大分秋めいてきましたけれど、もう台風は来ないで欲しいですね。この間の台風24号の影響で、近くの公園の木が随分倒されました。未だに雑木林の中は通行止めになっています。
さて先日行った京都旅行の続きです。昔は宮内庁へ申し込みをしないと参観できなかった京都御所が、通年で参観できるようになったので行って参りました。京都御苑の一角に、築地塀(ついじべい)で囲まれた御所が厳かに、そして静かに佇んでいます。ここから、来年の即位式で使う高御座(たかみくら)と御帳台(みちょうだい)が東京へ運ばれたというニュースもありましたね。歴史の重みを感じられる空間です。現在の建物で王政復古の大号令が出され、小御所会議が行われ、五箇条の御誓文が発布され、明治・大正・昭和の天皇の即位式が行われました。まさに維新を見てきた、「西郷どん」の世界を見てきた建物ともいえますね。
現在の京都御所がある所は、平安京内裏のあった場所ではありません。里内裏であった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)があったところです。紆余曲折を経て、元弘元年(1331年)に光厳(こうごん)天皇が即位されて以降、東京遷都が行われるまでの約500年間、天皇のお住まいとされてきました。その間幾度となく火災に見舞われ、その度に再建されてきたのです。敷地も豊臣秀吉や徳川幕府による造営によって次第に拡張されました。
天明8年(1788年)の焼失による再建時には紫宸殿や清涼殿などを平安の古制に戻し、嘉永7年(1854年)に焼失したあと安政2(1855)年に再建された時もその様式は受け継がれました。それが現在の京都御所です。維新を見てきた御所ですね。平安京内裏と全く同じではありませんが、御所としての体裁は整えられています。正門である建礼門や正殿(せいでん)である紫宸殿(ししんでん)、天皇の日常のお住まいである清涼殿(せいりょうでん)など、ほぼ平安の昔に倣ったものといえましょう。
紫宸殿
右近の橘・左近の桜
ですから紫宸殿の前庭(南庭)には右近の橘、左近の桜が植えられていますし、清涼殿の東庭には漢竹(かわたけ)と呉竹が植えられています。母屋の中央には昼御座(ひのおまし)といわれる天皇の御座があり、御帳(みちょう)が立てられています。ふと、薬子もこんなところで暮らしたのかと思いを馳せてしまいました。
清涼殿前の漢竹・呉竹
清涼殿・昼御座
薬子が暮らしたのは平安初期ですけれど、それから千年の時が過ぎ、都遷(うつ)りが行われました。ここは京都での最後の御所。今や即位の礼も東京で行われるようになりましたし、だんだん人々の記憶にも残らなくなるのでしょうか。ちょっと寂しいですね。
マイホームページ おすすめ情報(『栄光のかけら』・『薬子伝』、一般書店からも注文できます)
さて先日行った京都旅行の続きです。昔は宮内庁へ申し込みをしないと参観できなかった京都御所が、通年で参観できるようになったので行って参りました。京都御苑の一角に、築地塀(ついじべい)で囲まれた御所が厳かに、そして静かに佇んでいます。ここから、来年の即位式で使う高御座(たかみくら)と御帳台(みちょうだい)が東京へ運ばれたというニュースもありましたね。歴史の重みを感じられる空間です。現在の建物で王政復古の大号令が出され、小御所会議が行われ、五箇条の御誓文が発布され、明治・大正・昭和の天皇の即位式が行われました。まさに維新を見てきた、「西郷どん」の世界を見てきた建物ともいえますね。
現在の京都御所がある所は、平安京内裏のあった場所ではありません。里内裏であった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)があったところです。紆余曲折を経て、元弘元年(1331年)に光厳(こうごん)天皇が即位されて以降、東京遷都が行われるまでの約500年間、天皇のお住まいとされてきました。その間幾度となく火災に見舞われ、その度に再建されてきたのです。敷地も豊臣秀吉や徳川幕府による造営によって次第に拡張されました。
天明8年(1788年)の焼失による再建時には紫宸殿や清涼殿などを平安の古制に戻し、嘉永7年(1854年)に焼失したあと安政2(1855)年に再建された時もその様式は受け継がれました。それが現在の京都御所です。維新を見てきた御所ですね。平安京内裏と全く同じではありませんが、御所としての体裁は整えられています。正門である建礼門や正殿(せいでん)である紫宸殿(ししんでん)、天皇の日常のお住まいである清涼殿(せいりょうでん)など、ほぼ平安の昔に倣ったものといえましょう。
紫宸殿
右近の橘・左近の桜
ですから紫宸殿の前庭(南庭)には右近の橘、左近の桜が植えられていますし、清涼殿の東庭には漢竹(かわたけ)と呉竹が植えられています。母屋の中央には昼御座(ひのおまし)といわれる天皇の御座があり、御帳(みちょう)が立てられています。ふと、薬子もこんなところで暮らしたのかと思いを馳せてしまいました。
清涼殿前の漢竹・呉竹
清涼殿・昼御座
薬子が暮らしたのは平安初期ですけれど、それから千年の時が過ぎ、都遷(うつ)りが行われました。ここは京都での最後の御所。今や即位の礼も東京で行われるようになりましたし、だんだん人々の記憶にも残らなくなるのでしょうか。ちょっと寂しいですね。
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