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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(39)

2019-12-07 10:45:31 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (夕虹のような)

一枚の春のスカーフにぼくは巻き込まれた

 この「春のスカーフ」は幸福というよりは、幸福の記憶である。それは虹が消えるように消えてしまう。一瞬、美しいものを見せて。
 人は、幸福なときに、幸福な情景に出会うとは限らない。

雨の日に
遠い田舎へ帰つて行こう

 虹と春のスカーフに、嵯峨は自然を思い描く。田舎は、たぶん、虹が出なくても美しい。都会と違って。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(38)

2019-12-06 11:27:45 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (午後になると顔が火照つてくる)

わが肺臓のうえに穴のように休んでいるものはなんであろう
小さな蝶のように息づいているものは何んであろう

 「穴」は「小さな蝶」と言い直され、「休む」は「息づいている」と言い直される。「なんであろう」「何んであろう」と疑問が、その言い直しを束ねる。書かれていないが「小さな蝶」の前には「わが肺臓のうえに」が省略されている。

わが肺臓のうえに穴のように「息づいている」ものはなんであろう
わが肺臓のうえに小さな蝶のように「休んでいる」ものは何んであろう

 「休んでいる」と「息づいている」を入れ替えると、「穴」が「小さな蝶」に変身、生まれ変わっていることがわかる。「穴」は「欠乏/虚無」をあらわすかもしれない。それが「小さないのち/希望」に生まれ変わる。そういう変化を生み出す「肉体」の力に、嵯峨は顔を火照らせている、と読みたい。




*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(37)

2019-12-05 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あなたの手紙の余白は)

 ふたたび「あなた」にもどって、詩はつづく。

夕顔の花のような匂いがする

 この一行は不思議である。「夕顔の花のような」は「匂い」を修飾している。そして「夕顔の花のような」というのは、そのまま「比喩」でもある。
 だが。
 それは「余白」の「比喩」なのか。
 「余白」の「比喩」は「匂い」ではないのか。
 ことばが動いている。「意味」の「固定化」を拒否している。そして、こんなふうに展開する。

昨日も 今日も
晴れた日も 雨の日も




*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(36)

2019-12-04 15:26:40 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくはおまえの部厚い白い胸を力いつぱい踏みつけたい)

 「白」がつづいている。しかしこの部分では「あなた」ではなく「おまえ」ということばがつかわれている。「おまえの部厚い白い胸」の「おまえ」はこれまで書かれてきた「あなた」とは違う人間なのか。「ぼく」はあいかわらず「ぼく」であるが、同じ「ぼく」であると言えるのか。
 きのう「転調」ということばをつかったが、この詩では「転調」しているのだ。

おまえの弾力のある白い胸を
ぼくは天までとどけと踏みつけたい

 「天までとどく」のは何だろうか。「白い胸」ではないだろう。白い胸は踏みつけられている。天に届くはずがない。踏みつけられる「おまえ」の「声」か。あるいは踏みつける「ぼく」の「声」か。「怒り」か。
 「踏みつけたい」ということばに目を向けてみる。「踏みつける」ではなく「踏みつけたい」。つまり、踏みつけてはいない。思っているだけだ。その思い、「怒り」を届けたいのだ。


*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(35)

2019-12-03 09:12:33 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あなたは直立ている)

日光と空気とをあつめた太い白樺の幹のように
白樺の幹のなかには千の蜜蜂の唸りがきこえる

 ここでも「白」が目立つ。「日光」の「日」は「白」に似ている。しかし、「蜜蜂」の比喩を経たあと、「白」は変化する。

あなたの豊かな肉体のなかには
海のような熱量の響がする。

 「あなたの肉体」は「白い肌」を持っているだろう。海は「白い波」を持っているだろう。それは隠されて、かわりに「唸り」からはじまった比喩が「響」になる。「千」は「熱量」と言い直され、「響」も抽象的になる。
 「転調」の準備だ。



*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(34)

2019-12-02 08:35:33 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (白樺の幹から)

雨雲がずりおちるように
あなたの白い豊満(ゆたか)な肩から
重い衣裳がずりおちる

 「ずりおちる」は「ずれて、おちる」。そこにあるべきものが、そこから「ずれて」、その結果「落ちる」ということだと思うが、私はこの音になじめない。「ずれる」は「すれる(こすれる)」でもあると思う。接触がある。摩擦がある。それがそのまま「音」になる感じだ。重苦しい音だ。不快な音だ。
 この印象は、次の行の展開と不思議な向き合い方をする。

嘘のなかのしずかな雪渓よ
舞い落ちる沈黙よ

 「しずかな」「沈黙」。ふたつのことばには「音」がない。「ずりおちる」といっしょに音は書かれていないが、私は音を感じる。その、私の感じた音を消すように「しずかな」と「沈黙」がある。
 「雪渓」は、どう動いているのか。「しずかに」とどまっているのか。「沈黙」は舞い落ちる。まっすぐに落ちるのではなく、揺れる。ときには「舞い上がる」という逆の動きを含めながら「落ちる」かもしれない。

 「音」の印象は定まらない。その、さだまらない動きのなかから、「白」という色彩が見えてくる。「白樺」「白い肩」。「雪渓」のなかにも「白」が隠れている。
 きのう読んだ詩のなかにも「白」があった。
 「白い雨」(雨の白さ)を嵯峨は書こうとしているのだろうか。


*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(33)

2019-12-01 11:53:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
田舎の雨

* (雨が降りしきつている)

そのはしばしに白い数字を連らねながら
雨は単一の思想を現わしている

 白い雨、ならば秋の雨だろうか。
 「白い数字」は「思想」の比喩と思って読む。その思想の特徴は「単一」であるということか。「数字」は0から無限まであるが、それを貫いているのは「単一」の思考である。1+1が無限につづいていく。
 だが、この詩は、そういう読み方を裏切って、次のように閉じられる。

--雨は昨日の感情のうえに降りつづける

 なぜ「きょう」ではなく「昨日」なのか。なぜ「知性(理性)」ではなく「感情」なのか。
 考えてみなければならないのは、「昨日の感情」というのは、「いつ」存在しているかということだ。「昨日の感情」をきょう思い出すとき、それは「きょうの感情」ではないのだろうか。きょう思い出しているにもかかわらず、それを「昨日の感情」と呼ぶとき、そこには「理性」が働いている。「数字」のようなものが働いている。
 さて。
 では「理性」と「感情」と、どちらが世界を存在させているのか。
 嵯峨の抒情詩は、感情を理性でととのえる形で動くものが多い。理性が真理であるけれど、真理は「感覚」としてはとらえにくい。「理性」が論理の力でつかまえるものである。そうやってつかまえた論理を、具体的なものの中に還していくとき、その感覚世界が感情と言う形、抒情になるのかもしれない。




*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(32)

2019-11-30 08:42:46 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (この砂漠は)

いつの日か通つたようにおもわれるが
いま哀しくもおもいだされない

 「おもう」が「おもいだされない」。「おもう」は気がする、ということだろうか。「おぼえている」のに「思い出せない」というのとは違う。「おぼえている」が「思い出せない」というのは「ことば」にならない、ということ。
 この詩では、「ことば」になっている。
 「哀しくも」というのが、その「ことば」だ。「おもいだせない」はずなのに「哀しくも」ということばが生まれてくる。こころが生まれてくる。「いま」となって。
 「いま」。
 このひとことも、切実だ。


*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(31)

2019-11-29 09:24:09 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
                         2019年11月29日(金曜日)

* (わたしは水を通わせようとおもう)

愛する女の方へひとすじの流れをつくつて
多くのひとの心のそばを通らせながら

 「愛する女」と「多くのひとの心」の対比がおもしろい。「多くのひとの心」と「愛する女の心」は違うのだ。もちろん、それは当然のことなのだが、わざわざ「多くのひと」と書いているところが興味深い。
 このあと「多くの人」は「針鰻」「蛙」「翡翠」という生き物の比喩となり、「蝉の啼いている水源地」へと変化していく。
 奇妙といえば奇妙だが、生き物がいる自然が嵯峨にとっての「ふるさと」なのだ。






*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(30)

2019-11-28 08:41:53 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくはかぎりなく慕わしいために)

歩みよることができなかつた
運命がたちどまつてまた歩きだす僅かなあいだに

 詩は、このあと「僅かなあいだ」を別なことばでいいなおすのだが、言い直す前の、この二行を私は「倒置法」の文章として読む。そうしたい気持ちになる。「慕わしいために」という言い方が私にはなじめず、そのなじめなさが倒置法を私の「肉体」に求めてくる。
 倒置法は不自然な文体である。言いたい何かが、正常な文体(?)を突き破って動く。そういう生々しい動きが「慕わしいために」という不思議な言い方をすでに要求しているのだ。








*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(29)

2019-11-27 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (愛というものは)

 「薔薇の新種のようなものだろう」とつづくが、その詩の最後の二行。

もしそれを数え唄にうたおうとすれば
それはどこまでも果しなくなつてしまう

 「数え唄」がおわらない。
 私が「不思議(奇妙)」と思うのは、そういう「事実(意味)」のことではない。
 「それを」「それは」と繰り返される「それ」である。
 「それを」は「愛を」であり、「それは」は「数え唄にして歌うこと」である。微妙に違うのだが「それ」という共通のことばでくくられるので、「愛」と「数え唄にして歌うこと」が同じものとしてあらわれてくる。そのとき、「愛」とは「ひとつ」ではなく、どこまでも数え続けられないと愛ではない、という形で復讐(?)してくるように感じられるのだ。







*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(28)

2019-11-26 13:18:11 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (男のかなしさを知るまい)

おもいきり太鼓を打ち鳴らして
大きく胸を張つて歩いていく
だれかきてそのいじらしい機会をすばやくとらえて放りこめ
しずかなしずかな古里の入江に

 「故、長峰英七に」という註釈がついている。
 太鼓を鳴らしたあと歩いていく男の姿を「いじらしい」と呼ぶ。そこに目が(意識が)行ってしまうが、直前の「だれかきて」ということばの方に「不思議」がある。つまり「切実さ」がある。嵯峨にしかわからない「正直」がある。
 「来る」は「男のそばに来る」である。遠くからみつめていることでは「知る」ことにならない。「とらえる」「放りこむ」も「比喩」ではない。つまり、頭で処理する動きではない。そばに「来た」もの、いっしょに生きている人間だけにできることである。
 嵯峨には、長峰といっしょに生きていた時間があるからこそ、こう書けるのだ。








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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(27)

2019-11-25 08:43:45 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくは空しいものを集めて)

長い橋をつくつた
いつたいその橋はどこへ架かつているのだろう

 この橋をつくる、橋を架けるとき、嵯峨は「対岸」がどのような場所か知らない。橋はここ(此岸)ではないどこか(彼岸)へとつながる。
 だから、詩は、必然的に、こう展開する。

その橋は女の方へむかつて架かつているだろう
すでにその女が死んでいたら
それでもぼくはその橋を渡つていくだろう

 橋を架けるは、橋を渡るという「動詞」を動かすために、絶対に必要なものだ。この絶対的な必要性を、切実さと呼ぶ。





*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(26)

2019-11-24 20:01:26 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (どこにぼくの星々はあるか)

自由な会話がはじまるといつかあなたの心に星はのぼり

 と詩はつづく。この比喩は美しいが、あまりにも比喩的でありすぎる。
 二連目で、ことばは調子を変える。

村々ではどこもかしこも小庭で火をたいていて
穏やかな追憶の日がもう暮れかける

 その空に星は姿を現わす、ということだろう。
 「村々」を直接目で見るのは難しい。だから、この行自体が「追憶」である。想像である。「自由な会話」の一行も、その「追憶」のひとつである。
 「星はのぼり」の「のぼる」という動詞が興味深い。星から見た村々ということなのだろう。






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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(25)

2019-11-23 08:31:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あれから幾日たつたろう)

 「あれから」とは何を指すか。「答え」は詩のなかに書いてあるが、直接的でおもしろくはない。おもしろいのは、その「直接性」をどうやって言い直すかである。詩はいつでも、言い直し(余剰)のなかにある。

ぼくは白い雄鶏がひろげる陽にかがやいている羽根をみつめる
あのみずみずしくも逞しい六月鶏を

 「ぼく(嵯峨)」鶏をみつめながら、鶏になる。鶏は「ぼく」の比喩なのだ。「陽にかがやいている羽根」、それを「ひろげる」動作。「みずみずしく」「逞しい」。
 「答え」はつまり、その対極にある。







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