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先週末、テレビを見ていたら、山口県内の中国自動車道で発生したあるお笑い芸人の自動車事故死のニュースが飛び込んできました。<o:p></o:p>
月曜日の朝、作業開始時刻の10時を少し過ぎた頃、○○さんがニコニコしながら園長室に顔を出します。<o:p></o:p>
「お早うございます!」と○○さん。<o:p></o:p>
「おう、お早う。じゃが、『お早うございます』はええけど、もう作業の時間が過ぎとるよ。早く作業に行ってちょうだい」と私。<o:p></o:p>
しかし、そんな私の声を遮るように、少し興奮気味に○○さんが続けます。<o:p></o:p>
「あのねー、あのねー」<o:p></o:p>
「なに?」<o:p></o:p>
「あのねー、□□が死んだ。高速道路で□□が死んだ」<o:p></o:p>
「おー、テレビのニュースで見たよ」<o:p></o:p>
「□□が死んだ。高速道路で□□が死んだ!」<o:p></o:p>
よく見ると、驚いたことに○○さんはニコニコしながらそう言っているのです。<o:p></o:p>
「○○さん、何でニコニコしながら言うんかね。人が死んだことをニコニコしながら言うちゃーいけんよぉ!」<o:p></o:p>
私に強くそう言われて、○○さんは一瞬表情を硬くし、そのまま園長室から離れていきました。<o:p></o:p>
しかしすぐに、近くにいた利用者に向かって同じように「あのねー、□□が死んだ。高速道路で□□が死んだんよ!」と、さも今日のトップニュースと言わんばかりの口ぶりで話しています。<o:p></o:p>
いったい、○○さんは人の死をどう感じているのか……。<o:p></o:p>
また、それまで長く入院していたお父さんをこの春亡くした△△さん。ある日、職員とともにお姉さんや関係者とでお墓参りに行って来てからは、「お父ちゃんはねー、お墓に入っとるんよ。お墓に寝とるんよ」と言うようになりました。<o:p></o:p>
△△さんは父親の死をどう理解しているのか……。<o:p></o:p>
あれこれ聞くわけにもいきませんので、私たちはこうした△△さんの普段の言動から、それを推察するだけのことです。ただ、最近はやたらに『~しちゃーいけん』とか『~せんにゃー』などと言って、他の利用者の発言や行動を支配したがっているように感じます。また、大きな声で何度も職員の名前を呼んでは身勝手とも思える要求をして、職員の関心を引こうとすることが以前にも増して多くなりました。父親の死を受け容れる過程での何かのサインかと思います。<o:p></o:p>
また、思い出すのはもう10年以上も前の、利用者の◎◎さんのお父さんが亡くなられ、担当だった職員と二人でご葬儀に参列した時のことです。<o:p></o:p>
葬儀会場に入って、◎◎さんの様子はどうだろうかと遺族席の方に視線を送ったら、「園長さん!」と私を呼ぶ声がしました。見ると、◎◎さんが私の方を見ながらニコニコしています。さつき園にいる時と同じような明るい声の、明るい笑顔の◎◎さんです。私はその時、◎◎さんのその場違いな明るさが、かえって余計に会場にいた人たちの悲しみを誘ったように感じられ、それまで味わったことのない奇妙な感覚に襲われていたのを今も覚えています。<o:p></o:p>
◎◎さんは父親の死をどう思っているのか……。<o:p></o:p>
この◎◎さんのことがあって以来、私は、私たち人間はたとえ肉親が亡くなっても、本来、悲しいという感情を持つことはなかったのではないのか、という疑問を抱き続けています。<o:p></o:p>
それは、知的障害者と呼ばれている人たちの中にこそ人間本来の感性が隠されているのではないだろうか、と思うからです。私はそれほどに彼らの感性を信じているのです。<o:p></o:p>
そしてあの時の◎◎さんや、先日の一人の芸人の死に対する○○さんの言動や、父親の死後における△△さんの言動などを見るにつけ、私たち人間、いや私たち人類には元々人の死を悲しいと感じる感性は備わっていなかったのではないか、と今更ながら思ったりするのです。<o:p></o:p>
いったい、私たちのはるか遠い祖先たちは肉親の死や他人の死をどういう過程を経て受け止め、理解し、その時々にどういう感情をその胸に宿していたのでしょうか。そして、その後、私たちの祖先はいつ、どのようにして、人の死に接した時、悲しみの感情を抱くようになっていったのでしょうか。<o:p></o:p>
○○さんとのあの朝のやり取りをきっかけに、こんなことまで考えてしまいました。<o:p></o:p>