goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フィリップ・カウフマン監督「ライトスタッフ」(2)

2010-03-29 12:00:00 | 午前十時の映画祭

監督 フィリップ・カウフマン 出演 サム・シェパード、エド・ハリス、スコット・グレン、デニス・クエイド

 この映画は何度見ても絶対に飽きることがない。何度見ても、毎回見たい。毎日みたい。--ということは、毎日、この映画について語りたい、ということでもある。
 きのうの感想のつづき。
 なぜ、おもしろいか。
 その人には、その人にしか見えないものがある。それをこの映画はきちんと撮っている。映像にしている。サム・シェパードが初めて音速の「壁」を破る瞬間、大空にすむ悪魔に打ち勝つ瞬間、そのときの青から群青にかわる色の変化。これはサム・シェパードにしか見えない。見ることができない。その寸前の、計器のはげしい揺れや操縦桿の振動も。そういう華々しい(?)風景だけではなく、他の風景もそれぞれに、その人にしか見えないのである。
 デニス・クエイドたちが庭でバーベキューをしている。その向こうでサム・シェパードがこどもキャッチボールをしている。キャッチボールをしているサム・シェパードを見ていて、バーベキューを焦がしてしまうデニス・クエイド。それを妻が見ている。その風景も、ありきたりのようであって、実はデニス・クエイドの妻にしか見えない風景なのだ。そこには、そのときしかありえないデニス・クエイドの妻のこころがあふれている。男たちが動いている。それは男たちの風景ではなく、それを見つめる妻の風景なのである。
 そうした日常意外にも、その人にしか見ることのできない風景がある。
 繰り返し繰り返し失敗しつづけるロケット。それは「記録」であるけれど、ものの「記録」ではないのだ。それをつくり、飛べ、と祈っている科学者たちの、宇宙飛行士たちの「視線」の記録なのである。
 宇宙飛行士になるための訓練。それに先立つさまざまな肉体チェック。精子の活動状況を調べるための精液の採取。そのときのトイレ。壁越しに聞こえてくる仲間の声。そんな卑近なというか、なまなましい何かも、そうである。
 あるいは宇宙から帰還し、カプセルから脱出する。ハッチが爆発し、カプセルが沈んでいく。それを見つめる宇宙飛行士。そのときの波とカプセル。ヘリコプター。それも、その人にしか見ることのできない風景である。その、失敗(?)した宇宙飛行士の無念をそっと思いやるサム・シェパード。遠くから、テレビで、そして、ひとり部屋を抜け出して見る夜の空気--それも、彼にしか見ることのできない風景である。
 宇宙から凱旋し、ニューヨークをパレードする。記者にかこまれる。成功しても、失敗しても、押し寄せてくるマスコミ。彼らの動きさえ、宇宙飛行士でなければ見ることのできない風景である。
 どの風景も、その人にしか見ることができない。その、その人にしか見ることのできない風景を見るために、私たちは、いま、ここに、存在している。そういうことを、この映画は、剛直な、叩いても叩いてもけっしてこわれることのない剛直な映像で、まっすぐに伝えてくる。
 ラストの、サム・シェパードの失敗も、この映画には、まことにふさわしい風景である。人は誰もがその人にしか見ることのできない風景を見るために生きている。そして、見たものを誰かに伝えるために生きている。それは人間の可能性を切り開く新しい世界だけのことではない。その人にしか見ることのできない風景というのは前人未到の偉業の風景だけではない。なにごとかをなし遂げようとして、失敗する。そのときに見える風景がある。だれも飛んだことのない上空から落下する。機体のコントロールを失う。そうやって、見る風景。大地が近づく。脱出しようと、決意しながら見る風景。パラシュートが開かない。なんとかしなければ。そう思いながら見る風景。そして、かろうじて大地に帰ってきて、その無事を知って駆けつけてくる仲間の姿を見る--そのときの「風景」。
 あ、これこそ、絶対に、その人しか見ることのできない風景である。語らなければならない風景である。人は失敗する。それでも生きている。生きて、語る。そこからすべてがはじまる。
 一食抜いても見るべき映画である。


 

存在の耐えられない軽さ [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フィリップ・カウフマン監督「ライトスタッフ」(★★★★★)

2010-03-28 10:00:00 | 午前十時の映画祭
監督 フィリップ・カウフマン 出演 サム・シェパード、エド・ハリス、スコット・グレン、デニス・クエイド

 「午前十時の映画祭」8本目。
 何度でも見たい映画、毎日でも見たい映画である。
 映画の興奮は、いままで見たこともないものを見ることである。この映画には、いままで見たこともないものしか存在しない。あらゆる映像が、見たこともないものである。映画の登場人物自身が、いままで見たこともないものを見る、いままで体験しなかったことを体験する--その記録でできているからである。
 冒頭の雲と空。それは、ありふれた雲と空である。飛行機が飛ぶとき、その操縦席から見える空と雲。それは見慣れているはずである。映画で何度も見たはずである。けれども、違うのだ。この映画ではまったく違って見えるのだ。
 その操縦席に座っている男は、人類未踏のスピードに挑戦している。そのとき男が見る雲、そして雲の背景(?)としての青空は、だれも見たこともない雲と空なのだ。その、だれも見たこともないものを見るのだという興奮が冒頭から伝わってくる。
 いいなあ、この興奮。
 この興奮を、この映画は「抽象」として描いてはいない。「具体」として描いている。それが、すごい。
 サム・シェパードが始めて「音速」の壁を破る。はげしい振動を超えて、彼が操縦する飛行機が音速に突入する。そのとき、青空が、その青が、深く、巨大な固まりになる。音速の壁を超えたのに、その群青は、まるで壁である。あ、そうなのだ。サム・シェパードが人類で始めて音速を超えたとき、それは他のパイロットにとっての壁になるのだ。その深い青空、「悪魔」が住んでいる群青は、サム・シェパードを超えたいと思うすべてのパイロットの「壁」になる。分厚く、強靱な「壁」になる。
 夢中になってしまうなあ。私はパイロットではないし、なんというか、だれもできないことをするのが男の証だというようなマッチョ思想とは無縁な人間だと思っているのだが、血が騒いでしまう。青い空が群青に変わる瞬間のスピード。だれも経験がしたことのない世界へ踏み入れる瞬間の、それこそ「悪魔」の手引きがあって始めて可能のようななにかに魅せられる気持ちが、あらゆる論理を超えて私をつつんでしまう。「右翼」だとか、くだらないマチシズムだとかと批判されてもかまわない。あの、青が、群青にかわる瞬間を、その瞬間の「やったあ」と叫ぶ快感に身を任せられるなら、なんと言われてもかまわない、と思ってしまう。 
 それが、見たい。それを体感したい。その興奮。その感激。

 書きはじめるときりがないけれど、ああ、すごいなあ。全編を貫く剛直な映像。ゆるぎのない存在の確かさ。だれも経験したことのないものを次々にぶち破って手にいれる男の、その確信と、それに拮抗する存在の確かさ。
 ロケットの、次々に打ち上げに失敗するロケットの、その失敗の、失敗の、失敗の、永遠の失敗の、その無駄の、永遠の無駄の--終わることのない無駄の剛直さ。無意味の剛直さ。
 いまは、しないねえ。こんなことはしないねえ。経済の役に立たないからね。人間の「福祉」の役に立たないからねえ。
 でも、人間というのは役に立たないことをしたいものなのだ。無意味なことをしたいものなのだ。そして、どんな無意味なことにも、必ず、それを疎外する「壁」がある。剛直な壁がある。どうしようもない壁がある。そして同時に、その壁を壊したいという剛直な欲望がある。
 同じことばの繰り返しでしかいえないけれど、この不可能な無意味性、それを知っていてなおかつそれをしてしまう人間。その緊迫感。これは、ほんとうに、いい。この全体的な剛直性は、私には「いい」としかいいようがない。

 そして。

 そして、とつづけていいのかどうかわからないけれど。この映画は、単に剛直であるだけではない。欲望の剛直な輝きを描くだけではない。サム・シェパードは大学卒ではないというだけの理由で、あらゆる空を飛ぶ男たちの夢である「宇宙飛行士」の選考にも加わることができない。
 けれど、サム・シェパードは知っている。空を飛ぶのはロケットだけではない。さまざまな飛行機がある。そして、そのひとつひとつの飛行機は、その性能の極限を切り開くテストパイロットを必要としている。どんな状況においても、極限を切り開く人間がいる。極限を切り開く瞬間、そこにはだれも見たことのない世界が広がる。極限の突破は、あるものは華々しく語られる。そして、その華々しい極限の突破の背後には、それにつながる無数の極限の突破がある。--だれも知らない極限の突破、とことばにしてしまいそうだが、そうではなく、それはその極限を突破した男によって確実に認識され、蓄積される。その「確実さ」。
 それは、最先端の「剛直さ」を支える「やわらかさ」のようなものである。剛直だけでは、存在はささいなことで破壊されてしまう。あらゆる破壊を、しっかりと受け止めて守る「やわらかさ」。--人間性。私のことばは、先回りして、人間性と言ってしまうのだが、そういうものがある。

 この映画の魅力は、きっと永遠に語り尽くすことができない。この映画は、終わりのない映画だからである。
 「ゴッドファーザー」にも「カサブランカ」にも「終わり」がある。けれども「ライトスタッフ」には終わりはない。極限を突き破るための「正しい資質」。それは「結論」ではなく、出発点である。
 「宇宙競争」は、いまは、中断している。ように、見える。でも、人間は夢を見る。極限を超えたいと欲望する。そして、その極限を超えるための「正しい資質」は、いつでも、どこにでも、その運動の場を押し広げていく。そのときの、まったく新しい風景、新しい色、新しい形--ああ、その原型と到達点がこの映画にある。

 これは何度見ても全体に見飽きるということのない映画でしかない映画である。

ライトスタッフ [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミロシュ・フォアマン監督「アマデウス」(★★★★)

2010-03-20 17:43:11 | 午前十時の映画祭
監督 ミロシュ・フォアマン 原作・脚本 ピーター・シェーファー 出演 F・マーリー・エイブラハム、トム・ハルス

 「午前十時の映画祭」7本目。
 この映画の基本的なおもしろさは、原作と脚本にある。凡人と天才を向き合わせ、凡人の苦悩を浮かび上がらせる。しかもその凡人は並の凡人ではなく、天才が理解できるという凡人なのだ。
 サリエリ。
 私はこの映画ではじめてサリエリという作曲家を知った。同時に、天才を理解できることの苦悩というものの存在をもはじめて知った。このテーマは、なかなか観客のこころをくすぐる。(私のこころをくすぐるといいかえるべきか。)自分は天才ではない、けれども天才を理解する能力はあるかもしれない。そんなふうに考えると、ちょっと楽しい。そして、その天才を理解する能力というのは、とても苦悩に満ちたものなのだ、となると、ちょっとかっこいいではないか。そんなかっこいい人生(サリエリの人生がほんとうにかっこいいかどうかは別問題)を生きてみたい--そういう気持ちにさせられる。
 凡人の苦悩、凡人としてのヒーロー。しかも凡人らしく、敗北するヒーロー。
 でもねえ、これは、なんというか、とっても奇妙なセンチメンタリズムでもあるんですね。だって、モーツァルトをほんとうに評価したのはサリエリではなく、もっともっと凡人のふつうの人々。作曲なんかできないし、作曲しようとも考えたことのない人々。ただ音楽が好き。おもしろいものが好き。そういう「庶民」。そういう人たちがいて、なおかつ、モーツァルトに喝采をおくった。その結果、モーツァルトの曲が今日まで残っている。
 ほんとうはサリエリなんて、いてもいなくても、どうでもいいのです。その、いてもいなくてもいいひと、天才を理解し苦悩するなんて、どうでもいい才能を、悲劇に仕立てていく脚本、そのストーリーの展開の仕方が、まあ、すばらしいといえばすばらしい。
 でも、映画には、ちょっと不向き。
 これはやっぱり舞台、芝居小屋の作品だね。役者が目の前で動く。その動きの細部ははっきりとは見えないけれど、ことばと動きがいっしょに動くことで、観客を役者の「肉体」の内部へ引き入れることで成立する舞台、芝居にむいている。「こころ」はことばと肉体の組み合わさった内部にある--ということをリアルに感じられる舞台にむいている作品である。
 映画のアクション(肉体の動き)というのは、こころを内部にとどめない。アップによって、こころを肉体の細部にまでひっぱりだし、さらに肉体の外へ(カメラのレンズへ)解放する。カメラのレンズをとおって、拡大する。スクリーンに広がるのは、拡大された肉体であり、拡大されたこころなのだ。
 この映画が描いてる天才を理解できる苦悩、嫉妬の苦悩というのは、うーん、拡大されて、肉体の外へひきだされてしまうと、ちょっと寒々しい。やはり、そこにいる役者の肉体の内部にとどまり、肉体まるごとのままがいい。変な言い方になるかもしれないが、あ、サリエリがモーツァルトの才能をただひとり完璧に理解しているように、私(観客)も、ただ私だけがサリエリがモーツァルトの天才を理解し苦悩しているということを理解しているのだ--と思った方が、もっとおもしろくなるのだ。だれもかれもがサリエリの苦悩を理解できるのではなく、ただ私だけが、サリエリの苦悩を知っている--そう感じるとき、興奮はいっそう高まる。
 たぶん、その興奮は、原作・脚本のピーター・シェーファーが一番強く感じた興奮だと思う。その興奮は、「文学」の興奮であり、それは映画とはちょっとなじまない。私は、それはやはり舞台・芝居の方がリアルに感じられると思う。密室で、そのときかぎりのもの。コピーして、いつでも、どこでも見ることが可能なものではなく、その日、その時、その場へ観客が足を運び、その日、その時、その場で動く役者を見て、その日、その時、その場にだけとどめておくべきものなのだ。役者の肉体の記憶と観客の肉体の記憶が重なるときにのみ、ふっとあらわれ、ふっと消えていく--そういうものの方が、いいと、私は思う。

 ★4個の理由は、舞台で、芝居で、この作品を見たい--という私の欲望が強くて働いて、結果的に1個減点という感じになった。公開当初の印象では★5個の傑作だった。スクリーンで見るのが2度目なので、印象が少し違ってしまった、ということ。



アマデウス ディレクターズカット [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キャロル・リード監督「第三の男」(★★★★★)

2010-03-15 16:36:04 | 午前十時の映画祭

監督 キャロル・リード 出演 ジョゼフ・コットン、オーソン・ウェルズ

 何度見ても好きなシーンというものがある。「第三の男」の、オーソン・ウェルズが初めて顔を見せるシーンもその一つ。柱の陰に隠れている。2階から窓の明かりが照らし出す。その瞬間の困ったような、にたっと笑う顔。悲しげで、ふてぶてしい。この、オーソン・ウェルズの顔から、この映画は突然生々しくなる。オーソン・ウェルズならではの存在感だね。
 その美しい恐怖、悪夢のような輝きと、夜のウィーンの陰影の美しさがとても似合っている。石畳の作りだす光と影の諧調のなかに足音が音楽として響く。いいなあ。
 このシーンに限らず、この映画はモノクロ特有の光と影をたくみに使っている。後半の下水道のシーン。カラーだと下水道の汚さが厳しく迫ってくるだろうけれど、モノクロだと汚くない。光の反射は、汚いどころかきれいである。水のつややかさ。追跡の光。逃走する影、追いかける影。肉体の生々しさではなく、シルエットの拡大された動きの素早さ。まるで夢を見ているようだ。
 こんな光と影の交錯は現実にはあり得ないのだろうけれど、その非現実性が、映画っぽくていい。モノクロ特有のウソが快感である。
 冒頭の、ジョゼフ・コットンが「ハリー」の家へたずねて行くシーンの、壁の影もほんとうはあり得ない。階段の壁に、ジョゼフ・コットンのコートを着た影が何倍もの大きさで投影される。これがカラーだと、絶対に変に見える。モノクロだと、光と影の記憶だけが引き出され、影がどんなに大きくても異様に見えない。(この拡大された影が、後半のサスペンスへ自然につながっていく。)
 傑作だなあ、とつくづく思う。
 この映画では、光と影の楽しさのほかに、もう一つ不思議な工夫がされている。カメラが水平に構えていない。柱、扉、天井などが、水平、垂直にならないシーンが次々に出てくる。現実が微妙に歪んでいる。その歪みの中で、歪んだ人間(?)というか、犯罪と、正義が交錯する。正義の追及に突っ走るのではなく、犯罪に身をすりよせる部分、まあ、恋愛なのだけれど、というものが、粘着力のある感じでまじるのだが、その不思議な歪みが、水平、垂直ではない室内の感じとからみあってとてもおもしろい。

 映像の面白さとは別に。昔は気がつかなかったこと。
 ジョゼフ・コットンが文化講演会(?)に呼ばれる。作家なので、小説について質問を受ける。「意識の流れ」についてどう思うか。あ、ジョイスだ。と、思う間もなく、「ジョイスをどのように位置づけるか」。ジョゼフ・コットンは作家といっても大衆作家なので、なんのことか分からない。うーん。この映画が作られた1949年当時、どれくらいこの話題について行ける観客がいたんだろう。日本ではどうだったのだろう。よくわからないが、イギリス文学にとっては大変な衝撃だったことがわかる。社会的出来事だったから、映画にまで顔を出しているのだ。
 あ、ジョイスをもう一度読もう――と、私は丸谷才一の「若い芸術家の肖像」の新訳を買ってしまった。




第三の男 [DVD] FRT-005

ファーストトレーディング

このアイテムの詳細を見る
若い藝術家の肖像
ジェイムズ ジョイス
集英社

このアイテムの詳細を見る
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイケル・カーティズ監督「カサブランカ」(★★★)

2010-03-08 12:00:00 | 午前十時の映画祭
監督 マイケル・カーティズ 出演 ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン、ポール・ヘンリード、クロード・レインズ、コンラート・ファイト

 この映画がなぜこんなに人気なのか私は実のところよくわからない。「午前十時の映画祭」のラインアップに入っている。ふつうは1回の上映が12時からもあり、1日計回。多くのひとが映画館にくるのはいいことだけれど(うれしいことだけれど)、なんだか不思議。
 この映画は、映像というよりも、まるで「恋愛」の「定型」を見せられている気持ちになってしまう。(映像としては、ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマンという役者そのものの「映像」くらいしか見るものがない、と私は思う。)
 男がいて、女がいて、ほんとうは好きなのだけれど、その好きな相手を選ばない。違う相手、違う選択をする。そのときの、「やせ我慢」。恋愛は、その「やせ我慢」のなかで輝く。互いに「やせ我慢」していることを知っていて、その「やせ我慢」を貫く。まあ、「悲恋」といえば、悲恋になるんだろうなあ。
 この「やせ我慢」の対極に、「きみの瞳に乾杯」というような気障なせりふがある。甘い甘い感情がある。「やせ我慢」と、その対極の「めろめろ」の振幅の大きさが、恋愛をいきいきさせる。
 それに戦争という障害がはさまれば、なおのこと、感情は研ぎ澄まされ、きらきらと一瞬一瞬動き回る。
 これはまあ、「恋愛の教科書」なのかもしれない。女を口説くときはこんなふうにいう。こんなふうに「やせ我慢」をしなければ、絶世の美女のこころはつかめない。そうなんだろうなあ。
 でも。
 いまから見ると、やはり時代が違ってしまった、というしかない。恋愛はもっと複雑になっている。気障な「やせ我慢」は、夢の夢。リアリティーがなさすぎる。
 それがいいといえば、いいのかもしれない。映画は現実ではない。リアルではない。リアルでは実現できないことこそ、映画で実現すべきである。もし、そうであるなら、この映画がこんなに人気なのは、この「やせ我慢」の男の美学--その結晶としての恋愛の絶対的な美しさ、それをいま、ひとが求めているということなのかもしれない。



 最後にぽつり。
 ハンフリー・ボガートの憂鬱な視線、硬くて暗い声が、私は苦手だ。イングリッド・バーグマンは「ガス燈」の方が美人だなあ。クロード・レインズ、帽子を阿弥陀にかぶればフランス人なのかねえ。ポール・ヘンリード。着こなしがケイリー・グラントに似ていると思ったのは私だけ?


カサブランカ [DVD] FRT-017

ファーストトレーディング

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サム・ペキンパー監督「ワイルドバンチ」(★★★★)

2010-02-28 21:47:04 | 午前十時の映画祭

監督 サム・ペキンパー 出演 ウィリアム・ホールデン、アーネスト・ボーグナイン、ロバート・ライアン

 サム・ペキンパーの描写の特徴は、バイオレンスをスローモーションで描いたことだ。普通は見えないものを見えるようにする。普通見えないものが見えると、それが美しく見える。ペキンパーの暴力は美しい。
 それは、肉体の発見と言っていいかもしれない。
 暴力はその荒々しさのために多くのものを見えなくする。暴力は肉体に対して振るわれるが、その暴力を受けた肉体がどんな風に動くかということは意外と知られていない。「痛み」は誰もが知っているが、その痛みを感じる瞬間の肉体の動きを知っている人は少ない。
 スローモーションで明らかになった肉体の動き、それを見るとき、あ、人間は死んでゆくときも動くのだとわかる。その発見は、悲しい。その破壊は、だからこそ美しい。
 そしてそれが、肉体に疲れが出てきた男たちをとおして描かれるとき、そこにさびしさも漂う。あるいは、それは疲れ切った肉体の表現できる最後の美しさなのかもしれない。破壊され、破滅していくとき、あふれでる肉体のもっているものの蓄積。
 主役のウィリアム・ホールデンは左足に古傷をかかえているが、そういう傷をもった肉体もまた滅びるとき、破壊されるとき、古傷の存在を超越して、「いのち」として噴出してくる。
 同じ犯罪者の破滅でも、「明日に向かって撃て」「俺たちに明日はない」の若い肉体の死は、華麗で、かっこいい。「あたたかい」ではなく「さわやか」。逆に、もっと高齢の2人の犯罪を描いた「人生に乾杯!」では、それが年金受給者という高齢ゆえに、またかっこいい。そして潔い。
 「ワイルドバンチ」はその中間にあって、ともかく無様である。
 無様であること、敗北を承知で、それでも無様に肉体をさらして踏ん張ること。そういう生き方への郷愁に満ちた映画。その郷愁を引き出すための、スローモーション・バイオレンスだったんだなあ、と今思う。
 だから、その血の描き方にしろ、それは「迫真」のものではない。「血」はあくまで、つくりものであることがわかる。(当時の技術はそれまでだったのかもしれないが……。)血よりも、血を吹き出す「肉体」、まだ温みのある肉体の悲しさを感じさせるためのものだったのだと、今見えかえしてみて、そう感じる。

