「責任をとる」ことと「責任を果たす」こと

2014年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム

 

ある旅行会社の社員がある高校の遠足のバスの手配を忘れているのを遠足日の直前に気がつき、それを誤魔化すためにありもしない自殺予告話をでっち上げて、その高校に遠足を中止させようとしたという事件がありました。

 

昨日、来園された方からそれと似たような話をお聞きしました。

 

10年ほど前のことですが、旅行会社に勤めていたその方の知り合いも、ある高校の数百人規模の旅行に使用するバスの手配を忘れていたのを直前になって気がついた、ということがあったのだそうです。

 

しかし、その人の場合は今回の事件の社員とは違い、手配を忘れていたことに気がついたときに、すぐに学校に出向き、事情を説明し、「旅行中の移動については責任を持って対応させていただきます」と頭を下げて謝罪し、移動についての責任を持ちますと約束したのだそうです。

 

びっくりです。いったい、数百人の生徒の移動をどうやって行うというのでしょうか。旅行は明日に迫っているのです。私は話をお聞きしながら、俄然、その結末に関心を持ちました。

 

さて、私たちは他人と利害関係にある時、他人の行為・行動が私たちにとって不十分な、あるいは不利益となる結果をもたらしたと思われた場合に、よく「おい、責任をとれよ!」と言います。が、そこでいうべき言葉は、「責任をとれよ!」ではないと思います。

 

「責任をとれよ」というから、それなら「辞めて責任をとります」とか「弁償して責任をとります」などと応じて、ことが終わったように錯覚してしまうのではないでしょうか。

 

責任はとるものではなく、「果たすもの」だと思うのですが、いかがでしょうか。

 

人の責任の取り方は様々です。そして、その責任の取り方にはその人の人柄、性格、そして人間性が出ます。仕事への本気度も出ることでしょう。

 

しかし、そこに更に「責任を果たす」という考えが加わると、将来のその人の生きる姿勢に責任を果たしたことが貴重な人生の経験知として蓄積されていくのではないでしょうか。

 

責任をとることよりも、責任を果たすことの方が厳しいのです。

 

さて、みなさん、話の中のその人はどうしたと思われますか。

 

私は、それを聞いてびっくりしてしまいました。

 

その人はどう責任を果たしたでしょうか。皆様、ちょっとお考えください。

 

どうなったかは次回にご紹介します。

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

確認、そしてまた確認

2014年05月22日 | 日記・エッセイ・コラム

 

今日、さつき園保護者会の総会がさつき園で開かれました。

 

といっても、出席者は毎月の保護者会に出席されるメンバーとさほどの変わりはないのですが。

 

10時から11時30分まで、前年度の事業報告と決算、今年度の事業計画と予算案の審議が行われ、併せて今年度は任期2年の役員の改選期ですので一部役員の改選もありました。新たに新会長も決まり、若干の役員の若返りも図られました。

 

午後は、通常の保護者会のときと同じように作業のお手伝いをお願いしました。その際、出席された保護者(主にお母さん方)の荷物はいつも園長室で預かることにしています。

 

今日も応接のソファーの上にお母さん方のカバンや荷物類が置かれていました。

 

さて、私が机を背にしてパソコンに向かっていると、園長室のドアが開いたような気配がします。が、いつもなら皆さん必ず「失礼します!」の声をかけて入って来られるのに、その声がありません。

 

どうしたのかな? と振り返ると、そこには置かれた一つのカバンの中を覗きこんでいる○○さんがいたのです。

 

言葉を発することの苦手な○○さん。一つのカバンに手を突っ込んで、中身を真剣に確認しているようです。私は思わず声をかけそうになった自分を抑えて、じっと見ていました。すると、○○さんは中身を確認して満足したのか、その場から離れて園長室を出て行こうとしました。が、ドアの寸前でまた振り返ってカバンに戻り、中身を確認し始めたのです。どうやら、中身の配置も気になるのか、あれこれいろいろ位置を変えているようにも見えます。そして、また安心したように少し笑顔を見せて、カバンから離れ、ドアに近づきます。が、また寸前でカバンに戻ります。

 

そんなことを5回ほど繰り返した○○さん。それを私はじっと見ていました。けれど、○○さんは一切私の方を見ることはありませんでした。カバンの中身に集中していたのです。

 

そのカバンはお母さんのカバンです。私はそれが分かっていましたので、敢えて黙って見ていました。

 

納得して、部屋を出て行こうとしてまた戻り、中身を確認して納得して部屋を出て行こうとして、また戻り……。最後に満足そうな表情で部屋を出て行った○○さんの笑顔を見て、やっと私も安心です。

 

○○さんのほかにも、いろいろに違った場面で独特のこだわりを示す利用者が何人もいます。

 

私たちがいつも気持ちに余裕を持ってそのこだわりを受け容れることができるかどうか。

 

「そんなくだらんこだわりはするな!」などと、こちらの価値観を押し付けてしまうことはないか。

 

試されているのは、常に私たちなのです。あなたは本気で障害者のことを考えているのか、と。

 

そして、それは障害者と2人きりの、ほかに誰もいない1対1になった場面で試されているのです。

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老犬ハナのこと

2014年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム

  

我が家の飼い犬ハナは今、17歳6ヶ月です。目は見えず、耳もほとんど聞こえません。足の力も弱く、1週間ほど前まではエサと水のときだけは何とか自分の足で立っていましたが、今はそれも出来ません。当然、歩を進めることは難しい状態です。お腹には大きな出来物が出来ており、医師からは、「手術は全身麻酔になり、体力がもたないだろうからしないほうがいい」と言われています。もう医療の出番ではないのです。あとはできるだけの世話をするだけです。

 

この冬は我が家の玄関に入れていました。暖かくなってきたので、今は庭先に出していますが、一日の大半をじっと丸まって寝ています。

 

ハナは、私がさつき園に勤め始めて4ヶ月経ったころの平成9年1月のある日、(私にしてみれば突然に)我が家にやって来ました。生後間もなくのことと記憶しています。無類の犬好きの家人は前々から飼いたいと思っていたようですが、私が犬が苦手ですので長く遠慮していたようです。

 

そんなハナは、しかし、家人にとって大事な恩人となりました。(いや、恩犬か!?) 

 

ハナは体調が安定しない家人に17年にわたる毎日の散歩で、知らず知らずのうちにリハビリを施してくれたのです。毎日、毎日、欠かすことなく、ハナは良き相棒として、団地の内外を散歩してきました。そのお陰もあって、家人は日常生活での健康を維持してくることができたものと感謝しています。

 

いたずらに他の犬などに吠えることもなく、家人によれば、散歩の途中でご近所の方との立ち話が長くなっても、じっとお座りの姿勢で待っていたというのです。

 

休日に私が散歩に連れて歩いていると、「あー、ハナちゃん。今日はお父さんと散歩ですかぁー」とよく声をかけられました。団地のみなさん、ハナのことはよく知っていただいています。家人との毎日の散歩のお陰でハナは団地内では子どもから大人まで知り人が多く、有名らしいのです。

 

この17年半の間、家人とハナをそばで見てきて思うことは、人間も犬も変わらない、ということです。例え相手が犬であろうが、いや犬だからこそ余計にそうかもしれませんが、こちらが心を込めて付き合うと、そこにはおのずと信頼関係がうまれるものなのでしょう。

 

命はお金やものや法律や制度などが支えるのではなく、血の通ったもの同士がお互いに愛情を注ぎ合い、愛情を受け取り合って、支え合うものなのです。

 

命は命が支えるのだなあ、としみじみ感じさせられ、教えられています。

 

ハナは人間でいうと何歳くらいでしょうか? 私はハナの長生きにつながるようなことは何もしてこなかったけれど、よくぞここまで生きてくれたと感謝しています。果たしてこの5月を乗り切ることができるどうか。家人は心配しながらも、元気だった頃と同じように当たり前に話しかけては、下の世話やエサ遣り、水遣りをしています。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あした、やすみ!

2014年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム

 

この春からさつき園に通所し始めた○○さん。

 

支援学校時代の名残りで、毎日、午前11時半を過ぎる頃になると作業もそこそこに、園長室の前の食堂に至る廊下を行ったり来たり。そして、その足音が止んだかと思うと、食堂のドアから昼食の配膳の様子をじっと見つめています。

 

たまに気配を感じて私が廊下の様子を覗くと、案の定、○○さんが食堂のドアの前で、ガラス越しに中の様子を見つめています。支援学校時代からどんなにか昼食が楽しみだったのでしょうね。(残念ながら、さつき園のお昼は12時からなのです)

 

ところが、この連休に入る前日の5月2日のことです。いつものように園長室の前の廊下を行ったり来たりしていた○○さんが、思いつめたような表情で、いや思い切ったような表情で、いつもは入って来ない園長室のドアを開けて中に入って来ました。

 

「うむっ?」と思って、顔を上げて、どうしたのかと私が様子をうかがっていると、いきなり大きな声で、

 

「あしゃーびー!」「あしゃーびー!」と言います。いえ、突然だったもので私には○○さんが「あしゃーびー!」と、そう言ったように聞こえたのです。

 

『「あしゃーびー!」って、何のことか?』私は瞬間、頭の中で○○さんは何と言ったのかとその言葉を繰り返し繰り返し叫んで、必死にその意味を探し回りました。

 

あしゃーびー あしゃーびー あしゃーびー ……。

 

そうか!!

 

「そう、あした やすみ! 明日はお休みじゃー! うれしいのー!」

 

そう言って私が相槌を打つと、○○さんはにこっと小さな笑顔を見せて、満足そうに園長室のドアを閉めて出て行きました。

 

この胸にある言いたいことを何としても言いたい、このうれしさを何とか伝えたい、そう思って、思い切って園長室に飛び込んできた○○さん。その○○さんの言いたかったことを何とか受け止めることができて、私もうれしかった。

 

投げたボールをちゃんと受け捕ってもらえ、そしてそのボールをちゃんと投げ返してもらえると、利用者に限らず、誰もがうれしいものです。

 

知的障害者の投げたボールをきちんと受け捕り、きちんと本人に投げ返すことをしない家庭、施設、社会、国、そして私たち……。

 

日頃の己を深く反省しました。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする