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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山之口獏「大儀」、すぎえみこ「かたえくぼ」ほか

2023-10-12 22:29:36 | 現代詩講座

山之口獏「大儀」、すぎえみこ「かたえくぼ」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年10月02日)

  受講生が、みんなと一緒に読みたいという作品、山之口獏「大儀」を持ってきた。

大儀  山之口獏

躓づいたら転んでゐたいのである
する話も咽喉の都合で話してゐたいのである
また、
久し振りの友人でも短か振りの友人でも誰とでも
逢へば直ぐに、
さよならを先に言ふて置きたいのである
あるいは、
食べたその後は、口も拭かないでぼんやりとしてゐた
 いのである
すべて、
おもふだけですませて、頭からふとんを被って沈殿し
 てゐたいのである
言いかえると、
空でも被って、側には海でもひろげて置いて、人生か
 何かを尻に敷いて、膝頭を抱いてその上に顎をのせ
 て背中を丸めてゐたいのである。

 「空でも被って、何かを尻に敷いて、がいいなあ。面倒なことを放り出していたい。後半が大きくていい」という。「自然体がいい。最後の三行がいい」「ゐたいのである、で統一している。何が起きてもかまわない感じ、悠然としている」と感想がつづく。
 私は意地悪な人間なので、こういう質問をしてみる。「大儀って、どういう意味?」
 すると、「めんどう」「億劫」「何もしたくない」という答えが当然のことのようにして返って来る。
 さて。
 「めんどう」「億劫」「何もしたくない」という気持ちが、どうして「大きな感じ」、「悠然とした感じ」、あるいは「自然体」というような印象に変わっていくのか。
 これは、なかなか難しい。「めんどうなこと、おっくうなこと」に出合うと、そんなことはしたくなくなる。「何もしたくない」。それが「大儀」だとして、その大儀の瞬間、最後の三行に書いてあるような「気持ち」にはない。「ああ、いやだ、いらいらするなあ」と言う感じが強いと思う。
 少なくとも、「大儀」と感じた瞬間は。
 そこから出発して、ことばが、少しずつ変わっていく。ことばが変わると、書いた人も変わってしまう。
 その変化が、この詩の、実は一番おもしろいところではないだろうか。
 そういうところに注目すると、この詩のなかで何が起きているかがわかる。
 この詩には「また、」「あるいは、」「すべて、」「言いかえると、」という、それ自体は何も伝えないことばが、威張って一行を独占している。この独立した一行でいちばん重要なのは「言いかえると、」だろう。
 そこで、私は質問するのである。
 「どういうとき、言いかえると、ということばをつかう?」
 「別のことを言いたいとき」「もっと伝えたい」「深く伝えたい」
 そうだね、この詩は単に「大儀である」ということだけを伝えたいのではなく、つまり「面倒である」というようなことだけを伝えたいのではない。誰もが知っている「大儀」とは別のものを伝えたいのである。「大儀だなあ」と言うだけでは伝わらない何かを伝えたい。考えてみれば、転んだときに起き上がるのも大儀である。食べたあと、口を拭くのも面倒である。そういうことは「おもふだけですませて」、ほかのことをしたい。それくらい「大儀である」。
 大儀なことは、「おもうだけですませて」、本当は別のことがしたい。思うだけでは終わらせたくない。それが最後のことばなのだ。
 何気なくつかわれているように見えるけれど、この詩では「おもうだけですませて、」ということばを「起承転結」の「転」にして、すべてを「言いかえる」。ここには、信じられないくらいの「大転換」が隠されている。
 最後の三行は、もちろん詩そのものだけれど、その詩の奥には、「また、」「あるいは、」「すべて、」「言いかえると、」という短いことばを動かしていくエネルギーがあって、そのエネルギーが最後に爆発し、解放されているのだと思う。
 だから、感動的。

かたえくぼ  すぎえみこ

さびしいこころは みみをすます
たのしいこころは かぜをさがす


わたしは わたしのきおくを
ととのえながら
いまの じかんをととのえる


きおくをやみに けすこともなく
ゆがめることもなく


まんなかにおいて
ちんもくでつつむ


そのちんもくのなかには


ささやかな よろこびを
わすれないうちにと
かきとめる かみがある


かろやかなこころは みちをさがす
かぜをうけるこころは たびをする

 「ひらがなで書かれていて、それが非常になめらかで、心地よい。四連目、特に、ちんもくでつつむ、がいい。詩でつつむ感じ」「最初の二行と最後の二行がとても印象的」「対になった構造は、すぎさんの詩では、あまりみない手法だと思う。詩の入り方がさっと入り、終わりがさりげなく終わるのがいい」
 作者は、四連目がいちばん書きたかった、と言う。
 私は、そのあとの五連目「そのちんもくのなかには」は、とても印象に残った。この一行が好きである。(講座で読んだときは「その ちんもくのなかには」と、一字の空白、空きがあった。)「その」ということばはなくても意味は同じである。「その」がなくても、読者は、直前の「ちんもく」以外の沈黙を考えない。
 しかし、「その」がある。
 「その」があると、意識がぐいと直前に書かれている「ちんもく」に引きつけられる。粘着力というか、牽引力が強く、ことばがその沈黙に集まって来る。ブラックホールのように、すべてを飲みこんで、ビッグバン(爆発)を起こす。
 この動きがいい。
 タイトルも、なかなかおもしろい。受講生は「思いつかないタイトル」という。作者は、両えくぼだと百%になってしまうので、それが避けた、と言った。

水蜜  青柳俊哉

古代の朝 緑の雨がふる
桃やかえるが囁く 

畝(うね)の中のこみちを
口ずさみながら渡っていく天使の少年 
ほぐされた黒い土に滴がはねる 
うかびあがる水蜜を農夫が素早く掬い取る
いくすじか土や草に光が点り
瞼をひらくように
誰かが囁きかえす

古代の神性を ひとがうまれるころの
情感を 野に灯しながら少年が
霊歌を奏でる

 「自然、農夫のイメージを抱くことができた」「桃が囁く、というのはおもしろい。古代というのは、どれくらいの古代かなあ、吉野ヶ里くらいかなあ」と言う声に対し、作者は「人が生まれる前、あるいは生まれるころ」を想定している。天使はおおげさすぎたかな、という」
 たぶん「天使の少年」とことばが重なっているから、イメージが濃くなりすぎるのかもしれない。
 しかし三連目には「少年」があり、それと呼応させるためには「天使の少年」と書かなければならなかったのかもしれない。呼応といえば、「囁く」と「囁きかえす」という呼応もあるが、「緑の雨」に対して「滴」があり、「うかびあがる」には「掬い取る」がある。「緑の雨」は「いくすじ」と呼応するし、「滴」は「光(が点り)」と呼応するだろう。「光が点り」は「野に灯し」と呼応する。ことばの呼応が、情景が立体的にしている。
 最終行の「霊歌」がよくわからないという声が聞かれた。「霊歌」に呼応することばがないからかもしれない。「囁く」に対して「霊歌を奏でる」が呼応している、かもしれない。「囁く」と「奏でる」が呼応しているかもしれないが、私も「霊歌」は「天使」以上に、全体の中では、ことばとして浮いていると思う。

風鈴  池田清子

風鈴が鳴っている
最近越してきた家からか
扇風機を止めてみる

虫の音を
かき分け かき消して
澄んで 届く

風鈴が鳴っている


泣いてる?

よしきりは鳴く
ひぐらしは鳴く
とか 詩われてきたのに

ごめんごめん

風鈴も 鳴っている

 「朗読を聞いて、風鈴が生きているものとしてあつかわれているのを感じた。黙読したときは二連目が詩的だと思った。朗読を聞いたあとは、最終行に向かって意識が動いているのがわかった」「風鈴の音から静かさが伝わって来る。鳴ると泣くの書き分けもおもしろい」
 風鈴が鳴っている。虫の声は泣くか鳴くか。風鈴は、どっちだろう。泣くだろうか。よしきりは鳴く、ひぐらしは鳴く。そうであるなら、風鈴も鳴る。この「も」に作者のいいたいことが集約されているのだと思うが、少し論理的すぎないだろうか。
 ほんとうは、どう思いたいのだろうか。
 思ったことを書くのも詩だが、思いたいことを書くのも詩である。山之口獏の「大儀」のように。山之口獏の書いている最後の三行は、思ったことというよりも、思いたいこと、つまり、そこには欲望がこめられている。「大儀」なとき、つまり私たちが、あれやこれなのなかで生きる力を失いかけたとき、その失いかけた欲望を呼び覚ます何かが書かれている。

 

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青柳俊哉「ブドウを想う」ほか

2023-09-27 22:01:25 | 現代詩講座

青柳俊哉「ブドウを想う」ほか(朝日カルチャー講座、2023年09月18日)

 受講生の作品。

ブドウを想う  青柳俊哉

広大な石の野で
整然と水晶を啄む鳥たち 

羽の内部で 
地の百合の花の匂いと
風景の背後から降るなにものかの囁きがやむ
一面に響きわたる雨音

渇いた深夜に
ひとつぶの甘美なブドウを
想う

すべて鳥たちは
澄んでいく肉体の果てに
ひそやかな囁きを握りしめよ

 どの行が好きか。「風景の背後から降るなにものかの囁きがやむ」「ひとつぶの甘美なブドウを。ひとつぶが印象的」「3連目全体。一行なら、ひそやかな囁きを握りしめよ。美しい風景が思い浮かぶ。鳥、羽、囁きが印象に残る」
 私はいくつかの「対比」と「呼応」がいいと思った。特に2連目が複雑でおもしろい。
 羽(飛ぶ、空)と地、内部と匂い(匂いは外に漏れると同時に内にこもる、ここではその、こもる静けさが深い響きになっている)。匂いと囁き。その囁きがやむとき、その静寂を破るようにして響く雨音。その雨(濡れたもの、湿ったもの)と乾いた(夜)との対比。対比と呼応の中から「ブドウ」が浮かび上がる。
 1連目に水晶が出てくる。水晶は何色だろう。「透明」という反応が多かった。澄んでいく、ということばが透明を引き出すかもしれない。私は、「紫水晶」を思い浮かべ、それが「ブドウ」だと思った。水晶が鳥の肉体の中でブドウにかわるのか、ブドウが紫水晶にかわるのか。どちらでもいいと思う。いずれにしろ、鳥が食べたものが鳥の肉体の中で(あるいは青柳なら意識、精神の中でというだろうか)別な存在にかわるとき、鳥はその変化に驚き、だれも歌わなかった歌を、囁きのように、漏らすかもしれない。
 青柳は、それを聞いたのかもしれない。

祈り 杉恵美子

いつのまにか秋風が
うしろから来ていた

ページをめくる先に手を伸ばし
ようやく来た季節に
丸ごと落ち着こうとするけれど

何故か手が届かない
蜻蛉が輪を描き
木の葉は揺れる

少しずつポケットに忍ぶ老いが
私を萎縮させる
体の鈍い痛みを押さえつつ
不安を背中にのせて
静かな安堵感を探す


すぐ出会えることもなく
手を伸ばして掴むものでもない
探して探して見つけるものでもない


秋は秋の中に
そこにある陽だまりのなかに
繰り返し読んだ 色褪せた
本の中に

ありのままの
むき出しの心のなかに

 「ことばに緊張感がある。ことばが静かに出てくる感じ」「ページをめくるように気持ちを詩に記している。祈りはこころのなかにあるのだろうか」「秋風から老いを連想した。老いを強く感じた。後半の『に』の繰り返し、対比がおもしろい」
 作者の杉は言う。「自分丸出しで恥ずかしい。タイトルは『祈り』でいいか、迷った」
 「最終連に祈りを感じた」「ことばが出会っていくとき、詩を感じた。祈りということばは本文にないけれど、詩が祈りかも」「4連目の書き方が新しい。丸出しというよりも、素直に書かれている感じ。安堵感が祈りかも」
 私は4連目の「探す」ということばのあと、詩のリズムが変化しているところが、とてもおもしろいと思った。
 「探す」けれども「なく」「ない」「ない」と否定のことばがつづく。そのあと、受講生が指摘した「に」の繰り返しがある。その「に」のあとには、ことばが省略されている。なんだろうか。「ある」である。
 「ない」、でも、ほんとうは「ある」。その「ある」は、しかし、ことばにしては変わってしまう「ある」なのだ。違うものになってしまう。だから「ある」とはいわない。いわないことによって、さらに「ある」が強くなる。
 転調と余白が非常に印象に残る。

正調  池田清子

交通整理をしていた
周りの人達をうまく誘導して
マイクを持って

夢、今?

姉のところには
何度も訪れるという
会話もし、ホッコリするとのこと
私のところには
待てど、待てど、現れず
私が本当に苦しんだり悩んだりした時
が 出番なのかなと

何事もない日常の 今?
交通整理?

長調のひとと
短調の好きなわたし

長調の夢が
長調で現れた!

 「長調、単調の対比がおもしろい」「交通整理がわからない。正調の意味は、調をととのえるということ?」「亡くなった夫が夢に出てきて、交通整理をしていた、ということでは? そう思って読んだ」「夢と思っていなかった」
 この詩はたしかに交通整理をどう把握するかで、感想が違ってくるだろう。
 ヒントは3連目の「姉のところには/何度も訪れるという」の「訪れる」だろう。もちろんだれが訪れるかは書いてないのだが。しかし、「待てど」あらわれないのに、待っていない「今」あらわれたというとが手がかりになると思う。
 「正調」の「正」は長調が正しい、単調が間違っているという意味ではなく、まさに、という意味だろう。長調の正確のひとが、「まさに」長調のままあらわれた。「まさに」が省略されて、その省略されたことばがタイトルになって隠れている。

   *  木谷明

中学時代の夢?
それは夢ではない
所持品だ
   *
キャスターがわたしのことばを話している
なぜ?
アフレコになっている
   *
薔薇色の染まる覚醒
   *
気に染まぬ昨夜のアフレコが残っていたのか
   *
キャスターは
コオロギ
だった
   *
二晩、鳴いていた
消灯の
ドップラー周波数
   *
返した虫は非コオロギ
目の端に右上の宙にいつも浮かんでいる
わたしのつめたさ

 タイトルが記号。タイトルがない。いわゆる「無題」ということになるかもしれない。 「アフレコがわからないけれど、ことばのつかい方、キャスター、コオロギ、ドップラーがおもしろい」「私は、所持品だ、薔薇色の染まる覚醒、返した虫は非コオロギがわからなかった」「わからなさがいい」「最終行の、わたしのつめたさ、が印象的。客観的にみつめている」
 私は、その最終連に、谷川俊太郎を思い出した。ほかにも谷川俊太郎を連想させるところがあるが、何かぜんぜん違うものが、ふっとあらわれて、「それがある」という感じ、「それ」としか呼べない「別のもの」を提示する仕方が似ている。
 なぜ「それ」なのか。「それ」は、全体とどういう関係にあるのか。こういうことは、論理的に説明してもしようがない。「あ、それ、わかる」という印象が瞬間的に生まれれば、その「それかわる」という感じが、たぶん、詩に触れたという感じなのだと思う。
 「ドップラー周波数(ドップラー現象)」を論理の中心に据え、「わたしのことば/アフレコ」「染まる/染まぬ」「コオロギ/非コオロギ」と対比させていけば、そこに相対的な変化が描かれている、その相対的な変化を認識する冷静な(つめたい)私という具合に全体を展望できるが、そうしてしまうと窮屈になる。
 ぼんと放り出された「わたしのつめたさ」に「あっ」と思えばいい、「あっ、そうなのか、それ(そういうものが)があるのか」と。


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室園美音「ミーハオ」

2023-09-23 20:55:36 | 現代詩講座

室園美音「ミーハオ」(現代詩講座、2023年09月16日)

 受講生の作品。「ミーハオ」は、教師の家庭訪問の体験を書いている。彼女が訪ねていく小学生の紹介にはじまり、直前の訪問先で待っている児童につれていかれるようにして家庭訪問する。「時系列」通りに、そのときのことが描かれている。

「ニーハオ」という中国語の挨拶の言葉を新鮮に使っていたころ
原爆ドームからほど近い小学校で三年生の担任をしていた
クラスの中ではやや小さめで 魅力的な笑顔で笑うかわいい男の子がいた
その子の苗字が三原であることから
休み時間などみんなに
「ミーハオ」と呼ばれていて 人気者だった
家庭訪問のとき 三原くんの家は 校区外だったのでその日の最後に予定を組んだ
彼は仲の良い 最後から二番目の女の子の家で待っていてくれて一緒に家に向かった

お母さんは 家の外で待っていてくださった
リビングに通され学校での様子などを話していると
広いリビングにあった滑り台で妹や弟と遊びだした
妹たちに気を付けながらも
ダイナミックで少し荒々しいほどの遊びをしていた
「学校でみんなに親しまれているのは のびのびと育つように見守られているからですね」と伝えると
お母さんは 突然
おじいさんとおばあさんの話をはじめられた
「嫁いできたころ うっかりお皿を割ると
高価なものであっても 安いものであっても
父も母も ものが増えた ものが増えた
って喜ぶんです ほんとうに喜ぶんです」と
あたかも 言葉以上の確かなものがあったかのように 少し遠くを見つめながら話された

帰りの電車の中で
ミーハオの笑顔の後ろで そっと見守るおじいさんとおばあさんの眼差し
お父さんとお母さんがそれを喜び一緒に在る姿が浮かんだ
灯りがやけに懐かしい色にみえた
原爆投下後 広島の焼け野が原の中でお父さんは生を受け育ってこられた
子どもも 大人も 年寄りも復興を支え みんなで生きてこられたのだろう
そういう時代があったことを日常の体験の中で ふかく刻みこんでもらった
子どもの笑顔は 未来の光です
ミーハオの笑顔 傷みを持ちつつ支え喜ぶ身近な大人の姿
それは にもかかわらず歩んでいくのだ・・・と
今でも励まし支えるしるべになっている

 家庭訪問先での様子、児童が妹や弟と遊ぶ様子のあと、児童の母との会話があり、そのあと帰りの電車で、訪問した先の「感想」まで書いている。まあ、なんというていねいさだろう。あまりにもていねいに、その日のことを書いているので、長いなあとも思う。

 しかし。
 
 私は、この詩で、一か所、あることばに、とても感動した。最終連の「そういう時代があったことを日常の体験の中で ふかく刻みこんでもらった」の「もらった」ということばに。
 その直前に「原爆投下後 広島の焼け野が原の中でお父さんは生を受け育ってこられた/子どもも 大人も 年寄りも復興を支え みんなで生きてこられたのだろう」という二行がある。そこには「こられた」が繰り返されている。敬語である。「こられた」「こられた」と書いたのなら、学校文法では「もらった」ではなく「いただいた」になるだろうと思う。
 私は外国人相手にときどき日本語教師をしているのだが、もしその生徒が「もらった」と書いたら、ここは「いただいた」にしないと文体の統一感がなくなる、と指摘すると思う。
 しかし、詩は、日本語検定の作文ではない。
 室園はなぜ「いただいた」ではなく「もらった」と書いたのか。「いただいた」では、「敬語」が「距離感」をつくりだしてしまう。児童の母、さらには児童の父母との「関係」に距離感ができてしま。距離感は、なんというか、ちょっと冷たいものである。
 親近感を覚え、その一家と一体になった瞬間、「敬語」が消えるのである。一体だから「敬語」をつかう必要がない。この一体になるというこころの動きが「もらった」のひとことに凝縮されている。
 ここに人間の「あたりまえ」がとても自然な形で表現されている。
 そして、その「あたりまえ」の感じと、その連の「灯りがやけに懐かしい色にみえた」の「懐かしい」が、とてもよく響きあう。「あたりまえ」のものは「新しい」ものではない。たいてい、知っているものである。知っているけれど、知らず知らずに忘れていた。それを思い出す。ああ、懐かしいなあ、と。

 この詩は「現代詩」ではないかもしれない。「現代詩ではない」というひとがいるかもしれない。
 しかし、それはそれでいいのだと私は思う。人間性に「現代」も「過去」も「未来」もない。ただ、「あたりまえ」であれば、それでいいのだ。「あたりまえ」のことが、そこにことばとして動いていれば、それに感動する。
 ここには、室薗の「人柄」があらわれている。「人柄」が自然にあらわれてくることば、「あたりまえ」が自然に動いていることばが、とてもいい。

 

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木谷明「パスポートセンターで」ほか

2023-09-03 22:52:09 | 現代詩講座

木谷明「パスポートセンターで」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年08月21日)

 受講生の作品。

パスポートセンターで  木谷明

台風の前日に
すでに旅先のような顔をしている人達が
なにをそんなに話し込まれて立ちんぼで待たされて
ひときわ一人だけ
友人なのかと見つめてしまう親しげに話す№8の窓口の
女性の菱形の髪型にみとれていた
そこに呼ばれてしまった

美しいその人は
書類をてきぱきこなす
全部事項の謄本をわたしは閉じたまま渡す
写真を出して免許証を返されてその手と口で

いまわたし何を返しましたっけ
同じ作業の繰り返しで
分からなく
なって

何でも聞いてください

にっこりしていうと

国内連絡先は娘さんなんですね

遠方の住所に目を落とし

出来上がりは十六日ですお使いの予定はないとのことですから

お忘れにならないでくださいね

不規則の一瞬は除籍こうしてパスポートを失効して出遭う
降りかかっていた雨は止んでいるのか酷くなっているのか
風は吹いているのか止まっているのか
長い時間のあとに

 「不規則の一瞬は除籍」から始まる最終連に関心が集まった。「これまでの詩の流れと違って、状況が変化する。その変化が詩的表現としていい」「最後の4行が、詩的時間の経過と、作者の気持ちの処理としておもしろい」「最後の4行で詩がしまっている」。
 「除籍」というようなことばは日常会話ではあまりつかわないと思う。そういう大きなことば(強いことば)が、読者の意識を揺さぶる、刺戟する。このとき、私たちはたぶん、詩を読むと同時に、詩から読まれている。私たちが「除籍」ということばをつかうのはどういうときだろう。
 また「すでに旅先のような顔をしている人達が、という行が印象的」「最近の詩は、意味がわかりやすくなった」「いままでの詩とは違った印象、ことばが多い」「書いている対象は違うが、書き方は違っていない」という感想もあった。
 木谷は「ことばを削いでいる」と、書法について語った。
 私には「ひときわ一人だけ」ということばが強く響いてきた。複数の人がいるなかで「一人」に引きつけられて行く。そして「一対一」になる。その「一対一」のあと、何かが変わってしまう。異界へ踏み出していくという感じがおもしろい。「パスポート」は異界へのパスポートかもしれない。

ハクション  池田清子

ハックショーン!
一瞬が飛んだ
一瞬で

日常の一切は
どこまで飛んだ?
健康神話は
どこにとんだ?
早し良し、遅し悪し
誰が決めた

しばらくは
遊んでおいで
帰りたくなるまで

 「おもしろい」という声が自然に漏れてきた。「日常の一切/どこまで飛んだ?、がおもしろい」「一瞬が飛んだ/一瞬で、がいい」「最終連は、ハクションを自分の一部のようなものとしてとらえていて、とてもおもしろい」。
 この詩が「おもしろい」理由のひとつは、リズムがいいからだと思う。「ハクション」というタイトルが一行目で「ハックショーン!」という音に変わる。この瞬間に、すでにリズムが加速している。加速したまま突っ走り、最後でふっと緩む。この感じが、なんともいえず楽しい。くしゃみは病気のはじまりのようにとらえられることがあるが、この詩にはそういう感じはない。明るさに満ちているのもリズムの効果だと思う。

いのち  杉惠美子

何もかも この身から
遠のいて
それでも心の奥に
ほんのりと灯る一点がある

静かに待っている人がいる
と感じる不思議なつながり

人の営みの淋しさ

言葉なく拡がる
季節がすすむ空気感と
次へすすむ私の足音

縁ある者との約束と
自分自身の今ある真実

記憶のむこうで
また会おう
会って話をしよう

 「静かな感じ、落ち着いている」「お盆の詩かな」「一連目が印象的。心の奥にともる一点」「と、ということばがつづく。とによって、違う二つのものが結びつけられ、世界が展開していく対句的手法が特徴的」「最終連は平凡かもしれない」「最終連の、記憶の向こうでという行はおもしろい」。
 私は、一連目の「遠のいて/それでも心の奥に/ほんのりと灯る一点がある」が最終連で「記憶のむこうで」ということばに変わりながら呼応している点がいいなあ、と思った。特に「それでも」という副詞がとても深い。静かに「人の営みの淋しさ」につながっている。「それでも」は、たぶん、ほかの行にも隠れている。静かに待っている人がいると「それでも」感じる不思議なつながり、「それでも」また会おう、「それでも「会って話をしよう」という具合に。
 「それでも」ということばと一緒に動いている「思い」がある。それは「淋しさ」なのかもしれないが。「それでも」がつなぎあわせる一連の「思い」のことを思うのである。

陶製の耳   青柳俊哉

陶製の耳の中の海へ 
貝を深く敷きつめる つたい降りていく
潮水のなりやまない振幅 
月がみちていく

螺旋の殻に光をいれて
あゆみだす裸身の蝸牛 たわわな
石榴の実が一斉にほころんで 
紅の種子から樹液があふれる

満ち潮に運ばれる船の
底のあかるみ 鰯と戯れるひとの
背が無限にほそ長く
月へ透けていく

 「陶製の耳から拡がるイメージ、そのイメージが統一されていて、すーっと入ってくる」「陶製の耳には冷たいイメージがあるが、動きがある。最終行の、月へ透けていく、が好き」。一方、「三連目のイメージがわからなかった」の声も。
 「陶製の耳」をめぐっては、「硬いイメージがある」という感想の一方、「人の手を通してつくられた耳、人の手の柔らかさを感じる」という対照的な意見があった。感想が違うということは、とても大切なことだと思う。違う感想があるからこそ、おもしろい。
 「聴覚の振幅があり、おもしろい」という声も。
 青柳は、貝殻(いのちを守るもの)、貝殻の浜辺から、この詩を発想したと語った。命の余韻を伝え続ける運動を書いた、と。
 私は、二連目が非常におもしろいと思った。耳の螺旋階段を蝸牛が下っていく。そのとき銀色の軌跡が残る。それが肉体の内部へ「光をいれる」という鮮やかなイメージになる。耳は聴覚だが、この光の存在によって視覚も動く。イメージが輻輳する。その瞬間がおもしろい。


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青柳俊哉「余韻」ほか

2023-08-06 15:16:07 | 現代詩講座

青柳俊哉「余韻」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年07月17日)

 受講生の作品。

余韻  青柳俊哉

冬の木から 水鳥がはばたく
月に鷺が響く 水のような
夜明け 空の端から端へ伸びる
雲の暗い紫 言葉が瞬時にめざめる 
枯野の草は柔らかく 葉音は
一面に潮を引いて空へむかう 

水鳥の中へ 太陽は落ちていった 
空と海は 葉の潮に溺れる

光は光を演じ 水は水を演じる 
人は言葉を 鳥は水の音を 
光と水の余韻が
刻印する鏡 

 冬の情景が端的に描かれている。「一面に潮を引いて空へむかう」には飛躍があって楽しい。光と面を感じる。宇宙の静けさを感じる。「光と水の余韻が」という行には、対象に余韻ということばが集中している。「光は光を演じ 水は水を演じる」という一行、自然からことばがやってくるという感じに満ちている。「光と水の余韻が」には、そのもののもつ力を感じる、というような声。
 青柳は、書きたかったのは最後の二行と「光は光を演じ 水は水を演じる」という行。自然から感じたものと対応しあっている(照応)の感じ、鏡のイメージと語った。
 私も「光は光を演じ 水は水を演じる」が好きである。自分自身を繰り返す。そのとき、透明になり、強くなるものがある。他人を演じることでは到達できない境地のようなものが、そこからあふれてくる。

あと3ふんで  木谷明

ブルーインパルスを見たいと言ったのはあなただったのに
きょうは私が見ましたよ
地味なもんでした
グレイ色したけむりをながして
ひとが亡くなりましたから
レインボーカラーの煙は見ましたよ以前に
あれはお祝いの前日の予行演習で娘の卒業式の日で
けれど
本番はありませんでしたひとが亡くなりましたから
こうなるとひとはいつでも死んでいるから
いつでも虹の橋をとかいうくせに
しかたない
ほんとの空は虹をみせてくれる
あの日のそらに弧を描く人のいるということも
見上げたということもいつでも偶然で
あと
3ふんで飛んでくるから一緒に見らんと言ってもらい
色のことは誰も言わずに

今日いっしょにみましたよ

 音が柔らかい。口語体が流れるように書かれている。詩的散文になっている。死のイメージが「ほんとの空は虹をみせてくれる」と結びつく。短い一行が独立している。感覚がするどい。空の広さを感じる。運命、人の生命を感じる。短い行に強い意思を感じる。
 好きな行は「ほんとの空は虹をみせてくれる/あの日のそらに弧を描く人のいるということも」の二行、さらに書き出しの一行に、短い行も不思議な感じ……。
 私は三行目の「地味なもんでした」が非常に印象に残っている。こころに突然あらわれた「現実」という感じ。西脇の、ふいの口語の出現に似ている。全体が口語だが、とくにこの一行の口語性が強い。口語出歩かないかを意識しない無意識の口語。この無意識に発せられた「地味」の奥にあるもの、「地味」と言わずにはいられない何か、もっと派手であったら(もっと華々しくあってくれたら)違った思いができたかもしれないが隠れている。
 「地味」が逆に、ほんとうに見ている何か(見たかった何か)を浮き彫りにしている。

草  池田清子

わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
と 八木重吉はうたった

娘が れんげ畑で花冠をつくった
立花山の頂上は 爽快だった
許斐山では ゴロと一緒に走りまわった
公園では 青いシートの上でお弁当

今 寝っ転がって 外を見ている
空ばかりが広い

抜いたのに この雨でまた 生き生きしている
たくさんの 犯してきたまちがいを
とりかえしのつかないまちがいを
そんなに深く見ないで

 「まちがい」の意味は何だろうと考えた。よくわからないが「許斐山では ゴロと一緒に走りまわった」はよくわかる。「とりかえしのつかない」からの、最後の二行は誰に対して言っているのだろうか。
 「子ども(娘)に対してではないですか」「花かもしれない」「自分自身に対してかも」という声を聞いて、池田「雑草に対して、言っている」。
 このあと、誰にも理解されなかったのには驚いた、と池田は感想を漏らしたが。
 しかし、これは、いいことではないだろうか。読者が全員同じこたえを、そしてそれが池田の書いた通りだとしたら、その詩は実はつまらないのではないか。詩は論文や法律ではではない。死の感想を語るのは、学校のテストではない。答えがばらばらなのは、その詩のひろがりが広いからではないのか。詩のことばが豊かになってきているからではないのか。
 読んだ人の感想がみんな違っている、というのは詩にとっては、とても大切なことだ。

白い空  杉惠美子

水平線の膨らみを過ぎて
白樺並木を歩いていたら
ふと小さな音がした

細い木だけれど
風を受けても大きくは揺れず
枝々を通過させて
互いを響き合わせるように
立っていた

空を見上げると
あらゆる自然の力の先に
透明なエネルギーで囲まれた
小さな渦

  何枚もの紙をめくって 
  めくって
  探し続けた
  裏も表もなく
  問いばかりが書かれた
  紙だった

  その問い達は
  渦を巻きながら私を誘
  い
  大きな渦となった

  そして時が経ち
  少しずつ角度が変わり
  問いと答えは繰り返し
  ながら
  同じになっていた

気がつくと
小さな渦は
見えないけれど
私を待っていてくれたようで
少しずつ静かな気持ちになった

私は救われて
包まれて
沈黙の白い空に吸い込まれていく

 白い空
     
水平線の膨らみを過ぎて
白樺並木を歩いていたら
ふと小さな音がした

細い木だけれど
風を受けても大きくは揺れず
枝々を通過させて
互いを響き合わせるように
立っていた

空を見上げると
あらゆる自然の力の先に
透明なエネルギーで囲まれた
小さな渦

 

何にも見えないけれど
私を待っていてくれたようで
少しずつ静かな気持ちになった

 

私は救われて
包まれて
開いた空に
吸い込まれていく

 同じタイトルの、長い詩と短い詩。
 目に見えないものを比喩の力で浮かび上がらせている。「何枚もの紙をめくって」がいい。長い詩の三字下げをした三連がいい。前の部分は情景の描写。三字下げの部分は心象風景と思って読んだ。
 字下げの部分は意識が「小さな渦」に集中している。その集中力の結果が「比喩」になる。比喩が生まれるとき、意識は集中している。これは逆に言えば、意識の集中を欠いた比喩は、上滑りな連想、つまり「常套句」ということになるだろう。

 

 

 

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キーツ「多くの詩人が……」ほか

2023-07-16 22:16:13 | 現代詩講座

キーツ「多くの詩人が……」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年07月03日)

 まず、受講生がみんなといっしょに読んでみたいと持ってきた既成詩人の詩を読んだ。

多くの詩人が・・・・  ジョン キーツ

多くの詩人が時代に華をそえている
 そのうち何人かは、僕の楽しい空想の
 糧だったーー地上的なもの、崇高なもの、
どちらであれ、今もその魅力に思いを凝らす。
しばしば、詩を書こうと机に向かうとき、
 それらが群がって僕の心に押し寄せてくる。
 けれど、混乱も乱暴な騒ぎも
引き起こさない。それは心地よい組み鐘(チャイム)なのだ。
夕べが蓄えている無数の音もまた同じ。
 鳥の歌、葉むらのそよぎ、
川のせせらぎ、荘厳な音を響かせる
 大釣鐘。それに認知の距離が奪う
その他無数のものが、乱暴な騒音ではなく
 愉しい音楽を作っている。
           (中村健二訳) 

 池田清子がは八木重吉からキーツに接近した。「八木重吉が好きだったから、キーツを読んでみた」ということ。「僕の楽しい空想」「愉しい音楽」と楽しい/愉しいが繰り返される。「空想が詩になるのか」という感想を持った、という。
 受講生からは「これが詩なのか、驚いた」という声があった。空想的なイメージだが、飛躍がない。だから詩的な感じがしない、という声もあった。音(ことばの響き)に硬いものがある、漢語が多いからそういう印象が生まれるのかもしれない。暗くない、明るいと声も聞かれた。
 「認知の距離が奪う」がわからないという声があった。いくつもの音がある。それは「群がって僕の心に押し寄せてくる」が、その時の音と音との距離がわからない。どの音が近く、どの音が遠いのかわからないということではないか、私は読んだ。そして、そういうとき「混乱」が起きるのかふつうだが、キーツは混乱を感じていない。たとえていえば、それはオーケストラの「和音」のようなものではないだろうか。
 そこには聖堂の鐘のように人工の音もあれば、鳥の歌、川のせせらぎのような自然の音もある。

「旅人かへらず」より  西脇順三郎

2.
窓に
うす明りのつく
人の世の淋しき

26. 
菫は
心の影か
土の淋しさ

33. 
櫟のまがり立つ
うす雲の走る日
野辺を歩くみつごとに
女の足袋の淋しき

39. 
九月の始め
街道の岩片(かけ)から
青いどんぐりのさがる

窓の淋しき
中から人の声がする

人間の話す音の淋しき
「だんな このたびは 
金毘羅詣り
に出かけるてえことだが
これはつまんねーものだ 
がせんべつだ
とってくんねー」

「もはや詩が書けない
詩のないところに詩がある
うつつの断片のみ詩となる
うつつは淋しい
淋しく感ずるが故に我あり
淋しみは存在の根本
淋しみは美の本願なり
美は永劫の象徴」

71. 
柳の葉に
毛きり虫の歩く
夏の淋しき

90. 
渡し場に
しゃがむ女の
淋しき

152.
杉菜を摘む
この里に住めるひとの
淋しき

 杉惠美子が選んできた詩の「2」は俳句として紹介されていたもの、という。佐川和夫の名俳句1000に「窓にうす明りのつく人の世の淋しき」という形で紹介されている。杉は「淋しき」が印象に残った、「淋しき」をとらえてみたい。西脇の「淋しい」は「美しい」「孤独」につながる。「寂しい」と書かない点も印象に残る、と。
 受講生が、西脇の詩としては初期のもの、古い枚けれど、西脇のことばの特徴がある。無を感じさせる、といった。西脇の書く「淋しき」に詩染みを感じる。悲しさを感じる。「淋しき」から悲しさ、ひとりぼっちを感じた。
 「うつつの断片のみ詩となる/うつつは淋しい」という二行に、私は西脇のことばの秘密を感じる。「うつつの断片」、現実のものとものとの確立した関係ではなく、その関係から孤立した「現実の存在」、「関係がない」ということが重要なのだと思う。「関係がない」というのは「意味がない」ということに通じる。「無意味」に接した瞬間に、こころが自由になる。
 「無意味」に、ひとは、どれだけ耐えられるか。
 ひとはどうしても「意味」を求めてしまう。

 受講生の作品。

マダニ  青柳俊哉

桜の梢から わたしの
手のひらへ かすかな痛み 
最後のわたしを たっぷりと
啜って 十重のふくらみ 

水のうえの 梨の花びらへ 
わたしの千の卵たち 揺籃する 
瞬く 焼かれる水中の 
花粉の手に突かれて

スピンする黒子の手に
欺かれて 卵を打擲する
花粉の幼い性(さが) わたしの手の 
熟する 赤の果てへ

 青柳俊哉。「マダニに刺された。血を吸って大きくなった。そのときから私はマダニになる。卵を産み、死ぬが、そのことによって、私が生まれることになる。卵は花粉によってつつかれ、という具合に主体が変化していく詩」。
 受講生から「グロテスクな感じがする。いままでの詩と違って、あまり好きじゃない」という声と「私は好き。虫が好き。わかりやすくはないが、生き方が書かれてる。マダニの変化、主体の変化が詩を書くときの力になっている」という声。「最後の、赤の果てへ、がわからない。説明して」という質問には「最初に無意識的に戻る、循環のイメージ」というやりとりがあった。
 私は「スピンする黒子の手に」の前後の関係をつかみかねたが、二連目の「水中」と関係している、「水のブラウン運動のようなものをイメージした」という説明があった。青柳は「循環」ということばをつかったが、まわること、輪廻がテーマということだろう。

崖の上の野原のすすき野原の  木谷明

崖の野原にある店は通りすがるだけだったけど
なるみちゃんについていったのお財布にだいじだいじに毛虫をいれて
すすき野原にたわわになってる毛虫をそっと手のひらに
モサモサふわふわ
うれしくなって
見せに行ったのおばちゃんに
刺さんのかえ て云ったかも 刺さんよ て言ったかも
うれしいまんまお店を出たよ

朝の会の先生のお話で毛虫を見せる悪いこどもがいます ちがうけど
わたしのことかもしれないし
お店の外のキラキラと うす暗かったお店の中が

そのまんま思い出になった谷底の川の土手から大根ぬいて
このまんまいいんよ
かじるから かじったら
おいしいね おいしいね なるみちゃん、
おいしいね

 自分で書いた詩であるけれど、他人が書いたと想定して「感想」を言うならば。そういう設定でこの日の講座を始めたのだけれど、そのときの木谷明のことば。「お店の外のキラキラと うす暗かったお店の中が//そのまんま思い出になった谷底の川の土手から大根ぬいて」という二行が好き。
 工藤直子(この漢字でいいのか、確認をするのを忘れた)みたい、思い出して楽しい、という声。タイトルがおしゃれ。音(調子)がやわらかくて、意味はわからないけれど、心地よい。博多弁が楽しい、という声。最後の連が好きだけれど、「毛虫」や「マダニ」はどうしても苦手、という声も。
 私も毛虫の類は皮膚が激しく反応するので、苦手である。詩の講座では、とくにテーマを決めるわけではないのだが、持ち寄る詩に何か共通するものがあるのが不思議だ。
 木谷の詩に共通することだが、受講生が指摘しているように、音がおもしろい。「意味」が散文のように完結しない「文体」も効果的だ。音の響きを自由に解放している。音を楽しんでいる。受講生が指摘したように、タイトルは「の」の繰り返しがおもしろいし、「朝の会の先生のお話で毛虫を見せる悪いこどもがいます ちがうけど/わたしのことかもしれないし」の「ちがうけど」という主張のリズム、意味をつなぎながら転換する変化がとてもおもしろい。

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青柳俊哉「眼」ほか

2023-07-02 09:56:37 | 現代詩講座

 受講生の作品。

眼  青柳俊哉

水面から うかび上がる
しずく 表面をゆれうごく 
黒い栗の林 暗い雲の粘状体 
待ち受ける 水の窪みの母

しずくに映るものが内へ沈み 
ひとつに交わる 栗の林へ
雲がただよう 水中を白が渡る

わたしは うかびつづけることを願う

蝶へ移り変わる少女が わたしを
みている しずくの中の幸福な
白い栗の花へ かげを飛ばす 

わたしは 水の蝶へ重なる

 一連目に不思議な魅力がある。陰鬱といえるイメージだが、その陰鬱を奥でささえる「く」の音の繰り返し。「しずく」「ゆれうごく」と最初は脚韻のような動きをしているが、「黒い」「栗」「暗い」「雲」「窪み」と動く。「水」が、この動きにあわせて「粘状」になる。
 これが、もういちど「しずく」ということばを通って反転(?)する。「しずく」「しずむ」と「し」が動く。あいかわらず「く」のうごきもあるのだが、それを乗り越えて「しろ」と「し」が優勢になる。「白い栗の花」が象徴的だ。
 これは「内」なる変化が、「外(外面)」の変化にまで変わったということだろう。
 そして、その「し」は「わたし」を登場させ、「蝶」を産み出すのだが、この蝶はきっと「白い蝶」だろうと、私は思う。その蝶は、暗い水のなかを飛んでいるかもしれないが、色は「白」であって、「黒」ではないと感じさせる動きが、自然体の音のなかにある。

静かな雨  池田清子

雨の日は 好きよ
静かで

母という人を
初めて知った気がした
父は体が弱かったので
重い荷物はいつも母

お盆に お坊さんが来た時
ほんのわずかなお布施、母、
「いいとよ、バイクでシャーと来て
お経をチャーとあげるだけやけん」

電器屋さんが 修理に来た時
出張費を聞いて
「大戦をくぐりぬけてきた年寄りから
三千円も取るとね」

水仙が大好きだった

兄を最後までかばった
私が傷つけるような言葉をかけた時
ただふすまをしめた

静かな雨の降るときは
思い出す

 この詩のなかで、私は不思議な経験をした。四連目。講座で読んだときには「母」ということばがなかった。それで、私は「いいとよ、バイクでシャーと来て/お経をチャーとあげるだけやけん」ということばを、お坊さんのことばだと思っていた。ところが、詩を朗読した受講生の声を聞いていると、全員が「母の声」として読んでいる。
 あ、そうだったのか。
 そういう活発な声と、書かれていない「兄を最後までかばった」時の声の調子とが作者の内部で響きあっていて、そこから「静か」が誘い出され、雨の日の静かさと母の静かさが重なっているのだろう。
 私は、最初に「静かな」ということばを聞いたために、少ないお布施を無言で(黙って)差し出す母とお坊さんが対比させられ、そのあと、いわば気さくなお坊さんの声に励まされて、電器屋さんとの「声」が引っ張りだされたのだと思ってしまったのだ。
 母も変化している、その変化のなかから、ほんとうの母を知った、と思って読んだのだった。

梅雨終わり  杉惠美子
       
庭隅に
あじさゐの待つメモを見る

こんもりと今を濡れて
控へめに光をとらへ
雷さへも斜めに受けて

梅雨をのみこむ息の中
こぼれ落ちる時と雫

また1年
心をためて待つ時間を

静かに豊かに
持ち続けていたいと

誰がメモしたのだろう

傘は閉じたまま

 この詩を最初に読んだときの印象は、一連目が「俳句」として聞こえてきたことである。「5・7・5」になっている。
 二連目、三連目はは「字余り」もあるのだが、基本的に「5・7」(二連目)、「7・5」(三連目)として聞こえる。なんとなく「あじさい」、あるいは「あじさいの花」ということばを組み込んで、各行を「5・7・5」にかえてみたい欲望にとらわれるのである。
 そういう「こころの動き」を感じていると、「また1年/心をためて待つ時間を」のなかにある「待つ」が見えてくる。もちろんこの「待つ」は一連目の「待つ」としっかり呼応しているのだが。
 最終行の「傘は閉じたまま」は、「は」が効果的。「傘を」でも、外面的な「意味」はかわらないだろうが、「は」の方が強く「内面性」を感じさせる。それが「心をためて」や「メモ」につながる。

福祉 鈴木康太

撃たれた鳥が
落ちていくときに見たものは
水玉の人間たち
屋根はほとんど本だった
さまざまな色の本だった
あなたと食べたフルーツゼリーがおいしかった
地面にぶつかる、そのまえに
ぼくは満たされたい
額から顔がでる
それは、あなたの顔で
声はぼくの喉を切る

 受講生ではなく、受講生がみんなで読むために持ってきた作品。しかし、どことなく受講生の作品の「リズム」と似たところがある。だから、他の受講生は鈴木康太の作品と思わずに読んだ。
 どこが似ているか。
 「あなたと食べたフルーツゼリーがおいしかった」という突然の、破調の一行。また「さまざまな色の本だった」の「色」として本をとらえる見方。
 「額から顔がでる」は、これまでの受講生のことばとは違うが(他の受講生もそう感じたし、持ってきた受講生自身もそう感じているようだったが)、それはそれで「新鮮」な印象があり、受講生の作品と思って読んだ。
 実は。
 私は、この作品については、かなり前(1月17日)にブログで感想を書いている。すっかり忘れていた。(こう書いていたすこし補足しながら、採録する。)

 鈴木康太「福祉」。「撃たれた鳥」の落下を書いている。
(略)
 「額から顔がでる」、それを「見たい」。このときの「見たい」は「体験したい」になる。いいなあ、額が割れて、その裂け目から別の顔が出る。それは作者の「欲望」そのものだ。鳥のように落下して自分にぶつかるとき、鈴木の額から鈴木の顔が出る。それを自分のこととして体験したい。それに気づいて、悲鳴を上げる。
 ここに「矛盾」があるとして、それは対立するものが結合しようとする矛盾だろうか、それとも分離することを欲する矛盾だろうか。
 前後の文脈がないとわかりにくいが、ブログをさかのぼって読んでみてください。名前でもタイトルでも検索できます。

 


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長田弘「その人のように」ほか

2023-06-18 23:08:49 | 現代詩講座

長田弘「その人のように」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年06月05日)

 長田弘、寺山修司の詩と受講生の詩を読んだ。

その人のように  長田 弘

川があった。
ことばの川だ。
その水を汲んで、
その人は顔をあらった。

草があった。
ことばの草だ。
その草を刈って、
その人は干し草をつくった。

この世界は、
ことばでできている。
そのことばは、
憂愁でできている。

希望をたやすく語らない。
それがその人の希望の持ち方だ。

木があった。
ことばの木だ。

その木の影のなかに、
その人は静かに立っていた。

 4連目に注目する受講生が多かった。「この世界は、/ことばでできている。と言い切るところが印象的」「憂愁ということばに引きつけられた」「4連目と5連目に強い意味はないのではないのか。レトリックではないだろうか」「最後の2行に、希望を感じる」
 私は質問してみる。
 「4連目は、だれのことばだろうか」
 「その人」
 「では、5連目は?」
 「長田弘」
 「その人、は生きている? 死んでいる?」
 (詩集のタイトルが『死者の贈り物』だったので、あえてこう質問した。)
 「生きている人」「死んでいる人」と分れた。
 ここから、もう一度4連目に戻る。「この世界は、/ことばでできている。」はたしかに印象的だが、「ことば」という表現は、すでに2連目から登場している。川はことばにすることによって川になった。ことばは世界をつくる。その人は「ことば」で世界を把握し、ことばに自分自身を関係づけている。さらに「ことば」を「憂愁」に関係づけている。「憂愁」をふくまない「ことば」はない、ということだろうか。

 1連目は、あらった、2連目は、つくった、最終連は立っていた、と過去形で終わる。しかし4、5連目は、できている、持ち方だ、と過去形ではない。もし、その人が死んでいるのだとしたら、ここは過去形。と、簡単に言うことはできない。死んでいたとしても、そのひとのことを強く思い出すとき、その思いは「過去形」ではなく、現在形として動くだろう。意識(感情)が動くとき、いまと過去の区別はなくなる。
 あるいは。
 もしかすると「その人」は死んではいなくて、過去の長田の姿(生き方)かもしない。自分を振り返っていると読むこともできるだろう。
 「希望をたやすく語らない。/それがその人の希望の持ち方だ。」という2行には、矛盾が含まれているが(自己撞着があるが)、この自己撞着というものが「憂愁」かもしれない。
 「憂愁」は最後の「影」とも重なる。

 詩の構造は、起承転(転)結という形になっている。3連目だけでは言い足りなくて、4連目にもう一度「転」を追加した感じで、それが詩の奥行きをいっそう深めている。そして、それは「批評」になっている。
 だからこそ、いろいろに読むことができる。

かなしみ  寺山修司

私の書く詩のなかには
いつも家がある

だが私は
ほんとは家なき子

私の書く詩のなかには
いつも女がいる

だが私は
ほんとはひとりぼっち

私の書く詩のなかには
小鳥が数羽

だが私は
ほんとは思い出がきらいなのだ

一篇の詩の
内と外とにしめ出されて

私は
だまって海を見ている

 詩を持ち寄った二人は申し合わせたわけではないのだが、この詩は長田の詩と通じるものがある。長田の作品には「ことば」が繰り返された。寺山は「詩」を繰り返している。この「詩」は「ことば」と言い直すことができるかもしれない。
 「後半に登場する小鳥が印象的。何の象徴だろうか」「5連目と6連目の間に飛躍がある。そこがおもしろい」「6連目が気になる」「7連目が気になる。どこにいるのか、意味がわからない。抽象的」「最終行が、あまりにも詩的すぎる」
 長田の詩には、何か論理的(散文的)な印象があるが、寺山の詩は「論理」が見えにくい。
 この詩も起承転結の詩。二連ずつで一組になった起承転結。
 「そう読んだ上で、何か、気づくことある?」
 なかなか返事がなかったが。
 最終連には、それまでつかわれていたことばが、つかわれていない。つかわれていないことばは、ふたつある。ひとつはそれぞれの「組」の最初の行の「なか」。
 「一篇の詩のなかには/内と外とにしめ出されて」では、それこそ意味が通じなくなるから「なか」がない。「内と外とにしめ出されて」ということばを手がかりにすれば「なか」は単なる「内部」ではなく、それこそ「抽象的」なものである。「なか」は「場」であり、「時間」かもしれない。
 「思い出(過去)」が嫌いといった瞬間に、消えてしまうような何かかもしれない。
 もうひとつ「だが」というこばもない。
 最後の連には、どんな否定もなく、ただ存在の「肯定」がある。「きらい」なものがあるかもしれないが、それをふくめて受け入れている「私」という存在を感じる。
 最後の1行は、カルメン・マキが歌った「ときには母のない子のように」を思い出させる。

****

場  青柳俊哉

太陽が一つ 空にある 
枯葉一枚 空をふかれていく 
浜辺に群生していた芒はやかれた 
貝の未知の深さへ 潮水は降りていった 
裸木にとまっていたエメラルドの小鳥 
わたしはそれらの中にある 

たおやかな場 
眼にはみえないところで  
波のようにつづくわたし 
光を超えて 記された文字 
真空の果てにうかぶ
綿毛のような感情

就寝  木谷 明

明るいので外へ出ました
空は水のようでした
ほんとうに こうもりが とんでいる
ほんとうに こうもりが とんでいる
 
足のつかない学校のプールに沈んで
沈んで
見てた
それが時間というのなら
つづきはここまで

 青柳と木谷の作品も、どこか長田、寺山の詩に通じるものがあるかもしれない。いや、ほんとうは、それはないのかもしれないが、作品をつづけて読んでくると、どうしても先に読んだ詩の印象が紛れ込むことになる。
 それは、どういうことか。
 寺山の「詩」は、長田の「ことば」に置き換えられないか、と私は感じたが、青柳と木谷の詩では、そういう「置き換え」が可能なことばはないだろうか。
 もちろん書いた人には、書いたことばが絶対であって、他のことばへの置き換えは不可能なのだが。
 「たおやかな場」と「それが時間というのなら」は、「たおやかな時間」「それが場というのなら」と言い換えられないだろうか。というより、私は、言い換えて読んでみたい衝動にかられるのである。
 青柳の「場」、木谷の「時間」は、客観的な存在というよりも、何か抽象的な「思い」という感じがする。ことばにしないと存在しない「場」と「時間」。長田の詩の「ことばの川」のように。ことばにすることによってはじめて存在するものだからこそ、その「ことばにする」という行為のなかで、交換の可能性のようなものが動くのかもしれない。
 詩とは、すでにそこにあるものを「ことば」をつかって再現するというよりも、「ことば」によってそれを「つくりだす」ものなのだと思う。そこに作者のどんな体験(感情)がふくまれているにしろ、それは「ことば」によって鍛えられ、動き出すものなのである。

 

 

 


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木谷明「つつじの森」ほか

2023-05-29 21:18:10 | 現代詩講座

木谷明「つつじの森」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年05月15日)

 受講生の作品。

つつじの森  木谷明

空き地があるでしょ

ほっとするでしょ

その向こう

緋色、紫、白に零(こぼ)れて

つつじの森の住人は姿を見せることはないのです

ただ

育て

往き来し

見せず

ひとの背丈ほどになりながら

ただ

籠り

往き来し

立ちどまられようと

その川を

橋で歩くひとなどに

姿を見せることはないのです


その向こう
つつじの森に見えるのは
空き地から
届かない
歩いても
隠れてる
緋色、紫、白に零れて

 

つつじの森の囀りに

 「つつじの森の住人」は具体的に書かれていないが、秘められた感じがいい。全体の調子(音)、行間の取り方、全体がやわらかく反響し、後半転調しいくのがいい。朗読を聞いて、共感の秋とテンポが合っているのを感じた。「零れる」「囀る」というむずかしい感じが印象的。山つつじのさわやかさを感じる。「つつじの森の囀りに」という最終行が印象に残った。空気感、膨らみを感じた。
 という声。

 行空きは、1行では足りなくて、最後は3行になった、と作者。
 「散文」にならないように工夫した文体と、行間(ことば、イメージの飛躍飛躍)に工夫があるし、受講生が指摘しているように、ときどきまじる日常的には見ない漢字も視覚を刺戟する。
 詩は論理ではないし、結論もなくてもかまわない。ことばの飛躍のなかに詩がある。その飛躍を強引に綿密なことばで埋める手法もあるし、木谷のように断絶を空白(行間)でつくりだす手法もある。
 江戸期のだれかだと思うけれど、「空白も絵の内なのだから、こころして見なければならない」と言った人がいたと思う。ことばの「空白」は論理の飛躍、あるいは行間ということになるかもしれない。
 

みどり  杉惠美子

ガラス窓越しに見る
5月の宵は
思っていたより暗くない

私は私だからと
思えた瞬間に
生乾きだったシャツが
ピンと乾いた

時空が少しずれて
少しゆがんだような
温度差もあれば
吸う息が揺れているような感じがある

反応する私と
吸い込まれる私がいて
少し遠くまで行けそうな気がする

トンネルを抜けて
新緑に包まれて
私はみどりになる

 二連目の表現がおもしろい。最終連の新緑が鮮やか。「みどりになる」に共感する。実際は部屋の中にいて、トンネルは空想と思って読んだ。空気の揺らぎのようなものを感じた。「シャツが/ピンと乾いた」「時空が少しずれて」「吸い込まれる私」という動きに(意識の)流れの一貫性を感じる。心象と物理が重なる。
 二連目については、杉は、「ひらめいた」から書いたと言った。詩は、意図して書くというよりも、ことばに書かせられるものかもしれない。

 この詩でおもしろいのは、二連目のことばが、他の連と違うから見落としてしまいそうになるが、ここに実は「キーワード」がある。
 「思えた」(思う)という動詞。一連目「思っていた」、三連目「感じがある」、四連目「気がする」。「思う」「感じる」「気がする」は「客観的事実」というよりも、「主観的事実」。この「思う」(感じる/気がする)は、実は書かれていい長最終連にも存在する。
 私はみどりになる「と思う/と感じる/気がする」。しかし、杉は最終連には、それを書かない。そのため、最終連の印象が非常に「さっぱり」する。作者が「みどりになる」のだが、読んでいる読者が「私」になって「みどりになる」と錯覚する。
 静かな「飛躍」がここにある。そして、それをつくっているのが「思う/感じる/気がする」の省略である。

森のアトリエ  池田清子

思い切って
一人旅をしてみようか
大丈夫
ロシナンテと一緒だから

山道を折れて折れて
細い道を進むと
緑の中に
しんと立つホテル

巨大な天体望遠鏡
小さなプラネタリウム
木星がくっきり見える
解説が熱い

ヴァイオリンとピアノの生演奏
食事中 記念の写真を撮ってくれる
浴衣姿で二人とも微笑んでいた
ホテルの名は
勝手に「星の美術館」

宇宙の定規も二人で選んだ
ロシナンテ
やっぱり 思い出のつまってない所に行こうか

ドン・キホーテは
父と 痩せ方がよく似ている

モモンガは飛び去って行った

 「宇宙の定規も二人で選んだ」が印象的。「ロシナンテ」「ドン・キホーテ」は、比喩。それが「宇宙の定規」の比喩と響きあう。素敵な詩。「森のアトリエ」に対する思いを描いたのだと思って読んだ。

 「食事中 記念の写真を撮ってくれる/浴衣姿で二人とも微笑んでいた」という二行は、これまでの池田の詩の世界につうじるが(思い出を正確に書いていると思うが)、受講生が感想のなかで指摘したが、ロシナンテ、ドン・キホーテなど、池田の具体的な生活(体験)そのものではないことば(受講生が「比喩」と呼んだのは、そのためだと思う)が登場し、世界を動かしていることである。「現実」をそれに対応することばで書くのではなく、「ことば」をつかって「現実」を耕して、「現実」を豊かにしていくという動きがここにある。
 「宇宙の定規」を「ことば」でつくりだすとき、「現実」は違った風に見えてくるはずである。見えなかったものが見える。それは、たとえば「モモンガ」かもしれない。この「モモンガ」はほんものか、作者があらわそうとした何か別のものか、ということは読者が考えればいいことである。それが作者の「意図」と合致しているかどうかは、問題ではない。学校のテストの「答え」ではないのだから、それはどれだけ違っていてもいい。何かを「ことば」に誘われて、感じ、考えれば、それでいいのだと私は思う。

フジツボ  青柳俊哉

鏡のなかの安息日

種を撒き 藻を刈ることさえ 
罪と思うとき 
非・エデンの方へ  

高い枝へのぼり
生まれたばかりの蛙
空の水面へ 宇宙的な琵音をはなつ
樫の木と磐 ヴィーナスの閑さで 
潮の気圏にまう うしなわれる
もののない 原子の時間の方へ

鏡がとじて 水のうえの 
フジツボにふれるとき

 「鏡のなかの安息日」はイメージが大きくて考え込んだ。「鏡のなかの安息日」からはじまり、「うしなわれる/もののない 原子の時間の方へ」へ動いていくが、それと「フジツボ」との関係がわからない。「罪と思うとき」の「罪」にぐっときた。「宇宙的」ということばが出てくるが、人間のレベルを超えた何かを感じる。

 私は「非・エデンの方へ」の「非」ということばに注目した。池田が「現実」を書くのだとしたら、青柳は最初から「現実(具体)」ではなく「非具体(現実)=抽象」を書く。そして、その「抽象」ははっきりと確立された存在ではない。「……とき」「……の方へ」ということばが象徴的だが、ある瞬間(とき)に見える「方(ベクトル)」へ動いていく。「ことば」はどこへたどりつくかわからない。
 池田の「ももんが」がそうであるように、「フジツボ」も、どういう必然があって出てきたのかは、作者にもわからない。それは、どこかからか、やってくるものなのだ。杉が、二連目は「ひらめいた」と言ったが、そんなふうにやってくることばがある。木谷の「零れる」や「囀り」も。「ことば」が先に何かを見つけ、それを作者が「追認する」。

 


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草野心平「デンシンバシラのうた」、青柳俊哉「あじさいの森」

2023-05-14 22:51:47 | 現代詩講座

草野心平「デンシンバシラのうた」、青柳俊哉「あじさいの森」(朝日カルチャーセンター、2023年05月01日)

 草野心平の「デンシンバシラのうた」を読んだ。

デンシンバシラのうた  草野心平

そんなときには。いいか。
デンシンバシラとしゃべるんだ。

稲妻が内部をかけめぐり。
丸い蜜柑がのけぞりかえる。
そんな事態になったなら。
白ちゃけて。唸るようにさびしくなったなら。
人じゃない。相棒になるのは。
夜中の三時のデンシンバシラだ。

デンシンバシラはゆすっても。
デンシンバシラは動かない。
手のない。指のない。見えない腕で。
デンシンバシラは。しかし。
お前を抱くだろう。

ありっこない。そんなことが。
そんなことの方がまだあるんだ。

ちぐはぐで。ガンジガラメで。
遠吠えしてもまにあわない。
そんなときには。霙にぬれて。
夜中の三時のデンシンバシラだ。

 受講生が皆と一緒に読んでみたい詩、ということで持ってきた作品。
 さびしいとき、悲しいとき、頼るのがデンシンバシラ。デンシンバシラに頼るという発想にびっくりした。内面のあらわし方がすごい。「夜中の三時のデンシンバシラだ。」が印象的。誰にもどこにもぶつけようのない自分の気持ちが表現されている。「デンシンバシラはゆすっても。/デンシンバシラは動かない。」という入り方が、思いつかない。デンシンバシラがカタカナなのがおもしろい。相いれないものと対峙、対話し、デンシンバシラの内面に入っていこうとしている。デンシンバシラと草野心平のあいだには絶対的な断絶がある。その断絶を越えて、そのものになろうとしている。
 いろいろな声が聞こえた。私は、「ありっこない。そんなことが。/そんなことの方がまだあるんだ。」と書いてあるが、何がありっこない(ない)のか、と問いかけてみた。
 デンシンバシラが「お前を抱く」ということがありえない。手がない。指がない。
 「では、何があるんだろうか」
 見えない手で「お前を抱く」ことがある。それは何か、人間の想像を超えたものとして、そこに立っている。理解できないことの方が、この世界にはある。
 もひとつ、質問。「草野心平と、デンシンバシラの、どっちの方が見える?」
 草野心平の気持ちを書いているけれど、デンシンバシラが印象に残る。デンシンバシラに自分を投影しているように見える。デンシンバシラと草野心平が一体になっている。区別がつかない。
 そうなのだ、と私も思う。
 ここに書かれているのは、どこにでもあるデンシンバシラではない。絶対的な存在としての、デンシンバシラ。草野心平が書くことで生まれてきたデンシンバシラなのである。草野心平はデンシンバシラになって、草野心平を抱いているのだと思う。デンシンバシラになって、草野心平に語りかけている。
 タイトルがとてもおもしろい。「デンシンバシラ」ではなく、「デンシンバシラのうた」。それは、デンシンバシラが歌っているのだ。その「歌声」を草野心平が聞き取ったのだと思う。

あじさいの森  青柳俊哉

あじさいの森へ行く
雨の色が すべての花びらを
通過して 土のうえを青くながれる

花びらを食む
一頭の蛾の幼虫
月の黄土色に染む

花びらがすべて
藤色の蛾へかわるとき
雲は 海辺を巡礼する黒衣の女の
行列のように 空を渡っていく

色彩は世界の外にあり 
水のふる空へ あじさいが飛び立つ

 あじさいが動いている。変化している。「巡礼する」ということばにひっかかった。「あじさいが飛び立つ」は蛾と一緒に飛び立っていくのだろうか。色が変化していくが「色彩は世界の外にあり」という意味がよくわからない。
 最後の疑問については、青柳から、色があることは、そこに存在するものとは無関係、色は本質的な存在ではない、世界の本質ではないという考えが語られた。「移ろうこと」が世界の本質という考え方である。
 受講生の感想にあった「あじさいが動いている」の「動いている」は、そういう意味では、青柳の世界をがっしりと把握しているといえるだろう。
 青柳は「蛾の幼虫がガーベラの花びらを食べたらガーベラ色になった、ということをもとに詩を書いた」とも語った。二連目に蛾が出てくるのはその影響だろう。また、それが最後の「飛び立つ」という動詞を呼び覚ましているかもしれない。

 


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(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
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池田清子「投票」ほか

2023-04-30 15:49:46 | 現代詩講座

池田清子「投票」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年04月17日)

 受講生の作品。

投票  池田清子

成人して
投票権を持って
初めて 投票に行かなかった

県議選
無投票

昔からのしがらみがあり
一人の人が長く続けており
対抗馬の出ない地域
なのではない

一人区一人

選挙公報はこなかった
どんな人か知らない

 統一地方選。どの選挙区でも「無投票」が増えている。時事問題をテーマにしているのだが、池田から「もやもやしている、どう書けばいいのだろう」という悩みの声。
 この詩からは、「もやもや」は、明確には伝わってこない。
 こういうときは、まず「もやもや」を、そのままことばにして書いてみるといい。各連の間、一行空きの部分に「もやもや」を書いてみる。「もやもや」で終わらせるのではなく「もやもやもやもや」「もやもやもやもやもやもやもや」と重ねて書くだけで、詩全体の雰囲気が違ってくる。あいだに「いらいら」とか「むかむか」とか「あーあ」とか。
 「もやもや」ということばのなかに「県議選、一人区一人、無投票」を埋め込んでみると、また印象が違うだろう。途中に「乱調」を挟むと、また違った印象になる。

もやもやもやもやもやもやもやもやもやもやもやもやもやもや
もやもやもやもやもや県議選もやもやもやもやもやもやもやも
やもやもやも一人区やもやもやもやもやもやひとりもやもやも
やもやもやもやもやもやもやもや無投票もやもやもやもやもや
もももややややもやもやもやもやもやもやもやもやもやいらっ
もやもやもやもやもやもやもやもやもやもやもやもやもやもや

 「現代詩」というのは、「わざと書くもの」というのは西脇順三郎の定義だけれど、「わざと」何かを書いていると、その「わざと」のなかに、自分の思っていることが無意識にまじってくる。
 少し例は違うが、どんな嘘でも最初から最後まで嘘をつき続けられない。どこかで「ほんとう」を言ってひと息つく必要がある。その「かけない」のようなところに、詩がふっと姿をあらわしたりする。