 肉体というものが、なつかしく、なつかしく、ただひたすらなつかしく感じられる映画である



 それにしても、映画の暴力描写、スピード感はずいぶん違ってしまったものだ。いまはもう、ペキンパーの描いたような暴力の郷愁は存在しない。
 映画のスローモーションのつかい方、肉体の表現の仕方は、ずいぶん変わってしまった。
 「マトリックス」でキアヌ・リーブスが弾丸を身を反らして避けるシーンがあるが、このスローモーションが「ワイルドバンチ」が違う点は、「マトリックス」のそれが可能性としての肉体である点だ。「マトリックス」のスローモーションは、あくまでスピードを見せるものである。ほんとうは速くて見えない。だから、ゆっくり再現しなおして、それを見えるようにする。ゆっくりであればあるほど、それは速さの証明なのだ。「ワイルドバンチ」は、速さを認識させるためにスローモーションをつかっていたわけではない。
 また、カットの切り替えにしても、ペキンパーは、いまから思えばカットが少ない。アップのつかい方が、ペキンパーの場合は、あるシーンをはっきり見せるためにつかう。けれど、いまは、そのシーンを見せるということよりも、そのシーンに視覚を集中させることで他の部分を強烈に印象づけたり、逆に省略するという方に力点が置かれているように思う。「ボーンアルティメイタム」のアップ、カットの切り替えは、映し出しているものを見せるというより、それを「見ている」視線の主体、ありかを強く感じさせ、画面を映し出されているカットより広い空間に広げていく。アップの瞬間こそ、「もの」が映し出されるのではなく、その「もの」が存在する空間の複雑性が浮かび上がるように作られている。
 逆の言い方をしよう。たとえば、ウィリアム・ホールデンとアーネスト・ボーグナインは銃弾を浴びて血まみれである。そのアップは、あくまで「肉体」のアップである。けれど、「ボーン・アルティメイタム」のさまざまなアップは、その「肉体」を見るというよりも、その「肉体」がある空間の複雑性を印象づける。あるときは見え、あるときは見えない駅の雑踏。その空間をくっきりと浮かび上がらせる。ウィリアム・ホールデンとアーネスト・ボーグナインの血まみれを見ても、戦いの現場の広さ、地形のあれこれは見えて来ない。
 映像のつかい方がまったく違ってきているのだ。


ディレクターズカット ワイルドバンチ スペシャル・エディション [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランシス・フォード・コッポラ監督「ゴッドファザー」(★★★★★)

2010-02-22 18:16:43 | 午前十時の映画祭
フランシス・フォード・コッポラ監督「ゴッドファザー」

監督 フランシス・フォード・コッポラ 出演 マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ジェームズ・カーン、ロバート・デュヴァル、ダイアン・キートン

 2010年02月22日、福岡の天神東宝で見た。席はEの10である。私は、この席が空いている限り、ここで見る――と、奇妙なところにこだわっているのは・・・。
 最初に「ゴッドファザー」を見たのは、小倉の東宝。いまは、廃業し、建物もない。駐車場になっている。その、なくなってしまった映画館で見た記憶では、この映画は「黒」の色が輝くほど美しかった。この映画で私は「黒」の美しさに気がついた。私にとっては画期的な映画だった。
 ところが。
 「黒」が美しくない。
冒頭の、書斎での会見(面会?)。ブラインドを下ろした室内。屋外で行われている結婚式の明るさとはうらはらな生臭い暗いやり取り。マーロン・ブランドたちが着ている服の黒い色。それが中途半端で、なんとも不思議だ。それにつづく結婚式でも、礼服の黒が安っぽい。それと比例する(?)ように、白にも華やかさがない。昔もこんな色だったのだろうか。私は、妙に気がそがれてしまった。
それでも。
やっぱり結婚式のシーンはいいなあ。活気がある。登場人物がばらばらに動いているのに統一感がある。喜びの生命力が満ち溢れている。無垢な感じがとてもいい。ジェームズ・カーンの能天気な明るさが、とてもいい。
それにしても。
やっぱり時間の経過というか、時代の動きは凄いもんだねえ。当時は「バイオレンス」に見えた描写が「バイオレンス」からほど遠い。どの殺戮も美しい。びっくりしてしまう。馬の生首は馬と血の色がとても似合っていて奇麗だ。酒場で、手をナイフで突き刺され、首を絞められるシーンなど、記憶の中では自分の首が絞められているような苦しさがあったが、いまはもう平気。高速道料金所の銃撃も、とてもあっさりしている。
うーん、人間の感性はおそろしく発展(?)するものだ。
驚いたシーンをもうひとつ。
マーロン・ブランドがトマト畑で倒れるシーン。短い。私の記憶の中では3倍くらいの長さになっていた。マーロン・ブランドの演技はそんなに素晴らしいとは思わなかったが、このシーンだけはまねしたいくらい好きだった。それがこんなに短かったとは。

それにね。
 アル・パチーノ、ロバート・デュヴァル、ダイアン・キートン。みんな若い。こんなに若い時代があったなんて、驚いてしまう。ロバート・デュヴァルという役者は私は大好きだが、印象としては、もっと禿げていて、もっと歳をとっていて、マーロン・ブランドより少し年下と思っていたけれど、マーロン・ブランの子供(養子)だったなんて。 ダイアン・キートンって、いつから垂れ目のブスになったの? ウッディ・アレンと別れてから? なんて、映画とは関係のないことまで思ってしまうのも、古い映画を見る楽しみかも。



ゴッドファーザー コッポラ・リストレーション DVD BOX

パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デイヴィッド・リーン監督「戦場にかける橋」(★★★★★)

2010-02-16 19:09:04 | 午前十時の映画祭

監督 デイヴィッド・リーン 出演 ウィリアム・ホールデン、アレック・ギネス、早川雪洲

 デイヴィッド・リーンの特徴は映像の剛直な美しさにある。「戦場にかける橋」を最初に見たのは何年前だろう。30年以上前だ。リバイバル上映で、スクリーンに雨が降っていたが、緑の強烈な印象が残っている。あれは、どのシーンだったのか。それをもう一度見たかった。
 途中、橋を破壊にウィリアム・ホールデンたちがジャングルを進むシーン。地上から空を見上げる。黒沢明の「羅生門」のように、密集した葉のあいだから太陽が降る注ぐ。そのシーンにはっとしたが、見たかったのはそれとは別のシーンである。人間なんか(戦争なんか)関係ない――というような圧倒的な緑、その塊りがあったはず(見たはず)だが・・・。
 だが、なかなか、現れない。
 そして、橋の爆破が終わってしまう。映画が終わってしまう。その瞬間、頭の中に残っていた、あの緑がスクリーンからあふれてきた。橋は破壊され、列車は脱線、転覆、転落し、アレック・ギネスも早川雪洲も死んでしまっている。軍医がとぼとぼと歩く河原。カメラが引いて行き、ジャングルが姿をあらわす――その瞬間の驚き。
 驚き、というのは、「戦場にかける橋」の部隊がジャングルなのだからおかしいかもしれないが、私は、知っていても驚く。
 日本軍とイギリス軍の、軍人の精神論の対立、規律の確保、誇りの維持――そういう人間のドラマを見つづけていて、舞台がジャングルであることを忘れている。「主役」がジャングルであることを忘れていた。「主役」がジャングル――というのは、もし、そこにジャングルがなかったら、橋の建設そのものがないからでもある。進行を阻む、ジャングル、クワイ川――それがあってはじめて、そこに人間が登場し、労働する「意味」が生まれる。「主役」は人間であるより、ジャングルなのだ。
 デイヴィッド・リーンは、このジャングルを、ほんとうに美しく、完璧にスクリーンに定着させている。最初にこの映画を見た時そう思ったが、今回も同じ感想を持った。人間のしていることは、この絶対的な緑の前では、とてもささいなことだ。ジャングルの緑と太陽は、人間が展開する精神の愛憎劇など気にしない、鉄道建設も、破壊も、(緑の破壊さえも)、気にしていない。圧倒的な生命力で、すべてを飲み込んでゆくのだ。

 あ、緑について書きすぎただろうか。でも、やはりジャングルの緑があっての映画なのだ。
 どのシーンも、非常に剛直な美意識に貫かれている。構図が非常にかっちりしており、カメラのフレームのなかで役者がきっちり演じる。役柄もあるのだろうけれど、アレック・ギネス、早川雪洲は、肉体(言葉を含め、その動きそのもの)がしっかり屹立している。ウィリアム・ホールデンは対照的に、「自然」というか、だらしない力を具現していて、そのアンサンブルは、精神論と緑の対立のようで面白い。
 ジャングルの村でウィリアム・ホールデンが助けられるのは、彼が「精神論」の人間ではなく、「緑」の人間だからである。
 もし、ウィリアム・ホールデンがほんとうの「緑」の人間になってしまったら、この映画の結末は違った形になったかもしれないが、この映画の作られた1957年には、そういう思想もなかったしなあ。
 まあ、一方に、人間の力を超越した緑の自然があり、他方に、人間の「精神論」の世界があり、そして「精神論」には日本とイギリスの武士道と騎士の精神論があり、またアメリカの平民(?)精神論があり、その対比があるということなのだろう。
今から見ると、その人間観(国民観?)はいささか図式的だ。
そのせいもあると思うのだが、やはり、デイヴィッド・リーンのとらえた緑の力が一番印象に残る。人間はかわるが、自然の力、人間を超越する非常な力はかわらないということなのだろうか。




戦場にかける橋 デラックス・コレクターズ・エデション(2枚組) [DVD]

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョン・スタージェス監督「大脱走」(★★★)

2010-02-09 17:10:35 | 午前十時の映画祭
監督 ジョン・スタージェス 出演 スティーヴ・マックイーン、ジェームズ・ガーナー、リチャード・アッテンボロー、ジェームズ・ドナルド、チャールズ・ブロンソン

 東宝の「午前10時の映画祭」。福岡は「大脱走」で始まり、最後は「ブリット」。かなり観客が入っていた。映画ファンとしては、ともかくうれしい。

 私は「大脱走」はスクリーンでは見ていない。スクリーンで見るのは初めてだが、あ、なつかしい、と感じてしまった。緑の平原、その道をナチスの車が列をなして走ってくる。あ、これって、初めて映画をとったナントカカントカ(私は歴史は苦手、カタカナの名前も苦手)の映像に似ている。工場からぞろぞろ出てくる労働者。駅からあふれる人。動き始めた列車――ようするに、背景は止まっていて人や物が動く。動いているものを見せるのが映画。止まっているものなら写真で十分だからねえ。うーん、いいなあ、この始まり、映画だ、映画が始まるぞ、という感じ。
 追いかけるように、緑の補色、赤で出演者の名前。文字には補色だけでは弱い(?)と思ったのか、影まで付けている。あ、これが昔のスタイルなんだなあ。現実そのものではなく、現実を強調したもの、それが映画。
 そう思うとこの映画はわかりやすい。実話。実話だけれど、それにあれこれアクセントをつけて、印象を強くした。観客に強い印象を残すように、再構成した――それが映画。

 で、本篇。
 やはり、静と動の組み合わせ。対比。並列することで、相手の色彩を強調する。対比と強調がアンサンブルの基本だね。スティーヴ・マックイーンの一匹狼、リチャード・アッテンボローの組織(集団意識)の対比とかね。
 トンネル掘りの道具の調達、偽造書類のための調達――など、いろいろ困難な問題があるはずなんだけれど、困難さではなく、知恵を強調して、脱走する捕虜を理想化する。脱走させまいと監視する方の努力(?)には触れない。そのため、緊迫感に欠けるね。今の映画の視点から見ると。
 ちょっとびっくりしたのは、脱走後見つかってしまったリチャード・アッテンボローたちをナチスが銃殺するシーン。捕虜を捕虜として扱うという国際的な条約を無視して殺害する。それがナチスだ、という告発がここにある。事実なんだろうけれど、その強調の仕方が、さらりとしている。(「カティンの森」と比べると、違いがわかる。)
 レジスタンスの描き方とか、さらりとしていて効果的なシーンもあるけれど、そのシーンを撮るのに「さらり」の効果を監督が考えたかどうか、ちょっとわからない。(それが残念。)

 昔読んだ本を読み返すと印象が違うように、昔見た映画を見直すと、やはり印象が違う。どんな違った印象が生まれるか――それを知る楽しみが、あと49本つづく。全部見るかどうかはわからないが。




大脱走 (アルティメット・エディション) [DVD]

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする