羽田⇒岩国便で

2024年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

 先週末から出かけていて、昨日、羽田発の岩国便で戻りました。

 土日や3連休などでは満席の状態でしたが、昨日は3割から4割ほどといったところで、気分も幾分ゆったりとしていました。窓際の私の席の隣り2つも空席です。

 その中にあって、私(14A)の前席の13A・B・Cは子ども連れの若いご夫婦でした。お子さんは女の子で1歳半から2歳くらいかなと、思われました。

 すると、CA(キャビンアテンダント 客室乗務員)さんの機内放送が始まった頃からだったか、その子がぐずり始めたのです。一呼吸一呼吸、泣き声は大きく機内全体に聞こえるほどです。時折、前の席のお父さんの左肩越しに彼女の顔が見えますが、眉間にしわを寄せて、涙を流して、時には咳き込みながら泣いています。

 ベルト着用サインが点灯している間は機内での移動は出来ませんので、お父さんは声を出さずに、抱きしめたり、抱きながら小さくゆすってみたり。お母さんの様子はよく見えませんが、時々、手が見えたり、小さな声であやすのが聞こえてきたりしています。機内の音や気圧の関係や閉塞感などが影響しているのだろうかと、無い知識で想像したりしましたが、甲高い泣き声は止むことはありません。

 と、座ったままのお父さんに抱かれた彼女の顔が左肩越しに見えました。すると、2つの丸い黒い瞳がじっと私を見つめてきます。私は声を出すのはどうかと思い、両のまぶたをパチパチ開けたり閉じたり。それから大きく開けたり閉じたりなどを繰り返し、彼女の表情が何とか緩まないかなぁーと試みました。また、笑いかけてもみましたが、いかんせんマスクをしていますので、笑顔がうまく伝わりません。そうこうしているうちに、向き直った彼女はまた大きな声をあげて泣き始めました。私の努力(?)は効果なしでした。

 ベルト着用のサインが消えると、お父さんは彼女を抱いて、あやしながら機内を短く行ったり来たり。

 一通り、飲み物のサービスが終わります。その時、CAさんがいつもは聞かないのに「飲み物のお代わりはよろしいですか?」と、私に聞いてきます。ちょっと驚いて「いえ、結構です」と答えると、私の顔近くまで身を低くして、小声で「お席を換わられますか」と聞くのです。「いえ、大丈夫ですよ」と私。「なるほどね」心の中で呟き、納得していました。

 いっこうに泣き声が収まらないまま、飛行機は岩国錦帯橋空港に到着しました。

 ベルト着用サインが消えてから、前席のご夫婦に「お疲れさまでしたね」を声をかけました。すると、「ご迷惑をおかけしてすみませんでした」とお二人は小さく頭を下げられました。「いえいえ、大丈夫でしたよ」と私。

 その時です。今まで泣きに泣いて、泣きじゃくっていた彼女が、その2つの丸い黒い瞳で私を見つめたまま、私に向かって小さな右手を差し出してきたのです。私は驚いて、思わずその小さな右手を私の右手の5本の指で優しく包んで、「おー、ありがとね。ありがとね」と言っていました。彼女のお父さんもお母さんも、それはもうびっくりされていました。

 いったい彼女の気持ちはどんなだったのでしょうか。どうしておよそ1時間半ものあいだ泣き通していたのでしょうか。どうして私に向かって手を差し伸べてきたのでしょうか。

 荷物を下ろして、身支度を整えて、「じゃね。バイバイ。また会いましょう。元気でね」と言って、私は出口に向かいました。お父さんにもお母さんにも笑顔が戻ってよかった。私もほっとした気持ちになっていました。

 他の乗客の皆さん、CAさんたちはどんな思いだったでしょうか。

 私たちの人生、お互い様と思います。もう会うことはないだろうけれど、頑張ってほしいものです。

 

 このブログへのアクセスは、 

 「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被災地取材のテレビ報道で

2024年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

 先日のこと。テレビを点けたら、ニュースの時間だった。

 能登半島地震の被災地取材の映像が流れていた。

 反射的に画面に目を向けると、若い男性のレポーターが一人の中年かと思われる女性に、何か質問をしたところだった。

が、マイクを向けられたその女性は怯えたような目をしたまま、緊張した様子で立っていた。

 そして、何かをこらえるように、

 「さみしいわ、ふあんだわ、こわいわで……」と静かに答えて、うつむいた。

 若いレポーターはマイクを構えたまま、次の質問を噛み殺したように見えた。

 見ていて、私は、自然が裂けたとき、人間の感情は言葉に乗り切らないのだと思った。

 能登半島地震から、早、ひと月が経つ。

 

 このブログへのアクセスは、 

 「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不覚の年賀状

2024年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム

 元旦の夕方に起こった能登半島地震に気持ちが揺さぶられています。

 私は投函した今年の年賀状の年始のあいさつの後の1行目に、こう書いてしまっていたのです。

 『心身の健康はともかく 生きている証の年賀状です』

 図らずも、不覚の年賀状となってしまいました。

 例え、年内ぎりぎりに年賀状を書き上げ、投函したとしても、それは新年に自分が生きている証にはならない。年賀状はそれを書いて送った人が新年に生きている証にはならないのです。なのに『生きている証の年賀状です』とは……。

 地震発生前、あるいは地震発生後、能登半島地震で亡くなられた方々からの年賀状を受取った方の心境はいかばかりか、と心が震えます。

 そんな年の初めを迎えています。

 

『昨年4月から 若い日の仕事先でした「全国重症心身障害児(者)を守る会」(東京)に3度目のお世話になっております 山口と時々東京という 行ったり来たりの生活ですが 皆さんとの日々から学んだたくさんのことが力になるものと思います 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます』

 

 羽田空港では飛行機の追突事故も起きて、私の東京行きも、内心、冷や冷やです。

 それでも、皆様、お互いに心身の健康に気をつけてまいりましょう。

 『本年もどうぞよろしく お願い申し上げます』

 

 このブログへのアクセスは、 

 「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする