてもいいと思った。鳥を見上げるのは、下から。その下からの視線を引っ張るようにして、別の鳥が近づいていく。ここには、作者の肉体と、肉体からはじまる鳥への共感がある。ただ、それは最後の「ひとり」に結びつかない。結びつく必要はないのかもしれないが、一連目で動いた視線が、他の連では静止したまま対象を客観化している。それが「我がままにひとり」ということなのかもしれないが、私は残念に感じる。

 

 


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2022-10-08 23:25:29 | 現代詩講座

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永田アオ「水曜日」、木谷明「一種のアンソロジー」、杉恵美子「空蝉」、池田清子「別れ」、徳永孝「筆箱」、青柳俊哉「まなざしの奥の海へ」

2022-09-15 22:32:42 | 現代詩講座

永田アオ「水曜日」、木谷明「一種のアンソロジー」、杉恵美子「空蝉」、池田清子「別れ」、徳永孝「筆箱」、青柳俊哉「まなざしの奥の海へ」(朝日カルチャーセンター、2022年09月05日)

 受講生の作品。

水曜日  永田アオ

水曜日と
金曜日が
喧嘩して
水曜日がいなくなった
一週間が
6日になった
地球の自転が少し早くなって
花が少し早く咲いて
人が少し早口になった
水曜日はまだ帰ってこない
ほんとうは
金曜日が一番さみしがっている

 「曜日」を題材にした作品。「曜日が喧嘩をするのはおもしろい発想」「おしゃれな詩」「一日減り、少し早くなるがおもしろい」「モチーフ(書いたときの動機)があるのか、ないのか、想像すると楽しい」「私の一週間の行動では、水曜日が中間でいろいろ用件をいれられる日。金曜日が一番いい。それを思い出した」「最後が少しもの足りない」「木曜日がいなくなった方がファンタスティック」「水曜と金曜は、けんかをするくらいに、ほんとうは仲がいい」「最後の金曜日の気持ちはよくわかる」
 いろいろな意見が次々に飛び出した。
 私は、水曜日ではなく、間にはさまった木曜日がいなくなったと読んでしまっていて(いつも誤読する)、朗読を聞いて、あ、水曜日だったのかと気がついた。いなくなったのが木曜日だと、最後の行がむずかしくなるが、また別のおもしろい世界が広がるかもしれない。
 朗読のとき永田は意識しなかったというが、私は聞いていて三行目と四行目の間に一呼吸を感じた。いいなおすと、三行ずつ四連の詩として聞いた。三行ずつの四連だと仮定すると、起承転結の形になる。そして、その「転」の部分が「少し早く(口)」ということばで結びつきながら「曜日」とは違った世界を展開していることがわかる。「少し早く話すようになった」ではなく「少し早口になった」と一部が変化するのも絶妙で、とても音楽的だと思う。
 詩に結論は必要ないと私は考えているが、こういう詩の場合は、全体がナンセンスなだけに、最後にあらわれる「意味」は逆に楽しい。意味なのに「ナンセンス」の感じがする。

一種のアンソロジー  木谷明

ここはお墓だから

虫の声 鳥の声がきこえます

虫なのか鳥なのか実は解らない鳴き声なのです

曇り空 透る空

人の声はどこからもきこえない

ひとはどこにいて 話しているのでしょう

ここに

ふたりでいて 五十年も生きたら

かなう記憶もあるでしょう

とまれかしおれ夏のぬくもりウラナの蝶に

 「やさしく、ファンタジック」「墓は人の歴史の最後。歴史がつまっている。人の歴史に対する感慨がある」「時間の実在感。時間は流れるが時間によって解決できなものもある。そういうことを考えさせてくれる哲学的な詩」「最後の三行、とくに最後の行が印象的」「印象的だが、ウラナの蝶がわからない」「曇り空 透る空、がよくわからない」「でも、そのフレーズの動かし方に詩を感じる」「かなう記憶も詩的なフレーズ」
 わからないことば、わからない行というのは、私は好きだなあ。そこから、いろいろ考えることができる。
 最終行は、私もよくわからないが、その直前の「かなう記憶」がいいなあ、と思う。「かなう」は「叶う」だろう。「願いが叶う、夢が叶う」というようにつかう。しかし、ここでは「かなう記憶/記憶がかなう」。記憶とはすでに起きたことなので、それが「かなう」とはどういうことか。論理的に考えると意味が通らない。しかし、「記憶」がぼんやりしたものから、たしかなものになるということが「かなう」かもしれない。たとえば、ある日、どこかでふたりで花を見た。それは花を一緒に見るのが夢だった、という夢がかなった日のことだった。そのことを「記憶」として、はっきり思い出した。あの日は、二人で一緒に花を見るということを「夢」として意識しなかったが、思い返すとあれは「夢」だった、ということが「記憶」としてよみがある。それが「五十年後」にかなう。
 「墓(墓地)」ということばから連想すると、「ふたりでいて 五十年も生きたら」は、同じ墓にふたりでいっしょに五十年いたら、というようにも読むことができる。いまは、愛する人は墓の中。しかし、私が死んで、二人で五十年一緒にいたら……。それは「私」に限らない。そういう「ふたり」の愛を想像するということかもしれない。
 「ウラナの蝶」は「ウラナシジミ(蝶)」、夏の終わりの蝶だという。「おれ」は「俺」なのか「おれ(いなさい)」という命令なのか。蝶にとまれ、夏のぬくもりよ蝶にとまれ、という意味なのか。私は「特定」しないで読むことにする。意味よりも一行の音の不思議なゆらぎがとても印象に残る。ここには何か私の知らないことが書かれている、という印象が強い。それがはっきりわかればこの詩はもっとすばらしいものとして納得できるだろうが、わからないものはわからないまま、保留しておいてもいいと思う。

*  

空蝉  杉恵美子

ひとつの空間に
かつて満たされた息吹があった
ふくよかな風が吹き抜け
暖かいぬくもりに包まれていた

既に過去となってしまった空間は
もはや私は忘れた事で
海に沈める想いとなり
今はただ新しい空間を感じるだけ

新しい空間は私の意志で満たされる
わたしの言葉で満たされる
私の吐息で満たされる

そして時折静かな風が私を包む
懐かしく、しみじみとした
深呼吸したくなる、まあるい風

 教室で読んだときの詩は「四・三・三・三」の構成。(一行追加されている。)また、最後の行も推敲されている。受講生の感想は、元の詩に対するもの。
 「空蝉は日本的なイメージがあるが、カラフルに描かれている」「一連目と四連目、二連目と三連目が対応していて、その対比がいい」「二連目を四行にすると、ソネット形式になり、詩であるという印象が強くなる」「最終行の、贈り物で、が落ち着かない」
 最終行は、元の詩では「深呼吸したくなる贈り物で」であった。
 末尾の「で」は「忘れた事で」「わたしの言葉で」「私の吐息で」と登場してきていて、最後に「で」がくると、「論理性」が強くなりすぎて、詩を読んでいるというよりも「論理」を読んでいる気持ちになる。
 「ひとつの空間」は空蝉の姿を客観的にとらえたものだろう。この空間が連を変えるごとに変化していく。「過去となってしまった空間」から「新しい空間」に。そして、その「新しい空間」は「意志、言葉、吐息」と「私」/わたし」を通して別なものになる。「肉体」になる。「肺」を想像するといいかもしれない。そこから「深呼吸」によって、世界が統一される。刷新される。
 論理的だけれど、肉体の再生を感じさせる。

別れ  池田清子

カーテンがはずされていた
もう引越しは終わってると知っていたけれど
確かめたかった

別れがあると
出会ったときを思い出す

透明な出会い

少しずつ たくさんの色がついていった

もう二度と会わないでしょう
少しずつ 色は薄くなり
白色になる?
無色になる?

 「引っ越しをカーテンを通して語っているのが具体的で、やわらかな印象があり、すてき」「歳を重ね、数々の別れを体験してきた感じがつたわってくる」「たくさんの色が体験を連想させる」「透明な出会いと最後の二行の対比がおもしろい」「透明、白色、無色の使い分けがおもしろい」「確かめたかった、色がついていった、のたの響きが、過去を想起させる」
 さて。
 この詩、私以外の人は、引っ越して行ったのが近所の人(知人)という読み方をした。池田も、その意味で書いたといった。私は、池田自身の「引っ越し」だと思って読んだ。
 「カーテンが外されていた」は客観的描写なので「他人の家」という感じはするのだが、私はあえて自分の家だけれど客観的にみているのだと思った。自分で引っ越しの作業をするだけではなく、業者もいる。業者がカーテンを外す。わかっていたけれど「確かめたかった」。この場合、「別れ」は「人」であるよりも「家庭(自分の暮らし)」との別れである。その家にはいろいろな思い出があるが、もう二度とは帰らない「家」と思って読んだ。

筆箱  徳永孝

頭に消しゴムかす
やせ細った手足は鉛筆のよう

丸く出っ張ったお腹は分度器で
曲った腰は三角定規

ギクシャク歩く姿はまるでコンパス
いつのまにか小さな筆箱に収まっていた

真っすぐな物指はどこへ行ったのだろう

 「描かれているは筆者自身、自画像か。映画のトイ・ストーリーを思いだし楽しくなった」「小さな筆箱が少し悲しい」「小さな筆箱にはいれられないものもある」「自分を比喩として書いている。最終行の物指に作者の意図を感じる」
 筆箱に収められないほんとうの自分というものがある。それはどこへ行ったのか、と自問しているということだろう。
 「物指」か「定規」か。先に三角定規があるから「定規」はつかいにくいかもしれない。「物差し」の方が長い印象があるという意見が多かった。

まなざしの奥の海へ  青柳俊哉

草の汁に指をぬらし 
蓮華の茎に蓮華の花を通す
藪椿の紅い透明な蜜を吸いほす
茅花(ちばな)の穂を噛むと野生の味がした

海のうえの忘れられた白いボール 
雨の部屋から一瞥した 青い煉瓦壁の崩れが
永遠を投げかける 空中のお手玉の中にしずむ手
聳える無花果の実の粘液が空へながれる

まなざしの奥の海へ 無数の葉をながしつづけた
身体の一瞬と草の歴史がとけている海へ

今 翼のマントをとじた少年が
高速で水中を横切っていった

 「青柳さんらしいイメージが強い詩。最後の二連が美しい」「様々な方向からことばが重なり、イメージが広がる」「最後の二行、海の青と空の青が重なる。光景をスーパースローで見ている感じ」「三連目、意味がわからないけれど引かれる」「最後は飛び魚のイメージ」「草、海、水、空。青柳さんの世界」
 いろいろな声が聞かれたが、「まなざし」「ながれる」「とける」が青柳の世界の特徴だろう。「まなざし」は「目(視覚イメージ)」であり、それは固定されず流れるように動いていく。流れながら、流れのなかで出会ったものがとけて(融合して、ひとつになって)、それからさらに変化していく。それは終わらない。
 どんな詩もいったんは完結するが、それは次の流動をさそう。だから、次の詩が書かれることになる。

 

 

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杉恵美子「盆休み」、池田清子「仇討ち」、永田アオ「ウランバーナ」、徳永孝「金(キム)先生」、木谷明「かなちゃん」、青柳俊哉「十字」

2022-09-03 13:33:20 | 現代詩講座

杉恵美子「盆休み」、池田清子「仇討ち」、永田アオ「ウランバーナ」、徳永孝「金(キム)先生」、木谷明「かなちゃん」、青柳俊哉「雨と窓」、(朝日カルチャーセンター、2022年08月29日)

 受講生の作品。

盆休み  杉恵美子

あなたの子供だった私がいて
白い砂浜で桜貝を拾い
きれいに並べた

あなたの親だった私がいて
小さな手を必死で握って
波に乗せて遊んだ

記憶の中から抜け出して
私は砂浜で波の音を聴いている

なんの証もいらない
なんのことばもいらない

 受講生に感想をたずねると、たいてい全体的な印象を言おうとする。たとえばこの詩なら、「砂浜で昔のこと、母親と子供が一緒に遊んでいることを思い出している様子が静かに語られていて、気持ちがいい」というような「要約」である。
 私は、詩は要約ではないと思っている。今回は、「全体の感想ではなく、どの一行、どのことばが印象に残ったか、好きかだけを、まず言ってみる」ということからはじめた。
 この詩では①小さな手を必死で握って②なんの証もいらない③記憶の中から抜け出して(票の多い順、同数のときは先に出てきた行)だった。
 理由は①子育てのたいへんな感じがつたわってくる。子育てのことを思い出した。②楽しい思い出なので、ほんとうに書いている通り③時間の中から抜け出している感じがよくわかる。
 私は、③が好き。「記憶の中から抜け出して」ということばは、意味はわかるが、ふつうはこういう表現はなかなかしない。少なくても「日常会話」では言わないと思う。友人とお茶を飲みながら海水浴のことを話しているとき「そういえば、こういうことがあった」と語り合う。そのとき、ふつうはなんというだろうか。私は、こういう質問を受講生にするのが好きなのだが(自分なら、何と言うか、と質問することが好きなのだが)、「表現」がそこにあると、なかなか「自分のことば」で語るのがむずかしい。この行でも、みんな、かなりとまどったが、私は、ふつうは「昔のことを思い出しながら」だと思う。
 「記憶」は「過去、昔、思い出」であり、「抜け出す」は「思い出す」だろう。「思い出す」は「主観的」である。しかし、「抜け出す」は「客観的」である。「思い出す」という行為は、精神的な行為であり、それは「外」からは見えない。しかし「抜け出す」ということばは「肉体」を抱えている。肉体の動きは見える。「記憶」は見えないが、それに「見える肉体」が重なる。「抜け出す」には「肉体」が含まれている。だから、次の「私は砂浜で波の音を聴いている」という行にふれるとき、実際に砂浜で波音を聴いている杉の姿が見える。何を思い出しているか、それは聴かないとわからないが、砂浜に座っている姿が見える、ということがとても大切。私の、その砂浜に連れて行ってくれるからだ。
 そして、この「肉体」が見える感覚は、その前の連の描写をさらに強くする。実際に、桜貝を拾っている肉体、手を握っている肉体、つまり、動詞(肉体の動き)が、はっきり見える。こういうことばは、強い。動詞がはっきりつたわってくると、そこに人間がいる感じが強くなる。
 そして、ここから不思議なことも起きる。
 単純に読めば、一連目は「私は子供だったころ、母親と一緒に海水浴に行って、桜貝を拾った」であり、二連目は「子供を連れて海水浴に行ったとき、子供の手をしっかり握った」である。しかし、「子供」と「親」は瞬時にいれかわる。一連目も二連目も「私」が主語なのだが、「私」は同時に「親」であり「子」である、という感じがする。
 言い直すと、桜貝を拾っているのは「子供だった私」だが、そのとき同時に母親の視線を実感している。子供の手を握っているのは「親だった私」だが、そのとき同時に必死に手を握って離さない子供の力も実感している。思い出(記憶)のなかでは「親」と「子」が共存しており、それは区別がない。「親と子」で「一組」なのである。切り離せないのである。だからこそ、それは、瞬時に入れ代わり、交錯する力を持っている。
 こういうことを描写するには「思い出す」だけではだめなのだ。そこから「抜け出し」、それを「客観的」にとらえ直す必要がある。

仇討ち  池田清子

「起きよ、スケツネ」
と言って よく起こされた
多分 すがこの「す」つながり

最近 大河で
曽我兄弟の仇討ちがあった

そうか
鎌倉時代の話だったのか
曽我の十郎、五郎という名前を思い出した

でも
お父さん
娘を殺めて どうするよ 

 ①「娘を殺めて どうするよ」(親子の会話のよう、大河ドラマを思い出、ユーモアがある、詩をまとめている)②「起きよ、スケツネ」(父を思い出す、父親を連想させる響きがある)。
 私はテレビを見ない、歴史もうといので、よくわからなかったのだが、印象に残ったのは「多分 すがこの「す」つながり」という行。長い間、なぜ「すがこ」なのに「スネツケ」と呼ばれるのか、わからなかった。そうか、寝ていたために、仇討ちにあった歴史上(鎌倉時代?)の人だったのか。「起きないと、仇討ちにあうぞ、殺されるぞ(寝坊していると、殺されるぞ、ろくなことがないぞ)」という意味だったのか。父のことばの「意味」を思い返している。
 でも、それは、ほんとう?
 「多分」。それは確かめようがない。だが、こういうときの「多分」は父と子だから、絶対に間違いがない。それでも「多分」と言う。この「多分」のなかに、「つながり」がある。「確信」につながる力がある。
 それが最終行の、軽い感じにつながっていく。「娘を殺めて どうするよ」は「仇討ち」から連想されていることばだが、反論しながら、父だから子を殺したりはしないという「確信(安心)」がある。逆に、優しさを思い出している。それこそ「ユーモア」のなかに。

ウランバーナ  永田アオ

盂蘭盆(ウランバーナ)って
インドの偉いお上人様が
死んで地獄で逆さ吊りされて
飢えてたお母さんを助けるために
インド中のお坊さんに御馳走をして
ありがたいお説教をしてもらって
お母さんを浄土にあげることが出来た供養なんだって
そんな偉いお上人様でも
インド中のお坊さんに頼らないと
一人のお母さんも救えないんだから
私は
悪いことしないわ
だって地獄に落ちても
誰もそんなことしてくれないもの
がんばって
いい人になるわ

ねえ
本心とおもう?

 ①「盂蘭盆(ウランバーナ)って」(音が美しい、こういう漢字とは知らなかった)②「悪いことしないわ」(後半、詩が、自分の演技にはまっていく、その導入。「わ」がとてもいい)③「いい人になるわ」④「本心とおもう?」(いずれも、詩人のこころの動きに反応したものか。⑤について、「裏が見えたみたいな」感じがするという反応があったが、この「裏」は②について「演技」ということばと通じるだろう。)
 私は「私は」という、ぽつんとおかれたことばが印象に残った。それまでの行は「って」「されて」「して」「もらって」というような、だらだらした(?)口語の口調で、いつ終わるのか見当がつかない。それが「私は」という短いことばで変化する。絶妙な「息継ぎ」だと思う。連を変えての「ねえ」にも同じ響きがある。これから、ちょっと違うことを言います、という感じ。
 こういうことを、永田は、「意味」ではなく、リズムの変化で表現することができる。鍛えられた「耳」を感じる。
 さて。
 「がんばって/いい人になるわ」は「本心」かどうか。これは、なぜか、「本心ではない」という見方が多かった。どうして? その理由を聞きそびれたが。
 たぶん。
 「誰もそんなことしてくれないもの」というのが、「本心」だからかもしれない。
 作者に、どの行が一番書きたかったか、と聴いたら「誰も……」だった。詩全体の中では、この行だけが「真実(正直)」。言い直すと。前半は、だれかから聞いたこと。伝聞。それに対する感想が「私は」からはじまるのだが、感想にはうそ(他人に向けたことば)もあれば、自分に向けたことばもある。自分に向けたことば「正直」である。そして、ここには痛烈な「批判/毒」が含まれている。
 あの世には極楽と地獄があるらしいが、この詩が「地獄」からはじまっているのも、とてもおもしろい。

金(キム)先生 徳永孝

キム先生は良い教師です
先生は個々の生徒の特性に合わせた指導をします
先生は話題が豊富で関連する単語や文法がスラスラ出てきます
頭が良くて回転が速いからだと思います

先生は努力家です
語学学校と実践で半年で日本語をマスターしました

キム先生は先生の夫を愛しています
先生は美人で話し好きです
先生は時々物をくれます

わたしはそんなキム先生が大好きです

 ①「先生は時々物をくれます」(形がある、いい先生だと思う)②「わたしはそんなキム先生が大好きです」(結論が明確に書かれている)③「キム先生は良い教師です」(
一行で、すべてを言い切っている)
 私は「先生は時々物をくれます」が非常に気になった。「形がある」という感想は「具体的だ」という意味かもしれない。私が違和感を覚えたのは、「物」をあたえるのが教師の仕事ではないと思っているからかもしれない。
 また「答え」を教える(与える)のでもない、と思っている。教師がすることは、「考え方」にはいろいろある、その「いろいろ」を探り出すことだと思っている。まあ、これは詩とは無関係なことかもしれないが。

かなちゃん  木谷明

猫は自由に家を出入りしていて
それは他所のねこ
足踏みミシンの上にいた猫をさわりたくて猫もうなずいて
ガタンッ
板が落ちて
猫は窓からとび出して
かなちゃんは泣きました 猫がかなちゃんのせいにして逃げたことを。
それから 猫が苦手です


庭の裏手の新婚さんのおたくに上がり込んで
おばちゃんの横にマルチーズという犬がいました
黒くて丸い目を見つめました
いぬはかなちゃんに寄って来ませんでした
赤ちゃんがいたかどうかは あいまいです

大人になったかなちゃんの家に
イヌもネコもいません
でも かなちゃんは思っています
だっこしたかったかな。
  (*三行目「足踏み」の原文は「足」のかわりに猫の足跡マーク、絵文字が2個)

 ①「かなちゃんは泣きました 猫がかなちゃんのせいにして逃げたことを。」(裏切られた感じが出ている、詩のモチーフ、感情のキーが書かれている)②「だっこしたかったかな。」(犬猫への近づき方のわからなさが出ている、ほんとうはどっちなのか。最後の「かな」が疑問の「かな」なのか、名前なのかわからないところ)③「赤ちゃんがいたかどうかは あいまいです」(この一行だけ意味がわからない。)
 ③の「意味がわからない」をめぐって、受講生に質問した。作者にも聞いた。メモが消えて、どういう意見が出たか再現できないのだが、私は、単純に「かなちゃんは犬に夢中になっていたので、そのとき赤ちゃんがいたかどうか覚えていない」と読んだ。そして、この一行が全体を引き締めていると思った。この一行はなくても、最終連は「結論」として成り立つ。しかし、この一行によってかなちゃんの気持ちの集中度がわかる。大切な行だと思う。
 最終行の「かな」の疑問と名前のかけことばのような工夫もおもしろいが、この詩では猫、犬が漢字、ひらがな、カタカナと書き分けられている。その書きわけというか、ごちゃごちゃ感が「かな」の疑問と名前のごちごちゃにつながっていくのが、おもしろい。くべつのつかない「自然」がある。
 「猫がかなちゃんのせいにして逃げたことを。」は、猫がそう言ったわけではなくて、かなちゃんが考えたこと。この「主客」の混同も、とてもおもしろい。混同する(わからなくなる)ことのなかに、「ほんとう」が隠れている。

十字  青柳俊哉

焼かれる夏 鳥籠の中の
白いコーンスネークの静けさ いつ死んでもいいと思う 
神のように水に沈む 水になるまで 

この夏 ふたり目の娘の赤ん坊がうまれる 
哲学的な眼の中に 白い十字の十薬が花をひらく
ルビー色の泡のように水にうかぶ わたしたちの世界

溺れかかる 菅沼のきゅうりの細い手 
ヨーコは頭を洗う 恋するおとこの子の長い髪を海に雪ぐ
さよさよさよさりさりさりりりり 

呼ばれる手は水平線の丸みのむこうへ
海底で磨かれるものの 動こうとしない 
終焉の十字の軽さ

 全員が「さよさよさよさりさりさりりりり」が好きだと言った。「響きが新鮮」浄化される感じ」「オリジナリティがある」。
 「響き(音)」をどう感じるかは、それまでどういう音を聞いてきたかということと関係するかもしれない。この行は「さ」が中心になって「よ」と「り」が交代する。濁りがなくてうつくしいのは、ら行、や行が濁音を持たないことも関係しているかもしれない。それが「さ」の透明感を高めている。
 私は「神のように水に沈む 水になるまで」が気に入っている。「水に沈む 水に」は「ず」という濁音が三回出てくるのだが、なぜだろう、「水に沈む」が「水に澄む」という音になって聞こえてくる。「し」が欠落し、その瞬間に濁音が清音にかわる。同じ濁音にはさまれ、濁音が強調されるために、真ん中の音が自己主張しなくなるのだろうか。といっても、これは私の「耳」の感覚であって、青柳が書こうとしていることとは違うかもしれない。
 だからこそ、私は、感想には、そういうことを書くのである。作者の意図を読み取るだけが詩ではない。そこにあることばから、何を感じるかが大事なのだと思う。

 

 

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(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
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青柳俊哉「雨と窓」、木谷明「せみせみんばい」、徳永孝「シャンプー」、杉恵美子「十薬」、永田アオ「世界」、池田清子「世間話」

2022-08-26 23:13:19 | 現代詩講座

青柳俊哉「雨と窓」、木谷明「せみせみんばい」、徳永孝「シャンプー」、杉恵美子「十薬」、永田アオ「世界」、池田清子「世間話」(朝日カルチャーセンター、2022年08月01日)

 受講生の作品。

雨と窓  青柳俊哉

思いが言葉にならないとき
すべてのわたしが霧の中を渡ってくる
雨が言葉を集め 雨の中に雪の窓をつくる

ひとつの雨粒が 窓を離れ  
他の雨粒たちの それぞれの降下をみつめる 
少しの共感と少しの慈しみ この世界の呼吸を引き受けて
すべての雨粒の中のわたしを 窓の高さをみつめる
戦場へ青年をしいるように
窓が雨粒を運ぶ

窓がさらに高く上っていく
雨が消え 蛍火が点る 
その光の中を 永劫の雪がつきぬけていく

 前回の講座で読んだ受講生の詩のことばが利用されている。そっくりそのままではなく、変更も加えられている。
 詩は、自分の気持ちを書くもの、という意識が強いかもしれないが、ことばを書くことで気持ちをつくっていくという方法もある。気持ちは、世界ということでもある。だから、ことばで世界をつくる、それが詩。
 書きながら、ことばから、どれだけ自由になれるか、ということが、こういう作品では重要になる。
 「私は、こんな意味で、このことばをつかったのではない」という批判(反論? 抗議?)がくるようになるとおもしろい。そういう批判が来た時の方が、ことばの自由度が高いといえるからだ。

せみせみんばい  木谷明

せみせみせみせみせみせみせみせみせみ

せみせみせみせみせみせみせみせみせみ

せみせみせみせみせみせみくまあぶら

みんみんみんみんみんみんみんみんぜみぜみ

ちいさい

おととしあったねちいさかったね

だざいふで

きょねんはわすれたことしはあった

いえにきたんだおんなのこはなかなくてなくのは

おとこのことんで

いってよかったばいばい

ばいばい

 書き出しの「せみ」の連続が、あたらしい蝉の鳴き声のように響く。「くまあぶら」と蝉を省略したあと「みんみんぜみぜみ」と「ぜみ」を重複させる。聞こえない音、聞こえすぎる音が交錯するところが非常におもしろい。「意味」ではなく「音」そのものが詩になっている。
 後半の「行わたり」の展開が、音楽で言う「転調」の効果を上げている。その転調のリズムをいかしたまま「よかったばい」「ばい」と「ばい」が「せみ」のように重なりながら広がっていく。
 博多弁を生かした展開であり、最後の繰り返しの中に、書き出しの「せみ」の音の重複がよみがある。ことしは蝉に出会えてよかった、という喜びがあふれている。

シャンプー  徳永孝

近ごろ居酒屋に行くと聞かれる
おフロ入った?
今までで一番長いんじゃない

頭洗わないと臭うよ
みんなにきらわれてないか心配
おフロ入らなくていいから
シャワーあびて頭洗いなさい
体は流すだけでいいから

うーん 頭洗おうかな?
じゃあ よう子さんと約束ね

翌日 頭を洗った

次に行った時 そう話すと
ほめてくれた
えらいねえ よくやった
ミッションクリアーだね

ちょっと得意な気分
また頭洗おうかな

 居酒屋での人間関係を感じさせる詩。「人と話している感じがつたわってくる」「軽快」という声が受講生から聞かれた。
 一連目の「今までで一番長いんじゃない」の「長い」は何が長いのか。受講生は、どう受け止めたか。聞いてみた。ひとりが「髪が長い」と読んだが、他は「洗っていない期間が長い」と言う。
 「頭を洗う」という表現と関係するが、私は女性は「頭を洗う」よりも「髪を洗う」と表現することが多いのではないかと思っていた。その影響で「髪が長い」と答える人が多いかと思ったが、そうではなかった。私は少し驚いた。
 私の感覚では「髪が長い」以外は、ちょっと思いつかなかった。
 頭を何日も洗っていないということを他人が知っている、そういうことを含めて親密な人間関係というのかもしれないが、そうか……、と思った。

十薬  杉恵美子

どくだみの花が咲きそろった日
娘は二人目の娘を産んだ
産まれたばかりの赤ん坊の顔が
スマホに送られてきた
丸い丸い赤ん坊の顔は
哲学的な眼を開き
抱かれた人の顔をじっと見ていた
この眼の中に
どれだけ素敵な時を
プレゼントできるだろう
白い十字の花の写真を
私は娘に送った

 「プレゼントできるだろう」という行に対して、「少し硬い。プレゼントできるだろうか、かと思った」のようにすれば、やわらかくできるのでは、という声があった。
 そうかもしれないが「哲学的な眼」「素敵な時間」というような凝縮した音の響き、さらにどくだみの花の強さを考えると、いまのままの行の方が強さが響きあう。これは書き出しの「どくだみの花が咲きそろった日」という行の最後に、助詞の「に」が省略されているのと同じ。なくても意味は同じ。ただし、あるとないとでは、音の響きが違う。
 木谷のような詩の場合、音の響き、その効果には気がつきやすいが、杉の詩の場合にも、音が重要な働きをしている。どの行も、すっきりとした響きで構成されている。

世界  永田アオ

キッチンの横の棚の上で
真っ白なコーンスネークが
鳥かごの中
まぶたのないルビー色の目を覚ます
夕方
私は手の中にまとめたパセリを森にして
神のように
水に沈めていた
小さな蛇のために
灯りはまだつけない
パセリと一緒に沈めた私の思いは
パセリからプクプクと泡になって浮かんできて
音もなく消えていく
コーンスネークと私とパセリの世界は
なにかの終焉のように静かだった

 私はこの詩を完全に誤読していた。「コーンスネーク」を蛇とは思わなかった。「スネーク」よりも「コーン」の方にひきずられて、野菜の一種だろうかと思って読んだ。
 ところが、本物の蛇。
 驚いたことに(?)受講生全員が「蛇」と読んでいた。そして、「コーンスネークと私とパセリの世界」に対して「三つのとりあわせがすてき、静かな感じがする」という感想が聞かれた。「終焉に向かって動いていく、ことばが動いていくのがいい」という声も。
 私は「私は手の中にまとめたパセリを森にして/神のように/水に沈めていた」という三行から「神話」を連想し、「コーン」の一種が、水にしずめられ、そこから蛇に変身していくのだと読んだのだった。蛇の誕生と言ってもいい。蛇に変身する、蛇が誕生することで、それまでの「世界」が終わり、新しい世界がはじまる、と。

世間話  池田清子

よく笑うようになったね
と言われた
いつ死んでもいいと言っていたらしい
覚えていない

いつ死んでもいいけれど
明日はちょっとね
の積み重ね

家族の話、身体、病気の話、お墓の話
昔流行っていたテレビ(ハリマオ・ハリマオ)、
遠山の金さん、ソフトバンク、オシム、
そんな ただの 世間話

いつのまにか
穏やかになり 平静になれた

今、カラカラと笑っている

 「世間話ができる相手がいることの幸せ、楽しさ」「感謝の気持ちを感じる」という受講生の声。「ハリマオ」を知らない人もいて、少し「世間話」のような合評になった。「平静になれた」「笑っている」と最後が解放的になるのがいい、という声も。
 一連目の「覚えていない」がとても効果的だと思う。
 このことばが、それ以後のことばの動きを決定づけ、最後に、それこそ解放される。世間話というのは、「覚えていなくていい」。でも、笑いながら思い出してしまうもの。


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池田清子「小さい子供のように」、杉恵美子「蛍火」、徳永孝「雨の日の窓」、木谷明「あの時から」、青柳俊哉「窓」

2022-07-30 22:02:36 | 現代詩講座

池田清子「小さい子供のように」、杉恵美子「蛍火」、徳永孝「雨の日の窓」、木谷明「あの時から」、青柳俊哉「窓」(朝日カルチャー講座・福岡、2022年07月18日)
 受講生の作品。

小さい子供のように  池田清子

小さい子供のように
楽しい時は 楽しいと詩いたい
悲しい時は 悲しいと詩いたい
淋しい時 淋しいと詩いたい

せつない時も
むなしい時も
思いが言葉にならない時も
小さい子供のように
ただ ただ 大きい声で
泣きながら詩いたい

 二連目の「思いが言葉にならない時」が、とてもいい。それで、受講生に「思いがが言葉にならない時」とはどういう時か、質問してみた。ほかのことばで(自分のことばで)言い直すと、どうなるか。
 たとえば「楽しい時」「悲しいと時」「淋しい時」「せつない時」「むなしい時」は、思いがことばになるのか。「楽しい」「悲しい」「淋しい」「せつない」「むなしい」は池田にとって「言葉」なのか。
 最後に「泣く」という動詞が出てくる。「楽しい時」は泣かずに笑うかもしれない。しかし、うれし泣きというものもある。「悲しいと時」「淋しい時」「せつない時」「むなしい時」は泣くかもしれない。
 なにげないことばだが、いろいろな感情(名づけることのできない感情)を「思いが言葉にならない」と言い直した瞬間に、感情が凝縮する。感情が凝縮するから「大きい声」になる。
 「言葉」と「声」が対比されることで、「声」の方が「肉体」に近い感じがつたわってくる。

蛍火  杉恵美子

大きな変動の中で
小さな決意と小さな落胆
瞬間を埋める
少しの共感と少しの慈しみ
この世の呼吸を引き受けて
闇の中に凛と
光るものに
出会う時

 池田の詩が「楽しい時」「悲しいと時」と「時」を並列しながら感情を対比させているのに対し、杉は「大きな」「小さな」「少し」を手がかりに感情や意思を結びつけている。そうしておいて、「この世の呼吸を引き受けて」ということばを動かす。この「呼吸」は、なんだろう。「決意」「落胆」「共感」「慈しみ」というようなことばでは言いあらわすことのできない何かである。池田が書いていた「声」に似ている。「呼吸」は、この場合、そっと吸い込み、すっと吐き出す。そのとき「声」のかわりに、「声を殺した」何かが出て行く。
 この肉体の動きというか、呼吸する肉体といっしょに動くこころを「凛」と呼んでいる。蛍を見ながら、そういう「凛とした」一瞬を思い出しているのだろう。
 最終行の「出会う時」の「時」という終わり方に余韻がある。その「時」、杉は「呼吸」と「凛」の関係に気づいたのだろう。「時」と書くことで、杉の意識が杉自身へ向かっている、杉の中で凝縮していることがわかる。

雨の日の窓  徳永孝

外は雨
窓ガラスを流れ下(お)ちる無数の水滴

いくつかが群れるように降りていく
こちらではぽつんと一滴 自分のペースで

それらを追い越し
急ぎ降りていく水滴達
後になり先になり
互いに競い合うように

しばし留まりまた流れていく者
先行く水滴を追いかける者

並行して流れる二つの水滴
いつの間にか一諸になっている者達
そのままずっと並び流れていく者達
不意に相手を置き去りにし先急ぐ者

尽きることなく過ぎていく
それぞれの水滴の様(さま)

雨が止めば
全て終るのだろうが
このままいつまでも続くような思いで
今はただ眺めている

 二連目「こちらではぽつんと一滴 自分のペースで」の「こちら」と「自分」の結びつきが、この詩を支えている。「あちら」ではなく「こちら」だから「自分」なのである。誰かに、あるいは何かに、ここでは雨の水滴だが、それに感情移入した時、その対象が「自分」になる。感情移入をスムーズにさせることばが「こちら」であり「自分」。
 「こちら」も「自分」も、この詩は成立する。つまり、その一行を省略し、二連目と三連目を結合しても「意味」は変わらない。雨の日に、窓を水滴が走るように落ちていくという状況は変わらない。しかし、感情移入の「度合い」が違ってくる。
 感情移入の強さが、雨(粒)/水滴を「もの」ではなく「者」と呼ばせている。
 最終連に「こちら」ということばはないが、眺めている「こちら」(室内)が暗示されている。感情移入した後、放心している。このあと徳永は、完全に「自分」にもどらなければならないのだが、いまは、放心している。
 この詩には、池田のつかっていた「ただ」ということばが、やはりつかわれている。「ただ」と「ことばもなく、放心している」状態かもしれない。

あの時から  木谷明

梅雨が好き なのは
涼しくて 雨は降ってて
いうことは何もない からかな

洗濯もしない あわててしない

梅雨ではないけれど

腰高の窓から
大粒の雨が燦然と降っていた外の世界

綺羅綺羅 黙って

あの時は 知らなかった 雨だけを 見ていた

黙って

雨を好きになった時

 「ことばもなく、放心している」を木谷は「黙って」と言っているかもしれない。そして、それをさらに「好き」という感情で言いあらわしている。「好き」とは自分の心が勝手にどこかへ行ってしまって、そこへ「来い」と呼んでいることかもしれない。そこへ「行く」と自分は自分ではなくなる。これはたいへんなことなのだが、「放心」しているから、たいへんであるとも気がつかない。
 二連目の「洗濯もしない あわててしない」が不思議な効果をもたらしている。何もしない。ただ「放心」している。そして、自分ではなくなっていく。
 自分ではなくなっていくのだけれど、そのあと、それを思い出して「雨を好きになった時」と「時」へ引き返す。杉の書いていた「時」と同じ使い方だが、これも効果的だ。自省するこころというか、自分自身をみつめる静かさがある。
 四連目の「腰高の窓」の「腰高」は最近は聞かないことばだが、なんとなく「時代/過去」を感じさせて、最終行の「時」と、意味ではなく、ちょっと違うところでことばを呼応させている。そこに不思議な、ことばの豊かさがある。

窓  青柳俊哉

雪でつくられた窓
窓枠の中へ迎えいれ
去っていくものの肌を
霧が運んでいく
すべての他者にわたしがあり 
永劫のわたしはいない
他者にはみえないわたしという窓に
無限をわたる光がとけている
未知のわたしへふきわたっていく
柔らかい濃霧の肌触り
わたしにしいられる窓の
永劫の雪の肌ざわり

 詩を書く時、「課題」を出すわけではないが、なぜか、その日に集まってくる詩には共通するものがある。「窓」は徳永と木谷の詩にも登場した。この「窓」を青柳は「他者にはみえないわたしという窓」という具合につかっているが、これを「窓枠」と読み、ここから「枠」を取り出せば、杉の書いていた自他の区別、あるいはそれを超える「呼吸」とのつながりを読むことができるかもしれない。
 「すべての他者にわたしがあり/永劫のわたしはいない」という深い哲学は、世界全体と自己との融合への入り口である。ことばにしているが、それこそ池田の書いている「言葉にならない」世界である。ことばにすると、矛盾する。ここでは「わたしがあり」「わたしはいない」という矛盾が同居している。もちろん、それには前提条件があるから矛盾であるとは断定できないのだが、そういうことば(論理)を超えて動いているのが詩である。
 「すべての他者にわたしがあり」からはじまる五行は、一行一行が書き換え不能の真実であり、だからこそ論理がつかみにくい。一行ずつに立ち止まり、一行ずつに納得すればいい。もちろん納得ではなく否定という形でもいいが、大事なのは、五行全体をむりやり「論理」にしてしまわないことだ。
 それこそ、ここには「時」が書かれているのだ。

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現代詩講座再開

2022-07-11 22:33:52 | 現代詩講座

現代詩講座(メール、テレビ会議)を再開しました。
20行1000円、その後20行単位で1000円追加。

テレビ会議は30分1000円です。

詳細は、
yachisyuso@bmail.com

までメールで問い合わせてください。

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