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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「スースーする」、長嶋南子「なにやってんのよ」

2022-12-04 20:58:11 | 詩(雑誌・同人誌)

坂多瑩子「スースーする」、長嶋南子「なにやってんのよ」(「天国飲屋」2、2022年11月26日発行)

 坂多瑩子「スースーする」は何を書いているか。

いつだったか
夜ふけ
鏡をみると
母が死んでいた
よく似た顔だ
うんざりだ

もう死んで一〇年は経っている
一緒につれていかれたあたしも死んで一〇年

背中のどこかがスースーする
母親に食べられたとこ
メロンパンが三個ポッカリ入る大きさ

ちょっと哀しい日常が凝縮されて

あたしを食べた母を
あたしは
いつか書くはずだったとファミレスで女友だちにいい

ああ 友は夢のような美少女だった

おかあさん
死ぬのはいいけど
美少女のあたしをつれていって
残りかすみたいなあたしを残していったね

そのせいで
あたしの書くものはいつも消しゴムの消しカスでいっぱい

いつだったか
夜ふけ
鏡に
にっこり笑ってやった

 母親が死んだ。十年になる。ときどき思い出す。これは、思い出したときのことを書いている。「鏡をみると/母が死んでいた」とあるから、鏡をみて母を思い出した、顔が似ているなあ、と気づいたということか。あとは、哀しいのだか、恨みがましいのだか、よくわからないが、まあ、こんなことは、よくわからなくていい。その日その日の気分で、なつかしかったり、いやだったりする。その、なんだかよくわからないものが、よくわからないまま書かれているところがおもしろい。
 「メロンパンが三個ポッカリ入る大きさ」というのは具体的すぎて、何のことかわからない。「抽象」というか、「要約できるもの」が、ここにはない。それは比喩を突き抜けている。
 それは「スースーする」にもいえる。
 私は詩の講座で、こういうことばを取り上げるのが好きだ。「スースーするって、意味わかる?」。たいてい、「わからない」という声はかえってこない。「じゃ、このスースーするを自分のことばで言い直してみて」。しかし、これが、できない。「背中のどこかがスースーする」というのは、だれが体験したことがあると思う。たとえば、いまの季節、すきま風が背中のあたりを吹き抜けていく。あるいはマフラーを忘れた日、首筋から寒風が吹き込むことがある。そういうとき「スースーする」。そのときの「肉体の感覚」に何か似ているのかもしれない。しかし、これを別のことばで言い直すのはとてもむずかしい。「肉体」がことばを超えてつかみとっているものがあり、それは「スースーする」で言い直すことができない。「すきま風を背中で感じて……」ということをぼんやり思ってみるが、それは坂多の「スースーする」と重なるかどうか、論理的に説明できない。だから、言い直しもできない。
 ほかの行も、なんとなく「わかる」。「わかった気持ち」になる。「あ、わかる、わかる」と言いたくなる。でもほんとうにわかっているのなら、それを別のことばで言えるはずだが、それができない。
 それが、論理的に展開されているか、テキトウに散らばっているのか、それを説明することもできない。でも「わかる」という気持ちだけが残る。
 私は、こういう詩がとても好きだ。「おばさん詩」と呼んでいる。どういうことかというと、こういうことばの動かし方は、ある程度年齢を重ねないとできない。論理を踏み外すという体験を何回かして、あ、論理というのは大したものではないのだ(そんなものでひとは死なないのだ)とわかったときだけに、言うことができるのである。これは論理にとらわれている「おじさん」にはできない。だから、「おばさん詩」というのはあっても「おじさん詩」というのは、私のなかでは存在しない。(唯一、例外になりうるのは、細田傳造かもしれない。) 

 長嶋南子「なにやってんのよ」は、どうか。

男と別れた

買い物をジャンジャンする
豚肉豆腐刺身に納豆ホッケにさんまブロッコリー
食べないうちに腐っていく

腐っていくからだ
尖った乳房も
すべすべしたお尻も
どこかへ消えてしまった
あたしゃどうしたらいい
どうもこうもありゃしない
きょうの次はあしたで
あしたの次はあさってでしょ

そのからだで
その頭で
やっていくしかない
そんなことも分からないのか
出来の良い姉さんに笑われるよ
と松丸先生は職員室でいった

別れた男はどこで腐っていくんでしょね

 男と別れた。それがどうしたということはないかもしれない。でも、ことばにするくらいだから、ことばにしなければならないだけの重みのようなものはある。で、「なにやってんのよ」と自問自答している。といっても、答えは、でない。それだけのことだが、それだけであるところがいい。
 生きていくというのは、答えがないということを納得することなのだと思うが、それとどう向き合うか。「開き直り方」が「おばさん」だなあ、と思う。

 


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岩木誠一郎「夏の果て」

2022-11-30 16:50:58 | 詩(雑誌・同人誌)

岩木誠一郎「夏の果て」(「59」28、2022年11月20日発行)

 私はメールをつかった「現代詩通信講座」を開いている。先日、ある受講生から「完成度」について聞かれた。詩の完成度は、どうやって判断するのか。これは、はっきりいって答えようがない。ある具体的な作品を読んで、その作品を完成度が高いと感じるか、低いと感じるかはひとによって違うだろう。私は「音/リズム」が安定しているときに完成度が高いと感じるのだが、この「音/リズム」が安定しているという印象も、ひとによって違うだろう。
 岩木誠一郎「夏の果て」は、私の基準では「完成度が高い」作品である。

日が傾くと
潮の匂いが強くなる
波打ち際の
濡れた砂のうえで
むすうの泡がひかりを
映しては消えてゆく

 一連目。詩人が海辺にいることがすぐにわかる。「潮(の匂い)」が海を連想させる。「海」とは書いていないが「潮の匂い」で、「海」以外を思い浮かべるひとは少ないだろう。いくらかかわったものを連想するとしても、魚(干物を含む)や市場くらいだろう。その「海」は「波打ち際」で明確になり、さらに「濡れた砂」が定着させる。ここにはイメージの「リズム」もある。動き方が自然なのである。さらに書き出しの「日が傾く」は「ひかり」「消えてゆく」によって、イメージを固定させる。私はこういうイメージにも「音」を感じるのである。映像そのものの重なりというよりも、「音」が呼び合っている感じがする。
 さらにつけくわえると、この「音」は「万葉の音」ではなく「古今の音」である。「声」ではなく、つまり「肉体」を通って響いてくる「音」ではなく、「頭」のなかを動いていく音である。どちらかというと「肉体」の存在を忘れさせる音、「意識に刻まれた音」という感じ。
 だから、この詩、この詩のことばは「意識」へと動いていく。

それだけのことなを
ただ眺めていると
流れ着いたのか
たどり着いたのか
どちらでも
かまわないように思えてくる

 「眺める」「流れ着く」「たどり着く」という動詞は出てくるが、「思える(思う)」が全体を統一している。「どちらでも/かまわない」のは、意識というものは、いわば虚構であって実在ではないからだ。「肉体」が変化するわけではない。
 「思う」は、さらに「意識」のなかへ深く入っていく。

ふりかえると
海辺のちいさなまちに
灯りがともりはじめるところだ
そこで暮らしていた
少年のことを考えながら
廃線になったはずの列車が
走り去るのを見送っている

 「ふりかえる」は「肉体」の動きをあらわすが、同時に「意識(こころ)」の動きをあらわすときにもつかう。「思う」は「考える」という動詞にかわっている。「思う」と「考える」はどう違うか。ひとによって基準が違うかもしれないが、私は「考える」の方が「意識的」だと思う。「意識」を動かしている感じがする。「意識」を動かして、「現実」には存在しないことも、ことばを通して、そこにあるかのように出現させることができる。これは「意識」の運動である。「そこで暮らしていた/少年」は「過去形」が明らかにするように、そこには、もういない。「廃線になった列車」も、もちろん存在しない。「はずの」ということばを岩木は挿入しているが、「はずの」があるから現実にそこに列車が走っているわけではない。「意識」で「廃線」をさらに意識化しているのである。一種の強調である。「走り去る」のを「見送る」のは「肉体の目」ではなく、「意思の目」である。「ことば」である。
 夕暮れの海という現実、そこから感情が動き、「思う」という動詞になり、それがさらに深化して「意識」になり、その意識は「現実」を「架空」の世界へと導いていく。ここは、いわゆる「起承転結」の「転」である。
 「意識=虚構」にまで達したから「結」は、もちろん「現実」にもどる。

