たとえば、「障害をその人の一つの個性ととらえよう」などと言う人がいるが、どうして障害をその人(個)に押し付けるのか?
そうではない。障害者は障害のあるその人(個)に属するのではなく、障害は私たち(類)に属するものなのだ。だからこそ、障害が私たちの命題となるのだ。
これは2015年3月に私が自費出版した本の帯に記した、その本の本文から引用した文章です。それ以前から、私は「障害は個性だ」という言い回しに何とも言えない不快感を感じていました。
その言葉を聞いて感じる不快感はいったいどこから来るのだろうか。この不快感は何なのだろうか、と私は長く自分に問いかけていたのです。しかし、今では中学生でもそういう言い方をするようになってしまいました。
ところが、先日、私の内にある不快感と似た感情なのかも知れない、と思わせる感情を詠う短歌に巡り合いました。
「障害も個性」とふ記事に何となく頷(うなず)くことのできぬわれがゐて
刈谷君代(かりや きみよ)(注:「とふ」は「という」の意ー古川)
「障害も個性」なんて、いかにも洒落たキャッチフレーズ。しかし視覚障害者の作者には空虚に聞こえるのだろう。なぜならこの言葉には人としての痛みが感じられないから。痛みのない言葉は寒々と響く。歌集『白杖と花びら』から。長谷川 櫂
2020年(令和2年)11月10日付 読売新聞 「四季」から
この短歌を評する言葉として、ここでは「『障害も個性』という言葉は作者には空虚に聞こえている。なぜならこの言葉には人としての痛みが感じられないから。痛みのない言葉は寒々と響く」と書かれている。
「個」の痛みを私の痛みとして自らが感じるには、何が求められるだろうか。
私は、「個」に押しつける問題として障害と対峙するのではなく、障害はどこまでも類としての私たちが引き受ける、私たちの内なる問題として考えねばならないと思う。それは障害者の内なる痛みを思い、そしてそれを己のこととして感じる感性。その感性を私たちの内側に宿すことから始まる。
だから、「障害は個性」「障害も個性」などと言って、自分自身と切り離した物言いはやめるのです。障害はどこまでも(類)としての私たちの問題です。だから、障害は連綿と続く私たち人類の克服すべき命題なのです。
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