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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

君野隆久「冬の地図」ほか

2023-03-23 11:14:07 | 詩(雑誌・同人誌)

君野隆久「冬の地図」ほか(「左庭」52、2023年03月15日発行)

 君野隆久「冬の地図」は、定型詩が乱れたような詩である。

ゆきのはだらの
なげきはあれど
うすらひをふみ
ふゆのひを
法外なひかりの
つよさのもとに
ひとどもの
恐るおそる歩む
さまはさながら
地に
ひそむいかづち
を避けるが如く
蛇行し、跛行し

 ことばの形を統一しようとする思いと、乱れても書くしかない思いが交錯しているのか。ここにあるのは邪心か、正直か。よくわからない。そういう風に乱れるのがこころかもしれないと思うが、君野がそれを意識しているか無意識なのか、それもよくわからない。そして、そのよくわからないことが、私にはとても気になる。
 何よりも「はだら」「うすらひ」という柔らかな音と、「法外」「蛇行」「跛行」の硬い音の交錯が気になる。視覚も、聴覚も、何か、統一されることを嫌っている。

そのような地図
があったとして
折り目が
綻ばないように
音のない動悸の
苦しみに緊張し
しずかにたたむ

 詩を「意味」に要約してしまっては詩にならないが、ここには確かに「苦しみ」という名前の「緊張」が「たたまれている」のだろう。「折り目」はどんなに注意してみても、くりかえせばかならず「綻びる」。そうであるなら、「たたむ」と同時に、それを「逃がす」ということも必要だろう。
 その「逃がす」行為としての、詩、ということになるのか。
 そのことを告げる、この最終連は、とても美しい。「冬の地図」とは「折り目」がつくる地図である。「苦しみ」とは言わずに、私は、それを「時間」と思って読んだ。

 江里昭彦が俳句を書いている。

樹下にして省く色なし岩清水

 「樹下にして」という漢語調(?)の響きが「省く色なし」と強く結びついていて、とても美しい。「省く色なし」のあとに「即」が隠れていて「岩清水」とつながる。遠心・求心の強さがある。
 これが少しずつほどかれて

やがて来む弟を待て湧きみずよ
みず飲んで旅も盗みも同じこと
風哭かずば弟の声聴きとれず

 と静かに悲しみに変化していく。「弟」が実在か、虚構か、私は知らないが、ここには何か虚構の響きがある。こころは虚構のなかで解放される、その解放のために詩はあるのかもしれない。
 私は弟を持たないが、江口の句を読みながら、弟を思ったひとの、悲しみ(苦悩)と甘えを思った。「甘え」と書くと語弊があるかもしれない。「安心」と言い換えれば、それは君野の書いた「地図」になるだろう。
 「地図」は、その道を歩いたときだけ、ほんとうの「地図」になる。「地図」は、歩いたあとに、うしろにできるものである。あらゆることばが遅れてやってくるように、地図は遅れて完成する。つまり、地図にしたがって歩いても、どこにもたどりつけない。その不可能の記録が詩である。

 君野は、また中井久夫の思い出を書いている。私なりに要約すれば、それは「ことばはとどく」ということである。冨岡郁子の「なんて強いことば」というエッセイも、同じことを語っているかもしれない。
 私の経験を書いておくと。
 「ことばはとどく」と感じたのは、つい先日、中井久夫集3(みすず書房、2017年07月10日発行)を読んでいたときのことである。私は「解説」というものを、ほとんど皆無というくらいに読まない。先日、その本を読んでいたとき、たまたま、解説の中に中井の訳した詩が載っていたからである。最相葉月は詩をどう読んでいるのか、とふと思って読み始めた。そうしたら、そこに私の名前が出て来た。私は、どんなひとのことばに対する感想でも、その書いたひとに向けて書いている。ほかのひとが読んで、何もわからなくてもいい、書いたひとに伝えたいことがあって書いている。私が書いた中井訳の詩に対する感想も、中井に向けて書いたものである。だから、平気で「誤読」を書きつらねている。カヴァフィスやリッツオスの詩に対する批評でも感想でもないからだ。カヴァフィスやリッツオスの詩の読者に向けての「紹介」ではないからだ。翻訳した中井に向けて、この詩はこういう詩です、といってみたってしようがない。中井の方が私よりはるかに詳しく知っている。私が考えることができるのは、中井のことばについてだけだからである。そういうことばが、中井以外のだれかにとどくとは思ってもいなかった。ところが、最相にとどいたように見える。これは、私にはたいへんな驚きであった。そして、たいへんな励ましでもあった。
 しばらく「詩はどこにあるか」で詩の感想を書くのを中断していたのだが、再会する気になったのは、そのためである。

 

 

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ツチヤタカユキ「プラネタリウム・テイクアウト・デイズ」

2023-03-21 18:17:55 | 詩(雑誌・同人誌)

ツチヤタカユキ「プラネタリウム・テイクアウト・デイズ」(「ココア共和国」2023年2月号)

 ツチヤタカユキ「プラネタリウム・テイクアウト・デイズ」は、こうはじまる。

地球上の人類全員に、つけられるようになった順位。
政府から届いた封筒には、『あなたが最下位になりました』。

その夜、神様がなくしてしまった、地球を作るレシピを拾う。
そこには『ビックバン大さじ1+アダムとイブ』と書いてあって、
私は自分の脳内で、大さじ1のビックバンを起こして、そこに小さな
地球を作った。

 空想の世界である。空想の世界だから何が起きてもいい。だいたい空想にストーリーは必要がない。そういう点では、詩、そのものである。だれも過去に何が起きたか気にしない。これから起きることだけを期待して読む。ストーリーに整合性はなくてもいい。整合性がない方がおもしろい。整合性のかわりにあるのは、何か。人によって、違う。ことばのエネルギーの場合もあれば、「文体の統一」(リズム感の統一)というのも、ある。
 ツチヤタカユキは「文体の統一」で動いている。

その帰り道、神様がなくしてしまった、天使の採用試験問題を拾う。
そこに書いてあった質問に答えた瞬間、
私の順位は1位になった。

Q.『人間の平均寿命が3分間になった世界で、君は何をして、一生を
   終える?』

「カップラーメンにお湯を入れて、次に生まれた奴に食わせる」。

 最後の「奴」がとてもいい。
 3分間、カップラーメンだけでは、ちょっと気の利いた「落語」のようなものである。気取った詩人が見落としていたものを拾い上げて世界を作ってみた、という感じ。「論理」が目立ってしまう。
 この「奴」が「人」だったら、とても気持ちが悪い詩になる。
 「奴」には、軽蔑と親しみの、ふたつの響きがある。それは「人類」や「政府」「神様」「天使」にも通じる。
 私は、ツチヤタカユキがつかっていることばで何か語ろうとは思わないが、「奴」はつかってみたいかな、と思った。「奴」には、何か、「人類」「神様」、それから「順位」というようなものを、ちゃらにする力がある。その力で、詩が統一されている。

 

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中本道代「小さきもの」

2023-03-20 21:19:12 | 詩(雑誌・同人誌)

中本道代「小さきもの」(「交野が腹」94、2023年04月01日発行)

 中本道代「小さきもの」の書き出し。

窓の方へ
少しだけ開いた窓の方へ
立たない手足でもがきながらにじり寄っていく

 「窓の方へ」を「少しだけ開いた窓の方へ」と言い直したとき、この詩は、ひとつの方向性を持つ。「大きく開いた」ではなく「小さく開いた」は、世界を限定する。そのあとに「立たない手足」「もがく」「にじり寄る」がつづくのは必然である。
 この必然を、どう裏切るか。

草木の息で満ちた大気
複雑な土の匂い

 「満ちる」という動詞と、「大気」のなかにある「大」という文字。これは、一種の補色のようなものである。「少し」からはじまる「弱いもの」の対極にある。しかし、それは「弱さ」を強調されるための、一瞬の、反対概念である。
 「複雑」と、中本自身が、解説してしまう。
 こういう行というか、ことばの展開を、どう評価するかは、詩の問題では非常に大きくなる。たぶん、「論理的」という評価に落ち着いているのだと思う。「論理の粘着力」と言ってもいいかもしれない。それが中本の、ことばのリズムの特徴だろうと思う。
 このリズムが、しつこくなっていく。

馴染んでいた場所に戻りたい
呼吸が早い
珍しい宝石だったような眼が見開かれて
まだ何かが見えてくるのか
早い呼吸が続く
黄昏が降りるころ
激しく頭を上げて息を吐きだし 息を吐きだし
背中を上下させていた息の流れが止まっていく
それでもまだ息を吐きだし 手足をもがき
息を吐きだし
そしてすべての動きが止まる

 「息を吐きだし」だけでは、中本にとっては不十分なのだろう。「それでも」に「まだ」も追加している。
 これが、中本の「キーワード」。あちこちに、「それでもまだ」が隠れている。

窓の方へ
少しだけ開いた窓の方へ
立たない手足でもがきながら「それでもまだ」にじり寄っていく
草木の息で満ちた大気
複雑な土の匂い
馴染んでいた場所に「それでもまだ」戻りたい
呼吸が早い
珍しい宝石だったような眼が「それでもまだ」見開かれて
「それでも」まだ何かが見えてくるのか
早い呼吸が「それでもまだ」続く

 「手足のない/小さきもの」の動き(動詞)には、いつも「それでもまだ」が隠れている。隠れてしまうことができなくて「まだ」が露出している行もある。
 「手足のない/小さきもの」の「それでもまだ」が、しつこく繰り返される。「それでもまだ」という意思の力が、自然と浮かび上がってくる。私はこういう首尾一貫した「粘着力」のある文体は、好きである。

 

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池田順子「たたむ」

2023-03-12 22:18:32 | 詩(雑誌・同人誌)

池田順子「たたむ」 (「ガーネット」99、2023年03月01日発行)

 池田順子「たたむ」を読む。

夕陽が畳に届くころ
母は
正座する

 この一連目を読んだ瞬間に「膝をたたむ」ということばが、やってきた。「膝をたたむ」という表現は辞書にはないのだが(「広辞苑」にはのっていなかったが)、私は「正座する」ことを「膝をたたむ」と聞いたような気がするのである。いまは正座をすることがないから、そんなことばを忘れていたが、私の田舎では「膝をたたむ」と言ったような、かすかな記憶がある。
 そして、私は、正座をしている母を思い出したのである。何をしていたのか。
 池田の詩は、こうつづいていく。

弾む光に
膝はあかるい
空き地のよう

小石の囁きが溢れる
ズボンのポケット
夢の匂いのする
シーツのしわをのばし
憂いはゆびで弾き飛ばす
枕のくぼみに
明日の約束を仕舞う

陽をたたみ終えると
母は
つま先から
母を裏返すのだった

 「シーツのしわをのばし」「陽をたたみ終える」ということばから、私は、洗濯物を畳んでいる母を思い出した。
 あ、昔は、洗濯物をたたむときでさえ正座をしたなあ。
 それはなぜなんだろうか。
 あれは、感謝のあらわれだったのかもしれない。太陽に対する感謝。洗濯物をかわかしてくれた太陽への感謝。太陽に返すものは何もない。だから、正座をして、自分を整えて、手の届かない何かに気持ちを伝える。

つま先から
母を裏返すのだった

 これが何をあらわすのかわからないが(前の部分も何を意味しているか、私は、わからないが。つまり、私は「誤読」しているのかもしれないのだが)、正座から立ち上がるとき、まず爪先を立てる、それから爪先を起点にして足裏をつける。その動きは、たしかに「裏返す」かもしれないなあ、と考えたりする。
 「たたむ」という行為は、とても不思議な力を持っている。洗濯物、衣類がそうだけれど、乱雑に積んでおくと、かなりの場所をとる。しかし、丁寧にたたむと、それは意外と小さな形になる。引き出しに放り込んだセーターやシャツは、乱れた形だとすぐに引き出しを埋めてしまうが、丁寧にたたむとスペースが簡単に生まれる。「むだ」がなくなる。
 正座をすることを「膝をたたむ」というのだとしたら、そのとき、きっと私は何かの「むだ」を省略しているのだろう。それは、別なことばで言えば、別な力を貯めているのかもしれない。そのときはつかわなかった力をつかうために立ち上がる。爪先をつかって、いちばん小さな動きで。
 そんなことを思った。
 ここには「小さな動き」を大切にする生き方が、とても静かな形で書かれている。
 「明日の約束を仕舞う」の「仕舞う」も美しいことばだなあ、と思いながら読んだ。何か特別なことが書かれているわけではないが、その特別なことではないということが、それがとても特別なことなのかもしれない、と思える詩である。

 だれか、「膝をたたむ」ということばを聞いた記憶のある人はいませんか?

 

 

 


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細田傳造「うん」

2023-03-08 23:54:59 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「うん」(「ぶーわー」49、2023年03月10日発行)

 細田傳造「うん」を読む。どこまでがほんとうで、どこからが嘘か、わからない。しかし、嘘にしたって、それを書いているときは、それを書かずにいられないほんとうがあるのである。だから、みんなほんとうと思って読む。詩を書く人間は人をたぶらかしているし、読む人間もだまされてもともとと思って読んでいる。どっちにしたって、人の書いた詩は、自分とは関係がない。それは私の生活ではないのだから、何が書いてあったってかまわない。そのことばのなかで、私は、私の考えたいことを考えるだけである。

おやじ友達出来たか
慈悲が来たりてきく
うん さんにん
三人もか よかったなおやじ
うんさんは海埜と書いてうんのと読むんだ
交際のきっかけのくわしいいきさつはおしえない

 とはじまる。「おやじ(細田か)」は「慈悲(息子か)」と会話している。二人目もうんさん。百万円拾って届けたら落とし主が現れないので、自分のものになった。運がいいからうんさん、とつづけて三人目。

さんにんめの御友達もおんなのひとか
もちろんご婦人だ
いつもうんこのニオイがしている
なまえはしらない
うんさんとよんでいる
身近なカオリでおちくつ
勃起させてくれる
ここは酸素が濃い

 なんといってもおもしろいのは、ことばの「口調」が、整えられていないことだ。親切なのか、冷酷なのか、丁寧なのか、乱暴なのか。皮肉を言っているか、うらやましがっているのか。「うんこのニオイ」を「身近なカオリ」と言い直したあとで「勃起」か、とうなってしまう。
 ここでは、ことばは「知性」ではない。ことばは「肉体」のまま動いている。
 で、ことばが「肉体」であるとき、それはどんなに乱暴(暴力的)であっても、「知性」の暴力に比べれば何のことはない。「知性」は肉体を持たないから、他人を徹底的に破滅させてしまうが(核兵器がその代表)、「肉体」には、そこまでできない。
 どうしても「肉体」が触れ合うと「反応」が「肉体」にかえってくるから、どこかで、何かが連絡し合う。まあ、一種の「セックス」である。そんなことを感じさせるところが「ほんとう」である。
 
片貝の養老ホテル
いいところにおしこんでくれてありがとうよ
もつべきものは愚息だなあ
韓国語でも運はうんという
うつくしいわが人生である
うん

 いいなあ、この終わり方。細田は、「受け入れる」ということを知っている。「受け入れる」ことが生きること、交わることなのだ。交わったら、そうだね、ちゃんと「エクスタシー」まで、「肉体」のかぎりつくす。
 その「つくす」が、いつでも細田のことばのなかにある。「ほんとう」がなければ、つくせないからね。

 

 


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林嗣夫「わが方丈記・2」、やまもとさいみ「さよならは」

2023-03-02 10:31:04 | 詩(雑誌・同人誌)

林嗣夫「わが方丈記・2」、やまもとさいみ「さよならは」(「兆」197、2023年02月10日発行)

 林嗣夫「わが方丈記・2」の後半。小中学校の不登校が増えているという新聞の記事をみながらの感想のあと、こう書いている。

またも新聞の見出しに驚いた
「戦後日本の安保転換
 敵基地攻撃能力保有」!
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して(憲法前文)、と
わたしたちは決意したのではなかったか

ここにきて
一つ納得するものがある
「敵基地」という
毒性の強い共同幻想が
少しずつ 用意されてきたのだ

 「敵基地」というよりも、「敵」ということばが、いったいどこから来たか、と私は考えてしまう。
 中井久夫はエッセイのなかで、戦争中、空襲に恐怖を感じたが、アメリカに敵意は感じなかった、と書いていた。そのことも思い出した。
 「敵」という「ことば(概念)」は、とてもむずかしい。私は自分自身からそのことばをつかったことがあるかどうか、よく思い出せない。それは、なんというか、私にとっては「組織的な概念」である。ひとりでは立ち向かうことができない何か。それに立ち向かうためには、まず「組織」をつくらないといけない。これが、私には苦手だ。だから、そういう苦手なことをしないようにしないようにしているうちに「敵」という考えが、自分のなかから自発的(?)に出てくることがなくなったのかもしれない。
 聞いたらわかるが、自分ではつかわない。そういうことばが、私にはたくさんあるが、そのひとつが「敵」だ。
 新聞記事の「いやらしさ」は「敵」とだけ書くのではなく「敵基地」と書いていることだ。これは、まあ「政府の受け売り」だけれどね。「敵」と「敵基地」はどう違うか。「敵」といえば人間を思い浮かべるが、「敵基地」と聞いたとき、そこに何人の人間の存在を思い浮かべるだろうか。人間よりも、「武器のある場所」を思うだろう。それから、「武器を動かす人」を思うかもしれないが、その「武器」が「野球バット」だけだったら「基地」ということばはついてまわらないだろう。だから、「敵基地」というとき、思い浮かべるのは、やっぱり「武器」だと思う。たとえば、ミサイル、とか。で、それは逆に言えば「敵基地」ということばは、人間の存在を隠してしまうことばなのである。
 人間を殺さない。武器だけを破壊する。それが「敵基地攻撃」。
 そんなことは、できないね。
 「ことば」は何かを表現するためにある。しかし、「ことば」は何かを隠すためにもある。隠すための「ことば」が増えている。「敵基地」は「人間がいる」ということを隠すために「発明されたことば」である、と私は思う。
 「隠すためのことば」とどう向き合い、どう「ことば」を動かしていくか。そのことを考えないといけないのだと思う。

 やまもとさいみ「さよならは」。

さようならと言えば
さようならと返ってくる

じゃあまたと言えば
じゃあまたと返ってくる

さよならはこだま
返ってくることば言葉
でなければならない

さようならと言って
さようならと返ってこなければ
きっと言葉を間違えているのだ

 「さようなら」という「ことば」が何かを隠しているとき、「さようなら」が返ってこないのだろう。隠している何かは、それまでに起きた何かだろう。「隠されているもの」を、少しずつ、探していく(明るみに出していく)ために、ことばを動かしてみる必要がある。


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谷川俊太郎「音楽の事実」

2023-02-24 12:16:21 | 詩(雑誌・同人誌)

谷川俊太郎「音楽の事実」(「森羅」29、2023年03月09日発行)

 谷川俊太郎「音楽の事実」を読みながら。

その何小節かのピアノが私にもたらした感情は
悲しみという一つの名では呼べない
初めて聞いた時記憶には残ったが
それは私の奥深くには入って来なかった
曲名も作曲者も未知のまま何年かが過ぎた

 ここに出てくるの「私」を、私は「谷川俊太郎」と思って読む。「悲しみというひとつの名では呼べない」という一行、特に、ここで「悲しみ」ということばを選ぶのは「谷川印(谷川語)」のようなものである。
 ところが。

妻に去られた中年の警察官が
スコッチのグラス片手にレコードに針を落とした時
思いがけずテレビからそれが聞こえてきた
その数小節の旋律と和音の動きが
突然私にひそむ何かと共鳴したのだろうか
琴線に触れるとはこういうことか
他人事のように思いながら私はそれを聞いた

 この二連目の「私」はだれか。「谷川俊太郎」か。最後まで読むとわかるのだが、ここに出てくる「警察官」は小説の登場人物である。だから、ここで音楽を聴いているのは小説の主人公である。小説のなかだから、その音楽を実際に聞くことができるのは、小説の登場人物だけである。そうすると、この「私」は警官になる。
 一連目にさかのぼり、一連目の「私」も警官であるととらえれば、論理的には矛盾は亡くなる。谷川は警官に成り代わって、詩を書いている。
 しかし、そうなのか。
 三連目。

話はそれだけでエピソードにもならない
話しても伝わらないその数小節のピアノの
前世の思い出のような音の浮遊を
言葉に留めようとした私の慢心…

 この「私」は「警官」? 「谷川俊太郎」? もちろん、警官と考えることはできる。しかし、警官は、そんなことをことばにしようと思うだろうか。書き留めようと思うだろうか。予想外のことをするから、そこに詩が生まれる、といいえばそれはそうだが。
 名前を取り払って「私」を「心」と置き換えれば、どうなるか。

その何小節かのピアノが「心」にもたらした感情は
悲しみというひとつの名では呼べない
初めて聞いた時記憶には残ったが
それは「心」の奥深くには入って来なかった

その数小節の旋律と和音の動きが
突然「心」にひそむ何かと共鳴したのだろうか
琴線に触れるとはこういうことか
他人事のように思いながら「心」はそれを聞いた

言葉に留めようとした「心」の慢心…

 最後は「心の慢心」となり、座りは悪いが、「意味」は通じるだろう。だれの「心」であってもかまわない。「不変」に通じる「心」。音楽が「個人」の枠を超えてつたわるように、「ことば」もまた「個人」の枠を超えてつながる。これは「だれのものでもある(だれのものであってもかまわない=だれにでも共通する)こころ」が経験したことなのである。
 でもね。

この個人的でしかない経験に嘘はない
曲はブラームスの間奏曲変ホ長調作品117-1
警官の名はジェッシー・ストーン
ロバート・パーカー作の小説中の人物

 「だれのものでもない心」は否定され、「個人的経験」が強調される。
 つまり「私」は「谷川俊太郎」という個人に引き戻される。
 さて、どんな註釈、あるいは解釈をすれば、この作品は「論理的」な矛盾を克服できるか。
 「曲名も作曲者」も知らない「何小節」かの「ピアノの音」。それが曲名が小説のなかに書かれていたとして、曲名を知らないのに、どうしてその曲だと理解できるのか。小説なのだから、音は聞こえてこない。「妻に去られた」「悲しみ(という一つの名で呼べない感情)」がその小説のなかに書かれていたから、その曲だとわかったのか。 
 こんなことは、どこまでもテキトウに書きつづけることができるかもしれない。「論理」というのは、後出しジャンケンであり、不都合が見つかれば、そのつど修正する。脳というのは、いつでも、一番都合がいいように考える癖がついている。
 「ことば」というのはとても便利なもので、「さっき言った(書いた)ことは間違いで、本当はこうだと気がついた」と言えば、何ごともなかったかのように「修正」がおわってしまう。さらに何ごとが「疑問」をつきつけられたりしたときには、その部分はまだ私にもよく理解できていないのでうまく言えないが、といってごまかすこともできる。
 こんなことを言ってしまっては何にもならないが。
 谷川だって、こんなふうに書いている。

どんな言葉も所詮虚構でしかないが
音楽は動きやまない事実だった

 「言葉は所詮虚構」。虚構だから、いつでも変更できる。「こころ」みたいなものかもしれない。いや「脳」の「論理」みたいなものだ。
 だいたい「変」でしょ?

妻に去られた中年の警察官が
スコッチのグラス片手にレコードに針を落とした時
思いがけずテレビからそれが聞こえてきた
 
 警官がレコードに針を落としたのなら、レコードから音が聞こえるはず。しかし、テレビから聞こえてくる。この「矛盾(飛躍?)」を解消するためには、谷川が小説を読んでいて、その小説のなかで警官がレコードをかけたら、その曲が谷川のいる部屋の中のテレビから聞こえてきた(谷川は、テレビを見ながら?、小説を読んでいた。もちろん、テレビは隣の部屋にあって、音だけが聞こえてきたということもある)。あるいは、警官がレコードをかけるのにあわせて、同時に、テレビでもその曲を流した(警官はテレビをつけながら、レコードを聞くのである)。
 「脳」はいつでも脳自身が納得できる「論理」をでっちあげる。
 だから、「論理」を追及してもだめなのだ。
 むしろ、「論理」を超越しなければならない。

その数小節の旋律と和音の動きが
突然私にひそむ何かと共鳴したのだろうか
琴線に触れるとはこういうことか
他人事のように思いながら私はそれを聞いた

 「他人」ということばが出てくる。
 ある瞬間「私」は「他人」になる。「他人」を発見する。「他人」なのだから、「いまの私」と「矛盾」していて、あたりまえなのだ。「私」は変更できるが、「他人」は変更できない。自分の「意思」とは関係なく、そこに存在している。
 「他人」とは「事実」である。

どんな言葉も所詮虚構でしかないが
音楽は動きやまない事実だった


 「音楽」とは「変更できない他人=事実」である、と想えばいい。「音楽」を聞くことは「他人」を発見することなのだ。「他人」に出会うことなのだ。
 「音楽」を聞いた。その瞬間「こころ」が動いた。その「こころ」がどんな「感情」かわからない。「他人の感情」だからだ。いや、谷川が谷川でなくなった、つまり「他人」になって聞いた音楽である。だから、谷川は、その「他人になってしまった谷川のこころ」を探すのである。その過程で、警官になったり、また谷川自身に戻ってきたりするのである。

 谷川を「他人」にしたり、谷川自身にもどすというか、谷川の内部へもぐりこませてしまう音楽……谷川は音楽が好き、ということを書きたかった。ブラームスの曲について書きたかった。そのとき、ことばは、いろんな矛盾、あいまいなものを抱え込む。「私」もまた、動きやまない「事実」として存在する。「私」は「私」を思ったときにだけ存在するものなのだ。「他人」は思いがけないときにやってくる。

                      (引用の「117-1」は横書き。)

 


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池井昌樹「何処か」

2023-02-21 12:17:24 | 詩(雑誌・同人誌)

池井昌樹「何処か」(「森羅」29、2023年03月09日発行)

 池井昌樹「何処か」の全行。

このよのどこか
モーツァルトのほねがある
あるときそれをかんがえる
どんなかなしいこころより
かなしいほねが
このよのどこか
きっとある
こころがくらくしずむとき
どうしようもなくしずむとき
このよでも
あのよでもない
わたくしの
こころにもないどこからか
ほのぼのと
またたきかける
ほねがある

 「ほのぼのと」か……。
 前に出てくる「くらくしずむとき」の「くらく」に対して言えば、その反対の「明るさ」、うっすらした明かりになるし、「かなしい」「さびしい」を手がかりにして読めば「やわらかな温かさ」になるかもしれない。
 池井は、それを静かに結びつけている。
 静かな明るさ、静かな温かさ、かすかな明るさ、かすかな温かさと言ってもいいかもしれない。
 そうすると、それは、もしかすると「明るさ/温かさ」というよりも、「静かな/かすかな」の方が大切な要素かもしれない。
 「ままたき」に通じるのは、「明るい/温かな」ではなく、「静かな/かすかな」だろう。
 詩を貫いているのは、この「静かな(静かに)/かすかな(かすかに)」だろう。
 骨には、明るさ、温かさは、似合わないと私は感じる。だから、よけいに、そう思う。
 三行目にことばを補って読んでみる。

あるときそれを「静かに/かすかに」かんがえる

 そうすると

静かに/かすかに
またたきかける
ほねがある

 とつながる。
 この詩には、そういう、静けさ、かすかな感じがあふれている。同じことばが何度も繰り返され、激しく動いていかないところにも、「静かな/かすかな」ものを感じる。
 ピアニッシモもよりもっと小さな「音」。それは「聞こえてくる」のではなく、むしろ「聞き出す」音であり、音楽である。聞かない限り、聞こえない音が、この詩を貫いている。
 「モーツァルトのほね」という、非常に印象的な、鋭い音ではじまっているので、(また「ほねがある」という強い音でおわっているので)、この静けさ、かすかさは、その激しい音に隠されてしまいそうだが、だからこそ聞こえてくるのを待つのではなく、読者が聞きに行かなければならないのである。
 と書くと「書きすぎ」になるが、ぜひ、この静かな、かすかな音を多くの人に聞き取ってもらいたいので、ついつい書いてしまった。

 


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田原「言葉から言葉へ」

2023-02-13 16:42:09 | 詩(雑誌・同人誌)

田原「言葉から言葉へ」(「すばる」2023年03月号)

 田原「言葉から言葉へ」は、谷川俊太郎と高橋睦郎の対談「詩の生まれるところ」のあとに編集されている。対談と、何か関係があるのか、ないのか、よくわからない。対談が田原のことばではじまっているので、「詩のはじまりと、ことばの関係」について考えるというテーマがあったのかもしれない。
 野沢啓の『言語隠喩論』のことを少し思った。
 田原は、こう書き始めている。

 詩はいったいどこからやってきたのだろう。(略)言葉から来ているのは間違いないし、言葉から言葉へと進む行為であるのも間違いない。では、言葉とは何だろう。それは言語から生まれてくるとしか考えられない。

 「言葉」と「言語」と、「ことば」をあらわす用語がふたつある。それは、どう違うのか。田原は、「言語」を、こう定義している。

言語は、思考とコミュニケーション(意思伝達)の道具であり、人間の思惟活動と密接な関係性を維持している。世界中に様々な言語が存在しているが、どの言語もだいたい文字、音声とボディーランゲージという三種類からなっている。

 この定義で私が注目したのは「世界中に様々な言語が存在している」ということばである。「様々な言語」とは、「様々な国語」と言い換えることができるかもしれない。しかし、これには保留が必要である。「国語」ではない「ことば」があるからだ。言い直すと「公用語」と認定されていない「ことば」があるからだ。単純に「国語」と私が「言い換え」をしたのは、田原が問題にしているのは「言語」はある一定の人々のあいだで共有されている「ことば」と読むことができるからである。
 日本語が「言語」であるのは、日本に住む多くのひと(ほとんど大多数)によって共有されているからであり、そのことによって「日本語」と呼ばれる。「中国語」は、中国に住む多くのひと(ほとんど大多数)によって共有されている「言語」ということになる。
 これに対して、田原が「言葉」と呼んでいるものは、「言語」と違って、同じ「日本語」「中国語」を共有するほとんどのひとによって共有されるとは限らない。谷川俊太郎の詩、高橋睦郎の詩、田原の詩の「ことば」は、多くのひとによって共有されるとは限らない。むしろ、わずかなひとにしか共有されない。
 小説には、ときどき百万部を超す発行部数のものがあるが、だからといって、そこに書かれている「ことば」が百万人に共有されたかどうか考えると、必ずしも共有されたとは言えないだろう。ここに書かれている「ことば」は嫌い、もう読まない、と途中で放り出しても、それは「国語(共有された言語)」にとっては、事件にはならない。何も起きたことにはならない。
 なぜか。
 田原の表現を借りて言えば、「言葉」とは、ある一定のひとによって共有されている「言語」から生まれてきたもの、「言語」から独立した存在だからである。日本語(国語/言語)は、個人のことばがどうなろうが気にしない。
 「ことば」につかわれる「文字」「音」がたまたま共通するから、「共通の言語」であると混同されるが、それは別の存在である。別の「ことば」である。(ボディーランゲージについても田原は書いているが、私は、それによって何かをあらわそうとした経験が少ないので、考えないことにする。)私は、この田原の考え方に賛成である。
 私は、だから、しきりとこんなふうに言う。たとえば詩の講座で、谷川俊太郎の詩を読みながら、こういうことを言う。「日本語で書かれている。その日本語は、たいていの場合、全部、理解できる。しかし、それは日本語ではなく、谷川語で書かれている。そこに書かれていることばを日本語として知っていても、そして、それを日本語としてつかっていても、そこには自分のつかっている日本語とは違うものがある。それをみつけることが大切。谷川語で書かれているのが詩なのである」。
 そして谷川語をみつけるということは、実は、自分の「ことば」と谷川語の違いを探すことでもある。自分のなかにも「日本語」ではないものがある、と気づくことでもある。でも、これに気づくのは非常にむずかしい。私はそんなにむずかしいことではないと思っていたのだが、先日の詩の講座で、谷川の「父の死」を受講生のみんなといっしょに読んだときに、むずかしいということに気づいた。
 私は「父の死」のなかに、自分が体験しなかったことが書いてないか、と質問した。しかし、みんな、答えられない。「谷川語」を「日本語」に翻訳してしまって、「日本語」として把握してしまう。
 私は、念押しのようにして問いかける。「天皇から香典のようなものがくる。これ、経験した? 私は父も母も死んだけれど、天皇からそんなものをもらっていない」。こう言っても、谷川徹三が死んだのなら、天皇が香典をおくるというのは理解できる、とそこに書かれていることを「要約」してしまう。ゴム印で三万円と書いてあることに対しても、同じである。私は、そのことにほんとうに驚いてしまった。そこに書かれていることは、どれもこれも、「日本語」として「意味」を理解できるが、いままでに一度も聞いたことのない「ことば」であり、体験だった。谷川が「ことば」にすることによって、初めて読む体験であ、り「ことば」である。
 こんなふうに考えることもできる。私がたとえば天皇から香典を受け取る。その袋に、ゴム印で三万円と書いてある。そのことを私はどんな「ことば」で書くことができるか。谷川と「同じ文(ことば)」になるか。きっと、ならない。「意味」は同じになるかもしれないが、「ことば」は違う。
 つまり、それは「谷川語」としか言いようのないものなのである。「言語」は「意味」に要約できるものを含み、「ことば」は「意味」に要約できないものを含む。「谷川語」は谷川によってしか話されていない。書かれていない。だから、それを「日本語」に翻訳するのではなく、自分の「ことば」に翻訳しないといけない。「日本語」に翻訳してしまうと、それは「要約」になってしまう。

 少し脱線するが。
 昨年の夏、私は「ことば」をめぐって、おもしろい体験をした。スペインの彫刻家を訪問したときのことである。双子の兄弟がいる。そのひとりとは「ことば」が通じるが(会話ができるが)、もうひとりとは「食い違い」が起きる。簡単に言えば、「ことば」が通じない。すると兄が弟に「私が言うことを通訳して、修三に言え」と言う。えっ、スペイン語をスペイン語に「通訳」する? それで何か解決する? これが、実は、解決するのだ。兄が言ったことは理解できないのに、弟が言い直す(通訳する)と通じる。
 「言語」はスペイン語で共通しているが、「兄語(兄のことば)」と「弟語(弟のことば)」は違い、それは「修三語(私のことば)」とは別の存在なのである。「ことば」はそれぞれ個人に属しているから、それはときとして「意味の伝達」を邪魔するのである。
 冗談みたいな話だが、冗談ではない。
 文学ではない世界でもそうなのだから、文学の世界では、この「ことば」の問題、「翻訳の不可能性(あるいは可能性)」は、もっと深刻である。
 ある外国文学作品で、だれそれの翻訳はぜんぜんわからないが、別の訳者のものはとてもよく理解できる、というようなことが起きるのは、翻訳者が「日本語」で訳しているのではなく、それぞれが「翻訳者個人のことば」で訳しているからだろう。
 
 こういう問題を、田原は、こんなふうに書いている。

一流の文学作品はいつも個人化という基礎の上に、世界性あるいは人類の普遍的な認知とある種の内在的な関連が発生するとも思われる。

 「個人化」とは「個人語(ことば)」であり、「世界性、人類の普遍的認知」とは「言語」であると読むことができる。「言葉(私は、ことば、と書く)」と「言語(それぞれの国語)」とのあいだで発生する「内在的な関連」に、「詩」というものが存在する。それはいつでも「言語(国語、共有されたことば)」とは違ったもの、「要約できないもの」を含んでいる。だれにも「要約」できない何かを含んだ「絶対的なことば」「一回性のことば」というものが詩であり、文学である。
 この「一回性」に向き合うには、自分自身のことばを「一回性のことば」にする覚悟がないといけない。
 私のことばが「日本語」でなくなってもかまわない、と覚悟したときから、「文学」が魅力的になる。「谷川語」「高橋語」がおもしろくなる。

 田原は、このことを田原自身の経験に則して、こう書いている。

私にとって、母語と非母語の翻訳と、悲母語で言葉を書くことはどちらも重要だと思うが、もし二者択一をするなら、私は後者を選ぶ。なぜなら、非母語での執筆は言葉の冒険をする快感、あるいは創造する快感を与えてくれるからだ。

 「言語」ではなく「言葉」。田原は、それを選んだのである。

 

 

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黒田ナオ「山の背骨」

2023-02-10 13:25:48 | 詩(雑誌・同人誌)

黒田ナオ「山の背骨」(「どぅるかまら」33、2023年01月10日発行)

 黒田ナオ「山の背骨」を読む。

わたしの背骨が
まだ山の背骨とつながっていた頃
骨と骨のあいだに
ぎっしり葉っぱがつまっていて
土が匂っている
小さな虫が眠っている

わたしの背骨を見ながら
星が安心する
夜が染み込んでくる
月が歌っている
潮の満ち干があらわれる

潮がくるくる渦巻いて
わたしの背骨を洗っていく
(目が見えない
(声が聞こえない

魚が呼んでいる
砂を掘り返す
恐竜の骨たちがごぞごぞ歌いだす
(感じることはできるのに
(誰にも何も伝わらない

すっかり埃だらけになってしまって

肋骨の骨と骨のあいだに
あんなにぎっしりつまっていたはずの
葉っぱはもういない
ぽろぽろ乾いたまま
土がこぼれ落ちる

 「私(わたし、と黒田は書いている)/自己」と「世界(非自己)」はどう識別できるか。黒田は「わたし」と「山」を識別しながら、「背骨」でつながってしまう。つまり「識別」を拒絶して、同一になってしまう。「背骨」でつながんてしまうと書いたが、これは「背骨」という「ことば」でつながってしまう、ということである。「わたし」と「山」を識別(区別)するのも「ことば」である。「ことば」はものとものを分離(識別)もすれば、混同(?)といっていいのか、「ごちゃまぜ」にもしてしまう。
 「ごちゃまぜ」は「ごちゃまぜ」を呼び寄せる。「ごちゃまぜ」というのは「規則」がないことだから、何をしたっていい。山には葉っぱが落ちている。土がある。虫が眠っている、というのは、いまが冬だからだろうか。山がそうなら、同じ「背骨」をもっている黒田の体のなかに、同じものがあってもいい。
 山の上に星があるし、月もある。月があれば、海では干潮満潮がある。黒田の上にも星と月があり、黒田の肉体も海の干満のような動きがあるだろう。「比喩」だから、意識がどんどん「越境」していく。「自己」と「非自己」の区別なんか、ほんとうになくなってしまう。区別していたら、めんどうくさくなる。
 で、ここで、私は詩の講座なら、受講生にこう聞く。

恐竜の骨たちがごぞごぞ歌いだす

 この「ごぞごぞ」って何? 自分のことばで言い直すと、どうなる? 言い直せる? むずかいしね。わかったようで、わからない。私はこの「わかったようで、わからない」は、自分では何もしない(そのまま放置しておく)。その一方で、他人には、「ほら、ちゃんといってみて。さっきわからないことばはない、と言ったでしょ?」と追及(?)したりするのである。
 自己と非自己、それをつないだり、きりはなしたりする「ことば」。
 それを、私は(私たちは)生きている。

(感じることはできるのに
(誰にも何も伝わらない

 「ごそごそ」が何か、感じることはできる。でも、それを別のことばで言い直せない。「ごそごそ」を読んだとき感じたことを、黒田に説明することもできないし、その「ごそごそ」がほんとうに黒田の「ごそごそ」とつながっているかどうかもわからない。もしかしたら「ごそごそ」を言い直した瞬間に、つながりがなくなるかもしれない。「誰にも何も伝わらない」が起きてしまう。
 「ことば」は、とっても危険でもある。だから、おもしろいのだけれど。
 もうひとつ、「ごそごそ」よりも、もっとことばにしにくい「何か」が黒田の詩にはある。リズムである。ことばが、とても読みやすい。もっとも、リズムはかなり個体差があるから、どのリズムが好きかというはひとによってずいぶん違う。どう説明しても、説明にならない。それこそ「無意識」に「自己」と「非自己」を識別し、自分(自分のことばのリズム)をまもるために嫌いなリズムを拒絶してしまうことがある。免疫反応みたいなものかもしれない。これが実はとても大切と、私は感じている。

 


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川邉由紀恵「草の根」

2023-02-10 11:43:05 | 詩(雑誌・同人誌)

川邉由紀恵「草の根」(「どぅるかまら」33、2023年01月10日発行)

 「どぅるかまら」には、田中澄子、齋藤恵子といった、とても行儀のいい詩があって、そこから違うところで感想を書いてみたくなる。
 川邉由紀恵「草の根」が「行儀が悪い」というのではないけれど、

秋のゆうぐれのやよい坂の下の空き地にはとなりにある
銭湯ののこり湯がひよひよと低みのほうにしみでていて
その粘土質のうえにはひめ芝やかたばみスギナぜにごけ

 という具合に一行の長さをそろえてことばが動いていく。この形式(?)へのこだわりは、行儀がいいのかもしれないが、その行儀のよさを装うために、ひらがなと漢字がテキトウ(?)につかいわけられ、「ひよひよ」というような、わかったようなわからないことばがさしはさまれ、さらには「その」という指示詞があったかと思うと、かたばみスギナぜにごけカタカナを読点がわりにつかっているところもある。

ぬこうとしてみると草はすると抜けそうでうす桃いろの
しめったほそい根のようなものがでてきそうなのである
けれどもたどりくだっていくうちにその根はながくなり

 さらに、あ、珍しく行がきっちり終わってると思わせて、接続詞でつながる部分もある。書き写しているうちに、変なものに巻き込まれてしまう。
 ことばが「草の根」になって、ことばの「土」のなかを伸びていく。
 これは、それを引っ張りだして書いたものなのか、それとももぐりこんで書いたものなのか。
 まあ、どうでもいい。
 どうでもいいことを、よくもまあ、飽きずに書いたね、と思う。もちろん、この詩から、「行儀のいい」批評を書いてみることもできると思うが、きょうは、そういう気持ちになれない。ただ、この「行儀の悪い」、つまり「意味」なんてどうでもいい。「意味」に要約してもなんの意味もないことを書いていることばの、そばにいるのがなんとなく楽しい。
 私は意地悪な人間だから、この詩をテキストにして、詩の講座で、「銭湯ののこり湯がひよひよと低みのほうにしみでていて、の『ひよひよ』を自分のことばでいいなおすと、どうなる?」とか「ぬこうとしてみると草はすると抜けそうでうす桃いろの、の『ぬこうとしてみる』と『抜けそうで』の、ひらがなと漢字のつかいわけはどうしてだと思う?」という質問をしてみるのだ。
 きっと、だれも、明確に答えられない。
 私は、この「わかったようで、わからない」(逆に言うと、書いてあることが一言もわからないとは言えない妙な感覚)のなかにこそ、詩があると感じている。
 それは何と言えばいいのか「自己」と「非自己」の出会いであり、自己が自己であるか問われる瞬間なのだと思う。川邉のことばと、自分のことばを区別する(あるいは識別すると言えばいいのか)、何か「基準」や「原則」のようなものはあるのか。実際に川邉と向き合っているとして、そのとき、「肉体」は離れているから別々の人間(別々に動くことができるから、別の人間)ということができる。このとき「空間」(距離)というものが、変な言い方だが、ひとつの「識別の基準」になる。
 それは、「ことば」の場合はどうなのか。

 書くとめんどうになるので書かないが。
 「書かない」といいながら、思いっきり飛躍というか、脱線してしまって書くと。
 私は、その「ことば」の問題を考えているうちに、「肉体」の「自己」「非自己」も、識別はあやしいものだという「結論」に達してしまうのだ。
 もし、私が川邉と向き合っているとしたら、それは私の意識が川邉をそこに存在させている。何らかの必然があって、そこに川邉という別個の肉体が存在しているように「認識」している(ことばにしている)だけなのではないか。
 この世界は、ほんとうはごちゃごちゃの「ことば」が入り乱れているだけのものであり、その「ごちゃごちゃ」に耐えるだけの力のない意識(精神)が、「行儀のいい」形にととのえることで、わかったふりをしているのではないのか。
 ここには私とは別の人間、川邉がいて、私とは全く関係のないことを考えている、と世界を整理すると、合理的でとてもすっきりする。しかし、この合理性はまったくのでたらめかもしれない。整理してしまえば私の脳は安心して、手抜きする。脳は、いつでも手抜きして、自分の都合のいいように考えてしまうものなのだ。
 そうなると……。
 世界が存在していると、私の脳は錯覚しているだけで、世界は存在しない。「ことば」が及ぶ範囲を「世界」と仮定して、自分が生きているつもりになっているだけ、というようなことを考えてしまうのである。

 何が書いてあるのか、他人(読んだひと)には、わからないだろうなあ。当然だよなあ。私はわかって書いているわけではなく、わからないから、書いている。わかっているなら、書く必要はない。わかっているなら、わからなくなるために書く。

 これが感想か、これが批評か。たぶん、ね。こういうことばを引き出す力が川邉の詩にはある、ということ。

 

 

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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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野沢啓「言語比喩論のたたかい--時評的に2」

2023-02-08 07:44:45 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「言語比喩論のたたかい--時評的に2」(「イリプスⅢ」2、2023年01月20日発行)

 今回の文章のなかで、私がいちばんおもしろいと思ったのは、38ページの次の部分である。(私の引用は間違いが多いので、原文を参照できるようにページを書いておく。)「つまらない詩など履いて捨てるほどある」と書いた後、こう書いている。

 そこには詩のことばがもちうる言語的本質としての隠喩の創造性などのかけらもない。(略)私が言いたいのは、詩がなににも頼らずに言語にたちむかうとき、そのことばがおのずとことばの隠喩的本質をもってしまうことである。

 「ことば」と「言語」という表現がつかわれている。それは、どうつかいわけられているのか。野沢にとって、それはどう違うのか。
 いまの引用からだけでは分かりにくいが、野沢は「ことば」という表現を、日原正彦の文章を批判した箇所で、こうつかっている。

ここでは《言語そのものの「喩」性》ということばが出てくる。(36ページ)

 《言語そのものの「喩」性》は日原の書いた文。だから、ここでは「ことば」は「表現」という意味である。「表現」と書き換えても、意味は変わらない。
 そう判断して、38ページの文を読み直すと、どうなるか。書き直すとどうなるか。

 そこには詩の「表現(1)」がもちうる言語的本質としての隠喩の創造性などのかけらもない。(略)私が言いたいのは、詩がなににも頼らずに言語にたちむかうとき、その「表現(2)」がおのずと「表現(3)」の隠喩的本質をもってしまうことである。

 (1)と(2)は、そのまま意味が通じるが(3)は、すんなりとは読むことができない。(3)は「言語」と言い直した方が、野沢の言いたい「言語隠喩論」らしくなるだろう。あるいは、(3)を省略した方が、わかりやすい文章になるだろう。
 つまり

 そこには詩の「表現(1)」がもちうる言語的本質としての隠喩の創造性などのかけらもない。(略)私が言いたいのは、詩がなににも頼らずに言語にたちむかうとき、その「表現(2)」がおのずと「言語」の隠喩的本質をもってしまうことである。

 そこには詩の「表現(1)」がもちうる言語的本質としての隠喩の創造性などのかけらもない。(略)私が言いたいのは、詩がなににもたよらずに言語にたちむかうとき、その「表現(2)」がおのずと隠喩的本質をもってしまうことである。

 そして、最後に書き換えた文書をもとにして考えると、野沢の「言語隠喩論」というのは「表現隠喩論」にならないか。つまり「詩」と呼びうる「表現」は、かならず「隠喩」である。「隠喩」でない「言語」は「詩」ではない、と。
 野沢の「言語隠喩論」は、詩が詩であるためには、その「言語」は「隠喩」になっていないといけない、「言語」が「隠喩」になっていないのは、詩ではないということではないのか。
 「言語」と「ことば」、あるいは「表現」を野沢は、どう定義し、どうつかいわけているのか。野沢は「言語隠喩論」と書いているが、これを「隠喩言語論」、あるいは「隠喩的言語論(隠喩としての言語論)」と言い直すことができるとしたら、それは「隠喩的ことば(隠喩としてのことば)」「隠喩的表現(隠喩としての表現)」と、どう違うのか。

 さて。
 こんなふうにして書いてくると、「シニフィアン」と「シニフィエ」だったか、「ランガージュ」「ラング」「パロール」だったか、なんだか昔はやった(?)あれやこれやに似てきて、私はめんどうくさくて、「知らない」と言いたくなる。

 で。
 突然、問題にする部分を変えてしまうのだが。
 私は、野沢の書いている吉本隆明批判もよくわからない。私は吉本隆明を読んだことがないので、それが原因かもしれないけれど。35ページ。

詩の言語がときにもちうる書き手を超越してしまう言語それ自体の創造力(わたしはそこに言語の本来的な隠喩性をみるのだが)はあらかじめ排除されている。吉本にとって、詩はすべて意識の産物にほかならない。

 
 最初に書いた「表現」をつかって野沢の文章を書き直すと、こうなる。
 
詩の「表現」がときにもちうる書き手を超越してしまう言語それ自体の創造力(わたしはそこに言語の本来的な隠喩性をみるのだが)はあらかじめ排除されている。吉本にとって、詩はすべて意識の産物にほかならない。

 野沢が「表現」という意味でつかったのは「ことば」であって「言語」ではないのだが、厳密に区別されていないようなので、そうなってしまうのだが。そして、そうやって書き直してみると、野沢が言いたいのは、詩は「意識の産物」であるだけではなく、「言語そのものの力(隠喩力?)」が産み出す詩もある、ということにならないか。
 さらに、「言語」「ことば」「表現」と「意識」の関係を考えに入れて、吉本批判を書き直すと……。

詩の「表現」がときにもちうる書き手(の意識)を超越してしまう言語それ自体の創造力(わたしはそこに言語の本来的な隠喩性をみるのだが)はあらかじめ排除されている。吉本にとって、詩はすべて意識の産物にほかならない。

 詩の表現(ことば、言語)はときとして作者の意識を超越してしまうものなのに、吉本は詩を作者の「意識の産物」ととらえているから間違っている、というのが野沢の主張になると思う。
 この批判は、とても論理的だと思う。納得できる。
 しかし、あと吉本の「創出が芸術としての言語の表出の性格に対応している」「これを〈架橋〉するものが、わたしのいう自己表出にほかならないのだ」という文章をとりあげ、この「創出」と「架橋」ということば(表現)を批判している。その概念というか、そのことば(表現)が出てくる論理というか、思想というか、そういうものを批判して、「創出」という概念が突然であり、「架橋」は「どこからどこへの、何から何への?」と疑問を書いているのだが……。
吉本の言う「自己表出」とは自己の「意識(精神)」の表出だろう。「意識/精神」を補って、吉本の文章を読めばどうなるのか。
 詩とは(詩の表現とは)、書き手の「意識」を超越して、言語そのものの創造力が産み出してしまうものだから、作者の意識とは関係なくに「創出」されるもの(作者の意識では創造できないもの)であり、そうやって「創出」されたものと、作者の「意識」を「架橋する」(架橋してしまう)のが、吉本のいう詩なのであろう。言語(ことば/表現)は、作者の意識を超越してしまうものを「創出」してしまうことがある。その「創出」を受け入れるということが、同時に「自己表出」であるというのが吉本の論理ではないのか。
 なぜ、自己の意識を超越するもの、言語(ことば/表現)が表出してしまうものを受け入れることが「自己表出」であるかといえば、その言語(ことば/表現)に立ち会っているのが書き手(詩人)の意識だからである。
 私は吉本を読まないで、「誤読」なのだろうが、野沢が引用している吉本の文章からは、そう理解できる。吉本は書き手の「意識」に重心をおき、野沢は「言語」の方に重心をおいている。そう見える。
 
 そう読んだ上で、何回も書いたことを繰り返すのだが、35ページの、

言語の隠喩生は詩的言語のみならず、本来の言語がもっている本性(本質)

 というのなら、なぜ、詩だけを特権化するのか。それが、私にはわからない。詩だけにかぎらず、哲学でも、小説でも、あるいは日常の会話であっても、あらゆることば(表現)は、書き手(話し手)の意識を超越して、ことば(表現)それ自体の「創造力」を発揮してしまう。書き手(話し手/表現者)の意識を超越して、予想外のものを「創出」してしまう。
 最近も、こんなことがあったではないか。
 高校生だかだれかが回転寿司屋で醤油差しをなめた動画をネットに発信した。それが影響し、回転寿司屋の株が急落し、損害賠償が問題になっている。「表現」というのは、どんなものであれ、それ自体の「創造力」をもっている。それは表現者の意識を超えてしまう。
 だからねえ、と私は付け加えずにはいられないのだ。
 野沢は、彼の書いた文章が正しく理解されないと苦情を書いているが、そんなことはあたりまえ。作者の意識を超えてしまうのが表現であり、その作者の意識しなかった部分を指摘するのが「批評」のひとつの仕事である。作者の「意識」をそのまま代弁するのは「批評」でも「鑑賞」でもなんでもない。「追従」というものである。
 野沢は、野沢の文章(本)を批判した人を批判する一方、こんなことも書いている。

論理のダイナミズムを認めてくれるひとが多い。(39ページ)

 ああ、すばらしいなあ。もちろん心底そう思って書くひともいるだろうけれど、そうじゃないひともいるのではないだろうか。「論理がダイナミズムだ」という批評は、「論理が緻密だ」という批評と同じくらい、無責任に書くことができる。そう書けば、野沢が喜ぶとわかっているからである。あるいは、批判すると反論があり、めんどうくさいと感じるからである。
 何が書いてあるかわからないとき(内容、表現が理解できないとき)、「ダイナミックだ」「繊細だ」「緻密だ」「感情が豊かだ」と、それらしい「特徴」を書いておけば、その表現者と「仲良く」やっていけるだろう。
 野沢はまじめな人間だからそんなことはしないのかもしれないが、私は、めんどうになったらテキトウにやってしまう。
 このまえ、スペイン旅行記(スペインの芸術家訪問記)を書いて本にしたのだが、二人、私の書いていることがどうしても気に食わないという。「最初は否定しているけれど、最後は、その否定が間違っていた、その作品はとてもすばらしいと書いているでしょう」といくら説明しても、納得しない。私のスペイン語がへたくそなせいもあるけれど。そういうときは、もう、そのまま相手の言う通りに書き直してしまう。そういうことは「儀礼」に属する問題である。批評とは関係がない。

 

 

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郡宏暢「スタンプ」

2023-01-22 12:01:30 | 詩(雑誌・同人誌)

郡宏暢「スタンプ」(「アンエディテッド」、2022年12月31日発行)

 郡宏暢「スタン」プの一連目。

郵便受けに落ちた手紙の
あて所に尋ねあたりません、の
青いスタンプに
なんでも見通せてしまう世界をすり抜けて
人の消息だけが消えてしまう
そんな
濡れた髪が
乾くまでの時間のような懐かしさを抱きかかえて
わたしの差し出した手紙は
わたしの手のひらへと
湿り気を帯びた主語をたずさえて
舞い戻る

 手紙がもどってきた。そこから、いろいろなことを考えていく詩なのだが、私は途中にぽつんと出てくる「そんな」という一行につまずいた。「そんな/濡れた髪が/乾くまでの時間のような懐かしさを抱きかかえて」というたとばの「配分」につまずいたというべきか。つまずきの最初が「そんな」という一行だったのだ。
 「濡れた髪が/乾くまでの時間のような懐かしさ」は比喩だが、「そんな」はどのことばまでを指し示しているのか。「そんな濡れた髪が」ではないだろう。「濡れた髪」は、そのことばの前には出てこないのだから、指し示しようがない。それでは「濡れた髪が乾くまでの時間=そんな時間」なのか、「そんな濡れた髪が乾くまでの時間のような懐かしさ=そんな懐かしさ」なのか。
 こんなことは、たぶん、考えてみたって始まらない。
 最初から計画を立てて(?)、そういうことばにしようとしていたのではないだろう。書いているうちに自然にことばがことばを呼び、長くなって行ったのである。
 「そんな」と書いた瞬間は、まだ「濡れた髪」ということばを思いついていない。「濡れた髪」がやってきたあと、「乾くまでの時間」ということばがやってきて、それから「懐かしさ」というこばがやってきた。「そんな」を書いたときには、「懐かしさ」ということばはまだ存在していない。
 なぜというに。
 手紙を出したとき(書いたとき)、それがもどってくるとは想像していない。受取人がいると想像している。ところが受取人がいない。不在だとわかって、はじめて不在の人が「懐かしくなる」ということが起きる。「懐かしい」ひとに書いた手紙だとしても、不在だとわかった(連絡がとれなくなったとわかった)ことによって、「懐かしさ」が強くなる。そういう「変化」がここには書かれているのだから。
 そのことが、この詩全体のなかで果たしている「役割」というのは、私にはよくわからないが、(簡単に言い直すと、それ以後は「青いスタンプ」の「青い」ということばに象徴されるように、書かれているのは「抒情」だけという気がするのだが)、「そんな」という一行の抱え込んでいる不思議なあいまいさはおもしろいと思った。
 音楽(交響曲)が転調するときの、最初の不思議な、鮮烈な「一音」という感じだ。
 この、どこへことばが動いていくかわからないという感じのまま、その後のことばが動いていくと、とてもおもしろい作品になったと思う。

 

 


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「現代詩手帖」12月号(1)

2022-12-10 18:05:06 | 詩(雑誌・同人誌)

「現代詩手帖」12月号(1)(思潮社、2022年12月1日発行)

 2022年は(まだ20日間残っているが)、あまり詩を読まなかった。私のことばと、詩を書いているひとのことばが、あまりにもかけ離れてしまって、「わざわざ」詩を読む必要はないなあと感じるようになった。ちょっと思いなおして書いてみようかな、と考えたのは谷川俊太郎の詩に出会ったからだ。
 「わざわざ書く」。一連目は、こうはじまっている。

物でも人の生き方でも
美しいなと思うと
一呼吸おいてこれでいいのか
と思うのはなぜだろう
どこにも悪が見えないと不安になる
ほんの少しでも醜いものが隠れていないと
本当でないような気がする

 うーん。
 「本当でないような気がする」のなら、それこそなぜこんなことを「わざわざ書く」のか。たぶん、「わざわざ」書くことが詩なのだ。言い換えると「わざわざ」書かなければ、詩は存在しないのだ。詩だけに限らない。ことばは、「わざわざ」書かなければ、存在しない。「わざわざ」書けば、それは詩なのだが、この「わざわざ」が意外と面倒なのである。「わざわざ書く」ということばに出会って、ようやく私は「わざわざ書く」ことを思い出したと言えるかもしれない。
 で、「わざわざ」書けば。
 「本当でないような気がする」という一行には、「本当」があるかのように書いているが、たぶん「本当」というものははっきりした形で存在しないだろう。「本当でない気がする」という意識のなかにだけ、求めている「本当」がある。それは「実在」というよりも「本当を求めずにはいられない気持ち」のことだろう、と思う。その「求める気持ち」を後戻りさせないために、「わざわざ書く」のだ。
 このあと、谷川は、「わざわざ」こう書いている。

自然を目にする時は違う
不安も何もない
雨が降っても風が吹いても
自分が今そこで生きているだけ
無限の自然が自分を受け入れている
と言うより自分が自然の生まれだと知って
そう思える自分が嬉しい
心は雲とともに星とともに動く

 ここで谷川が言う「自然」とは美しいかどうかを判断しない存在ということだろう。そこに悪があるか、醜いものが隠れているかも判断しない。言い直せば、そのときどきで、どっちでもいい。「心は雲とともに星とともに動く」という一行のなかにある「ともに」が、この詩を支えている。谷川は、世界と(自然と)「ともに」ある。
 「ともに」をつかわずに、谷川が書いていることを書くことはできない。谷川は「ともに」を「わざわざ」書いている。こういう「わざわざ」書くしかないことばを、私はキーワードと呼んでいると、私は「わざわざ」書いておく。

 青野暦「雲がゆくまで待とう」。

よくみえなかった。しゃがみ込んで、足下の
きこえない音楽に耳をすますと
視界の端にすべりこんできた、電車の扉がひらいて
ぞろぞろとでてきたひとたちはきみとわたしを避けてとおった

 この部分が「わざわざ」書かれている行だ。「きこえない音楽に耳をすますと」は「わざわざ」書いたというよりも、余分な行だが、つまり「詩を狙った一行」だが、それはつまらない。
 もし「わざわざ」を補うならば、「ぞろぞろとでてきたひとたちはきみとわたしを避けてとおった」に補いたい。ぞろぞろとでてきたひとたちはきみとわたしを「わざわざ」避けてとおった。つまり、「じゃまだ、どけよ」といわずに、自主的に「わざわざ」そうしたのだ。他人の、だれかわからない人の「わざわざ」を青野は感じて、それをことばにしている。
 ここがおもしろい。

青柳菜摘「今日」。

今日という日の一日がいつまでも終わらない日だったその時、今の日、という言葉の意味はそっくりそのままで、今、以外にありえなかった。

 ということがくだくだと(わざわざ)書いてある。その部分はおもしろい。しかし、

今の今日と明日を終わらせないよう、地球は外側でゆらゆら回っている。

 たぶん、このことばを青柳は「わざわざ書いた」(つまり、詩を書いた)のだろうが、「わざわざ」になっていない。では、何になっているかといえば「定型」になっている。「わざわざ」は「わざわざ」定型を破って書くのである。
 つけくわえておけば、青野の「きこえない音楽に耳をすますと」がつまらないのは、それが「定型」だからである。

 


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江里昭彦「風さえも共犯者となり船が岸を去るのを助けた」

2022-12-05 23:18:28 | 詩(雑誌・同人誌)

江里昭彦「風さえも共犯者となり船が岸を去るのを助けた」(「左庭」51、2022年11月25日発行)

 江里昭彦「風さえも共犯者となり船が岸を去るのを助けた」は俳句である。しかし、古典的な俳句ではない。

出航やわが血液も唄いだす

正面に長患いの城がある

 「古典的ではない」と書いたが、「古典的」かもしれない。いまそのものを感じさせることばがない。確固としたイメージがある。響きが鍛えられている。
 こういう俳句について感想を書くのはむずかしい。「意味」を語り直してみてもはじまらない。

呪詛として岬でひらく十指かな

 「血液」「長患い」「呪詛」とつづけば、闘病している人間を思う。「血液」が、古い病気といっていいのかどうか分からないが「結核」を連想させる。結核患者が病棟を抜け出して、岬で風に吹かれている。吐血したとき、血を受け止めた手、その指を開いてみる。運命を見る感じか。などと、つづければ、何か、どんどん「悲劇的な意味」がつながってくる。それも、第二次大戦までの、古い感じの風景として。
 まあ、これは、何と言うか、江里の「体験」ではなくて、私の「読書体験」をかたるようなものだが。
 あ、ことばというのは、誰のことばか分からないが「過去」をもっているんだなあ、どうしても「過去」から逃げきれないものなんだなあ、と思う。といっても、これはあくまで私のことばが「過去」から逃げきれないのであって、江里は振り切って別の時間を生きているのかもしれないのだけれど。

偏西風を蓄えきれぬ砦かな

炙っても鸚鵡は飛ばぬ海のうえ

倦まず仰ぎ虹が授くるもの知らず

船乗りがみるは匂いのなき性夢

渡り鳥まぢかで見たきその素顔

ねむる耳朶(みみ)が磁石となりて砂鉄吸う

酔いどれの体臭(におい) 飛雪も消せないなら


 最後に、おさえきれないリズムが破調となって展開するが、それが、とても気持ちがいい。破調は「古典的」ではないかもしれないが、破調を抱え込む力のあり方が「古典的」というか、ゆるぎないなあ、という感じになって残る。
 「呪詛」と「船乗り」からあとの四句が好きだ。「渡り鳥」は「まぢか」が強烈でいいなあと思う。今回の江島の句の全体を象徴するとすることばがあるとすれば「まぢか」だろうなあ。何か遠いものがある。それを「まぢか」でとらえたい。「出航する船」は、すでに江里から遠い場所にある。それなのに「酔どれの体臭」は「血液」よりも「まぢか」にあって、夢を掻き削る。そのときの「肉体の内部に響く音」が全部の句を貫いている。

 

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