どこへ向かうのだろうか
鉄橋のあたりを
通り過ぎるとき
季節の
終わりを告げる音が
星空の方から降ってきた

 「季節の終わりを告げる音」は、まあ、現実というよりも「虚構(ことばの運動だけがとらえることのできるもの)」だけれど、そして「星空の方から降ってきた」というものことばの運動でしかないのだが、「星空」は現実であり、それは書き出しの「日が傾く」ときちんと呼応している。
 夕暮れが夜になる。その時間、岩木のこころは日暮れの風景を見ながら動いたのである。これが、とても自然なリズムで書かれている。行ったり来たり、つまり、方向を間違えたり、迷ったりしない。だから「完成度が高い」と感じる。
 そう評価した後で、不平をいえば、三連目の「ちいさなまち」「(過去形の)少年」「廃線」「(走り)去る」というのが、あまりにも「抒情の定型」にはまりすぎる。だから、「頭で書いている/意識がことばを支配している」という印象が強くなる。工場の排水で汚染されたままの街、出て行くことのできない老人だけが住んでいる街というのは、いまの日本ではあちこちにあるかもしれないが、そういう「現実」は、ここにはない。岩木のことばは「現実(現代)」とは少し違った場所で動いている。もちろん、岩木の書いている「海」「まち」も実際にあるだろうけれど、抒情だけで語られる存在であるとは、私には思えない。「現実」に近づかないことで、ことばを「頭」のなかで動かすことによって、岩木の詩は「完成度」を保っているともいえる。
 と書いてしまうと、なんだか、とんでもなくつまらない詩を取り上げているような感じになってしまうが……。
 私は二連目の書き出しの「それだけのことを/ただ」に感心した。うなってしまった。散文的な、何の「意味」もないような行に見える。実際、「それだけのことを/ただ」がなくても詩は成立する。実際に「それだけのことを/ただ」を消して読んでみるといい。いったい何人が、そのことばがないと「わからない」、あるいは「不自然な展開」と感じるだろうか。「それだけのことを/ただ」は岩木だけに必要なことばなのだ。私はそういうことばをキーワードと呼んでいるが、ここには岩木の無意識、肉体そのものがある。
 岩木がほんとうに肉眼で見たのは夕暮れの海辺、波打ち際の光の変化とそれを支える風景だけなのである。あとは、ことばの運動である。ことばが、ことばのために動いた運動である。
 いわば虚構のなかで、ぎりぎりの形で「肉体」を存在させている。読者に見つからないように、「肉体が邪魔だから」そこを少しどいてくれないか、もう少し美しい情景を眺めたいから、ねえ、岩木さん、そこをどいて、と言われない形で「肉体」を存在させている。それが、この詩のいいところである。そして、こういう「肉体」の存在のさせ方が、岩木の詩の特徴だと私は感じている。「完成度」でいうと、「超絶技巧」の完成度だね。

 

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萩野なつみ「夏風琴」、江夏名枝「澱と微風」

2022-11-17 18:33:24 | 詩(雑誌・同人誌)

萩野なつみ「夏風琴」、江夏名枝「澱と微風」(「ガーネット」98、2022年11月発行)

 詩を読んでいて、このことばは書いたひとは必要としていたんだろうなあ、ここに詩があると思って書いているだろうなあ、と感じてしまうのは、実は、私はそのことばがない方が詩だろうなあ、と思っているということである。
 ちょっと意地の悪い紹介の仕方をする。
 萩野なつみ「夏風琴」の一連目。

汗ばむグラスが
テーブルに落とす虹
触れれば僅かにゆがんで
誰もいない窓辺から
あなたの
指が流れ出す

 ある一行にあった「形容動詞」を削除してみた。何か足りないだろうか。たぶん、萩野以外は「足りない」と感じないと思う。
 この一連目では、私は「僅かに」ということばにもつまずき、「僅かにゆがんで」でさらにつまずいたのだが。つまり、

汗ばむグラスが
テーブルに落とす虹
触れれば
誰もいない窓辺から
あなたの
指が流れ出す

 の方が詩になるなあ、と感じている。ことばが多い。萩野の作品に対する評価は、たぶん「触れれば僅かにゆがんで」という行の「僅かにゆがんで」という繊細な感覚、それをことばに定着させる力に対するものだと思う。そう理解した上でいうのだが、私は、そうした「繊細な感覚(あるいは修辞)」のあり方を、とても「古い」と感じてしまう。この「古い」というのは「定型」ということである。
 この「定型」というのは、とても難しくて……。
 萩野の年齢を私は知らないのだが、たぶん、萩野にとっては「古い定型」ではないのだ。私のような年齢には「古い定型」であるけれど。言い直すと、私が詩を書き始めたころ、萩野のつかっている「繊細さをあらわす修辞」というのはたくさん「共有」されていた。確立されていて、だれもが安心してつかっていた。そのことばを書けば「詩」になる、という感じ。それが「世代交代」でいったん失われた。その失われた「定型」を萩野は復活させたのかどうか、そのあたりの評価の感じは人によって違うだろうが、私は「復活させた」とも感じない。「古いまま」だから。「復活させる」ときは、何らかの「改良」が必要だと思うが、「改良」を感じることができないのである。
 「僅かにゆがんで」に、何か、新しいものがあるだろうか。「僅かに」という漢字のつかい方なんか、私は「明治」を感じてしまう。私の知っている「定型」よりもさらに古い、と。明治の詩を読んだことはないが。
 最初の引用には、最初に書いたように、さらにもうひとつ「形容動詞」があった。どこに、どんな形容動詞があったと思いますか? 想像できますか? 「僅かにゆがんで」は、まだ、つまずいただけだったが、その「形容動詞」には、私はちょっと我慢できないものを感じた。それで、省略したのだが。

 江夏名枝「澱と微風」は、とてもおもしろい詩だとおもった。でも、ある一行が、その詩を壊していると感じた。だから、その一行を省略して引用する。

それが、なにものでもなかったから
わたしは信じる
紫に痩せた蔓のようなもの、
着床する顔のない球根のようなもの、
屋根裏への粗末な梯子、
なにものにでもなく、それは
すいかずら、それは昼下がりに匿われる
眼の痛み
葉が染まり衰える光の砂
視覚の痛み、
私が信じられる
そこにはいない、
それが、なにものでもなかったから

 世界には「なにものでもないもの」は存在しないが、そこにあるものを「なにでもないもの」と定義したくなるときがある。それは、つまり「意味」になっていない「もの」そのものである。ここでは、たとえば「すいかずら」の「痩せた蔓」かもしれない。このときの「意味になっていないもの」とは「役に立たないもの」と言い直すことができる。「無意味(役に立たない/意味を生み出さない=はやりのことばでいえば「生産性を持たない)」が、「わたし」という存在に対して、それでは「わたしとは、どういう意味なのか、何の役に立つのか」という問いをつきつけ、「わたし」を解体しようとする。その瞬間に、「わたし」は「わたし」に気づく。その「気づき」を「信じる」ということばの運動だと思って私は読んだ。
 で、そう読むと、どうしても「邪魔」な一行があったのだ。そこには「意味」しかなかった。いや、ちゃんと前半にそのことばの「伏線」があると江夏はいうかもしれない。しかし、その「伏線」は、私には「技巧」にしか感じられない、とてもいやなことばの運動だった。だからこそ、よけいに、その一行を削除したくなったのだ。
 私が一行を削除したため、ことばの運動は、その前後で不安定になっているのだが、この不安定は詩を活性化させているかもしれない。詩は、論理がつかみにくいとき、あれ、これはどういうことかな、とことばを刺戟してくることがある。そのとき、わけのわからないものが動き始める。動き始めたら、それが「詩」なのだと、私は信じている。

 

 

 

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林嗣夫「「物」について」

2022-11-14 21:36:39 | 詩(雑誌・同人誌)

林嗣夫「「物」について」(「兆」196、2022年10月28日発行)

 林嗣夫「「物」について」の二段落目を、私は、繰り返して読んでしまった。

 ある日の午後、少し部屋の空気を入れ替えようと戸を開けて、庭のあちこちに目をやっていたら、向こうの片すみに何やら白っぽいものが置いてある。一瞬、何だろうと思ってそこに視線を止めたのだが、すぐに了解がついた。浴室で体を洗うときに座る、プラスチック製の小さな腰掛けだった。この家を建てた時から使いつづけてきた道具の一つである。こちらも年を重ね、体の動きも悪くなったため、もう少し座りぐあいのいい高めのものにしたいと、妻が新しい製品に買い替えて、古いのを外に出してあるのだ。

 これは、「物」に行き当たった例を紹介するという書き出しを受けた、いわば起承転結の「承」の部分。いちばん地味で、どうでもいいというと変だけれど、あまり力をこめて書かない部分である。本当に書きたいことは、「転」を経て「結」にいたることばの運動、とくに「結」に書きたいことを結晶させるのだと思う。
 実際、このあと、林のことばは、深まっていく。つまり、私なんかが考えないことを、しっかりていねいに追っていく。そこには「物」に対する「気」が書かれ、一気に哲学的な思考に変化するのだが。
 そこはそこでおもしろいのだが。
 ていねいに読まないといけないのだが。
 わかっているけれど、私はいま引用した部分を何度も読み返して、いいなあ、と感じるのだ。何がいいかというと、とてもむだなことが書いてあるのがいい。「ある日の午後、庭の片隅に、古くなった浴室のプラスチック製いすが捨ててあったのをみつけた」と書けばすむことなのに、林は、妙にながながと書いている。「一瞬、何だろうと思っ」たが「すぐに了解がついた」のだから、私の書いたような文章でいいはずだ。でも、林はながく書いている。「浴室で体を洗うときに座る」なんて説明をしないと理解できないものではない。「浴室の椅子」というだけで、小学生だってわかる。いや、幼稚園児だってわかる。でも、林は、「浴室で体を洗うときに座る」という説明を書いてしまう。この「説明」こそが、私には「もの」に感じられるのだ。林の「肉体」が動いて、その「肉体」でつかみとっている「存在感」。それは「この家を建てた時から使いつづけてきた」にもあらわれている。そんなこと、「哲学」とは関係ない、個人的な事実だね。「こちらも年を重ね、体の動きも悪くなったため、もう少し座りぐあいのいい高めのものにしたい」までくると、笑いださずにはいられない。林さん、私は、あなたが「もう少し座りぐあいのいい高めの」椅子を望んでいるかどうかなんて、気にしない。それは「哲学」ではなく、林の個人的な「肉体の事情」。でもね、その私が「肉体の事情」と呼んだものこそ、あとから出てくる「気」よりももっと「哲学」だと思う。
 そして、その「哲学」の特徴は、ややこしい「ことば」の説明ではなく、「肉体」がかってに「わかってしまうこと」。私は、実は、大腿骨を骨折した関係で、それこそ「少し高めの椅子」をつかっているのだが、この「少し高め」というのはもちろん高さ何センチという具合に表現できる(客観化できる)けれど、「肉体の主観の判断」の方が大事。他人に説明できない「微妙さ」が大事。高さのほかに、座面の素材とか、そのうちに手すりがあるかどうかということも関係してくるかもしれないが、それは、なんというか「肉体」が納得すればすべてOK。ことばにしなくていい。客観化しなくていい。そして、客観化しなくても、だれもが「自分にはこれがいちばん」とわかる。自分で納得できる。私は「哲学」というのは、そういうものだと思う。自分で納得できる何か。他人がどう思うかなんかは「哲学」には何の関係もない。プラトンがその椅子はダメだ、マルクスがこの椅子にしろ、といったって、そんなことは関係がないのだ。「哲学」とはなによりも、肉体が存在とする時に必要な「もの(ことば)」なのである。
 「椅子」は、はっきり「もの」とわかるが、「ことば」も「もの」である。
 だから、と私は、飛躍して書くのだが、私の母は無学だから、自分でどうしようもなくなった時、なぜか仏壇の前で「南無阿弥陀仏」と唱える。そんなことで、どうにもならないことが解決するわけではないのだが、どうにもならないことも「南無阿弥陀仏」ということばを口にすることで受け入れていた。こんなことは、私にはできない。よくそんなことで生きていけたと思うけれど、そこには私には理解できない、私の母の「哲学(思想)」があるのだと思っている。「思想(哲学)」なしで生きている人間はいない。「ことば」があり、「ことば」で考えてしまうのが人間なのだから。
 で、その何と言うか、「ことば」が林の「肉体」から離れず、くっついて動いている部分、それがとてもおもしろい。だって、林以外の人間は、こんなふうにして浴室の、いらなくなった椅子を描写したりすることはない。いい? いらなくたったものだよ。捨てるのに困るものだよ、いまは。燃えるゴミに出していいのかな?なんて考える必要があるくらいだ。
 それでね。
 そのもういらないもの、どうしていいかわからないもの(わかっているかもしれないけれど)を「外に出してあるのだ」としめくくっている。この「出してある」も、とっても変な「味」がある。絶妙な「味」がある。ゴミも「ゴミ出し」というくらいだから「出す」という動詞をつかうのだけれど、その前にわざわざ「外に」ということばを補っている。(ゴミ出しのとき、わざわざ外にゴミ出しをする、とは言わない。)
 ここからわかることは。
 そうなのだ。その浴室の椅子は、実は単なる椅子ではなく、林の「肉体」の一部だったのだ。その椅子によって、林の「姿勢」が決まる。それは「肉体」の外にあって、林を支えるを通り越して、いつもその椅子に座ることで、林の「肉体」になっていた。つまり、「肉体」の一部だったのだ。「肉体になる」というのは、「肉体の内部になる」ということである。それを、手術で腫瘍を取り出すようにして、外に出して、そこに「ある」。
 詩の後半には「いのち」ということばも出てくる。「肉体」とは、「いのち」の入れ物である。そこには「思想(ことば)」も入る。そして、それは「肉体」から取り出された時、「もの」になるのだ、というようなことを思った。だから、二連目の奇妙に即物的な、精神的でも感情的でもないことばこそ「もの」なのだ。
 林は「物」について書いているのだが、「物」よりも、その「物」の書き方に、林の「肉体」を感じ、その「肉体」に触ったような感じ、「肉体」の存在感を強く感じ、に段落目がいいなあ、と思ったのだ。

 

 

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石毛拓郎「多島海のパタパタ」

2022-11-01 21:29:31 | 詩(雑誌・同人誌)

石毛拓郎「多島海のパタパタ」(「spirit」7:2022年10月05日発行)

 詩とは何か。詩はどこにあるか。石毛拓郎「多島海のパタパタ」を読んでいたら、その答えが詩のなかからやってきた。問いを発する前に。「これが詩だ、詩はここにある」と。

蠅が飛んできた、座礁の舳先に……。
これだけ、タブ舟が船団をなして、島渡りするくらいだから
よほど、居たたまれなかったのだろうか。

 蠅なんか、書くなよ。でも、書きたい。はい、これが、詩です。「居たたまれなかったのだろうか」なんて、蠅に同情するな。蠅だろう。叩き殺すのが人間の仕事だろう。でも、同情してしまう。人間のことばで、蠅の気持ちを推測してしまう。はい、これが、詩です。余分なことです。どうでもいいことです。ほかに書かなければならないことがあるはずなのに、どうでもいいことを、一生でいちばん大事なことでもあるかのように書いてしまうのが詩です。

口が渇くのか、蠅はパタパタと、弱ったもののくちびるをよく舐める。

 おいおい、弱ったものというのは人間だろう。蠅が口が渇くかどうかよりも、人間の心配をしろよ。でも、どうしても蠅に目がいってしまう。見てしまうと、ことばにしないではいられない。そんなことを、言っている場合か。死ぬかもしれないんだぞ。でも、この蠅を書いておきたい。誰のために? 蠅にたかられて死んだ人間の遺族が、蠅の詩を読んでなぐさめられるか? 怒りだすぞ。でも、書かずにいられない。
 書けば、きっと、何かがかわる。何かがわかる。
 ほんとうか。いや、嘘です。思いつきです。批判されたくないから、ちょっと気取って、そんなことを言ってみただけです。
 はい、これが、詩です。何かわからずに、ただ書いてしまうもの。それが、詩です。人間にたかってくる蠅のように、汚らしい欲望にたかってくるのが詩です。

ドサクサの脱出と漂流で、ただれた皮膚の膿……
「膿」では可哀想だから、「海」と名づけられた黒猫の埋もれる凄惨な記憶
それさえ、吸ってくれそうな蠅だ。
ああ、難民のくちびると眼の粘膜が、まるで不随になっていくのを、確かめてくれるのも蠅だ。
かれらは、刃を研ぐように舐める。

 そうだよなあ。否定されても、否定されても、生きていく。それから学ばなければならない。死んでいく人間から学ぶものは少ない。かっこいい死に方は「英雄」のもの。死なずに、不格好に生き延びてこそ、生きるということ。汚らしい欲望にめざめることを許してくれるのが、詩だろうなあ。汚らしいことを味わいつくすと、汚いは、汚いを超える。「刃を研ぐように舐める」。そんな、舐め方、したことある?
 あ、そんなことを書いていない?
 そんなことは、知らない。
 私は、蠅になって、石毛の傷の膿を舐める蠅のように、汚いものを探して回る。汚いところ、膿がわいているところ、そこがいちばん、おいしいはずだ。

水の乏しいチベット自治区高地人と、北極イヌイットは
嬉しいことに、いまだ、母親が、子どもを舐めるという。
ふと、おれは、太古の記憶に頼らねばみえてこないことを思う。
いよいよ滅びゆく、舐めるといういとなみ……
乳房をまさぐり、乳頭に吸いついては、笑いを眼で誘うのは
赤子だけの人生さと聞いて、凡庸なおれは、惑乱する。
眼の粘膜にからみついた異物を、女の舌先で舐めてもらったという
懐かしい快感に溺れながら、おれは、ひめやかなパタパタに負けそうになる。

 ははははは。
 蠅になって、舐める欲望を生きていたはずなのに、舐める力を復活させようとしていたのに「女の舌先で舐めてもらったという/懐かしい快感」。書いているものが、逆転してるじゃないか。きっと、蠅に唇をなめられたとき、美女にキスでもしてもらっている気持ちになるんだろう。座礁した船で、「難民」になったときには、石毛は。
 ほら、先に引用した「難民のくちびると眼の粘膜が、まるで不随になっていくのを、確かめてくれるのも蠅だ」にはちゃんと「眼の粘膜」ということばがある。あの一行を書いたとき、石毛は「女の舌先で舐めてもらった」ことを思い出し、「懐かしい快感」に「溺れていた」に違いないのだ。
 こんな感想は、隠しておかなければならない。秘めておかなければならないのだが、その感想が、詩を相手にしているならば、書かなければならない。私は石毛に感想を書いているのではない。石毛の詩に、感想を書いているのである。
 詩は意味ではない。意味を逸脱していくもの。どこへ行くか、わからないもの。だとしたら、それにつきあう感想のことばも、どこへいくかわからないまま、その瞬間瞬間、動けばいい。「おい、おまえ、そんな水っぽい膿よりも、あっちの反吐が出そうな膿の方がきっとうまいぞ」という蠅の会話が聞こえてきたら、それは、感想が、ひとつの詩になることだ、と私は思っている。

 私は、詩に論理というか、意味というか、ことばの運動の「整合性」を求めない。感想を書くときも「整合性」に陥らないように、「美しい結論」にたどりつかないように、書きたい。「わからない」を残したまま、その「わからない」と共存していたい。
 だから。

多島海を舐めつづけてきた、おれの、無知の咎ゆえに……。

 石毛さん、「無知の咎」なんて、開き直ってはいけません。「咎」なんて、傷を隠すバンドエイド。あるいは、バンドエイドを引っぱがして「私にも傷がある」と自慢する行為、と言った方がいいかも。やっているひとは、どうだ、見たか、と思うかもしれないけれど、ほら、映画なんかでよくある兵士の「戦場の傷自慢」のようなもの。「無知」は「無知」であることを知らないからこそ「無知」と言うのです。と、知ったかぶりを書いておこう。

 


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Vicente Barbera Albalat 「TENGO LAS MANOS ROTAS DE QUERERTE 」

2022-10-31 13:53:41 | 詩(雑誌・同人誌)

Vicente Barbera Albalat 「TENGO LAS MANOS ROTAS DE QUERERTE 」(DESDE EL AND N, Ol  Libros,2022発行)

 Vicente Barbera Albalat 「TENGO LAS MANOS ROTAS DE QUERERTE 」のソネット。アンソロジーのなかの一篇。フェイスブックに掲載されていた。わからない単語がないので、意味がわかるかと思ったが、やっぱりつまずく。

Tengo las manos rotas de quererte 
y el corazon herido cuando veo
que toda la alegria que poseo 
desaparece si no puedo verte.

Al borde de la noche, al no tenerte,
aparecen mis miedos, mi locura,
y siempre esta conmigo tu dulzura 
en el vaiven continuo de mi muerte.

Ah, mi amor, si pudieras verme a solas 
navegando entre niebla, sin sentido, 
lejos de tu presencia, tan amada,

verias cuan agrestes son las olas:
que en un mar, aunque en calma, estoy hundido, 
y que esta noche, fria, es una espada.

あなたを愛するがゆえに、私の手は壊れた
私の心は傷ついた。私の味わった喜びは
あなたに会えなくなって、
すべて消えてしまったと知って。

あなたのいないこの夜の果から
恐怖と狂気が私を襲ってくる。そして
あなたの甘やかさがいつも私をつつんでくれる
死へつづく揺りかごのように。

愛しいお母さん、私が見えますか。
あなたから遠く離れて、
ひとりで霧の海をゆく、感覚を失った私が。

お母さん、この荒れた海が見えるでしょ?
たとえ海が凪いでも私は難破する。
夜は寒く冷たい刃で私を切りつける。

 「 mi muerte」ということばを手がかりに、「mi amor 」を母と読んでみた。
 スペイン語の詩は、あたりまえだけれど、韻を踏んでいる。「ABBA CDDC EFG EFG」という形。私の「訳」は、逐語訳ではなく、それぞれの行がもとの行に対応しているわけでもない。どっちにしろ「誤訳」なのだから、思い切って「脚韻」を試みればいいのかもしれないが、あまりにも難しい。
 だから、「雰囲気(私の誤解)」を優先して、ことばを動かした。「現実」からはじまり、しだいに「想像」の世界に動いていく。それがスペイン語では「動詞」の活用からわかるのだが、これは私が「頭」でわかっているつもりになっているだけで、「肉体」にしみこんでいないので、自然な日本語からは遠いものになった。
 母を失って、夜の海の底に難破している、というイメージがせつないと感じた。

 

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野沢啓「言語隠喩論のたたかい――時評的に1」

2022-10-19 17:10:36 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「言語隠喩論のたたかい――時評的に1」(「イリプスⅢ」1、2022年10月10日発行)

 野沢啓「言語隠喩論のたたかい――時評的に1」のなかに、吉本隆明のことばを批判する形で論を展開している部分がある。野沢は、吉本の「表現された言葉は指示表出と自己表出の織物だ」という定義を批判している。ことばは「自己表出」と「指示表出」の二分法で分類できるのか、と批判している。何が問題なのか。「言語表現の問題を意識の外部表出としてしかとらえていない」(34ページ)と指摘した上で、それを説明し直している。

(吉本の論には)ことばそれ自体の創造性、書き手の意識を超えた言語の創造性という観点がまったく見失なわれている。(略)わたしは『言語隠喩論』のなかで言語そのものの創造的隠喩性、とりわけ詩の言語が無意識的、半意識的なことばの創出過程をもっているという側面を確認するとともに、そこに意識の統御を超えた言語の本質的創造性をみた。(34ページ)

 「ことばそれ自体の創造性」「書き手の意識を超えた言語の創造性」という表現がある。これは同じものなのか、別のものなのか、野沢が意図していることが、私にはよくわからない。ことばは「話し手/書き手」がいて、はじめて存在する。「ひとりごと」や「頭の中だけでのことばの運動」も、「聞き手/読み手」がいないだけであって、その言語を動かす人間がいる。ことばが存在するとき、そこに同時に存在してしまう人間の存在を、野沢がどうとらえているか、よくわからない。
 野沢は「無意識的、半意識的なことばの創出過程」とも書いているが、このときの「無意識」「半意識」というのは「人間の無意識、半意識」だろう。ことばは、ことば自体では単独では存在せず、かならずそこに「人間」がいる。
 辞書の中のことば、意味の定義の羅列にしても、それは、そのことばが単独で存在しているのではなく、それをつかったひと、それを定義したひとがいる。
 野沢は、たしか『言語隠喩論』のなかで、ことばの発生(?)を、古代人が雷をみたときの驚きとともに書いていた。人間がいたから、「ことば」があったのであって、驚愕のことば(声)があって、そのあとに人間が生まれてきたわけではないだろう。私は、なぜ、野沢が、あの奇妙な「例」を持ち出してきたのか、よくわからない。ある部分がなければ、(そのあとに、はじめて海にであったときの、奇妙な例もあったが)、私は、これほど野沢の『言語隠喩論』には関心を持たなかったと思う。

 人間とことばの関係について補足するものかどうか判断できないが、野沢は、先の部分を補足する形で(補足ととらえたのは、もう一度、野沢が吉本の名前を出して書いているからである)、こう言い直している。

吉本のようにどこまでも人間的意識の表出一辺倒ではなく、言語創造の結果そのものが人間の意識に先行し、意識がはじめて形成されるという逆転現象をもたらしていることをこそ見るべきなのである。その言語的特性をとりわけ詩のことばの問題として明確に取り出すことをつうじて、さらに言語そのものの本質的創造性、すなわち創造的隠喩性を明確にしたのがわたしの『言語隠喩論』なのである。(34ページ)

 「人間的表出」「人間の意識」という表現がある。このときの野沢の「人間」の定義は、どういうものなのか。生物が進化し、さまざまな生きものに分化し、生まれてきた段階の「人間」は、野沢の「定義」のなかに含まれているか。私には、含まれているとは思えない。雷をはじめて体験した人間(ことばを知らない人間)とか、海をはじめてみた人間(海という名詞を知らない人間)が、野沢のここでの「人間の定義」のなかに含まれているとは思えない。少なくとも、ここには、そういう人間は含まれていないと思う。
 ここに書かれている人間は、ことばの存在を知っている人間である。ここに書かれている「人間」とは「話して/書き手」である。つまり、ことばがすでに存在することを知っている人間である。
 その私の「推定(推測)」にしたがって、「言語創造の結果そのものが人間の意識に先行し、意識がはじめて形成されるという逆転現象」を読み直せば、つまり野沢が説明していない部分を私のことばで補って読み直せば、こうなる。
 言語創造の結果(つまり、作品)そのものが、書き手(とりえあず、書き手としておく)の意識に先行し、書かれたことば(作品)によって書き手の意識がはじめて形成されるという逆転現象、というのはたしかにある。
 書き手はだれでも「結論」を知っていて書くわけではない。書きながら、何かわからないものを追いかけていくと、そこから自分でも予想もしなかったものが動き出し、その動き出したことばによって自分自身の意識を知るということはある。あ、これが、私の書きたかったことだったのか、とあとからわかる。あるいは書いた後で、私はこんなことを書いていたのかと驚くことがある。それは、まるで、私(書き手)の意識に先行し、ことばが私の意識(書き手の意識)をリードし、育てていくような形で、意識が形成されるということになるだろう。
 でも、そのためには、まず、使用可能なことばが先にないといけないのだ。そして、その使用可能なことばというのは、いつでもといえるかどうかわからないが、いま生きている人間にとっては、すでに存在しているものである。
 これを「読み手」の側から言い直すと、こうなる。ある作品(すでに書き手が書いたもの)を読んでいると、つまり先行して存在する書き手の意識がふくまれることばを追いかけていると、それにあわせて読み手の意識も形成され、その結果として、あ、これこそが私の言いたかったことだと気づくことがある。それは、自分の意識を形成するという明確な自覚のないまま、書き手のことばによって(すでに存在することばによって)、読み手の意識が形成されることでもある。
 野沢が「人間」とおおざっぱにくくっているもの、その「定義」を明確にしないと、野沢の論理はつかみ所がないように私には思える。野沢は人間の存在を省略して、ことばの隠喩と言っているように思える。あることばが隠喩になりうるのは、そのことばを隠喩ではない形でつかう人間が存在することが前提であり、そのことばをつかう人間がいるということは、ことばがすでに同時に存在することを意味する。

 また、野沢は、この部分で「言語そのものの本質的創造性、すなわち創造的暗喩性を明確にした」と書いているのだが、ここに書かれている「意味」が、私にはさっぱりわからない。いったい、いつ「言語そのもの」が何かを「創出」しただろうか。どこに「言語そのものが創出した表現」というものがあるだろうか。どのようなことば(野沢が評価している詩人のことば)も、かならずそこには詩人(書き手)というものが存在する。
 私は、ことばは自立している。ことばはことば自身の肉体をもっていると考えるが、そのとき私が想定しているのは「ことばの歴史(古典、とは言い切れないのだが、とりあえず古典と書いておく)」である。読み手としての人間は先行する「古典」に触れる。そして、ことばの動かし方を知る。その、書き手に先行する「ことばの肉体」の動きは、あとからことばを書いていく書き手の「ことばの肉体」に働きかける。ときには、書き手が「古典のことば」が見落としていた「動き」を引き出すということもある。触発されて「ことばの肉体」が思いがけない方向に展開することもある。新しいことばの動きに見えても、それはまったくの「新しいことば」ではなく、新しい動きなのである。「ことばの肉体」が「ことばの肉体」に触れながら、新しい「ことばの肉体の運動」にめざめる。

 こういうことは、いくら書いてもきりがないのだが。
 吉本がらみで、野沢は、こんな批判も展開している。中城ふみ子の短歌を巡る批評である。

 どうして〈肉うすき軟骨の冷ゆる日よ〉が〈いづこにわれの血縁あらむ〉の隠喩(暗喩)となり、後者だけが《作品の思想的な意味》だと言えるのか。吉本の解釈は独断でしかない。(35ページ)

 ここで、野沢は不思議なことをしている。吉本は「暗喩」ということばをつかっている。省略したが34ページでは、野沢は吉本の書いている全文を引用しており、そこには「暗喩」と書かれているのだが、野沢はそれをそのままつかわず「隠喩」と書き直した上で、丸括弧で(隠喩)と補うように書いている。
 「隠喩」は野沢独自の思想を含んだことばであり、それと吉本の「暗喩」を区別したたいのかもしれない。つまり吉本の書いているのは「隠喩」と呼ぶべきものであり、「暗喩」と呼ぶべきものではないということなのかもしれないが、これは乱暴なことばの展開だろう。なぜ、こんなことを書いているか、わからない。「隠喩」と「暗喩」を区別したいのなら、もっと明確に、どこがどう違うのか。吉本の「暗喩」という用語と、野沢の「隠喩」という用語のつかいわけ、どうつかいわけるべきかを、明確にしないといけないだろう。すでに野沢はそういうことを書いているのかもしれないが、私は、記憶力が悪いので思い出せない。
 さらに野沢は吉本の「解釈」を「独断」と断定している。では、それを「独断」と断定するときの、野沢の解釈は? これが何度読んでもわからない。吉本の解釈が独断なのか、野沢の書かれていない解釈が独断ではないのか、いったい、どうやって判断すればいいのか。
 「暗喩」「比喩」の問題は、とても難しい。吉本は〈肉うすき軟骨の冷ゆる日よ〉が〈いづこにわれの血縁あらむ〉の暗喩というが、逆に〈いづこにわれの血縁あらむ〉が〈肉うすき軟骨の冷ゆる日よ〉の暗喩かもしれない。吉本が〈肉うすき軟骨の冷ゆる日よ〉を暗喩と感じたのは、「われの血縁」というものはだれでも確認ができるが(厳密にはだれでも、とはいえないが、多くのひとは確認できるが)、「肉うすき軟骨」というものにはなじみがなく、それは何?と思ったからかもしれない。さらに、どの軟骨か具体的に書かれていないものが「冷える」というのも理解するのがなかなかむずかしい。なじみのないことば(日常的ではない表現)だから「暗喩」と感じたのかもしれない。これは読み手の感じ方次第だから、どうとでも「後出しジャンケン」のようにいうことはできるだろう。どう語ろうと「独断」なのであり、批評(解釈)は「独断」だからおもしろい。学校の試験のように、100点をもらうために、「先生」の「解釈」に合わせる必要はない。
 野沢は、吉本の解釈について「強引な解釈をどうして吉本が繰り出してきたのか、誰にも説明はできないだろう」と書いているが、野沢が野沢自身の解釈を書かず、どうして吉本の解釈を「独断」と断定できたのか、「誰にも説明はできないだろう」と思う。もし、中城の短歌に対する「定説としての解釈」があるのなら、それはそれで、吉本の解釈と対比させ、ここが「独断」という根拠を示すべきだろう。

 野沢は、今回の論の末尾に、こう書いている。

 吉本の〈自己表出〉(と〈指示表出〉)という概念は言語の創造的隠喩性という視点から査問に付さなければならない。(35ページ)

 私は、ここでも「書き手」ということばが必要だと思う。「言語の創造的隠喩性」というよりも、「書き手の創造的」言語活動が生み出す「隠喩」の魅力と読みたい。「書き手」なしに「ことば」の存在を考えることは、私にはできない。

 


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荒川洋治「秋の機械」

2022-10-17 21:24:59 | 詩(雑誌・同人誌)

荒川洋治「秋の機械」(「午前」22、2022年10月25日発行)

 荒川洋治「秋の機械」は、『水駅』を思い起こさせる詩である。荒川の意図は知らないが『水駅』は架空の旅日記である。架空というのは、記憶を旅するということでもあり、そこでは、ことばが「いま」にしばられずに動くということである。

水車小屋には
伯父と、のけものの弟などが多い
羽のある伯父
アントンは郷里を出て東方へ
誰かが店長を呼ぶ 東方からも遠い声で

 「水車小屋」は、「いま」ではない。しかし、それ以上に「のけものの弟」が「いま」ではないだろう。「水車小屋」によって「のけものの弟」が「いま」ではないことが緩和(?)されて、まるで「いま」のように迫ってくる。こういうところが、荒川のことばの絶妙なところである。「郷里」も「いま」ではないが、「のけものの弟」によって「真実味」が出てくる。「水車小屋/のけものの弟/郷里」の関係が、なんともいえず、おもしろい。「のけもの」という「ひらがな」もいいなあ。これが漢字まじりだったら、意味が強くなりすぎて「いま」が壊れてしまう。
 「アントンは郷里を出て東方へ/誰かが店長を呼ぶ 東方からも遠い声で」の「東方」の呼応もいい。捨てた「郷里」でも、たどりついた「異郷」でも、誰かが呼ぶ。その声が「架空」のなかで出会う。ここは、美しい。『水駅』の響きそのままだ。
 でも、それよりも。
 私は二連目が好き。

秋の日、さほど遠くない地点から
何かの工事の機械の音
気体かと思われた部品が
郊外で身を起こし
羽のある伯父を求めてすべっていく
自然の海辺、郡名の浜辺を

 「気体かと思われた部品が」。この一行で、私にとっては、この詩は「絶対的存在」になる。ほかに、ことばはいらない。それなのに、それを追いかけて「郊外で身を起こし」が動く。そのときの「郊外」の美しさ。さらに次の行の「すべっていく」。私は記憶力が悪いので、ものを覚えるということをしない。だから間違っているだろうけれど、『水駅』にも「すべっていく」があると思う。そのままではなく「すべる」かもしれないが。
 「すべる」とは何か。いろいろ「定義」はできるだろうが、私にとっては、それは「なめらかさ」である。
 荒川のこの詩のことばは、架空独特の「なめらかさ」を持っている。「いま」の「現実」との交渉を回避した「なめらかさ」である。

自然の海辺、郡名の浜辺を

 この一行が、それを象徴している。そんなものは、いまどき、「羽のある伯父」以上に、架空の中にしか存在しない。
 でも、いいのだ。
 これは「架空の旅日記」なのだから。

 詩は、まだまだつづくのだが、私は気にしない。詩に限らないが、どんなことばであろうと、全体を「要約」する必要はないし、全部につきあう必要もない。現実に接触のある人間の、現実のことばでも、百分の一も正直に向き合うことはない。私は荒川には会うことはないだろうから、全部のことばに対して感想は書かない。

 

 


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斎藤恵子「つゆ草のあと」、近藤久也「親しく遠い縁者の外伝あるいはその予感」

2022-10-11 21:16:44 | 詩(雑誌・同人誌)

斎藤恵子「つゆ草のあと」、近藤久也「親しく遠い縁者の外伝あるいはその予感」(「ぶーわー」48、2022年10月10日発行)

 斎藤恵子「つゆ草のあと」の一連目。

今朝がた
点呼の夢をみた
もう一人のひとと
人数を数えているのだが
何度しても合わない
 無駄なことです
だれかがいう
みんないるんだと思う

 これが露草(たぶん、青い小さな花)と何の関係があるんだろうか。わからないけれど、あの、はうようにしてはびこる草の花を数えているのかと思うと、なんとなくおかしい。たくさんあるから、間違える。数が合わない、ということかな、とぼんやり思う。

つゆ草を抜く
葉も花も枯れ
のびて蔓だけになり
こんがらがる
根は干からび
地面に
古歯ブラシが置かれたように
苦もなく土地から離れる

 「古歯ブラシが置かれたように」という比喩がなんのことか、さっぱりわからない。細い根っこ(抜いたときに姿をあらわす)が歯ブラシに見えたってこと? はいまわる茎が歯ブラシの軸か。

秋の真昼
つゆ草のあと
ほこほこ
しろく乾いた土に
泣いているように
淡いひかり
わたしのスカートのうえにも

 よくわからないまま(省略した三連目に、全部のことばをつなげる何かがあるのかもしれないけれど)、詩は終わる。「ほこほこ/しろく乾いた土」が、露草を抜いたあとの地面の様子として、とてもおもしろいと思う。そのあと「泣いているように」という唐突な比喩。これが、「しろく乾いた土」と妙に交錯する。「乾いた土」に対して涙(泣いている)の対比が、美しい。
 でも、何のことか、わからない。私は、その部分を美しいと感じたが、美しいと感じるべき行(ことば)なのかどうかもわからない。
 そのままつづけて、見開き左ページの、近藤久也「親しく遠い縁者の外伝あるいはその予感」を読む。

とらわれた窓の小っちゃな視界
隠しもつしなやかな感性は
遠く旅立つ
彼方
ちからや法治の
(葫ニ似タ名ヲ知ラヌ草ノ戦ギニトマドウ)

 これまた、何のことかわからない。わからないが、はっと、思うことがある。私は斎藤の作品を引用するとき、三連目を省略したのだが、それは実はこうである。

極北の監獄から
脱走したひとたちがいた
百年ほど前のこと
斬殺されたり
生き埋めにされたり
革命を考えたひとは
背後から斬られた

 この三連目が、突然、近藤の詩とつながって見えるのである。たぶん「戦ギ」ということばのせいだ。「そよぐ」とひらがな(カタカナ)で書いてあったら、思い起こさなかっただろうが、この「戦ギ」が「斬殺」とつながり、斎藤のことばを引っ張り起こす。さらに近藤の詩には「名ヲ知ラヌ草」がある。斎藤は「つゆ草」と書いているが、あの花の名前を「露草」と知っているひとは何人いるか。(わたしの書いている露草が斎藤の「つゆ草」と同じものだと仮定してだが。)
 で。
 近藤の詩は、こうつづいていく。

ぐねぐね
おもいは暗い腸のように
リズム乱し自ら
収縮もしたのだろうか
(感ジルコト、動クコトハズット以前同ジダッタ)

 ほら、露草の「ぐねぐね」とはい回る茎というか、根というか、それを思い出さない? 「暗い腸」がそれに追い打ちをかける。そして、近藤は(感ジルコト、動クコトハズット以前同ジダッタ)と書くのだけれど、これは「動クコト、感ジルコトハズット以前同ジダッタ」と言い換えてもいいかな。露草を抜く。そのとき「わたし(斎藤)」の肉体が動くと同時に露草の「肉体」も動き、そこから露草の感情を感じる。同じように、斬殺された肉体の動きを思うとき、感情も動く、といえばいいのか。
 あ、斎藤と近藤の詩をごっちゃにしている?
 そうだねえ。これでは、「正しい感想(鑑賞)」とは言えないかもしれない。けれど、私はもともと「正しさ」を求めていない。

寒々とした空白の異郷へ
迫りくる大陸へと
見知らぬひとの
ねじれた内臓を思わせる
不可解な罪
裁き、ふり払って
ぬからむ未知の細道を
闇雲に前進したのだろうか
(ソンナハズハキットナイノダ)

 この部分など、わたしの感想では、完全に斎藤のことばを近藤が読み直しているとしか思えないのだが、

(ソンナハズハキットナイノダ)

 でも、気にしないのだ。私は。四連目も引用し、ひとことふたこと、あるいはもっとつけくわえたいが、これではあまりに強引すぎるかも、と思い、ここでやめておく。
 「つゆ草外伝」として、近藤の詩を読むと、おもしろいなあ、とだけもう一度書いておく。


 

 


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林嗣夫「白い雲」

2022-09-30 10:22:51 | 詩(雑誌・同人誌)

林嗣夫「白い雲」(「兆」195、2022年08月05日発行)

 林嗣夫「白い雲」。「気がついてみたら」とはじまる詩を、気がついてみたら読んでいた。こういう詩である。

気がついてみたら八十歳を越えていた
それがどうした、ということだが
さすがに世界が緩みはじめている

時間というものが
水のように透明で柔らかだったのに
いま砂つぶのように音をたてている

ことばはせわしなく湿ったり 乾いたり
想像力も on off  on off 
とぎれとぎれに散っていく

ところがある日 空を見上げたら
ただ浮かんでいるだけの白い雲が
初初しい姿に輝いていた!

こんな日も あるんだなあ

 ここでおわっても、私はいい詩だなあ、と思う。何かを見て「こんな日も あるんだなあ」とうれしくなる。それで十分。
 でも、林は、このあと2行を追加している。
 さて、なんと書きます? あなたなら。

そばにひとがいて
手をつなぎたくなるような

 私は、とてもうれしくなった。感動した、と書かずにはいられない。なぜなのか、よくわからないし、なぜは考えなくてもいいのかもしれない。
 「こんな日も あるんだなあ」のあとに、私はどんなことばをつづけられるかなあ、とぼんやり思うだけでいい。

 

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細田傳造「土管」

2022-09-21 16:49:04 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「土管」(「妃」24、2022年09月22日発行)

 「妃」は、高岡淳四の詩が載らなくなってからは、私にはなんとなく「遠い」存在なのだが、細田傳造の詩が載っているので救われる気持ちになる。何篇かあるが、「土管」がいちばんおもしろい。
 ひとには忘れられないことがある。その忘れられないことを、そのまま書いている。このときの「正直」が、とてもいい。

原っぱに土管が
置いてあった
入ってみた
蛇がいた
長くて太い青大将
棒で突っついてどかした
恨みぽい目を俺に向けて
のそのそ出て行った
手枕して俺は眠った
おいコドモ
声がして棒で突っつかれた
首を上げて見ると
色の悪い顔をしたおとなの
男と女が臭い息をしている
おれらが使う出て行けとほざく
土管を出た

 さて。
 どこが「正直」? 全部正直だが、「棒で突っついてどかした」と「棒でつっつかれた」が呼応するところがいいなあ。細田は、なんというか「反省能力」とでも呼びたくなる特別な力をもっていて、それが細田を瞬時に、細田と対象を入れ換える。簡単に言うと、あっと言う間に、他人の立場に立って自分を見ることができる。
 蛇を棒で突っついたときは、たぶん、無意識。じゃまなヤツ。それを取り除くにはいろいろな方法があるはずだが、細田は棒で突っついた。自分の手で直接、蛇のからだにさわっているわけではない。棒で突っつかれて、細田は、そのことに気がついた。棒で突っつくとは、どういうことか。そのとき、細田には、その意味がわかった。ことばではなく、別なもので。
 で。
 ここから、いろんなことを書くことができる。「色の悪い顔」とか「臭い息」とか「ほざく」の延長線に、棒でつっつくことの暴力の意味を拡大していくことができるが、そんなことは、細田はしない。それをしてしまえば、それは細田の自身の姿にもなる。ことばの暴力に身を任せて、自分自身を切り離して、「意味の拡張」を展開する詩人もいるが、それは、どこかでウソをつくことである。自分を被害者にしたてることで、自分を守ってしまうことである。細田だって、自由を楽しんでいた蛇を追い出したのである。棒でつっついて。
 ここから一気に転換する。

青空
風が涼しくて
遠くで雲雀が鳴いている

 土管の狭い密室とは大違いだ。蛇のように「恨みぽい目」をしていたに違いない細田はきれいに払拭されている。絶対的な青空、空間の存在が、それを吹き払ってしまう。
 大きく深呼吸して、細田はつづける。これは、過去のことか、それともきょうのことか。

あの日の青大将はもう生きていないだろう
蛇の寿命は二十年
すまないことした

 ほんとうに「すまない」と思っているかどうか。ここが、大事。(あとで、つまり次の連で大事になってくる。)

あの日の
熾盛(さかり)のついたアベックはどうかな
百歳ちかいなふたりとも
生きていねえだろう
ざまあかんかん

 ここでは「男と女」(アベック、という古いことば、もうつかわれなくなったことばを細田は書いている)は、蛇と同じ。「生きていない」。人間を蛇にたとえてしまうと、それは「意味の暴力」になってしまうが、細田がここでしているのは「比喩」による「同一視」ではなく、逆のこと。蛇の絶対性と、人間の絶対性を「相対化」している。「蛇と人間」が「同じ」なのではなく、「蛇と人間」も「同じ」なのだ。「が」ではなく「も」。「死」の前では。
 「ざまあかんかん」といいながら、細田は男と女を完全否定はしていない。完全否定するなら、もっとほかのことばがある。「ざまあかんかん」と言うことで、二人を受け入れている。セックスの欲望がおさえられなくなれば、セックスをする。しかし、やがては死ぬのだ。その「死ぬ」という絶対的な事実の前では、蛇も男と女もかわりはないし、細田もかわりはない。そういうことは、もちろん、人間はめったに意識しない。めったに意識しないが、ある瞬間に、ふと思いつくことがある。そんなことを思いつくなんて思わずに、ひとはいろいろな出会いを繰り返している。
 というようなことを書き続ければ。
 あ、これは、これで私のウソになる。
 蛇に対して「すまないことした」と思い、男と女に「ざまあかんかん」と思う。そのことばの「切り替え」のスピードの中にあるものに、私は感心した、とだけ書くべきだったのだろう。二連目の、「土管の外」の美しい世界、その三行が絶対的な美しさが、この詩をしっかりと支えている。その「絶対的な美しさ」は「正直」の美しさなのだ。
 蛇を棒で突っつくのも正直、蛇にたいしてすまないと思うのも正直、あの男女はもう死んでいる(ざまあかんかん)と思うのも正直。蛇と男と女に対する表現(気持ち)は反対に見えるだけに、それを併存させるというのは、とてもむずかしい。意味が強くなると、それは併存できずに、暴力になる。そのむずかしいことを、細田は、「ばかな話(どうでもいい話)」のように書くことができる。さらり、と。
 細田は高岡淳四のことを知っているだろうか。高岡にも、細田に通じる「正直」があった、と私は記憶している。

 

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米田憲三「風と砂の館にて」

2022-09-19 21:57:30 | 詩(雑誌・同人誌)

米田憲三「風と砂の館にて」(「原型富山」193・194、60周年記念号、2022年09月11日発行)

 米田憲三「風と砂の館にて」には米田自身の「解説」がついている。「基地闘争のメッカ、内灘」。「内灘」は石川県の「内灘海岸」である。えっ、そんなところに「基地」があったのかと、私は驚いた。こう書いてある。「一九五一年、日米安保条約締結、翌年、突如として内灘砂丘は朝鮮戦争向けの武器の試射場に指定され、その土地が接収される」。ここから基地闘争がはじまった。米軍基地反対闘争といえば、いまは沖縄・辺野古だが、かつては日本各地にそういう運動があったのだろう。内灘は朝鮮半島にも近い。だから選ばれたのだろう。武器の試射場の近くには、どうしたって「基地」がある。内灘は米軍基地反対闘争の「聖地」だったのだ。
 米田は、そのときどうしたのか。

この浜を渡すなわれらも死守せんと座り込みをすわが意思として

 「われら」と言って、「わが」と言い直す。そこに「正直」を感じる。常に「われ」にかえること。「われ」を出発点とすること。それが「短歌」のいのちかもしれない。

鉄板道路に座り込む学生集団に銃構え立つ若き米兵

連日の内灘通いに昂るに学長通達あり「授業に戻れ」と

 この光景は、時代を超えてつづく。若者が目にするのは、いつも若者である。同じ時代を生きている。しかし、その動きは違う。なぜ、同じ時代を生きているものが、同じ基盤に立てないか。
 そして、いつでも若者(新しい動き)を否定しようとする「権力」がある。
 こうした動きの中で、米田は、ひとつの風景を描いている。

鉄板道路に押しつぶされし小判草 穂の震えおり着弾のたび

 それは米田の自画像にも見えるし、その闘争に参加している地元のひとたち、そして一緒に参会している学生の仲間にも見える。同時に、私は、そこに「若き米兵」をも見たいのである。
 それは翻って言えば、学生に銃を向ける「若き米兵」にこそ、銃を持たない若い学生の恐怖を感じてもらいたいという思いを誘う。
 「震えおり」、震えている。そのときの「震え」こそが、私は戦争を遠ざけるものだと思う。「震え」の共有。いま、世界に欠けているのは、それだ。「核抑止論」を主張する権力者に欠如しているのは、それだ。

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季村敏夫「薄明」

2022-09-13 09:40:26 | 詩(雑誌・同人誌)

季村敏夫「薄明」(「河口から」8、2022年09月10日発行)

 季村敏夫「薄明」について、私は何を書けるか。

地を覆う水に
はじまりはなく
終わりのない薄明
息をついて語ったひと
近づくおわりのなか
それでも はなやかに
ふだんと 変わりなく
一日のはじまりを慈しみ
より遠くへ呼びかけ
より近くへ
庭のいぶきを呼びよせ
せせらぎに洗われる山麓の
枝先に集まるものをみつめていた

 「息をついて語ってひと」の「息をつく」にひきつけられた。なぜ、「語る」前に、息をつく(吐く)のか。いま「肉体」のなかにあるものを捨て去って、新しく「息」を吸い込み、それをととのえて「声(語り)」にするためだろう、そこには何かしらの「刷新」というものがある。
 何を、どう、新しくするのか。

より遠くへ呼びかけ
より近くへ

 「遠く」と「近く」。しかも、それは「より遠く」と「より近く」。この「より」には「呼びかける(呼ぶ)」という動詞を動かす「感情/意思」のようなものがある。
 「息をつく」のは、この「より」を「より、明確に」するためである。
 「呼びかける」のは「呼びよせる」ためであり、この呼応には「息」そのものの「呼応」がある。息を吐いて、息を吸う。往復があって、「息」が生きる。
 それは「はじまり」と「おわり」なのだが、吐くと吸うのどちらがはじまりであり、どちらが終わりであるのか、ほんとうは決めることはできないのだが、その決めても無意味なことを、「息をつく」と選び取る。季村は、そのひとの、そのあり方に静かに共鳴している。
 「新しく息を吸って」でも「力強く息を吸って」でもない。「息をついて」。その、静かな響きが、美しい。
 これを二連目で、季村は、こう言い直している。

ほんのり風に染まり
水にくぐもる声
あの日 木の椅子から身を起こし
少し横を向き ほほえみ
ゆっくりと立ち上がるまでの
一つひとつの所作
かすれた息づかいまで
この世のものとはおもえなかった

 「所作」と「息」。それは、ひとつのものである。

 

 

 


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石毛拓郎「ゆめつぶしうた」

2022-09-11 21:22:27 | 詩(雑誌・同人誌)

石毛拓郎「ゆめつぶしうた」(「飛脚」34、2022年08月15日発行)

 石毛拓郎「ゆめつぶしうた」は変な詩である。

さあ
つぶして ごらん
ゆっくりと
時を かけて
いまにも くさりそうな
熟れすぎた いちご
それ
それの ひとつひとつを
おまえの 指の 腹に
のせて

 変な詩、というのは、どうしたってここに書かれている「いちご」はほんもののいちごではなく、比喩、とわかるからだ。
 でも、ここからなのだ。
 比喩ならば、指し示すもの(暗示するもの)がある。比喩というのは、それではないもの(いま、ここにはないもの)を借りて、いまここにあるものをより鮮明にするためのものである。
 しかし、「いちご」が何か、私にはわからない。私がばかだからかもしれないが、「いちご」が何かすぐにわかるひとは、よほどかわったひとである。
 たぶん、石毛にも、わからない。
 でも、書いている。何か、わかることがあって、書いている。何が、石毛にわかってほいるのか。
 「つぶす」ということである。「つぶす」とどうなるか。

さあ
つぶして ごらん
すりつぶす ときの
指に ひろがる
うつろな いのち
血と肉
すりつぶされた いちごの
生きる ほこり
息を ふさがれた のぞみ
それ
それでも おまえの
指の 腹を のがれ
もえたぎる みちを うむ
生まれかわる よろこび

 「つぶす」が「すりつぶす」にかわっている。ひとはたぶん「つぶす」だけでは満足しない。「つぶす」のあと、もっと何かがしたくなる。「つぶす」力があるなら、それ以上のことができるはずだ。これは、残忍な、生きる喜びである。
 で、この「喜び」があるからこそ、「すりつぶされた」いちごにも、すりつぶされたあとにまだ残る何かを見て、それに反応してしまう。共感してしまう、いえばいいのかもしれない。SMみたいなのもだ。あ、私は、実際にはそれを知らないのだけれど、きっと似ていると思う。どこにでも「喜び」はあるのだ。「喜び」を見つけてしまうのだ。
 これは人間にとって、何を意味するのだろうか。

さあ
つぶして ごらん
指に ふるえて のこる
まっかな 血と肉の
つぶつぶ
つぶされても つぶれても
なお のこる
のこらねば ならぬ
それ
つぶつぶ
たねの ゆめ
血まみれに のこる
ぶつぶつ

 さて。
 この「つぶす」「つぶされる」、指といちご。私は、どっち?
 「つぶして ごらん」と言っているのは石毛? それともいちご。しかも、くさりそうな、熟れすぎたいちご?
 そのいちご、つぶしてしまわなければ、くさってつぶれてしまう。
 ベケットなら、そういうだろうか。
 ふいに、そう思いながら、また、それじゃあ、「つぶす人(ゴドー)」はやってくるの? やってこないの? とも思うのだ。
 最終連で、突然出てきた(と、言っても必然的になのだが)、「のこる」という動詞。これは「のこる」だけではなく「のこらねば ならぬ」という形で繰り返される。それは単純な動詞ではない。「意思」(あるいは決意)を持った動詞である。ウラジミールとエストラゴンにも「意思/精神」はある。
 で、その決意、あるいは意思、あるいは精神って……。

ぶつぶつ

 「つぶつぶ」が逆転して「ぶつぶつ」。「つぶつぶ」の中身と「ぶつぶつ」。
 
 私は、いま、この「ぶつぶつ」に励まされている。私の書いていることは、論理でもなければ、結論でもない。ただの「ぶつぶつ」のことば。不明瞭なことばの、口ごもり。この「口ごもり」を、私は生きるつもりでいる。
 どういう動詞にも、ほんとうは「決意」がある。「つぶす」にも「つぶす」意思が必要だ。そうであるなら、その「意思」に向かって、いつまでも「ぶつぶつ」と言ってみる。だれにも通じない、だれにも「ぶつぶつ」としか聞こえないことばで。「さあ/つぶして ごらん」と、ときどき、だれにも聞こえることばも交えながら。

 

 

 

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細田傳造「太政大臣」

2022-09-10 08:57:35 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「太政大臣」(「雨期」79、2022年08月30日発行)

 細田傳造「太政大臣」を読みながら、うーむ、と思う。

世の中を造っている
まかされて世の中を造っている
俺は太政大臣
ほらあそこ
水たまりでくるくる
水すましが回っている
いい世の中だろうだろう
俺は太政大臣
そこ行く新内流し
あなたに
かどづけは国庫から出す
いい世の中だろう

 何が「うーむ」なのか。まず、「太政大臣」。いま、いる? いないね。私は歴史にうといので、いつの時代まで太政大臣がいたのか知らない。わかるのは、いまはいないということ。いまいない「太政大臣」をなぜ書くのか。
 比喩は、いまここにあるものを、いまここにないものを借りて、何らかの意味を明確にする(強調する)ためにつかわれる。ほんとうは、それではないものを、それを借りることで、いまここにあるものを明確にする。
 では、細田の「太政大臣」は何を明確にしているのか。

世の中を造っている
まかされて世の中を造っている

 一行目に、「まかされて」ということばが追加されて二行目が産まれ、それを引き継いで「太政大臣」ということばが動く。何ごとかを「まかされている」人間だ。そして、その何ごとが何かといえば「世の中を造る」こと。
 それでは「世の中」とは何か。「造る」とは何か。そういうことが、少しずつ語られる。
 世の中が「水たまり」か。あるいは世の中が「水すまし」か。「くるくる」「回る」が世の中か。これは何かの比喩か。比喩かもしれない。しかし、ここでは、それ以上私は考えない。いいじゃないか、と思う。たとえば、私が「水すまし」で小さな「水たまり」で「くるくる回っている」だけ。対して不満はない。そうやって「くるくる回る」ことで生きているなら、それはそれでいいなあと思う。何より、平和だ。そうだろう、だろう。
 でも、そのあとはどうかなあ。「新内流し」は「水すまし」と違って遊んでいるわけではない。そのあとの、

かどづけは国庫から出す

 「かどづけ」か。まあ、必要だ。「国庫から出す」。えっ、「太政大臣」って、そういうことか。自腹ではせない。「国庫から」。「国庫」って、何さ。
 「かどづけ」をもらって、「いい世の中」と思えるかどうか。ここから「太政大臣」への批判をはじめることができる。でも細田は、そういうヒントを提示するだけ。細田が主体となって批判するわけではない。(読者が、批判をするのは、勝手。)細田は「おれは」と、細田自身が批判されることを引き受る用意があるというポーズを見せる。二重の批判だね。--この二重性は、細田のことばの重要な特徴だが、書いているとめんどうになるので、今回は省略。

 さてさて。
 なぜ「太政大臣」なのか、「新内流し」なのか、「ことづけ」なのか。
 そして、いまはつかわれない(?)そういうことばにまじって、突然「国庫」といういまつかわれることばがまじってくる。
 ここから、いろんなことが考えられる。いろんなことを私は考える。しかし、詩は意味ではなく、あくまでもことばなのだから、私は意味には踏み込まない。ことばにとどまって考える。ことばにとどまって考えたことだけを書いておく。
 ことばにはいろいろなものがある。「太政大臣」「新内流し」。これは「歴史」になってしまったことばである。これを比喩として把握し、そこに「意味」をつけくわえていくことでひとつの「暗喩」が成り立つが、その「意味」を私は解説したくはない。いまの視点からの解釈は、いわゆる修正主義だからね。つまり、なんでも正当化してしまうことができるからね。
 一方、「国庫」ということばがある。これは「太政大臣」「新内流し」ということばが世の中に生きていたときも、いっしょに生きていた。そして「太政大臣」「新内流し」「かどづけ」ということばが死んでしまったいまでも(「新内流し」を死んでしまったといってはいけないだろうが、「ストリートミュージシャン」のように生きているとは言えない)、「国庫」は生きている。「国庫」は、なんというか、時間を生き延びている。このことばには解釈はいらない。修正主義に陥らずに、そのままつかえる。
 そして、このことば、「いまも生きていることば」が、大げさに言うと、共時性と通時性を交錯させている。細田は「通時性」だけを語るわけではない。また「共時性」だけを語るわけでもない。いつも、それが交錯する。その瞬間に、怒りなのか、軽蔑なのか、悲しみなのか、笑いなのか、私は判断しないが、突然、「肉体」が瞬間的にあらわれて、「概念」というか「意味」を突き破って動く。
 ここで、私は「うーむ」とうなる。
 ほんとうは、それだけで「批評」になるはずなのだが(私がほんとうに目指しているのはそういうことなのだが)、私は「うーむ」だけで「肉体」を支える度量がないので、ついつい、あれこれと追加する。

 

 

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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
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(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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