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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細田傳造「ヴァージャイナ」「西新宿断截」

2023-09-12 20:39:22 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「ヴァージャイナ」「西新宿断截」(「雨期」81、2023年08月30日発行)

 細田傳造「ヴァージャイナ」「西新宿断截」。後者にブローディガンが登場する。ブローティガンを読んでいるのかもしれない。はっきり覚えているわけではないが、細田のこんかいのことばはブローティガン共通するものがある。(私は日本語訳で読んだので、こういう書き方は、かなりいい加減なものだが、まあ、詩だから、いい加減なことを書いた方が、間違いを侵さずにすむかもしれない。)
 何が共通しているか。ことばが詩になる前に動き出す。その動きに引っ張られて、あ、この「直接性」が詩なのかと気づく。詩は、ことばと遅れてやってくる。
 「ヴァージャイナ」の一連目。

スカートをつけて
ハイヒールをはいて
エルメスのバッグをさげて
コツコツコツ
路上に靴音をたてて
ヴァージャイナが去っていく
そんな格好してどこへいくんだいヴァージャイナ!
あなたを嫌いになったから
振りむいて
彼女が言う
あたし娼婦になって
自立して生きていくのよ
よせ!他の男には見せるな

 いくつかの行は前後を入れ替えた方が意味がとおりやすくなるだろう。しかし、それは「散文的修正」というものである。私たちは、学校で「修正」の仕方をならう。つまり、正しいことばの順序を。そして、その正しさとは、まあ、だれかがだれかを支配するのに便利な「秩序」なのだろう。でも、いつでも、ことばは「秩序」を気にせずに動く。そして、乱雑な秩序には乱雑なりの、どうすることもできない「勢い」というものがある。その「勢い」が詩を刺戟する。刺戟されて、詩が「勢い」を追いかける。そのリズムが、いまの細田のことばを動かしている。

あーあーあー
Merde alors!勝手にしやがれ
こうなったら
ピレネーを超え
地中海を飛んで
密林に帰り
恋愛の
王になってやる
こんな糞だらけの路上
フランス乞食に呉れてやる

去ね!ヴァージャイナ。

 おもしろくて全行引用してしまった。
 ここでも、ことばはすべてを追い越していく。追い越されたときに、目覚める詩というものがあるのだ。
 最終行の「去ね!」は「いね!」と読む。「行っちまえ」ではないところが、実にいい。「去ね!」なんて、いまはだれも言わない。では、なぜ、そのことばはあらわれたのか。何もかも追い越していくことばに刺戟されて、過去のことばが、いまのことばを追い越したのだ。
 そしてね。
 このとき、時間は、すべて「いま」になるのだ。言い換えると、ことばには「いま」しかないと、ことばが、いや、詩が気づくのだというべきか。

 「西新宿断截」はどうか。全行引用したいが、遠慮しておく。「自死につて」という誤植があることだし。
 後半。

ブローティガンの自裁に
無縁のわたしが
折り合いをつけようとしている
路上生活の
男たちが
車座になって話をしている
聞き耳をたてると
めいめい自伝を語っている
わたしには話すべき来歴がない
この人たちの輪にははいれない
三角形の
住友ビルが無言の硝子戸を開く

 「この人たちの輪にははいれない」まではいい。しかし、ブローティガンなら最後の二行は違っているだろう。これでは、日本の古くさい抒情詩である。そこがいい、というひともいるだろうが、私は、ここはよくない、と書いておきたい。
 この二行のことばは、何も追い越していない。ここにある詩は、目覚めさせられた詩ではなく、余裕を持って、「これが詩です」と自慢している詩だ。
 一連目はとてもおもしろいし、二連目も途中までは楽しい。最後だけが、つまらない。

 

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Pepe Jesús Sánchez Marín「Tal vez 」

2023-07-27 17:38:53 | 詩(雑誌・同人誌)

 Pepe Jesús Sánchez Marín「Tal vez 」をPepeと一緒に読んだ。そのとき、とてもおもしろい経験をした。詩の感想というよりも、これから私が書くのは、詩を読みながら(詩を読んだあとで)考えたことである。

Tal vez 

en el camino del faro, en las aguas profundas del Puerto o en la luz del mediodía
en la sombra del muro al amaparo del jazminero o en lo encarnado de la buganvilla

en el tiempo
 
el diáfano rebosante; en el olor o la humedad de la tierra, su sequeda,
la temperature del mar, en una mirada, en la peregrinación de auroras
y su sarta de colores, en los limones, el sol, la naranja del mundo,

en sus huesos o en sus gajos se perdiera.


 「直訳」ではどうにもおちつかなくて、私は、ことばを補って、こんなふうに訳した。

おそらく

おそらく、それはある。
灯台に向かう道や、港の深い水面、あるいは真昼の光のなかに。
ジャスミンに守られた壁の影のなかに、ブーゲンビリアが食い込む壁の影のなかに。

時のなかに。

あふれかえる透明さ。大地の匂い、湿めった大地に、乾いた大地に。
燃え上がる海よ、どこまでも届く視線よ、オーロラの巡礼と
ひとつづきの色、世界中のレモン、太陽、オレンジ。

その骨格のなかに、折れて失われた枝のなかに。
おそらく、永遠はある。

 「hay eso 」「hay eternidad 」と。
 これからが、ちょっとたいへんだった。Pepeがどうしても納得(?)しないのである。「失われたものは何か」と何度も聞く。それは、ここには書かれていない。その「書かれていないことばは何か」。私は、「永遠」を補った。そして、「永遠」を失われながら、同時に存在するもの(永遠に対する意識)としてことばにした。そのとき、私が手がかりにしたのは「en」である。いちばん重要なことばは、この詩のなかでは「en」である。その補足として「el tiempo 」を頼りにした。「en」が引き寄せるものとして「el tiempo 」がある。
 ところが、Pepeは「en」と関係するのは「lugar 」(場所)である、というのだ。失われたのは「lugar 」である。彼の説明は、理解できた。しかし、この「時」と「場」、あるいは「時間と空間」を巡っては、どうしても「合意」できない点が残った。
 時間と空間は一体のものであるが、それを認識するとき、どう表現するか。どうもPepeは「空間」を優先している。しかし、私は「時間」を優先して考える。まず、「時間」がある。「時間」は何かが「動く」ことによって生まれる。そして何かが「動く」ことは「時間」をつくると同時に「場(空間)」つくっていく。「時間」「場」は何かの動きによって生まれる「後天的」なのものであり、その誕生は「ビックバン」に似ている。そして、その「ビッグバン」によって誕生する世界は、「ことば」の動いて行ける(動いていく)「範囲」としてしか存在しない。「有限」である。これが私の考え方だ。
 極端にいうと、私が生まれ、ことばを学び、ことばをつかいはじめ、ことばで認識している世界が「存在する世界」であり、そのほかのものは存在しない。「お前が生まれる前も世界があり、歴史がある」とPepeはいう。私は、そういことは信じない。それは私が「ことば」をとおして学んだ世界であって、ことばの動く範囲で存在しているだけた。「歴史」についていえば、たとえばローマ帝国。それが「存在した」ことはローマの遺跡が証明しているかもしれないが、それはあとから発見し、そう認識したのものである。私の知らない「歴史」がたくさんあり、それはたくさんあるけれど、私にとってはこれからもずーと存在しつづけない。世界には、私の認識できないぽっかり開いた穴が無数にある。そして、世界はいつも一定ではなく(固定しているのではなく)、ことばが動くたびに流動変形している。私は、そういう考えにもとづいて、Pepeの詩(ことば)を読んでいる。「場」を優先する、つまり「時空間」を考えるとき「場」を優先して考えるのはむずかしい、と私は言った。(私のスペイン語が、どこまで通じたかわからない。日本語で書いている私の文章が、日本語を母国語にしている人の何人に通じるかも、私はわからない。だれにも通じないかもしれないと思いながら書いている。)

 その対話のあと、私は、ちょっといろいろなことを考えた。
 「hay eso 」「hay eternidad 」と私は、書いた。そのときの「y 」について考えたのである。
 フランス語では、何かがあるというとき、「il y a  」という。「かれ(それ)」は「持つ」というだけではなく、そこに「y 」という何だかわけのわからないことばが入ってくる。それはスペイン語の「hay 」の語尾の「y 」に共通しているように思われる。そして、この「y 」は、スペイン語の動詞では「hay 」のほかに「soy 」「estoy 」「voy 」という具合に、非常に基本的な動詞の、一人称の活用に登場する。そして、それは、どうも「場」の意識に関係しているように思えるのである。自己が存在するときの「場」の意識が「y 」のなかに含まれる、と感じてしまう。「y 」は何らかの空間的なひろがりを持ち、存在を包んでいる。
 これはフランス語にもどって考えるとき、よくわかる。「Est-il a Paris? Oui, il y est 」というときの「y 」には「à, en, dans 」が含まれる。そして、ほら。「en」が、ここに出てくる。Pepeの「en」はフランス語ではないのだけれどね。でも、それはどこか共通しているものがある。ヨーロッパ人は「存在」を考えるとき、まず「場」を考えるのだ。「空間」を考えるのだ。
 でも、私は「時間」を考えてしまう。「時間」から出発してしまう。
 「en el camino del faro 」とPepeは書きはじめる。それを私は、動詞をつかって「cuando camino al faro 」と読んでしまうのである。この思考の出発点が、詩の「解釈(理解)」を違ったものにするのである。

 Pepeは「lugar (場)」は失われた、と書く。しかし、私は「場」が失われただけではまだ「時間」があると感じてしまう。何もかも亡くなるとき「時間」がなくなるのである。そして、矛盾した言い方になるが、「時間」がないとき、それは「永遠」を意味する。だからこそ、私は逆説的に「永遠がある」と理解するのである。
 異なった「国語」で語り合うのは難しい。しかし、「異なった国語」で語り合うことは楽しい。そこには「異なった無意識」がある。根深い思想がある。さらにいえば、詩(文学)とは、それぞれの「異なった個人語(無意識)」の出会いである。

*

(以下は、DeepLをつかった翻訳である。)
A continuación se ofrece una traducción utilizando DeepL.

 Pepe Jesús Sánchez Marín 'Tal vez' se leyó con Pepe. Tuve entonces una experiencia muy interesante. Más que una impresión del poema, de lo que voy a escribir es de lo que pensé mientras leía el poema (y después de leer el poema).

Tal vez 

en el camino del faro, en las aguas profundas del Puerto o en la luz del mediodía
en la sombra del muro al amaparo del jazminero o en lo encarnado de la buganvilla

en el tiempo
 
el diáfano rebosante; en el olor o la humedad de la tierra, su sequeda,
la temperature del mar, en una mirada, en la peregrinación de auroras
y su sarta de colores, en los limones, el sol, la naranja del mundo,

en sus huesos o en sus gajos se perdiera.

 No podía acostumbrarme a la "traducción literal", así que añadí unas cuantas palabras más y lo traduje así.

おそらく

おそらく、それはある。
灯台に向かう道や、港の深い水面、あるいは真昼の光のなかに。
ジャスミンに守られた壁の影のなかに、ブーゲンビリアが食い込む壁の影のなかに。

時のなかに。

あふれかえる透明さ。大地の匂い、湿めった大地に、乾いた大地に。
燃え上がる海よ、どこまでも届く視線よ、オーロラの巡礼と
ひとつづきの色、世界中のレモン、太陽、オレンジ。

その骨格のなかに、折れて失われた枝のなかに。
おそらく、永遠はある。

'hay eso', 'hay eternidad' complementé.
 El siguiente paso fue un poco difícil: Pepe no estaba convencido. Pepe no estaba convencido. Seguía preguntando: "¿Qué se ha perdido?". ¿Cuáles son las palabras que no están escritas? ¿Cuál es la 'palabra no escrita'? Me inventé 'eternidad'. Y puse 'eternidad' en palabras como lo que está perdido y al mismo tiempo existe (conciencia de eternidad). En aquel momento, utilicé "en" como pista. La palabra más importante de este poema es "en". Me apoyé en "el tiempo" como complemento. El "en" atrae al "tiempo".
 Pepe, sin embargo, dice que es 'lugar' lo que está relacionado con 'en'. Es el lugar el que se pierde. Su explicación es comprensible. Sin embargo, quedaba un punto sobre este 'tiempo' y 'lugar' o 'tiempo y espacio' en el que no podíamos 'ponernos de acuerdo'.
 El tiempo y el espacio son una misma cosa, pero ¿cómo los describimos cuando los reconocemos? Al parecer, Pepe da prioridad al "espacio". Yo, en cambio, doy prioridad al "tiempo". En primer lugar, está el "tiempo". El tiempo se crea cuando algo se mueve. Y cuando algo se mueve, crea "tiempo" y al mismo tiempo crea "lugar (espacio)". El tiempo y el espacio son adquiridos, creados por el movimiento de algo, y su nacimiento es similar a un 'Big Bang'. El mundo creado por el "Big Bang" sólo existe como un "ámbito" dentro del cual la "palabra" puede moverse (y se mueve). Es finito. Esta es mi forma de pensar.
 En términos extremos, el mundo en el que nací, aprendí el lenguaje, empecé a utilizarlo y soy consciente de él a través del lenguaje es el "mundo que existe", y no existe nada más. Había un mundo y una historia antes de que nacieras", dice Pepe. No me lo creo. Es un mundo que he conocido a través del lenguaje, y sólo existe dentro del ámbito del lenguaje. En cuanto a la 'historia', el Imperio Romano, por ejemplo. Las ruinas romanas pueden demostrar que "existió", pero fue descubierto y reconocido como tal más tarde. Hay mucha 'historia' que no conozco, y es mucha, pero no seguirá existiendo para mí. Hay innumerables agujeros en el mundo que no reconozco. Y el mundo no es siempre constante (no es fijo), sino que está en flujo y transformación con cada movimiento de la palabra. Leí poemas (palabras) de Pepe basados en esta idea. Dije que es difícil dar prioridad al "lugar", es decir, dar prioridad al "lugar" cuando se piensa en el "espacio-tiempo". (No sé hasta dónde llegó mi español. No sé cuántas personas que hablan japonés como lengua materna pueden entender lo que escribo en japonés. Escribo con la esperanza de que nadie me entienda).

 Después de ese diálogo, pensé en algunas cosas.
 Hay eso', 'hay eternidad', escribí. Pensé en la 'y' en ese caso.
 En francés, cuando se dice que algo es, se dice "il y a". La palabra "eso" no es sólo "haber", sino también "y", que es una palabra que no entiendo. Parece tener algo en común con la "y" española al final de "hay". Además de "hay", esta "y" aparece en la conjugación en primera persona de verbos españoles muy básicos, como "soy", "estoy" y "voy". Y parece estar relacionada con el sentido de "lugar". Siento que la conciencia del "lugar" en el que existe el yo está contenida en la "y". La "y" tiene algún tipo de extensión espacial, y envuelve la existencia.
 Esto queda claro cuando volvemos a la lengua francesa. La "y" de "Est-il a Paris? Oui, il y est" contiene "à, en, dans". Y ya ves. La "en" aparece aquí, aunque la "en" de Pepe no es francesa. Pero tienen algo en común. Cuando los europeos piensan en "ser", primero piensan en "lugar". Piensan en el espacio.
 Pero yo pienso en el "tiempo". Parto del "tiempo".
 Pepe empieza "en el camino del faro". Yo lo leo como 'cuando camino al faro', utilizando un verbo. Este punto de partida del pensamiento hace que la 'interpretación' (comprensión) del poema sea diferente.

 Pepe escribe que el "lugar" se ha perdido. Sin embargo, creo que todavía hay "tiempo" cuando el "lugar" no sólo se ha perdido. Cuando todo muere, ya no hay "tiempo". Y, contradictoriamente, cuando no hay 'tiempo', significa 'eternidad'. Por eso entiendo, paradójicamente, que existe la eternidad.
 Es difícil hablar en diferentes "lenguas nacionales". Pero es divertido hablar en lenguas diferentes. Hay un "inconsciente diferente". Hay ideas muy arraigadas. La poesía (literatura) es el encuentro de diferentes lenguas personales (inconscientes).


Traducción realizada con la versión gratuita del traductor www.DeepL.com/Translator

 

 

 

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野沢啓「大岡信、ことばのエロス」

2023-07-15 15:17:00 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「大岡信、ことばのエロス」(「イリプスⅢ」、2023年07月10日発行)

 野沢啓「大岡信、ことばのエロス--言語隠喩論のフィールドワーク」を、野沢は、こう要約している。

大岡信の詩の魅力について、とくにその言語のエロス性について言語暗喩論的に論じてみた。

 しかし、大岡の書いている詩の、どの部分がエロスなのか、それがよくわからない。「翼あれ 風 おおわが歌」という詩の一部を引いて、

(大岡は)実際あったことかもしれない生の断片を詩の思想に変えることができる(略)。事実や事件をことばに置き換えるのではなく、ことばのなかでひとつの生を開き、まっさらなことばを新たに生み落とすことができる(略)。

 と書いている。たぶん「ことばのなかでひとつの生を開き、まっさらなことばを新たに生み落とす」がポイントなのだが、どのことばが「まっさらなことば」なのか具体的に示していないので、私には何が書いてあるのか理解できない。野沢が引用した行全部が「まっさらなことば」なのか。
 何度繰り返し読んでみても「まっさらなことば」というよりも、全部、私の知っていることばである。
 もし「まっさらな」もの(いままで存在しなかったもの)があるとしたら、それは「ことば」ではなく「ことば」の組み合わせである。
 これに関してだろうと思うけれど、大岡は、こう書いている。野沢は、次のことばを引用している。大岡自身の詩の立場を書いたものである。

詩というものを、感受性自体の最も厳密な自己表現として、つまり感受性そのもののてにをはのごときものとして自立させるということ、これがいわゆる一九五〇年代の詩人たちの担ったひとつの歴史的役割だといえるだろう。 (注、てにをは、には傍点がある)

 感受性の「文章構造(文体)」を自立させる、ということか。このことばには、荒地派(具体的には鮎川信夫か)への批判を含んでいるのだが、その荒地派を大岡は、では、どうとらえていたのか。野沢は、次の文章を引用している。

(荒地派の仕事は)語の組合わせによる言葉の秩序、つまり意味の秩序の新しいあり方を提示したということであり、別の言葉で言えば言葉のパタンを変えたということである。
 これを参考にすれば、大岡の主張は(大岡がめざしたのは)

語の組合わせによる言葉の秩序、つまり「感受性」の秩序の新しいあり方を提示したということであり、別の言葉で言えば言葉のパタンを変えたということである。

 「言葉の秩序」は日本語の場合「助詞(てにをは)」によるところが大きい。助詞によって主語、目的語が明確になると同時に「動詞」が限定される。つまり「助詞+動詞」には一定の決まり(文型/文体)が存在する。これは英語などが「動詞+前置詞」によってことばの秩序ができるのに似ている。
 大岡は、「意味」ではなく、「感受性」を中心にして、ことばを新しくしようとした、新しい感受性のあり方を示そうとしたということだろう。(私は、そう理解している。)「意味」に拘束されたくなかった。感受性を解放したかった。そのための「文体」を模索したということだろう。
 「新しくなる」のは「ことば」ではなく、「文体」である。それは「新しいことば」を「生み出す/産み出す」というよりも、いままのことばのつかい方を変更し、「新しいいのち」を吹き込むということであり、それは「ことば」というよりも「文体」そのものに「新しいいのち」を吹き込むという方がいいかもしれない。私は、そう思う。「てにをは」は「てにをは」のままである。しかし、その「てにをは」によって生まれる、ことばの「組合わせ(組み合わせ)」「秩序」「パタン」が変わる。「パタン(文体/文型)」が変わることで、いままで表現が難しかった「感受性のあり方」が表現できるようになる。その結果として、いままでつかっていたことばが「新しい感受性をあらわすことば」として見直される。「新しさ」の発見である。「新しいことば」の発見ではなく、ことばのなかに「新しさ」を発見する。組み合わせの「新しさ」が、「感受性」をも「新しく」する。
 野沢は、こう書いている。

大岡は敗戦によってゼロと化したかのような日本語にみずからの世代的感受性をたよりに、そこに「てにをは」の知にもとづく言語の振舞いの可能性を探ろうとした。大岡信の《感受性のてにをは》とは詩的言語の来たるべき方向性を示す指標だったのである。
                       (注、てにをは、には傍点がある)

 大岡が「敗戦によってゼロと化したかのような日本語」と感じていたかどうか、私にはわからない。だいたい、ことばは敗戦ぐらいで「ゼロ」になどならないだろう。
 それよりもわからないのは、大岡が《感受性のてにをは》ということばで目指した「詩的言語の来たるべき方向性」と、野沢の「言語隠喩論」の関係である。
 最初に戻るが、

大岡信の詩の魅力について、とくにその言語のエロス性について言語隠喩論的に論じてみた。

 と野沢は書いているだが、どの部分で「言語のエロス性」と「言語隠喩論」の関係を、どう書いているのか、それがどうにもわからない。
 野沢が書いている「言語のエロス性」とは、《感受性のてにをは》によって表現された、鮎川信夫とは違う「エロス性」をさしていると思うが、それは何をさしているのか。
 「エロス」に関していえば、「感受性のエロス」もあれば、「意味のエロス」もあるだろう。「論理的エロス」や「音階的エロス」「色彩的エロス」「労働的エロス」もあるかもしれない。「言語のエロス」と言われてもなあ、と私は考え込んでしまう。

 今回の文章はいつもの、博覧強記の「引用」がなく、他人への批判もなく、とても読みやすかったが、やっぱり野沢の「論理」展開がわからない。
 野沢が大岡を、《感受性のてにをは》の文体を確立すること(実現すること)によって、新しい詩の領域を開いたと感じているのだと推測はできるが、いままで書いてきた「言語隠喩論」のどの部分が《感受性のてにをは》とつながっているか、いままで野沢が引用してきた古今東西の哲学者たちのことばと大岡はどうつながっているのか、私には、見当がつかない。

 

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白井知子「裸婦像」ほか

2023-06-22 21:58:57 | 詩(雑誌・同人誌)

白井知子「裸婦像」ほか(「Jeu」創刊号、2023年06月19日発行)

 白井知子の「裸婦像」。

うつむく首
まだ堅さののこる胸をつたい腰へ
その心拍だけを聴きとろうとするかのように
早春の淡い光が
そっと 押さえつけていた

 これは完成した裸婦像なのか、制作途中の裸婦像なのか。一瞬考えるのだが、「制作中」ということばのある二連目を挟んで、三連目は、こうつづく。

彫塑家のあなたの
深淵から指先 手の動きに求められ とどこうとした像
これまで 触れることのない
呼びさまされた生命力の
源泉が ふさわしい形をえて立っている
量感を濾し
ずっと 独り
そこにいたような在りかたで

 「手の動きに求められ とどこうとした像」。このことばが強く、美しい。粘土が(と、仮定しておく)、彫塑家の指、手を感じ、粘土の方で動き始める。彫塑家ひとりではつくることができないものが、こうやって生まれてくる。「芸術」の誕生の不思議な一瞬をとらえている。
 「呼びさまされた生命力の/源泉」は彫塑家がつくったものというよりも、粘土のなかに生きていた女が彫塑家のために自らさらけだしたものである。彫塑家をさそっている。裸婦の、女の、「自信」のようなもの、「誇り」と言えばいいのかもしれない、それが、「在りかた」として、そこに存在している。
 いいなあ、と私は、思わず声を漏らす。
 そして、その詩のつづきのようにして、もう一篇「二月の雪」という作品がある。

雪が降りしきる
病院の廊下
独り言をささめいている女
しんとした静けさに あなたは象られ
気息は悲しみを蒐めていた

「わたしが産んだ赤ちゃん
 死んでいたなんて嘘よ」

 この女が、突然、前に読んだ詩の裸婦像のモデルになってしまう。この悲しむ女のために、彫塑家は像をつくっているのかもしれない。この悲しみをのりこえるために、女は裸婦像になっているのかもしれない。
 もちろん、そんなことは、どこにも書いていない。
 私が「誤読」しているだけである。
 「誤読」しながら思うのである。
 ことばとは、(あるいは詩とは)、「過去」を新しくするのである。いままでなかったものをつくりだすのではなく、すでにあったけれど、違った意味だったものを「つくりかえる」のが詩なのである。
 赤ん坊を死産した女。彼女は、これから、どう生きるか。それは「二月の雪」に白井の祈りの形で書かれているけれど、それは、とおりいっぺんの祈りを超えて、何か、「生命力の源泉」を掘り起こすものかもしれない、と私は想像するのである。
 そうあってほしいと、私は思う。
 私の「祈り」は残酷かもしれない。死産した女に、そういう願いを託すのは残酷かもしれない。
 しかし、「裸婦像」の三連目、

深淵から指先 手の動きに求められ とどこうとした像
これまで 触れることのない
呼びさまされた生命力の
源泉が ふさわしい形をえて立っている

 を読むと、そこには、何か、ゆるぎない女の「生き方」(あり方)が提示されているとしか思えない。

 

 

 


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中村不二夫「ロールキャベツを作る」、星野元一「雪の中のホタル」

2023-06-12 21:45:30 | 詩(雑誌・同人誌)

中村不二夫「ロールキャベツを作る」、星野元一「雪の中のホタル」(「蝸牛」70、2023年04月20日発行)

 中村不二夫「ロールキャベツを作る」を読む。

ぼくは妻のためにロールキャベツを作る
(もとより妻から伝授されたものだが)
霧降高原 産地直送のキャベツを使う
包丁を新調し まな板も磨いた
今日そこに人は在りて 命を食す
そんな日々の循環があればよい

キャベツに切り込みを入れる
包丁で硬い芯を取り 葉を広げる
(葉の大きさは適切でなければならない)
枚数は全部で四枚 予備に一枚
(人の体のようにわけもなく損傷してしまう)

 「予備に一枚」の一句がとても重い。五枚ではなく、あくまでもその一枚は「予備」。ここには「予備」をこころがけるひとの力がある。
 それは(もとより妻から伝授されたものだが)も隠れている。妻が中村に作り方を伝授したのは「予備」としてなのだ。本来ならば、妻が作る。しかし、作れないときもある。そのときの「予備」として、作り方を教えておく。そして、それを受け入れる中村の生き方も「予備」をこころがけたものの美しさをただよわせる。「まな板を磨く」の「磨く」の美しさ。
 (人の体のようにわけもなく損傷してしまう)は、妻が体調を壊していることを暗示している。それが「予備」にもつながる。
 最後の連にも「予備」に通じる美しいことばがある。

素敵な一日のため これからもぼくは
飛び切り上出来の味で
毎日の糧を整えよう
そのための時間と労力を惜しまない
この世に神がいない日がないように

 「労力を惜しまない」は「予備」を含むことであり、それは「整える」ということでもある。日々を整えるために、労力を惜しまない。「予備」は「予備」のままでおわるにこしたことはないが、「予備」が動き出すとき、それは日々を乱してはいけない。「整えた」ままの日々であり続けるために、「予備」には「予備」のための「労力を惜しまない」ことが重要なのだ。

 星野元一の「雪の中のホタル」は、「予備」をつきやぶる、「予備」がつきやぶられるときの切なさを書いている。

雪の降る夜だった
小さな提灯を持って
ホタルが一匹
飛んでいった

(略)

あれは確かに
ホタルだった
天の裂け目から
もろもろと湧き出る雪華にまぎれて
逃げ出してきたのか

もう忘れたいのに
明朝の贖罪のことでいっぱいなのに
何で飛び出してくるのだ

 「もう忘れたいのに」も切ないが、「何で飛び出してくるのだ」がさらに切ない。それは、「逃げ出してきたのか」と強く結びついて、濃密な時間になる。

 

 

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齋藤健一「一日一日」、夏目美知子「テーブルの上の」

2023-06-10 21:58:00 | 詩(雑誌・同人誌)

齋藤健一「一日一日」、夏目美知子「テーブルの上の」(「乾河」97、2023年06月01日発行)

 齋藤健一「一日一日」を、私は「一月一日」と読んでしまった。そして感想を書こうとして「一日一日」だと気づいたのだが、タイトルが「一月一日」でもかまわないと思う。というよりも、「一月一日」の方が、私にはぴったりくる。
 こういう詩である。

飛行機は濡れる。空をひらく。夜中がおわりに重なる。
こがね虫の緑と金色へ滲むのである。鉛筆の2B。紙面
がこぼれる。始まる七月に。照らすだけの外光のさびし
く。握りこぶしの下をみる。おのずと顎をのせる。あり
たけ吸い込みふくらませるのだ。

 「こがね虫」「七月」とあるから、「一月一日」はないだろうと思うかもしれないが、一年の初めに、その年のある日を想像していると読むこともできるだろう。私の年齢のせいかもしれないが、もう「年月」は関係がない。いま、生きている、その「一日一日」しかない。だから「一月一日」も「一日一日」のひとつにすぎない。そして「一日」なのに「一年」が見えるのだ。「ありたけ吸い込みふくらませるのだ。」に齋藤がどういう思いをこめたのかわからないが、私は「深呼吸」と読んだ。毎日、かわらず、深呼吸をする。そこから「一日」が「一日」として始まる。この「始まる」感じが、「一月一日」と重なる。その深く吸い込んだ空気を吐き出してみたら「七月」だったという時間の過ぎ方があってもいいと思う。
 私はもう絵を描かないが、文字を書くときは鉛筆の2Bをつかう。体力的に、それしか受け付けない。そんな「おわり」方も「重ね」で読んでしまう。

 夏目美知子「テーブルの上の」にも「一日一日」が登場する。

活動の大方を諦めると、衣食住だけの小さな生活になる。
それでも一日一日は確実に過ぎて行き、小さな生活は、
夜半、揺り椅子に座る私の心臓の、静かな鼓動となる。

 齋藤の描いていたのも「小さな生活」である。そして、それは「確実」なものである。「諦める」ことによって「確実」になる。
 詩の最後の部分に、ポトフを盛る器の描写がある。

器のぐるりに小花の模様。

 なんでもないような描写だが、「小さな生活」の「小」という文字が隠れていて、それがことばを美しくしている。「ぐるり」に夏目の視点がある。「大方を諦め」ても、しっかりと生き残っている何かがある。自分を見つめ、同時に周囲(ぐるり)もしっかり見つめる。
 それは、やってきたこがね虫を2Bの鉛筆で描いている齋藤の生き方にも通じる。

 私の感想は「一日一日」を「一月一日」と誤読することからわかるように、作者の意図を無視したものだろうけれど、誤読することでしか出会えない何かもあり、誤読には誤読の必然があると思うので、誤読と気づいたけれど、それを「修正」せずに書いておく。

 

 

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坂多瑩子「ムスメハハ」ほか

2023-06-01 18:23:10 | 詩(雑誌・同人誌)

坂多瑩子「ムスメハハ」ほか(「天国飲屋」3、2023年06月08日発行)

 坂多瑩子「ムスメハハ」は、母と娘(娘と母)の愛憎を、こんなふうに書いている。

あたしは囲炉裏のそばで粥を食いながら
見てたさ娘が草苅り鎌を磨いているのを

紅葉のような手だった手に力が入るのを
母さんは生かしてはおれん はよう死ね
なんていわれたりして時代も変わっても

殺し合いっこだよムスメハハムスメハハ

ねえねえねえ母さんきょうってなんの日
かわいいムスメよお前の生まれた日だよ

最近のあたしったらひどく生ぬるくてね
いい子でいい母でいい婆さんやってるよ

 しかし、まあ、「いい子/いい母/いい婆さん」は「生ぬるい」を自覚したりはしないだろう。ましてや「ひどく生ぬるくてね」という「自己批判」などはしないなあ。だいたい、この「自己批判」がほんとうに「自己批判」だったとしたら、それは「過激になる」ということだから。
 こういう「矛盾」が「おばさん」の条件だと私は思う。この「矛盾」を「矛盾」と呼んでしまうのは、いわゆる「論理」というか、男が作り上げてきた「思想のよりどころ」のようなものだけれど、坂多にいわせれば「充実」とか「持続」とでも言うべきものかもしれない。
 私は、ふと、何の脈絡もなく、いま「充実」を「持続」と書き換えて思ったのだけれど。
 もしかしたら、これは、あのベルグソンの「持続」?
 ちょっと、頭を、かすめる何かがあった。

 はっきり覚えていないが、数学は物理に、物理は化学に、化学は生物学(いまなら「生理学」というかも)に引き継がれた(発展した)というようなことをベルグソンは言っていたと思う。「おばさん」というのは、その「生理学」としての「人間」である。「有機体」としての「人間」である。数学的純粋さなんて、古くさい、と笑い飛ばすだろう。

 長嶋南子「四月」には、こんなことばがある。

四月がくるので引っ越します
身の丈にあわなくなった部屋を
男を捨てていきます
どこかに身の丈にあった
部屋はありませんか 男はいませんか

 「いません」という返事は、まあ、通用しない。数学の問題ではないのだから。それに、長嶋にかかれば、あらゆる男は長嶋の「身の丈」におさまってしまう。それが「持続」ということ。
 途中を省略して引用するので、わけがわからないかもしれないが、わけがわからなくてもいいのが詩なので、説明抜きで(論理抜きで)引用すると、詩は、こんなふうに展開していく。

男が来て箱を担いで出て行こうとしています
あれ 産廃業者に頼んで棄てた男ではないか
男の背中に爪をたてて箱から飛び出しました
ご近所をウロウロしている徘徊老人は
わたしではありません野良猫です
いいえわたしです
いいえ野良猫だってば

 私は猫がこわいから見かけたら逃げます。で、その猫というのは、爪をたてる、うろうろする。野良猫。という「要約」にしてしまってはいけないのだが、ここにあるのも「いい加減な持続」だ。そして、この「いい加減」というのは、「論理を超越する」ということでもある。あるいは、「論理なんて、後出しジャンケンでどうにでもなるから、好き勝手に」であるかもしれない。

 

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奥間埜乃「わたしは形容されない安らいだフィールド」

2023-05-14 15:15:20 | 詩(雑誌・同人誌)

奥間埜乃「わたしは形容されない安らいだフィールド」(「マゼラン・フューチャー」02、2023年04月30日発行)

 奥間埜乃「わたしは形容されない安らいだフィールド」の書き出し。

 冬鳥が飛び立つある雪の午后、細い鉤爪のひと蹴りに
小枝が振れるその震動を、応答として記録する一篇の詩
がある。 

 こうした繊細な描写は、最近は見かけないので、目が吸いよせられてしまった。小枝が振れる→その震動→応答→記録という、とてもていねいな変化がいい。いまはやりの、奇妙な「脱臼感」がないのが、私は好きだ。とくに「振れる」から「震動」への変化がおもしろい。動詞をわざわざ名詞に言い直している。そのとき「その」という指示詞がつかわれている。不思議な粘着力が、文体を飛躍させる。粘着力と飛躍は正反対のものだが、「その」の粘着力(接続)によって、「応答」が生まれている。だれの応答? あるいは何の応答? それは書かずに、いきなり「記録」へとふたたび飛躍する。そういう「接続」を振り切り、飛躍することが「詩」なのだ、と、この一連は告げている。
 二連目。

 テクストのこまやかな白息に沿わせ、誰の想像にもの
ぼらない辛苦の染みを、丁寧にやがて旋律へ溶け込ませ
てゆく。

 ことばの動きの繊細さは、一連目を引き継いでいるようで、何かが変質している。一連目にあった「その」の粘着力(接続)がない。
 まあ、すでに飛躍したのだから(詩になったのだから)、そこから先は「その」が不必要ということかもしれないが、妙に私は物足りないと感じてしまう。
 「記録(あるいは詩)」は「テキスト」へと引き継がれていくのだが、ここには「振れる」という動詞を「震動」に置き換えたようなしつこさとずれがない。「その」を補うべきことろがない。
 どこにでも隠れているはずなのに、どうしても表に出てくるしかなかった「ことばの肉体(思想)」を私は「キーワード」と呼んでいる。一連目にあった「その」は「キーワード」であると思って読み始めた私は、ここで、ちょっと読む気力が落ちる。
 詩は、このあと、こう展開する。

 わたしは形容されない安らいだフィールド。

 耳を澄ます。口唇が開く。息に漏れる。

 柔和な体温を届けうるとき、過ぎ去りし日々として虚
空にほどける白い紙には、一条の希望があたかも読点を
打つ行為の比喩に映っただろうか。

 「白息」(二連目)が「息」(四連目)と「白い紙」(五連目)に、「テキスト」(二連目)が「フィールド」(三連目)「紙」(五連目)へと引き継がれながら、「読点」(五連目)を折返点にして「記録」(一連目)へと循環する。
 とても丁寧なのだけれど。
 とても丁寧であるだけに、「その」はどこへ消えてしまったのか、と私は疑問に思うのである。全体を通じて「ことば」の選択は統一されているが、「文体」は激変している。
 「その」が印象づける「接続/粘着力」ではなく、「飛躍」の詩である、と奥間はいうかもしれない。

 まあね。

 途中を省略するが、最終連だけ、一行空きではなく二行空きにして、こう終わる。

 ページを埋めて、とあなたは哭した。

 なんだか、古くさいことばを読まされている気になった。
 思い返すと。
 荒川洋治がつかった「その」は、荒川以前の「散文」と荒川の「文体」を切り離す力を持っていたのかもしれない。(つまり、新しい「文体」の展開だったのだ。)たぶん、戦後の英語教育(翻訳文体)の影響で、私たちの世代に自然に浸透したために、あまりそのことに気づくひとはいないのだろうけれど。
 一連目の「文体」に感心し、書き始めたのだけれど、読み進むと、期待外れだった。私が詩に求めているものが違うだけなんだろうけれど。

 

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細田傳造「雨にも負けず」ほか

2023-05-05 13:35:14 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「雨にも負けず」ほか(「ユルトラ・バズル」39、2023年04月25日発行)

 細田傳造は、いつでも非常に面倒くさいことを、非常に簡単に書く。論理を書かない。ただ、感情が変わった瞬間を書く。
 「雨にも負けず」は、雨の中を歩く兵隊の描写からはじまる。

雨が止まない
もう十日も降っている
褌ゲートル軍帽背嚢完膚無く濡れている
陰嚢陰茎そぼり小水漏れて暖を取る

 この凝縮した描写がうまいなあ、と思う。「完膚無く」ということばは常套句かもしれないが、ここに「膚」の文字が出てくるところが、なまなましい。ほんとうに戦争のとき、細田は行軍したのではないか、と思ってしまう。「小水漏れて暖を取る」も、いいなあ。あったかいんだよなあ。どうせ濡れているんだから、わざわざ、ズボンが濡れるかどうか気にする必要はないし、だいたい、行軍のとき、ひとりだけ立ち止まって小便をしていたら叱られるだろう。だから、そのまま、歩きながらするしかないのかもしれない。
 この部分の描写が「褌」からはじまるのも、とてもいい。すべてが唐突ではなく、連想が自然に動くようになっている。
 でも、ほんとうにすばらしいのは、このあと。歩兵は、生きて日本へ帰って来た。

生きて帰った昭和二十一年十一月
腹は減っているが書が読みたい
西武鉄道東長崎駅頭で本屋を見つけ
復員兵服の儘
がつがつがつ書架を物色
腹の立つ詩歌があった
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ・・
                  (注・「西武鉄道」の「鉄」は本文は旧字体)

 そりゃあ、思うだろうなあ。雨の中を行軍し、しかも生きるために、ズボンの中に小便を垂れた。しかも、その惨めな状況のなかで「暖かさ」を感じてしまった。こうした体験のあとで「雨ニモマケズ」と言われてもなあ。「雨にも負けず」生きてきたんだから、そのことを人に言われたくない。
 簡単に言えば、「説教くさい」という反発だ。
 「説教くさい」というのは、とても大切な反感だと思う。それは、「ヒロシです」のなかでは、こうつかわれている。

ヒロシです
吉野弘が嫌いです
生まれさせられたというのが
お説教くさい

 私なりに「誤読」すれば、「生まれさせられた」ということばのなかには、「論理」がある。ふつうは、そういう言い方をしない。つまり、何か、特別な目的を持った「論理」がそこにはある。
 それが嫌いだ、ということだ。
 「説教」というのは、つまりは「論理」である。「頭」で考えたことばが、肉体で考えたことばを押さえ込む。ズボンをはいたまま小便をするのは汚い、とかね。肉体は、ああ、冷えきったからだが小便に触れて、そこだけあったかい、気持ちがいいなあ、を否定する。
 宮澤賢治の詩には、そういうものが含まれていないか。
 「論理」は正しいけれど(正しいから「論理」と呼ばれるのだけれど)、「正しさ」というのは、何か、暴力を含んでいる。素手で殴るというような暴力ではなくて、「疲れない暴力」を含んでいる。機械的だ。
 「雨にもまけず」のつづき。

店を出ると雨が降り出した
雨はきらいだ
宮澤賢治って何だろう
永訣の朝って誰だろう
『肉体の悪魔』というわかりやすそうな本を
小脇に挟んで帰った
        (注・『肉体の悪魔』の「体」は旧字体、細田はとても律儀である)

 『肉体の悪魔』がわかりやすいかどうか判断できないが、このとのきの「わかりやすい」は少なくとも「頭」とは関係がない。「肉体」が反応しそうだ、という無意識だろう。
 「無意識」について言えば。

宮澤賢治って何だろう
永訣の朝って誰だろう

 この二行の「何」と「誰」のつかいわけもすごいなあ、と思う。「頭」で考えれば「何」と「誰」は逆だろう。でも、ね。やっぱり、「宮澤賢治って誰だろう」では、「反発」にならないのだ。何か、違うことを、ままり「論理」を生きるというのは、いったい、何ごとなのかと、無意識に思ってしまう。それを修正せずに、そのままことばに定着させる。
 ことばは、いろいろな動きをするものだが、細田は「修正してはいけないことば」というものをしっかりとつかみとっている。
 もうひとつの作品「心臓を見せに行く」には、こんな行がある。

広島で
朝鮮人のくせにピカドンで死んだ

 この「朝鮮人のくせに」の「くせに」は「修正できない」ことばである。私は「朝鮮人のくせに」と書くことができないが、細田は書くことができる。そこには、越えることのできないものがあり、その越えることのできないものがあるということが、とても重要だと思う。
 「論理」は、この越えることができないもの(越えてはいけないもの)を越えてしまう。そこに、非常な危険がある。
 これは、雨の行軍で「小水漏れて暖を取る」についても言える。私は、それを「わかる」と書いたが、これは、ほんとうは「まちがい」である。どんなに「わかった」つもりになっても、それは「想像力=頭」が動いて「わかる」部分がある。その「わかる」を「論理」にしてはいけない、それは「まちがい」なのである。

 どうすべきなのか。

 この問題に対する「答え」はない。私はとりあえずは「引き返す」。何かにぶつかる。ぶつかったときの衝撃から、自分自身へ引き返す。立ち止まる。
 「論理」というものは、どうしても生まれてくるものだから(なんといっても、脳味噌はずぼらが得意だから、自分さえよければいいというのが脳の主張だから)、それを「壊す」方向へ引き返すしかないと思う。
 そて、その「引き返すためのヒント」が、矛盾した言い方になるかもしれないが、細田の詩にはある。

 ちょっとというより、完全に脱線することになるのだが、私は「雨にもまけず」を読みながら、「台湾有事」を思ってしまったのだった。もう「台湾有事」ははじまっている。それはロシアのウクライナ進攻から同時にはじまっている。
 グロバリゼーションということばがあるが、これは私の考えではアメリカナイズと同じである。アメリカは、地球をアメリカナイズしようとしている。もし、戦争を(台湾有事を)防ぐなら、アメリカナイズというのグロバリゼーションがら「引き返す」しかない。アメリカナイズされないこと、アメリカナイズという「論理」で世界をおおわないことしかないと思う。
 世界には、アメリカナイズに疑問を感じている国が多くある。多くの人がいる。日本では、その動きはあまり報道されないが、その国や、そういう人の脇に立ってみる必要がある。アメリカの論理から引き返す必要がある。
 「核拡散」にしろ、それは「核があれば自分の国の安全は守れる」というアメリカの主張がグローバル化したもの、アメリカの主張をソ連(ロシア)、中国、北朝鮮がまねしたものである。イスラエルの問題を考えれば、それがいっそう鮮明になるだろう。


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布村浩一「歩く」

2023-05-05 11:26:59 | 詩(雑誌・同人誌)

布村浩一「歩く」(「別冊詩的現代」2023夏、2023年夏発行)

 

 布村浩一「歩く」は、こうはじまる。

 

大川を北へ折れて

そのまま歩いて

途中で

団地の方へ

団地の方角へ

入っていき

そのまま歩き

 

 「そのまま」がこの詩のキーワードで、歩いた場所を「そのつまま」書いている。歩いていくと「大きな建物」がある。「そのまま」とは書いてないが、「そのまま」入っていく。という具合に、どこにでも「そのまま」を補えるのだが。

 

ここに百均の店と

スーパーマーケットと

ドラッグストアと

本屋がある

ドラッグストアとスーパーマーケットの

あいだにきれいな白いトイレがあり

そこで用を足してから

本屋に入る

店の中をぐるっとまわって

雑誌のコーナーで停まる

ここにある週刊誌と隔週の週刊誌と月刊誌を

読む

 

 この「そのまま」の感じがとてもおもしろく、「そこで用を足してから/本屋に入る」のあいだに、思わず「そのまま」を挿入したくなる。そのまま、手を洗わず。手を洗ったのなら「そこで手を洗って」と書きそうなのに、書いてないなあ。きっと「そのまま」手を洗わず、本屋に入ったんだろうなあ。

 ま、これは、私の「妄想/誤読」だから、気にしないでね。

 その本屋の描写では「ここにある」ということばがとてもおもしろい。「ここにある」もの以外は読むことはできないのだが、「ここにある」と書く。「ここ」、つまりそのとき布村が存在する場所を、「そのまま」克明に書いている。

 「そのまま」が「ここにある」を発見するまでの過程が書かれていて、私は、詩は「ここ」でおわってもいいなあ、と思った。私なら「ここ」でおえるだろうと思うのだが、布村は私ではないので、当然、違ったことを書く。

 このあと、当然なことながら、本屋を出て「そのまま」歩き続ける。

 

細い長い道がみえる

坂だ

そこへ向かう

細い長い道に向かう

細い長い道に向かって歩いていると

大きな風景があらわれる

高い広い大きな風景に向かって

歩く

 

 ここに「そのまま」は補えるか。もちろん、補ってもいい。しかし、なんなとく「そのまま」を補いたくない。

 本屋で発見した「ここ」が「そこ」に変わったときから、「そのまま」も変わってしまったのだ。「歩く」と書いているが、「そのまま」歩くのではなく、「向かって」歩く。大きく変わったわけではなく、少し意識が変わっただけであり、布村は、日が暮れればやっぱり家へ帰るだろうが、その途中で、ふいに「高く」「広い」「大きな」を見つけ、その瞬間に「向かう」が鮮明になる。

 

 短く、どうでもいいような(?)詩だが、そのどうでもいいことが、とてもいい。この詩は贅沢だ。二篇にわけて書くことができるのに、一篇に統合し、何か正反対とでも言うべきものを、分離できない「ひとつ」にしている。

コメント (1)
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荒川洋司「工場の白い山」ほか

2023-04-24 18:11:27 | 詩(雑誌・同人誌)

荒川洋司「工場の白い山」ほか(「午前」23、2023年04月25日発行)

 中井久夫が、どこかで「訳詩というのは、元の詩を暗唱してしまえるくらい記憶するのではなく、少しうろ覚えのところがあるくらいの方が、うまくできる」というようなことを書いていた。詩の鑑賞も、それに似ていると思う。完全に理解してしまうと、そして暗唱できるくらいに覚えてしまうと、つまらないのではないか。記憶まちがい、なんだったかなあと思い出せない部分があるくらいの方がおもしろい。
 その中井の意見とは少し違うのだが、そして似ているかもしれないとも思うのだが、詩というのは、何かわからないところがある方がおもしろい。特に、初めて読む詩というのは、わからない方がおもしろい。

 荒川洋司「工場の白い山」を読んでみる。

白い山肌は
みそれにおさめられた
落ち悔いたようで
安らかでなく
生き方は いまどうしているのか
鋭利なものは とがりながら枠を外れ
愁然とした一本のからだを横にしたり
真横に返したりして
引き寄せるうちに
次々に仲買人の肩先をとおって
生き方は どこかへ
あるじのないまま運ばれていくのだ

 書かれていることばのひとつひとつは、わかる。(わかると、思う。)しかし、そのつながり方が、よくわからない。だから、つまずく。それは、わからないものを偶然見つけてしまう感じにも似ている。
 「生き方」ということばが二回繰り返されているから、だれかの「生き方」を思って、荒川はことばを動かしているのだろうと想像はできるが、どんなふうに想像しているのか、よくわからない。「いまどうしているのか」とあるから、まあ、荒川も、それを知らないのだろう。知らなくても(あるいは知らないから)想像できるとも言える。
 荒川のなかでは「脈絡」があるのだろうけれど、その「脈絡」は私の想像をこえているので、ついていけない。ついていく必要もないのだが、ついていくとぶつかってしまう。それは私の行きたいところとは関係ないから何だろうなあ。
 この感じが、雑踏の中を歩いていて、前を歩いている人にぶつかってしまうときの感覚に似ている。しかも、知らない人なら、「あ、ごめん」ですむのだけれど、なまじ知っているので、何か、その人を追いかけていたのを見つかってしまった感じかなあ。
 つまり、私を逆に、覗かれてしまった感じ。
 でも、私の何を? 私のことばの動きを。私のことばがどう動いているかを。

 あ、ほんとうは、こんなことを書きたいわけではなかった。思わぬところへ引きずり込まれてしまいそうなので、ちょっと逆戻りする。

 ことばを追いかけ、つまずいてしまうのは、私の知っている「文法/文体」意識では書かれていないからである。「文体」(意識の肉体)というものは、だれでも独自のものだから、それを完全に理解できるはずがないものだ。しかし、私たち(私だけ?)は、それを「理解できる」ものとかってに思い込んで、それを追いかける。追いかけると、妙なずれに悩まされる。そして、書かれていることばの「文体(意識の肉体)」のなにかを見落として、その瞬間に「ぶつかる」。意識な「意識の肉体」にぶつかる。

 ということも、ほんとうは書きたかったことではなく、脱線なのだが。
 でも、脱線してから、もとに戻った方が、断線の重大さがわかるかもしれないなあと思い、先走って脱線しておくのだ。

 何が書きたかったかというと。
 今回の、荒川の詩の文体、ギクシャクと折れたような文体、つまずきを誘うというのは、いまの現代詩のひとつの流行であり、それは江代充はじめ、何人かがバリエーションを展開することで流行した。まあ、「源流」は、荒川が『水駅』で完成した文体を破壊し、別なことばの動きを探し始めたところにあるのかもしれないが(だから、今回の荒川の詩は、一種の「先祖返り」の部分もあると思うのだが)、……これは、荒川の「その」という指示代名詞がつくりだす厳密な「文脈」からの「解放」ともいえるものだ。
 あ、私の「文体」も乱れています? でも、私の文体の乱れ方は、どちらかというと、「粘着的」でしょ? 「折れた文体」というよりも、「切断」を拒んでねじまがっていく文体だね。
 この荒川の、あるいは、江代の、折れながら(切断されながら)、接続していく文体は、どうすればつくることができるのか。きょう考えるのは、それだ。
 荒川は「生き方は」ということばを繰り返すことで、さらには「横にしたり」「真横に返したりして」という具合に「横」を引き継ぐことで、接続を強調し(この手法が、ほかの詩人とは違う)、逆に切断を浮かび上がらせるのだが。
 田中清光の「約束」を読んでいたら、ふいに、簡単な(?)方法を思いついたのである。
 田中の詩は、こうである。

木は
花を咲かせるという約束を
目の前に見せている
木の声には言葉がいくつもあって
その音声は 空の言葉に
無心に答えているように聞こえる
わたしにあるはずの
見えない水路
宇宙の資材とつながっている回路でも
かすかな音声が通りみちの淀みや暗渠を越えようとしているようだが
まだわたしの身体まで到着してこない

 この田中の詩も、かなりギクシャクしているが、五行目の「その音声は」の「その」が荒川世代の「粘着力のその(指示代名詞のその)」なので、そういうものをばっさり切り落として、こうすると、どうだろうか。

花を咲かせるという約束の
木の声には言葉がいくつもあって
無心に答えているように聞こえる
わたしにあるはずの
宇宙の資材とつながっている回路でも
かすかな音声が通りみちの淀みや暗渠を越えようとしているようだが
まだ身体まで到着してこない

 「その」という粘着力のあることば、必然的に脈絡を産み出してしまうことば削除し、さらにそれにつながることばを隠してしまう。「その」によってひっぱりだされてきたものをあえて隠してしまう。脈絡を見えなくして、飛躍を装う。(ほんとうは、脈絡はある。)そうすると、「いま流行の文体」になるのではないかと思ったのだ。
 しかし、それを繰り返すだけではおもしろくない。
 では、荒川は、どうするか。それを私は、どう読んだか。それを書こうと思ったが、やっぱりやめておく。「午前」で、荒川の詩を直接読んで、そのつづきをたしかめてほしい。

 


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平田俊子の視点

2023-04-23 08:49:10 | 詩(雑誌・同人誌)

平田俊子の視点(読売新聞、2023年04月23日)

 2023年04月23日の読売新聞。「こどもの詩」というコーナーに、古井いつきの「私のおなか」という作品。

おなかには三つお部屋がある
一つ目はおくすりのへや
二つ目はおやつのへや
三つ目はごはんのへや
もぐらさんのおうちみたいに

 さて、この詩に、いったいどんなことが言えるか。平田俊子は、こう書いている。

 大人になるとお酒の部屋もできたりします。

 この感想は、とてもいい。子どもを特別扱いしていない。子どもはおとながお酒を飲むことを知っている。子どもは飲んではいけない、ということも知っている。だから、ね、大人になるといいでしょ? なりたいでしょ、とそっと言っている。
 このちょっとふざけた励ましは、「一つ目はおくすりのへや」の奥にあることばをくみとっているのだろう。
 この子どもは、薬を毎日飲まないといけない。何らかの病気なのだろう。そして、子どもは薬を飲むことを、部屋が三つあるという言い方で納得している。だれもが三つの部屋をもっているわけではない。このけなげな努力を、ゆっくりとゆさぶり、ときほぐしている。
 平田の詩には、何かしら「配慮」の匂いがして、私はその「配慮」が嫌いというか、どうしても肉体がむずむずしてしまうのだが。
 でも、この子どもに対する「気配り」はいいなあ、と思った。子どもは「気配り」されたことに気がつかない。「対等」を、まあ、対等(平等)ということばではつかみ取らないと思うが、その「対等/平等」を感じ、目を丸くするだろう。
 その驚き、喜んでいる子どもの顔が見てみたいし、あとで舌を出している平田の顔も見てみたい。
 
 詩は、書かれただけでは、完結しない。

 

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Antonio Baños Roca「RECUERDAME QUE TE QUIERO」

2023-04-21 18:21:39 | 詩(雑誌・同人誌)

Antonio Baños Roca「RECUERDAME QUE TE QUIERO」

 Antonio Baños Roca「RECUERDAME QUE TE QUIERO」の詩を読んでいたら、不思議なことばにであった。

Sin rumbo, navegando a la deriva
en un mar de incertidumbre,
llegan los días y las noches
donde mis cabellos blancos
soportan el paso del tiempo.

Atrás quedan ilusiones logradas,
momentos compartidos,
experiencias adolescentes vividas,
promesas por cumplir.

Recuerdo, cuando recuerdo...
El claroscuro de mi comportamiento.
El dulce sonido de tus palabras.
La suave caricia de tus manos.

Pero a veces... tormento y desespero.
Sombras sin voces me acompañan
en mi viaje a ninguna parte
con sonidos de colores apagados.

Y tú, a mi lado cuando despierto
con tus manos acariciando mi frente,
recordándome que soy y que existo.


 三連目、二行目のある「claroscuro」。claro (明るい)とoscuro(暗い)が結びついている。日本語にも「明暗」ということばがあるから、これがそのまますぐに「撞着語」(oxímoron)とはいえないかもしれないが、そうした類のことを感じさせる。
 恋愛は、いつでも明るい部分と暗い部分をもっている。「あなたのことば、その甘い響き」「あなたの手、その柔らかな愛撫」は、私を誘う。そして、とらえて放さない。それが甘美であればあるほど、不安も忍び寄る。恋愛の歓喜の一瞬にさえ、不安は忍び込む。そして、それは不安があるからこそ、喜びを高めるのかもしれない。不安は、いうまでもなく、自分自身のなかから生まれてくる。聞いてはいけない声が、自分の中から聞こえてくる。それは、いつでも詩人に寄り添っている。
 Antonio が書いていることは、私が「誤読」している内容(意味)ではないかもしれないが、「claroscuro」という不思議なことばは、そういうことを思い起こさせる。「Sin rumbo (方針もなく、あてもなく)」という書き出しのことばが、それを感じさせるし、「 incertidumbre(不確実性、あいまい)」も、そうした「不安」を増幅させる。途中に「歓喜」が書かれているけれども、「不安」がよぎる。
 「RECUERDAME QUE TE QUIERO」(お前を愛している、そのことを思いださせてくれ)というのも、その「不安」と不思議な呼応をしている。

櫂もなく、あてもなく
私は不確実という名の海を漂う
繰り返しやってくる昼と夜の
つきることのない時間に洗われ
私の髪を波のように白く乱れる

実現してしまった私の夢
二人で共有した至福の瞬間、
青春の純粋ないのち
約束は必ず果たされた

覚えている、忘れることなく覚えている
私をとらえて放さないそのまぶしいような、
あなたのことば、その甘い響き
あなたの手、そのやわらかな愛撫

そして同時に、私をとらえて放さない
苦しく不安な予感、声を持たない影が、
どこにもたどりつけない旅を
沈んだ音をひきずりながらついてくる

でも、きみが、私のそばによりそうきみが、
その手が、いつもと同じように
私の額に触れるので、私は私を思い出す
きみを愛する私はまだ生きている

 これは、「翻訳」というよりも、「意訳」、あるいは「誤訳」の類だが、日本語にしてみたくなって書いてみた。

 

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野沢啓「言語暗喩論のたたかい--時評的に3」(2)

2023-04-15 22:52:54 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「言語暗喩論のたたかい--時評的に3」(「イリプスⅢ」03、2023年04月10日発行)

 野沢啓「言語暗喩論のたたかい--時評的に3」は、「言語暗喩論」をひと休みして、ある賞めぐるあれこれを書いている。
 これは、私のように、あまり接触のない人間には、すこぶるおもしろい文章であった。何がおもしろいといって、野沢は「言語暗喩論」の完成に向けでことばを動かしている人間だと思っていたら、ほかのことにも関心があったということがわかったことである。「言語暗喩論」を脇においておいても、まず、書いておきたいことがある。
 なるほど。

 しかしまあ、「人事」というのもの、おもしろいものだなあ。「人事」であるから、そこに書かれていることは、別の人から別の「出来事」に見えるかもしれない。「出来事」は、それに直面した人の数だけ存在する、ということだろうなあ。
 もしそうであるなら。
 「ことば」という「出来事」も、「ことば」に向き合う人の数だけ、その「個別な様相」を持っていることになるだろう。
 そう考えれば、野沢が今回書いていることも「〇〇暗喩論」というような「論」として成り立つかもしれない。「詩人賞暗喩論」「詩人賞選考委員暗喩論」。何の「暗喩」? もちろん「詩人会(界?)人事」の「暗喩論」である。詩人賞、詩人選考委員、その選考過程は、すべて何かの暗喩である。
 野沢は「人事」と言わず、まあ「時評」と言うのかもしれないが。

 しかし、と、私はもう一度「しかし」を書く。
 結局ね、私は、野沢が書いているのは「野沢暗喩論」なのだと思う。「言語暗喩論」も「野沢言語暗喩論」、人事について書けば「野沢人事暗喩論」。だから、すべては「野沢暗喩論」なのである。
 詩の言語が他の言語に先立つというのは、結局、野沢の言語は他の人の言語に先立つという主張につながるんだろうなあ、と思う。そういう意味で、あらゆることは「野沢暗喩論」を、さまざまに展開したものだろうなあ、と思う。
 別の形で言い直すと。
 私は野沢の「詩の言語」を特権化した主張には疑問を感じるが、野沢が野沢を特権化する主張にはまったく疑問を感じない。それでいいのだと思う。「詩の言語」ではなく、野沢の言語(主張)をテーマにして「暗喩論」を展開すれば、非常に説得力があると思う。少なくとも、私は納得する。
 詩を書く人は大勢いる。小説を書く人も大勢いるし、哲学を書く人もいる。ことば以外に色や形に取り組む人もいれば、音に取り組む人もいる。そのなかから詩を選んで、詩を特権化していることに私は疑問を感じるが、「野沢自身」を特権化して書くのであれば、私はほんとうに納得する。だれだって自分を「特権化」して書く権利も持っていれば、自由も持っているし、義務も持っている。

 今回書いているように、もっと野沢を特権化して論を展開すれば「言語暗喩論」はとても説得力のあるおもしろいものになると思う。野沢を特権化するのではなく、詩を特権化しようとしているから、私は疑問に思うのである。言い直すと、詩を特権化することで、野沢を正当化しようとしていると感じ、いやあな気持ちになるのである。今回のように、野沢を特権化して、その野沢が特権を駆使して詩を書いている、詩論を展開しているということで突っ走ればいいのだと思う。
 今回の野沢の書いている文章は、とても率直な、野沢自身の声に満ちた(野沢の声だけで書かれた)文章だと思った。

 


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野沢啓「言語暗喩論のたたかい--時評的に3」

2023-04-14 23:34:27 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「言語暗喩論のたたかい--時評的に3」(「イリプスⅢ」03、2023年04月10日発行)

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 なるほど。

 しかしまあ、「人事」というのもの、おもしろいものだなあ。「人事」であるから、そこに書かれていることは、別の人から別の「出来事」に見えるかもしれない。「出来事」は、それに直面した人の数だけ存在する、ということだろうなあ。
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 詩の言語が他の言語に先立つというのは、結局、野沢の言語は他の人の言語に先立つという主張につながるんだろうなあ、と思う。そういう意味で、あらゆることは「野沢暗喩論」を、さまざまに展開したものだろうなあ、と思う。
 別の形で言い直すと。
 私は野沢の「詩の言語」を特権化した主張には疑問を感じるが、野沢が野沢を特権化する主張にはまったく疑問を感じない。それでいいのだと思う。「詩の言語」ではなく、野沢の言語(主張)をテーマにして「暗喩論」を展開すれば、非常に説得力があると思う。少なくとも、私は納得する。
 詩を書く人は大勢いる。小説を書く人も大勢いるし、哲学を書く人もいる。ことば以外に色や形に取り組む人もいれば、音に取り組む人もいる。そのなかから詩を選んで、詩を特権化していることに私は疑問を感じるが、「野沢自身」を特権化して書くのであれば、私はほんとうに納得する。だれだって自分を「特権化」して書く権利も持っていれば、自由も持っているし、義務も持っている。

 今回書いているように、もっと野沢を特権化して論を展開すれば「言語暗喩論」はとても説得力のあるおもしろいものになると思う。野沢を特権化するのではなく、詩を特権化しようとしているから、私は疑問に思うのである。言い直すと、詩を特権化することで、野沢を正当化しようとしていると感じ、いやあな気持ちになるのである。今回のように、野沢を特権化して、その野沢が特権を駆使して詩を書いている、詩論を展開しているということで突っ走ればいいのだと思う。
 根幹の野沢の書いている文章は、とても率直な、野沢自身の声に満ちた(野沢の声だけで書かれた)文章だと思った。

 


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