城  青柳俊哉

有明にそよぐ岩
琵琶の弦を調律する男
はてしない夕曲の 波の声部を
もつ 郷愁の貝の城を築くために

かれは潮に浸るサンマルコ聖堂で
奏でていた 魚の歩みを観つつ
枯葉のような乾いた音で
いのちの源泉について
思案していた

ただよう水母の 
白い星のような口から
すべてはうまれていると

 青柳の詩に「もやもや」のようなことばを差し挟むとしたら、どういう「音」が可能か。たとえば二連目の「枯葉のような乾いた音」はどう言い直せるか。「さやさや」「さらさら」「そよそよ」。全体の印象では? 「ひろひろ」「そよそよ」「ゆらゆら」。
 青柳は「城」を「水の城(水中の城/水没した城)」というイメージで書いている。ベネチア、「潮に浸るサンマルコ聖堂」をさらに発展・拡大させた感じである。
 青柳のことばは、イメージに「いのちの源泉」「思案」というようなことばを組み合わせることである。美しさに流れていくことばを、思惟で引き止める。思惟の深みにおりていく。思惟の力で、世界を再構築する。そして、その運動の先に「白い星のような口」というようなことばを産み出していく。
 この「白い星のような口」という比喩は、具体的には何を意味するのかわからないけれども、わからないからこそ、私はそこで立ち止まり、はっとする。この「はっ」としかいえないもののなかに詩があると感じる。
 要約できない何か、説明できない何か。

ハルウマレ  木谷 明

ふわふわの
サニーレタスに
混ざって
たべちゃった
さっきの苺の

こんなの好きだったんだ
シャキシャキしてる

苺あげても
たまに葉っぱからたべてたね
葉っぱだけ
あげてもよろこんで

なんでたべてみなかったのかな トントンが
好きだったのに

アタシ、ナンデ、タベテミナカッタノカナ
トントンがスキナノニ

 春のサラダ。音でいえば「しゃきしゃき」。「さらさら」「さわさわ」「さにさに」。造語も飛び出して、楽しくなったが、「トントンがわからない」という声。私は野菜を刻んでいる音を想像したのだが、ウサギの名前だった。
 ウサギにサニーレタスをやっている。イチゴの葉っぱが混ざってしまった。それも食べてしまった。飼っているウサギ、ではなく、飼っていたウサギ。「たまに葉っぱからたべてたね」に過去形が出てくる。だから、悲しい詩、と木谷。
 作者の説明を聞いて、初めてわかる部分もあるが、わからなくても、それなりに楽しい。聞いたあとで、また読み直すというのも、一緒に詩を読む楽しさ。
 タイトルの「ハルウマレ」のかたかなが不思議な印象。
 「適度な距離感がある」という受講生からの指摘があった。なかなか言えない指摘だ。

はる  杉惠美子

何かを纏って歩く
何かを抱きつつ歩く

行き先を戸惑いながら
すれ違う景色を確かめもせず
いざなわれて行くが如くに
辿り着いた

峠の一本桜

風を探して散る桜
うらとおもてを繰り返し
終わりとはじめを
知らせるように
折り合いもつけず
迷いもなしに
遥か遠くに舞い降りて
また確かな時を刻む

手放して
手放して
拡がる風景

 どんな音で言いあらわせるか。「はらはら」「さわさわ」「すっきり」。むりやり音に変える必要はないのだが、そういう「むりやり」をやってみると、自分のもっていことばの「領域(限界)」を自覚することができるので、強引に、やってみた。
 そして、そういうことをやってみると、「強引(むりやり)」ではない印象(感想)が自然に動き出す。「もっと言いたい感想がある」ということだ。
 毎回話題になるが、ことばの展開、表現のリズムがとてもいい。「うらとおもてを繰り返し/終わりとはじめを」というような対句的表現がとても効果的だ。満開の桜、満開をすぎて散っていく桜のいさぎよさ、その桜の姿が目に浮かぶという感想がつづいた。「峠の一本桜は現実なのか架空なのかわからないが、一本に気持ちが表れている」という声。
 リズムの面から見ていくと、この一行は、とても効果的。
 二連目につづけても「現実」としての意味は変わらないが、印象が変わる。歩いてきた過去を振り切って、ぱっとあらわれる。三連目の独立して一行は非常に印象が強い。左右の空白が、まるで、桜の背景の青空のように感じられる。
 現実か、架空か。
 それは「現実の風景」であると同時に「意識の現実」でもある。
 この「意識の現実」を通過することで、三連目の「現実」がそのまま「意識の運動」になり、四連目で「意識の拘束(束縛)」からの「解放」へと展開する。意識がもう一度、広い現実ととけあう。

 


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谷川俊太郎「かなしみ」ほか

2023-04-15 22:59:19 | 現代詩講座

谷川俊太郎「かなしみ」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年04月03日)

 受講生が持ち寄った著名人の詩を中心に読んだ。

花明り  東山魁夷

花は紺青に暮れた東山を背景に、
繚乱と咲き匂っている。
この一株のしだれ桜に、
京の春の豪華を聚め尽くしたかのように。
山の頂が明らむと、月がわずかに覗き出る。
丸い大きな月。
静かに古代紫の空に浮かび上がり、
花はいま月を見上げる。
月も花を見る。
これを巡り合わせというのだろうか。
これをいのちというのだろうか。

 日本的、古典的、格調高い……東山魁夷自身の絵を、もう一度、ことばで再現したような作品だ。「古代紫」「繚乱」ということばのほかに「聚め尽くした」という少し変わった文字遣いのことばもある。一種の「気取り」かもしれないが、こういうことばのつかい方は、詩にとっては大切なことである。つまり、「ふつうのことばとは違う」という印象をうむことばが。それが「豪華」というものだろう。
 この詩は、しかし、そうした「豪華」なことばのあとに、

これをいのちというのだろうか。

 という一行があることだろう。花(さくら)と月の「巡り合わせ」に同席する。それができるのは「いのち」があるからだ。生きているからだ。この「いのち」は生きていてしあわせという喜びだけではなく、「いのち」がつづいていく喜び、作者の「いのち」をこえて、花と月、宇宙が生きていくという発見が突き動かしたことばだと思う。
 最後の一行がなければ、美しいことばを組み立てた、美しい世界でおわっている。「いのち」ということばが、完結した世界を破壊し、押し広げている。

秋夜 算数  伊東信吉

終りコオロギらしい虫が鳴いている。
ひそひそ絶え絶え泣いている。

師走入りの前夜、十一月三十日の燈下に、
孫むすめと遊んでる。

七十余歳下のはるかな年齢(ところ)から来て。
掌(て)に包みこんだ、

玩具ふう計算器から、手軽に、
彼女が数え取る。

満九十三歳は正味九十二年です。
そう?
ここで、算用数字に字(じ)変(がわ)りします。

 1年365 日×92年=33.580日デス
 33.580日+閏年23回=33.603日デス

昔、聞いたどこぞの寺の小仏( こぼとけ) 数は三万三千三百三十三体だった。
あれより多いな。

え、計算まちがいじゃないな、
生きまちがいじゃないな、え。

たじろぐ私に、
苦もなく彼女は言う。
今年の分を合せてほぼ三万四千日です。

 老いて、孫娘と遊んでいる。生きてきた年月を日数に換算して、あれこれ話している。単に掛け算だけではなく、閏年の日数を足しているところが律儀でとてもおもしろいし、(たぶん、孫娘は、この「正確さ」を自慢したかったのだと思う。私は、ここまで気づいている、と)、それにつきあい「計算まちがい」「生きまちがい」と、ことば遊びをしていることも、この詩に「余裕」のようなものを与えている。
 この詩では、その「計算」のおもしろさにかくれているが、三連目が不思議で楽しい。「年齢」と書いて「ところ」と読ませている。実際に計算してみると、そうなるかどうかわからないのだが(つまり、孫娘の年齢がいくつなのかわからないのだが)、私は伊東と孫娘の年の差が「七十余歳」のだと思って読んだ。つまり、娘(孫娘の母親)が孫娘を生んだときが「七十余年前」なのだろう。それは、なんというか、娘から生まれたというよりも、「はるかなところ(宇宙)」からやってきた「いのち」のように思える。
 「掌に包み込んだ、」は次の連の「計算器」につながっていくのかもしれないが、「いのち」を包み込む、生まれてきた子どもをしっかり抱くというような印象で私には響いてきた。
 これは直前に読んだ東山の詩の「残響」のようなものが私に残っていて、「いのち」のつながりを「宇宙」と結びつけているのかもしれない。

かなしみ  谷川俊太郎

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

 「遺失物係の前に立ったら」という一行が、この詩のすべてをあらわしているという意見と、「遺失物係ということばは、リアリティーを与えているが、嫌い。詩にはつかえない」という意見があって、とてもおもしろかった。このことばは好き、このことばは嫌いというのは、とても大切な感覚だと思う。その好き嫌いがなくなれば、きっと詩はおもしろくなくなる。
 私は、この詩では、最終行の「余計に」ということばが、とても好きだ。それで、受講生に「余計に」というのは、どんなことばに言い換えることができるか、という質問をしてみた。
 「もっと」「むだ(に)」「なおさら」という声が出たあと、「とんでもない、でもいいかなあ」という声が出た。
 これは、とてもおもしろいし、この詩の「本質」に迫っているかもしれない。
 「とんでもない」は、二行目にも出てきている。
 この二行目の「とんでもない」は、では「余計」と言い換えることができるか。
 ひとによって違うと思うが、私は「できる」と思う。「おとし物」だけれど、それは絶対に必要なもの、たとえば百万円の入った財布とかではない。たぶん「かなしみ」のように、もしかしたらない方がいいもの(余計なもの)かもしれない。余計なものなんだけれど、ないと、物足りない。
 何か矛盾したものが、谷川の書いている「おとし物」には含まれている。
 そして、この「矛盾」が、「いのち」につながっているのだと思う。それは東山の詩の「巡り合わせ」に通じるかもしれないし、伊東の老人(自分)と孫娘のつながりに通じるかもしれない。伊東と孫娘の肉体は同じ血を分け合っているが、その分け合い方は「直接」ではない。「間接的」である。この「間接的」は「絶対的」ではない、ということである。言い直すと。たとえば、祖父と孫というのは、実際には「会わない」こともある。祖父が死んでから生まれる孫もいる。血がつながっているということを「直接(実感として)」知っているのは「母」だけである。
 もしかしたら存在しない何かを「実感」として表現していく(産み出していく)のが、詩というものかもしれない。

 受講生の作品。

月華  青柳俊哉

無数の水紋
花の意匠のような 月の表面を 
めぐる 光とかげの境界

そのうえで 羽搏いている
光にも かげにも属さない
ゆらぎのなかにしか
生存できないもの
薄羽かげろうの 虚数の
花のうえに透ける 冬蝉の羽

世界があることに 秘されている
思惟のかたち 水の指紋の
ような月華

 月の表面を光が移っていく。光と影の間で何かがざわめいている感じ、生きているものがあるのではない。それを書いてみたと青柳は語った。
 「薄羽かげろう、冬蝉、花のうえに透ける、など揺らぐ感じがいい」「月の見方がおもしろい」「世界があることに 秘されているが印象的」「花の意匠、思惟のかたち、という表現が好き」
 私は「水の指紋」がとても気に入っている。水に「指紋」などない。けれど、ことばにするそのとき、「水の指紋」が出現する。それは「薄羽かげろうの 虚数の」の「虚数」についても言えるかもしれない。存在しないけれど、ことばにした瞬間、存在してしまうもの。
 でも、それは、いったい何?
 何かは、読者がそれぞれ自分で考えればいいことだと思う。わからないけれど、何か「はっ」と感じる。
 東山の詩では「いのち」ということばになっていた。谷川は「とんでもない」や「余計に」ということばで、「何か」を書こうとしていた。伊東は「まちがい」(計算まちがい、生きまちがい)ということばのなかに、「まちがい」をこえる「ほんとう」を暗示しているかもしれない。「年齢」を「ところ」と読ませることも「まちがい」なのだけれど、「まちがう」ことではじめてたどりつける何かがある。
 「要約できない」というよりも、それは「要約」や「説明」を拒否して存在する「新しいことば」であり、それは「新しい存在」を告げているのだと思う。

 「まちがう」ではなく「ちがう」と言い直してもいいかもしれない。「ちがう/ちがい」を見つけ出していく、「ちがい」をひきうけてみる。「ちがう」を生きてみる。それが詩や文学を楽しむこと。
 私は講座では、受講生の「感想」に疑問を投げかける。それは、受講生の「感想」が間違っているという意味ではない。私の「感想」が正しいというのでもない。「ちがい」があるということを伝えたいのだ。そして、その「ちがい」をことばでできるようにすることが「生きる」ということなのだと私は感じている。
 何をどう理解しようが、生まれた人間は生きて、死んでいくというのは、今のところだれもが知っていること(真実)だと思う。死なない人間はいないから。そうだとするなら、どうすることもできない「真実」のなかかで、どれだけ「まちがい」を生きられるかを楽しんだらいいのではないだろうか。
 ちょっと余計なことを書いてしまった。

 


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杉惠美子「カラス」ほか

2023-03-31 17:31:48 | 現代詩講座

杉惠美子「カラス」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年03月20日)

カラス  杉惠美子

誰もいない
この場所に
不思議な視線がある

遥かを見つめ
足もとを見つめ
狙いを定めて
一気に襲う不思議な視線

夕日に映える
その光線こそが
生命をつなぐ
刃となる

そこに生まれた渦は
大きくそして小さく息づいて
次の瞬間を待つ

人の隙間を狙う
一瞬のベクトル
いのちの煌めき

人が抵抗できない
黒い野心
自然と生命 

 「緊張感がある」と講評だった。「黒い野心」がわからないという声もあったが、単純にカラスの黒と思えばいいのだはないか。ただし、カラスに終わらせずに、その先へ発展させていくのも楽しい。
 この詩には「視線=光線」ということばの連絡があり、それがさらに「煌き」ということはにかわっていく。「刃」ということばを考えると、その「視線=光線」は「刃の煌き(光の反射)」とも連絡する。
 私はここで、たしか森鴎外だったと思うが、真昼の海の波を描写して「黒い波」、あるいは「黒い光」ということばをつかっていたのを思い出す。光を反射した波は、ふつう「白」で描かれる。しかし、その強い反射の周辺は、目くらましになったときのように黒い。黒があるからこそ「白」が引き立つ。
 それに似ている。
 まぶしすぎて「黒い光」。「黒い光」は、一種の撞着語だが、そういうことばに出会うと、そこに見落としていたもの、論理では書けないことばがあるのだと気づく。「黒い野心」には、それに通じるものがある。

スタート  徳永孝

春は自然が動き出します
草木は芽生え花を咲かせ
虫達が土から出てきます
分かれと旅立ちの季節でもあります
渡り鳥達は北の国へ帰る長い孤独な旅路へ
飛び立つ準備を始めました

私の心も動き出したようです
新しい気付きが次々と訪れて来ます
遠く旅立った人もいます
うれしい事楽しい事も多いけれど
時には涙する事も……
(もしかして花粉症?)

卒業を前にRADWIMPSは歌います
次の空欄にあてはまる言葉を
書き入れなさい ここでの最後の問い
「君(という友)のいない 明日からの日々を
僕は/私は きっと□□□□□□□□□□□□□□□□□□□」
制限時間はあなたのこれからの人生

臆病な私も
あの人この人の応援の眼差しを励みに
小さな勇気をふりしぼって
この守られた安心の日々から
一人で生きる明日への一歩を
踏み出して行こうとしています

「よーい、はじめ」

 この詩には、いくつかの問題がある。いちばん大きな問題は、RADWIMPSの詩が引用されているのだが、その引用が、どこからどこまでなのか明記されないない。徳永によれば、三連目の「次の空欄」の5行は引用だという。そういうときは、明記しないと著作権法に違反する。もちろん、ほとんどの人が知っていて、引用と断わる必要のないものもあるかもしれないが(たとえば西脇の「覆されたような宝石」)、そういう例は少ない。もうひとつは、同じ問題かもしれないが、この作品では三連目がいちばんいいということである。三連目には、このことばを書いた人(私は、だれが書いたかを知らないのだが)の発見(徳永のことばを借りて言えば「気付き」)がある。
 これに反して、他の部分には、「新しい気付き」ということばが書かれているが、私にはどこが「新しい気付き」なのか、わからない。四連目の、「一人で生きる明日への一歩を/踏み出して行こうとしています」ということが徳永の発見なのかもしれないが、「明日への一歩」がいままでの一歩とどう違うか書かないことには、読者には伝わらないだろう。「明日」ということばだけででいままでとは違うということを伝えるのは、むずかしい。本人が気づいているから、気づいたと書けば他人に気付きが伝わるというわけではない。
 むしろ「気付き」と書かないで、あ、この詩人は、私の知らないことに気づいていると感じさせることが大事である。詩人は、かならずしも気づいていなくてもいい。気がつかなくてもいい。

下の子  池田清子

ぼくは
まじめに話してる
ことばがおかしかったら
おかしいと言えばいい
使い方がちがっていたら
アドバイスをしたらいい
ぼくは
わらわれるのは いやだ

 「下の子になりきっている(演じきっている)」のがいい、という声があったが、その批評がすべてをあらわしている。
 池田は、そうは書いていないが、ここでは「下の子」の気持ちに「気づいた」のである。そして、その「気付き」をそのまま書いた。
 気付きとは、ある意味では、自分ではなく、だれか(何か)になってしまうことである。
 西脇は「覆された宝石」と書いたとき、「朝」になったのか、「宝石」になったのか「覆された」という動詞になったのか。それは、読者が判断することであって、西脇の知ったことではない。
 杉の詩では、カラスの視線に気づいたのだが、ただ気づいただけか。最後はカラスになって人間を見ていないか。詩を書き始めたときはカラスを見ていたが、最後はカラスになって世界を見ている。
 書くというのは、そういう自己変革をともなう冒険である。

琥珀  青柳俊哉  

林檎のかけらに 
蜜をうすく垂らす
桜の樹脂がとけて 
琥珀の中の 蟋蟀が
羽音を立てる

秋の間 
それは頭蓋の高い空で
百合の釣り鐘を敲きつづけた
わたしを花粉で統べて

樹液の石化する場へ  
数億年の桜の分子の森を飛行する 

 結晶を無時間の函へ収めた

 青柳の場合、どういう変化が起きているか。簡単に描写すれば、最初は琥珀のなかに閉じ込められたコウロギを見た。あるいはコウロギを閉じ込めている琥珀を見た。それは「数億年」という時間の発見につながり、その「数億年」は「無時間」へと変化する。このときの「無」は「無限」の「無」にもなる。

嫌いなことを排除していたら嫌いな自分が残った  木谷明

嫌いなことを排除していたら嫌いな自分が残った

駐車場でクルマを降りて いつものように くるりと樹々の間を歩いた。
伐採と剪定をしまくられた栴檀や楠木の根元で、見たことのない鳥がチョンチョン跳んでいる。一羽だ。目が合った。逃げない。寄ってくるようにあそぶ。じっとしていよう。
突っ立ったまま「わたしとあそんで」という題の絵本を想い出していた。
マリーホールエッツはお墓の中にいる自分を想像して描いたのではないか、という趣旨のことを言ったら、ひとりのおばあさんが激怒した。
これは!この本は‼幼い少女のあどけないいい話なんです‼(at 小さな読書会) 

そうかなぁ。わたしはいまでもマリーはお墓になっているんだと思い続けている。

鳥はウグイスだと直感していた。二十日程前から鳴いている。姿は見たことがない。
この一生のうちで初めての対面をしている。

すこし紅の尾っぽ、まだら模様のむなばら、まんまるい目。
灰かぶりの草木色みたいなかろやかなやさしいからだを覚えて、帰った。

うぐいすにあったよ うぐいすに

 「タイトルがとてもおもしろい」と好評だった。あとの感想は、その付け足しのようなものになったかもしれないが、それではタイトルと内容の関係は、というと、まあ、そういうことは考えたい人が考えればいい。私は、ほとんど、そういうことは考えない。どこがおもしろかったか、しか考えない。おもしろいというのは、そこに私の知らない、あるいは知っていてもことばにしなかったことが書かれているときに起きる。
 描写がリズミカルでいいという意見もあった。私もそう思う。「一羽だ。目が合った。逃げない。寄ってくるようにあそぶ。じっとしていよう。」は、起きていることが瞬間瞬間完結している。完結しながら運動になっている。たとえて言えば、ストップモーションの連続が動きになっているということ。ここには、やはり「発見」があるのだ。「気付き」があるのだ。「一羽と目が合ったが、逃げないで寄ってくるようにあそぶので、じっとしていよう。」と書き換えてみるとわかる。「事実」に詩があるのではなく、ことばの運動に詩があるのだ。だから、「大発見」をして、それを書けば詩になるのではなく、どんなことであっても「書き方」で詩になったり、詩にならなかったりする。
 「発見」しなければならないのは、「事実」ではなく「事実の書き方」である。

 

 

 


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木谷明「三苫海岸」ほか

2023-02-25 21:08:52 | 現代詩講座

木谷明「三苫海岸」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年02月20日)

三苫海岸 2023 2.8   木谷明

お宮の坂のてっぺんに
海があり

浜は引き潮
フグ 小さな フグ

何故 海と行かなかったのか
何匹も何匹も
白く砂に包まれたフグのこを撫でた

引く潮に
向かいながら逃げながら
飛ぶこともなく泳ぐこともなく
鳥は遊び続けている

ずっと遊んでいるというのに

 私がまず注目したのが「何故 海と行かなかったのか」の「と」である。「へ」ではない。「と」をつかって前後を言い直すと「満ち潮といっしょに浜へきた」「何故引き潮といっしょに沖(海)へ帰らないか」になるだろう。「と」のなかには、満ち潮、引き潮という潮の動き(海の動き)が隠されている。隠されている何かが、いつでも私を刺戟する。何かがあると気づかさせてくれる。もちろん、その隠れている何かがわからないときもあるが、それが、楽しい。
 「飛ぶこともなく泳ぐこともなく」という行を巡っては、「鳥は飛ぶこともなく、フグは泳ぐこともなく」と読む受講生もいたが、私は「鳥は飛ぶこともなく泳ぐこともなく」と読んだ。海鳥だから、飛ぶこともできるし泳ぐ(水に浮かぶ)こともできるが、そうしない。この瞬間、私には鳥の「足」が見える。ことばとして書かれていないが、足が見える。そして、足が見えた瞬間、それは作者の足に重なる。作者もまた引き潮の浜辺にいて、引き潮でできた濡れた砂の上を歩いている。だからこそ、フグも見えるのである。
 そして、この「足」は一連目とも関係する。
 高いところから見ると、海はお宮はもちろん街の上に見える。その高いところから、作者は浜辺まで降りてきた。そして、フグを見た。鳥を見た。浜辺まで降りてきた作者にどんな目的があったのかわからない。それは「無為の時間=遊び」と呼べるものかもしれない。
 そう思うと「遊ぶ」ということばのなかにも、作者の「いま」が重なって見える。
 詩に限らないが、文学はたいてい、人がいて、ストーリーがあって、それをことばで描写する。そのとき大事なのは何か。何を見て(発見して)、読者は感動するのか。わかりにくいかもしれないが、「人」である。そこに、確かに「人」がいると感じた時、その作品はおもしろい。
 この詩では作者が、それでいったい何をしたのか、何を考えたのか、ということは「要約」はできない。でも、坂の上(高いところ)から海辺まで行き、歩いたことがわかる。この「無為」(無意味)ともいえる行為をどう評価するかは、「文学」の問題ではない。「文学」の問題は、そのこと(事実)が、ことばとして実現されているかどうかである。

だけど  池田清子

玄関のドアを開けて入ってきた人が
「あたたかい!」と言う
外断熱だからね

隣に子供が遊びに来ていても気がつかない
高気密だからね

換気換気というけれど
各部屋二十四時間換気システム稼働中

ありがたいね

だけどねえ

 この詩では、便利(?)になった暮らしを「ありがたい」と思い、同時に「だけどねえ」とも感じている。この「抵抗」なのかに、作者がいる。
 そういうこととは別に、この詩には、その暮らしを「外断熱」とか「高気密」ということばで表現する作者がいる。「外断熱」「高気密」というような、「要約言語」が詩のなかで書かれることは、あまりないと思う。少なくとも、私はそういうことばを日常の暮らしを描写する時にはつかわない(そのことばと自分の気持ちを重ねて書くことはない)ので、そうしたことばづかいをおもしろいと思う。
 この「要約言語」は「各部屋二十四時間換気システム稼働中」と言う形で展開するのだが、そこでやめるのではなく、もっと過激に「要約言語」で日常生活を描写し続けると、その「文体(ことばの運動)」が新しい世界をつくりだすかもしれない。
 「ありがたいね/だけどね」という展開のなかに、池田という人間がいるのだけれど(それはそれでよくわかるけれど)、その人間をことばの力を借りて別の人間に変えてしまうところまで行くと、詩はおもしろくなる。
 書いているうちに、書き始めた時とは違った人間になる(生まれ変わる)というのも、おもしろい。詩は(文学は)、生まれ変わるためにある。
 それでは池田の考えていることと違うという意見もあると思う。しかし、だからこそ、なのである。現実ではできないことを、ことばで、やってみる。ことばを追いかけて、ことばの力を借りて、自分が自分でなくなる、という経験をしてみるチャンスなのだ。ことばの力を借りて、新しい自分を作り上げてみる。その新しい自分が気に食わなければ、次の死出また作り替えればいい。
 木谷の詩にもどって強引に言ってしまえば、三苫海岸で鳥になってみる(鳥と自分を重ねてみる)ということが、これから先の人生にどんな影響を与えるか。きっと、「無意味」にひとしい影響しか与えない。でも、その「無意味=無為」を体験するということが、実は、意味におわれて生きている日常からの「生まれ変わり」でもあるのだ。

わだつみ 鯨  青柳俊哉

水仙 浜木綿 アマリリス 
群生する花弁の噴水のむこう
天辺へ回遊する鯨の群れ

遠い雪原のリングワンデルング 
初めも終わりもない
白い円の謎めくもとの細部へ

クスノキのかげに憩う牡鹿 
湧水にいのちを繋ぐ
泉は像をうつさず渦巻く

めぐる大きな時間の海へ 
天にひらく
曼殊沙華

※ リングワンデルング:環状彷徨。濃霧や吹雪で方向を見失い、            同心円を描くように同じ場所をさまよい歩くこと。

 この詩から、どんな「人」を思い浮かべ、その人とどう向き合うか。「いのちの大きな巡りを感じる」という感想が受講生のあいだから聞かれた。いのちの大きな巡りを感じている(考えている)詩人を思い浮かべた、ということになる。
 そこから、私は、もう一歩、踏み込みたい。「いのちの大きな巡り」という「答え」を、答えが出てくる前の形に「因数分解」してみたい。「いのちの大きな巡り」を感じさせる(その印象を支える)ことばは、ないだろうか。
 「回遊する」「円」「渦巻く」「めぐる」と、円運動を連想させることばが書く連に書かれている、という指摘があった。
 青柳は、循環運動(円運動)を「論理」として基本に据え、その運動のなかに様々なイメージを引き込んで詩を展開していることなる。ここに青柳の「文体」の特徴がある。
 描かれている名詞(イメージ)ではなく、隠れている「動詞」を探し出して世界をとらえなおすと、その人がどんな動きをしているかが見えてくる。
 どんな作品にも「人」はあらわれる。「文体」が「人」そのものであるときもある。

冬日和  杉惠美子

昨日の音は消えた
あなたの足音も消えた

しんしんと冷えた空気と
小さな蕾が
動かずにいたことを
忘れずにいた朝

時を超えて
与えられる光に

つつまれて
つつまれて

冬日和

 「かっこいい」「ことばの響きがつながっている」。受講生のこの評価は、杉が「文体」を持っているという評価である。「消えていた」「消えていた」という畳みかけるリズムが、ことばを動かしていく。
 私が「かっこいい」と感じたのは「忘れずにいた」である。「覚えていた」ではなく「忘れずにいた」。ニュアンスはもちろん違うが、「忘れずにいた」が効果的なのは、その直前の「動かずにいた」と音が重なるからだ。音が重なることで、意味に深みが出る。意味が強くなったように感じる。音の重なりによる強調。それが、「隠れているこころ」を豊かにみせる。
 それは「隠れていた時間」かもしれない。「動かずにいた時間」「忘れずにいた時間」、その「時を超えて」と動いていく。
 杉には「ことばを整える」力がある。ことばを整えて、その整えることでできた世界を動いていく人間が見える。短い詩だが、時空間の広い詩である。

人権 婦人参政権実現75周年によせて  徳永孝

ずっと歩いてきた
一歩 一歩 前へ 前へ

くじけそうな時も有ったけれどなんとかがんばった
もうダメかと絶望しかけた時には
仲間が助けてくれた

時には疲れきって
休むこともした
それも必要な時間

理解しているという男も 助けてくれる男もいたが
つきつめてみると日常生活における
強者のおごりが見えてくるのだ

しかし苦労だけではない
何かを成しとげた達成感
新しい命を生み育てる喜び

友とすごす楽しみ
老人や幼い者達と遊ぶ
おだやかな日々

でも道は半ば
まだこんなものじゃない
可能性はさらに大きく広がっている

先人達はついに小さな翼を手に入れた
引き継ぐ我らは
より大きく力強い翼を持つ

地を踏みしめ歩んでいく者
空高く羽ばたく者
共に手をたずさえ進んで行こう

 この詩には「要約」はあるが、「個人」が見えない。人が「要約」されてしまっている。「でも道は半ば」という「要約」は、あまりにも乱暴であると私は感じる。100%が到達点だとして、いまその道程の何%まで来ていると徳永が感じているか、はっきりわからない。49%と50%は違う。そしてその1%の違いのために、どんな努力があったのか、どんな障害があったのか。私が読みたいのは、そういう「個別」の事件である。「個別」をどうことばにするか。言いにくいことがあるかもしれない。しかし、その言いにくいことのなかに、人間のいちのそのものが動いている。

 

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谷川俊太郎「父の死」ほか

2023-02-07 14:09:49 | 現代詩講座

谷川俊太郎「父の死」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年02月06日)

 谷川俊太郎「父の死」(『世間知ラズ』、思潮社、1993年05月05日発行)を受講生と一緒に読んだのだが、読みながら、私はびっくりしてしまった。受講生と私の詩の読み方があまりにも違っている。もしかしたら、受講生だけではなく、ほかの読者とも違っているのかもしれない。だから、書いておこう。
 「父の詩」は四部から構成されている。全部について感想を語り合うには時間が足りないと思い、一連目についてだけ質問した。
 「いろいろな死、葬儀を体験してきていると思うけれど、一連目で、自分が体験したことと違うところがありますか? 自分の経験と比べておもしろいところはありますか?」
 一部の最後の二行、葬儀屋が食葬について語り、谷川が父はやせていたのでスープにするしかないと思ったというところがおもしろい、という反応は返ってくるが、自分の体験と違うところについては、答えが返って来ない。
 「私はどんな人の話でも、自分なりに置き換えて理解するので、違うところというのは気づかない」
 ええっ?
 他の人も、とても悩んでいるので、私は、
 「天皇皇后から祭粢料が来た、というのは、私は体験していない。両親とも死んだが、そういうものをもらうような人間ではなかったので、これは経験していない。みんなは、どう?」
 だれも、そういうことは経験していない。
 「そういうことって、ほかに書いてない?」
 そう水を向けても、考え込んでいる。私は「父の死」にはほとんどの人が体験していないことが書いてあると思っているし、「自分が体験していないこと」は次々に口をついて出てくると予想していたので(そして、そこから詩について語ることを考えていたので)、ほんとうにびっくりした。
 それで、一行ずつ、聞いてみることにした。
 「私の父は九十四歳四ヶ月で死んだ。」この一行目は、「九十四歳四ヶ月」を父が死んだ年齢に入れ換えれば、そのままつかえる。つまり、経験している。(私は、何歳で死んだか、はっきり覚えていないし、何ヶ月となると見当もつかない。誕生日を知らないし、さらに死んだ日もはっきり覚えていない。年末だった、クリスマスよりは前だった、しかわからない。)
 しかし、四行目の「明け方付添いの人に呼ばれて行ってみると」になると、もう私の体験していない世界。私の家には「付添いの人」はいない。「顔は冷たかったが手足はまだ暖かかった」は、私は聞いたことはあるが、臨終に立ち会ったことはないので、実は、よくわからない。知らないことである。
 「自宅で死ぬのは変死扱いになるというので救急車を呼んだ。」も、そうなんだ、と驚いた。しかし、受講生は、みんな知っていて、驚かない。「監察病院から三人来た」にも驚かない。私は「監察病院」ということばにすら驚く。えっ、そんなものがあるのだ。私はいま福岡市に住んでいるが、それって、どこにある? それもわからない。
 で。
 知っていることと、体験したことは違うから、「頭」で知っていても驚いていいと思うのだが、驚かない。受講生は、知っているを「体験した」と考えているのかもしれない。ひとりひとりに聞いたわけではないが。
 私がこの詩で好きな部分はいろいろあるが(ほとんど全行だが)、諏訪から来た男が泣き叫んでいるところ、帰りの電車を心配するところがとてもいい。私は、そういう場面に出会ったことがない、と私が語ると……。
 「でも通夜には(葬儀には)、知らない人が来るのは自然。特別に変わったことではない」
 あ、そうなのか、そういうふうに「一般化」して読むのか。私も葬儀には知らない人が来ることは知っている。私は高校を卒業した後親元を離れたから、故郷の人との交流はほとんどない。だから、葬儀のときも知っている人の方が少なく(名前はもちろんわからないし、どういう親戚なのかもわからない)、困ってしまった。だから、谷川が書いているような男を見たことがない。葬儀や通夜で、そういう具合に人間が「取り乱す」のも見たことがない。だから、谷川の書いていることは非常に印象に残る。
 「通夜、葬儀には知らない人が来る」と「要約」した受講生は、たぶん、他の部分も「要約」して読んでいる。
 天皇の祭粢料の部分でも、「袋に金参万円というゴム印が押してあった」という部分など、びっくりし、同時に笑ってしまう。「参万円」という表記は、単に金額を示しているだけではなく、そのまま「ゴム印」につながっている。天皇なのだから、いちいち自筆ということはないだろうが、それにしたって、ね。あまりに事務的な処理に、私は無礼だな、非礼だなと思う。相手が天皇だけれど。
 ひとつひとつ(一行ずつ)問いかけると、「体験していない」と答えるけれど、問いかけないと、どうも「要約」して読んでいるようなのである。第二部に「詩も死も生を要約しがちだが」ということばがあるが、「要約」してしまっては、詩にはならないのに。「要約」できないもの、そのことばでしかないものが詩なのに。
 だから。
 ずーっと、父が死んでからの「どたばた」が書いてあるなかで、勲章を見てレモンの輪切りを思い出し、「父はよくレモンの輪切りでかさかさになった脚をこすっていた」という、ふいの「父親の姿」が強烈である。ここに「ほんとう」がある。ある瞬間、父を思い出す。それは、意図に反して、つまり思い出そうとして思い出すのではなく、思い出してしまう。そこに、父子のつながりというか、「細部」が見えてくる。いいなあ、谷川は、ほんとうに父親が好きだったんだなあ、と思う。そんな姿、他人に自慢できる姿でもないし、見ていて楽しいわけでもないでしょ? そんなくだらない(?)父の姿よりも、父を思い出すなら、父親がどんな人間だったかを語るなら、もっとほかの姿があってもよさそうだ。だからこそ、思うのだ。そういうどうでもいい具体的な肉体の動きを思い出すというのは、愛しているからこそである。いつも父を見ていたからこそ、書けるのだ。「要約」ではない「事実」がそこにある。(これは、最後の第四部の「手拭い」でも、思う。記憶が「肉体」となって動き、重なる。そこに、愛があると私は信じる。)
 だから。

葬儀屋さんがあらゆる葬式のうちで最高なのは食葬ですと言った。
父はやせていたからスープにするしかないと思った。

 は、印象的だけれど、私には「作為的」にも見える。葬儀屋が喪主に向かってそういうことを言うのは、かなり度胸がいると思う。そういう話をするとしたら、よほど親しい葬儀屋だろうと思う。私は、この二行は、死がしんみりしてしまうのを救うために書いた二行だと思っている。谷川のサービス精神だと思っている。

 詩は、要約してはいけない。詩を要約して、感想をまとめてはいけない。むしろ、まとまってしまう感想、要約された「結論」を壊していくのが詩だと私と思う。
 (脱線して書くと、だからこそ、詩を語るのに、流行のだれそれの「思想」を適用し、その「思想」に合致するからこの詩はすばらしいというような批評が私は嫌いだ。)

 そのあと、新美南吉の「貝殻」を読んだ。

かなしきときは
貝殻鳴らそ。
二つ合わせて息吹きをこめて。
静かに鳴らそ、
貝殻を。

誰もその音を
きかずとも、
風にかなしく消ゆるとも、
せめてじぶんを
あたためん。

静かに鳴らそ
貝殻を。

 「せめてじぶんを/あたためん。」というような言い方は、現代詩ではしないなあ、とう声があった。そう思う。
 この詩では、どこが印象的か。「二つ合わせて息吹きをこめて。」に意見があつまった。谷川の詩を語るときに、私が「肉体の動き」を強調したことも影響しているかもしれない。しかし、私もやはりこの行が好きだ。
 「貝殻を鳴らす」といっても、方法はいろいろある。カスタネットのように二枚を打ち鳴らす方法もあるし、山伏のように巻き貝に息を吹き込む方法もある。しかし、新美は「二つ合わせて息吹きをこめて。」と書く。これは、私は、想像しなかった。そして、想像しなかったからこそ、この行を読んだ瞬間、新美の動きが見えた。そして、その姿を想像したとき、私の肉体が無意識に貝を二枚合わせて、その隙間に息を吹き込んだ。それは山伏のように強い息ではない。そっと吹き込む息である。つまり、だれかに聞こえなくてもいい、自分だけが聞こえればいい音を聞くための息である。
 それが自然に二連目につながっていく。だれも聞かなくてもいい。その音が、ちいさな風に消えてもいい。自分だけ、という孤独の温かさがそこにある。孤独を抱きしめる温かさがある。

 受講生の作品。

百舌鳥(もず)のかげ  青柳俊哉

ゆうぐれの大空へ
百舌鳥が鳴いている
ながく哀切な声で

もう一つのかげへ
透視する
ように

重なりたいと 
水に印をつける
ように

自分が波立つ
空の
かげへ

 受講生の一人が、一連目の世界とあとの三連が重なると語った。その通りだと思う。
 このことに関連して……。
 どの詩にも、どうしても書きたい行がある。青柳は、「もう一つのかげへ」がそれだと言った。
 一連目で書こうとして書けなかった「もう一つのかげ」。それはどんな存在なのか。どこにあるのか。どうやれば見えるのか。「水に印をつける」という一行がおもしろい。水に印をつけても、その印はだれにも見えない。消える。しかし、印をつけた人には、その「印をつける」という動きが残る。そのために、「自分が波立つ」。
 それは新美が貝殻を合わせて吹いた息の音のようなものだろう。風の音に消える。だれにも聞こえない。しかし、息を吹いた新美の肉体には、その記憶が残る。その音が聞こえる。
 谷川の父、谷川徹三の肉体は残っていない。しかし、レモンの輪切りで脚をこするという動きは残っている。谷川の記憶に、肉体として残っている。谷川の語ったことばが、肉体となって私の肉体にも残っている。私は谷川徹三を見たこともないし、私自身がレモンの輪切りで脚をこすったことがないにもかかわらず。さらに、谷川がレモンの輪切りで脚をこする父を見ている姿を見ていないにもかかわらず、私はふたりの肉体を見てしまう。この不思議な現象を引き起こすものが詩である。

 かつて私は、もし無人島に一篇だけ詩を持っていくとしたら、この谷川の「父の詩」を持っていくと言ったことがある。なぜか。ここには愛が書かれている。谷川は父をほんとうに愛していた。その愛が伝わってくる。私はだれかを、こんなふうに愛したことがあったか。愛されたことがあったか。たとえば、「レモンの輪切りで脚をこすっていた」と誰かを思い出すか、「レモンの輪切りで脚をこすっていた」と思い出してもらえるか。誰もが語る何かではなく、「それがいったい何の意味がある?」ということを通して、何かを語ることができるか。愛とは、意味(要約)を拒絶したもの、超越したものなのである。この詩は、事実を積み重ねるという「散文精神」で書かれているが、それは散文を超えて、突然、詩になり、ただ、そこに存在している。

 

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