障害者が働く、ということについて

2013年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム

 

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訓練を受け、努力して、挨拶の仕方から始まって、一般企業や事業所で働くために必要と思われる力をつけた障害者なら、すぐにそういった企業などで働けるかといえば、ことはそう単純ではない。職場の理解(上司も同僚も)が何より大事であり、必要だ。<o:p></o:p>

 

しかし、そのような職場環境が出来上がるまで待ってはいられない。とすれば、今、そういったところで働けるだけの力をつけてきた障害者が一般企業や事業所で働くときには、他の多くの障害者のために彼らが働ける職場環境作りのための先駆けとなってほしい。そして、広く他の職場でもそうした受け入れがなされるような職場環境を作るために力を貸してほしい。その時、例えば彼らの出身母体である私たち障害福祉施設には、付かず離れずの支援が求められよう。そうして、それが点となり、線となり、面となって、社会に広がっていけばと思う。<o:p></o:p>

 

どんなに障害が重くとも、社会の一員として、社会の人たちに交じって、生き、育ち、学び、そして生活することのできる社会が理想の社会だ。今、障害福祉施設の中で過ごす人生があるのは、その日が来るまでの過渡期だからと考えたい。<o:p></o:p>

 

障害者が働くということについて考えるとき、どんな障害者にとっても私たち同様に、働くことの理想、生きることの理想は、世間の中、つまり社会の人々に交じって働くこと、そしてそこで生きることだ、としみじみ感じている。そういう社会がおとずれたとき、障害者がそういう社会を手に入れたとき、初めて、世間あるいは社会が障害者を本心から認めたということが言えるのではないだろうか。<o:p></o:p>

 

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園長、うかつ

2013年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム

  

朝晩がめっきり涼しくなってきた先週のことです。<o:p></o:p>

 

台風が来る前の好天の日。久しぶりに、昼の休憩時間に散歩をしようと思い立ちました。日差しもほど良く、風も心地良い昼下がり。数人の利用者に交じって、さつき園の前に広がる田圃道をぐるっと一周するコースです。<o:p></o:p>

 

私は何も考えずに、ただただ久しぶりの散歩を楽しんで園に帰って来たのです。ところが、利用者が怒っています。<o:p></o:p>

 

「園長さん、あそこは通ってはいけんのんよ!」<o:p></o:p>

 

「園長、あの道は通ってはいけんって、いつか園長が言うたじゃー」<o:p></o:p>

 

「園長さん、ダメですよ。あそこは通ってはいけんのですよ!」<o:p></o:p>

 

もう、たいへん。叱られっぱなしです。<o:p></o:p>

 

なぜか。<o:p></o:p>

 

散歩道で、途中にある小屋や立木群が邪魔をして、散歩をしている利用者がさつき園から見えなくなる死角があるのを心配した職員の提案で、相談の上、その道を通ることを禁止していたのです。が、それを私は久しぶりの散歩に浮かれて、すっかり忘れていたのです。<o:p></o:p>

 

園長を真剣に叱る利用者。

「おー、すまんすまん」

叱られながら、しかし私が少しうれしかったのはなぜでしょうか。<o:p></o:p>

 

『園長、うかつ』の一件です。お粗末さまでした。<o:p></o:p>

 

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要経過観察・要治療・要精査治療

2013年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム

 

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「利用者の健康診断の結果が揃いました」と、担当の職員がファイルを持ってきました。<o:p></o:p>

 

以下、「医師の診断」の欄に書かれた診断結果を書き出してみます。<o:p></o:p>

 

『蛋白尿・脂質異常症・高血圧症・肥満・糖尿病・肝機能障害・心肥大・高血糖・白血球減少症・尿潜血陽性・心電図異常・心拡大・洞性除脈・尿糖陽性・白血球増多症・胸部異常陰影の疑い・貧血・特記事項なし』<o:p></o:p>

 

『肥満・脂質異常症・肝機能障害』が特に多く目につきます。<o:p></o:p>

 

そして、見出しに揚げた『要経過観察・要治療・要精査治療』が、大半の利用者の診断結果通知書の「医師の意見」欄にそれぞれ書かれています。<o:p></o:p>

 

24時間そこで生活をする入所の施設では、食事等による健康管理はそれなりにきちんと為されていますが、ご家庭ではそうはいきません。飽食の時代と言われて久しいですが、通所であるさつき園の利用者の家庭での食生活を想像すると恐ろしいものがあります。さつき園での昼食だけでは到底太刀打ちできません。<o:p></o:p>

 

以前、保護者会で食事に関することを話題にした時、<o:p></o:p>

 

「そうはいっても、あの人たちには楽しみがないんじゃから、せめて食べたいものを食べされてやりたいよねぇー」という言葉を聞いたのをよく覚えています。<o:p></o:p>

 

親のその気持ちは分かる。分かります。分かりますが、それでいいんですか!?<o:p></o:p>

 

食べてればおとなしい。テレビを見てればおとなしい。ゲームをやっていればおとなしい。DVDを見てればおとなしい……。<o:p></o:p>

 

それでいいの?<o:p></o:p>

 

しかし、今、私にはこの親の愛情(?)に抗するものがないのです。<o:p></o:p>

 

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死をどう理解し、どう感じるか

2013年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム

 

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先週末、テレビを見ていたら、山口県内の中国自動車道で発生したあるお笑い芸人の自動車事故死のニュースが飛び込んできました。<o:p></o:p>

 

月曜日の朝、作業開始時刻の10時を少し過ぎた頃、○○さんがニコニコしながら園長室に顔を出します。<o:p></o:p>

 

「お早うございます!」と○○さん。<o:p></o:p>

 

「おう、お早う。じゃが、『お早うございます』はええけど、もう作業の時間が過ぎとるよ。早く作業に行ってちょうだい」と私。<o:p></o:p>

 

しかし、そんな私の声を遮るように、少し興奮気味に○○さんが続けます。<o:p></o:p>

 

「あのねー、あのねー」<o:p></o:p>

 

「なに?」<o:p></o:p>

 

「あのねー、□□が死んだ。高速道路で□□が死んだ」<o:p></o:p>

 

「おー、テレビのニュースで見たよ」<o:p></o:p>

 

「□□が死んだ。高速道路で□□が死んだ!」<o:p></o:p>

 

よく見ると、驚いたことに○○さんはニコニコしながらそう言っているのです。<o:p></o:p>

 

「○○さん、何でニコニコしながら言うんかね。人が死んだことをニコニコしながら言うちゃーいけんよぉ!」<o:p></o:p>

 

私に強くそう言われて、○○さんは一瞬表情を硬くし、そのまま園長室から離れていきました。<o:p></o:p>

 

しかしすぐに、近くにいた利用者に向かって同じように「あのねー、□□が死んだ。高速道路で□□が死んだんよ!」と、さも今日のトップニュースと言わんばかりの口ぶりで話しています。<o:p></o:p>

 

いったい、○○さんは人の死をどう感じているのか……。<o:p></o:p>

 

また、それまで長く入院していたお父さんをこの春亡くした△△さん。ある日、職員とともにお姉さんや関係者とでお墓参りに行って来てからは、「お父ちゃんはねー、お墓に入っとるんよ。お墓に寝とるんよ」と言うようになりました。<o:p></o:p>

 

△△さんは父親の死をどう理解しているのか……。<o:p></o:p>

 

あれこれ聞くわけにもいきませんので、私たちはこうした△△さんの普段の言動から、それを推察するだけのことです。ただ、最近はやたらに『~しちゃーいけん』とか『~せんにゃー』などと言って、他の利用者の発言や行動を支配したがっているように感じます。また、大きな声で何度も職員の名前を呼んでは身勝手とも思える要求をして、職員の関心を引こうとすることが以前にも増して多くなりました。父親の死を受け容れる過程での何かのサインかと思います。<o:p></o:p>

 

また、思い出すのはもう10年以上も前の、利用者の◎◎さんのお父さんが亡くなられ、担当だった職員と二人でご葬儀に参列した時のことです。<o:p></o:p>

 

葬儀会場に入って、◎◎さんの様子はどうだろうかと遺族席の方に視線を送ったら、「園長さん!」と私を呼ぶ声がしました。見ると、◎◎さんが私の方を見ながらニコニコしています。さつき園にいる時と同じような明るい声の、明るい笑顔の◎◎さんです。私はその時、◎◎さんのその場違いな明るさが、かえって余計に会場にいた人たちの悲しみを誘ったように感じられ、それまで味わったことのない奇妙な感覚に襲われていたのを今も覚えています。<o:p></o:p>

 

◎◎さんは父親の死をどう思っているのか……。<o:p></o:p>

 

この◎◎さんのことがあって以来、私は、私たち人間はたとえ肉親が亡くなっても、本来、悲しいという感情を持つことはなかったのではないのか、という疑問を抱き続けています。<o:p></o:p>

 

それは、知的障害者と呼ばれている人たちの中にこそ人間本来の感性が隠されているのではないだろうか、と思うからです。私はそれほどに彼らの感性を信じているのです。<o:p></o:p>

 

そしてあの時の◎◎さんや、先日の一人の芸人の死に対する○○さんの言動や、父親の死後における△△さんの言動などを見るにつけ、私たち人間、いや私たち人類には元々人の死を悲しいと感じる感性は備わっていなかったのではないか、と今更ながら思ったりするのです。<o:p></o:p>

 

いったい、私たちのはるか遠い祖先たちは肉親の死や他人の死をどういう過程を経て受け止め、理解し、その時々にどういう感情をその胸に宿していたのでしょうか。そして、その後、私たちの祖先はいつ、どのようにして、人の死に接した時、悲しみの感情を抱くようになっていったのでしょうか。<o:p></o:p>

 

○○さんとのあの朝のやり取りをきっかけに、こんなことまで考えてしまいました。<o:p></o:p>

 

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拍手の意味

2013年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム

  

先日、ピア二スト辻井伸行の演奏を聴きに出かけて来ました。<o:p></o:p>

 

演奏終了後、すっくと椅子から立ち上がり、左の手をピアノの角に置いて、観客に向かって深々と礼をする彼に、私たちは惜しみない大きな拍手を送ります。とその時、不意に私に素朴な疑問が湧いてきたのです。<o:p></o:p>

 

いったい、今、私たちは彼の何に対してこんなに大きな拍手を送っているのだろうか……と。<o:p></o:p>

 

彼の努力に? 彼の才能に? 彼の不屈の精神に? 彼の生き方に? ……?<o:p></o:p>

 

拍手を送りながらも、私の疑問は消えません。<o:p></o:p>

 

そしてこんな疑問も浮かんできました。<o:p></o:p>

 

これは障害者と呼ばれる人の人生の在り方の一つの理想の形なのだろうか……と。<o:p></o:p>

 

それらの疑問は、あの鳴りやまぬ大きな拍手の中で、空間認識のためでしょうか、彼のしきりに首を左右に傾げる動作と掌をひらひらと振る動作、そして観客とオーケストラに向かって深々と礼をする姿とともに、今も私の心に強く、固く残ります。<o:p></o:p>

 

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