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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

徳永孝「夜の子馬」、池田清子「幸せ」、青柳俊哉「点滴」、永田エミ「ジャズが聞きたい」

2022-05-06 09:33:48 | 現代詩講座

徳永孝「夜の子馬」、池田清子「幸せ」、青柳俊哉「点滴」、永田エミ「ジャズが聞きたい」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年05月02日)

 受講生の作品。

夜の子馬  徳永孝

夜のベッドに寝ていると
バルコニーに小馬がやってきた

歩きまわり 白い鼻息を吐く
いななく声が 聞こえる
空を飛んで いろんな所へ行こうよ
一諸に冒険しようよ

ケニーは馬に乗って
旅立って行ったけれど

ぼくはおくびょうなんだ
ここを抜け出して
君がそこにいることを
確かめることも出来やしない

君のけはいを感じながら
ただベッドにじっとしているだけ

 四連目。「ぼくはおくびょうなんだ」をどう読むか。「ぼくは臆病だから、馬に乗って旅立っていくことはできない。ケニーのようにはならない」、そして「ただベッドにじっとしているだけ」と読むのが自然だと思うが、受講生のひとりがとても味わい深い読み方をした。「もし、そこに小馬がいなかったら。失望に対する臆病さ。感じていることが間違いだったらと恐れて、部屋から出ることができない」。
 確かに、そういうことはあると思う。
 そのことを手がかりにして「確かめる」とはどういうことか、考えてみた。「姿を見る」というのが多くのひとの感覚だと思うが、ここでも別の受講生が、とてもおもしろいことを言った。「触ること」。小馬に触って、その存在を確かめる。
 確かにこの詩では「白い」鼻息と視覚が言語化されている。いななく声が「聞こえる」では聴覚が言語化されている。「白い鼻息」は空想(想像)かもしれないが、そこでは視覚が動いている。ある意味で、視覚は存在に先行して、存在を確かめている。
 五感には、嗅覚、味覚もある。これは馬の存在を確かめるとき、つかうかどうかわからない。この匂いは牛ではなく、馬のものである、と言える人は少ないだろう。残る「触覚」はどうか。牛であれ、馬であれ、触ることでそれが存在していると確かめることはできる。
 徳永はそういうことを意識して書いたかどうかはわからない。しかし、書かれていることばを関係づけると、確かに、ここには触覚が欠如している。だから、確かめるためには「触覚(触る)」ことが大切になってくる。
 そこからさらに読み込んでいくと、最終連の「けはい」も違ったものに見えてくる。「気配」とは何だろう。「確認していない何か/確認できない何か」でもある。手で触って見て、そこに「馬」がいるとわかれば「気配」ではない。「気配」は手では触れない。しかし、その「触れない」ものに「耳」や「目」は微妙に反応している。「目にはっきり見えないけれど、何かが存在している」と書いてしまうと、「幻想」になってしまうが、そういうことはある。
 徳永の詩特有の「空想」あるいは「メルヘン」のような印象を語り合っているうちに、私たちは、ちょっと不思議な「哲学」「心理学」の領域へ踏み込んだ。
 こういうことは、ひとりで詩を読んでいるときは、なかなかできない体験である。

幸せ  池田清子

去年 一番悲しかったことは
若い時に比べて
身長が五センチ縮んだこと

二番目に悲しかったことは
一時停止違反で七千円とられたこと

と 話したら

「幸せやね」と 娘
「本当やね」

 最後の娘との対話があたたかい。ユーモアもあり、池田らしい。
 この詩では「去年」に注目した受講生がいた。池田は何気なく書いたのだと思うが、「去年」と書き出しているのは、「去年よりもっと前には、幸せや、本当やね、というやりとりでは乗り切れないようなことがあったのではないのか」という指摘である。そうだからこそ、「幸せやね」「本当やね」という会話が生きてくる。実感になる。
 なるほど。
 私がこの詩で注目したのは、ことばの反復とリズム。「悲しかったことは/……したこと」「幸せやね/本当やね」。同じ音が繰り返されて、自然にことばが耳に残る。その一方、三連目の一行は、ぶっきらぼうで散文的だけれど、反復をもたないこの一行が起承転結の「転」をしっかりと演じていると思った。
 もうひとつ。「悲しかったこと」の「悲しい」のつかい方もおもしろい。別なことばでは「残念」に相当するかもしれない。しかし、「残念」にしてしまうと、意味は似ていても、どうも最後の「幸せやね」「本当やね」のことばとの響きあいが違ってくるように思う。詩の中に占める「音」の領域は広い。

点滴  青柳俊哉

空中で 静止する 滴
雨粒がみている 空とわたしと海を
水晶体のうえで 震えているそれらを 
水の神経が うつしとる   

わたしは夕顔の瓢(ふくべ)をさすっていた 
太陽のように大きく 育つようにと
海面は輪を描こうと 張りつめていた
空に 藻を刈る海女を反射して

滴深く それらは一重になりめぐっていく
わたしたちの空間から分かれて 

太陽の瓢をみがくわたしが 
雨にぬれて 海女の空を泳ぐ

 講座で詩を読むとき、まず作者が読む。次に別の人が読む。そのあと、作者の発言をいったん封じておいて、参加者が感想を言う。作者の意図とあっているかどうかは気にしないで語り合う。
 そのとき「点滴」というタイトルがわからない、という声が出た。ひとりではなく、複数。ひとりがこう説明した。点滴はからだが弱っているときの治療。生きることの心地よさが点滴によってもたらされる、というのである。
 たしかに「点滴」にはそういう意味もあるが、自然現象のことを書いているのではないか。「空中で 静止する 滴」、つまり「雨粒」の一滴を「点滴」と呼んでいるのではないか。「点滴、石をもうがつ」の「点滴」だろう。
 しかも、その「点滴」を青柳がみつめ、青柳の見たものを書くというよりも、視点を転換させ「雨粒がみている」という立場から書く。青柳自身を「雨粒の一滴(点滴)」に託して描いた世界。託してというよりも、雨粒と一体化してという感じかもしれない。
 読んだひとに、「読むとき、つまずいた行はなかったか」と聞いてみた。思い出しにくそうだったが、朗読を聞いていると三連目の「一重になりめぐっていく」では声がはっきりと出ていなかった。「わかりにくかったんじゃない?」「わかりにくい」。詩の音は、読むひとのなかでも確実にある役割をしている。
 その、受講生がつまずいたことばのなかには、どういう運動が起きているのか。
 青柳の詩には、いくつものイメージが出てくる。そのイメージが動いていく。このことは、すでに受講生の意識のなかで共有されている。「イメージがつぎつぎに展開して行き、おもしろい(楽しい/興味深い)」。その「展開」が、この詩では「めぐっていく」と、わざわざ書かれている。これは、ここに青柳が書かずにはいられなかったことが書かれているのである。ふつうならば書かない。でも、書く。こういうことばを私は「キーワード」(そのひとの思想に深く入り込んだことば、肉体になってしまっていることば、無意識のことば)と呼んでいる。ただし、この「めぐっていく」がキーワードかというと、それに付随している「一重になり」の方がより大事(ほんとうのキーワード)である。イメージは展開化していく。しかし、そのイメージは、ばらばらに動いていくのではない。あるいはつながって動いていくのでもない。「一重になり」動く。
 「一重になる」とは、どういうことか。
 小さく固まる(凝固するのでもなく)、何重にも重なるわけでもない。いや、何重にもなっているのだが、透明であるためにそれは「一つに、重なる=一重になる」のである。複数のイメージがあるが、それはすべて重なり、「ひとつ」になる。それが「一重になる」である。
 この「一重」のなかの「遠近感」を読み込むことが、読者にとっての課題だし、作者にとっての課題という感じがする。

ジャズが聞きたい  永田エミ

眠れないのも
胃が痛いのも
自分の脆弱な感受性のせい
午前2時
真っ暗なキッチンの冷蔵庫を開け
長方形の光の中から
長方形の牛乳を取る
冷蔵庫を閉めれば
また暗闇がのし掛かる
ああ、こんな夜は
むかし高校の副教材でみた
タバコロードで
タバコをはこぶ
黒い肌の女たちの
地を這うような
ジャズが聞きたい                             

 胃が痛くて眠れないという現実から出発し、キッチンの長方形に触れた後、タバコロード、ジャズと転換していくところがいい。引き込まれる、という声。
 私は、永田に、「詩を書いていて、ここのところがうまく書けなかった、と感じていることろはありますか?」と聞いてみた。
 「真っ黒なキッチン……冷蔵庫を閉めれば、というところ。長方形が二回出てきて、重複する感じ、もたつく感じ」
 私は、逆に、この部分がとてもいいと思った。特に、冷蔵庫を開けたときの「長方形の光」というとらえ方がとてもいい。冷蔵庫が見えてくる。そして、長方形が繰り返されるのもとてもいい。「長方形」がなくて、「冷蔵庫の光の中から/牛乳を取る」でも、永田のしている行為に変わりはない。しかし、ことばがもたらす印象は全く違う。詩は「意味」ではなく、「ことば」が語りかけてくる「意味以外のもの」の方が大事である。
 「長方形」が繰り返されることで、自然なリズム、永田だけが向き合っている「ことばの世界」が前面に出てくる。私が見逃していたものを確実に見て、それをことばにしているという印象が強く残る。つまり、ことばに「個人/個性」を感じる。繰り返されなければ見落としてしまうかもしれないが、見落としを防ぐ力、「これを見て/これを聞いて」と主張している「ことば自身の声」が聞こえる。「ことば自身の声」とは作者の意識の中心としっかり結びついている。(青柳の「一重になりめぐっていく」と同じように。)0
 さらにこのことば(音)の繰り返しは、眠れないのも/胃が痛いのも」の「のも」繰り返し、「タバコロードで/タバコをはこぶ」の「タバコ」の繰り返しに通じる。音の重複がイメージを明確にする。「意味」を越えて「ことば」が別なものを独自に引き寄せる。その効果が大きいのが、「長方形」の繰り返しである。「長方形の光の中から/三角形(ピラミッド形)の牛乳を取る」では牛乳をのむという行為において違いはないが、ことばのもっている音楽とイメージの自立性がなくなる。
 この詩は、また、「むかし高校の副教材でみた」という一行がとてもいい。これの一行は、池田の詩でふれた「と 話したら」のように、起承転結の「転」のような働きをしている。眠れない夜、冷蔵庫の牛乳という「現実」から、いまそこにないジャズをもとめる気持ちの転換点。「アメリカ旅行をしたとき目撃した」とか、「著名な作家の書いている文章」ではなく、「高校の副教材」。その「現実感」。リアリティ。衝撃力のない衝撃。私はこうしたことばを「正直」と呼んでいるのだが、そこに「正直」が働いているからこそ、「ジャズが聞きたい」という気持ちがほんとうになる。本当の気持ちとして響いてくる。
 ことばの繰り返しだけではないが、全体の口調というか、口の動き、舌の動き、声の動きがとても自然で、ことばを「声」をとおしてつかんできたんだなあと感じさせる詩である。永田は短歌を学んだことがあるという。なるほどと、納得した。舌でしっかり繰り返しなじませた音が、ことばの肉体そのものになっている。

 

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菅沼きゅうり「譲れないもの」ほか

2022-04-21 16:00:06 | 現代詩講座

菅沼きゅうり「譲れないもの」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2022年04月21日)

 朝日カルチャー講座で、菅沼きゅうり「譲れないもの」(「ココア共和国」2022年4月号)の作品と受講生の作品を読んだ。
 菅沼の作品は、第7回YS賞の受賞作である。「譲れないもの」の全行。

私はここ最近、オートミールに
頼りきっている。そして
冗談抜きで、カロリーとかもかなり
気にしている。
いわゆるダイエットってヤツをやってんの、と私は言う
知らなかったでしょ、そのこと
へえそう、とヨーコ
かなりきついわ。
こんなことしてたら、冨永愛だって
まいっちゃうんじゃないかしら、あるいは
ジジ・ハディットだって、と私
やめちゃえばいいじゃない、
やせすぎで死んじゃうかもよ。
それってかなりバカじゃなあい? とヨーコが言う
そうかもしれない、と私は言う
でも絶対にやめられないわ、と私は思う

そう、なにがなんでも
やめるわけにはいかないのだ
それは私にとって譲れないもの。
なぜならカレが、私が今、夢中に
なっているあのカレが
スラっとしててクールな子が好みだなんて
言うものだから。
ちょうどこの
クソたれのヨーコみたいな女のことを

 受講生の反応は。「エッセイか小説みたい」「好き。勢いがあって、歯切れがいい」「弱いところと強いところがある」「私には書けないし、書かない」「昇華されていない」「こういう会話は、いつでもどこでもしている」
 では、何歳くらいのひとが書いたと思う?「二十代後半かなあ」「冨永愛が出てくるから、冨永愛よりは年上ではないか。若い人は冨永愛をライバル視しない」
 あ、びっくりした。
 受講生は、いままで講座で読んできた詩とは違った世界なので、かなりとまどったようだ。私は、この作品が気に入っている。女性がよくする「会話」が書かれているらしいが、この詩は「会話」だけで成り立っているわけではない。書かれているが「話されたことば」と「話されていないことば」がある。一連目が「いつもの会話」であるために気づきにくいが(ことばの調子が同じであるために、受講生がつかったことばで言えば「昇華されていない」ために、見落としてしまいそうだが)、後半は「言われなかったことば」(書かなければ、他のひとにとっては存在しないことば)である。別な簡単なことばで言えば「こころの声」である。詩が「こころの声」であると仮に定義すれば、ここにはまさに「こころの声」があふれている。
 なぜ、こころのなかだけに存在し、会話(面と向かってのことば)にならないのか。そこには面と向かって言ってはならないことば(隠しておきたい秘密)があるからだ。

クソたれのヨーコ

 この最後の一行にあらわれた「クソたれ」。これはヨーコに向かっては言えない。前半を読むと私とヨートは「親友」のように見える。ダイエットの相談をしている。これは一連目には書いていないが、たぶん「恋愛相談」を含んでいる。
 そして、この「クソたれのヨーコ」がおもしろいのは、「クソたれ」という否定後を正直に受け止めるならば、それは「理想」ではない。だれも「クソたれ」になりたいとは思わないだろう。ひとから「クソたれ」と呼ばれたくないだろう。だが、その「否定すべきクソたれ」の、ある部分が私がいまめざしている「理想」なのだ。ここには「矛盾」がある。私は冨永愛やジジ・バディットをめざしているわけではなく(それはたぶん理想の彼方なのだろう)、ヨーコをめざしているのだ。「それってかなりバカじゃなあい?」と私のことを笑っている(否定している)人間をめざしている。
 これから先のことを書き込んでいくと、くだくだと長くなるだけだから書かないが、こういう矛盾を生きている。そして矛盾があるからこそ、そこに書かれていることばが凝縮と拡散をくりかえし、世界を生き生きと輝かせる。このときの「世界」とは主人公の周囲の世界(外界)ではなく、私の内面世界である。こころがいきいきと動いている。菅沼きゅうりがどういう人間か知らない。その姿を私は知らない。しかし、「こころ」は、いまはっきり見たと感じられる。このときの「こころ」とは「心象風景」のことではない。ただ動いている「こころ」である。どこに行くか、それもわからない。不定形の、動くことだけで、存在を告げている「こころ」である。

 受講生の作品のなかに「クソたれのヨーコ」のようなことばはあるか。それを探しながら読んでみる。

流れて  池田清子

白い雲 灰色の雲
間に 澄んだ水色の空

流れる雲にあこがれて
乗って遠くに行きたかった

良い流れにでもいい
悪い流れにでもいい
乗って ひたすら
流れて 流れて

にこっと笑っている
雲に会いたい

 「悪い流れ」の「悪い」がそれにあたるかもしれない。雲が流れる。それに乗って遠くへ行きたい。このときのあこがれは「澄んだ/清い」ものだろう。あるいは「明るい」ものだろう。「良い」に通じることばはほかにもある。「にこっと笑って」も肯定的である。もしこの詩に「悪い流れ」ということばがなければ、池田は、ただ「あこがれ」を生きている人間のように見える。けれども「悪い流れ」と書くことで、何か、「人生」を感じさせる。「良い」と「悪い」があって、そこから「良い」を選んでいるということがわかる。この「悪い」は「クソたれのヨーコ」と同じように、作品全体の「補色」のような働きをしている。
 一連目の「間に 澄んだ水色の空」の「間」と「澄んだ」は「補色」ではなく、ほかのことばを支える「同系色」(静かに他の色を受け止める)感じがある。「水」色から「流れ」が生まれてくるところも自然だ。

air a (2)  緒方淑子

悪意のように伴奏が鳴っていて
唄声が聞こえない

うたってる 唱ってる
夜空に虹(にじ)む白い月を見るように

会っていましょう
覚えていましょう

はい、聴いていましょう

 一行目の「悪意」。突然、否定的なことばからはじまる。歌の「伴奏」は歌を支えるものであって、歌よりも自己主張があってはならない。だが、緒方は歌を聞こえなくするくらいに伴奏が鳴っている、と書く。このときその「伴奏」はへたくそなのか。それともうますぎるのか。つまり、聞いている人は歌を聞くよりも伴奏に聞きほれてしまうのか。緒方は明確には書いていないが、ここでは「唄声」と「伴奏」は、本来のあり方から少しずれている。その「ずれ」は「唄」「うた」「唱」のなかに展開指定。さらに月の傘(月の虹)の二重を感じさせる光景、対話(ふたりでするもの)へともつながっていく。
 伴奏が「善意(歌を支える)」ものに徹していれば、この詩はまた違ったものになっただろう。「悪意」に目を向けたからこそ、この詩は動いている。

自画像  青柳俊哉

 あなたが自画像として描いたものは
 空間を 光とかげで象る
 太陽の 二重(ふたえ)の手 

生成の初め
黒い花の棘
まじわることのない 純粋・単独の閃光が射す
生まれても 脳髄に深くうずいている印
もとめつづけて みたされることのない
わたしたちの 未知の青空

 そして わたしが描いたものは 
 原色を無数に塗り重ねて うすく白い
 月の 美しい空っぽ

 作品の「補色」となっていることばはどれか。「黒い花の棘」と指摘する受講生がいた。私は、「脳髄に深くうずいている印」ものが、この詩の核であると同時に「補色」だと感じた。
 「あなた(実在)」と「自画像(イメージ)」。それを結びつける「描く」という動詞。あらゆるものは「二重」というか、「ずれ」によって認識される。(「ずれ」を青柳は「二重」ということばであらわしている。)「生成の初め(誕生)」と「黒い花の棘(死)」。「太陽」と「月」。「二重」は「まじわらない」ことであり、それは「もとめる」が「みたされない」という動詞(運動)へと動いていく。そのとき、その運動を支える起点が「脳髄」であり、その「脳髄の奥(深いところ)でのうずき」ということになるだろうか。「脳髄のうずき」が、認識のうずきが、世界となって展開する。
 「原色を無数に塗り重ねて うすく白い」はおもしろい。絵の具の三原色は重ねると黒になる。しかし光の三原色は重ねると白になる。そうした違い(ずれ)の中心にあるのが、青柳の場合、「こころ」というよりも「脳髄/精神」かもしれない。「こころ」と「の髄/精神」をわけることに意味がないかもしれないが。

 

 

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緒方淑子「垣根」、青柳俊哉「手の高さに」、徳永孝「昆虫の惑星」、池田清子「三月の中旬」

2022-04-17 10:01:49 | 現代詩講座

緒方淑子「垣根」、青柳俊哉「手の高さに」、徳永孝「昆虫の惑星」、池田清子「三月の中旬」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年04月04日)

 受講生の作品。

垣根  緒方淑子

木蓮 触りたかった

木蓮
のぼってた空に真白(ましろ)に

触りたかった

花びら 夕暮れに 冷たかった

犬、食べたかった 引かれて食べなかった

拾いたかった
 冷たかった
  花びらを垣根に

触りたかった夕暮れ

 緒方の詩の特徴のひとつに主語と動詞の関係があいまいなところがある。「触りたかった」が繰り返されるが、主語は何か。「私は」と読むのがふつうかもしれないが、「木蓮は」と読むこともできる。木蓮は何に触りたいのか。「私に」か。二連目を手がかりにすれば、「空」かもしれない。このとき「空」は具体的な空であると同時に、自分から離れた遠い存在の比喩にもなる。そう考えるとき、「木蓮」は「私」にもなりうる。「木蓮」と書かれているが、それは花ではなく、「私」の分身かもしれない。
 「触りたかった」ということばがほんとうならば、それは「触らなかった」でもある。四連目の「冷たかった」の「冷たい」は触覚、触ることで感じるものである。触っていない。しかし、触覚が「触る」ことで感じるということもある。目が感じる冷たさがないわけではない。それは何かに触って冷たいと感じたとき、手だけが動くわけではなく、目も耳も、肉体全体が動くからである。感覚は肉体のなかで融合している。だからこそ、「冷たい色」とか「冷たい音」というものもある。実際に手が(肌が)触っていないのに「冷たい」と感じる。「真白」ということばを手がかりにすれば、視覚が「触り」、それが触覚にも反映している。
 この感覚の越境は、緒方の肉体を越えて、犬にまで及ぶ。木蓮は木で咲いていると同時に、地面にも落ちている。より冷たいのは地面に落ちている花びらかもしれない。犬は「触りたかった」とは言わずに「食べたかった」と言う。そして「触れなかった」のかわりに「食べなかった」と言う。その間に「引かれて」という別の動詞が入り込んできて、犬と人間をつなぐ。ここは、とてもおもしろい。犬の登場で、「引かれる」という動詞の登場で「手」がより鮮明になる。手の意識が働く。
 それが「拾いたかった」(拾う)という動詞を誘い出し、肉体が動いていく。木で咲いている木蓮の花。地に落ちている木蓮の花びら。中間にあるのは「垣根」かもしれない。地面に落ちている花びらを垣根の上にそっと預ける。そのとき、書かれていない「私」はふたたび「木蓮」になるかもしれない。
 木蓮の花は、空に触りたい。夕暮れの空気に触りたい。それは「私」が、手ではなく、目で触ったその日の感触である。
 主語と動詞を厳密に結びつけてしまわないことで、ことばが揺らぐ。その揺らぎのなかを、かろやかな音楽としてことばが動いていく。

手の高さに  青柳俊哉  

ブドウの実を獲(と)ろうとして
前足をのばす それは自由に空へしなる
わたしは陶酔する ブドウの甘みと手の高さに

水にうつるわたしの姿を 地面に枝でふちどる
かげはわたしよりも暗く重い それを吹くと
水のうえをあまねく遠くへすべって空にまう

飛ぶ鳥の空間へ行くために 翼をふる 
そこに鳥の手がある それはわたしの翼より
白く軽い 星に住む金の髪の少年に恋をして 
青い隕石で文をしたためる 

初めにずれがあった 地面と手の高さに
星を仰ぐわたしたちの心と 空の高さに

 青柳の作品には、「手」がはっきりと書かれている。この手は、緒方の「触る」という動詞よりももっと積極的である。「手」にはできることがたくさんある。それが「わたし」を「陶酔」させる。「ブドウの甘さ」に陶酔するのは「味覚」だが、「手の高さ」に陶酔するのは何だろうか。「精神」とか「こころ」を主語にして考えることができる。
 「精神/こころ」は、どう動くのか。
 三連目で、この詩は大きく転換する。人間にとっての「手」は、鳥ならば「翼」。「鳥の手がある それはわたしの翼より/白く軽い」。青柳は、そう比較している。しかし「白く/軽い」では「視覚」と「触覚」である。鳥は翼(手)をつかって飛ぶことができる。高く高く飛ぶことができる。人間は「手」をつかって飛ぶことはできないが、「精神/こころ」をつかって高く飛ぶことができる。「鳥の翼」が「手」ならば、「人間の精神/こころ」は「翼」なのだ。
 そう考えると「恋」とは「精神/こころ」の飛翔(こころの手=翼をつかって高く飛翔する)である。そして、そのとき「手」は同時に「(恋)文」をしたためる。ことばによって、精神/こころは強くなり、その飛翔の高さを獲得する。
 しかし、青柳は、それに陶酔してしまわない。最終連、「手の高さ」「空の高さ」が出てくる。「地」が登場し「星」が登場する。すべてに「ずれ」があることが、陶酔を誘うのである。認識が陶酔をつくりだすと言いなおしてもいい。

昆虫の惑星   徳永孝

遠く宇宙からまず見えるのは
青く輝く一面の水
近づいていくと陸地には緑の草原や森
きのこやこけも

さらに近づくと
多くの動くものたち

昆虫だ!

多様な形 生態
変態するもの しないもの
空を飛び 地をはい 跳ねる
枯葉の下 土の中にもぐり水に泳ぐ

かれらに交じって
空高く飛ぶ鳥
地表にうごめき走る両生類 は虫類 ほ乳類
水中には軟体動物 きょく皮動物 魚類

それらを蝕むような
黄土色に広がる砂漠 人間が変えた地
灰色 白 黒 茶色の地
立ち並ぶ 石 木材 金属の構造物 人間の住む所

時と共に広がってゆく
侵食する異物
ゾンビ化する地帯
昆虫の王国はいつまでつづくのだろうか?

 徳永の詩は、宇宙から地球へ、地上へ、そしてそこに生きる小さなものへと視線を向かわせる。そして、その昆虫のすむ地上から、視線をもういちど拡大していく。最終連の「時と共に」は、徳永の視線か空間的なものだけではなく時間的なものを含んでいることを告げている。
 地球(自然)の破壊には人間の営為(時間をかけた働きかけ)が影響している。それを「昆虫の王国はいつまでつづくのだろうか?」と昆虫の視線から告発する。いつまでもつづいてほしいという願望が、問いの形で動いている。
 ここにも「主語」の交代があるといえる。ことばのなかで(詩のなかで)、主語は交錯して動くとき、世界は広がる。

三月の中旬  池田清子

ユキヤナギの 白い 自由さ
レンギョウの 黄色い 自由さ
ムスカリの むらさきの
地をはう たくましさ

私も仲間に入れてくれない
私の たくさんの無力も一緒に

アジサイの若い葉
桜のつぼみは
まだ がまんしている

 「白い 自由さ」「黄色い 自由さ」とことばをつないで、そのつぎ「むらさきの」を引き継ぐことばは「自由さ」ではなく「たくましさ」。つづけて読むと「そうか、自由」とは「たくましさ」のことなのか、という感じがしてくる。途中に「地をはう」があるのだけれど、そのことばをはさむことで「たくましさ」がより強くなっている。「地をはう」には何か困難というか、否定的なニュアンスもあるが、それを「たくましさ」ととらえなおすとき、その力があるからこそ「自由」もまた強くなるだという印象が強くなる。
 これは二連目の「無力」と交錯する。さらに三連目の「がまんしている」とも交錯する。「地をはう」「無力」「がまんしている(する)」ということばは、「自由」とは相いれないものかもしれないが、そのことが逆に「自由」へのあこがれを強いものにする。
 花は何種類もある。同じように、一人の人間のなかにある可能性もいくつもある。それは、いまは「無力」に見えるかもしれない。でも、それが「無力」だとしても、消えてしまっているわけではない。消えずに残っているしぶとさがある。それは「自由」への「つぼみ」なのだろう。

 

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池田清子「生きてるっていうこと」ほか

2022-04-03 13:45:34 | 現代詩講座

池田清子「生きてるっていうこと」、徳永孝「境界線」、緒方淑子「のんおあみゅるじんぐううるおあらくううんえにもあ」、青柳俊哉「どんぶり法師」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年03月14日)

 受講生の作品。

生きてるっていうこと  池田清子

痛いっていうことは
生きてるっていうこと

怖いっていうことは
生きてるっていうこと

老いること
悔やむこと
恥じること
会いたくてたまらない人がいるっていうこと
こうして 詩が書けるっていうこと

数学の問題を味わうように
生きてるっていうことを
ゆっくり 味わうことができたらいいんだけれど

 「生きてるっていうこと」が繰り返されているが、三連目にだけはない。省略されている。省略されても、わかる。その省略した分だけ、ことばが早くなり、ことばが多くなる。「老いること/悔やむこと/恥じること」には、また「っていうこと」が省略されている。ここも、なくてもわかる。この省略によるリズムの変化が、ことばを生き生きさせている。
 最後の連の「数学の問題を味わうように」は、池田のひととなりを知っている人にはわかるが、知らない人にはわかりにくい。この連がないと池田の「個性」が出てこない、池田が書いた意味がないといえるかもしれないが、つまずく人が多いと思う。
 三連目には池田の主張があふれているのだが、あふれすぎているかもしれない。少なくとも「ゆっくり 味わうことができたらいいんだけれど」の「できたらいいんだけれど」は言いすぎている。「生きてるっていうこと」でしめくくり、「できたらいい」は読んだ人に感じさせることが大切だと思う。
 自分ですべてを語るのではなく、読者に任せてしまう。そうすると、詩が窮屈ではなくなる。

境界線  徳永孝

低く薄く広がる
マーブル模様の雲

天と地 あの世とこの世を隔てる
ガラスの天井
肉体有るものは通れない

お父さん 振亜(ツェンヤ)さん お母さん
いなくなった人達
みんなあの上に行ったのかな

毎日生きてゆくことが
誰にでも最後まで残された
一番大事な仕事

その仕事を終えた時
あの境界線を越えて
先立った人達に迎え入れられたい

けれども おまえは
そのような生き方をしているか?

 徳永の詩も「生き方」をテーマにしている。受講生のなかから指摘があったが、最終連の質問は、「反語」的に響く。つまり、「そのような生き方をしているか?」という問いは、多くの場合「いや、していない」と否定の答えを誘導しやすい。その場合、それまでに書いてきた肯定的な響きが消えてしまう。「そういう生き方をしてきた、だから、私は先立った人達に迎え入れるはずだ」という肯定的な方向へ動いていくのはむずかしい。
 「生き方」をテーマに書くと、最後を強い肯定で終わるのは「傲慢」という印象を与えるかもしれないと配慮しているのかもしれないが、詩には、こういう配慮はいらない。
 人がどう思うかは、その人の問題。
 詩を書く時は、詩は読まれるものということを意識すると思う。しかし、逆にも考えてみよう。詩を読むのは、他人の考えを読むだけではない。詩を読む時、書いた人のことばに自分のことばが読まれることでもある。読みながら、自分はどうなのかな、と考える。人間は、たいていの場合、他人のことは気にしない。どう見られるかは、気にしないで、ただ自分の書きたいことを書けばいいと思う。

のんおあみゅるじんぐううるおあらくううんえにもあ  緒方淑子

お洋服やさんに行きました
コートの中身はコーン
あったかいんですよ  ~  えすでぃじぃず
 なんです  ~  店員さんは うふふ
セーターは たぬき ひらがな
あったかいんですよ  ~  店員さんはうふふ

えすでぃじぃず? 害獣駆除?
          飼ってるの?
そこまでは  ~  知らないんですよ  ~  
          店員さんはうふふ

次のお店でも たぬき ひらがな
あったかいんですよ  ~  
そこまでは  ~  知らないんですよ  ~  
 同じやりとり 店員さんはうふふ
  でも さっきより 少し困ってる

たぬきなら

郊外 の5月 の明るい田んぼで夫婦
峠 の道端 のこは倒れてた

きょうは たぬき ひらがな

 SDGs(エスディヘジーズ)とタヌキ、セーターの関係はわからないのだが、緒方が洋装店で体験したことを書いている。「たぬき」「ひらがな」、店員の「うふふ」。そのあと、「たぬき」から実際に見たタヌキのことが語られる。
 分かち書きに、それまでの体験(少し変わったリズム)が反映されていて楽しいのだが。私は一か所、とても驚いてしまった。
 「峠 の道端 のこは倒れてた」の「こ」と書かれていることば。私は「タヌキの子」と思った。直前に「夫婦」が出てくるから、その「子」と。しかし、緒方は「子」ではない、という。そこに倒れていたタヌキを指す、指示代名詞、という。
 「どんなふうにつかう?」
 「たとえば、犬を飼っている人が、このこはねえ、とか」
 「それは、私がかわいがっている子どものような存在、だから子というのでは?」
 「いや、そうじゃない。ポットを指して、このこは働き者、とか」
 私は、この説明に、心底驚いた。指示代名詞として「こ」ということばをつかったことはないし、聞いた記憶もない。緒方が言った「ポット」の例ならば、「これ」とか「それ」ということばをつかうだろうし、もし「こ(子)」ということばならば、それは自分が非常に愛着を感じている(自分の一部/犬を我が子き呼ぶのに似ている)ための、一種の「誤用」として理解できるが、愛着をこめたわけでない指示代名詞としての「こ」のつかい方があるとは知らなかった。私は福岡県に住んで50年になるが、ずーっと、この土地で話される単純な(?)指示代名詞のつかい方を知らずにきた。
 きっと知らないことばが、まだまだあるぞ、と思った。
 詩から離れてしまったが、この詩について語り合った時、会話がそういうふうに動いたので、その記録として書き残しておく。

どんぶり法師  青柳俊哉

蝉の声が 黒い雲母にしみいるこの夏
どんぶりのお椀に乗った小さい法師が 
頭に蜻蛉をのせて 津古の池水を渡ってくる 
赤松の崖から青い蟇(ひき)が飛び込む 水の大梵鐘! 

波うつ蓮の葉のうえで きょうも老いた河童が
酒に赤く酔う バラの友の河童も来ていて 
どこへ行くのかと問う 玄海の胸像(むなかた)の王に 
有明海の珍魚わらすぽを献上するのだ 
わだつみの宮のテラスから 女神さまを
遥拝(ようはい)し みあれ祭を見物するのだとかえす

友は水の旅の無事を願って 法師のお椀へ 
天の白いバラの花びらを吹きおくる

 この詩について語り合った時、「連想」ということばが受講生のなかか飛び出した。「連想が、ここちよい」と。
 緒方の書いていたタヌキのセーターと道路で倒れていたタヌキは、連想とはいえないかもしれないが、人の意識(ことば)は、あることをきっかけに別な方向へ動いていくものである。青柳の詩の特徴は、その連想が自律的なところにある。結論があって、それに向かってイメージを集めていくというよりも、ひとつのイメージが次々に新しいイメージを呼び、広がっていく。それが結果的にひとつの世界をつくりだす。
 青柳は芭蕉の「岩にしみ入る蝉の声」「蛙飛び込む水の音」が一連目に反映していると語った。その芭蕉の世界にとどまらず、二連目、三連目へと想像を連ねていく。このとき、その「想像(連想)」を統一するものがあるとしたら、何だろうか。それは、ことばの伝統だろう。青柳は芭蕉を引き合いに出したが、あることばが動くとき、そのことばは一緒に「文学」というか、他人がつくってきたことばの影響を受ける。自分だけの体験でことばを動かすのではなく、そこには少なからずことば同士が交渉するようにしてつくりあげてきた「動き」がある。この動きにひとつの傾向があると(別な言い方をすれば、あるひとつの文学伝統の方向性があると)、そのことばは安定して感じられる。むずかしいのは、そのとき「方向性」がひとつに決定されと、わかりやすいけれど、退屈(わかりやすすぎる)ということが起きる。
 また、緒方の作品への感想と同じように、また作品から離れてしまった。

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青柳俊哉「月」、池田清子「三月の庭」、緒方淑子「air a」、徳永孝「雲と競争」

2022-03-20 14:34:43 | 現代詩講座

青柳俊哉「月」、池田清子「三月の庭」、緒方淑子「air a」、徳永孝「雲と競争」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年03月07日)

 受講生の作品。

月   青柳俊哉

中天の薄雲をながれていく 
白い光 夕闇に祈る農夫の 群青のかげも
水辺にそよぐ水仙の 淡い黄も
色褪せて 凍てつく 

わたしは初めて月をみる
深閑のモノクロームにうたれて 

月と発語するもののいない 空に立ち
いのちと異なる時間を生きるものを 想う
つき というしるしを捨て わたしたちに言葉をしいて
空に 未知を象る

冬蝉のなき声がする 水仙の淡い黄が
暈(ぼ)けて 白い光がながれる

 「月」という表記と「つき」という表記がある。そのため、三連目で「つき」とひらがなにしたのはなぜか、という質問が出た。
 質問というものは、いつでも何らかの答えを含んでいる。その答えはまだことばにならっていない。それを探り出していく、ことばを自分のなかから見つけ出すというのが詩を読むことだと思う。詩を読むとは、詩に読まれること。
 それはそれとして。
 質問に、青柳は「つきというしるし」というのは「ことばとしての月」という説明をした。
 この詩を読む場合、青柳が言った「つきというしるし」の「しるし」が重要になる。「しるし」とはそれ自体具体的なものだけれど、そこに含まれている意味は抽象的である。具象と抽象が結びついている。
 たとえば机の上にのみかけのコーヒーカップがある。それはコーヒーカップという具体的なものだが、だれかがここにいたということを意味するしるしでもある。
 もし、その世界を、コーヒーカップということばをつかわずに描写するとしたら、どうなるだろうか。
 そういうことを「月」を見ながら、青柳は考えている。
 「つきということこば」を捨てる(つかわない)で、いま空に起きていることをを語るとしたら、それはどうなるだろうか。月という知っていることばがない。それを語るとき、どうしても新しい(未知)のことばが必要になる。語るとき「ことば」なにしは語れない。考えるとき「ことば」なしには考えられない。いつでも私たちは「ことばを強いられる」存在である。
 そのことが「わたしたちに言葉をしいて/空に 未知を象る」ということばになっていると思う。
 とても哲学的なこと、ことばと世界の関係が語られている詩である。
 私は、三連目の論理的なことばの運動も好きだが、二連目の「わたしは初めて月をみる」の「初めて」がとても印象的で、いいと思った。
 「初めて月を見たのはいつ?」
 こう質問されて、それに正確に答えられる人はいないだろう。月は、ほとんど無意識に、いつも見ている。そのいつもの月を初めて見る。それはほんとうは初めてではなく、初めてのものとして気づく、ということだ。見たことのない月を見ている。そこには驚きがある。どんなふうに初めてだったのか。「月」という、いつもつかっていることばではいいあらわれない何かを感じた、ということだろう。
 詩を発見した、ということかもしれない。
 まだ、だれも語っていない「月」。それを語るにはどうすればいいのか。
 これは、問題提起の詩であり、問題を提起すること(質問をすること)は、すでに自分のなかで生まれ始めていることば(未生のことば=未知)を探すことでもある。

 「つき、とひらがなにしたのはなぜですか?」
 それは、わからない。わからないから、そこに「答え」が隠れている。作者もまた、それをさがしている。そのさがしている「過程」そのものが、詩という形になって、ここにあらわれている。

三月の庭    池田清子

今 きっと 梅がきれい
六月 実がたくさん取れる

深紅の八重椿
道路にいっぱい散って
掃き集めるのが大変

明るいらっぱ水仙
家の中からは後姿ばかり

れんぎょう
さくらんぼ
濃いあじさいが咲き
びわがなり
秋には柿
勝手に剪定するものだから
表 裏 裏 裏 ・・・・
甘くて大きいたくさんの早生柿
おすそわけができる

そんな庭からも 家からも
私は 自ら去ったので
涙は流さないけれど

もし 突然 もっと大切なものまでも
失うことになったとしたら

 この作品は「失うことになったとしたら」という中途半端な形で終わっている。「どうなるだろう」という疑問のことばをおぎなうと、文章にはなる。しかし、疑問が残る。どうなる? その答えは、池田にはわかっている。だから、かかない。
 わかっていることは書かない。わかるまでの「過程」を描く、という視点から、この詩を読み直すのもいいかもしれない。
 「どうなるだろう」は「未来」である。そのこたえは、いつでも「過去」にある。この詩では、予想される「答え」とは逆のものをあらわすものとして「過去」が書かれている。「過去」だけれど、そこに描かれる梅や柿、いろいろな花は「未来」を必然的に抱えている。表作、裏作の違いはあるかもしれないが、ある「未来」がたしかなものとして存在するように思える。
 でも、人間は、そうではない。
 「どうなるだろう」が予測するのは、たいてい「未来」である。
 でも、その「未来」から「過去」を見たら、どうかわるだろか。「大切なもの」はもっと「大切なもの」として実感されるかもしれない。
 この詩は「大切なもの」を実感するための「予行演習」のようなことばかもしれない。

air a   緒方淑子

こぼれる涙を

あごのラインで

手の甲で

何度も

拭ってた

そんな方法もあるのかと

真似てみた

間に合わなかった

全然

       a scene with an actress 

 ひとはいつでもいろいろなことを知っている。たとえば月が月であることを知っている。ところが、突然、「間に合わない」ときがやってくる。知っているはずなのに、初めてのように、何かにであってしまう。
 緒方は涙も知っていれば、美しい涙の拭き方を知っている。
 しかし、間に合わない。それは、その知っているはずの涙が、まったく知らないもの、青柳のつかったことばでいえば「初めて」の涙としてあふれてきたからだろう。
 「初めて」との向き合い方が、詩そのものなのだ。
 いま感じている「初めて」はいったい何なのか。もちろん、知っている。でも、それはまだ明確なことばになっていない。「未知」のことばのまま、人間を動かしていく。

雲との競争  徳永孝

列車が走る
雲が追いかけてくる

大きな雲が先頭だ
続く小さな雲達も
負けずに付いていく

列車がスピードを上げる
雲達もスピードを上げる
勝負はつきそうもない

線路脇の土手に雲が隠れる
レースも終わりかあ
少し残念

土手がと切れると
まだ雲達は追(つ)いてきていた

 列車が走る。雲が見える。それは列車と競走して、ついてきているように見える。多くの人が経験することかもしれない。徳永にとって「初めて」はなんだったろうか。
 「線路脇の土手に雲が隠れる」という行には、具体的なことが書かれている。「初めて」はいつでもこんなふうに具体的である。
 ただ、具体的すぎて、抽象にむけて整理できないことが多い。緒方の詩で「涙の原因」が書かれていないのは、整理して書いてしまうと、それは「涙の原因」とは少し違ったものになってしまうからだろう。整理できないものがある。だから、それが知っているものをつきやぶって動くと、何もできなくなる。
 徳永の作品では、もし、この「線路脇の土手に雲が隠れる」がなかったら、ことばはどう動くだろうか。「隠れる」があるからこそ、「ついてくる」がはっきり見える。そのことを思うと楽しい。

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池田清子「グラウンド」、徳永孝「違い」、青柳俊哉「河童」

2022-02-24 11:56:30 | 現代詩講座

池田清子「グラウンド」、徳永孝「違い」、青柳俊哉「河童」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年02月21日)

 受講生の作品。

グラウンド  池田清子

夕方 歩いていると 時々
小学校の側を通る
少年野球の練習が見える
木かげで数人のお母さん達がおしゃべりをしている

私も 立っていた
ベンチの脇に

一年間 野球は命でさえあったのに
終わると すぐにパタンと閉じてしまった

へりくつの楽しい息子が小2で寡黙になった
体罰も パワハラも そんなものだと
監督、コーチ、OBへの気配りも当然だと
我が子の代が 前の代に劣らぬようにと
張りつめていた

平日の練習は日が暮れるまで
土日は 練習試合、大会、イベント
中2の姉はいつも家に一人
もっと冷静に広く見えていたらと
後悔ばかりが ふたをした

本物はあった
大きなすいかを何個も海に浮かべ 砂浜ですいか割り
一人のお父さんが会社で作った焼き肉用の大きな鉄板
まっさらな鉄は 輝いていて美しかった

もう三十年以上経つ
たくさんの大人たちに見守られた野球少年達は 高校球児になった
野球以外の経験も沢山積んだ 笑ってた
姉は一人の時間をちゃんと作っていたらしい

ふたを はずそう

 六連目、「本物はあった」と突然、ことばが転調するが、この六連目が生き生きしてる。書かれていることが「具体的」だからである。他の連の、子供の「パタンと閉じてしまった」「寡黙になった」は「説明」であって「描写」ではない。おなじ意味で「後悔」もまた「説明(抽象的な、整理、要約)」。せっかく「ふた」という比喩をつかっているのだから、そこから具体的な動きを語るようにすると世界は違ってくると思う。
 「本物はあった」は「後悔」が抽象的なのに比べて、「歓喜」が具体的だから印象に残る。野球チームの夏休みだと思う。砂浜でのスイカ割り、鉄板焼き。「お父さんが会社で作った」ということばのなかに、家族ぐるみの交流が含まれていて、それが楽しい。「まっさら」ということばも、とても効果的だ。作りたての鉄板が夏の光をはじいている感じが鮮烈だ。
 詩は、要約できるものではなく、要約からはみだしていく「リアリティ」のなかにある。
 「ふたを はずそう」。その蓋を外したあとの視点で見た世界を読みたい。

違い  徳永孝

男は強い
でも多くの男は女のアスリートに負ける
女は優しい繊細
雑な女も多い

男は論理的 女は感性的情緒的
でも世界初のコンピューター・プログラマーは
女のオーガスタ・エイダ・バイロン
昔は画家や音楽家は男の仕事だった

男は社会的だリーダーに向いている
女は内助の功
でも話し好きで社交的なのは女
異なる意見を調整交渉し
まとめ上げるリーダーは女が向いているのでは?
本音は自分のペースで家事をし
嫁ぐ人を支えたいと願う男もいるのでは?

女は生む
これは確か
でも男がいなければ子供は出来ない
おっぱいで子育てをする
ミルクで育てる親も多い

子を生む以外
平均値の差
一人一人の個人は
女か男かだけでは分からない

 この作品も「説明」が中心になっている。考えが「整理」されすぎている。徳永の主張は、「男女の違い」よりも「ひとりひとり(個人)の違い」の方が大きいから、「平均化」して世界をみつめてはいけない、ということだと思う。
 その具体例が「世界初のコンピューター・プログラマーは/女のオーガスタ・エイダ・バイロン」だけでは、「具体」が少なすぎる。徳永自身はいろいろな例を知っていて、それをひとつに代表させたのだと思うが、ひとつだけでは世界が具体的に見えてこない。読者が思わず、「そういえば誰それも……」と連想させるところまで具体的に書いた方がいい。「要約」は読者に任せればいい。
 池田の書いていた「体罰」「気配り」「野球以外の経験」もおなじである。「要約」されすぎている。「意味」はわかるが、「意味」は詩ではない。
 「意味」は、読んだ人にまかせればいい。

河童  青柳俊哉

大きな蓮の葉のうえで 酒に酔う
老いた河童 赤らむ頬に睫毛の長いかげが動く
枯れたブドウやクルミを 厚い黄色い嘴で啄む 

蓮の花はバラに似ているとおもう それは
密集する花弁の束の 天国の平面図である
きのう友の河童を見舞う かれは白いバラを食べていた 
かれにリルケの水盤のバラの詩をおくる バラの内部の光は
かれの中をめぐりつづける 風にとじられた光の形が
水面に捩(よじ)れて砕けた それはどこまで細かく砕けるのか 
水中の 風のかけらに吸われて天の永劫にひらけるのか

水面に 枯れた白い花の糸が垂れる
頬の 深い睫毛のかげがふるえる

 青柳の作品には「意見」がない。青柳に、「意図」はあるだろうけれど、それは簡単にはわからない。
 池田の詩は、息子が野球チームに入っていたときのこと、そのとき娘(息子の姉)に寂しい思いをさせたかもしれないという後悔を書いている。徳永の詩は、世の中では男女の違いが「定式化/定型化」して語られているが、ほんとうは違うのではない、男か女かの違いではなくひとりひとりの違いに目を向けるべきだと主張している。そう「要約」できる。
 それに比べると、青柳の詩は「要約」ができない。河童がバラを食べていることを描写していると「要約」してみても、どこに河童がいる? 河童は空想の動物だとだれかがいえば「要約」は根底から崩れてしまう。「意味」がなくなってしまう。
 このときの「意味」とは、社会全体で(多くの人が)共有できる「意識」ということである。池田の詩ならば、子育てはむずかしい。徳永の詩ならば、男女の違いを平均化して語るのは差別だ、ということになるかもしれない。(要約は、人によって違うだろうが。)
 青柳のこの詩には、そういう「意味」がない。でも、おもしろい。
 「河童」はたしかに架空の動物かもしれない。しかし、ここに書かれている河童を「架空の動物」と意識しながら読む人間が何人いるだろうか。「河童」を河童と意識しないで、むしろ、それは自分かもしれない(あるいは青柳かもしれない)と思って読むのではないだろうか。「意味」を、自分でつくりだしながら読むのではないだろうか。
 河童以外のことばが、すべて現実に存在するものであり、また、そこに書かれている動詞も、人間が体験していることだからではないだろうか。こういうことを「具体」という。「意味/要約/抽象」ではなく、「具体」と言う。「架空/空想」と「抽象」は違うのである。「架空/空想」であっても「具体」ということがある。
 この詩では、この「架空/空想」と「具体」との絡み合いが、

水面に捩れて砕けた それはどこまで細かく砕けるのか 
水中の 風のかけらに吸われて天の永劫にひらけるのか

 という二行で頂点に達する。白熱する。
 それまでの描写はすべて「肯定」である。「断定」である。「酒に酔う」「かげが動く」「嘴で啄む」。二連目で「おもう」ということばを起点にして「平面図である」から空想に拍車がかかるが「食べていた」「おくる」「めぐりつづける」も「断定」である。「事実」として書いている。
 しかし私が注目した二行は「肯定/断定」から踏み出し「のか」という「疑問」で終わっている。
 そしてこの「疑問」は「そうではない」という「否定」ではなく「肯定」を導くための反語的表現なのである。「どこまで細かく砕けるのか」は「どこまでも細かく細かくさらに細かく砕けるにちがいない」と確信するためのことばである。「天にひらかれるのか」は「もちろん天にひらかれるにきまっている」というより強い「肯定/断定」のことばである。
 このとき「空想」は「確信」にかわる。
 そして、「空想」が詩なのではなく、この「確信」こそが詩なのである。「確信」は「絶対にそう思う」であり、その「絶対」が詩なのである。「絶対」とは言い換えがきかないということであり、言い換えがきかないということは「具体」ということなのである。
 反語的疑問のあと、空想は「具体的」な確信にかわる。それは、書いた青柳、そのことばを読んだ人間の「具体」ということである。「気持ち」はいつでも「具体的」なものなのである。要約できないもの、要約したら、消えてしまうものなのである。
 それは、また、「書けないもの」と言いなおすこともできる。
 「どこまでも細かく細かくさらに細かく砕けるにちがいない」「もちろん天にひらかれるにきまっている」とは青柳は書かないし、書けない。そして書かないからこそ、それがことばを超えてつたわってくる。
 この激しい精神的興奮のあと、詩は静かにとじられる。まるでそういうことがなかったかのように、知らん顔して一連目の「睫毛のかげ」に戻っていく。「動く」を「ふるえる」にかえて、余韻をもってとじられる。あ、あの「動く」は「ふるえる」ということだったのか、と発見して終わる。
 青柳の詩は、多くの場合、イメージがどこまでも拡散し、乱反射していくのだが、この詩では「かげ」と「光の形」に焦点がしぼられ、その周辺(河童の外部)でバラや水、風が動き、空間を広げると同時に河童の内面を広げている。外部と内部が融合し、「宇宙」をつくっている。
 「のか」「のか」の二行が、その融合をしっかり支えている。

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青柳俊哉「夕雲」、徳永孝「睡眠剤?」、緒方淑子「風の旅」

2022-02-09 16:28:36 | 現代詩講座

青柳俊哉「夕雲」、徳永孝「睡眠剤?」、緒方淑子「風の旅」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年02月07日)

 受講生の作品。

夕雲   青柳俊哉

凍りつく清冽な水音と 
白いちいさな無数の野花の響く
雪のふりしきる谷間に 心は移り 生きている
匂いのよい花をつみ 花をたべて 憩っている
青空はどこまでも 硬くすんで 寂しく 
雪は空の鋼(はがね)の光沢を 溶けずにすべりおりて
氷河の底の 枯れ野の芽吹きの中にしずむ
冬のくらい夕雲のほとりを 
光があんなに 悲しくうつくしく
灯しているのは 
霊たちが昇華しているためだ
空のむこうの円環へと

 [受講生]透明感があふれる詩。音が光に転換していく。その透明なイメージが展開し、その変化が美しい。「寂しく」ということばがあるが、そのことばとは対照的な感覚も感じる。寂しさと野の花の対比、枯れ野と芽吹きの対照的な存在もいい。
 「匂いのよい花をつみ 花をたべて 憩っている」「雪は空の鋼の光沢を 溶けずにすべりおりて/氷河の底の 枯れ野の芽吹きの中にしずむ」が好き。「霊たちが昇華しているためだ」によって全体が引き立つという指摘。

 私は「心は移り」とこころの運動を客観視していることばと、「灯している」という動詞のつかい方に注目した。特に「灯す」は「光が(略)灯している」という具合につながるが、「私が(あるいはだれかが)光を灯す」のではなく「光が、(光を)灯す」という形で展開していることに注目した。
 「光が何かを照らす、というのが一般的」という声があったが、そのときの「違和感」が大事だと思う。「光が」と書き始めれば、私の場合「灯る」になる。自分とは違うことばのつかい方をしている。そこに、そのひと独自のことばがある。日本語だけれど、日本語というよりも「青柳語」がある。日本語に引っ張られて読むのではなく、「青柳語」を探して読む。
 「光が(光を)灯している」。それは青柳の意思を超えた自然、宇宙の運動。青柳は、宇宙(世界)のなかで動いている、青柳の意思を超えた運動に共振しながらことばを動かしている。
 たとえば「雪は空の鋼の光沢を 溶けずにすべりおりて」は現象の描写ではなく、雪と空(硬くすんだ鋼)の自己表出の運動なのである。雪は溶けずにすべり、それを空は鋼の硬さになることで支えている。ここにあるのは、存在の呼応である。存在が呼応しながら宇宙をつくっている。そのなかを精神が動いていく。存在の運動と精神の運動が重なる。

睡眠剤?  徳永孝

こ数晩良く寝れません
お医者さんは良く寝むれるように薬を処方してくれました
名前は「異邦人のための音楽」
何と不思議な薬の名前でしょう

異邦人よ
あなたは一人自分の部屋でその音楽を聞いているのですか?
それとも仲間と一緒にカフェで
故郷(ふるさと)の町を懐かしみながら

それともあなたはソングライターかも知れない
この町では異邦人である友のために
(もしかしてあなたの恋人?)
彼女を元気づけようとして歌を作る
それほどまでに優しいあなた

それともあなたはダンサーで
大きな青空市場に来ている
広場は世界中から集まったたくさんの人々でにぎわっている
大道芸人やミュージシャンやダンサーも
その芸を披露しようと来ている
あなたは色鮮やかな髪飾りに優雅なスカートで踊る
バックでは様々な東方の楽器が奏でられる

それともその音楽は・・・

先生!
わたしは今夜もまた寝れそうにありません

 [受講生]薬の名前がいい。そこから世界がひろがり、結末までの展開構成がいい。豊かな空想力。四連目へ向かって情景がひろがり、自然にイメージ世界が厚みを増してくる。でも、難解。主語はどこにあるのか。「それともその音楽は・・・」が気になる。
 「それとも・・・」のあとには別のイメージが広がる。そのイメージを作者が書いてしまうのではなく、読者にまかせているのでは? 「・・・」にすることで余韻のようなものが広がる、という声があった。徳永は「このあとも書こうと思ったけれど省略した」と説明した。

 イメージの展開を楽しむ詩。講座では話すことができなかったが、「主語」の問題は、この詩では大事。
 「わたし」は眠れない。だから睡眠導入剤を処方してもらう。その薬の名前が「異邦人のための音楽」。ここから「わたし」は異邦人を想像する。そして、想像した瞬間から「主役」が交代する。「わたし」の苦悩ではなく、「異邦人」が「主役」になって動き出す。もちろん、このとき「わたし」は「異邦人」になって「異邦人」であることを楽しんでいる。
 「異邦人」はあくまで空想であるけれど、空想した瞬間に「わたし」は「異邦人」になって「異邦人」であることを楽しむ。
 ことばは、主観/客観を瞬間的に超えてしまう。「わたし/異邦人」の一体感を楽しむ詩である。
 青柳は「夕雲」を描写しながら「夕方の宇宙」と一体化する。緒方は「異邦人」を描写なしながら「異邦人」と一体化する。そのときの楽しさ。眠れなくなるのは、したがって、当然のことなのである。「わたし」は「わたし」ではなくなり、新しい人間「異邦人」として目覚めたのだから。

風の旅  緒方淑子

鹿はどうしているだろう
はるになったらまたきてください
この山道は桜花のトンネル 藤の花房地面に着くまで

橋から見えたあの池の草辺の君
まっすぐに見つめた君へ
今朝は会いに来ました

凍えた夜は眠れずに この陽光がまどろみの時

ひとりごとではあったのです
さればお耳のよいあなたのことだもの
声は翻る

翻る

声は

親(ちか)しく

翻り

 [受講生]音の響きがいい。「されば」「草辺の君」というようなふだんつかわないことばが、声になり、詩になっている。詩の声、呼吸が心地よい。「草辺の君」に君への思いがあらわれている。「声は翻る」が印象的。韻律が強い。
 でも、「さればお耳のよいあなたのことだもの/声は翻る」のつながりがわかりにくい、という指摘があった。

 私も、そう思う。
 「藤の花房地面に着くまで」や「凍えた夜は眠れずに この陽光がまどろみの時」ということばの動きを見れば、緒方には独特の緒方文法があり、「あなたのことだもの」のあとに省略されたことばがあることは推測できるが、それをこの詩一篇から推測することはむずかしい。
 この詩には、別バージョンがある。緒方は二篇書いてきたが、講座で緒方が読んだのは先に引用したもの。比較のために読んだ作品のその後半は、こうなっている。

ひとりごとではあったのです
さればお耳のよいあなたのこと
聴いていましたね 声は親(ちか)しく翻り
           親しく声は翻り

 「聴いていましたね」が削除されている。
 緒方は、「声は翻る」の部分について、鹿の耳が翻って、私のことばを聴いているのがわかった。風が翻るように声が翻るというのような説明をしたのだが。鹿との「対話」を強調したのだが。
 私は緒方の書いていることを超えて、つまり鹿との対話という部分を超えて、その先を読んでみたい気持ちになる。詩が展開するに従った「鹿」が「君」になり「あなた」になる。この変化は、緒方のこころの変化であり、こころの変化が「現実(鹿)」を「鹿」ではないものに変えてしまうということだろう。鹿と対話しながら、鹿ではないものと対話する。
 そして、対話が成立した瞬間、(緒方が言ったことばで説明直せば、鹿の耳が翻って、鹿が自分のことばを聞いている、鹿に自分の声が聞こえていると感じた瞬間)、何かが変わる。緒方は「鹿の耳が翻る」と言ったが、それは「聴いて、わかった」ということだと思うが、その「聴く」という動詞がないと「翻る」がよくわからない。
 「翻る」とは「風が翻る」という形で緒方は説明し直したが、「葉っぱが翻る」の例がわかりやすいと思うが、表と裏がひっくり返るような、「逆転」のイメージがある。「鹿の耳が翻る」なら、鹿の耳の内側が見える感じだろうか。
 この「逆転」ということを起点にして考えると。
 この詩では話者(緒方と仮定しておく)が鹿と語り合っている。一連目、鹿「また来てください」、二連目、緒方「来ました」。この「声」はどちらも「こころの中の声」だろう。鹿は日本語を話さない。三連目は、緒方の「声」だが、その「語りかけ方」は微妙である。だからこそ、それを四連目で「ひとりごと」と説明している。ここに、この詩の大きな「秘密」のようなものがある。
 鹿との対話の過程で、鹿は君、あなたにかわっている。この人称の変化を手がかりにすれば、「あなたの声」が聞こえたということだろう。緒方は「あなた」に語りかけた。そして、その語りかけは「あなたの声」になって緒方に聞こえてきた。それはもちろん、ここに書いてあるままのことばではないが、「ことば」を超えて、ただ「あなたの声」が聞こえたということだろう。「あなた」との対話がはじまったということだろう。「あなたの声」を思い出したということだろうと私は想像した。
 「聴いていましたね」と緒方が言えるのは、緒方が「聴いているあなた」をよく知っているからだ、と想像した。
 私が書いているのは、もちろん「妄想/誤読」なのだろうけれど、私は、そう読みたい。「語る」という動詞が「翻り」、聴いているはずの「あなた」が語り、語っているはずの「緒方」が聴く。そのとき「親しく」ということばが絶対に必要になる。「親しい」存在だからこそ、この交流が可能なのだ。「聴く」という動詞があった方が、それがわかりやすい。「声」の持ち主も、「聴く」を意識することで、「翻る(逆転する)」と読みたい。「翻る(逆転する)」のは「語る」という動詞にもあてはまる。「語る」は「聴く」に翻る。緒方が語る、「あなた」は聴く。それが、私は聴く、「あなた」が語る。その交代(逆転/翻り)が「声」のなかで起きる。
 もちろん緒方が、ただ鹿との交流だけを意図しているのなら、それはそれでいいけれど。私は、鹿との対話に託された「相聞の詩」として読みたい。「相聞」なかに「聞く」という動詞があるが、そういう「ヒント」があった方が、緒方を知らない人にもことばが届きやすいだろうと思う。
 ただ、ことばの「省略」の仕方に緒方の「詩文法」の基本があるということを出発点にして考えるならば「聴く(聞く)」という動詞は邪魔になるだろう。これは、どれだけ多くの緒方の詩を読んでいるかということとも関係してくるので、とてもむずかしい。詩集のなかで詩を読み直すのか、詩集を離れて一篇の詩として読むのかという問題とも関係してくる。
 (補足)
 緒方が詩の後半に展開した世界、「遠心・求心」の結晶としての存在の認識を言語世界として確立することをめざしているのだとしたら、これは私の考えでは俳句に近い。ただ、そこに世界がある。世界と融合して「私」という存在が「遠心・求心」の運動を生きる。世界というよりも「宇宙」と言った方がいいかもしれない。存在するものの、存在形式を言語運動として展開すれば、そこにおのずと「感情/精神」といったものが含まれる。そういう認識から出発して、詩を俳句に拮抗する言語運動にしたいというのが緒方のやりたいことなら、私が書いていることはまったく見当違いになる。
 鹿を見て、対話したとき、鹿の耳が翻る。その翻りのなかに「親しく」ということばを感じたとき、緒方の「声」が翻り、だれかの「鹿」であり、「君」であり、「あなた」であり、「風」である存在の「声」になり、だれかは消えて、ただ「親しく」という感覚だけが動いている「声」になり、緒方の耳に届く。「鹿→君→あなた」という主観的運動を最後の瞬間に、禅問答(考案?)のように破壊し(突き破り?)、つまり、鹿と対話してきたときの主観的時間を客観的存在に展開し直して、言いなおすならば主観的運動を前面に出さず「鹿」「風」「声」の宇宙として結晶させる。「鹿→君→あなた」という主観的運動は、そのとき風にまたたく宇宙の星のようにきらきら輝いている。あるいは翻りながらきらめいている。
 緒方の詩的意図、文学的意図、言語運動の意図は、緒方の説明を聞くことで理解できたが、この詩を初めて読んだ段階では、私にはまだいま理解していることをことばにする準備はできていなかった。以前読んだ「天気雨 AM」も、私は「相聞の詩」として読んでしまったが、緒方の意図としては「遠心・求心的存在世界」の言語的展開だったのだ。
 (補足、追加)
 たとえば、高屋窓秋に「山鳩よみればまはりに雪がふる」という俳句がある。この句の「山鳩よ」の「よ」は非常に主観的である。緒方の書いている「さればお耳のよいあなたのことだもの」の「だもの」に近い。俳句は短い詩形なので「よ」が非常に目立つ。(ふつうは、切れ字の「や」をつかうかもしれない。)だから、「あ、ここは客観ではなく、主観」だと感じたりするのだが、現代詩のように「定型」がない世界では「だもの」のひとことで「主観」の存在を明示し、さらにそれを「客観」描写で超越するというのは、よほどその作者の方法論を知っていないとわからないと思う。少なくとも、私はわからなかった。もちろん、わかる人もいるだろうとは思うが。さらにその「客観」のなかに「親しく」という「主観」のことばがあれば、なおむずかしい。もっとも、この問題に関しては、「だもの」と「親しく」という主観の呼応によって、「俳句」ではなく「詩」の世界へ帰るのだ、ということもできるから、そういう点から見れば、緒方の世界は完全に完璧に確立され、完成しているとも言える。
 だからこそ、むずかしい。
 「脱線」して言えば。
 「山鳩よみればまはりに雪がふる」の場合、俳句の読者ではなく「詩」の読者である私の場合は、「よ」を頼りに、この「山鳩」は恋人かもしれない、あるいは作者自身かもしれないと、心情(主観)の方に傾きながら読む。そしてそういう読み方を私は「誤読」と自覚しているが、こういう読み方を緒方がどう感じるかが、非常に問題になる。
 これは「カルチャー講座」という限定された場で起きる問題なのかもしれないが、もっと広い問題かもしれない。これも、私には、まだ考える準備ができていない。

 

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池田清子『おまえはわたしをかえていく』、緒方淑子「梅の木の横で」、青柳俊哉「満点の海」、徳永孝「光」

2022-02-07 15:39:15 | 現代詩講座

池田清子『おまえはわたしをかえていく』、緒方淑子「梅の木の横で」、青柳俊哉「満点の海」、徳永孝「光」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年01月31日)

 受講生の作品。

『おまえはわたしを変えていく』  池田清子

中学1,2年の頃書いた詩を見つけた

おまえって誰?
勉強から遊びから わたしを離してしまう
中学生らしいなあ

いつでも どこでも 現われて
わたしの心に入ってしまう
未知の世界へ
淡い感情の世界へ
時には強い情熱の世界へ
わたしを送り込んでしまう

先生とか好きになってたなあ
どんな世界だ

おまえを憎み 恨んでる
だけど いつでもどこでも現われるのを待っている

それで
一体 おまえはわたしを変えたのかい?
変えられて数十年
どこが変わった?
変えたのは
自分ではなく 人 だったような気がするけれど

 「おまえ」とはだれか。「わたし」のなかの「もうひとりのわたし」と読むのがふつうだろうと思うが、「詩かな、と思って読んだ」という意見があった。とてもおもしろい視点である。これに通じるのが「詩の中の自分」「詩を書いていた自分」という指摘。
 この感想が出てきた段階で、もう、この詩について語ることはないかもしれない。
 さらに、これを発展させる形で「おまえ=詩は、変っていきたかったのか。自分(わたし)ではなく、詩の方が」と感想は広がった。「最後の二行の読み方がわからない」という意見が出た。
 世界には「わたし」がいる。「おまえ」がいる。そして、最後に突然出てくる「人」がいる。「人」に通じる存在は「先生」という形で登場してきてはいるが、「変わる/変える」という動詞とは少し離れている。
 さあ、どう読むんだろう。どう読めば、納得できるか。作者を理解するというよりも、自分を理解する、ということが大切だと思う。詩は、書かれてしまって、発表されたら、作者のものであると同時に読者のもの。作者の説明を聞いても納得できないことがあるだろう。納得というのは、自分でするものだからである。
 この作品では「おまえを憎み 恨んでる」に対しても、「わからない」という声が出た。この一行は、つぎの「だけど いつでもどこでも現われるのを待っている」と対になっている。一行ではなく、二行でひとつの世界をつくっているので、組み合わせとして読む必要があると思う。
 「憎む 恨む」と「待っている」はふつうは相反する気持ちである。「憎む 恨む」相手は消えてほしい。でも「待っている」。「おまえ」の方が「わたし」よりも何かを知っているのかもしれない。「わたし」の知らない何か。
 ふつうに考えて、相いれないことばの結びつきを「撞着語」と言う。「冷たい太陽」「明るい闇」のような表現。「憎み 恨んでいる」でも「待っている」というのは、「撞着語」に似ている。そういう感情のからみあった状態は、だれもが経験したことがあると思う。「勉強しなければ/でも遊びたい」「遊びたい/でも勉強しなければ」。
 どちらの「声」が正しいのか、だれも知らない。その知らない何かが「わたしを変えたのか」「わたしは変えられたのか」、それとももっと別の「自分ではない(く)(他)人」が「わたしを変えた」のか。このとき「(他)人」というのは、世間(常識)かもしれない。
 でも。
 あるいは、ここで「わたし」が「(他)人」を変えたのだと飛躍して読んでみるのも楽しいかもしれない。社会は動いている。ひとりの人間が生きるとき、そのひとは社会から影響を受けるだけではなく、小さな形かもしれないけれど、社会にも影響を与えている。だれかが「あ、池田さんはこういう人だったんだ」と気づく。それは社会の変化には見えないかもしれないけれど、どこかでひとを動かしていくなら、それはやっぱり社会を変えたことになる。
 こういうことは、答えを出さなくていい、と私は考えている。ただ考えてみる。思ってみる。そのために、詩を読む。
 

梅の木の横で  緒方淑子

あったかいよね あったかいよね
 長期予報で酷寒とかさ
  あんまりびくびくして暮したくないな

お天気なんかはいてるつっかけ
 ポーンと放って 占いたい
  つっかけってあんま云わないね
   草履、はもっと。

たいてい西の空だった 缶蹴りなんかと一緒よ

裏でも表でも あしたてんきになあれ
もう片方も
あしたてんきになあれ 晴れでも雨でも
しまいは はだし

 一連目、二行目の「長期予報、酷寒」という現実から、過去に戻っていき、その過去がなつかしい。幼いころに戻っていく感じが、あたたかい。二連目が解放感があっていい。最終連で「あしたてんきになあれ」が繰り返されているけれど、「裏でも表でも あしたてんきになあれ」「あしたてんきになあれ 晴れでも雨でも」と順序が交代していところがおもしろい。
 タイトルがとてもいい。タイトルにだけ梅の木が出てくるのだけれど、それによって情景が浮かぶという指摘もあった。
 緒方は「梅の木も、はだしも地面についている。地面でつながっていることをあらわした」と語った。

満天の海  青柳俊哉

満天の海を 枯野(からの)の船が行く
太刀魚の剣のような竿 大きな蛍袋のシュラフ
きょうは銀白の大鰤(ぶり)を穫(と)る 水仙の絵皿に
ウニやミル貝 刺身を盛り 酒に浸して食す
豊玉姫が天に尾をひるがえす
 荒磯ノ鰤彦612・1・7
星の光に 釣った魚の名と日付をしるす
 夕凪ノ糸縒(いとより)姫 745・8・3
光が船の歳月を 速く遠くへはこぶ
 朝潮ノ鰰(はたはた)介 879・2・6
空が 風が 波をきる音がうつくしい
満天の 年齢(とし)のない少年のまま---

   枯野の船:近畿から淡路島まで日の影を伸ばす高樹を
        切って作った船。非常に速く行くとされる。 
   豊玉姫:わだつみ(海神)の娘 

 「612・1・7」などの数字は何なのか。直後に「日付」ということばがあるので日付だと推測できるが、どう読むべきなのか、読者は悩むと思う。講座では、作者がまず朗読する。それから感想を語り合うので、この問題は即座に解消するが、やはり……。
 日付の読み方に注目した、というのが最初の感想だった。(青柳は「612・1・7」を六百十二年一月七日と読んだ。)そこからはじまって、時間のうつりかわりから、生命力を感じる、海と天(星)が呼応している感じがする。海の匂い、潮の匂いを感じだという声。
 後半の「星の光に」「光が」「空が」ということばの並べ方が印象的という指摘があった。
 青柳は「イメージの組み合わせ」に注意して書いたと言った。
 私は「光が船の歳月を 速く遠くへはこぶ」がこの詩の世界全体を象徴しているように感じた。「速く」と「遠く」へ「はこぶ」。ことばが、私たちを、「速く遠くへはこぶ」。そのスピードが、そのまま世界の広さと拡大する。そこでは誰もが「年齢のない少年」になる。
 「戻る」のではなく、新しい少年に生まれ変わると読みたい。生まれ変わるために、詩はある。生まれかえさせるために、詩はある。

光  徳永孝

夕日に照らされて
突如現われた光の王国

オレンジ色に光る建物
燃えるような朱の街路樹
街を歩く黄金(きん)色に輝く人々
ざわめきを抜けて
子供達の遊ぶ声が浮かび上ってくる

やがて光は家々の明かりに引きつがれ
それが窓からもれてくる
闇に負けない力強さと暖かさ
夕食を共にしながら
今日一日の出来事を話し合う声がする

温かいおふろに入ったら
深い眠りにつくだろう

今夜はもう夢も見ないで済みそうだ

 夕方の散歩。時間の流れが、自然でいい。「光の王国」からはじまる夕方の情景にインパクトがある。精神的なイメージが眠りまで貫いている。外の情景だけではなく、家の中の、人の様子も描かれ、その人たちと重ね合わせる形で自分の幸福が描かれている。一日がむくわれる感じ。
 私は三連目の「引きつがれ(る)」という動詞に注目した。外の光が、家の内部の光に引き継がれる。それは「闇に負けない力強さと暖かさ」となって家の中にある。三連目から世界が「外部」から「家の内部」に転換するのだけれど、その転換が「引きつがれる」という動詞でつながっていくのがとてもいい感じだ。これは、実は、だれかによって引き継がれているののではなく、徳永のことばが「引き継いでいる」のである。
 ことばによって、世界を引き受ける。それは世界を生み出すということでもある。

 

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徳永孝「森の小馬」、池田清子「曇り」、緒方淑子「時季」、青柳俊哉「鏡」

2022-01-31 22:16:21 | 現代詩講座

徳永孝「森の小馬」、池田清子「曇り」、緒方淑子「時季」、青柳俊哉「鏡」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年01月17日)

 受講生の作品。

森の小馬 徳永孝

森の少し開けた所に湖が有りました
そのかたわらに小馬が居たので
話しかけてみました

こんにちわ 何をしているの?
水仙の花を見ている
花はどれも好きだよ

お姉さんはどうしてここに来たの
あなたに会うためかもね
うそだあ
そうね ちょっと言ってみただけ

ひとりなの?
ひとりって何?
友達や仲間がいない事よ
親せきはたくさんいるよ
アポロンの黄金の戦車を走らせたり翼をもって天を駆けるとか
馬車を引いて旅したり人を乗せて狩りに出かけたり
競走選手やポロの選手もいるよ
遠い親せきのユニコーンはプレイボーイって言われてる
乱暴なくせに乙女の前では優しくなれなれしいんだって

まあ いろいろな方がいらっしゃるのね
君は何になりたいの?
よく分からない どれも楽しそう
今決めなくちゃいけないの?
大人になれば何かの仕事をするものよ
その時好きな事をすればいいんじゃないの?

話し疲れた
そう? じゃあ私はそろそろ行くわね
さようならまた今度ね
さよなら

そして私はここへ戻ってきました
その後あの小馬に会う機会は有りませんでしたが
今どうしているのか
どんな大人になったのか
気になります

案外分かれた時のまま
変っていないのかも知れません

 受講生に、どんな意図で書いたか、何を書いたか説明してもらい、そのあとで感想を言うという形で講座を展開してみた。
 「湖、小馬の光景が浮かんできて書き始めたが、途中で主人公が交代した」
 この説明と関係があるのかもしれないが、途中の部分に「発話者」がだれなのかわかりにくいところがあったという声が出た。メルヘン、絵本、子どものときの心情かなあ、と思って読んだという意見も。終わり方が余韻に駆けるという指摘もあった。
 それと関係するが「今どうしているのか」以降は、「お姉さん」のことばと読むのがふつうだろうけれど、逆に、「小馬」のことばとして読んでみるのもおもしろいかもしれない。
 小馬が「あのとき会ったお姉さんは、どうなっている」そう想像してみるとどうなるだろうか。時間が経過して変っていくのは「子ども(小馬)」だけではない。「おとな」もまた変っていく。変っていくからこそ、この詩が書けたとも言える。
 あるいは変ってしまった「お姉さん」が、小馬は変わらずにいてほしいという願望をこめて、この詩を書いているかもしれない。そうだとすると、そこには「童心」の「自己」が投影されていることになる。
 「アポロン」からはじまる「小馬の親戚」には変わることのない「童心の夢」のが書かれているのかもしれない。

曇り  池田清子

晴れた日は
とても 太陽がまぶしい
雨の日は
とても 視界が悪い

雨のふる日も大雪の日もかけつけた
一途な雨女はもういない

とうとう
曇りの女になってしまった

 「車を運転していると、太陽がまぶしくて運転しにくくなった。曇りの日が一番運転しやすい」
 とても直接的な説明だったために、逆に読みにくくなったかもしれない。二連目がインパクトがあるという評価の一方、どこへ駆けつけたのかわからない、具体的な場面がわからないという指摘があった。活動的だったのに、それができなくなった。最終連が悲しいという感想も。
 三連目の「とうとう」は直前の「もう」とむきあっている。「雨女」はふつうは、何か大事な時(晴れのイベントの時)、雨を招いてしまう女という意味でつかわれるが、ここでは「一途な雨女」というつかわれ方をしている。これは「雨が降ろうが、やりが降ろうが」ということばを隠している。「もう」も「とうとう」も、その精神につながることばである。

時季  緒方淑子

秋のコーヒー 真冬に飲んでる
 引き出しに ある 冬のコーヒー

春には春のコーヒー 買うだろう
 棚に 手を伸ばして

そして開けるのは 冬の
 春の中の 冬のひと息

 「季節限定のコーヒーを買うが、飲むタイミングがずれる。季節に追いつけない自分がコーヒーに象徴されている。一方で、コーヒーを開けた時と、現実の季節とのずれを楽しんでいるかもしれない」
 三連目が印象的。朗読を聞くとニュアンスがつたわってくる。繊細な感じがとてもいい、という声。
 その三連目の「そして開けるのは 冬の」の「冬の」は何だろうか。この「冬の」をどう読むか、質問してみた。
 「冬の思い出、冬の名残、冬のまどろみ」「冬の実感であって、思い出ではないと思う」
 私は次の行の「冬のひと息」と読んだ。これはいわば「誘い水」のような働きをしている、と。「冬の何か」といいたい。でも、そのひとことがなかなか出てこない。でもとりあえず「冬の」と書いてみる。それから、ことばを動かしているうちに、遅れて「ひと息」がやってくる。しかも、ただ遅れてついてくるのではなく、追いついて、一緒にそこにいる感じ。
 この感覚がいいなあ、と思う。それこそ、ことばの「呼吸」なのである。
 そこで、また質問。書き出し。「秋のコーヒー 真冬に飲んでる」。この一行、あなたなら、どう書く?
 「助詞の『を』を書く。秋のコーヒー『を』 真冬に飲んでる、と」
 緒方は意識的に助詞を省略し、ことばが「散文化」するのを防いでいる。
 

鏡  青柳俊哉

未明の空に鳥がうまれ 
暗い水田(みずた)に美しい叫びがふる 
空にしるされる覚醒 鳥の声をながれる朝の水音 
自然はよく響く鏡

冬の黄昏を 艶(なま)めかしい声で鴉が飛びすぎていく 
朝には青い蛙がなき 夕ぐれには茶色い蟋蟀がわらう 
夏草を摘みながら 落日にまるく染まり眠る女 
生きものたちの声と色彩が一つに溶けあう鏡

ヒメジョオンの小さな太陽を 童女は水辺の空に
かえした 花たちは柔らかい音をたて 水中を
上っていった 花や生きものたちの声が 光と水に
波立ちふるえ 夜に高く硬く澄んでいく鏡

 「自然は鏡であり、何かを反響している。鏡は、反響、呼応の象徴」
 一連目が音、二連目が色、三連目が光と変化していく。透明な情景が重なり合う感じが美しいという感想。
 私は三連目「ヒメジョオンの小さな太陽を 童女は水辺の空に/かえした」という描写が美しいと思った。水に映る空、その空のでヒメジョオンの花が太陽になるという変化がいい。さらにそれが「水中を/上っていった」という動きがいい。童女が立ち上がり、視線の変化が生み出す世界の変化。そのなかにすべてが統一されていく、その透明感。

 

 

 


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青柳俊哉「編み靴」、徳永孝「お昼」、緒方淑子「天気雨 AM」、池田清子「若い?」

2021-12-19 12:42:47 | 現代詩講座

青柳俊哉「編み靴」、徳永孝「お昼」、緒方淑子「天気雨 AM」、池田清子「若い?」(2021年12月06日、朝日カルチャーセンター福岡)

 カルチャー講座受講生の作品。

編み靴 青柳俊哉

内省的に踏みしめる  
アベベ・ビキラの 裸足の甲州街道を 
夜 男がひた走る 天秤棒の先に
多摩川の鮎をぶらさげて 母の粉( こ) 引き唄を
想う吉原の女の耳は 月の兎のように恋しい 
リンゴ唄をうたう 津軽の娘たちの頬が
ほんのり白く咲く頃 大橋あたけの夕立に 
裾を乱して走り出す 写楽の女の鼻がぬれる
船頭の背も 瓢箪のとっくりも 雨にかすんでいく
蓑笠をすっぽりかぶって 深い雪に立ちつくす
眠る少女の 柔らかいカンガルーのポケットの
黄色い編み靴の中の 素足の想いが美しい 

 これまで馴染んできた青柳の作品と趣が違う。イメージがさまざまに展開していくのは同じだが、何か印象が違う。それを「人がたくさん出てくる」と受講生が指摘した。風景が変化していくだけではなく、人が次々に変わっていく。そして、それぞれの人が印象深い。日常的な想像とは違うものが結びつけられているからだ。「アベベ」と「裸足」は馴染みのあるものである。この馴染みのあるものを最初に書いて、「走る」のつながりとしてあらわれる男は「天秤棒」と結びつけられる。「吉原の女」は「月の兎」、「写楽の女」は「鼻が濡れる」。この変化にスピードがある。その加速の先に、「眠る少女」と「編み靴」があらわれる。
 ひとつひとつ書かなかったが、この変化、ことばのスピードは楽しい。

お昼 徳永孝

ヨーグルトにカシスジャムを入れて
よく混ぜる
この甘さと酸っぱさがたまらない

サラダも食べようね
うさぎさんのように

次はかたパンにしよう
ライオンさんは
大きな骨をバキッ バリバリ ガリガリ

ぼくは
かたパンをバキッ バリバリ ガリガリ

牛乳と一緒にね
山羊さんもお母さんのお乳を飲んでいるよ
牛乳よりも山羊さんのお乳の方がおいしそうだな

最後は
カカオ92%のチョコレートとりんご

あーあよく食べた
ナッツとドライフルーツはもう止めにしておこう
また今度食べられるからね

お腹がいっぱいになったら
お昼寝だね

 昼食の光景。ことばの末尾の「ね」「よ」「な」に注目した受講生がいた。口語のリズムがいかされている。口語の印象が「ウサギさん「ライオンさん」ということばを引き寄せる。「山羊さん」の連がおもしろいが、この具体的な部分が自然に動くのも、口語のリズムを引き継いでいるからだろう。印象が「浮いてしまう」のをうまく遠ざけている。
 「幸福感」ということばで詩をしめくくった受講生がいたが、この幸福も、人生論的ではなく、口語の、日常的な幸福である。統一感がある。

天気雨 AM

音楽をかけていたから
換気扇はつけたくなかったから
小窓を開けて
お湯を沸かした

洗濯物を洗濯機に突っ込みながら
いつまで経っても沸かないな……
……見たら火は点いてなくて
換気扇がついていた


窓ごしにびわの葉が笑ってた
そんなこともあるよって
びわはカーテンに影を落として
影はもうひとつ
窓の向こうの光の中に

そんなこともあるよって

お湯が沸いた

 台所で湯を沸かす。ふつうの風景。「びわが笑って、窓の向こうに花かある、という描写が美しい」と三連目に注目した受講生がいた。だが、もう少し違う読み方ができるのではないか。三連目は、単純な「風景描写(日常の報告)」ではないのではないか。
 びわはカーテンに影を落としている。その向こうの影はびわの影ではない、と私は読んだ。そこに緒方は何を見たのだろうか。そのことを考えた。繰り返されていることばがある。
 「そんなこともあるよって」
 これは、だれが言ったことばだろうか。緒方自身ではない。「びわの葉」か「びわの葉の影」か。そうかもしれない。しかし、ふつう、びわの葉はことばを発しない。すると、それは何かの比喩、何かの象徴と考えていいのではないか。
 人はいつでも、そこにいない人を思いだす。そのときはもちろん姿も思いだすのだけれど、「声/ことば(口癖)」を通して思いだすこともある。湯を沸かしたつもりが火がついていなかった。これはよくある日常の光景。それに対して「そんなこともあるよ」ということばをかけるのもよくある光景。きっと緒方は、だれかを思いだしているのだと思う。ただ、風景を見ているだけではなく、だれかを思いだしながら風景を見ている。そこに、生きている「時間」がある。他人の「生きている時間」と私の「生きている時間」をことばのなかで重ねてみる。
 美しい描写、気にかかったことばがあったときは、それを他のことばと結びつけてみることが重要だ。重なり合うことで、書かれていないことが浮かびあがる。それを読者が発見したとき、その詩はより美しくなる。

(私の感想の、「びわはカーテンに影を落としている。その向こうの影はびわの影ではない」という部分に、緒方は「カーテンに映った影か、反射して壁に映っている。それを書きました」と説明した。窓ガラスの光の反射が壁に映る。そのときびわの葉の影もいっしょに映る。そういう「二重の世界」を書いたと説明した。そのことは、とてもよくわかる。わかって上で、私は、その「先」を読みたい。書かれているのは、日常のそそっかしさ、ふと見た風景だけではない。「そんなこともあるよって」ということばが二回繰り返されている。つまり、ここにも「二重の世界」がある。「朝の風景、朝の描写」というだけに世界を限定するのは、もったいない気がする。人を思いだしている、と私は読みたい。)

若い?  池田清子

また 渋柿をつるした
お正月飾り、梅干し作り
少しずつ 取り上げられ手放してきた作業が
いっぺんに帰ってきた
忙しいこと

居間の天井のライトが故障
テレビ、プリンター、洗濯機も壊れた
修理か、買い替えか
決断

二人の時は
そうねと相づちをうてば良かった
こっちがいいと選べば良かった
一人になると
ささいなことでも 全て決断を
もう大変

経験とは若い時にするものだと思っていた
違う
最後の最後には
みんな究極の初体験
若!

 作品を書いてくるとき、何か申し合わせるわけではないのだが、不思議と印象が重なり合うことがある。
 池田の詩にも亡くなった夫が出てくる。二人でいたときは分担できたことがひとりになると全部ひとりでしなければならない。その忙しさ、苦労が書かれている。
 この作品でも、受講生が見落としていたことがあった。
 「最終連の、初体験、ってどういうこと?」
 「自分ひとりですること、決断を自分ですること」
 「最後の最後、と書いてあるね。どいういう意味だろう」
 「死ぬこと?」
 「他人が死ぬことは経験している(夫を亡くすことは経験している)。でも、自分が死ぬということは誰も経験していない。自分の死は、誰にとっても初体験だね」
 それはもちろん決断してできることではない。
 詩だけに限らないが、書かれていることばがあれば、一方に書かれていないことばがある。そのことばは作者にはわかりきっていること。その作者にはわかりきっているけれど、書かれていないことばを探して読むと、詩は身近になる。自分のものになる。

 私たちが詩を読むだけではなく、詩の方が、読者を読む。この人は、どんな人だろう、と思って詩は私たちの前にあらわれてくる。


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緒方淑子「山下時計店」、青柳俊哉「裸木が 透明な光を」、池田清子「謎の世界」、徳永孝「メッセージ」

2021-12-05 16:48:18 | 現代詩講座

緒方淑子「山下時計店」、青柳俊哉「裸木が 透明な光を」、池田清子「謎の世界」、徳永孝「メッセージ」(2021年11月15日、朝日カルチャーセンター福岡)

 カルチャー講座受講生の作品。

山下時計店  緒方淑子

となりのとなりのとなり町まで クルマで
ふと降りて
歩いて
閉まりかけた店々店に 並んで
あ時計屋さん
私 直してほしい時計があるの
     もうずっと持ってるの
誰も直してくれなくて

クルマに積んでた掛時計 見せたら

時間をもらえば直せます

家にもあるの 誰も直してくれないの
持って来てもいいですか

1コめ直って受け取って
   2コめ直って受け取って
3コめ直して渡すとき
時計屋さん ニッと笑って
あ待って

その時計の裏側に なにかをペタンと
            貼りました

それは金色のシール。
Yのイニシャルつきの。
「山下時計店 09 21」。

 「ことばがやわらかくて気持ちがいい。となりの……、店のくりかえしがリズミカルで最後の1コ2コ3コも繰り返しが気持ちがいい」「誰も直してくれない、ということばから、わたしのこころも直してほしい、という気持ちを感じる。時間をもらえれば直せると重なり合う。最後のシールもいいなあ。時計屋との関係が切れるのではなく、関係が残る感じがある」「やさしいエッセイ、という感じ」「時計を直すということと、時間をなおす(わたしのこころを直す)というふたつの主題が、気持ちよく重なっている」
 受講生が、すべてを語ってくれた。
 時計を直す、わたしの時間をなおす。ふたつのことを結びつけているのが「ずっと」ということばだろう。「ずっと持っている」は「ずっと待っている」。
 「その時計の裏側に なにかをペタンと/貼りました」の二行は「ました」をつかうことで、「文体」を変化させている。その変化があって、最終連への転調がスムーズになっていると思う。
 なお「Y」は、原文は〇のなかにY。

裸木が 透明なかげを 青柳俊哉

裸木が 透明なかげを地に射す 
寂しい田舎 モノクロームの窓に
かなしみがふっていた 枯れていく空 
茫々と波うつ田 氷の野を
そめて 荘重なかなしみが
ふりしきっていた

雪は わたしたちの脊柱の空に結ぶ 
地上に降りる神聖なものの 表象である
命を溯る 石の神経の無限のラセンのうえにも
それは結晶していた 繁茂する空の巨木の
線的な内面も おおいつくし消していく 
地上を超えるものの 心象である 

 「かなしみがふっていた、ふりしきっていた、に胸がしめつけられる」「命を溯る、にはもう一度春がくる予感が感じられる」「景色だけではなく、人間を超えたもの、詩のなかのことばで言えば、神聖なものを書こうとしている。地上を超えるもの、にもそういうことを感じる」「無機質な石に対してさえ、生命的なものを感じる力がすごいなあ」「脊柱の空、がわからない」
 たしかにわかりにくい。
 一連目の「裸木」は視覚的なイメージ。「脊柱の空」は視覚を装っているが抽象的なイメージといえるだろうか。共通するのは垂直のイメージ。その垂直は「ふる/降りる」によって強調される。時間は、一般的に水平方向の直線でイメージ化されるが、この詩では垂直方向の存在としてイメージ化されているのではないだろうか。
 雪が、かなしみとしてふってくる。地中に埋もれた石が、地中から垂直に立ち上がる。その力が裸木にのりうつる。天と地。その間にふる雪。何かが交錯する。意識が交錯する。

 「図形だろうか、グラフだろうか。帰って来たここがどかかわからないが、また、ということばがいい。最初と最後に出てくる」「数学の先生なのだろうか。図形が詩になるのは美しい」「図形は、どこから始まってどこへ行くのか。帰ってくる、がいい感じ」
 何を書いていいかわからないときがある。何を書いていいかわからない、と書いても、それは詩になる。

メッセージ  徳永孝

夕暮れの空に広がる
薄墨と朱の雲
空のお習字

空の言葉は
人の言葉と違うので
何て書いてあるのか
分からないけれど

素的な言葉が
そこに存りそう

 「空の表情は変化が激しい。それをことばにするのは難しいが、それを書いているのがいい」「朱ということばから、習字の先生が朱色の墨で指導するのを思いだした。朱という色が、次の習字のイメージとしっかり結びついている」
 この指摘は、とても鋭い。薄墨の「墨」とも呼応している。ふつう、夕暮れの雲は赤とか、茜とかいう。朱もその一種に入るが、朱によって「習字」が自然に登場する。さらに、その「習字」から「言葉」も必然のようにして生まれてくる。「字」が「言葉」を連想させるからだ。
 連想の呼応が、とても自然だ。

 

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徳永孝「空のくじら」、緒方淑子「知らず」、青柳俊哉「未知は寂しく」、池田清子「比較」

2021-11-02 18:09:43 | 現代詩講座

徳永孝「空のくじら」、緒方淑子「知らず」、青柳俊哉「未知は寂しく」、池田清子「比較」(2021年10月1 8 日、朝日カルチャーセンター福岡)

 カルチャー講座受講生の作品。

空のくじら  徳永孝

夜空に一頭の大きなくじら
キラキラした明かりをまとい
ゆったりと泳いでいく
通り過ぎた後には星屑の航跡

くじらが潮を吹くと
空気がふるえる
飛び跳ねると
世界が揺れる

空には月や惑星もすい星の星々
見てまわるのは楽しいだろう
時にはオールトの雲まで
遠出するのもいいかもしれない

でも少しさみしそう
くじらさん、君はひとりじゃないよ
世界のあちこちで夜空を見上げ
君を探している視ている人達がいるよ

それでも やっぱり
仲間に会いたいかのなあ
くじらの心は
わたしにはわからない

 ここに書かれているのは、一義的には「空を飛ぶくじら」。その「空を飛ぶくじら」を書かせているものは何だろう。受講生の間から「孤独」ということばが何度か出てきた。「仲間に会いたいのかなあ」という最終連の一行を手がかりにすれば、くじらが孤独、ということになる。「さみしそう」ということばも、それを裏付ける。
 そこから、少し進んでみたい。
 「書かれている何か」があるとき、それを「書いている人」がいる。「書かせている何か」と言い換えることもできる。
 「くじら」は四連目で「君」と言いなおされている。そして、「君を探している視ている人達がいるよ」ということばがつづく。「君を探している視ている人達がいる」とは誰だろう。私は、問いかけてみた。「さみしさを理解している地上の人達」という答えが返ってきた。そこで、私はもう一度問いかける。そこには作者は含まれるか。「含まれる」。
 ここからである。
 詩では「人達」と書かれている。複数。だから、どうしても多くの人のことを想像するのだけれど、ほんとうにそこには多くの人がいるのか。くじらが作者の「空想」(幻想)であるように、「人達」も空想、幻想かもしれない。つまり、はっきりしているのは、「人達」に作者が含まれるということではなく、逆に、作者が「人達」を含んでいる。「人達」ということばに誘われて、読者は「人達」のなかのひとりにすーっと入っていくことができる。徳永に感情移入し、徳永と一体になるより先に、自然に「人達」の一人なって夜空を飛ぶくじらを見上げることになる。自分の見たかったのは、空飛ぶくじらだったと気づくことになる。そのあとで(といってもほとんど同時だが)、読者は徳永になってしまう。
 それから私はさらに聞いてみた。「さみしそう」ということばが出てくるけれど、「さみしそう」と「分かる」のは、どういうとき? もちろん、その人の様子がいつもと違うからだが、それが分かるのは「さみしい」ということを読者が理解しているとき。喜びのさなかに、隣にいる人が「さみしそう」と感じるときもあるかもしれないが、自分が「さみしい」ときの方がより静かな感じて「さみしさ」がわかるだろう。少なくとも「さみしい」という気持ちを味わったことがない人には「さみしそう」はわからない。
 そうであるなら。
 「仲間に会いたいのかなあ」という気持ちも「仲間に会いたい」という気持ちを味わったことがある人にしかわからない。空飛ぶくじらを見ながら「楽しいだろう」と思う一方で「仲間に会いたいのかなあ」という気持ちを想像するのは、徳永のこころのなかに「仲間に会いたいのかなあ」という気持ちがあるからだろう。
 「くじらの心は/わたしにはわからない」のと同じように、人間には自分自身の「心は/わからない」。自分のことだからわかっているつもりでいるが、よく考えるとわからない。一人で夜道を歩き、空を見上げる。くじらが飛んでいる。そんな空想を持ってしまうのは、自分がさみしいからだろうか、仲間に会いたいからだろうか。それとも最初に出てきたように宇宙を見てまわるが楽しいからだろうか。
 わからない。
 わからないことを、どう書くか。これは、とてもむずかしい。徳永は、なんでもないことのように、

君を探している視ている人達がいるよ

 と書いている。まるで客観的な事実のように。しかし、これもまた「空想」である。しかし、その空想は強い想像力に支えられている。この一行に、徳永の「孤独」があふれている。もし、だれかといっしょに「空飛ぶくじら」を見ることができたなら。その人が自分と同じ「孤独」、そしてくじらと同じ「孤独」を生きているだろう。「人達」の「達」のひとことは、とても重要である。孤独とは孤立したものである。しかし、孤独は孤独と共存し、呼びかけあっている。
 この詩には、その孤独の「呼びかけ」がある。

知らず  緒方淑子

今朝の金木犀を撮って
誕生日の娘におくる
白く映る空
青く撮れば雲は羊に

往きに忘れた花のなまえ
帰り道 気付く 花のなまえ

わたし金木犀すきよ、ありがとう

知らず
10月になれば香り咲いていた花の
27年目の歳月を覚えた

 「白く映る空/青く撮れば雲は羊//往きに忘れた花のなまえ/帰り道 気付く 花のなまえ」という行が印象的だという声。受講生は「最初、意味が入ってこなかった。ことばにして綱気ようとしていないところが新鮮」とつけくわえた。最終連の「知らず」という単独のつかい方にもおどろきの声があった。どちらも「散文」になっていないという指摘だと思う。「今朝の金木犀を撮って/誕生日の娘におくる」という書き出しの二行に「主語(私)」は書かれていないが、私が娘に金木犀の写真を撮って送った、ということがすぐにわかる。しかし、「白く映る空/青く撮れば雲は羊」はいろいろなことばを補わないと散文(意味の連続)にならない。
 どういう状況だと思う?
 金木犀を撮るとき、空がまぶしくて白く見えた。でも空だけ見つめると、空は青くて白い雲が羊に見えた。最初に見えた「白」はこの雲ではなく、光全体の印象。
 作者の緒方に、確認する。そういうことですか? そうです。
 散文でなくても、ことばを追いかけていくとき、私たちは無意識にいろいろなことばを補っている。その補ったことばを、ふつうはわざわざ口にしないが、口にしないまま納得している。そのときの「意識の飛躍」というとおおげさかもしれないが、意識の切断と持続の自由な感じのなかに「詩」というものがあるかもしれない。
 「往きに忘れた花のなまえ/帰り道 気付く 花のなまえ」には意味と同時に「リズム」がある。対句形式がそれを支えている。それも、自然に詩を作り上げる。
 最終連の「知らず」には、ふたつの意味がある、と緒方は言った。
 そのことと関係するのだが、直前に出てくる「わたし金木犀すきよ、ありがとう」の「わたし」とは誰なのか? 
 「メールで写真を受け取った娘」「えっ、作者じゃないの? 作者が金木犀に好きよと言ったら、金木犀がありがとう、と答えた」
 緒方の意図は、前者。娘が金木犀が好きだったということを知らなかった。ここに金木犀があるということを知らなかった。27年も。
 でも、そういう作者の意図を超えて、金木犀と対話している、と読むのは楽しくないですか? 連歌(連句)では、先に書かれた句の意味をあえて「文脈」から解放し、別の「文脈」へ引き継いでいくが、それは詩を読むときだって、そうしていいのだ。もちろん作者には作者の「意味」があるが、読者は読者で自分自身の「意味」を抱えて生きているから、他人のことばを自分の「意味」に置き換えて読む。
 それは、間違い?
 学校のテストなら、「間違い/正しい」は「採点」のために設定されるだろうけれど、詩を読むのは試験を受けるわけではない。自分のことばを豊かにするためだ。どこまで自由に考えることができるか。感じることができるか。考えや感じを繰り返し、自分がかわっていければいい。成長か、後退か。そういう「価値」は与えずに、あ、こんなことも感じることができる、考えることができると楽しめばいいと思う。
 最初に読んだ徳永の詩。徳永には徳永の「意味」があるようだが、それはあえて説明してもらうのを避けた。作者の思いを知ることも大事だが、それよりも自分の考えことばにすることが大事だと私は考えている。
 この講座では、谷川俊太郎やその他の詩人の作品も読むが、そのときも、「意味/正解」を求めるのではなく、むしろ、どうやって「間違い」を広げていくかを中心にことばを読んでいる。どれだけ「間違い」を繰り返しても、だれの迷惑にもならない。特に、講座に同席しているわけでもない谷川や他の詩人の作品は、どんなふうに読もうと谷川に聞こえないわけだから、まったく自由。ほめるのもいいが、けなすことも大事。ことばは悪口を言うためにもある。
 脱線した。

未知は寂しく  青柳俊哉

未知は寂しく 
蒼穹の朝が 深くさけるように冴えわたって 
鳥の声が絶える 

人のうまれる朝があり 鳥のしぬ朝がある 
いのちと隔絶しているために 
朝はみちたりていた

空を切るようなモズの声に 水仙の花が散りこぼれる 
蠅のように頭上を打つ 雨の羽音がまぶしい 
すべての空が 人に親しいのではなかった 

光が打ちよせて 明日の鳥がうまれる前に 
みしらぬ空に 名を与えねばならない すべての朝に 
隔絶する 蒼穹を打ち立てねばならない

 「魅力的なことばが多い」「対比が美しい」。具体的にはどのことば? どの行? 魅力的とか、美しいとか、感動したというのは、詩を読まなくても言える。そうではなくて、具体的に言ってください。「空を切るように…の行」「すべての空が…の行」「最後の二行」
 「でも、いのちと隔絶しているために/朝はみちたりていた、がわからない。いのちと隔絶していても存在しているのだろうか」
 「前の行に生まれる、死ぬが出てくる。生死は必ずやってくる。すべてを含んでいるということが満ちているということでは?」
 「隔絶」している、を別のことばで言いなおすと? 自分のことばで言いなおすと?
 「隔たっている」「たどりつけない」
 隔絶している、隔たっているというと、ふつう平面的な距離を思い浮かべるけれど、垂直だと、どういうかな?
 「やっぱり隔絶している」
 超越とか、超絶ということばはどうかな? 前の行の「うまれる」「しぬ」。それを超越した世界。いのちある人間や鳥は、生まれて死ぬ。朝の光も夜には消えるけれど、人間や鳥と違って、いのちが消えるわけではない。人間や動物のいのちを超越したものを朝の光は含んでいる。宇宙の運動ということかもしれない。いわば朝の光は、人間が生まれようが死のうが関係なく存在している。そういうことを「満ち足りている」と言っているのではないだろうか。「すての空が 人に親しいのではなかった」という一行も、そういうことをあらわしている。「親しい」の反対は親しくない、情がない、非情だに通じる。漢詩の世界のように、朝は「非情」なのである。
 この「みちたりている」は、「死ぬのにみちたりている、というのは変」と論理的に読むと、きっと「変」なまま。「みちたりている」は、ことばを言い換えて「意味」をつかまえないといけない。辞書に書いてあるような「意味」だけではなく、作者がそのことばに込めようとしているものを読み取る。詩のことばは、日本語だけれど、日本語ではなく、それぞれ個人の「固有の言語」。ここは「青柳語」で書かれている。矛盾した形でしかいえないことが書かれている。
 「方丈記」に、あした生まれ、夕べに死ぬ、というようなことばがあるけれど、そういうものを超越して、「朝」がある、それは自己完結している(足すものがない)から「みちたりる」という動詞をつかったのではないだろうか。二連目で「鳥がしぬ」と書き、四連目で「鳥がうまれる」と書く。これも矛盾というか、前に書いたことと齟齬があるけれど、そういう矛盾・対比が、この詩に力を与えている。それが簡潔にあらわされているのが二連目だと思う。
 青柳は「蒼穹」ということばは古すぎ、強すぎるので、「蒼穹」と「青空」とどちらをつかうか迷ったが、宮沢賢治の詩にもつかわれているのでつかったということだった。
 「青空」でも「意味」は違わないのかもしれないが、音から受ける印象は全く違う。詩を書くときは、リズムや音の響きも重要。この詩の場合「青空」あるいは「青い空」では響きが柔らかくすぎるという声が占めた。私もそう思う。
 また受講生が指摘したが「蒼穹」の「蒼」には「暗い」という意味があり、それが「寂しい」ともつながる。
 最終連で繰り返される「ねばならない」という強い響きにも「蒼穹」の方が似合っていると思う。

比較  池田清子

人と比べないことは
いいことだと思っていた

自分の中に入り込むと
人のことはどうでもよかった
視界はとても狭かった

しかし 中学高校では
学校側が人と比べてくる
一喜一憂してしまった
勉学以外では まだ
周りを全く見ていなかった

大人になって やっと
比べることは良いことだと思った
小さい時から もっとしっかり
見つめ 見渡し 気づいていたら
どんなに世界が広がっていただろう
自分がわかる
他人も 社会も見えてくる

年を重ねた今も
しっかり比べている
落ち込んでいる

 「意味」にとらわれる意見がつづいた。「他人の見方が自分を広げてくれるから、比較は悪いことではない」「共感する」「学校の先生には、比較するな、と言われた」「ひとではなく、野生の動物の行動を見て、自分を振り返るときがある」
 私が問いかけてみたのは四連目の「わかる」とはどういうことだろうか。「見える/見えない」とどう違うんだろうか。「わかる」を自分自身で言いなおすと、どういうことばになる? 「自信が出てくる」「自由になる」「環境に慣れる」
 「最後の一行は自分を卑下しすぎている」という意見もあった。では、どう書き換える? これは、なかなかむずかしかった。「ケ・セラ・セラ」ということばが出てきたが、やはり「意味」のつづきのような気がする。 谷川俊太郎なら、どう書くと思う? 「まったく違うことばを書くと思う」「そうですね、谷川の詩は、最後に全然関係ないようなことばが突然出てくることがあるね」。
 答えは必要はない。
 ただ、書いている詩が行き詰まったとき、他人ならどう書くかなあと知っている詩人を思い浮かべてみるのもいいかもしれない。

 

 

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池田清子「私の一枚」、青柳俊哉「秋に下る」、徳永孝「お母さん Yさん」

2021-10-31 09:18:15 | 現代詩講座

池田清子「私の一枚」、青柳俊哉「秋に下る」、徳永孝「お母さん Yさん」(2021年10月1 8 日、朝日カルチャーセンター福岡)

 カルチャー講座受講生の作品。

私の一枚  池田清子

『青いネクタイをした少女』モヂリアニ
中学生の時、雑誌に付録でついていた
「世界の名画」の中の一枚

こころが ひかれた
今も ひかれる

もし 大きな目に瞳が描かれていたなら
もし 首をかしげてなかったら
もし 長い顔でなかったら
もし なで肩でなかったら
もし 暗い色調でなかったら
私はこの絵を好きになっただろうか

否、命が一つであるように
一枚の絵もまた一つ

複製の仕方によって
グレー系は寂しげ、茶が多いと生気を感じる
原画を観てみたい

もし モディリアーニが私を描いてくれるなら
どんなデフォルメになるのだろう
私の奥の奥にあるものが瞳のない目に現れる
観てみたい

 この作品は、講座で感想を語り合った後、その感想を参考にして推敲されたもの。前半は同じだが、後半はずいぶんとちがった形だった。
 当初の作品に対して「前半は詩の形式になっているが、後半は内容的には豊かだけれど散文形式になってい違和感がある。後半は散文的なところを削除した方がいいのではないか」という感想だった。具体的には、「後半の謙遜した表現は、そこまで書かなくてもいいのでは」という意見。「私の奥の奥にあるものが瞳のない目に現れる、という一行はとても好きなので、それがもっと目立つといいなあ」という意見も出た。
 受講生から出た意見に、私はつけくわえることがない。
 余分な行を削ることで、ことばの動きがまとまったと思う。
 「モヂリアニ」「モディリアーニ」の表記の使い分けは、昔(池田が中学生のころ)は「モヂリアニ」と表記されていたことを反映したもの。これは、池田が説明した。こまかな表記の違いで「時代」をあらわしている。

秋に下る  青柳俊哉

雪のふる朝 微塵子の秋に下る
空の 柔らかいオレンジ色の球体をいくつも過ぎて
ヒグラシのなく水域へ行く 光を惜しむ
黒い藻の林に 沈没した船がよりかかる
より小さなものたちの 結晶して明るむ部屋  
その恋心のような 生の痕跡を指で辿ろうか
船首の十字架の 冷たい葡萄の石を口に含もうか 
わたしたちは眼の心臓の 純真な太陽に見まもられている 
それが 天使の領巾を上下に閃かして泳ぐので
命の水車が金貨のようにめぐるのだ
雪の光を秋にあつめて 石英の米粒のように
この海を 梨の実の純白に変えようか

 受講生からの感想。「ロマンチックで美しい。複数のカテゴリーの違ったことばの組み合わせがある。その組み合わせ方に意外性がある。心象風景を感じさせる」「沈没船はイメージできるが、よくわからない。一行目からわからない」「現実とは違う影の美しさ。生き物の気配がする」。
 私も一行目の「微塵子」でつまずいた。青柳は「微塵子は体が透き通っているその透明感を積み重ねるようにしてイメージを重ねた」ということだった。
 「結晶して明るむ部屋」「眼の心臓」「この海を 梨の実の純白に変えようか」ということばから透明感がつたわる、という声が出た。
 私は最終行も好きだが、「船首の十字架の 冷たい葡萄の石を口に含もうか」という一行がとても好きだ。これは「口に含む」という肉体の動きが鮮明だからである。その直前にも「指で辿る」という動詞がある。私は、そういうことばを頼りにしてことばを読むが、青柳は肉体よりも精神の自由な動きを優先させる。それが最終行に結晶していると感じた。

お母さん Yさん  徳永孝


お父さんは夜勤に出かけ
弟たちが寝いったころ
つくろい物をしながら
お母さんが話しかける
あれやこれや
ぼくにはよく分からない話やぐちも

ぼくはお母さんをひとりじめできたようで
うれしかった


お店が閉まりみんなが帰った後
片付を終えたYさんが
ゆっくりタバコをふかしながら話しかける
ね、そうやろ?
(よく分からんけど)うん
こんな事 他の人には言えやしない
Tちゃんも話しちゃダメよ
うんわかってる

二人だけの時間

 「分からないことを自分に話してくれるお母さんと、Yさん。分からないことを話してくれることがうれしい。その人間関係、その時間を大事にしている。おもしろい発想」「お母さんと過ごした時間をなつかしく思い出しているが、お母さんもうれしかっただろうなあと想像した。それがYさんと重なる」「私には兄がいるが、昔、兄はこんなふうに感じていたんだろうかと兄の気持ちを思った」
 昔と今の対比、分からないことばを中心にした動き。
 私が注目したのは「ひとりじめ」が「二人だけの時間」と言いなおされていること。「ひとり」が「二人」にかわっている。たぶん、これが、人間が成長するというとだと思う。子どものときは自分のことしか考えられない。だから「ひとりじめ」。ところが大人になると相手のこともわかる。わからないけれど「うん」と相槌を打つことも覚える。その瞬間「二人」という意識が強くなる。その変化がしっかりと表現されている。
 そのことばが、たとえば「お母さんもうれしかっただろうなあと想像した」という受講生の感想を引き出している。


 

 

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青柳俊哉「石」、池田清子「ピカソ」、徳永孝「カーテン」

2021-10-16 17:25:17 | 現代詩講座

青柳俊哉「石」、池田清子「ピカソ」、徳永孝「カーテン」(2021年10月04日、朝日カルチャーセンター福岡)

 カルチャー講座受講生の作品。

ピカソ       池田清子

「本作品は 実在する人物も登場するが
すべては自由に脚色されたフィクションである
アーティストや遺族及び関係団体と本作品は無関係である」と
映画「モディリアーニ 真実の愛」
の タイトルの後にテロップが流れる

しかし 私は
映画の中の真実を信じてしまうのだ
すでに成功し富も名声もあるピカソが
まだ売れないモディリアーニの才能をうらやみ、やっかみ
彼を挑発して落としめプライドを傷つけるのだ

ピカソが嫌いになってしまった

老いた 神 ルノワールの所へ連れて行くのは
ピカソなりの叱咤だったかもしれない
モディリアーニが亡くなった後には
人間らしい表情も見せる

しかし、
ヒールのピカソ役があまりにもうまくて
フィクションだとわかっていても
私は、やっぱり今でも ピカソが嫌いだ

 書き出しの「本作品は……」というのは、映画の最初に流れるテロップ。こういう「他人のことば」が詩のなかに必要か。意見が分かれるかもしれない。池田のこの作品の場合は、必要だろう。二連目に書いてあるように、池田は「映画の中の真実を信じてしまうのだ」。
 この「真実」ということばのつかい方は、かなり微妙である。映画に描かれていることが、池田にとって「真実」になった、ということだ。
 ひとはどんな「事実」も「事実」そのものとして客観的に受け止めるわけではない。「事実」を「真実」として受け止めるか、「虚偽」として排除するかは、ひとそれぞれによって違う。だからこそ、映画にしてもさまざまな描き方が可能ということだろう。
 池田は、私が「虚偽」と呼んだものを「フィクション」ということばで語っている。最初のテロップにも登場することばだ。「事実」を真実にかえる力が「フィクション」である。
 そうであるなら、その「フィクション」の力を詩に活用する工夫もしてみるのも、ことばの世界を広げることになるかもしれない。

カーテン  徳永孝

カーテンのくまさん
ダンスダンスダンス
1ぴき 2ひき
3・4 5ひき
6ぴき 7ひき
8ぴき 9ひき

10ぴきのくまさん
みんなでダンス
ダンスダンスダンス

えーっと次は何びき目だっけ?
そう!
11 ひき 12 ひき
13ぴき 14ひき
15 16 17ひき
18ひき 19 ひき
もう数えるのあきた

たくさんのくまさん
みんなでダンス
ダンスダンスダンス

 徳永の詩では「事実」と「フィクション」はどういう関係にある。クマの描かれたカーテン。何匹もいる。それを子どもたちが数えている。数えることを覚え始めたころの子どもである。十まではわりと簡単。しかし、その先は? すこしむずかしく感じる子どももいる。そういう子は、どうするか。必死になってついていくということがある。また「もうあきた」と数えることをやめてしまう子もいる。もちろんほんとうにあきた子もいる。その「事実」をどうやって「フィクション」で整理し、わかりやすくするか。同時に楽しい感じにことばを動かすか。
 単純に「1ぴき 2ひき」とつづけていくだけではなく「3・4 5ひき」と「ひき」を省略したり、「11 ひき 12 ひき」のように数字と「ひき」のあいだに「あき」をつけることで読み方(数え方)のリズムに変化を出している。これは「事実」かもしれないし、「脚色(フィクション)」かもしれない。しかし、「フィクション」であることが気にならない「フィクション」である。
 「脚色」によって、現実がより鮮やかになっている。「脚色」することで楽しさが倍増していると言える。

石  青柳俊哉

冬ざれの野に隕石がふる
かくされた世界の符号のように
石の階段がうねるように上り 最上部の塔のうえの
時計がとまる 針先は円形の文字盤の上方 
水のように朱色がながれる空を指す
ひそかにひらく雲間の月かげから 
枯葉や蝶の羽が石の頬や手にふりかかる 
それらを身に敷く石にとって 生はすべてが
落下するこの世界で 凍てついていくいとしいものの 
たえまなく上昇を強いるものへの
円的な運動である 氷結する針先の
肌触り 閉じていく石の温もり

 青柳の作品は、ことばによる「フィクション」のなかにこそ、「事実の動き=真実」があるということを目指して書かれている。「かくされた世界」ということばが出てくるが、ことばは「かくされた」ものを明らかにする。そのかくされたものというのは、ことばにしないかぎり「見えない」(存在しない)もののことである。たとえば意識。精神。だれにでも意識、精神はあるが、それは「ことば」にして語られないかぎり、他人には存在しているかどうかわからない。他人には伝わらない。
 高みから落ちてきた隕石。それは落ちてきたことを知らない人間には石にしかすぎない。しかし、隕石に「意識」があるとすれば、たとえばどんな「意識」だろう。「落下してきた」ものは再び「飛翔する」ことを夢見ているかもしれない。落下し、上昇する。それを繰り返すと「往復」ではなく「円環」になるときがあるかもしれない。時計のように、何もかもが「円環」する。そういう思想を「フィクション」を利用しながら語っていると読んでみるのはどうだろうか。

 

 

 

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青柳俊哉「彫塑」、池田清子「旅」、徳永孝「虹と心」

2021-09-29 14:55:53 | 現代詩講座

青柳俊哉「彫塑」、池田清子「旅」、徳永孝「虹と心」(2021年09月20日、朝日カルチャーセンター福岡)

 カルチャー講座受講生の作品。

旅  池田清子

もし 飛行機に乗らなくていいのなら
行ってみたい場所がある

パリのモンマルトルの丘にのぼり
モンパルナスの通りにあるカフェをのぞきたい

モディリアーニ、ピカソ、ユトリロ、キスリング、スーチン
若い画家たちの集うカフェ
高級で、画商やパトロン達もいるような音楽もあるカフェ
その頃の空気を感じたい

いや もういっそのこと
その時代に行けるのなら
カフェの一番隅っこでいい
彼らの表情とかをじっとずっと見ていたい

『モディリアーニー!』

 「じっとずっと見ていたいに共感する」「キスリング、スーチンというあまりなじみのない名前が出てくるところ、画商、パトロンも登場するのでリアリティーがある」という声。
 この詩は「もし 飛行機に乗らなくていいのなら/行ってみたい場所がある」と書き出されているが、実際に書かれているのは「行ってみたい場所」というよりも「行ってみたい時代」である。「行ってみたい場所」というとき、ふつうは「いまの場所」を考えるが、池田は「過去の場所」である。その「過去」を特徴づけるのが「モディリアーニ、ピカソ、ユトリロ、キスリング、スーチン」。固有名詞によって、自然と「ある時代」が浮かび上がってくる。これはなんでもないことのようだけれど、ことばの呼応の仕方が自然で正直である。だからこそ「その頃の空気を感じたい」が自然に響く。「その頃の空気」をどう説明するか。難しいが「感じたい」の方にことばの重心をうつして、「彼らの表情とかをじっとずっと見ていたい」と「肉体」そのものの行動に置き換えて言っている点に説得力がある。
 そのあとに自然に、正直に「モディリアーニー!」ということばが出てくる。あ、池田はモディリアーニーが好きなんだ、とわかる。モディリアーニーが好きだから、彼が生きていた時代のパリへ行きたいのだと伝わってくる。
 この作品は、当初、最後の行が「楽しいだろうなあ」だった。しかし、それでは、意味はわかるが、もっと他のことばの方がいいのではないのか、という指摘があった。それを受けて、池田は「モディリアーニー!」に書き換えた。この推敲は効果的だと思う。たくさんの画家の名前が二連目に出てきたが、最後にモデイリアーニーひとりが出てくる。このことで、池田はモディリアーニーが一番好きなのだとわかる。
 せっかくモディリアーニが好き、というところまで書いたのだから、ただその時代に行ってみたいだけではなく、その時代に行ってモディリアーニを目撃した(出会った)ときのことを書き加えるのもいいと思う。名前だけではなく、そのときの様子を書き加えるとまた違った世界が広がると思う。

彫塑  青柳俊哉

夏の光が野をながれ
母と少女が波を踏みわけて行く
朝の空が大きな羽を振り
ふたりは洗った衣を風に懸ける
山と空は 巨大な明るさにみちて
宇宙に吹きぬけている

ふたりはこの土地の水脈に
光がふれてのびる樹木と草の葉
同じ土と太陽の成分に育まれていた
朝の光がふたつの像にうちよせる
山も空も 巨大な明るさにみちて
宇宙に吹きぬけていた

 「母と少女の像がある。光があふれている情況が美しい。山と空はから始まる二行が一連目と二連目に出てくるが、とても印象的」「一連目の宇宙に吹きぬけているが二連目で宇宙に吹きぬけているたに変化する。一連目ではバラバラだったものが二連目で一体化していく感じがいいなあ」という声。
 受講生も私も「彫塑」というタイトルに影響されて「母と少女」を「像」だと思ったが、私たちの感想を聞いて、青柳は「土地から生まれた命の象徴として書いた。人間から植物に変化していく大きな動きを書きたかった」と語った。人間が人間の世界に納まるのではなく、自然(植物)と融合して「宇宙」そのものになる感じ、ということだろうか。
 「いる」と「いた」の変化をどうつかみ取るかは難しい。私は「いる(現在形)」を主観的、「いた(過去形)」を客観的(事実になってしまった)と感じるが、「いる」の方がいま現在という感じがするので「客観的」と感じる受講生もいた。「いま/いる=リアリティ=客観的」ということだろうか。
 この詩のなかでの大きな変化は「いる/いた」とは別にもうひとつあるように思う。「朝の空」と「朝の光」である。「朝の空」は私には「遠い」感じがする。「朝の光」は近い、身近という感じ。遠くにあった「朝(の空)」が近くに押し寄せる。(詩ではうちよせる、と書いている。)押し寄せて、「母と少女」の体を貫き、「宇宙に吹き抜け」る。そのときふたりは宇宙そのものになる。

虹と心  徳永孝

雨あがりの青空に
所々かかる薄雲
その上に広がる
半月状の虹

太陽 雨 青空
雲 虹 月
何の意味も持たない
純粋な物理現象なのに
美しいと感じる

美とは何なのだろう

物理・科学の自然法則に従って
生物が出現し進化してきた
そこに働くのは全くの偶然で起る突然変異と
生存に有利か不利かによる自然淘汰だけ

人間も
何の価値評価もしない進化の法則に
ただ従って出来てきたはずなのに
喜怒哀楽 善悪に心が動く
時には嵐のように

心とは何だろう

 「美と心の対比がコンパクトに書かれていて、新鮮な印象がある」「純粋な物理現象と喜怒哀楽、善悪との対比がおもしろい。虹から始まるところもおもしろい」という声。
 「美」と「心」の対比。客観的な存在としてそこにある「何か」。それを美しいと感じる。そのときの美しいと感じる心とは何か。人間が他の存在と同じように「進化の法則」にしたがって誕生したのなら、なおのこと、何かを美しいと感じる、その心とは何かが気になる。考えてみなければならない問題である。
 こういう哲学的なテーマは重要である。
 この作品は、最初は「物理・科学の自然法則に従って」から始まる四連目がなかった。「人間も/何の価値評価もしない進化の法則に/ただ従って出来てきたはずなのに」が唐突な印象があるので、もう少し書き込んでみたらというアドバイスをし、それを反映させたのが現在の作品。人間の存在を「自然(物理)」現象と対比させている。ただ、書かれていることは「虹(現象)」とは違って「論理」である。ここがむずかしい。詩は「論理」を整合的に書くというよりも、「論理」にならないものを具体的に書き、読者に感じさせる(刺戟する)ものだと思う。
 「正しい論理」を書いた後で「何だろう」という質問を提出するのは、むずかしい。「論理」は正解以外を許さないからだ。一方、詩は、正解か間違っているかを判断しない。好きか嫌いかによって選ばれる。

 

 


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